五・一五事件厳正批判 1933年、昭和8年10月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻 1988
ウイキペディア「五・一五事件」を読んでの感想
被告の軍人が有期刑(最高刑は海軍中尉三上卓の禁固15年、1938年出所)であるのに対して、アナキスト系の橘孝三郎は無期懲役(1940年出所)になっている。しかも、橘は変電所6ヶ所を襲ったが、一部を損傷させただけで東京は停電にならず、実害がなかったにもかかわらずだ。橘がすぐ自首せず、2ヵ月後の7月24日、ハルビンの憲兵隊に自首したとしても、不公平ではないか。
「非常時の非常時犯」 弁護人 角岡知良
感想
戦争に次ぐ戦争の時代を生きた軍人にとって、特に若い者にとって、死に急ぐ心の準備をしておかざるを得なかったのかもしれない。だからこそ戦争慣れしてはいけない。武力革命が歴史を変えたことは一面の事実ではあるが、私は真っ平御免だ。
感想
自分の命を捨てようとすることが、犬養毅首相暗殺とどう繋がるのか、その説明が全く欠落し、ただ、天皇のために自らの命を捨てることの美徳だけが強調される。そして、命と同列と見なされるのが、切断された小指である。小指を切断することが、命を捧げることの象徴と見なされているらしい。
ただ夢にうなされたような熱情が、全てのストーリーを貫く。下らない。つまらない。そういう夢のような熱情に取り付かれる狂人が、当時少なからず存在していたようだが、それは戦前ならではの特殊な文化である。そして明治維新の始まりにおける暴力殺傷事件との対比で、「昭和維新」などというもっともらしい表現を作り出し、ストーリーを美化する。
人の命をあやめたことに対する罪の意識や反省の念が全く見られない。自己中なのだ。信じられない狂気の世界だ。
筆者は、濱口雄幸を銃撃した男・佐郷屋留雄や、永田軍務局長刺殺事件1935の相沢三郎の弁護もしている。ohmura-study.net
「海軍側弁護人として」 塚崎直義
感想
国家のための死の美学の賞賛。国家のために命を捧げる死の情念の前に、殺人罪は無罪となる。こういうファナティクな言論が大手を振って許される時代に、当時はすでになっていたようだ。そして、当時の首相を殺した被告たちの行動は、赤穂浪士のような、私利私欲のない主君のための純粋な行動と対比されて賞賛される。2020年8月8日(土)
「国家主義か法律主義か」 石坂橘樹
感想
この評論はまともだった。ほっとした。前二評論を読んでいて、当時は決死の国家主義的情念一色の時代かと思っていたが、そうでもないようだ。当時でも法を国家の根幹と見なす法治主義を毅然と表明できる人がまだ存在していた。石坂は、国家の根幹は法律であり、私情に流されてはならないと厳正に語る。
「海軍軍法会議における検察官の論告を読みて」 今村力三郎
今村は、諸々の事項を取り上げながら、穏やかな論調を展開するが、基本的に軍人擁護の立場である。軍人を死刑にしたら、世論が収まらないだろうと言っている。それだけ当時は、裁判官が世論の圧力を感じる時代だったということが推測できる。
ウイキペディアによれば、今村力三郎1866.6.14—1954.6.12 弁護士、裁判官。専修大学総長。
今村は、伴正臣大審院判事の玄関番をしながら、1886年に専修学校法律科(現専修大学法学部)に入学し、1888年、在学中に代言人試験(現在の司法試験)に合格し、専修学校を首席で卒業した。
足尾鉱毒事件の弁護を担当したことから、田中正造を介して幸徳秋水と知り合い、後に大逆事件の弁護を引き受けた。
戦後すぐ1946に、80歳を超えていたが、学生に懇願されて専修大学の総長を引き受けた。当時は学制改革で旧制大学から新制大学への移行期であり、それに伴う設置基準により、施設や人員を整備する必要が生じたが、財政的に厳しく、専修大学は存亡の危機に立たされたが、NECから敷地(現・生田キャンパス)を入手して、施設を拡充し、学部も拡張し、危機を乗り切った。
要旨
編集部注
1932年、昭和7年5月15日、海軍青年士官を中心とする一団が首相官邸を襲い、犬養毅首相を殺害した。政党政治を否定し、国家革新を行うという目的だった。(この評論は、一部カットされている。今村力三郎の評論が断片的で要約的な印象を受けるのもそのためかもしれない。)
非常時の非常時犯 角岡知良
陸軍五・一五事件の公判情景は、「至誠不動兮(動かないものは)自古(いにしえより)未之有」という金言が新しい生命(陸軍士官学校本科生)に蘇って、世道人心に甚大な感銘を与えた。11名の被告のために7万人から減刑嘆願書が法廷に提出された。中には全文を血書したものや、血判したものもあった。新潟県の9人の青年は、小指を根本から切断して嘆願書に添付した。陸軍省では、その熱情に感激して、これをアルコール漬にして、保存することにしたが、この小指の瓶詰が法廷に持ち出された時、判士も、検察官も、被告も、弁護人も、傍聴人まで泣かない者はなかった。結審後も滋賀県の某学校教授の小指が届いたとのことで、結局、合計して、陸軍五・一五事件の若き被告11人のために、減刑嘆願の熱情の表現として、10本の小指が軍法会議の法廷にもたらされたことになる。
