2019年9月2日月曜日

中国侵略の証言者たち――「認罪」記録を読む 岡部牧夫、荻野富士夫、吉田裕 編 岩波新書 2010 要旨・抜粋・感想


中国侵略の証言者たち――「認罪」記録を読む 岡部牧夫、荻野富士夫、吉田裕 編 岩波新書 2010


はじめに  編者

i 1956.6~7、中華人民共和国で45人が起訴され、戦犯裁判が行われた。中華人民共和国で戦犯になったものには二種類あり、

・満州を占領したソ連軍が自国に連行し、1950年に中国に引き渡した者が969人、
・敗戦後山西省に残留し、国民党の閻錫山(えんしゃくざん)軍を助けて共産党軍と戦い、共産党軍の捕虜になった者が140人、
合計1109人である。

 起訴されない者でも戦犯と呼ぶのは、当時の中国の戦犯定義に従った。
ソ連がどういう基準で969人を選んだかは不明である。
戦犯は自筆供述書を書き、手記を発表した。

ii 起訴された45人の供述書の一部はすでに紹介されていた。新井利男・藤原彰編『侵略の証言――中国における日本人戦犯自筆供述書』(岩波書店、1999)である。

歴史
日本は日露戦争後、ロシアの権益を受け継ぎ、遼東半島(関東州)の租借権、東清鉄道南部線の長春―大連間の経営権を継承し、関東都督府、南満洲鉄道株式会社、関東軍などを設置した。
1920年代になると、中国では、労働者・学生・民族資本家などによる反帝民族運動が高まり、日本の権益伸張政策は行き詰った。

1931.9、日本は東北三省を占領した。
1932.3、日本は「満州国」をつくり、長春は新京と改名され、首都となった。

iii 日本は、軍閥と国民党の圧制に反対し、満州の分離・独立をめざす中国人勢力が満州国を建国したと主張したが、実は、満州事変は関東軍が軍中央部の暗黙の了解の下に行った侵略戦争であり、国際法違反だった。
しかし大多数の日本人は、中国側による日本の権益侵害に対する自衛行為だとする軍部の宣伝を信じて、事変を歓迎し、政府も軍部をおさえず追認した。

総力戦としての第一次大戦は、平和維持の国際連盟を創始した。日本はその原加盟国だった。
iv ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ロシアなどにより支配されていた異民族被支配者は、反帝国主義と反戦の意識を強めた。

国際連盟規約は冒頭で、「締約国は戦争に訴えざるの義務を受諾し、」それを無視して戦争に訴えた加盟国は、他のすべての加盟国に対して戦争行為をなしたものと看做され、制裁が加えられることになった。(第16条)
 旧来は戦争を主権国家の権利と看做していたが、今度は、集団安全保障に基づく戦争違法化の法理論が登場した。これは、19世紀の帝国主義、植民地主義の終焉を意味した。

 ヴェルサイユ条約後の国際秩序を協議したワシントン会議は、中国の主権、独立、領土的・行政的保全の尊重を約束し、1922、日本も参加して、「中国に関する九カ国条約」を結んだ。

v 1928、戦争をすべて違法とする「戦争放棄に関する条約」(不戦条約)が締結された。締約国が国際紛争解決のため戦争に訴えることを非とし、国家の政策の手段としての戦争を放棄し、締約国間に生じる紛争は、その性質・原因を問わず、平和的手段以外には解決を求めないとした。日本も翌年1929年これを批准した。ただし、当初から英仏は広義の自衛権を留保した。

 満州事変と満州国建国は、時代錯誤の侵略行為であり、国際法への挑戦であり、国際的に承認されることはありえなかった。
中国の提訴を受けた国際連盟理事会が派遣したリットン調査団は、1932.10、満州の分離・独立を認めず、広範な自治権を持つ地方政府を樹立することが現実的だと示唆する報告書を提出した。翌年1933年、連盟総会は同趣旨の勧告案を、日本以外の42カ国の賛成で可決し、日本は脱退を通告した。
 日本は、柳条湖事件の発端は中国側の満鉄線爆破であり、満州には以前から独立運動が存在したと二重の嘘をつき、傀儡政権を操縦して満州を排他的に支配した。これはかつての植民地獲得競争時代の膨張手段に比べても非道徳的であったが、一般の日本国民は真相を知らされなかった。

感想 全く海外の情報が届かないということはないのではないかと思うが、どういう状況だったのか、新聞などで当時の状況を調べてみる価値がある。

vi 1945.8、日本は米英中三国のポツダム宣言を受諾し、1946.5、東京裁判が始まった。

日本敗戦時の中国の統治権は、いくつかの場所に別れており、しかも流動的だった。

・日本軍とその傀儡政権の支配地域
・中国の正統権力として国際的に承認された国民党・国民政府の支配地域
・共産党の掌握する抗日根拠地や共産党系軍隊の遊撃地
・満州のソ連占領地

そのため戦犯裁判のやりかたも、時期と場所によって異なる。自然発生的な人民裁判も行われた。国民党・共産党支配下の初期の裁判には不明な点が多い。

vii 中国は「満州国」を「偽満」と呼んで、日本の政策とそれに協力した中国人を厳しく批判した。ところが1950年~56年のこの裁判は人道的だった。
厳罰を望む被害民衆を説得し、地味な証拠を収集して事実を確定し、戦犯に対して徹底的な教育をして「認罪」を引き出し、寛大な処遇・刑罰を与えた。

 一方、連合国や国民政府の裁判は、報復主義や拙速に傾き、証拠・証人の確保が難しく、批判も多い。

 戦犯管理所は、罪の自覚と認罪の喚起に努め、それをもとに供述書の執筆と推敲の反復を促し、被害者の証言や「満州国」関係の公文書などをつき合わせて、何度も確認作業を行った。検察も裏づけを取り、最終的な供述書が作成され、それを公判の重要な証拠とした。判決も最大が禁固20年で、死刑は一人もいなかった。未決拘留期間を差し引かれ、ほとんどが刑期満了前に釈放され、帰国した。

 戦犯自身の多くは、帰国後、中国帰還者連絡会(中帰連)を組織し、認罪過程の証言活動を続け、その結果、『侵略の証言』の中で供述書の一部が公表された。
 2005年、駐日中国大使王毅氏の努力で、起訴された45人全員の自筆供述書がCD‐ROM版で中帰連に提供された。
viii 2005年、中国でその影印版『日本侵華戦犯筆供』全10巻(中央档案出版社)が刊行された。このような資料が提供されたことを受け、2006.3、『侵略の証言』に関わった私たちが、新しいメンバーを加えて、研究会を組織し、本書を計画した。


第1章 「謝罪」への道――撫順・太原戦犯管理所における体験 豊田雅幸・張宏波

1 撫順・太原の日本人戦犯  豊田雅幸

感想 周恩来の寛大な措置026は、中国の最初からの方針ではなかった。当初は厳しかった。1948年の岸などA級戦犯の釈放に際しては、裁判権を主張していた。021天皇の裁判権022も主張していた。
ところが朝鮮戦争が終結し、世界が安定化してくると、中国は国交を樹立することを重視するようになった。国際社会で孤立することを恐れたのだ。当初は、戦犯問題の処理は国交樹立後と考えていたが、日本が応じなかったので、事情は明らかでないが、寛大な措置を取るようになったようだ。


003 東北部以外の日本軍の武装解除は、国民政府の管轄となった。東北部はソ連の管轄であった。
「通例の戦争犯罪」の裁判は、国民政府が担当することになった。中国共産党は、自己の勢力範囲の日本軍の受け入れと武装解除を試みたが、国民政府が認めなかった。

 ソ連側は中国への戦犯移管を、新中国の建国直後から申し入れていた。
1949年末から1950年初頭にかけて、中ソ友好同盟相互条約締結交渉のために毛沢東らが訪ソしたとき、戦犯移管の交渉もしたが、中国側は、国民党の残存勢力の処理や、法律がまだ整備されておらず、裁判の準備ができていないとして断った。(殷燕軍『日中講和の研究』柏書房、2007

004 1950.7.18、溥儀など満州国関係戦犯や日本人戦犯969人が、ソ連から引き渡された。1954年までに34名が死亡した。
005 日本人戦犯の半数以上は、1945年、北支那方面軍から関東軍に転属したばかりの部隊で、第59師団、第39師団、第117師団、第63師団がその中心だった。

 山西省などで共産党軍に逮捕された人々

その大多数は、山西省の軍閥閻錫山の求めに応じて、帰国せずに残留し、閻錫山軍と共に共産党軍との内戦を戦った人たちである。彼等は、日本帝国復興のために山西省を確保したかった。日本軍第一軍の幹部は、兵隊に残留を強制した。総数2600人である。(奥村和一・酒井誠『私は「蟻の兵隊」だった――中国に残留された日本兵』岩波ジュニア新書、2006
 技術者や商人など民間人も多数残留した。(「山西残留」)
006 1949.4、太原が共産党軍に包囲され、陥落した。太原を中心とした各地の施設に収容された。

 内戦が継続中で、統一した戦犯政策が整備されておらず、町の修復工事に従事した者や、釣りや碁をしてのんびりしていた者や、厳しい炭鉱労働に駆り出された者や、技術者として高い賃金を支払われていた者や、逮捕されずに露天商などをして民間人として過ごした者もいた。

 1951.4、中国各地に点在していた日本人は、朝鮮戦争の影響で、河北省永年県の共産党軍の永年軍事訓練団(永年)に、順次収容された。山西残留に関与して各地に収容されていた捕虜や未収容の元兵士、その家族や民間人も含めて、すべて収容された。
被害者の苦悩を知り、労働の尊さを教える教育としての労働、皇国思想を相対化するための学習、戦時中の自身の罪行を書き出す担白(タンパイ、自白)が行われた。

007 罪行が重く反省もしない者を中心に隔離するための直属中隊が作られ、ここに収容された100名余が戦犯として1952.11、太原戦犯管理所に移管された。

 その他の比較的軽い罪、認罪・反省が進んだ600名とその家族が、河北省の易県の西陵農場に移送され、比較的自由に学習や文化活動をし、1953年から54年にかけて順次帰国した。023

 太原戦犯管理所には最大140人の日本人戦犯が収容されていたが、うち16人は、山西残留以外の国内逮捕者で、内訳は、敗戦後も国民政府に協力し続けた特務機関員8人や民間人1人、各地で逮捕された軍人7人(うち4人は、関東軍731部隊の関係者だったので、撫順戦犯管理所へ移管された)だった。

008 起訴された45人

①陸軍関係(瀋陽法廷) 起訴理由は、指揮命令責任、毒ガス(船木健次郎)、731部隊(榊原秀夫)、多くの捕虜や一般住民の惨殺(鵜野晋太郎)だった。
鵜野晋太郎は、帰国後に手記を著し、「自ら手を下した者44名、その中で、軍刀での斬殺42名、ピストルでの射殺2名」としている。(鵜野晋太郎『菊と日本刀(上)』谷沢書房、1985

009 「満州国」関係(瀋陽法廷) 起訴対象者は、武部六蔵、古海忠之、中井久二などの高等文官と、岐部与平、杉原一策、横山光彦など、さきの高等文官が審議・立案した政策・法令の、実施上の指導者と、溝口嘉夫(検察官で、執行の許可が出る前に既決犯を処刑する命令を下した)と、憲兵関係、鉄路警護軍関係、警察関係者である。

013 ③特務間諜関係(太原法廷) 富永順太郎一名で、富永は、敗戦前は情報宣撫工作、特務活動に従事し、敗戦後は、国防部第二庁北平工作隊を組織した。

016 ④山西残留関係(太原法廷) 城野宏と永富博之は残留工作の首謀者であり、相楽圭二、菊地修一、住岡義一らは、後任の参謀クラスだった。
また、敗戦以前の行為も問われた。陸軍の永富や住岡、警察の大野泰治や神野久吉らは、残虐行為を、地方政府顧問の笠実は、食糧収奪やスパイ摘発、住民虐殺を問題視された。

 犯罪の枠組みは、帝国主義侵略戦争への加担、国際法と人道の原則違反、スパイ活動、満州での侵略政策であった。
017 個々の被告毎の主要犯罪事実は、捕虜や一般住民の殺害、女性に対する性暴力、一般住民や捕虜の軍事的労働への使役、無人区(無住地帯)建設にともなう住民の放逐、毒ガス戦、細菌戦、人体実験などであり、憲兵・警察関係者では、逮捕・拷問、殺害などである。

018 満州国次長会議(火曜会)が、満州国の政策・法令・予算・人事などの決定機関であったことが明らかにされた。
 山西残留組は、敗戦後の、共産党との戦いで敗色が濃くなったとき、日本国内から義勇軍を募集した点を問題視された。

