笠原十九司 憲法九条論争 平凡社新書 2023
011 はじめに
感想・メモ 2026年9月1日(火)
018 天皇は新憲法制定の過程について何も語らず、記録も残さなかったが、マッカーサーとの第三回会談1946/10/16だけは記録が残っている。そのテーマは、侍従次長であった木下道雄の『側近日誌』の解説を書いた高橋紘によれば、第三回会談では「憲法改正、食糧確保、外地からの引き揚げ、ストライキ批判など」であり、天皇とマッカーサーとは「かなり頻繁に話されていた」とある。
019 高柳賢三も、天皇・マッカーサー第三回会談で、天皇とマッカーサーとが日本国憲法の世界的意義を語り合い意気投合していた様子について平野三郎に述べている。
022 第三回会談でマッカーサーも幣原同様「50年後」「100年後」という幣原が言った表現を使っている。そのことは、幣原とマッカーサーとが意気投合していたことを間接的に証明している。
031 マッカーサー発言以外の日本側の証拠は、平野文書以前には「羽室メモ」しかなかった。
032 平野三郎1911-1994は父が酒醸造業を営む名家の出であった。034本人も東京高等師範学校附属中学校を卒業し、慶応義塾大学高等部に進んだ。名家と言っても保守的ではなく、叔父の平野力三は農民運動を行い、戦後は社会党片山内閣の農林大臣を勤めた。父の平野増吉は戦前から衆議院議員であり、木材業(川での運搬)ができなくなるため、政府の発電ダム建設に反対する運動を起こした(庄川事件)。
平野三郎は慶応高等部時代に共産党に入党し、33年2月20日に逮捕され、警察で拷問をうけ、新聞紙を丸めて火をつけたのを股間に押しつけられ、やけどをし、気を失った。しかし名家のせいか、叔父の平野力三が運動して、起訴猶予・処分保留で釈放された。半年間拘禁された。党員であることは吐かなかった。
その後は「危険分子は戦地へ送れ」という政府方針により、第二乙種合格だったが、40年に召集された。監視付きだった。敗戦後は国民党軍に降伏し、中国で1年間捕虜として収容された。日本軍は中国戦線で非人道的なことをやっていたが、平野三郎は捕虜期間中に中国人のやさしさに触れ、戦後は知事になってから、74年、76年の二回、郷里の岐阜県の各種団体を集めて、中国への謝罪・友好訪問を行った。そして戦前に岐阜県に強制動員・労働させられて亡くなった73人/1689人の中国人に対して「中国人殉難者之碑」を建立した。衆議院議員になってからも、日中友好議員連盟会長となった。
戦後47年、平野三郎は35歳の若さで、岐阜の八幡町長になり、49年1月の衆院選で民主自由党から立候補・当選した。幣原も民主自由党から同期で当選し、平野は幣原衆院議長の門下生になった。ちなみに同国会で吉田茂が首相になった。(第三次吉田内閣)
平野は衆院議員を連続5期勤めたが、その後の60年と63年の2回落選し、その度は66年、岐阜知事選に出馬・当選し、10年務めた。しかし、76年、知事の任期途中に部下の収賄事件に連座し引責辞任した。平野は回顧録を数冊書いている。036*
*『平和憲法秘話――幣原喜重郎その人と思想』講談社1972
『笑わぬ象徴――天皇評伝』中央公論事業出版1982
『天皇と象の肉』けやき出版1983
『昭和を支えた天皇物語』すばる書房1986
『昭和の天皇――帝王学の神髄』鳥影社1987
『平和憲法の水源――昭和天皇の決断』講談社出版サービスセンター1993
第1章 「国体維持」に執着した天皇
042 1 ポツダム会談――原爆投下とソ連参戦
特記すべきはトルーマンとスターリンの行動
トルーマンは、側近(スティムソン陸軍長官)が日本の降伏を早めるには天皇制の維持を認めることだとアドバイスしたのを承知の上で、その条項をポツダム条項(12条)から削り、――当初はあった(スティムソン覚書「対日計画提案」7/2)――日本の降伏を遅らせて原爆の威力を確かめてみたかったのである。046
スターリンは日本参戦を8月15日からとトルーマンに言っておきながら049、米が8月6日に原爆を投下すると、ヤルタ会談による千島列島と南樺太の割譲、満洲の権益と日本軍捕虜の労役を狙い、8月8日の午後に対日参戦を通告した。
またポツダム会談は、米英ソの三国で行い、対日共同宣言を決定する際には中国の了解は得ているが、その決定過程では当事者であるはずの中国の代表を排除していた。
時系列
042 1945年
2/4-11 米英ソ首脳によるヤルタ会談が開催された。
4/12 ルーズベルトが急死した。
5/7 ドイツが無条件降伏した。
5/26 ジョセフ・グルー国務次官(国務長官代理)が、トルーマンに、「日本の降伏を早めるために、戦後も天皇制の存続を許容する声明を発表するよう」に進言した。「日本に期待できる最大のことは、立憲君主制の成長であり、日本では民主制は決して機能しないことを経験が示している。」やはりね。スティムソン陸軍長官も、グルーの意見に賛同した。
7/2 スティムソンがトルーマンに覚書「対日計画提案」を提出し、「現在の皇統の下における立憲君主制を排除しないということを付け加えるならば、受諾の機会を増大させるだろう」と述べた。
7/3 一方、ジェームズ・F・バーンズが国務長官に就任し、対日共同宣言案の発表に反対した。
7/10 日本の最高戦争指導会議がソ連に終戦斡旋依頼のために近衛文麿の派遣を決定し、ソ連に申し入れた。
7/16 米の原爆実験が成功した。
7/17-8/2 ポツダム会談が開催された。会談中にトルーマンは、8/10までの原爆投下を指示した。スターリンは8/15までに対日参戦するとトルーマンに通告した。
7/18 ソ連から近衛派遣を拒否する回答があった。
7/26 対日共同宣言(ポツダム宣言)が米英中により公表された。
7/27 日本の最高戦争指導会議は、東郷重徳外相の提案に従い、しばらくはソ連との和平交渉を継続することにした。
7/28 鈴木貫太郎が最高戦争指導会議の決定を受けて、国体の護持が保証されていないとしてポツダム宣言を黙殺して戦争に邁進するという談話を発表した。
7/30 佐藤尚武駐ソ大使がソ連に条件付き和平の斡旋を依頼した。
8/8 スターリンは米の原爆投下を受けて、対日参戦を決定し、午後5時、佐藤尚武駐ソ大使に、8/9からの対日参戦を通告した。これに米英中の了解はとらなかった。
8/10 ポツダム会談中にトルーマンが8/10までの原爆投下を指示した。
8/15 スターリンは8/15までに対日参戦するとトルーマンに通告したが、これは守られなかった。
051 2 ポツダム宣言の受諾――遅すぎた〝聖断″
時系列・メモ
052 4月 沖縄戦の際、天皇は「もう一度戦果をあげてから」とし、「沖縄作戦に対する御軫念(しんねん、心配)」を現地軍に伝えさせ、玉砕覚悟の徹底抗戦を要請した。
天皇は、近衛文麿ら和平派の重臣に「「全面的武装解除と戦争責任者の処罰は絶対と譲れぬ、それをやる様なら最後まで戦う」とのお言葉」から、最後は「国体護持の一条件だけで早期終戦を計る心境になっていた。」(荒井信一)
057 7/5 関東軍の「対ソ作戦計画」は、「満洲国東南部と朝鮮北部で持久戦を展開し、撤退に際して交通要衝や重要施設を適時破壊する。」そして、
7/10 満洲国成年男子全員25万人を召集し、満蒙開拓青少年義勇軍8万6530人も召集し、ソ連軍に対峙させた。
051 8/10 最高戦争指導会議が天皇臨席のもとに開催され、東郷外務大臣が、「天皇の国際法上の地位存続のみをポツダム宣言受諾の条件」として提案した。それに対して阿南陸軍大臣が、「天皇の国際法上の地位存続、在外軍隊の自主的撤兵、内地における武装解除、戦争責任の自国における処理、保障占領*の拒否」の4点を条件とした。鈴木議長が聖断を求めると、天皇は東郷案を採用した。
平沼騏一郎枢密院議長が、「天皇の国際法上の地位」を「天皇の国家統治の大権」と修正し、閣議決定され、至急電報が米英中ソに送付された。*保障占領とは、条約履行を見届けるために、一時的に他国の領土を占領すること。