124 これ以外に嘆願書が、判決言渡期日までに、10万人を突破するだろうと称せられ、官憲の陰性的弾圧があるにもかかわらず、五・一五事件の減刑運動は、国民運動にまで発展した。
当局は初めのうちは、嘆願書は請願令違反の疑いがあるとして、受理を躊躇した。それに対して弁護士団は、「嘆願書は、憲法30条とこれに基づく請願令にいうところの請願権の行使ではなく、被告人に対する同情感を表現した私信にすぎないから、これを受理しても違法ではない」という声明を発した。
減刑運動はますます熾烈になり、満州国からも日満学生有志の嘆願書が届いた。また直接嘆願書を軍法会議に持参する有志は、皆相当の年齢でありながら、感涙に咽(むせ)びながら、「ただ、涙あるのみです」と言って、嘆願書を差し出し、受理する側ももらい泣きして受け取った。
以上のように、陸軍五・一五事件は、同情の白熱化と感激の渦巻の中で、公判審理が続けられた。
*陸軍関係で減刑歎願運動が盛んだった一因は、陸軍関係の被告が陸軍士官学校本科生(旧制高校に相当)であり、若かったせいもあるのではないか。
若き生命に燃える11名の被告たちの純真と至誠と殉国的情熱が、一世の人心を動かした。
軍法会議の裁判長である西村中佐*は、大西郷(西郷隆盛)を思わす風貌で、前後13回の公判を通して、威容は厳然とし、巨眼を瞬きせず、微塵(みじん)も体勢を崩さない謹厳ぶりは、一般から深い尊敬を払われた。老練な島田法務官の審理ぶりも、極めて好評だった。それに、平川、横田、川島、谷の4名の将校判士が加わり、合計6名で審理された。検察官は、剛直の勾(こう)坂大佐で、これに藤井、小倉の録事を加えた。それに対して、特別弁護人として、被告人の元教官の中村、大熊、細見の3少佐と、在野法曹から、中川孝太郎博士、平松市蔵、山田半蔵、菅原裕の4氏に不肖(私)を加え、5名、以上総計8名が官選弁護人として被告11名の弁護を分担した。
公判は7月25日から始まり、8月26日まで、13回に渡って続行された。都会人が炎暑から逃れて、海に山に避暑しているさなかに「昭和の桜田門」と称せられる画時代的な陸軍五・一五事件の公判は、乃木神社の向こう隣り、第一師団内の軍法会議の法廷で開廷された。午前8時から開廷、元陸軍候補生の被告11名が警査の先導で入廷する。肩章の剥がれた軍服姿が涙を催させるが、元気よく、粛然と法官の前に整列し、敬礼の号令で少し前身を屈めて一礼する。西村裁判長はやや情味を宿して各被告にいちいちうなずくような答礼をする。一脈の人情が漂う。裁判長は、再び厳然たる態度に復し、開廷を宣言し、被告の氏名点呼が行われる。11名の被告が元気よく氏名を述べる。
125 公訴事実の審理は裁判長の命により、法務官の島田大佐が担当した。
公判第一日は、被告中で、もっとも理論的に優れたG被告(後藤映範)が、同志一同の気持ちについて代表的な陳述をした。
――私どもは軍隊内務綱領に掲げられている「有事の日、欣然として(喜んで)起ち、慷慨(意気の盛んなこと)、すでに赴くを楽しむに至るべし、これ実に帝国軍隊の本領にして、皇室の藩屏たり、国家の干城(軍人)たるゆえんの道なり」とあるを、私どもがよってもって生活すべき原則となし、夢寐(び)にだにこれを遺忘したことはありません。しかして長い生活により、それが第二の天性と化してしまいました。士官学校は、学生や技術家を作るところではありません。軍人精神、大和魂を鍛錬する聖壇道場であります。私どもは、賀茂規清*が歌った、
*賀茂規清(かもののりきよ、1798—1861) 神道家。神道、国学を学ぶ。
臣(おみ)が身は日々死出の旅支度
皇(すめ)が為には生きて帰らし
の精神をもって日々生活していました。古聖は、朝に道を聞けば夕に死すとも可なり、と言われましたが、私どもはそれどころではなく、ただ今、軍(いくさ)の術を教われば、今また直ちに戦場にこれを役立て、喜んで死んでいくべき身なることを感じつつ、生活しておりました。かく軍人的性格を形付けられてきた私は、(犬養毅首相を殺すという)決死的非常手段のために立たんとした時も、いささかの躊躇もありませんでした。日本のため、義のため、君国のため、ただこれだけで、自己の身を鴻毛(こうもう、非常に軽いもの)に比するに充分でありました。それ以上のことは考えませんでした。――
126 さらに彼は五・一五事件の意義と特色について、次のように陳述している。
――歴史的に大改革は三段階に分かれる。第一段は先駆者の思想的覚醒、第二段は先覚者の具体的実動、第三段は一般の覚醒、即ち本格的改革である。第二段の先覚者の実動は、多くの場合、旧勢力の打破が目的とされる。既成の主勢力と抗争するから、犠牲や捨石となることが多い。三つの段階のいずれも価値の点で軽重はないが、第二段の犠牲的行為が最も困難である。明治維新での桜田門の義挙は、第二段の犠牲であった。私どもも昭和維新の改革的段階における一覚醒者として、自らの当為を自覚し、その理論的根拠を、この国史的事実から得た。――