 BC級裁判は、米英蘭豪などが行ったが、中国の裁判は次の点でこれと異なる。
第一に、満州国の植民地政策や敗戦後の残留問題も対象にしていた。
019 第二に、BC級裁判では、下士官や兵からも被起訴者が出ているが、中国では、階級や職位の高い人が主に裁かれ、また人数も少なかった。
020 第三に、BC級裁判では、拘留中に暴行され、人定誤認があり、証拠・証人・通訳・弁護人が不十分だったが、中国ではそれがなく、公正であった。
 第四に、BC級裁判では、憲兵の下士官に厳罰が下された(林博史『BC級戦犯裁判』岩波新書、2005)が、中国では、上官が裁かれ、罰も禁固8年から20年と軽かった。また刑期には判決前の拘留日数一日が、刑期一日として算入され、多くの者が刑期満了前に釈放された。
 第五に、中国では、犯罪を告白し、裁判で犯罪行為が争われることはなかった。量刑は裁判が始まる前から決まっていた。

021 中国共産党の戦犯処罰方針は、当初厳しかった。
 1945.9.14付『解放日報』社説は、「厳重に処罰してこそ、平和と安全の強固な基礎を築くことができる」とし、処罰の対象に天皇も入れた。
 1948.12.14、中国共産党は、岸信介らA級戦犯が釈放されると、アメリカに対して、戦犯の処罰が不徹底であるとし、釈放したA級戦犯に対する裁判権を主張した。国民政府に対しても、裁判の不徹底をたびたび非難し、『解放日報』で重要戦犯とされていた、支那派遣軍総司令官・岡村寧次(やすじ)への無罪判決とともに、岡村と既決戦犯260名が日本に送られると、再審の権利と戦犯の引渡しを何度も要求した。
022 中華人民共和国建国後も、ソ連と共に、東京裁判で起訴されなかった、天皇と細菌戦関係者を裁判にかけることを要求し、巣鴨プリズンに拘禁されている既決戦犯釈放の動きを批判した。
 朝鮮戦争が始まり、重光葵(まもる)が仮出所し、中国とソ連を除外して、対日講和構想が表面化すると、戦犯の釈放は日本の侵略勢力の再建に当たるとし、処罰の厳格化を繰り返し求めた。

 中国国内の日本人戦犯の存在とその処遇については、しばらく公にされていなかったが、1952.12.1、北京放送が、日本人居留民の帰国問題や、戦犯の存在と裁判予定について放送した。
 1954.7.29、中国紅十字会会長の李徳全は、訪中していた日本平和代表団に、「各種の罪を犯した元日本軍人の中の一部のものは、中国人民解放軍の寛大な政策によって、寛赦されるかもしれない」と伝えた。(外務省アジア局第二課『中共対日重要言論集』1955
1954.8.19、中国人民政府革命軍事委員会総政治部が、417名の「戦犯」を釈放した。
 しかし、これは「西陵農場」に収容されていた人たち007で、戦犯管理所に送られた人たちではなかった。またこれは一般の居留民でもなかった。(罪は軽くても全く無罪ではなかった。)
 中国国内では同年1954年初頭、戦犯の処遇方針が決定され、それに基づいて取調べが始まり、日本人「居留民」の帰国に対する返礼として、中国紅十字会の日本招請を求めていたらしい。
 それで、態度を決めていなかった日本政府も、中国紅十字会の招請を決定した。
 1954.10.11、国務院総理の周恩来は、訪中していた日本の国会議員団と学術文化視察団に、「中国紅十次会の訪日の際に、戦犯問題が話し合われる予定である。戦犯に対しては、人民解放軍の歴史的な伝統に基づき、寛大政策がとられている。確かに戦犯の中には特に重大な人がいて、これは事情が違い、別の処理を研究しているが、大多数の者には、寛大な政策を取る」との方針を示した。(『世界』1954.12)また、議員団に撫順戦犯管理所の参観を許可し、管理所での生活の様子を明らかにした。
024 1954.10.30、李徳全を代表とする中国紅十字会が訪日し、このとき、日本人戦犯の名簿が日本側に手渡され、生存者1069名、死亡者40名という情報がもたらされた。また寛大な措置による絶対多数の者の帰国について記した覚書が、両国間で交わされた。

国交正常化問題

 朝鮮戦争終結後、世界は安定化に向かい、日中民間交流も進み、中国は国際社会での孤立を恐れ、平和共存に舵を切り、日本との国交正常化を望むようになった。
025 1954.12.30付けの『人民日報』の社説「日本と中国との関係の回復について」は、戦犯問題の処理は、「正常関係回復のための真の努力であり、そのための具体的措置」として位置づけていた。
 しかしこういう中国の働きかけに対して日本政府は動かず、中国の言う、戦犯に対する寛大な措置も実現しなかった。
 ところが日本側は、1955.7、戦犯を含めた日本人居留民の帰国をうながすための政府間交渉を提案した。
しかし、日本側はその時国交正常化は棚上げにし、一方中国側は、戦犯処理は中国の主権の問題であり、国交正常化こそ先決問題だとしたため、結局この話は1955.11に頓挫した。
 しかしそれ以降、中国はこれまでの態度を変えた。
 1955末、毛沢東や周恩来は、訪中した社会党の片山哲元首相や日本記者団に対して、戦犯600名から700名を釈放すると表明した。

026 1955末から1956初頭、周恩来主催の中央政治局会議(党中央)は、日本人戦犯に対する寛大処理の原則を決定した。つまり、判決は軽く、一人の死刑も無期懲役も言渡してはならないとするものだ。
 しかし当初は被告の数が100名を越え、死刑や無期懲役も想定されていた。中国人民の義憤を抑えられないとして、党中央の方針に対する不満や抵抗があったからだ。
一方、党中央は、工作をして、自らの方針を貫徹した。(大澤武司「「人民の義憤」を越えて――中華人民共和国の対日戦犯政策」『軍事史学』第44巻第3号、2008

 同年1956年4月25日、党中央の方針が、全国人民代表大会常務委員会で決定された。その理由は、「日本降伏後十年来の情勢の変化と、現在(中国が)おかれている状態を考慮し、またここ数年来の中日両国友好関係の発展を考慮し、これら戦犯に対し、それぞれ寛大政策に基づいて処理する」とした。
 寛大な処理は、日中関係を考慮した政治的判断に基づくものであった。


2 「認罪」はどのように行われたか  張宏波

感想 光文社の『三光』に出てくる物語風の記述は、撫順の管理所で、罪の自覚後に、自主的に創作活動が行われ、戯曲風にアレンジしたものらしい。
 取調べの際に本人から得られた供述を、現地の被害を受けた民衆の証言で確認し、食い違うところは再度本人に確認し、現地の証言がおかしい時は、また現地に行って確認した。

028 感想 ここの一文はすばらしい。認罪の信憑性を疑う者に対する警告である。

029 当初戦犯たちは、身分が「捕虜」ではなく、「戦犯」とされたことに猛烈な抗議をし、自分たちの行動が、アジアの解放のためだったと自らの行為を正当化し、また上層の命令に従っただけだと自己弁護をした。

 撫順と太原では管理方式が異なっていた。また階級の高かった軍人、「満州国」の高級官吏、司法官、警察官などの上層部と、尉官以下の下層部とで待遇が異なっていた。

030 撫順には969名が収容された。ソ連抑留のころ、高級軍人や行政官などは、苛酷な労働や食糧不足に苦しむことのなかった人もいた。
撫順では基本的に労働がなく、食事は質量共に充実し、管理所員の暴行・暴言もなかった。それは彼等にとって驚きだった。
撫順での認罪の経過は、反抗期、学習期、取調べ期、表現活動期に分けられる。

031 ①反抗期 彼等が撫順に収容された1950.7月下旬は、朝鮮戦争が始まって間もない頃だった。国連軍(米軍)が中朝国境近くに迫った10月下旬、戦犯を一時的にハルビンの監獄に移送した。
 最初の一年はおしゃべり、将棋、マージャンをして過ごしたが、抑留されていることに対する不満を述べ、反抗的態度を示し、日本軍時代の価値観を引きずり、中国人や共産党政府を蔑視していた。
 朝鮮戦争に中国人民志願軍が投入され、米軍が敗退したと知らされても、当初は、日本軍でさえ敗れた米軍に北朝鮮と中国が勝てるはずがないと思い込み、米軍が勝てば自分たちは解放されるかもしれないと期待していた。
032 ところが、米軍の敗北が真実であることが次第に本当らしいと気づき、新中国の強さを自覚するようになった。
このころ新聞記事を読む学習が始まり、彼等は、占領下の日本の様子、窮乏、病気で治療を受けられない孤児、米軍相手の売春婦の増加という頽廃などを知り、大和民族の優秀性という優越感にすがれなくなってきた。

②学習期 管理所が各部屋に新聞、雑誌、小説、社会科学文献などを届けると、彼等は自然に勉強を始めた。
朝鮮戦争が一段落し、少尉以下が1951.3、ハルビンから撫順に戻った後、管理所は、マルクス主義的な歴史観を要約した「社会発展史」や、レーニンの「帝国主義論」の講義を始め、その内容について部屋ごとに討論が繰り返され、「戦前の日本は帝国主義であったか」などが論じられた。
033 皇国史観しか知らなかった下士官、兵士にとって、マルクス主義的な経済や政治に関する文献は別の世界観をもたらした。貧しい農民や下層労働者だった兵士たちほど、自分たちも帝国主義の犠牲者であったという認識に目覚め、日本の戦争が侵略であったと認識するようになった。

 管理所側の人道的な待遇も、戦犯のかたくなさを和らげた。管理所側は、彼等がどんなに反抗しても、罵声や暴行ではなく、理性的に対処した。病気になった戦犯が、手厚い看護を受けて感激し、それを演説した。日本軍が病気になった捕虜に治療を施すなどは考えられないことだった。
034 ビンタなど上官から私的制裁を受け、訓練という名の殺人を強要されていく過程で、人間性を失い、残虐行為を平気で行う鬼になったが、それとは対照的に、管理所では人間として扱われた。

③取調べ期 
 1954.3、最高人民検察院東北工作団の数百名が管理所に在駐し、取調べを開始した。坦白(たんぱい)書(供述書)に、中国での自分の行動を洗いざらい書かせた。これには、半年から一年以上かかった。
当初は、命令されてやったのだから自分には責任がないという弁明書が多かった。罪に問われるのではないかと恐れ、打算や駆け引きもあった。
035 1954.4、第39師団の中隊長だった宮崎弘が集会で、如何なる罰も引き受けると、熱心に自分の罪状を告白した。初年兵に刺突をさせ、村で老人や子どもなど一般住民を刺殺して、焼き払い、柔道の首締め技で農民を絞め殺し、捕虜の少年兵を試し斬りで斬ったと、個人的な蛮行まで話した。(『私たちは中国で何をしたか――元日本人戦犯の記録』中国帰還者連絡会編、三一書房、1987
 その後、認罪とはどうあるべきかに関して、部屋ごとに討論が広まった。
036 1954.6、グループ別の認罪学習が始まった。一人ずつ認罪を発表し、相互批判した。

一方、工作員の検察官は、各地で犯罪調査を行った。日本軍の記録、報告書、「満州国」政府の公文書、新聞記事、刊行物、被害者の告訴状や証言などを集め、罪行鑑定を行った。

037 さきの『私たちは中国で何をしたか――元日本人戦犯の記録』によると、ある戦犯は、
家族の生命線である最後の小麦袋を放そうとしない老婆を殴りつけて奪い、睨みつけてきたので、軍靴で蹴り、殺して池の中に叩き込んだこと、強姦したことなどについて被害者の立場で書いた。
 個人としての責任を認め、被害者の怒りや絶望を発見し、人間としての自分に目覚め、天皇主義イデオロギーから脱し、他者の怒りや悲しみに思いをいたすことができるようになった。

038 ④表現活動期 1954年の夏ごろまでに、大半の取調べが終わっていた。
1954.10ごろ、自主的な学習委員会が組織され、創作活動や演劇などの表現活動に取り組み、どのようにして鬼になったのかに目が向けられた。この時期の作品の一部が、帰国後に光文社から『三光――日本人の中国における戦争犯罪の告白』1957として出版された。この表現活動は1955年まで続いた。

039 撫順で有期刑を受けた36名は、1人を除いて、将官・佐官クラスの、階級の高い軍人・憲兵、警察官、「満州国」の行政官・司法官などの官僚だった。
階級の高い軍人は、召集された軍人ではなく、職業軍人である。彼等においては、天皇や国体を護持しようとする信念や、中国や共産党への敵視や蔑視がより強固だった。また残虐行為を直接やったことがないせいか、罪の意識が薄かった。
他方「満州国」の行政官や司法官は、多民族からなる理想国家を建国するという信念で植民地経営に携わり、軍人ではなかったから、戦犯という自覚が全くなく、管理所にいること自体に不満を持ち、反抗的な態度を数年にわたって示した者もいた。
将官・佐官・官僚クラスは、尉官以下クラスとは別の監房に収容し、一室あたりの収容人数や、部屋の広さ、食事内容などの面で厚遇した。これはジュネーブ条約などの国際法に従うものであった。