053 8/12 バーンズ(国務長官)回答「最終的の日本国政府の形態は「ポツダム」宣言に遵い、日本国民の自由に表明する意思に依り決定せらるべきものとす。」(ポツダム宣言12条と同内容)
054 同日午後3時、天皇は皇族13人を集め、受諾処理で意思統一した。
8/13 最高戦争指導会議で外相・首相・海相が即時受諾論を、参謀総長・軍令部総長・陸相が再照会論を展開し、3対3で決着しなかった。
スターリンによる釧路と留萌を結ぶ線以北の進駐占領案をトルーマンが拒否した。
8/14 最高戦争指導会議の開催文書に陸海軍両総長が署名せず、天皇が召集した。3対3で変わらず、鈴木首相が聖断を求め、天皇は「バーンズ回答に国体維持の含意がある」とし、受諾の聖断を下した。天皇は陸海軍の統制の困難さを予測し、「自らラジオで終戦の詔書を放送する」と述べた。午後11時、「天皇陛下はポツダム宣言受諾に関する詔書を発した」とする電報がスイスに打電された。
058 3 皇族内閣によるポツダム宣言の履行
061 4 軍政(直接統治)から間接統治への変更
マッカーサーは当初直接統治を考えていて、軍票3億円を用意し、米軍人に配布していたが、外相重光葵(まもる)は、おそらく天皇の意向を体したものと思われるが、天皇制を利用した間接統治を説得し、マッカーサーとサザランド参謀長は、それを、次第にではあるが、快諾し、間接統治に変更した。
この出来事が、「天皇制の維持」という点で、昭和天皇が成功した事例の最初ではないか。
062 1945年9月2日、横須賀沖のミズーリ号上で、降伏文書の調印式が行われた。その時の日本側の全権代表が重光葵であった。そのときマッカーサーから布告文3通が手交された。「軍政を行う、占領軍裁判所を設置する、軍票を日本法貨とする」とあった。
063 重光は、ポツダム宣言履行での天皇の努力(皇族内閣の任命、戦争終結の努力)、天皇制排撃による混乱、反対勢力の存在、日本はポツダム宣言以上の制約を受けない、ポツダム宣言は日本政府の主権の存在を前提している、この点はドイツとは異なるなどを主張した。
065 マッカーサーも日本降伏に際して、軍の反乱を天皇が防止したことを知っていた。
マッカーサーの軍事秘書ボナー・F・フェラーズも「無血侵攻を果たす際に、我々は天皇の尽力を要求した。現に天皇の命令により武器の放棄、動員解除が行われつつある。ポツダム宣言は天皇を含む国家機構の存続を意味するものと考えている」と、最高司令官宛覚書に書いている。
第2章 天皇が望んだ大日本帝国憲法改正
1 天皇がマッカーサーと会見
2 天皇が幣原喜重郎に組閣の大命
3 幣原内閣の組閣と政府の二重構造
070 9月11日、GHQが東条英機ら戦犯30人を発表し、その日のうちに逮捕した。東条は自殺しようとしたが、未遂に終わった。
071 9月15日~17日、閣内で重光葵外相の意見が通らず、重光は辞任に追い込まれた。(これは閣内不統一だから内閣総辞職となるはずだが、そうはならなかった。どうしてか。当時の内閣は東久邇宮内閣。)
072 9月13日、近衛文麿が横浜にマッカーサーを訪問し、戦犯30人の選定に関わり、「自分には戦争責任がない」と述べていた。(これは070の、9月11日に近衛の関与のもとでGHQが戦犯30人を発表したことと時系列上矛盾している。)(これ以前に)東久邇宮首相も個人的資格ですでにマッカーサーを訪問していた。
9月20日、吉田茂・新外相がマッカーサーを訪問し、マッカーサーに会いたいという天皇の意思を伝えた。
9月27日、天皇のマッカーサーとの会見が実現した。マッカーサーはそこで「原爆の時代に勝者はいない」と述べていた。このことは幣原の考えと一致する。幣原とマッカーサーとの憲法に関する秘密会談は1946年1月24日に行われた。
076 10月4日、GHQが「政治的、公民的および宗教的自由に対する制限除去の件」に関する覚書を東久邇宮内閣に通達した。その内容は、第一に、天皇に関する自由討議を認めるとともに、政治犯の釈放、第二に、治安維持法や治安警察法など、自由制限に関する一切の法令の撤廃、第三に、内務省警保局と府県特高課の廃止、第四に、内務大臣、警保局長、警視総監、府県警察部長から特高課長の端に至るまでの総勢5000名に近い特高警察全員の一斉罷免を命じた。
077 10月5日、東久邇宮内閣が総辞職した。
079 幣原の略歴 大阪門真市の豪農の次男。大阪中学校(第三高等学校)で、生涯の盟友・大平駒槌を得た。大平駒槌の三女、羽室ミチ子は、幣原が憲法九条を発案したことを証明する「羽室メモ」329を残した。大平駒槌は、後に、住友の理事、満鉄副総裁、枢密院顧問官となった。
第三高等学校で高知県出身の浜口雄幸と同級になり、後に浜口首相の下で外相となった。東大法科大学英法科卒後、一時農商務省に勤めたが、25歳の時、外交官・領事館試験に合格し、外交官人生を始めた。大阪中学校時代に英米人教師から英語を学んだ。
1903年、32歳のとき、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の末娘、雅子と結婚。この縁談は、岩崎弥太郎の長女で、加藤高明夫人の春路が世話をした。
090 ポツダム勅令とポツダム政令は、合計530件に達した。これはまさに命令であり、議会を通す必要はなかった。幣原首相はそれを断行した。
092 未だに未公開文書があり、幣原首相が天皇との関係(裏の政府)でどう振舞ったのかについては不明なところが多い。
4 近衛文麿の帝国憲法改正着手
(1)天皇が憲法改正を指示
(2)近衛文麿・マッカーサー会見での「誤訳」「誤解」問題 複雑
094 通訳・奥村勝蔵が誤訳し、近衛文麿はマッカーサーから(個人的に)憲法改正を要望されたと誤解した。
近衛がマッカーサーに自ら進んで会いに行って1945/10/4自説を主張した後で、マッカーサーの方から「憲法を改正する必要がある」と言われた。さらにマッカーサーはその後の方で「もし公がその廻りに自由主義的分子を糾合して「憲法改正」に関する提案を天下に公表されれば、議会もこれについてくることと思う」と言っている。
この二か所で出て来る「憲法改正」であるが、前者は正真正銘の「憲法改正」であり、後者は「行政機構の改正」のことらしい。後者の誤訳の元の英語は著者によれば、government constitution (or structure) 099 であるらしく、一見して「憲法」と取れるが、AIで調べてみると、憲法は単にconstitutionであるのに対して、government constitutionは、立憲政体、立憲政治、憲政、政府の構成(組織)という意味で、著者も「行政機構」としている。非常に紛らわしい。
結局GHQは、「前者の「憲法改正」は、近衛が東久邇宮内閣の副首相であったから、近衛個人ではなく日本政府に対して言ったことであり、東久邇宮内閣が総辞職した後では、近衛個人とは関係はなくなった」との声明を出している。1945年11月1日のことである。
確かに、著者が紹介する会見の最後の部分の冒頭では、マッカーサーから「憲法を改正する必要がある」と言われていたので、その文脈で、後の方のgovernment constitutionを「憲法」と誤訳・誤解する環境にはあった。
しかしそれにもかかわらず、11月22日、近衛文麿は「帝国憲法改正要綱」を天皇に奉答している。
誤訳問題再考
誤訳と言っているが、それよりも米国の世論の方が大きかったのではないか。それを受けてマッカーサーのスポークスマンは11月1日に「近衛文麿個人に憲法作成を依頼したことはない」*とわざわざ声明を発表せざるを得なくなったようだ。米国世論は、近衛など旧勢力で、しかも戦争を推進した人物が、これからの日本の憲法をつくるなど許されないという声が強かったようだ。それに辻褄をあわせるかのように、誤訳・誤解という説明も出てきたようだ。また筆者が証拠として上げている、アチソンが米本部に送ったという書簡097は、その間のことに関して何等具体的なことに触れていない。