そして現在の心境はどうかという法務官の訊問に対して、
――日本が純正皇国日本に還元するまでは、あくまで素志貫徹に邁進するつもりだ。
生き代わり死に代わりても
尽くさばや七度八度やまと魂
これが私の現在の信念です。――
至誠に出て、迫力に溢れる一言一句に、満廷の人は皆、涙を呑んだ。
司法記者諸君は、こんな感激に満ち息詰まるような公判に立会ったことがない、と閉廷後に異口同音に漏らした。引き続き熱涙をそそる公判が連日続行され、11名の若き被告らが、政党、財閥、特権階級の腐敗堕落を痛論し、よき日本を建設すべく昭和維新の人柱となったゆえんを繰り返し陳述した。特にK被告(金清豊or菅勤)は訥弁だが、もっとも実行力に富むと称せられていた。訥々として熱と力に満ちた言葉で、殉国的熱情を吐露して満廷の人に深甚の感動を与えた。剛毅の西村裁判長も、退廷して控え室に入るなり、今日はまいったと叫んで偉躯を震わせて涕泣(ていきゅう)したと伝えられる。またY被告(八木春男or吉原政巳)は、砲兵科の首席で、二ヵ月後の卒業式に恩賜の銀時計を頂戴する光栄と希望が輝いていたそうだが、大義に殉じて本件の挙に欣然参加した。頭脳明晰の秀才だけに、その陳述は、堂々として理路整然としていた。機鋒(きほう、矛先)の鋭い論法で政党政治頽廃を痛撃したが、おりしも傍聴席に居合わせた某政党の長老は、いたたまれず逃げ出したそうだ。
127 8月14日、事実と証拠調べが終了した。この間、朝香宮殿下、および李鍝公殿下*が御台臨遊ばされたことは、訴訟関係者の深く光栄に感じたところである。同月8月19日、勾坂検察官が2時間以上の大論告を行い、弁護側がこれに応酬し、両者の間に法律的理論闘争が展開された。検察官は各被告に対して禁固8年を求刑したが、(僅か8年)弁護人は、「自首減刑をなし、さらに刑法の涙と称せられる酌量軽減をなすことを相当とする。そうすれば、刑期は最低9ヶ月、最高3年9ヶ月までに短縮される。この宣告刑の範囲内においてその他の諸般情状を考察して、刑の量定をなすべきことが合理的であり、結局、2年以下の刑期を選び、執行猶予の寛典(寛大な恩典)に浴せしめるべきことが妥当だ」と論じ、あるいは熱弁奔騰(ほんとう)し、無罪論にまで及んだ。(これでは近い将来またクーデターをやってもいいよというメッセージではないか。)
*李鍝(ぐう)公殿下 1912.11.15—1945.8.7 広島の原爆で死亡した。李王家の一族。1941年、日本の陸軍大学校卒業。
国家主義の概念化としての法律と、国家正義の具体化である昭和維新運動との交錯が、五・一五事件だと言えるならば、法律はこのような超法律行為に対し、どれだけの権威を持てるのか。明治維新の黎明期に、若い先覚者吉田松陰や橋本佐内*を刑戮した法律は、日本の進展をどれ程阻止したかを顧みるがよい。封建時代の政治論と法律論を根拠にした、荻生総右衛門の素朴な論案は、この事件を断ずる上で一顧の価値もない。本件は非常時が生んだ非常時犯である。(だから法律を無視せよ)従って、非常時決断による非常時的判決が緊要である。(なんでもありだ)
*橋本佐内 1834.4.19—1859.11.1 福井藩主松平春嶽(慶永)に仕えた。井伊直弼の安政の大獄で春嶽が隠居謹慎させられたとき、14代将軍として一橋慶喜を擁立して幕政改革を唱えていたことを訊問され、「自らがやったことではなく、主君の命でやった」と言ったら、井伊直弼は、それは朱子学の教え(主君の命でも自分がやったとすべきだった。)に背くとして気分をそこね、遠島で済むところが斬首になった。
「海軍側弁護人として」 塚崎直義
伝統の精神は尊い。現代の人々は皇国に住みながら皇道を知らず、日本建国の本来の精神をすっかり忘れてしまっている。自分自身の魂の存在を忘れている。しかし、五・一五事件を転機として、漸く建国の精神が目覚めつつあるのは喜ばしい。
「満洲の問題」に対する国民的活躍、愛国機献納、国をあげての愛国運動などは、「神州」の「正気の」(狂気ではないのか)顕現である。共産党員が続々転向したが、それは牢乎とした建国精神の凱歌である。(拷問の成果ではないのか)日本再建、「昭和維新」が、抽象的でなく具体的に、その工作を展開しつつある。今は非常時ではなく、飛躍の時だ。「建国」当時、確固不抜の精神をもって、内戦を平定したが、その建国の昔に還り、その精神に(どんな精神か)目覚めることは、将来に向って活躍発展を約束するものだ。(どう将来と繋がるのか)荒木陸相の「非常時にあらずして、飛躍の時なり」という発言もこのことを指摘したのではないか。
128 私は、この飛躍時代の導火線となった五・一五事件の海軍側被告の弁護士である。私の弁護士生活20数年の間に、放火強盗、思想犯など刑事事件に関係したが、五・一五事件は、私に深い感銘と印象を与えた。