朝鮮戦争で中朝軍が米軍を押し返す頃、管理所の提案で、1951年末、レーニンの「帝国主義論」の学習を始めた「進歩組」も現れた。

040 他方、1953.10、ハルビンから撫順に戻ってからも、マージャンなどをして遊び暮らし、管理所の対応に抗議文を提出して抵抗した「反動組」もいた。「反動組」は、独房に入れられるケースもあった。
 検察官から求められて書いた「反動組」の供述書の内容は不十分だった。詳細を記憶せず、責任感がなかった。

 「満州国」警務総局の高官だった島村三郎は、帰国後、「中帰連」の会長を務めた人だが、当初は自分のやったことを忘れていた。(島村三郎『中国から帰った戦犯』日中出版、1975
041 この『中国から帰った戦犯』によると、かつての部下14、5名の警察官から、56時間、飲まず食わず、激しい暴露と批判を受け、報告書からは思い出すことのできない(被害者の)数字に気づいた。島村は責任を警備課長のせいにしていたことに気づいた。
 島村と同室の少佐が島村に語ったところによると、同少佐は、かつての部下から、捕虜殺害の指揮を自分が取った証拠を突きつけられても、「奴等(部下)は本気で、被害者の立場を考えて真人間になるべきだと考えている、『共産党を甘く見るな(に注意せよ)』とは検察官の前では言えない」と言ったとのことだ。
042 彼(=少佐)は自殺用の首縄を準備していた。

 島村は、秘密収容所の存在や残虐な拷問・殺害などをかなりの程度自供した段階でも、本当のことを言ったら殺される、隠し切れないものだけを自白しようとした。ハルビンの管理所の指導員だった金源少佐から聞かされた言葉と同じ言葉を、いやになるほど何回も聞かされた、自分よりも責任のある上司もいたなどと考えていたと、島村は同書で回想している。

043 島村は、取調べが始まって二年経過したころ、中国全国の被害者から寄せられた、島村に対する膨大な告訴状の全てに目を通すようにと、管理所側から指示された。島村はそれを読み、被害者の気持ちが分かるようになった。自分が国家のためだと思ってやったことが、これほど中国人民を傷つけ、悲しませ、怒らせ、不幸に陥れていたのかと愕然とし、自己の行為の残虐性、侵略統治の残忍性を思い知らされた。殺されても仕方がない、それが当然だと思った、と同書で語っている。また、
 一人息子を島村によって斬殺された老婆が、島村を死刑にすることを要求する告訴状を読み、被害者の気持ちに同情し、涙したという。

 また管理所員の戦犯との人間的な交流も、認罪には役立ったはずだ。

044 太原戦犯管理所
 太原の戦犯140名は、1951.4、河北省共産党軍永年軍事訓練団に収容されていた。そこで告白を求められ、罪が重く反省に問題がある者が、1952年末、太原に移された。
 太原での待遇は、永年より悪かった。永年でも他の軍人とは隔離されていたが、ゆったりとしていた。太原の管理施設は旧日本軍の元陸軍の監獄だった。本来は独房の部屋、或いは数名を収容する部屋に、数名から19名が収容され、冬は寒く、他の部屋との交流もほとんどなく、部屋の中でも自由に話せる雰囲気がなく、入所直後から告白を求められた。
045 永年での収容期の後半の食事は、餅粟や白米、太原では、後に改善されるが、粟だった。管理所員との交流もほとんどなく、戦犯に記憶されている人は、教育担当の王振東(後の管理所長)や、日本人指導員の佐藤峰雄くらいしかいない。
 撫順では最初から党中央の指示があった。太原では1954年初頭まで、中央の指示は、大枠の方針だけで、あとは管理所に任されていた。(山西省人民検察院編『偵訊日本戦犯紀実(太原)』新華社出版社、1995
 永年収容期に「社会発展史」や「帝国主義論」などの学習があった後に、坦白が行われたが、それは管理所の主導で始められた。
046 湯浅謙は生体解剖に関わった軍医であるが、「一切の刺激のない環境で、自分のして来た行為の意味だけについて考えさせられた」と語っている。(吉開那津子『消せない記憶――日本軍の生体解剖の記録(増補新版)』日中出版、1996
 1955、集会での罪の告白が行われたが、あまり盛り上がらなかったようだ。

047 供述書を読む上での注意事項
 第一に、供述書に、殺害した人数、時間、場所などの詳細や、被害者の情報が記述されている理由は、戦犯たちが同一部隊や同一職種の同僚と話し合ったことや、告白の内容を検察官が被害地で確かめ、この裏づけ調査の結果を戦犯に見せ、異議があるときは申し出て、再調査がされたことによる。
048 第二に、太原の将官・佐官クラスが、直接残虐行為をしたと証言しているが、それは、敗戦後、閻錫山に協力して残留した軍人が、日本軍時代の階級から三段階特進して、閻錫山軍に迎え入れられたことによる。


第2章 日本は「満州国」で何をしたのか――「侵略」の証言Ⅰ 岡部牧夫・荻野富士夫

1 「満州国」高級官僚が語る財政・産業・阿片政策  岡部牧夫


感想 小利口な人はずるい。アヘンによる財政政策を推進しておきながら、アヘン政策は阿片禁断が目的だったと言う。また、中国の外貨を稼ぐためにアヘンを中国で売ろうとしたが、それがばれて失敗したという失敗談を語ってみせる。066
古海は戦犯になってから、自ら進んで反省し、重い罰を望んだというが、それは赦免のためのジェスチャーか。

そして、帰国してからは、アヘン政策が、アヘンの撲滅のためであったと嘘を言う。

古海忠之1900-1983, 052 東大。戦犯とされた人の中では満州国の実質上のトップ。* 古海は中帰連に加入したが、「中帰連」と言っても要注意だ。

*トップはいたが、脳溢血で倒れた。武部六蔵。内務官僚出身の総務長官。052


053 古海は1956.7、禁固18年*の判決を受け、7年後の1963.2月に釈放され帰国した。

*禁固8年から20年の中では、最高刑ではないが、重い方だった。

054 『満州国史』(全二巻 総論・各論、満蒙同胞援護会、1970-71)は、古海ら「満州国」関係者が戦後編んだものだ。しかし古海の供述は、この書で示されるデータとかなり違っている。
供述の中で古海は「反満抗日勢力の弾圧・掃討に関する予算を計上した。そのため、「幾多の中国愛国者が、生命までも奪われた」としている。
056 満州国は、賽馬(競馬)を開設し、収入を確保しようとした。1937
057 国債を増発し、歳入の不足分を補った。
 日満共同防衛条約により、満州国より日本に、国防費を分担させたが、日本の議会がこれを辞退したため、その金額は、関東軍の施設費に回された。
059 1937年の産業開発五カ年計画の費用を捻出するため、満洲国担当者は、財閥と組んで、満州興業銀行を設立し、長期資金を獲得しようとした。そのとき、
 日産(新興財閥日本産業)が満州に進出し、満洲重工業開発会社満業、総裁・鮎川儀介)に改組された。
 この五カ年計画は無理で、計画は実現できなかった。
060 古海の財政面での供述は、戦後のいくつかの関係書以上に詳細だ。
061 古海は『忘れ得ぬ満州国』(経済往来社、1978)を出版した。

古海は供述で、1933.2月初旬、難波経一(つねかず)を、阿片専売政策の責任者として招くことを進言したとあるが、難波経一の阿片専売政策の責任者として着任は、1932年末だと山田豪一は実証的に指摘している。*
*『満州国の阿片専売――「わが満蒙の特殊権益」の研究』汲古書院、2002

062 大同2年度とは1933.7-1934.6  大同は満州国の元号。1932.3.1-1934.3.1
063 古海「阿片を吸引させて、中国人を弱廃虚脱にさせ、反日本帝国主義的勢力の弱化をはかった。」

064 中国人大官や満洲国政府関係者、関東軍参謀長・東条英機も、阿片の即時断禁を主張した。(山田豪一『満州国の阿片専売』)

しかし満洲国政府は、即時断禁政策を打ち出さず、十ヵ年阿片断禁策を採用し、阿片関連の施策が、財政部から民政部に移管され、戒煙所や厚生院を整備することになった。

065 古海は、十ヵ年阿片断禁策は欺瞞的だとしているが、さらに次のように供述している。
1943年、東京で阿片会議を開催し、阿片政策を東亜全域に拡大する方針を決定し、蒙疆(占領した内モンゴル)にも生産地を拡大する方針を決めたと。
066 「熱河阿片、華北密輸出業者利用に依る、関東軍の華北聯銀券獲得、秘密治下工作に伴う罪行」061によれば、満州国が当時対中国(華北)で支払超過となっていたのを、密輸業者に阿片を華北で売りさばかせ、阿片代金を聯銀券*で獲得し、それを満洲中央銀行券で業者から獲得し、貿易収支を改善しようとした。
*聯銀券は華北の中央銀行=中国聯合準備銀行券
067 ところが、工作に利用した中国人がこのことをもらし、熱河省の密売取り締まり員に探知され、現地の禁煙機構の反発を受け、計画は頓挫した。
 三井物産はこの事業のために500万円を立て替え、その金がすでに阿片農民に渡っていて、回収不能だった。そこで華中占領地の阿片売買をとりしきる里見甫(はじめ)に依頼し、満州国手持ちの阿片を里見に引き取ってもらい、残りは関東軍の機密費を当てた。
 古海の供述(「経歴書」)によれば、ドイツ、日本、華中、香港との貿易決裁で、阿片を利用し、輸出した。
068 古海は、帰国後、『忘れ得ぬ満州国』の中で、供述とは異なり、阿片政策は禁断が目的だったとし、その財政目的との矛盾や欺瞞性・犯罪性については語らない。
 古海は『満州国史 各論』第7編 「財政経済」においても、「阿片専売の目的は阿片禁断であり、財政収入ではなかったから、専売利益を多くは期待しなかったが、それでも1940年禁煙特別会計として独立するまで年々増加していった。」として、阿片政策の財政目的を否定しつつ、実際は財政目的に寄与したことを認めている。
 また、山田豪一の『満州国の阿片専売』*によれば、石原莞爾が構想した「満蒙統治方策案」1931.10.1では、「満蒙総督府」の当初歳入8000万円のうち1000万円(12.5%)が阿片税であった。
そして、1932年7月、大蔵省は、国有財産課長・星野直樹や、管財局事務官・古海忠之らを「満州国」に派遣し、「満州国」の建国公債引き受けの担保として阿片収入を想定したため、専売制度の構想が浮上し、1932年9月に、財政部に、専売籌(ちゅう)備(準備)委員会が発足したと指摘している。しかし、古海の供述書は、この事実をぼかしている。

*江口圭一の『資料 日中戦争期阿片政策』1985や、『日中アヘン戦争』1988は、日中戦争期の阿片問題を扱った先駆的論文である。



2 「満州国」の治安体制  荻野富士夫


感想

満洲版治安維持法も目的を罰する。071

スパイ、拷問、その場で殺害という手法。
法は西洋に対する表向きの形だけのものという認識だった。074

なぜ日本は陰惨なのか。
明治維新以来だ。
現在の公安の威圧的なだるまさん的視線。
意見・思想・(国家神道以外の)宗教を嫌い、戦争・略奪という一つの目的に向ってまっしぐら。


070 1905年に創設された関東憲兵隊の任務は、当初軍隊内の犯罪行為の取り締まりであったが、1920年代なると、中国民心の動向査察や中国軍・政府機関の情報収集工作も任務に加わった。(斉藤美夫の供述)
 1932.6、関東憲兵隊は関東軍司令官に直属し、反満抗日の匪徒の軍事的討伐が主要な任務となった。
071 日露戦争後、租借地の関東州や満鉄付属地内外に、関東庁警察や外務省警察(領事館警察)を配置していたが、関東軍は、1932.10、関東憲兵隊司令官に(前記二警察の)区処=指揮命令を指示し、1934.2、関東憲兵隊司令官に、在満日本大使館の警務部の部長を兼ねさせた。

 1932.9、満州国は、暫行懲治叛徒法暫行懲治盗匪法を制定した。
暫行懲治叛徒法第一条は「国憲を紊乱し、国家存立の基礎を急殆、もしくは衰退せしむる目的を以て、結社を組織したる者」のうち、主謀者を死刑又は無期徒刑(無期懲役)に処罰するとし、共産主義運動や民族主義運動を取り締まった。*

*日本国内の改正治安維持法1928も、従前の治安維持法1925の10年を、死刑に厳罰化した。

暫行懲治盗匪法は、討伐の現場における警察指揮官の緊急即決処分(射殺)を規定していた。これを臨陣格殺、裁量措置という。
072 満州国の司法官の給料は、日本のそれの二倍だった。
満州国警察組織の上部機関である民政部警務司の初代司長は、関東大震災のとき、東京麹町憲兵分隊長で、大杉栄らを殺害した甘粕正彦だった。
1936.4、共産党検挙である「奉天特委」事件で、78人を拷問し、水を飲ませる方法、殴打、指の股に細さい金棒を挿入し、上より圧する方法、その他、鬼畜も避くるがごとき残虐な拷問を行い、自白を強要した。そして11名を共産党員と看做し、4名を死刑、7名を有期徒刑にした。(築谷(つきたに)彰造供述書)
073 1930年代後半、満州国軍・警察(憲兵)・司法体制を整備した。
1935.12、東条英機が関東憲兵隊司令官に着任し、従来の警務連絡委員会を、憲兵隊主導の警務統制委員会に改編し、中国共産党の撲滅を訓示したが、これは、斉藤美夫警務部治安課長の提言を受けたものだった。
『思想対策月報』は、警務統制委員会がまとめたもので、2005年、『日本関東憲兵隊報告集』として中国で出版されたが、それによると、
074 思想対策検挙者数は1万6607名(1936.4-9)で、他に、降伏人員や軍事的消滅人員が多数あった。
1936.7月の共産党処理要項(斉藤美夫供述)によると、