*朝日新聞11/3「憲法改正における近衛公の役割否定 マ元帥代弁者言明 公を支持せず」106
戦前反軍演説1940/2/2をして議員を除名された斎藤隆夫*が、戦後の議会で、近衛文麿や東条英機を戦争犯罪人だと言って批判*して拍手も起こったというが、その頃の日本の世論も、近衛批判に対して大きく働いたのではないか。また10月4日の人権指令の効果は大きかったのではないか。
*斎藤隆夫は1942年の総選挙で衆院議員に復帰。1945年11月、日本進歩党創立の発起人。公職追放の対象にならなかった。
*「この戦争を惹起した所の根本責任は、近衛公爵と東條大将、この両人であるというについて、天下に異論あるはずはないのであります。」109
もう一点
天皇は世論に素早い。自らの首がかかっていたからだろう。天皇も米世論に接すると、「皇室に政治的権力があるらしく見ゆるは不得策」107として、皇室令によって宮内省官制を改正し、内大臣府官制を廃止12/24した。これによって近衛憲法草案を店じまいし、それに伴って内大臣・木戸幸一も失業。天皇の政治関与は、内大臣に代わって、侍従長との関係になる。
108 近衛は内大臣府御用掛を退官する2日前の11月22日、近衛憲法草案「帝国憲法の改正に関し考査して得たる結果の要綱」を提出した。また近衛憲法改正草案作成に関して委嘱されていた佐々木惣一も、内大臣府御用掛廃職の日11/24に、「帝国憲法改正の必要」と題する「帝国憲法改正草案」を提出した。
第3章 幣原内閣における憲法改正作業
1 憲法問題調査委員会の発足
2 帝国議会における「松本四原則」の表明
3 憲法改正「松本私案」の作成
1945年
10月11日、マッカーサーが幣原首相に憲法改正を要求。新聞が近衛による憲法改正作業を伝える。
10月13日、幣原首相が、松本烝治国務大臣を主任(委員長)とし、10月25日、憲法問題調査委員会を設置。
11月26日、天皇が幣原首相に憲法改正を下命。
12月8日、松本烝治が「松本四原則」を提示した。123
大日本帝国憲法改正松本私案
117 松本烝治は東大教授の商法学者で、満鉄副総裁、商工大臣、日銀参与・理事などを歴任した権威者で、弁も達者(「自信満々、かみそりのように鋭い論理を展開し、容易なことでは引っ込まなかった」(法制局第二部長として調査委員会委員となった佐藤達夫))であったらしいが、松本はもともと憲法改正など講和後にやればいいくらいに考えていて、最初からあまりやる気がなかった。それが憲法問題調査委員会委員長となった1945年10月25日の2か月後に「松本私案」をまとめることになったのは、新聞を始めとする世論の影響があったようだ。
126 松本私案は4日間くらい12/31-1/4で書き上げられ、それは憲法改正というより、内容的には大日本帝国憲法そのものであった。
松本烝治は、GHQとも交渉せず、幣原首相も参加せず、閣議で調査委の報告が議論されたこともない。閣議で初めて審議されたのは1946年1月29日のことだった。そして2月8日、それがGHQに提出された。
委員となった入江俊郎法制局第一部長、佐藤達夫同第二部長がこの間の詳細をまとめていて、またそれは『芦田均日記』の誤りを明らかにする。119
124 一方当時民間でも憲法改正草案が書かれ、その内容は進歩的で、GHQ民政局ホイットニーからも褒められたという。それは大原社会問題研究所(高野岩三郎所長)の「憲法研究会」である。高野所長は天皇制を廃止する案を提唱したが、研究所全体としては国民感情を重視し、天皇制を象徴天皇として温存した。
憲法研究会のメンバーは、鈴木安蔵(幹事)、大内兵衛、馬場恒五、森戸辰男、室伏高信、杉森孝次郎などである。高野所長は共和制の「日本共和国憲法私案要綱」を作成している。
12月26日、同研究所は「憲法草案要綱」をGHQと首相官邸に届け、翌日新聞が全文を報道した。主権在民、国政の最高責任者は内閣とし、天皇は国民の委任により専ら国家的儀礼を司るとした。
11月27日の第89回臨時帝国議会で、斎藤隆夫議員が憲法改正では国体を擁護すべきであるとする質問に対して、幣原首相が答弁したが、その時の幣原の憲法観は、旧憲法の部分的修正=旧憲法温存であった。122
第4章 マッカーサー・天皇・幣原による「象徴天皇制」への移行
1 アメリカ三省調整委員会による象徴天皇制のシナリオ
2 昭和天皇の「人間宣言」 詔書作成の過程
3 天皇の地方巡幸――‴国民の天皇〟への演出
天皇戦犯訴追 米本土では天皇訴追が基本だったが、マッカーサーの意見を問うことになった。
マッカーサーとGHQ首脳部は、天皇を戦争犯罪人として告発・起訴することを回避する方針を了承していて、それは米政府には内緒にされていた076が、米政府や議会では、天皇を戦争犯罪人として裁判にかけるべきだという議論は早くからあった。
国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC:State-War-Navy
Coordinating Committee)指令1945/9/25は、「上下両院は、日本国天皇裕仁を戦争犯罪人として裁判に付することを合衆国の政策として宣言する」という上(下両)院合同決議案第94号を、三省調整委員会極東小委員会に回付し、検討を指令した。
また、米統合参謀本部からマッカーサーに通達(11月29日)が届けられた。「裕仁は戦争犯罪人として逮捕・裁判・処罰を免れていないというのが、米国政府の態度である。天皇抜きでも占領が満足すべき形で進行しうると思われる時点で、天皇裁判問題が提起されるものと考えてよかろう。裕仁を裁判にかけないという決定も、裕仁を戦争犯罪人として裁くことを正当化する勧告も、貴官の意見は重要であるから、証拠を収集せよ。」
ところが、12月11日、三省調整委員会極東小委員会は報告書「日本の天皇制の取り扱いに関する政策の定式化」をまとめた。これは象徴天皇制への移行のためのシナリオであり、a-g, 補遺Bからなる。それは天皇制の存続を認めた。その中にf「天皇の免責条件」として、「開戦時の天皇の積極的役割がなければ」という条件がついていたが、これは日本には秘密とされていた。133
また同小委員会は12月18日、報告書「天皇制の取り扱い」を提出した。その中でエドウィン・O・ライシャワーは「補遺B 論点の指摘」と題し、「天皇の宗教的立場は依然として消えず、過去には、天皇が軍国主義的気風を強めるために利用され、また、軍国主義者の権力獲得のために利用されたとし、今後の日本での平和的政府実現の妨げとなる」とも指摘した。
三省調整委員会極東小委員会は「日本の統治体制の変革」SWNCC―228を作成し、1946年1月11日にマッカーサーに送付した。
三省調整委員会極東小委員会や国務省部局間極東地域委員会のメンバーがSWNCC―228を作成した。その構成員は、ヒュー・ボートン、ジョージ・ブレイクスリー、エドウィン・O・ライシャワーらである。彼らは知日派で、日本の軍国主義、天皇制、教育制度、農地制度、財閥、宗教などを研究していた。GHQ民政局は、これを日本国憲法草案作成時に指針として利用した。138
139 上記報告書「日本の天皇制の取り扱いに関する政策の定式化」12/11の中に、f「天皇の免責条件」として、「開戦時の天皇の積極的役割がなければ」という条件がついていたが、これは日本には秘密とされていたとされるが、実際はこれが日本側にばれていて、天皇はその内容を演じた。例えば、
第一、d, e 人間宣言
第二、e 天皇の地方巡幸
第三、SWNCC―228は日本国憲法草案作成時に指針として利用された。139(なぜここに入れるのか?)