私は公判中に目頭の熱くなるのを禁ずることができなかった。無自覚無反省な日本国民の一人として、私は被告に鞭打たれる気持ちで、血を吐くような被告の陳述に耳を傾けた。
私はここで五・一五事件を社会的に論評し、道徳的に批判するつもりはない。(現にそうしているではないか。)私は、魂の真の叫びに応じて、名を求めず、生命を投げ出し、護国の第一線に「花と散る」、海軍側被告の純白無雑、眼中国家国民のほかに何ものもない、「国士」の風格に対して、尊敬の念を禁ずることができない。
彼らの先輩であり、思想的リーダーであり、また行動のパイロットであった故藤井少佐が、上海戦で惜しくも死ななかったならば、五・一五事件の花形役者として重大な役割を演じただろう。満身これ祖国愛の彼は、国を忘れ、皇道を忘れ、私利私欲に耽る政党、財閥、特権階級に対して、あくなき憎悪と痛憤を抱いた。国家を改造して皇国日本の正しき姿に返さなくてはと、彼はそれのみに腐心した。
佐世保の下宿屋の二階で、彼は再建日本の姿を寝食を忘れて計画し、夢多き若き日を送っていた。長崎に住む親友某に一人の妹があった。彼女は幼時から少佐を慕い、その妻たらんとして口に言いえず、悶々の日を24の春に迎えた。兄は一夜妹から恋慕の情を打ち明けられ、憐憫の情に堪えかね、佐世保の少佐の下宿に急行した。少佐はその時、微笑を含んで静かに頭を左右に振り、「今大望を抱いている。他を顧みる余裕はない。生命もいらぬ、名もいらぬ。国家のために、いつ死ぬか分からぬ俺が、君の妹を娶っては、君の妹の将来がはなはだ気の毒だ。お断りする。おれは何の覊絆もなく、自由にのびのびと生命を棄てたい。」と血を吐き火を発するかと思われた。私はこのエピソードに少佐の、生命を棄てて国を救うという烈々たる信念、少佐の面目躍如たるを見る。
129 黒岩少尉は、新聞に報道されたように、当局の目を掠めるために、妻を連れて上京した。決行の日に妻は中耳炎を患っていて、高熱のために病床に呻吟していた。「私は決行のことを(妻に)話そうと思ったが、大病の妻に心理的な動揺を与えて病状が昂進するだろうと思い、打ち明けずに涙を呑んで家を出た。」(そんなに妻思いなら、病気の妻をカムフォラージュのために東京まで同行させなければよかったのではないか。)少尉は遺書を財布に入れていた。これは、大事を誰にも知らせず、主君の仇を報いた赤穂浪士の心情と異なるところがない。
被告らは尽忠報国の赤誠を獄中で詩作した。三上中尉の詩に、次のものがある。
成敗天也不可期
吐瀝赤腸是男児
悠々神州古今間
此地自許護国鬼
詩韻は問わないが、この句を貫く一脈の赤誠を推量すればよい。
陸軍側被告も烈々たる祖国愛に燃えていることは、海軍側被告に決して劣らない。その陳述に見られるように、昭和維新の人柱として、その肉弾をなげうち、第一線に散ることだけを念願とした。私利私欲はもとより眼中になかった。戦争に出て奮戦すれば、勲章が下賜され、遺族が扶助され、靖国神社に合祀され、その行為に対して充分報いられる。しかし今回の行動は、何も報いられない。むしろ峻厳な法律が待ち構えている。軍紀を紊(みだ)り、国法を侵して決行した被告の心情を思う時、誰が泣かない者があるだろうか。
私はかつてフランスの法曹界の名士に招待されたことがあったが、その席上である人が、「日本の武士道を研究しているが、赤穂浪士の義挙は古今東西を通じて推賞すべき団体行動である。それは主君の仇を討つという以外に何ら私利私欲がないからだ。赤穂の義挙は全く白紙のように純白だ。このような歴史のある日本は羨ましい」と激賞された。
130 五・一五の被告も同一だ。彼等には私利私欲がない。「国危うし、行かざるべからず」と、溌剌たる若さを祖国愛の熱情にまで高め、命を棄て、魂を手榴弾として、敢然支配階級打倒、国民警鐘乱打の第一線に馬を進めた彼等こそ、ただ一城の主君のために命を棄てた赤穂浪士に勝ること幾層倍と言うべきだ。
被告らに対する断罪が決定され、法の批判はそれで終わるが、社会的、道徳的批判はまだ残されている。日本人の何人が妥当な断案を下せるか。後世が裁断するだろう。法を犯したものが後世志士烈士として尊敬される例は極めて多い。後世の史家によって被告らが日本の歴史の尊い幾頁かを飾ることを信じて疑わない。(残念ながらそういう自己中の発想は、後世の国際社会では認められませんでした。)
「国家主義か法律主義か」 石坂橘樹
目下世間の問題となっている五・一五事件の裁判進行について人々それぞれの意見もあろうが、法治国家にあって国法を軽んずることはできないはずだ。我が日本国は法治国である。国法に背反した事件を起こした者が陸海軍人であろうが、その動機が愛国の立場に出たものであろうが、法を動かすことはできない。法を動かしても罪人を軽く処罰したいのは、国人として誰も同情を懐くであろうが、それは私情であって、法を裁くものは、このような私情に動かされてはならぬはずだ。国家は法律によって立っている。法が許さねば権利はない、権利は法律の創設するところだ。(そうかな)ナンダカ新聞紙の伝えるところでは6万人(角岡は10万人と誇張していた。)の調印をもって、五・一五事件犯人の罪の軽減を歎願したとか、あるいは至情からして手指を軌ってこれを送致し軽減を祈った者も幾人あるとか、頻々に罪の量の軽減を祈っている。私も罪が軽いことを願うものだが、国法は厳として存在する。反乱者を処罰する法は厳乎として存在し、あえて人の私語を許さぬ。