一、共産党関係者は、苛酌なく厳重処分を以て臨むこと。
二、同関係者中に、官吏公務員らの身分を有する者、学生智識分子等を包含し、之れ等の所謂インテリ階級者を軍行動による厳重処分を以て処理することは、目前の法治尊重理念による国際慣例に照らして憚るところがある関係より、これを糊塗欺瞞する為に、唐突に厳重処分に付することを避け、一応裁判所の審理にかけ、合法化を装う手段とすること。
三、尚、一般法院の審理速度は緩慢にて、戦時情勢下の当時の偽瞞治安上の処理要求に適当せず、因って即決主義の軍、軍法会審(会議)によって処理を適当とする見解を固守したこと。

075 斉藤美夫の供述によれば、治安の比較的安定した地区では、「共産党、国民党地下組織の偵諜弾圧工作」を実行し、治安不良地区では、「抗日連軍第一路軍や朝鮮遊撃隊に対する重点的な討伐検挙工作」を実施した。
1939年初め、満州国東南部の治安が画期的に進捗し、1940.2、抗日連軍第一路軍総司令部の楊靖宇を射殺した。
076 1939.5、ノモハンで日本軍が敗退し、人心が動揺した。
1940.5の「思想対策服務要綱」は、思想警察目標を甲・乙に分類し、甲は抗日思想闘争党団(共産党、国民党等)、抗日政治党団、反軍思想運動者、治安攪乱工作をなす団体分子を対象とし、乙は、満蒙白系露人等の思想動向、民族意識、時局に対する民心趨向、政治経済方面における人民不平不満事項、その他民間に現れる特異事項等である。
077 乙目標では、類似宗教(民衆宗教)、物質供給方面(配給)の動向、日本開拓団に関する動向、文芸著作の動向、デマなども対象とした。
甲・乙目標完遂のために、スパイ網の構築や憲兵の特高化を推進した。

物価高騰による労働問題が発生した。1941年の、対ソ戦のための関東軍特種演習にともない、徴用労働者の逃亡やストライキが急増した。軍用地や開拓地の強制接収も反感をかった。日本人の開拓団の内紛も発生し、開拓民の離反や逃亡もあった。
078 1939.9~1943.3の、抗日連軍第一路軍に対する東辺道討伐で、警察は武装し、軍隊と共に討伐に加わり、抗日連軍戦士約2000名を射殺し、1500名を誘降させた。(三宅秀也供述書)
079 1939.5、島村三郎は、一切の宗教団体・思想容疑者の偵察の強化を指示した。島村の在任中の検挙者数は、潜伏愛国者、抗日連軍連絡者、流言蜚語(ひご)および反満抗日言動者など4300名、検察庁への送致者1280名、取調べ中の拷問による死者100名現地殺害者120名に及んだ。(島村三郎供述書)
 1937.12、治安部次長を長官に、警務司長を次長にして、秘密組織の保安局が新設された。
島村三郎は、三江省特務課長在任中、地方保安局の理事官を兼務していたが、在任中に検挙したスパイ容疑者数235名の処分内訳は、逆スパイに利用13名、殺害44名、密偵40名、法院へ送致10名だった。
080 指紋管理が徹底され、三宅秀也によれば、その目的は、「あらゆる機会を捉え、あらゆる口実を設けて、できる限り多く、人民の指紋を採取してこれを保管し、人民の反抗を予防弾圧する手段とする」ことであった。
 1938.5、高等法院・最高法院の特別法廷として、思想犯罪専門の治安庭が設置され、杉原一策*が初代思想科長に着任した。*杉原は大阪地方裁判所検事局の思想検事だった。
081 1940.7~1943.4、チチハル高等法院次長を務めた横山光彦は、在任中に、暫行懲治叛徒法071の適用件数が88件、331名であり、その内訳は、死刑18名、無期徒刑10名だったと供述した。
 杉原一策は暫行懲治叛徒法の運用に関して、次のような方針で臨んだ。

一、抗日救国組織に加入した者、または組織に加入せずとも、組織の行動を積極的に援助した者は、全員起訴
二、組織の幹部、または幹部でなくとも、組織加入者で行動の活発なものは死刑
三、幹部以外の加入者で、行動が比較的活発なものは無期徒刑
四、その他の組織加入者は有期徒刑
五、組織に加入せず、行動微弱なものは不起訴

鉄道警備は、南満洲鉄道に属する鉄道警務段で始まり、満州国治安部外局としての鉄道警護総隊、満洲国軍下の鉄路警護軍へと組織改編されていくが、佐古龍祐によれば、鉄道警備員は、小銃や拳銃で武装し、軽機関銃を備えていたとのことだ。
082 鉄道警備員が検挙した中国人検挙者数は2万人で、そのうち、検察庁送致が6000名だった。(1937.7-1939.秋、原弘志供述書)殴打、拷問し、裁判で死刑や無期以下の刑を宣告された。また周辺農民は鉄道警備のための愛護団員に強制加入させられた。
 1941、満州国北部の三肇(ちょう)地区(ハルビン西方、浜江省肇源、肇州、肇東の三県)叛徒事件では、死刑72名、無期徒刑40名に及び、暫行懲治叛徒法による最大級の弾圧となった。
当時ハルビン高等検察庁次長だった杉原一策は、「逮捕後、処分決定にいたるまでに死亡した者が多数あり、その原因は、現地拘留中の生活条件の不良や、取調べ中の殴打等の拷問によるものと思う。検察官は警察官の拷問による供述を基礎として取調べを行った」と供述した。
083 この事件の司法処理は、一ヶ月中に「極めて迅速適正に完結しえた」と賞賛された。(『第十次司法官会議録』1941
1941.8月、特別治安庭が新設され、一審のみで、法院以外の場所に臨時に開廷でき、弁護人の選任も必要なく、死刑は銃殺とするとした。この特別治安庭を最大限に活用したのが、熱河省における治安粛清(後述087)であった。「数千名を、高等検察庁を経て高等法院に起訴し、その治安廷または特別治安廷で判決し、惨殺・弾圧を宣告した。(横山光彦供述書、錦州高等法院次長在任期間1943.5-1944.5
 横山が関与した、熱河西南地区防衛委員会決定に基づく第一回・第二回の大検挙事件でも、検挙者数1212名、起訴524名、死刑38名、無期徒刑30名に及んだ。
横山光彦は「検挙機関が自ら手を下して、直接惨殺、拷問、破壊等の弾圧を行った事例は枚挙に暇がなく一つの合法的名義の判決を以てする惨殺、弾圧の裏には、多くの流血、拷問、放火、破壊、掠奪が潜んでいることは容易に発見しうる」と供述した。
 特別治安廷の開設場所は14地区、25ヶ所に及んだ。(飯守重任の証言)

感想 特別治安廷など、法自体を捻じ曲げ、しかも、検挙機関が自ら手を下し、その法自体も守らない。日本人よ、これは狂気の沙汰ではないか。事情は満洲と国内と一体であったと想像できる。小林多喜二を見よ。関東大震災時の朝鮮人・中国人・社会主義者の虐殺を見よ。私たちはそんな警察や軍を戴いていた、或いはいるのか。

084 満州国の治安維持法
 1941.12.28、「日本に後顧の憂いなく、聖戦目的を貫徹させ」*るために、満洲国に治安維持法を公布施行した。*『満洲日日新聞』1941.12.20
 「国体を変革することを目的として団体を結成したる者、または団体の謀議に参与し、若しくは指導を為し、その他団体の要務を掌理したる者は、死刑または無期徒刑に処す」
 同時に制定された治安維持法施行法は、暫行懲治盗匪法の「臨陣格殺」「裁量措置」の規定、すなわち、討伐現場での緊急措置としての即決処分(射殺)を存続した。
 ハルビン高等検察庁次長だった杉原一策は、1942年2月の「救国組織活動および抗日連軍に対する援助活動」にかかわる治安維持法事件の判決は、死刑45名、無期徒刑35名、有期徒刑202名だったと供述した。また、警察や鉄道警護総隊から上がってくる治安事件が毎月5名くらいで、私の在任中に150名に達し、その対象者は、抗日連軍の関係者やその援助者(情報提供や糧食供給等)だったと供述した。
同じくハルビン高等検察庁の溝口嘉夫は、三路軍事件・教会事件・延安地下工作事件などで、143名を検挙し、94名を起訴、28名を死刑にしたと供述した。1944.10-1945.8
先の横山が関与した熱河省治安粛清事件も、満州国治安維持法の適用である。083, 087
084 1945.8までに満州国全体で治安維持法で処断された者の数は、おそらく1万数千名に及び、死刑の宣告と執行は、2000名前後と推定される。
085 1943.4、刑事司思想科が拡充され、ほぼ全ての検察官が、治安検察官とされた。
1943.6月、監獄(刑務所)を扱う司法部行刑司を拡充し、司法矯正総局を設置した。この総局長に就任した中井久二によれば、
115ヶ所の本監・分監に、2万8000名を収容し、年間延べ収容者数は、20万名(ただし、思想犯だけでなく一般の犯罪者も含む)で、付設の作業場や製綱所や炭鉱で働かせた。
長期不法拘束と拷問や、病弱者に課す重労働により、監獄の死亡率は10%に及んだ。
 司法矯正総局には保安矯正法(1943.9公布施行)に基づく矯正補導院もあった。これは、強制労働による、戦時緊要物資の増産、対日援助の拡大を目的とした保安拘置制度であった。(古海忠之供述書)
犯罪性がなくても検察官の恣意で収容され、1945年8月には、11ヶ所8000名が収容され、連帯責任制で、苛酷で危険な労働をさせた。
086 防諜、スパイ取締り
 防諜を担当する司令部第三課長の吉房虎雄は、700名を検挙し、200名を検察庁に送致したという。
電波探知、指紋鑑定、暗号連絡などの特務工作を実行する八六部隊は、1943年時点で、250名いた。
スパイ容疑者や反満抗日運動で検挙された者は、731部隊に送られ、人体実験の犠牲になった。それらは「特移扱」とされ、「防諜(思想)上の重大犯人」で、スパイなどへの「将来逆用の見込みのない者」が対象となった。(上坪鉄一供述書)
1942年度の関東憲兵隊の積極防諜成果256件、450名の内、143名が731部隊に送られた。(中央档案館ほか編『偽満憲警統治』中華書局、1993
087 関東憲兵隊の新京憲兵教習隊の隊長だった堀口正雄によれば、非人道的な行為は、この教育隊の教育が原因だという。

熱河省治安粛清
088 承徳憲兵隊は、1941年下半期、共匪21名と通匪1942名を検挙したと成果を誇ったが、1942年上半期の検挙者数は依然として1292名だった。そのため憲兵隊員数を、1930年代後半の200名弱から、1942年には570名に拡充した。(承徳憲兵隊『思想対策半年報』、『日本関東憲兵隊報告集』第1集第15巻)
1943、承徳憲兵隊長安藤次作は「八路軍は一人残らず殲滅せよ。八路軍に高粱や粟など食糧を与えた者も皆死刑にせよ」と言ったとのこと。(木村光明手記「無住地帯」中帰連平和記念館所蔵)
 検挙者数は、1943年1月中だけで、1774名、5月までの累計では7045名に上った。
089 関東憲兵隊が主体となって、(熱河の)国境地帯に無住地帯を設定し、あわせて集家工作を行った。
撫順戦犯管理所編「熱河に於ける憲兵の罪行」によれば、憲兵隊が独自に検挙した人数は、1万3000名。そのうち4000名を特別治安廷に送致し、1000名を死刑にし、3000名を無期・有期徒刑にした。(1942.10-1945.7熱河省・河北省)
司法官の飯守重任は、熱河省粛清工作で1700名を死刑に、2600名を投獄したとする。

民心離反の加速
 新京憲兵隊『国内情勢月報』1944.2によれば、「民心は表面平静ながら、貯蓄政策には非協力的で、経済事犯が激増、敵側有利の流言が増えつつある」とする。
1944.1、憲兵が郵便を検閲し始めた。
関東憲兵司令部『思想対策月報』1943.4によれば、「蒐荷工作強行による民食(種子)不足は、一部地方の鮮満系下級農民層に深刻に反映し…」
関東憲兵司令部『思想対策月報』1943.9によれば、「食糧闇搬入は集団的悪辣化の傾向あり」
蒐荷工作は自給分や種籾まで供出させた。
090 労務動員の強化で、労働者の逃走や徴用忌避、工場での生産阻害が行われた。
1942.7月の牡丹江憲兵隊の通報では、就労者2万名の内2375名が逃走したとする。
統制経済の強化に伴い、承徳憲兵隊『思想対策月報』1943.2によれば、「依然鮮満系の反日的事象発生しある」とする。
民族的な差別待遇、軍事施設建設に伴う土地の強制買収に対する不満、憲兵の威圧的な対応への反発が広がりつつあった。
ハルビン憲兵隊『思想対策月報』1943は、「日系の弛緩現象(厭戦・悲観心理の拡大)、反国策的事象、開拓団の要注意事象」を記録している。
「逃亡・離隊する軍人・軍属が増加した。」(藤原広之進供述書、新京憲兵分隊長1943.12-1945.8