第四、 f 日米開戦時の御前会議等での天皇の消極的態度を証明するために、1946年3月18日から4月にかけて、松平慶民・宮内大臣、松平康昌・宗秩寮総裁、木下道夫・侍従次長、稲田周一・内記部長、寺崎英成・御用掛の5人が、張作霖爆殺事件から終戦に至るまでの経緯を4日間、5回に渡って昭和天皇から聞き取り、「昭和天皇独白録」にまとめ、GHQに提出した。それは開戦・敗戦の責任を軍部や民間に転嫁し、自分は戦犯から免れようとする意思が読み取れる。
1945年11月26日、最後の海軍大臣・米内光政はマッカーサーに「天皇は退位されなければならないでしょうか」と聞いた。それに対してマッカーサーは「退位しなければならないとは考えていない。日本国民が決めることでしょう」と答えたという。
寺崎英成は、1945年12月5日、終戦連絡中央事務局の連絡官を任じられ、日本政府とGHQとの連絡業務を担当していたが、1946年2月に宮内省御用掛になり、天皇の通訳とGHQ関連でのアドバイスを担当した。寺崎の妻グエン婦人は、マッカーサーの軍事秘書ボナ・フェラーズと親戚であり、マッカーサーの情報が天皇に伝わっていたと思われる。
感想 2026年8月18日(火)
象徴天皇制は米の発案であった。しかし天皇を戦犯として訴追するという考えも、象徴天皇制案が出される直前まであった。132, 135 地方巡幸の際に天皇を警護した米MP隊長の言葉「戦略的行動」という表現は、アメリカ人の間に何らかの疑念があったことを示唆する。154
幣原喜重郎が風邪をひいたのは1945年12月24日以降12月27日までの間であることが分かる。143 また後の方で、幣原が公務を休んでいたのは12月25日から1月15日までだったとある。165
第5章 幣原の憲法九条発案とマッカーサーへの提案
1 アメリカ政府とマッカーサーによる憲法改正の促進
2 幣原首相のマッカーサーとの「秘密会談」決意
対日政策での米ソの対立は1945年の10月頃から始まったようだ。日本の占領政策を実質的に米だけで行う「極東諮問委員会」の設置にソ連は反対して、10月30日のその初会合に欠席した。
ソ連が米による独占的日本統治に異議を唱えたことから、米も譲歩し、12月27日、モスクワで米ソ英による三国外相会議が行われ、連合国の最高決定機関として「極東委員会」FEC Far Eastern Commission(ワシントン、初会合1946/2/26)と、SCAP連合国軍最高司令部の諮問機関として「対日理事会」(東京、初会合1946/4/5)が設置された。
しかし米はそれよりも先に日本の憲法を決めてしまおうと急いだ。それが1946年の2月頃の話である。
象徴天皇制などの日本国憲法の骨格は米の案が基にされたが、9条はどうも幣原の案のようである。
166 幣原喜重郎『外交50年』に見られる、8月15日の決定的な庶民の発言
「俺たちは知らん間に戦争に引き込まれて、知らん間に降参する。自分は目隠しされて屠殺場に追い込まれる牛のような目に逢わされたのである。怪しからんのは我々を騙し討ちにした当局の連中だ」(うっかりしていたら今の日本人もその同じ轍を踏むのでは)
さかんに怒鳴っていた男性はしまいにはおいおい泣き出し、車内の群衆もこれに呼応して、そうだそうだとワイワイ騒ぎ出したのであった。
メモ
165 幣原が公務を休んでいたのは12月25日から1月15日までだった。
174 幣原は1932年の血盟団のブラックリスト20人の中に入っていた。
3 マッカーサーと幣原との「秘密合意」
(1)「マッカーサー大戦回顧録下」より
「戦争を国際間の紛争解決には時代遅れの手段として廃止することは、私が長年情熱を傾けてきた夢だった」177
「原子爆弾の完成で、私の戦争を嫌悪する気持ちは当然の事ながら最高度に高まっていた。」178
「連合国はそういった意思表示(戦力不保持)をポツダムで行い、その後も行っていた。現に私が受けた指令は、「日本は陸海空軍、秘密警察組織、民間航空を保有してはならない」と述べていた。」179
(2)ロスアンゼルスの市民午餐会におけるマッカーサーの演説
「戦争はもはや生き残りの手段とはならず、我々の滅亡をもたらすだけである」180
(3)米国議会上院軍事・外交合同委員会におけるマッカーサーの証言
1951年3月、マッカーサーは「中国本土攻撃も辞せず」と声明して、朝鮮戦争休戦を考えていたトルーマン大統領と意見が対立し、4月11日、国連軍最高司令官を罷免された。183
1951年5月5日、「極東の軍事情勢」を調査するための上院軍事・外交合同委員会聴聞会で、マッカーサー「そして最後にはその線(戦争禁止)を保持することができないかもしれないというようなことを(幣原に)申した」185
4 天皇の「秘密合意」の「承認」
「1946年1月25日午前1時45分 東京発進 1月26日受信」 マッカーサーはアイゼンハワー陸軍参謀総長宛に機密緊急電報を打った。
5 幣原発案の「秘密合意」が憲法九条に
第6章 幣原内閣がGHQ憲法草案を受け入れ
1 「マッカーサー・ノート」――新憲法草案作成の指示
(1) マッカーサーの憲法改正案作成の権限の確認
ホイットニーとケーディスの2月1日の報告書 これは1月24日ころから調査が開始されていた。
「私の意見では、この問題(日本国憲法の作成)についての極東委員会の政策決定がない限り――言うまでもなく同委員会の決定があればそれは拘束されるが、――閣下は憲法改正について、日本の占領と管理に関する他の重要事項の場合と同様の権限を有されるものである。」
(2)松本委員会の「憲法改正試案」が毎日新聞にスクープされる
松本委員会の「憲法改正試案」の内容が大日本帝国憲法と基本的に変わっていないことに批判的な反響が多かった。
松本私案は同委員会の宮沢俊義が作成した。
感想 2026年8月19日(水)
マッカーサーは極東諮問委員会*との会談1/9-1/31で、
「当初は私に(憲法作成に関する)管轄権が与えられていたが、モスクワ協定1945/12/27により、その問題は私の手から取り上げられ、私は日本側に憲法について示唆はしたが、命令や指令は出していない。」161, 162
と言っていた時期もあったのに、急に日本の憲法制定に意欲的になった。その落差は何を意味するのか。米政府は日本国憲法の制定に元々関心はあったようだ。134, 162, 198, 199 マッカーサーの極東委員会との会談での発言は、内心を隠したものだったのか。
マッカーサーは極東委員会が活動する2月末198の前に、日本の憲法を制定しようとして急いだ。また、毎日新聞がスクープした旧態依然の「松本私案」(実は宮沢俊義が作成)のマッカーサーへの提示に合わせて逆提案できるように、マッカーサーはマッカーサー私案の作成を急いだ。
*本書では「極東諮問委員会」158とあるが、これは「極東委員会」の間違いではないかと当初は思っていたが、極東委員会が行動を開始するのは2月末で、ここは1/9-1/31であり、それ以前のことだから、この時点では、極東諮問委員会が生きていて、議長もマッコイが両者を兼ねていたようだ。
マッカーサーは「中国に原爆を落としてやる」と言っておきながら、幣原の戦争放棄の提案には、自分も同感だと相槌をうつ。何か非常に調子者に思えるのだが、『マッカーサー大戦回想録』を読んでその人柄を想像してみようか。
メモ
203 (3)幣原首相との「秘密合意」を踏まえた「マッカーサー・ノート」
2月4日、GHQ民政局が憲法草案作成のための初会合を開催。
2月12日、松本委員会が松本私案をマッカーサーに提出予定。
204 ホイットニーが初会合で指示「日本側を説得できなければ、力で押しつけるが、新憲法草案文書は日本側がマ将軍に承認を求めて提出し、マ将軍の承認を受けたことにし、日本人が作ったものとして認め、全世界に公表する。」強引な米!