もし人の私語を許し、法を曲げてこれを処罰すれば、国家の基礎は揺らぐ。国家が重いのか、法律が重いのか。国家は法律によって定まっている。国家より法律が重い。法を乱せば、国家が乱れざるを得ぬ。国事犯であるから情状酌量することは従来あったきらいがあるが、それはそもそも間違った法の取扱である。国事犯であるから罪の軽減をするというのなら、同じく思想犯であっても同様にすべきだ。国法を破ることにおいては同一であるからだ。しかも直接行動は、最も排斥すべきだ。イタリアやドイツのようなファッショの主義を採用した国家であれば論外だが、日本は自由主義の国家であり、まだファッショを採用したと聞かぬ。
もっとも京大事件(滝川事件1933)に対する鳩山(一郎)文部大臣(鳩山は1933.5小西重直京大総長に瀧川幸辰教授の罷免を要求した)の処遇は、ややファッショ的であったが、この処遇を当然視するのは大いに疑問だ。もし、これを当然視することを国人(国民)が承認するならば、これを聞くが、一国の総理大臣を射撃するということは、無法も甚だしい。国法を乱すことでこれ以上のものはない。このような大罪を犯したものを、単にその動機が愛国の至情に出たという理由でこれを庇護すべきだというなら、もはや法はなくなる。何でも公然とこれを犯しても構わないことになる。その動機が、愛国の至情に出るか、それとも政権欲の私情に出るか、「至」と「私」とは音が同じで、誰が烏の雌雄を知るか。国民総意と一致すればともかくであるが、そして、この国民総意の一致を見るのは、議会以外にはない。ごく少数の人々の盲目的な愛国の至情に出たのではあろうが、誰がこれを決然と区別できるのか。
陸海軍人が最も愛国の至情に燃えているという観察は当然だろうが、では国民はそうでないかというなら、何人もそうだと言う者はいないだろう。盗賊でなくとも盗賊になる人はいくらでもいる。境遇がそうさせるという相違があるだけだ。家では善人で、外では悪人であるはずがない。無職の人は悪人になるかもしれないが、それは無職がそうさせるのだ。思想問題は、これを理屈でもって取り扱うまでは、民に無職の者がないようにすることに越したことはない。これが先決問題だと言う人がいるが、それは理屈にかなっている。
五・一五事件のような突発事件は、一部の人が言うように、国民の思うところを一部の海陸軍人が代行したのだろうか。そうだとしても、陸海軍人が国法をあえて乱すということは、国家の成立を危うくする思想の実行に他ならない。もしこのような思想の実行を大目に見れば、これ以上危険な思想はない。国論は、このような危険思想を厳罰にすべきであるとするだろう。同情を国法と混同してはならない。世人がこれを混同するのは、日本人の性質としての雷同性がそうさせるからだろう。国法を乱す最大の犯罪が愛国の至情に出たとして、その道徳性を望むようになったのでは、国法は暗闇である。それでは国家は存在しなくなってしまう。
「海軍軍法会議における検察官の論告を読みて」 今村力三郎
要旨
刑の量定は困難な問題だ。国家が一つの有機体であるとすれば、犯罪は、共同生活における一つの病的現象である。病気の根絶が不可能であるように、社会に犯罪は絶えない。この病的現象の応病与薬が刑罰である。刑罰は犯人の悔過還善を窮極の目的とする。刑罰という薬の分量を決定することが、刑の量定である。
凡庸な医者は、解熱剤を、小児若干、大人若干、婦人若干と医書の通りに処方を書くが、それでは個々の病人にとって適量とはいえない。適量を知るのは名医だけだ。
昔は厳刑酷罰が犯罪防遏(あつ)の唯一の手段と信じた。多量の薬が効き目が多いと信じる医師がいない現代にあっても、法律家には、今でも厳刑酷罰論者が少なくない。
徳川時代に、切支丹禁止のために、火刑、梟(きょう)首(曝し首)、斬罪の極刑にしたが、伴天連の徒は、先輩が極刑に処せられたと聞き知ると、自分もその跡を踏んで、極刑に処せられても神の御心を伝えたいと、次から次へと決死の来航者を増すのみであった。そのためかどうか、僕の浅学で断定はしないが、島原の乱にまで及んだ。
井上筑後守という名奉行が出て、伴天連の来航は、極刑が誘致すると看破し、捕らえられた伴天連を、日本婦人と結婚させたり、信仰の転向をさせたり、扶持(ふち)を与えたりするようになったら、マカオに集まって渡日を待っていた伴天連の来航者が杜絶したという史実がある。これらの研究は姉崎博士の著書にある。