在満日系共産主義運動の取り締まり

 1941.11月の合作社事件では、50余名が検挙された。これは満州国の農民組合組織の幹部を弾圧した事件であり、清野義秀・新藤甚四郎ら5名が、1942.8、国体変革の団体を結成したとして無期徒刑にされた。(『「合作社事件」関係資料』不二出版2009)また、

1942.9月と1943.7月の満鉄調査部事件では、43名が検挙され、1945.5、判決が言渡され、最高刑は執行猶予付きの徒刑5年だった。

これらは「満洲における各種日系左翼運動の母胎を為し、共産党運動にも利用せらるる可能性大なりし」という認識(関東憲兵隊司令官の「9・21事件に関する報告」1942.12)に基づく、事実無根の弾圧だった。

延安での日本人・朝鮮人の反戦運動に関して、当局は「日本軍隊内の厭戦気運を醸成し、戦闘士気の喪失を企図としている」(関東憲兵隊司令部「在敵日鮮人反戦運動」1943.7)としている。

治安体制の崩壊
092 1945.6、司法部当局は「時局緊迫の際、敏速に治安事件の処理を終え、突発的事件の発生に備えること」と各高等検察庁の治安検察官会議で指示した。(杉原一策供述書)
1945.7、関東憲兵隊から、保安・防諜関係の2000名を割き、遊撃戦に備える特別警備隊を編成する準備を開始し、8月3日から実施した。
関東憲兵隊は軍事警察に縮小され、(定員331名、1945.7)国境付近の憲兵隊はなくなった。
ソ連軍が侵攻すると、間島(かんど)憲兵隊は、「直ちに民情の視察など」の情報収集にあたった。
牡丹江の特別警備隊第三大隊の「憲兵班は、全員満服に着替え、旧市街(満人街)一帯の住民の動向査察、その他情報収集に出動した。」(全国憲友会連合会本部『日本憲兵外史』研文書院1983

*自分が逃げたい口実ではないのか。

ハイラルや牡丹江の憲兵隊の一部は、ソ連軍と戦闘した。
8.10、関東憲兵隊司令部(大木繁司令官)は、通化に移転し、17日、四平で機能停止し、29日、ソ連軍により武装解除された。

 この治安体制の崩壊過程で、戦時有害分子の抑留や、治安維持法違反関係者の処刑を強行した。
8.10、奉天警察庁は、奉天憲兵隊の指揮下で、奉天市内に居住する戦時有害分子として白系ロシア人28名を抑留した。(のち釈放)(三宅秀也供述)
 8.12、司法部次長・辻朔郎は、各高等検察庁次長に、未決拘留中の治安維持法違反者中の重要人物、あるいは刑法違反中、死刑に相当する者について「現地の実情に応じ、判決の確定を待たず死刑処分に付して差し支えなきこと」と指示し、その結果相当数(推定50名)が、死刑に処せられた。(杉原一策供述)
これは、彼等を釈放すると「検挙、起訴、審判に関係した者の生命などに危険」が及ぶとして実行された。(横山光彦供述)

感想 恐ろしい価値観だ。徹底的に自己中だ。良心のかけらもない。


第3章 三光作戦とは何だったのか――「侵略」の証言2 笠原十九司、伊香俊哉

1 華北における三光作戦の展開  笠原十九司

097 三光とは、殺光、搶(そう、つく)光、焼光である。殺しつくし、奪いつくし、焼き尽くすという意味の中国語である。
 2005年に、撫順戦犯管理所と太原戦犯管理所にいた旧日本軍戦犯45名の証言=供述書が、中国から中帰連に渡された。三光作戦に関しては10名が証言している。彼等は華北の三光作戦に関与していた。
098 撫順戦犯管理所にいた人の中に第59師団関係者が多く、彼等が主体となって中帰連が結成された。
099 中帰連の人たちの供述の出版は、1957年から1991年まで断続的に行われている。
 華北の共産党軍は、国民革命軍第八路軍(八路軍)、華中の共産党軍は、国民革命軍新編第四軍(新四軍)と呼ばれた。共産党軍は、日本軍の占領支配地域に、抗日根拠地(解放区)を築いて、日本の軍事占領から領土を解放した。
 1937.11.7、八路軍第115師(師長林彪)の副師長兼政治委員の聶栄臻(じょうえいしん)が、山西省北部の五台県に、晉察冀軍区司令部を設け、
100 1938.1.10、日本軍占領地における最初の抗日根拠地である晉察冀(しんさつき)辺区を建設した。
晋=山西省、察=チャハル省、冀(き)=河北省
晉察冀辺区とは、「中華民国特区政府」つまり、共産党政権が統治する省境地区という意味である。
共産党は辺区を、敵後抗日民主根拠地(抗日根拠地)と呼んだ。
 これは国民党政府から独立していた。民衆を組織し、生活自給自足体制をとり、共産党の指導機関と八路軍の司令部が設置され、党学校、兵学校、軍需工場を置いた。
兵士や工作員は、民衆を抗日ゲリラに組織した。
 1938.9、山東抗日根拠地が成立し、1940、晋冀魯(しんきろ)抗日根拠地が成立した。
魯=山東省
太行山脈の山麓に強固な根拠地がつくられ、1941.7、晋冀魯豫(よ)辺区が樹立された。
豫=河南省
101 抗日ゲリラの主体は、住民=農民で、武装して民兵(ゲリラ兵)となった。民兵は八路軍の予備軍の役割を果たした。

1939、北支方面軍は儘滅掃蕩(じんめつそうとう)作戦を展開した。
支那派遣軍の総司令部は南京に置かれ、北支方面軍は、北京に司令部を置き、華北と内モンゴルの中国軍と戦った。
北支那方面軍は、直属部隊(華北省・北部河南省担当)と第一軍(山西省担当)と第一二軍(山東省・隴海線(ろうかいせん*)沿線担当)とで構成された。
*江蘇省連雲港・海州と甘粛省までの鉄道で、未敷設区間があった。当時は陝西省咸陽まで開通していた。
隴(ろう)は甘粛省の別名。

第一軍の隷下に、独立混成第三旅団と独立混成第四旅団が入った。
第十二軍の隷下に、第59師団と第117師団が入った。
第117師団は1944.7に編制された。

102 三光作戦は、日本では、燼(じん)滅掃蕩作戦、殲滅(せんめつ)掃蕩作戦、剔抉(てっけつ)掃蕩作戦、治安掃蕩作戦などと呼ばれた。

燼滅掃蕩=燃えかすが残らないほど徹底的に滅ぼし、払い除く
殲滅掃蕩=皆殺しにして滅ぼし除く
剔抉掃蕩=えぐってほじくり出して払い除く

殺戮、掠奪、放火、破壊をおこなった。

鈴木啓久は三光作戦を指揮し、供述書を書いた。
彼は、1941.10、北支那方面軍直属の第27師団(天津に司令部)の第27歩兵団長となり、河北省の滄(そう)県や唐山(とうざん)県を担当し、「治安維持は剿(そう)共である。八路軍の情報を獲得し、日本軍の意図に背くものは徹底的に覆滅せよ、…」と命令した。
剿=絶つ=勦
103 民衆を含めて何をやってもかまわない、戦時国際法、国際人道法の適用など考慮する必要がない、共産主義という悪を根絶・絶滅するのに手段を選ぶ必要はない、という思想である。
日本軍はこういう軍事思想を正当化して、皆殺し計画を立て、実行した。婦女も殺戮の対象とされ、「どうせ殺すのだから何をやってもかまわない」と、強姦殺害、集団輪姦殺害し、女性の身体を猟奇的に殺傷する残虐行為を激発した。(新編『三光』第1集、光文社1982

 1940.8.20日の夜、八路軍は、華北の主要鉄道、通信線、解放区内の日本軍の拠点を、総兵力115団(連隊)、40万人を以て総攻撃した。(百団大戦)
第一次攻撃8.20~9上旬
第二次攻撃9.22~10上旬
河北省と山西省を走る石太線(石家荘‐太原)を破壊し、抗日根拠地を包囲する、(石太線)沿線の日本軍拠点(トーチカ、砲台を備えた小部隊)20ヶ所を攻撃し、多くを陥落させた。
104 日本軍は「軍の威信保持のため、共産軍を徹底的に壊滅せんとし、晋中作戦を企図」し、(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 北支の治安戦(2) 朝雲新聞社、1968)報復掃討作戦を開始した。
晋中とは山西省中部、石太線周辺のことである。
第1期晋中作戦 1940.8.30~9.18
第2期晋中作戦 1940.10.11~12.3
 第一軍参謀長・田中隆吉少将は「敵根拠地を燼滅掃蕩し、敵をして将来生存能ざるに至らしむ」(独立混成第四旅団「第一期晋中作戦戦闘詳報」防衛研究所図書館所蔵)とし、田中は住民の殺戮と破壊、焼滅を命じた。
 独立混成第四旅団の旅団長・片山省太郎中将「無辜の住民を苦しむるは避くべきも、敵性顕著にして敵根拠地たること明瞭なる部落は、焼棄するも止むを得ざるべし」(同前)
105 百団大戦で大きな被害を受けた日本軍は、主敵を国民党軍から共産党軍に転じ、対軍隊戦から対民衆戦に転じた。
日本軍は、共産党、八路軍、抗日政権、民衆が一体となった組織構成を知り、共産党軍そのものの軍事力はたいしたことはないが、治安攪乱の主体が共産主義化した民衆であるから、殺戮、掠奪、放火、強姦など、戦時国際法に違反する非人道的行為を犯してもかまわないという方針を強化した。
 1941.12、河北省唐山地区担当の鈴木啓久第27歩兵団長は「目的を達するためには如何なる手段をも選ぶことがない」とし、次の命令を下した。(鈴木啓久供述書)

イ 八路軍を徹底的に殲滅すべし。
ロ 八路軍に属する愛国工作員、通信員、または八路軍との通牒者は悉く勦(そう)滅すべし。
ハ 反共自衛団は極力支援すべし
ニ 反共教育を行うものあらば、極力支援すべし
ホ 工作員を剔抉粛清すべし。
ヘ 遮断壕および付属望楼(トーチカ)を構築すべし。
ト 長城線付近2キロメートル以内に、八路軍の根拠地となり、八路軍が利用しうるところの住民を悉く追い払い、無住地帯とすべしとの北支方面軍司令・官岡村寧次の命令を厳かに実行すべし。
チ 日本侵略軍の*蟠(ばん)居地*付近一帯の中国人民*をして、極力八路軍に反対せしめ、八路軍の情報は、自発的に日本侵略軍に提供せしむる如く指導すべし。*認罪後の表現
リ 偽軍*、偽県警備隊*を指導支援し、また督励して、八路軍の活動を妨害せしむべし。
*傀儡政権汪精衛(汪兆銘)政権下の華北政務委員会の軍隊と警備隊。

日本軍の兵站基地としての華北
107 アジア太平洋戦争遂行のため、華北は、食糧、資源、労働力の兵站基地と位置づけられた。
1942.2.25・26日の北支那方面軍の各兵団の参謀長会議(合同会議)で、年次計画大綱を示達した。(『北支の治安戦(2)』104

第一 国軍の総兵站基地たるの使命完遂に努める。
第二 要項 
一 省略
二 治安の粛清は剿共を主とする。
三 省略
四 治安の確立、民生の向上、現地自活の強化、食糧問題の解決、金融経済の安定を重視する。

108 1942、華北の各省で大規模な燼滅掃蕩作戦を実施した。

河北省での作戦
 1942.4~6、9~11、日本軍は、冀東作戦を実施した。
 第7師団第27歩兵団長で本作戦の指揮にあたった鈴木啓久は回想録の中で、
「八路軍支配地区を現政権支配地区から徹底的に隔絶するため、壕とこれを火制する望楼(銃砲で監視、制圧するトーチカ)を構築した。動員した民衆は延べ60万人。農作物に損害を与えた。また長城線沿いの地区を無住地区にした。武力を用いて立ち退きを強制した。保甲制度(村の全戸を10戸からなる甲とし、10甲を1保とした連座制)を強化し、八路軍に対して経済封鎖を実施した。」
(『北支の治安戦(2)』)
109 遮断壕は、幅4~5メートル、深さ2~3メートルの壕で全長109キロメートルに及んだ。
望楼は遮断壕に沿って数百メートルごとに立てられた。
1942.10~1943.4、第110師団隷下の歩兵第163連隊長の上坂勝は、河北省保定付近の唐県地区に、遮断壕を付近の農民に掘らせた。上幅10メートル、底幅6メートル、深さ5メートル、総距離150キロメートルであった。(上坂勝供述書)
1942.9までに、華北全体で、遮断壕は1万1860キロメートル、トーチカは7700個構築されたといわれる。
 北支那方面軍は、満州国軍も動員して、華北の万里の長城の南北の帯状の地帯の住民を強制移住させ、元の村を焼き払い、抵抗する住民を殺害して、無住地帯(中国では無人区)を設定した。
110 天津地域担任の第27師団(鈴木啓久はその第27歩兵団長)は、長城に沿って南側に幅4キロ、長さ100キロの無住地帯を設定し、その地区内の住民10万人を強制移住させた。1万数千戸を焼き払った。(『北支の治安戦(2)』)
 華北全体では、長城線上500キロにわたり、幅8キロ~10キロ、広いところは30キロの無住地帯を設定した。