204 ホイットニー「憲法改正(松本案)」覚書202や、このホイットニーの指示から読み取れることだが、松本烝治や吉田茂は保守派と目されていた。
206 SWNCC―228は憲法作成のもとになっていたが、象徴天皇については明確な指示はなく、戦争放棄についての指示もなかった。幣原・マッカーサーの密約が想起される。
岸信介内閣の憲法調査会会長の高柳賢三(成蹊大学学長)は1958年に訪米したが、マッカーサーやホイットニーに面会を拒否され、「九条を幣原が提案したのか、それともマッカーサーが勧告したのか」を文書で質問し、それに対して文書で回答された。
2 GHQ民政局の「密室の九日間」
209 2月6日の民政局議事要録では「SWNCC―228に従うこと」とある。
民政局憲法作成小委員会には、戦争放棄に関する小委員会はない。それはマッカーサー・ノートにすでにあったからだ。
211 民政局『日本の政治的再編成』(『日本の政治的改革』)1949は、日本国憲法作成の原因を毎日新聞のスクープ2/1とし、日本の松本案は保守的であり、日本人には民主的憲法をつくる能力がないと判断し、そのため民政局が作ったとするストーリーであるが、これは、米側がすでにSWNCC―228に基づいて憲法作成を始めていたことを隠蔽するためのものである。しかしそれが一般的には受け入れられている。「毎日新聞→マッカーサー・ノート→九日間の突貫作業」というストーリーである。
216 3 GHQ民政局に拒否された憲法改正「松本私案」
(1)閣議における憲法改正「松本私案」の議論
219 (2)天皇は「松本私案」を「裁可」せず 一部疑義を呈し、修正を要望した。
223 (3)GHQ民政局が「松本私案」を拒否
メモ・感想
225, 226 1946年2月13日、ホイットニーとケーディス他2名(ローウェル中佐、ハッシー海軍中佐)から外相官邸でGHQ案が提示されたときの雰囲気はどうだったのか。民間でいわれるように「強圧的」だったのか。
ことさら厳しく受け止める記述(松本烝治、1950/11/23)もあり、「天皇の首person*が吹っ飛ぶぞ」という捉え方をした人もいたようだったが、その記述は間違っていたようだ。それを裏づける、同席していた人(通訳の白洲次郎、吉田茂外相、長谷川嘱託、『日本外交文書』)の証言がないのだ。
松本烝治「極めて厳格なる態度でもって宣言して曰く…」「これ(GHQ案)なくしては天皇の身体(この時の言葉をよく覚えておりますが、)、パーソン・オブ・ザ・エンペラーの保障をなすことあたわず、…」
*personとはどういう意味か。肉体か、それとも天皇としての身分か。
229 (4)「憲法改正にBombshell」
これは厚生大臣・芦田均の言葉。『芦田均日記』によれば、閣議2/19で「松本報告の後、三上内相、岩田法相は、総理の意見と同じく、「我々はこれ(米交付案)を承諾できぬ」と言い」とあるが、この「総理の意見と同じく」は事実に反する。(芦田の)日記によれば、松本報告の後で、幣原は何も発言していない。『入江書』も同様である。
4 幣原内閣がGHQ憲法草案の受け入れを決定
232 (1)マッカーサーと幣原の第二回「秘密会談」
234, 236 幣原は「GHQ案と松本私案とは妥協の余地がある」と言い、それに同調する人もいたが、「そんなことはない、大いに異なる」と異議を唱えた人もいた。安倍文相である。(入江俊郎『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』)
237 (2)天皇のGHQ憲法草案「裁可」
237 松本烝治は閣議2/22でGHQ案の受け入れが決定された後でも、GHQを訪れてホイットニーと会談し、「現行憲法の修正と新規追加ではどうか」と問い合わせ、拒否されている。これはフライイングではないのか。
239 平野文書の間違い 2/22、「幣原が陛下と合う時に吉田も同行した」というのは間違いである。吉田は同時刻に松本烝治に同行しGHQへ向かっていた。GHQ民政局の報告書Political Reorientation of Japan, September 1945 to September 1948,
Vol. 1も間違っている。
238, 243,
244 GHQ案受け入れで紛糾する閣僚たちに決定的な影響を与えたのは、天皇自身の態度だったようだ。それは平野文書だけでなく、吉田茂の回想録『回想十年』も証明している。
216 3 「GHQ民政局に拒否された憲法改正「松本私案」」と、4 「幣原内閣がGHQ憲法草案の受け入れを決定」に関する時系列をまとめてみると、
1/29-2/4 松本私案を閣議で5回審議した。1/30、本格的討論が行われた。
2/1 毎日新聞が松本私案の非民主性を叩いた。
2/6 幣原が天皇に会った。
2/7 松本烝治が松本私案を天皇に説明した。
2/8 松本烝治はGHQに松本私案を提出した。幣原が天皇に会った。
2/9 天皇は松本私案に注文を付けた。
2/13 松本私案を検討後のGHQ(ホイットニーら)は、外相官邸で、松本烝治に対して、松本私案を拒否し(unacceptable)、それに代えてGHQ案を提示した。ホイットニーはそれを「受け入れられるべきもの」だとし、日本側がGHQ案と同内容の基本原則を押さえた憲法改正案を提示することを切望した。そうしないと日本の天皇の「身体」personの保障はできないと脅した。(松本烝治226)
2/16 幣原が天皇に会った。
2/18 松本烝治がGHQに松本私案の修正案(追加説明書)を提出した。その結果は、「再考の余地はない。GHQ案を基礎に進行する意思があるかどうかを、明後日の1/20までに返答せよ。回答がなければ、GHQ案を発表する」と言った。(松本烝治228)
2/18 天皇が米マスコミからインタビューを受けた。
2/19 閣議で松本烝治が青ざめた表情でこの間の事情を説明した。GHQ案を受け入れるか否かの審議をしたが紛糾し、幣原が翌々日2/21にマッカーサーを尋ね、GHQ案受け入れ返答の締め切りを2/20から2日伸ばして2/22にしてもらうことになった。(2/21では締め切り2/20は過ぎているのに)
2/21 幣原がマッカーサーに単独で会見。
2/22 午前 閣議で、幣原がマッカーサー会見の経緯を説明した。芦田均厚生相が松本烝治をなだめ、安倍能成(よししげ)文相が「GHQ案を厳粛に受け入れる」という提案をし、GHQ案を受け入れることに決まった。そのとき、象徴天皇と戦争放棄は変更できないものと了解された。
2/22 午後 幣原は一人で天皇に面会し、受け入れたGHQ案を説明し、天皇もそれをあっさり了解した。一方、同時刻に、松本烝治と吉田茂はGHQを訪れ、大日本帝国憲法の改正とそれへの新規追加案を提示したが、拒否された。
3/5 閣議で、天皇の地位(象徴)に関して、天皇自身がGHQ案を認めるという意見が幣原から伝わり、紛糾していた閣議が、GHQ案を骨子にすることでまとまった。幣原は松本を伴って「憲法改正要綱」を天皇に提出した。
第7章 幣原内閣による「憲法改正草案要綱」の発表
246 1 天皇による「憲法改正草案要綱」の「裁可」