すべての犯罪は、教育、遺伝、境遇、社会相、その他諸々の原因が錯綜して、共同生活への反逆として表現するのであり、どんな犯罪でも、犯人の単一の意思だけに原因することは決してない。我々人類が考えた、犯罪に対する刑罰は、犯人以外の原因は一切不問にし、全責任を被告一人に嫁するから、そこに不合理や不満が生ずる。
133 刑罰は悔過還善を目的とするという前提を是認するならば、死刑は刑罰中の最悪なものである。殺してしまっては、悔過も還善もない。
明治天皇御製
罪あらばわれをとがめよ天津神民はおのれが生し子なれば
ある高僧の、
慈悲の眼に憎しと思うものぞなし、罪ある身こそなお不憫なれ
刑法の真髄はこの他にない。刑罰は犯人に与える苦痛であり、制裁である。ところが「鼎鑊(ていかく、重罪人を煮殺すための道具)飴のごとく甘し」という言葉がある。死を決して罪を犯したものに極刑を与えても、好酒家に罰杯を科したと同様、苦痛でも制裁でもない。
極刑を応病与薬と信ずるのは、浅薄であり幼稚である。
五・一五事件の首謀者は死を決して立ったのである。決死の被告に極刑は制裁となりえない。
幸徳事件のとき、私は幸徳を獄中にしばしば尋ねた。幸徳は面会するごとに死の覚悟を語った。私が「君が一死を覚悟するのはもっともなことであるが、万一、死を望んで死を得ざるときはどうするか」と反問すると、幸徳は愕然顔色を変えて、「そりゃ困る」と言った。
検察官の議論は軍人の本分が根幹となっているが、軍人に限らず、誰でも安んじて本分を守っていられる時代ならば、直接行動は起らない。(この人は実は直接行動容認か。)
原敬が暗殺された時1921.11.4、某雑誌に、暗殺を「抗毒素」に譬えた論があった。
明治天皇が東下した明治元年11月5日、大石良雄らに金幣を賜いし時の勅宣は、以下のとおりである。
汝良雄等、固執主従之義、復仇死於法、百世之下、使人感奮興起
朕深嘉賞、焉今幸東京、因遣使権弁事藤原、献弔汝等之墓、且賜金幣宣(意味不明。読点は金井)
桜田浪士が靖国神社に合祀されたのは、これと似たことだ。(死んでも後世評価されることがあるということか。)
裁判には裁判官の裁判の他に、歴史の裁判もある。
検察官の議論の中に、同一事件を陸海軍法会議と通常裁判所と三ヶ所に分けて裁判することは遺憾であるとあるが、私も同感だ。これは将来立法府の力で統一すべきだ。
134 検察官の論は、減刑は、国法守護の天職に反するとの語調だが、減刑も法律の規定だから、国法守護と相悖るものではない。
現在の刑事裁判の組織は、原告官としての検事または検察官が、被告の不利な事実や証拠を挙げて求刑し、弁護人が被告利益の事実や証拠によって反駁し、裁判官が至公、至平に、双方の弁論を聞き、判決を下すから、検察官の求刑通りに判決されることもないだろう。(この人は軍人の減刑を求めているのか。天皇の下僕の死に対する恩寵を引き合いに出していたから。)
五・一五事件は裁判所が三つに分かれており、この三つの裁判が均衡に行われることが肝要だが、三裁判所は合議することができない。全裁判官が神のような至誠をもってすれば、自ら相通ずるだろうが、これは第一の難関である。
次に、被告の純真な精神や、事件の社会的影響や、一切の情況を参酌して、被告や日本国民に、裁判に心服させることが第二の難関である。この二つの点で欠けるところがあれば、裁判官諸公は後世史家の筆誅を受けるだろう。(世論に従えということか。)
1933年、昭和8年10月号
以上 2020年8月11日(火)
ウイキペディアより
五・一五事件
1930年のロンドン軍縮条約を締結した前総理・若槻禮次郎に不満を持っていた海軍将校は、若槻襲撃の機会を狙っていた。若槻政権は満州事変を収拾できず、関東軍に引きずられていた。
立憲民政党が1932年2月の総選挙で大敗し、立憲政友会の犬養毅が大勝し、犬養政権は、満州事変を黙認し、陸軍との関係も悪くなかった。
五・一五事件を計画した中心人物・藤井斉の遺言を仲間が実行した。事件の計画立案をしたのは、戦死した藤井斉の同志で、海軍中尉の古賀清志1908.4.10—1997.11.23だった。五・一五事件は、血盟団事件に続く昭和維新の第二弾として決行された。
古賀は、海軍青年将校を取りまとめ、大川周明らから資金と拳銃を引き出させ、農本主義者・橘孝三郎を口説き、橘が主催する愛郷塾の塾生たちを農民決死隊として組織させた。時機尚早という陸軍側の予備役少尉西田税を説得し、後藤映範ら11名の陸軍士官候補生を引き込んだ。
3月31日、古賀と中村義雄海軍中尉は、土浦の下宿で落ち合い、第一次実行計画を策定した。計画は二転三転したが、5月13日、土浦の料亭・山水閣で最終計画を決定した。参加者を4組に分け、5月15日午後5時30分を期して行動を開始するというものだ。
・第一段として、海軍青年将校を率いる第一組は、総理大臣官邸、第二組は、内務大臣官邸、第三組は立憲政友会本部を襲撃する。続いて昭和維新に共鳴する大学生2人(第四組)が、三菱銀行に爆弾を投げる。
・第二段として、第四組を除く他の3組は合流して、警視庁を襲撃する。