山東省での作戦

1942.3~4、北支那方面軍隷下の第12軍(済南に司令部)が、第二次魯東作戦を実施した。
1942.8、同じく第12軍が、第三次魯中作戦を実施した。
1942.4、上記の作戦を行うために、独立混成第10旅団を基幹として、第59師団が新たに編制された。
長島勤は、歩兵第54旅団長として、上記作戦を指揮した。(供述書)
「(極秘)第二次魯東作戦経過概要」(昭和17年6月1日、仁集団司令部)によると、
魯東地区共産軍(党)の根拠地を蹂躙し、その本拠施設を覆滅し、多大の敵物資ならびに労工を獲得した。」鹵獲品として、糧秣3万4520キロ、労工897とある。(杉原達『中国人強制連行』岩波新書、2002
111 山東省の部落掃討作戦で、農民が逃亡した農村から、綿花を、北支那開発株式会社の社員が苦力(クーリー)を使って運んだ。(笠原十九司『南京事件と三光作戦』大月書店、1999
 兎狩り作戦と称した農民狩り、労工狩りも、第12軍が、山東省で行った。
一大隊の兵隊が村を包囲し、家から飛び出した農民を村の中心部に追いつめ、成年男子を逮捕、拉致して強制連行し、満洲などの各地の鉱山での労働力として送り込んだ。一部は日本に強制連行され、鉱山で苛酷な労働を強いた。
 1942.11.27、閣議決定「華人労務者内地移入に関する件」が示すように、国家と軍が、労工狩りを、掃蕩作戦の目的の一つにした。
北支那方面軍が華北政務委員会に設立させた「華北労工協会」(1941.7成立)が斡旋する、捕虜、投降兵、農民、労工を、石家荘、保定、済南、太原、北京、青島などに設置された集中営(収容所)に集め、所定の訓練後、満州国や日本へ強制連行した。その際、新民会、北支那開発株式会社、華北交通、興亜院などの組織・機関が利用された。(杉原前掲書、西成田豊『中国人強制連行』東京大学出版会、2002
112 1945.3、藤田茂は、山東を拠点に三光作戦を展開していた第59師団の師団長に就任し、上坂勝も1945.6、同師団麾下の歩兵第53旅団長に就き、すでにその任にあった長島勤歩兵第54旅団長と共に、三光作戦を最後まで指揮した。
 1945.4、藤田茂第59師団長は、「山東省における共産党軍を殲滅し、日本軍侵略地を確保するため」に、以下の秀岺(れい)第一号作戦を命令した。(藤田供述書)

一、利用できる一切の物件、施設は根底より壊滅し、或いは焼却し、或いは押収すべし。根拠地にある住民に対しては、凡て八路軍に協力せるものと看做し、処断すべし。
二、挺身斬込隊を編制し、その際、便衣を着用せしむべし。
三、資源たるべき物資または糧食は、すべて押収すべし。
四、俘虜は殺害し、戦果として計上すべし。(戦時国際法無視)
五、ガス使用の権限を各大隊長に附与す。(戦時国際法(ジュネーブ議定書)無視、日本も署名1925

山西省における作戦
 日本は、山西省の鉱物資源に目をつけた。アジア・太平洋戦争は、それを必要としていた。

石炭は、大同、太原の西山、陽泉等の炭田、
鉄鉱石は、長治や陽泉等の鉱山、
その他、銅、硫黄、ボーキサイト、岩塩等の鉱物資源が豊富だった。

日本は、太原の中国の製鉄所を接収し、太原製鉄工場と命名し、国策会社・山西産業株式会社に運営させた。社長は張作霖爆殺事件の首謀者河本大作だった。
陽泉の製鉄工場は、大倉財閥系列の大倉鉱業株式会社に操業させた。
国策会社・華北交通株式会社に、鉄道網の整備と経営をさせた。

 第一軍は太原に司令部を置き、菊地修一と相楽圭二は、第一軍麾下の独立混成第三旅団の指揮官をしていた。住岡義一は、独立混成第四旅団の指揮官をしていた。
1943.6、独立混成第四旅団と独立混成第六旅団を基幹として、第62師団が編成された。

114 長江流域における作戦
 佐々真之介は、第39師団長だった。華中の江蘇省、浙江省の、国民党軍の抗日根拠地、国民党系抗日ゲリラの掃蕩作戦を担当し、長江下流域=江南の農業生産物を収奪した。(供述書)
国策会社・中支振興会社を設立し、それを佐々が支援した。米を流通統制し、軍用米を収奪し、桐油、綿花を強制買収した。

華北での三光作戦による被害の概要 
中央档案館・中国第二歴史档案館・河北省社会科学院編『日本侵略華北罪行档案2 戦犯供述』河北人民出版社、2005によると、
 
戦争直後の資料によると、
河北の5つの抗日根拠地(晋綏(すい)・晋察冀・冀熱遼・晋冀魯豫・山東)の

原有人口          9363万 306人
民間人殺害者         287万7306人
傷害者            319万4766人
拉致連行者          252万6350人
強姦・性病をうつされた人    62万 388人(山東根拠地を含まない)
慢性病者           482万  59人
死傷者・疾病者・障害者合計 1403万8869人 これは華北抗日根拠地総人口の七分の一にあたる。

115 華北での毒ガス使用
1937.7~1945.10の間に、239県1000回、催涙性、くしゃみ性、窒息性、糜爛性の毒ガスが使用され、軍人ばかりでなく民衆にも死傷者が出た。

華北での細菌戦(不完全な統計)
日中戦争以後の8年間で、70回以上、細菌兵器が使用された。そのうち死亡者数がわかる25件で、華北の軍人・民間人47万人以上が感染して死亡した。
山西省盂(う)県では、1942~1945の間、糜爛性ガス弾とチフスなどの細菌兵器により、全県16万人のうちの95%が感染して病気になり、1万1000人が日本軍に殺害され、3万人が感染して病死した。

 華北での強制連行・労働
1934~1945、華北から華北以外に送られた労工は、1000万人で、日本本土へ送られた労工が3万5778人、朝鮮へ送られた労工が1815人だった。
1937年~1945年、華北地区で奴隷労働させられた労工は、2000万人以上に上った。

116 性暴力
中国解放区救済総会の1946.4の統計では、晋綏・晋綏冀・冀熱遼・晋冀魯豫の4つの解放区で、強姦と性奴隷の被害を受け、性病に感染した女性は、62万388人に上った。
強姦や性病罹患女性の比率は、華北抗日根拠地全体では、女性50名に1人以上だったが、被害が重かった冀熱遼根拠地では、18名に1名の割合だった。

この他に、財産の破壊、掠奪、阿片政策による中毒被害もあった。


2 供述書に綴られた「三光作戦」  伊香俊哉

117 菊地修一の供述書 菊地は1915年生。
118 相楽圭二の供述書 相楽は1916年生。
119 二人の供述で述べられている、住民・捕虜の虐殺、強姦、毒ガス・細菌兵器の使用などは、国際法で禁止されている行為であった。殺害された住民の数のほうが、八路軍として殺された兵士よりもはるかに多かった。大半の殺害が、戦時=戦闘中ではない平時に、兵士ではない住民の殺害だった。

120 「今頃まで城内に残っているのは敵の家族だから、(25歳くらいの婦人と4歳くらいの女の子を)射てと命じた。」「小学生が八路軍の帽子をかぶっていた。大きくなったら八路軍の幹部になる。今のうちに殺したほうがいいと考え、小学生16名を射殺させた。」「この地区の住民は完全に敵だ。住民がいるから八路軍が拠るのだと考え、老若男女少なくとも15名を射殺あるいは刺殺させた。」(菊地修一)

 「支那の土民は、(私が常日頃協力するように言っていることを理解せぬ)訳の分からぬ奴だと憎しみを感じ、こんなに敵視扇動する八路軍はどうしてもやっつけねば為になるぬと考え、婦女子を含む避難住民に(向けて)乱射させた。」(相楽圭二)
「どうせこの地方の村民は、日本軍の姿を見たら全村避難するだけ八路の言うことを聞く敵同然だから、当然の報復懲罰だと思って、婦女子を含む住民39名を射殺・刺殺し、44名を射撃・傷害し、衣服・家具類百件余を掠奪した。」(同前)

彼等は、勝手な決め付けに基づいて、住民を敵と看做して殺害した。日本軍こそが支配者であるという優越感の一方で、敵とも味方とも一見区別できない住民の中に身を置いていることから生じる恐怖心があったと言える。

121 従順ではないと見られただけで殺された。
宿営に使用していた家の50歳くらいの中国人男性に、釜を出すように強要したところ、男性が釜は日本兵に略奪されたのでもうないと答えたために、別の日本兵が「言う事を聞かないなら殺してやる」と言って射殺した。(鵜野晋太郎、1920年生)
122 50歳くらいの住民を捕らえて、道案内をさせたところ「故意に道路を誤った」ので、部下に命じて「断崖上から深さ70メートルの谷に投げ落とし、惨殺した。」(菊地修一)
捕らえられた村民から八路軍の情報を聞き出そうとして軍用犬をけしかけたところ、村民は恐怖で口を開けられず、結局「軍犬に命じ、足、手首に咬みつかせたあと、喉に咬みつかせて殺害した。」(住岡義一、1917年生)

 住民は八路軍に通じており、何かを知っているはずだと思い込み、拷問・虐殺した。
 棍棒や銃の床尾で殴打し、水を飲ませ、頭から水を掛け、最後は銃剣刺殺し、また小銃で射殺せしめた。この時、住民を集めようとしたが、住民は恐れて集まらず、姿を隠したので、「自分の命令がおかしくて聞かれないのか、よし聞かせてやろう」と思って拷問した。拷問の後で、このまま生かしておいては必ず敵に復仇される、敵の力を強くするようなものだ。殺したほうが無難だと考えて射殺した。」(永富博之、永富は1916年生。)
123 抗日軍情報員容疑者一名(40歳くらい)に、天井吊るしの拷問をおこない、両腕がぶらぶらとなり、第一関節の皮膚を裂傷させた上、留置場に監禁したため、被害者は危篤状態になった。そこで留置場外側に引っ張り出し、近藤軍医大尉の点検を受け、近藤が「手遅れだ」と言ったので、私は「面倒だから殺してくれ」と依頼し、近藤をして百CC注射器で肘関節内側静脈に空気注射を二回行い、殺した。」(1944年3月、湖北省当陽県、鵜野晋太郎

感想 日本人は中国人のことあるいは人間一般のことをどう考えていたのだろうか。もっと他に対処の仕方があったのではないか。直情というか単純・素朴というか。無理なごり押ししか能がなかったようだ。

124 捕虜虐殺・虐待 

 日本軍は初年兵の訓練として捕虜虐殺を行った。それは「(実敵)刺突」と呼ばれ、日本軍の行動が「三光」と呼ばれる以前から行われていた。
 藤田茂は第20師団騎兵第28連隊長だった1939年1月、部下の将校たちに「兵を戦場に慣れしむる為には、殺人が早い方法である。即ち度胸試しである」と教育した。藤田は、後の第59師団長在任中1945.3-8、山東省済南で、600名以上の捕虜を、そのような目的に使用し虐殺した。(新井利男・藤原彰編『侵略の証言』岩波書店、1999

 八路軍、若い抗日大学生と一部病人の俘虜約七十名(そのうち約50名は婦人)を、教育材料として刺突し殺害した。その時大部分の婦人俘虜が刺突する直前、中華民国万歳とスローガンを絶叫したため、初年兵が気後れし、約十五名の俘虜を突き損なった。私は度胸を示すため、その中約十名を、刺殺・射殺し、他の約5名の俘虜を、私が予め指示していた刺突の模範を助教が示して、殺害した。(1942年8月、山西省太原市、住岡義一

125 俘虜の扱いは非人道的だった。
 湖北省の当陽飛行場構築作業で、腕を骨折した「抗日軍戦士一名(二十歳くらい)」を「「酷使できなくなった者は殺せ」と命じて、首を斬って殺した。」(鵜野晋太郎)
 捕虜を毒ガスの実験材料に使った。
 師団が各部隊将校を集めてガス教育を行った時、俘虜二名をガス室に入れ、ガス効力試験に使い、また、師団軍医部が、俘虜4名をガス室に入れ、ガス効力試験を行い、虐待し、共に遂に殺害した。(1945年1月、湖北省当陽県、佐々真之助、1893年生。)