「GHQ案と同内容の日本が作成した憲法案」(ホイットニーの要求、2/13)とのことだったが、「憲法改正草案要綱」(その後の議会でこれを修正したものが今の日本国憲法である)は、実際はGHQ案そのものを日本語訳したようだ。250
3月4日になっても松本烝治は一人納得がいかず、GHQ案に対する自らの対案とその説明書をGHQのホイットニーにつきつけても受け入れられず、ケーディスと激論を交わした後に退席した。その後の経過は、英語のGHQ案を日本語に訳す作業が日米共同で徹夜で行われ、それが完成すると米側はそれを飛行機で米に運び、日本と同時に発表することになった。その時も松本烝治は「勝手にやれ」と捨て鉢な言葉を発したという。247
256 2 帝国議会における憲法改正草案の審議と採択
257 (1)枢密院における審議と裁可
261 (2)衆議院における憲法改正草案審議と修正
268 (3)貴族院における審議と可決
270 3 天皇による日本国憲法公布
感想 2026年8月23日(日)
幣原喜重郎も「2000余年培われた国民精神258」という人だった。これが当時の「学問」の常識らしい。AIによれば、それに疑義を唱える津田左右吉もいたが、弾圧されたらしい。
天皇の諮問(諮詢)機関としての枢密院が当時いかに重要な位置を占めていたかが分かる。新憲法案を審議する際、それはその最初と最後に位置していた。
257 時系列
3/20 枢密院本会議の冒頭、幣原は「憲法改正要綱」を枢密院以前に公表したことを釈明した。
4/10 新選挙法により、戦後初めての衆議院選挙が行われ、女性議員39名が誕生した。
4/22 幣原は政党に所属せず政党内閣でなかったので総辞職した。第一党の自由党総裁の鳩山一郎は公職追放となり、吉田茂が自由党総裁となった。
4/22 枢密院で「憲法改正草案」の「第一回審査委員会」が開催された。
5/22 自由党と進歩党との連立による第一次吉田茂内閣が成立し、幣原は国務大臣となった。吉田茂内閣総理大臣の親任式が宮中の表拝謁の間で行われた。(組閣大命)
5/25 吉田茂が、天皇の御聴許に基づき、「帝国憲法改正案」を帝国議会の議に付し、同時に枢密院会議に付した。
6/8 天皇が臨席する枢密院本会議で、「帝国憲法改正案を帝国議会の議に付する」ための、(枢密院)審査委員会が作成した「同案を帝国議会の審議に委ねることを諒とする報告書」が可決され、帝国議会に提出されることになった。美濃部達吉一人が反対した。
6/19 吉田茂が天皇に開院式での自身の演説案を上奏した。
6/20 第90回帝国議会開院式が衆議院で行われた。一方、天皇は貴族院での開院式に出席し、勅語を与えた。
衆議院での憲法案審議は、議長が指名した72人の特別委員会で行われた。委員長は自由党の芦田均が選ばれた。特別委員会の審議が終了した後、
7/25-8/20 芦田均を委員長とする10名の小委員会が憲法の条項文を14回検討し、九条に2件が加筆された。つまり、
・「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」これは日本社会党の鈴木義雄の提案である。鈴木は「憲法研究会」に所属していた。124
・「前項の目的を達成するため」これは議長の芦田均によるもので、「芦田修正」と言われる。芦田は1957年にその解釈を変更し、「自衛のための戦力は持てる」という意味だったとした。
8/21 衆議院帝国憲法改正(特別)委員会が同小委員会の修正案を承認した。
8/24 衆議院本会議で2/3以上の多数で可決した。
8/26-8/30 貴族院で質疑応答が行われた。
8/30 (貴族院の)特別委員会に付託された。特別委員会は45人で構成され、委員長に安倍能成が互選された。
9/2-10/3 貴族院の特別委員会で審議が行われた。
10/3 同委員会が修正可決した。(AIによれば、貴族院での修正は、文民条項と普通選挙の保障などである。)
10/5, 6 貴族院本会議で審議・議決された。
10/6 衆議院に回付された。
10/7 衆院本会議で2/3以上の多数で可決され、貴族院の修正に同意した。
その後、枢密院に諮詢され、枢密院の審査委員会が2回開催された。その時の政府側委員の一人である金森徳次郎国務大臣は、松本烝治国務大臣が辞職後に公職追放となった後、松本の役割を代わった。
10/29 枢密院本会議で、天皇臨席のもと、同審査委員会の、「帝国議会での修正報告」を全会一致で可決した。
11/3 憲法公布の宮中儀式
11/3 各新聞がマッカーサーの声明を掲載した。南原繫総長が東大での憲法記念式典で講演したことを天皇に報告した。
11/4 天皇が米新聞のインタビューに応じた。
11/5 天皇が伊勢神宮、神武天皇山稜、大正天皇山稜に勅使を派遣した。
11/6 天皇が明治天皇山稜に勅使を派遣した。
感想 戦前は、民衆が選出する衆議院よりも、貴族院や枢密院が上位に位置されていることがわかる。衆院の議決を貴族院がチェックし、その結果を衆院が再可決し、さらに枢密院がそれを認可するという。
明治当初は政治の仕組みを定める憲法もなく、憲法作成の過程では民衆の意見を取り入れず、ようやくできた憲法の仕組みは、「政治は金持ちがやるから、貧乏人は口出しをするな」というものだった。政治を貧乏人にまでに広げたのは、民衆運動の成果だったのではないか。
AIからは出てこない鈴木貫太郎と幣原喜重郎との関係
085 1931年3月10日、幣原喜重郎は、侍従長の鈴木貫太郎を天皇との会見に同席させるように申し出た。
鈴木と幣原とのコンビは、鈴木貫太郎が幣原内閣時の枢密院議長となり、憲法九条と日本国憲法の成立に重要な役割を果たした。
086 『昭和天皇実録 第五』によると、1931年3月9日、総理大臣臨時代理の任を解かれた幣原が外相として天皇に謁見し、10日、ロンドン海軍軍縮条約の批准の報告をしたが、その時、「幣原の願い出により、特に侍従長鈴木貫太郎が侍立する」と記されている。幣原喜十郎と鈴木貫太郎との信頼関係が築かれていたことを思わせる。
112 1945年12月12日、戦争犯罪人として逮捕された枢密院議長・平沼騏一郎が辞表を出したため、12月15日、幣原首相は、鈴木貫太郎を内大臣室に呼び出して、枢密院議長就任を依頼して承諾を得た。天皇の意思も働いていたと思われるが、同日、表拝謁の間で鈴木貫太郎の枢密院議長親任式が行われた。*
大日本帝国憲法を改正するためには、最初に枢密院で「憲法改正草案」が裁可されなければならなかった。
260 *天皇も大いに賛同して鈴木を参内させ、枢密院議長就任を懇請した結果、45年12月15日、親任式が行われた。
261 鈴木が枢密院議長であったことは、憲法改正草案の枢密院における審査の裁可を容易にした。枢密院では、鈴木議長が指定した「帝国憲法改正案を帝国議会に付する」ための審査委員会によって審査が行われ、改正案を帝国議会の審議に委ねることを諒とする報告書が作成され、1946年6月8日、天皇が臨席する枢密院本会議で、美濃部達吉一人が反対したので全会一致にはならなかったが、可決され、帝国議会に提出されることになった。
枢密院での憲法改正草案の裁可を果たした鈴木貫太郎は、6月13日付で枢密院議長を依願免官し、千葉県の野田市関宿に帰り、全くの野人となった。79歳であった。