・これとは別に、農民決死隊を別動隊として、午後7時頃の日没を期して、東京近郊に電力を供給する変電所数ヶ所を襲撃し、東京を暗黒化する。
・加えて時機尚早だと反対する西田税を、計画実行を妨害するものとして、この機会に暗殺する。
東京を混乱させて、戒厳令を施行せざるをえない状況に陥れ、その間に軍閥内閣を樹立し国家改造を行うというものであった。(その後その通りになったのではないか。)
首相官邸
5月15日は日曜日で、犬養首相は、来日していたチャールズ・チャップリンとの宴会の予定変更を受け、終日官邸にいた。
第一組の9人は、三上卓海軍中尉、黒岩勇海軍予備少尉、陸軍士官学校本科生の後藤映範、八木春雄、石関栄の5人を表門組、山岸宏海軍中尉、村山格之海軍少尉、陸軍士官学校本科生の篠原市之助、野村三郎の4人を裏門組として、2台の車に分乗して首相官邸に向かい、午後5時27分ころ、官邸に侵入。表門組の三上は、官邸の日本館の洋式客間で、警備の田中五郎巡査を銃撃し、重傷を負わせ、5月26日に死亡させた。
表門組と裏門組は日本館内で合流し、三上は、日本館の食堂で犬養首相を発見すると、直ちに拳銃を首相に向け引き金を引いたが、弾丸が装填されていなかった。(そんなことありうるのか。自分に罪が及ばないように、あるいは罪が軽くなるように、敢えてやったのではないか。)三上は、首相の誘導で15畳敷きの和室の客間に移動する途中に、大声で全員に首相発見を知らせた。客間に入ると、首相は床の間を背にしてテーブルに向って座り、そこで首相の考えやこれからの日本の在り方などを聞かせようとしていた。
一同は起立のまま客間で首相を取り囲み、三上が首相といくつかの問答をしている時、山岸宏*が突然「問答無用、撃て、撃て」と大声で叫んだ。その瞬間、遅れて入って来た黒岩勇海軍予備少尉が山岸の声に応じて、犬養首相の頭部左側を銃撃、次いで三上も頭部右側を銃撃した。山岸の引き揚げの指示で9人は日本館の玄関から外庭に出たが、そこで平山八十松巡査が木刀で立ち向かおうとしたため、黒岩(禁固13年。軍関係者では3番目に重い。)と村山格之海軍少尉が、一発ずつ平山巡査を銃撃して負傷させ、官邸裏門から立ち去った。
*山岸宏の、この時の犬養とのやり取りに関する回想がある。
「まあ待て。まあ待て。話せば分かる。話せば分かるじゃないか。」と犬養首相は何度も言いましたよ。若い私たちは興奮状態です。「問答いらぬ。撃て。撃て。」と言ったんです。
*三上の裁判での証言もある。
食堂で首相が私を見つめた瞬間、拳銃の引き金を引いた。弾がなくカチリと音がしただけでした。すると首相は両手を上げ、「まあ待て。そう無理せんでも話せばわかるだろう」と二、三度繰り返した。それから日本間に行くと、「靴ぐらいは脱いだらどうじゃ」と申された。私が「靴の心配は後でもいいではないか。何のために来たかわかるだろう。何か言い残すことはないか」と言うと何か話そうとされた。その瞬間山岸が「問答いらぬ。撃て。撃て。」と叫んだ。黒岩勇が飛び込んできて一発撃った。私も拳銃を首相の右こめかみにこらして引き金を引いた。するとこめかみに小さな穴があき、血が流れるのを目撃した。
犬養首相はすぐに駆けつけた女中のテルに「今の若い者をもう一度呼んで来い、よく話して聞かせる」と強い口調で言うが、次第に衰弱し、深夜になって死亡した。
首相官邸以外の、内大臣官邸、立憲政友会本部、警視庁、変電所、三菱銀行などが襲撃されたが、被害は軽微だった。
・第一組の一部は、首相官邸を襲撃した後、警視庁に乱入して窓ガラスを割り、その後、日本銀行に向い、車の中から日本銀行に手榴弾を投げ、敷石等に損傷を与えた。
・第二組の古賀清志海軍中尉以下5人は、タクシーに乗って内大臣官邸に向い、午後5時27分頃に到着、これを襲撃し、門前の警察官1名を負傷させたが、牧野伸顕内大臣は無事だった。その後第二組は警視庁に乱入(第一組と重複)、ピストルを乱射して逃走した。警視庁書記1人と、新聞記者1人が負傷した。(首謀者古賀清志は、犬養を狙う班に入っておらず、またさほど大きな損傷を与えなかった。なぜか。裁判で逃げるためか。)
・第三組の中村義雄海軍中尉以下4人は、タクシーに乗って、立憲政友会本部に向かい、午後5時30分ごろに到着、玄関に向って手榴弾を投げ損傷を与えた。
・第四組の奥田秀夫(明治大学予科生で血盟団の残党)は、午後7時20分ころ三菱銀行前に到着し、ここに手榴弾を投げ込み爆発させ、外壁等に損傷を与えた。
・別動隊の農民決死隊7名は、午後7時頃に東京府下の変電所6ヶ所を襲ったが、単に変電所内の設備の一部を破壊しただけに止まり、停電はなかった。
・血盟団員の川崎長光は、西田税方に向かい、面会し、隙を見て拳銃を発射。西田に瀕死の重傷を負わせた。
第一組・第二組・第三組の計18人(軍関係)は、午後6時10分までに、それぞれ麹町の東京憲兵隊本部に駆け込み、自首した。一方、警察は1万人を動員して、徹夜で東京の警戒にあたった。
6月15日、資金と拳銃を提供した大川周明が検挙された。