 捕虜収容所内における扱いも非人道的だった。
126 「収容所での状況や死体の状況をみると、収容所の給養が粗悪で、殺人的な取扱であったことが分かる。俘虜はやせ衰え、疲労困憊していた。衣服も捕らえられた時の汚れて破れたものであり、その外、俘虜の取扱者が、軍刀術や鉄剣術の斬撃刺突の練習の為に虐殺したと第9中隊長から聞いた。」(1944.6河南省洛陽、上坂勝供、1892年生)
「住居や給与は劣悪で、医療も皆無だったため、栄養失調、肺結核、悪性寄生虫などで俘虜が亡くなったが、それは殺人ともいえる。」(鵜野晋太郎)

毒ガス
 日本軍は中国各地で毒ガスを使用した。
127 1942.5~6の冀中作戦のとき、河北省北(たん)村で、5月27日、第110師団の歩兵第163連隊が、北疃村の住民が避難した地下道にガスを投入して、1000名を殺害した。(小野寺利孝他編『中国河北省における三光作戦――虐殺の村・北疃村』大月書店、2003
 この事件を担当した連隊長は上坂勝だった。上坂によれば、この作戦での毒ガスの使用は、第110師団長・飯沼守中将からの師団命令によるものだった。

 上坂は「各大隊に毒ガス赤筒、緑筒を与え、努めて機会を求め、特に地下壕の戦闘にこれを使用して、その用法を実験し、作戦終了後、所見を提出すべきことを命じた。」
 第一大隊は、「地下壕内に毒ガス赤筒、緑筒を投入して、窒息せしめ、或いは苦痛のために飛び出す住民を射殺し、刺殺し、惨殺する等の残虐行為」に及んだ。
連隊主力も同様に地下壕内に毒ガスを投入し、「この一時性ガスも偉大なる殺人的窒息能力を有するものであることが分かった。」
 上坂は「日本侵略軍が斯くの如きガスを使用したのは、八路軍の地下戦闘に悩まされ、窮余の一策として、実験の名目で実施したばかりでなく、地下壕内に避難した八路軍戦士や住民に対して、大量殺害を企図したに相違ない。」(前掲『侵略の証言』124
128 日本軍は抗日根拠地を根絶しようとし、村と村民そのものを敵とした粛清掃蕩作戦では、毒ガスを使用した、村民の殺戮や村の破壊が、公然と大々的に行われた

細菌戦
 日本軍の細菌戦で従来知られているものはいくつかに限られているが、それ以外に華北でも使用されていたことが、供述から分かる。
 従来知られている細菌戦は、1939年のノモハン事件でのソ連軍に対するチフス菌などによる攻撃、
1940年の寧波(ニンポー)や1941年の常徳でのペスト菌による攻撃、1942年の浙贛(せっかん)作戦でのチフス菌・コレラ菌などによる攻撃である。

 1942.2、山西省神池県で、第一軍司令部から派遣された細菌組二名が、現地の日本軍と共に細菌ネズミ二匹を放つ作戦を実施した。住民少なくとも6名が罹病したとの情報を得た。
翌3月、「五寨(さい)西南方地区燼滅掃蕩作戦で、細菌を撒布した結果、五寨県と奇嵐(きらん)県の県境付近に、伝染病患者60余名が発生した。」(菊地修一)
 さらに9月中旬、11時(ママ)、独立混成第三旅団の命令で、第一軍より派遣の細菌組を護衛して、五台県蘇子坡(は)に、細菌をうえつけた鼠二匹を放ち、撒布せしめ、罹患住民12名と死亡者3名を出し、死体は独立歩兵第八大隊の軍医中尉鈴木某に協力して、部下に焼却させた。また鈴木軍医は細菌による効果の資料を蒐集している。(菊地修一)

129 1942年2月下旬、山西省で、中隊は、大隊長の命令に基づいて、大隊本部医務室曽根軍医大尉以下約10名が、チブス菌とコレラ菌を撒布するのを援護した。そして、医務室の人員が、民家で碗、箸、庖丁、麺棒、麵板、その他の食器類に細菌を塗りつけ、また飲料水の入った水瓶に細菌を投入し、或いは村内にある井戸と付近の小川に細菌を投入する行動も援護した。(住岡義一)

 第59師団長であった藤田茂は、1945.5月末から6月に実施された秀岺第二号作戦のなかで、「将来米軍の進攻に対し防疫給水班をしてコレラ菌を以てする細菌戦実施を企図し、部下にその準備をしておくように命令した。」(藤田茂)

130 日本軍の兵士も細菌戦の対象にした。
 1943年7月上旬、津浦線(天津‐浙江省浦口(南京の対岸))以西及び黄河以西地区に、コレラ病が発生し、中国民衆と師団内部に流行したため、予定していた討伐を中止したのだが、師団長は、コレラ病流行地域で罹病者を生ぜしめずに討伐行動ができるかどうか実験するために、一部隊をこのコレラ流行地域内に派遣し、約二週間行動討伐させた。(弘瀬三郎、1903年生。『侵略の証言』)

慰安所
 慰安所の設置と経営に、供述書は、日本軍の関与を述べている。
 鈴木啓久は第15師団歩兵第67連隊長として、南京近郊の巣(そう)県で、1941年に「慰安所」を設置させ、「中国人民及び朝鮮人民婦女20名を誘拐して慰安婦となさしめた」と供述している。(『侵略の証言』)
 鈴木はさらに第27歩兵団長として、河北省に駐屯していた1941年末から45年にかけても、「日本軍の幡踞地には、私は所謂慰安所の設置を命じ、中国並に朝鮮人民の婦女を誘拐して所謂慰婦となしたのでありまして、その婦女の数は60名であります」と供述している。(同前)

 また第39師団長であった佐々木真之介は、師団が駐屯していた湖北省当陽には「日本人経営の慰安所が従前より設けられていた」が「師団は之が経営を支援した」と述べている。

131 慰安所は、現地の女性を拉致、拘束して、日本兵に強姦させる場所であったとする供述もある。
 「1943年1月中旬より同年3月下旬まで、私は部下森軍曹に命じ、兵力を以て、合計7名の婦人を拉致して来て、分遣隊前の家屋内に拘置して、これを隊の慰安所として、1月より3月の間、部下に自由にここに行って強姦させた。(住岡義一)

 慰安所は日本人のためだけではなかった。
 「1944年7月、私が山西省霍(かく)県保安隊指導官の時、霍県県政府の入り口に住んでいた某中国人(糧食店の主人、年齢30歳前後)及び南街某旅館の女主人(年齢40余歳)を、平遥に行かしめ、保安隊員に肉体を提供するための慰安所で働く女性を4名連行せしめて、来させた。慰安所を開いた目的は、保安隊員を女性に縛り付け、逃亡をなくさしめることが主な目的で、また自分も公然と獣欲を満足できると考えたからであった。(永富博之)
 保安隊は中国人である。

132 慰安所の設置は、山西省に残留した部隊では、戦後にも及んだ。
 1948年3月下旬、教導総隊用としての慰安所の設立を、今村方策に建議し、従来第6団の経営していた大南門の慰安所を、白麵百袋をもって譲り受け、これを修理せしめ、司令部において経営せしめた。慰安婦は中国女性6名であった。その他司令部の上級幹部用としての太原市精営中街の宿舎の獲得、及び慰安設備としての「春雨」の家屋の獲得と経営等は、残留日本人を腐化堕落の道に追い込み、また一般隊員と各団の、司令部に対する不満を抑えまたは緩和し、日本人の残留に影響を与えた。(菊地修一)
性暴力であったと認罪
 慰安所設置の目的は、戦地での日本兵による強姦を防止することであったが、あまり役に立たず、日本兵による強姦事件は多発した。華北では、相手が八路軍=敵性区域だったために、特に多かった。
 「中国人、得に中共地区の中国人には、日本人が何をしても泣き寝入りであり、やるだけ得だとの考えから犯しました。日本人は何をやっても差し支えないという民族的優越感からこれを犯しました。」(神野久吉、1908年生、警察官)

133 「1942年2月上旬20時(ママ)、山西省保徳県橋頭村で結婚式中の19歳位の中国女性一名の逮捕を黙認し、ここは完全な敵地区だし、中国女性の一人くらい強姦したって、誰がしたか分かる訳でもないと考え、翌日橋頭村の東北端の民家につれて来させて、(私は彼女を)強姦し、橋頭村で釈放した。」(菊地修一)

 1992年、東京で開かれた座談会で、鈴木良雄(元第59師団)は、「敵性地区に入ると、討伐隊長から何をしてもいいと命令が出る。強姦も暗黙の了解だった。」と発言している。(『季刊 中帰連』第五号、1998.6

 敵性地区なら犯罪行為をしても告発されないと兵士が考え、指揮する側も許容する命令を下していた。
 強姦は住民虐殺とは異なり、それ自体が命令によって行われるものではなかったから、言い逃れをしにくい罪だった。また兵士は強姦した相手の女性を殺害することが多かったため、自分さえ黙っていれば、告発される可能性もそれほど高くない。だから強姦を自白することは、自分の罪を洗いざらい自白する最終段階であったといえ、認罪の深さを示すものだ。(中国帰還者連絡会編『私たちは中国でなにをしたか』三一書房、1987
134 綴られた反省 認罪

 「私の行った行為が罪悪でなくて何を罪悪と言うのか」(永富博之)

 「元来この侵略戦争そのものが既に中国の領土、主権を侵犯したる重大罪行であり、さらに侵略行動の間に多数の中国人民の貴重な生命を奪い、特に傷員捕虜の殺害、或いはガス殺害または平和農民を捕らえ初年兵教育のために刺突を行い虐殺したなどの如きは、共に国際法上、人道上許されない罪行であります。」(長島勤、1888年生)

135 「一体誰が私をしてこの滔天の罪悪を犯す人間にしたのか。それは日本の社会であり、日本の教育だ。更に明確にすれば、天皇制機構統治下の日本の社会である。それはまた、天皇裕仁を中心とする反動的統治階級によって、私はこのような罪人になり下ってしまいました。」(永富博之)

感想 それでは自分の、そういう日本社会に対する責任はないのか。虫がいいぜ。

 「特に青年期の二年間の天皇制軍隊における「君御一人」以外何者もない教育は、私をして盲目的に天皇を崇拝せしめ、かつて戦いに敗れたことがない優秀民族であるとの優越感を深めさせました。」(神野久吉)

 「日本は人口が多く国土が狭いので、必ず海外に発展しなければならない。また大和民族は優秀だとの統治階級の宣伝で、私はすっかり目隠しをされ、正邪の分別さえ判定できない私となりました。」

感想 これも自分の、そういう日本社会に対する責任はないのか、と言いたい。

 「満洲事変のときは、日本の発展だと喜びました。支那事変の時は、なぜ中国人は、日本を排斥するのか中国人は蒙昧だから、英米ソに扇動され、当然提携すべき日本を排斥しているのだ、このようでは日本は武力に訴えても中国人の迷夢を醒ましてやるべきだと、当時の反動政府の宣伝をその通りに信じました。」(笠実、1906年生)

感想 軍事的行動をどうして発展だと考えるのだろうか。他人の考え方を武力で変えさせるべきだと考える方向にどうして進むのだろうか。よっぽど自己中で自尊心が強いことにご満悦だったに違いない

136 感想 筆者は、これらが自らの罪を認めた上での批判であるとしているが、個人のなすべきことは、中国人に対する罪を認めることだけで済まされるのだろうか。日本社会の一員として、日本社会に働きかけるべきではなかったのか。

 鈴木啓久中将・第117師団長、佐々真之介中将・第39師団長、長島勤少将・第54旅団長、藤田茂中将・第59師団長など幹部クラスの認罪には時間がかかった。(金源「奇談 或る戦犯管理所長の回想」第八回、『季刊 中帰連』第22号、2002.9


第4章 なぜ日本は「侵略」という認識をもたなかったのか――戦後日本社会の中の中帰連 吉田裕


138 ポツダム宣言第11項は「実物賠償の取立」を規定していて、鈴木貫太郎首相も「戦後の賠償と復興の為に一層の忍苦と努力とを要する」と語り、賠償を覚悟していた。
142 A級、B級、C級戦争犯罪とは、それぞれ、平和に対する罪、通例の戦争犯罪、人道に対する罪をいう。
143 旧海軍はGHQによって温存され、海上保安庁、保安庁警備隊を経て、海上自衛隊の人脈の中に入っていった。(前田哲男『自衛隊の歴史』ちくま学芸文庫、1994
 旧軍将校グループも、CHQによって温存され、厚生省の人脈の中に入った。
地方では、旧連隊区司令部の後続である地方世話部、世話課、中央では、旧陸海軍省を縮小・改編した第一、第二復員省、復員局などを経て厚生省引揚援護局に入った。彼等は、A級戦犯の靖国合祀を推進した。
144 サンフランシスコ講和会議への各国の出席状況