Wikiによれば、このとき「6月3日、鈴木貫太郎は、公職追放令の対象になり*、枢密院議長を同副議長の清水澄に譲り辞職し、郷里の関宿町に帰った」(『鈴木貫太郎伝』1960)とある。
ところでこの清水澄は、Wikiによれば、「日本国憲法の施行後の1947年9月25日、国体の危機を憂えて自殺した」とある。
Wikiと本書の書き方の違いを意識する。
第Ⅱ部 憲法九条幣原喜重郎発案否定説への批判
第8章 幣原内閣閣僚の幣原発案肯定者と否定者
第9章 憲法九条幣原発案否定説への批判
感想 2026年8月28日(金)
憲法九条の構想を当時の首相・幣原喜重郎が発案してマッカーサーに伝え、それにマッカーサーが共感し、天皇も了承し、マッカーサー・ノートとなって、GHQ民政局が成文化したという説に反対する人たちが大勢いる。その反対する人たちを突き動かす要因は、本書「第9章 憲法九条幣原発案否定説への批判」を読んでみて、アメリカによる占領支配を受け入れがたいと思う心情なのだろうと想像します。
このことは南京虐殺事件の事実を否定したり、従軍慰安婦の存在を否定したりする人たちを突き動かす要因と共通するのではないかと思いました。
その人たちが推論を間違う原因はいくつか考えられます。
・史実を挙げて論証しない。
・当時の厚生大臣・芦田均の思い違いや間違いを含む『芦田均日記』に基づく。
・幣原の当時の沈黙の理由を理解できない。366
・国務大臣単独輔弼責任制に対する理解の不足361, 366
・幣原とマッカーサーとの会談は二人だけで行われたので証人がいない。
本書は、幣原九条発案説12人、マッカーサー・幣原合作説3人、幣原九条発案説に近い説2人、幣原九条発案否定説11人を挙げている。
加藤典洋が幣原九条発案説否定論者の一人であったことを知ってがっかりしたが、五百旗頭真はしっかり真実を押さえていてほっとした。加藤典洋は「幣原が後年に自らの戦力放棄という発言を覆した」と捏造までしている。385
日本の首相として「軍備をもたない」とは言えなかった。それで幣原はマッカーサーに言わせることにした。それはポツダム宣言にも合致していて、ソ連を含めた国際社会に受け入れやすい内容だった。
幣原九条発案説を証拠づける資料としては、
・『マッカーサー大戦回想録』
・平野文書(鉄筆編『日本国憲法――9条に込められた魂』鉄筆文庫2016)
・入江俊郎法制局長官の記録
・佐藤達夫法制局次長『日本国憲法成立史』(全四巻)、『日本国憲法誕生記』283
・幣原の天皇への報告を記録した『昭和天皇実録 第十』340
・ホイットニーの証言『日本におけるマッカーサー
―― 彼は我々に何を残したか』354
・「羽室メモ」は、大平駒槌が幣原の戦争放棄論には反対だったため、天皇制維持が第一、戦争放棄は二の次347としていて、幣原の真の考えを伝える点で、不完全でバイアスを含む。「羽室メモ」は、幣原が親友の大平駒槌に語り、それを大平が三女の羽室ミチ子に語ったことを羽室ミチ子が記録したものである。323, 329, 345, 346, 356, 377
憲法九条幣原発案説を否定する人たちの心情は、アメリカによる占領支配を受け入れがたいという思いが強いのだろうと先に述べたが、戦前の天皇の神格性の下での、戦争まっしぐらの言論統制は良いことだったのか。アメリカは原爆を投下し、焼夷弾を日本中にばらまいたが、――それも早くにポツダム宣言を受諾していたらなかったことなのだが、――アメリカが日本の女性に参政権を付与し、天皇の神格性を否定し、法律の制約を受けない基本的人権を認め、そして世界の人々と仲良く平和に暮らしてゆくための道筋を示してくれたことに対して、日本人はアメリカ人に感謝すべきではないのか。トランプとは別問題として。
次に五百旗頭真の言葉が幣原喜重郎の立場をよく表現しているので紹介します。
「幣原首相は病の床から再起して自らの望みであった『民主主義、平和主義、合理主義』の憲法を後に残すことによって…『野に叫ぶ民の声』*が求めたものに応えたと言えよう」250, 394
「幣原首相は『ガンベッタの如くに』*すべてを飲み込んで沈黙をもって耐える覚悟が、予感の自己実現に文字通りなってしまった。それは無念であったか。たしかに日本の自主性とプライドからいえば、無念であった。しかし、飲み込んだ内容は幣原自身の戦前来の外交路線に支えられ、その延長線上に開花する路線に他ならなかった。1930年代に敗退したかに見えた幣原路線を、幣原自身の手で戦後に逆転勝利させ成就させることを意味したのである。」249, 395(『占領期――首相たちの新日本』講談社学術文庫2007)
*「野に叫ぶ民の声」とは幣原が8月15日に電車の中で聞いた某庶民の声。「…おれたちは知らん間に戦争に引き入れられて、知らん間に降参する。怪しからんのは我々を騙し討ちにした当局の連中だ。」幣原喜重郎『外交五十年』中公文庫1987、読売新聞社1951
*ガンベッタは19世紀半ばのフランス第二帝政下に反体制運動を展開した政治家。共和制の確立を目指して首相になるも、左右両陣営の攻撃により短期間で辞職させられた。
メモ
286 金森徳次郎は1934年7月、岡田啓介内閣の法制局長官となったが、翌35年、美濃部達吉の天皇機関説事件のあおりで、著書『帝国憲法要綱』に天皇機関説的な説明があると右翼議員からつるし上げられ、1936年、岡田内閣が二・二六事件に遭遇する一月前に法制局長官を退官させられた。戦後は吉田内閣で憲法改正案を議会で審議・可決させるための議会対策用の国務大臣として起用された。
291 1953年12月15日、岸信介を会長とする「自由党憲法調査会」が発足し、憲法改正にむけた動きが活発化した。
299 吉田茂外務大臣の『回想十年』を、「憲法九条マッカーサー発案説」の根拠として引用する研究者が多いが、吉田の説は「マッカーサー・幣原合作説」である。
308 平野三郎『天皇の象の肉』
310 『幣原喜重郎』幣原平和財団
313 殆どの憲法学者は平野文書を無視してきた。
314 「平野文書」は、高柳賢三・憲法調査会会長から依頼されて平野が作成したもので、正式のタイトルは「昭和39年1964年2月 幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について――平野三郎記」である。
315 平野文書には幣原から聞き取ったメモがなく、殆どは思い出して報告書にまとめたものである。
316 しかし平野本人はメモを取ったと言っているが。
330 「幣原は『…マッカーサーは急に立ち上がって両手で手を握り涙を目にいっぱいためてその通りだと言い出したので幣原は一寸びっくりした』という」(「羽室メモ」225)
330 「幣原さんは天皇制を維持する事に努力をされたが、それは当時日本全体の国民感情からそうしなければならなかったので、…私的に天皇御自身の御幸福という点に於いては、御退位遊ばされる事が一番よいと考えていられた。」(「羽室メモ」)
331 憲法調査会会長の高柳賢三は1958年末渡米してマッカーサーに会おうとしたが拒絶され、文書で質問して回答を得た。