7月24日、橘孝三郎がハルビンの憲兵隊に自首して逮捕された。
9月18日、拳銃を提供したとして本間憲一郎*が検挙された。
*本間憲一郎1889—1959 陸軍軍人。陸軍で通訳・諜報活動を担当。昭和3年、郷里の茨城県で「紫山塾」を開く。五・一五事件に連座し、禁固4年。昭和14年、「勤皇まことむすび社」を組織。戦後、「新生日本同盟」を結成。東洋協会専門学校(現拓殖大学)中退。(コトバンク)
11月5日、頭山秀三*が検挙された。
*頭山秀三1907—1952 頭山満の3男。昭和6年、「天行会」を結成。五・一五事件で、古賀に武器を調達した容疑で禁固3年。戦後も運動を継続したが、昭和27年、交通事故で死去。(コトバンク)
後継首相の選定
後継首相の選定は難航した。従来は内閣が倒れると、天皇から元老の西園寺公望に対して後継者推薦の下命があり、西園寺が奉答して後継者が決まっていた。この時、西園寺は、興津(おきつ、静岡県清水区)から上京し、牧野内務大臣の勧めもあり、首相経験者の、山本権兵衛、若槻禮次郎、清浦奎吾、高橋是清、陸海軍長老の東郷平八郎海軍元帥、上原勇作陸軍元帥、枢密院議長の倉富雄三郎などから意見を聴取した。(重臣会議)
様々な意見があった。
・総裁を暗殺された政友会は、事件後すぐに鈴木喜三郎*を後継の総裁に選出し、政権担当の姿勢を示していた。
*鈴木喜三郎 1887.10.11—1940.6.24 司法官僚、政治家。鳩山一郎の義兄。東大法卒。
・昭和天皇からは、鈴木貫太郎侍従長を通じて、後継内閣に関する希望が西園寺に告げられていた。(天皇も政治に関与しているではないか。)その趣旨は、「首相は人格の立派な者。協力内閣か単独内閣かは問わない。ファッショに近い者は絶対に不可」というものであった。(天皇もファッショ的傾向を嫌っていたようだ。)
・陸軍内部では、平沼騏一郎(司法官僚)という声が強く、政友会では森恪らがこれに同調した。陸軍革新派は荒木貞夫(陸軍軍人)による軍人内閣という要求もあった。陸軍は政党内閣に反対だった。
西園寺は政党内閣を断念し、軍を抑えるために元海軍大将で穏健な斎藤実を次期首相として奏薦した。斎藤は民政・政友両党の協力を要請し、挙国一致内閣を組織した。西園寺は、これは一時の便法であり、事態が収まれば、憲政の常道に戻すことを考えていたらしいが、いずれにせよ、これまで8年間続いた政権交代のある「憲政の常道」は、戦前ではこれで終わった。
裁判
海軍軍人は海軍刑法の反乱罪の容疑で、海軍横須賀鎮守府軍法会議で、陸軍士官学校本科生は、陸軍刑法の反乱罪の容疑で、陸軍軍法会議で、民間人は爆発物取締罰則違反・刑法の殺人罪・殺人未遂罪の容疑で、東京地方裁判所で、それぞれ裁かれた。元陸軍士官候補生の池松武志は陸軍刑法の適用を受けないで、東京地方裁判所で裁判を受けた。
当時の政党政治の腐敗に対する反感から犯人の将校たちに対する助命嘆願運動が巻き起こり、将校たちへの判決は軽いものとなった。このことが二・二六事件の陸軍将校の反乱を後押ししたと言われ、二・二六事件の反乱将校たちは、投降後も量刑について楽観視していたことが、二・二六事件の反乱将校の一人である磯部浅一(死刑判決で刑死)の獄中日記に伺える。
評価
「君側の奸」の筆頭格で、事前の計画でも犬養に続く第二の標的とされた牧野邸への襲撃は、中途半端に終わっている。なぜか。松本清張は、大川周明と牧野との接点を指摘し、大川を通じて政界人、特に森恪などが関与したのではないかと推測するが、中谷武世*は、古賀から、「五・一五事件の一切の計画や日時の決定は、自分たち海軍青年将校同志の間で自主的に決定したもので、大川からは金銭や拳銃の供与は受けたが、行動計画や決行日時の決定には、何ら命令も示唆も受けていない」という証言を得ている。また中谷は、大川と政党人との関係が希薄だったことも指摘し、森と大川とは関わりはなかったとしている。(『昭和動乱期の回想』1989平成元年)(それにしてもなぜ牧野が安全だったのかという疑問に対する答えにはなっていない。古賀の「証言」も、それを証明する第三者がいるのか。あやしい。)
*中谷武世(たけよ)1898.7.1—1990.10.24 法政大学教授、政治家。東大卒の戦前からの理論派右翼。帝大七生社に参加。
関係者
・三上卓 反乱罪禁固15年、1938年出所後、右翼活動家となり、三無事件1961に関与。
・古賀清志 反乱罪で禁固15年。1938年7月、特赦で出獄し、山本五十六海軍次官と風見章内閣書記官長のところへ挨拶に行き、それぞれ千円(2018年現在の貨幣価格で500万円)ずつ貰ったという。おかしい。
・橘孝三郎 爆発物取締罰則違反、殺人及び殺人未遂で無期懲役。1940年出所。
・大川周明 反乱罪で禁固5年。
・本間憲一郎 紫山塾主宰。禁固4年。
・頭山秀三 玄洋社社員。
以上 2020年8月11日(火)
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