333 服部書(服部龍二『幣原喜重郎と二十世紀の日本――外交と民主主義』2006)では、マッカーサーが幣原に「Moral Leadershipを握るべきだと思う」と言ったところ、幣原が「誰もfollowerとならないだろう」と答え、それに対してマッカーサーが即座に「followersが無くても日本は失うところがない」と切り返したとするが、幣原がそう言った事実はない。
幣原が「followerがない」と言ったとする根拠は、幣原のマッカーサー面会2/21後の2月22日の閣議報告を聞いた芦田均の日記『芦田均日記』に基づくのだが、それは誤解である。入江書には、幣原が「followerがない」と言ったという記述はない。
335 幣原は閣議で、マッカーサーが「followersがいないかも知れないが、日本は失うところがない」と言ったと報告したが、芦田はそれを幣原が言ったのだと誤解したのではないか。
また幣原は3月20日の枢密院本会議で憲法改正要綱を説明する中で「戦争抛棄は正義に基づく正しい道であって、日本はこの大旗を揚げて国際社会の原野を単独に進んで行くのである。その足跡を踏んで後方より従ってくる国が有っても無くても、顧慮するに及ばない」と明言している。258
342 幣原は2月21日以降の閣議で、「憲法九条の発案者は自分だ」と唱え続けてはいないが、それは松本の手前があるからである。
343 幣原は閣議でアメリカの交付案に対する意見や態度を表明しなかった。
359 隣室にいた1/24ホイットニーが、マッカーサーと幣原との会談を踏まえて、マッカーサー・ノートを指示したことを回想録に書いている。203
361 幣原と親交があったという柴田隆の雑誌掲載の文章があり、その中で「『外交五十年』は幣原の本心から書いたものではなく、『勝者の根深い猜疑と弾圧を和らげる悲しき手段の一つなのだ』と幣原が懇々と語った」と言うが、
363 幣原は1932年、井上日召の血盟団事件暗殺のリストに入れられ、1936年の二・二六事件でも、反乱軍の襲撃リストに入れられ、駒込警察署長の要請で、鎌倉の別荘に避難したことがある。幣原は右翼や軍の暗殺の脅迫に屈することがなかった。幣原はマッカーサーやGHQの圧力に屈するような男ではない。
天皇が新憲法案を裁可したので、幣原は3月20日の枢密院本会議から自説を語り始めた。
新憲法は日本の法制度に基づいて決定されたのだから、マッカーサーが自己弁護のために憲法九条幣原説を偽造する必要はなかった。
378 マッカーサーは朝鮮戦争後の1955年1月27日、ロスアンゼルスの市民午餐会で「人類の国際的手段としての戦争放棄」を主張している。これは日本を再軍備させたことに対する自己弁護などではない。
387 対日理事会第一回会合は1946年4月5日、東京・丸の内の明治生命ビルで開催され、マッカーサーが挨拶した。そこでマッカーサーは憲法九条幣原発案を示唆した。これは朝鮮戦争以前のことである。
392 五百旗頭真は「第一に天皇制護持、第二に戦争放棄」という二段階説を取るが、それは羽室メモに基づいている。一方、平野文書はどちらを優先するかではなく、同時である。マッカーサーは天皇制の存続を考えていた。それを米政府や連合国に認めさせるために戦争放棄と軍備全廃を想定することが有効だと幣原が提案し、マッカーサーが渡りに船と同意した。172, 173
393 マッカーサーは天皇制存続を第一に考えていた。その証拠は、その日の深夜に幣原との話の結果を電報で米政府に送っていることに現れている。188
396 五百旗頭書は「日本の自主性とプライドから言えば無念であった」と述べているが、幣原には「戦争放棄は正義に基づく正しい道であって、日本はこの大旗を掲げて国際社会の原野を単独に進んで行くのである」258という強い理念があり、「百年後には私たちは予言者と呼ばれますよ」(『マッカーサー回顧録』下)という未来への確信があった。178
メモ
終章 憲法九条に託した幣原の平和思想
398 平野文書は改憲論者だけでなく護憲論者からも無視されて来た。
436 憲法学者、政治学者、国際関係論や国際政治史の学者は、平野文書をほとんど無視してきた。
399 1 幣原が憲法九条に込めた核兵器廃絶の願い 平野文書から
410 2 核兵器禁止条約が国際法に――「百年後には私たちは予言者と呼ばれますよ」
411 核兵器禁止条約発効から二年目の2023年1月現在、署名国92か国、締約国(批准国や加盟国)68か国に達し、2023年6月、第一回締約国会議でウィーン宣言「核兵器はいまや国際法によって明示的かつ包括的に禁止された」を発出し、核兵器の保有は国際法に違反すると規定した。
412 3 幣原が憲法九条に込めた日本国民へのメッセージ
415 貴族院本会議(昭和21年8月30日)での幣原の演説は感動的である。拍手も起こった。
422 4 九条の理念を「地球平和憲章へ」
422 チャールズ・M・オーバービーは1991年1月3日、アメリカで「第9条の会」を設立し『地球憲法第九条』を出版した。
423 ジャン・ユンカーマンは2005年「映画 日本国憲法」を製作した。
423 「憲法9条をノーベル平和賞に推す神戸の会」の活動や、ケン・ジョセフ・ジュニア、荒井潤『憲法シュミレーションノベル KENが「日本は特別な国」っていうんだけど…』(トランスワールドジャパン2017)の中の「平野文書をユネスコ世界遺産に登録しよう」という運動は、幣原の平和思想を継承している。
423 太田光・中沢新一『憲法九条を世界遺産に』集英新書2006
423 古賀誠『憲法九条は世界遺産』かもがわ出版2019
424 門真市民(酒井則之・戸田伸夫)の「幣原喜重郎生誕150年記念事業実行委員会」は、ドキュメンタリーDVD映像作品『しではら――かどま市が生んだ日本の総理』(斎藤勝・堀尾輝久)や、パンフ『戦前・戦後 平和に人生をかけた第44代内閣総理大臣 大阪・門真出身 幣原喜重郎』や、「平和の願い 門真市が生んだ、平和を願う総理大臣がいた――演劇&クラシック音楽で語るその生涯」2022を発表した。
427 酒井則之『幣原喜重郎とその時代を探る――新しい「不戦の道」を提案した「公直無私」の宰相』清風堂書店2022
427 堀尾輝久「いま、憲法を考える――9条の精神で地球憲章を!」(『季論21』2017夏号)によれば、堀尾は2015年9月、「9条地球憲章の会」を創設し、
429 「地球平和憲章 日本発モデル案 地球上のすべての人々に平和に生きる権利を 地球時代の視点から9条理念の発展を」を発表2020.4し、出版(花伝社2021)した。
431 おわりに
433 1946年3月6日、天皇は幣原内閣が作成した「憲法改正要綱」を帝国憲法改正案とする勅語を発した。
434 笠原十九司『増補 南京事件論争史――日本人は史実をどう認識してきたか』平凡社ライブラリー2018
435 『昭和天皇実録』
435 現在も「幣原発案」が通説・定説になっていない。
439 渡辺治『日本国憲法「改定」史』、『憲法9条と25条・その力と可能性』(生活保護、朝日訴訟)
439 伊東真『やっぱり九条が戦争を止めていた』
440 私は中国近現代史が専門で、日本史の専門ではないが、九条発案者が誰かを「永遠の謎」のままに放置しておいていいのかと思った。
442 荒井潤から平野文書(の存在)を教えてもらったのが本書執筆のきっかけだった。
以上