・招請されたが出席を拒否 ユーゴスラビアなど3カ国
・参加したが条約調印を拒否 ソ連など3カ国
・招請されなかった 中華人民共和国、中華民国、韓国
韓国は参加する権限を有すると主張したが、英・日の反対で実現しなかった。(金民樹「対日講和条約と韓国参加問題」『国際政治』第131号、2002

145 サンフランシスコ講和条約第11条が「日本政府が東京裁判の判決を受諾する」としただけで、日本の戦争責任や賠償に関する名文は言及されず、軍備制限条項や民主化履行義務条項も盛り込まれなかった。
アメリカの圧力で日本に対する賠償請求権の多くが放棄された。日本が賠償を支払ったのは、フィリピン、インドネシア、ビルマ、南ベトナムだけだった。
146 社会党左派の山川均は、「さらなる賠償要求は、敗戦国民に対する報復だ」として加害者意識が希薄だった。
147 1950.7.8、マッカーサーが創設を指示し、アメリカの軍事顧問団が教育・訓練を担当した警察予備隊は、治安警察軍的な性格を持っていた。
1951.6.20、日本政府は公職追放解除をし、三木武吉ら2958人の政財界人の追放を解除した。また8.6、鳩山一郎、河野一郎ら1万3904人の追放を解除した。
148 戦死者公葬の復活忠魂碑の再建・復元天皇・首相の靖国神社参拝の復活などは、1950年代の前半の特徴だ。
 「抑留同胞完全救出・巣鴨戦犯全面釈放貫徹国民大会」が開かれ1953.11.11戦犯の釈放を要求する国会決議(共産党を除く)が採択された。
149 フィリピンが、死刑囚を除く戦犯を釈放した。1953
151 鳩山一郎内閣1954、岸信介内閣1957は、改憲・再軍備を掲げた。
152 荒木貞夫、賀屋興宣(かやおきのり)、橋本欽五郎、鈴木貞一らA級戦犯が放送に出演した。1956
153 日本遺族会が全国戦没者遺族大会で、靖国神社の国家護持を要求した。1956
教科書調査官制度が発足し、教科書から侵略・加害の記述を消した1956

154 中国から帰国した戦犯は、公安調査庁から破壊的団体と看做され(『公安調査月報』)、警察に接触・監視され、就職先に警察が頻繁に現れ、転職を余儀なくされた。(「大河原孝一さんに聞く 戦場、撫順、そして未来へ」『季刊 中帰連』2002
155 元陸軍大佐で、厚生省引揚援護局次長の美山要蔵は、中帰連との団体交渉の席上で「(諸君の)日本の侵略呼ばわりは、そう簡単に割り切れるものではない。遠因、近因、複雑多岐である。日本軍隊の残虐行為を言うが、その時の日本軍は精鋭で、決して無茶はやらなかった」(『奇をてらわず』講談社2009
 中帰連関係者の手記、神吉晴夫編『三光――日本人の中国における戦争犯罪の告白』(光文社1957)を発行した光文社は、暴力右翼の護国青年隊の攻撃を受け、実質的に出版を停止した。
156 藤原審邇『みんなが知っている』(春陽堂1957)も右翼に攻撃され、春陽堂は、当初のサブタイトル「百万支那派遣軍による中国婦女子の受難」を削除した。
157 杉森久英「『三光』に抗議する」(『新潮』1957.6)には、性暴力を戦争犯罪として語ることにタブーがあるようだ。
158 徴用者にも、戦傷病者戦没者遺族等援護法が適用された。1952.4
恩給法が改正され、一般軍人にも恩給の受給資格が生じた。1961.6
 日本遺族会1953(日本遺族厚生連盟1947)、軍恩連盟全国連絡会(旧軍人関係恩給復活全国連絡会1952)は自民党の支援・圧力団体である。

 戦友会は1960年代から70年代にかけて結成され、70年代後半から80年代前半に、その活動の最盛期に達し、1995年には、戦友会による、靖国神社での戦没者慰霊祭件数が388件と最大に達したが、その後は減少傾向で、2008年には、65件となった。
憲兵の戦友会を憲友会という。BC級戦犯での憲兵の比率は高い。『憲友』1954は「世人に、憲兵に対する誤解を改めさせねばならない」としている。

160 全国憲友会連合会1963結成)は、山形憲友会総会で、中帰連の土屋芳雄を「元憲兵の体面を汚すもの」として憲友会から除名した。


中帰連は、出版活動や証言運動によって侵略戦争の実態を告発し、戦争に加担した兵士の戦争責任の問題を提起し続け、また、ジャーナリストの取材に協力し、熊沢京次郎『天皇の軍隊』(現代評論社1974)のようなすぐれた作品を生み出した。熊沢京次郎は、本多勝一と長沼節夫のペンネームである。

80年代以降の世論調査で、先の戦争を自衛戦争だったとする者は、10%に過ぎない。
『新聞記者が語りつく戦争』(全20巻 読売新聞社1976—84)には、特に第16巻『中国慰霊』や第17巻『中国侵略』で、一般兵士による、数多くの生々しい加害の証言が見られる。
162 中帰連会員で一般兵士の金子安次鈴木良雄は、女性国際戦犯法廷2000.12で、自らが性暴力を行ったと証言した。
NHKBShiシリーズ「証言記録 兵士たちの戦争」2007は、死期を間近にした元軍人たちの、戦争中における加害行為と戦場での凄惨な現実に関する証言を紹介している。

感想 著者は「中帰連の活動が漸くここにきて実を結びつつある」としているが、楽観的な判断ではないか。保守的な元軍人たちが死ぬことによって、平和な時代が保証されるとは限らない。



第5章 帰国後の元戦犯たちの歩み――「中帰連」一メンバーの視点から 高橋哲郎

166 中帰連のメンバーとは、ソ連で捕虜として5年間抑留された者の中から、約1000名が選抜され、戦犯として中国に引き渡され、約6年間の監禁1950.7—1956.7の後、裁判に付されたが、そのほとんどは、罪に問われることもなく放免され、残る少数の一部も、死刑や無期徒刑になることもなく、有期で、しかも満期を待たずに途中で放免され、帰国後に会「中帰連」を結成し、反戦平和、日中友好を目指して活動しようと決意した人たちのことである。
刑が軽くされたのは、周恩来の指示による。

166 1000名のほとんどは下級将校や下士官・兵士で、旧関東軍の将校や旧満州国の高級官僚は少なかった。陸軍第59師団と第39師団の者はまとまってこれに該当した。

167 反満抗日の愛国者は拷問され731部隊に送られた。

168 私たちは当初、虚勢を張り、傲慢で、管理所側に無理難題を吹きかけ、支配者然としていた。
 金源氏、呉浩然氏、崔仁傑氏らは、寛容な態度で我々に応接してくれた。
169 1954年から裁判が始まった。
170 裁判では、被害者の証言や写真、書類などの物証も重視された。
 旧満州国の総務庁次長だった古梅忠之は「後世の人への教育のためにも、自分を極刑に処してください」と述べた。
 周恩来総理は「日本戦犯の処理については、一人の死刑もあってはならず、また一人の無期徒刑も出してはならない。有期徒刑もできるだけ少数にすべきである。普通の者は不起訴である」と決定した。
 1956年夏の軍事裁判は、特に罪の重い45名に対して有期刑が下されたが、その他の者は全員起訴免除となり、即日釈放され、日本に帰国した。

171 1956年の春、1000名の戦犯は三班に分けられ、約10日間、中国の主要都市をめぐり、中国社会を参観させられた。その時、
 撫順炭鉱の講堂で方素栄という平頂山虐殺事件の生存者の話を聞いた。
 事件は1932年9月16日、撫順市平頂山という町で起こされた。「写真を撮るから」と言って町の人々を広場に集めた日本軍は、3000名の人々を一挙に機銃掃射で虐殺した。幼い子どもだった方素栄さんは、自分の目の前で、両親、祖父、弟、そして生まれたばかりの赤ちゃんをあっという間に殺されてしまった。彼女は倒れた家族の体に守られて奇跡的に命を取りとめた。
172 彼女は血を吐くような悲痛な声で訴えた。
 「どうして何の罪もない弟や赤ちゃんを殺したのですか。私のお祖父さん、両親が、いったい何をしたというのですか。どうしてこんなむごたらしい殺され方をしなければならないんですか。」「私はそれから日本人を見るたびに、飛びかかって噛み殺してやりたい衝動に駆られました。日本帝国主義が降伏した時は、私のお母さんやお祖父さんがやられたのと同じように皆殺しにしてやるんだと泣き叫び、多くの人々を手こずらせました。」「しかしそんな時は、日本軍国主義が悪いのであって、我々は日本人民と団結して再びこのような戦争が起きないように努力しなければならないと、中国共産党に指導を受けました。」「私はもうこれ以上言うことはできません。最後にただ一つはっきり言っておきたいことは、皆さんは二度と他国を侵略するようなことだけは絶対にしないで下さいということです。」
173 中国には2000万人の、いやそれ以上の方素栄さんが、過去の痛みをじっと我慢して、私たちに向き合っているのだということを、ようやく感情的にも理解できるようになった。

174 1956年7月、8月、9月に1017名が釈放された。
175 1957.2、東京の国友俊太郎、五十嵐基久らが中心となって、中国帰還者連絡会(中帰連)が発足した。それは帰国時の舞鶴での意思統一である「舞鶴方針」に基づくものだった。

1956.7、第一梯団335名が、舞鶴での全員集会で「舞鶴方針」を決議した。その主な内容は、日中友好・平和のための闘い、特別手当の要求、恩給資格附与の要求、太原関係者の身分を軍人として復権させる要求などであった。

176 1957.9、第一回全国大会を開催した。

1957.2、管理所で書いた手記を、光文社『三光――日本人の中国における戦争犯罪の告白』として出版したが、右翼のために増刷できなくなった。そこで、
1958.7、新読書社『侵略――中国における日本戦犯の告白』を刊行した。
177 中国からの強制連行者の遺骨送還事業に参加した。
1958.2、強制連行被害者である劉連仁さんが、北海道の山中で発見され、その帰国を援助し、その人権を取り戻すための闘いを岸内閣に対して行ったが、岸内閣は中国を敵視し、日中友好運動を圧迫した。
政府から経済的支援を求める闘争は失敗した。

178 1966.3、訪中した日本共産党代表団と中国共産党は、米帝に反対する国際統一戦線に関して意見が一致せず、日中友好協会が分裂し、中帰連も「正統」と「中連」に分裂した。

179 1972.9.29、文革期間中だったが、田中角栄首相と周恩来総理との間で、日中共同声明が署名され、国交が回復した。
1976.1、周恩来総理が逝去し、9、毛沢東主席が逝去し、10、紅青ら四人組が逮捕され、分革が終息した。

感想 中帰連の高橋哲郎氏は、1972年の日中共同声明を肯定的にとらえているようだが、『太陽がほしい』046の万愛花さんは、中国当局=官憲によって、日本への損害賠償訴訟に関する記者会見を抑えつけられたことに関して、中国当局を批判している。日中友好と言っても、政府間の友好なのか、民衆同士の友好なのかは別の問題であるようだ。

1980.4.11、第59師団長、中将であった中帰連初代会長・藤田茂が逝去した。彼は18年の禁固刑を受けたが、1957年に、刑期満了前に釈放され、帰国した。
1981.9、帰国25周年の集いが、中帰連埼玉支部の主催で開催され、組織統一が話し合われた。
180 「正統」と「中連」の合同で、(中国の)管理所元職員8名を、日本に招待した。1984.10

1986.10、熱海で統一大会が開催された。
1988、統一第二回全国大会を開いた。富永正三会長、大河原孝一副会長、絵鳩毅常任委員長、高橋哲郎事務局長を新役員とした。
撫順戦犯管理所が記念館として復元され、当方の希望でそこに謝罪碑を建立した。費用数千万円は会員のカンパによった。
182 中国から、管理所、撫順市人民政府、北京の中国国際友誼促進会などの関係者が来日した。
訪中団も組織され、NHK「戦犯たちの告白――1062人の手記」や、山形放送「ある戦犯の謝罪」は、その訪中団の模様を伝えた。

 我々は、731部隊、無人区作戦華北地区の強制連行、三光作戦、従軍「慰安婦」、軍医による生体解剖、南京虐殺事件などを語り続け、記録し続けた。

183 1990年代、中国侵略戦争を「正義の戦争」、「大東亜解放の聖戦」などとする言説を『季刊 中帰連』(1997創刊)で批判した。

軍事裁判での45名の供述書は、主に高位高官の軍人や旧満州国の官僚のものだ。

1062名は、今2009では平均年齢87歳で、証言可能なものは17名しかいない。
184 2000.9、中帰連の存続・後継を望む若者を含む中帰連関係者99名が訪中し、9.21、「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」を立ち上げた。
2002、「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」が仁木ふみ子代表、熊谷伸一郎事務局長のもとに発足し、『季刊 中帰連』を発行し、「中帰連平和記念館」を運営している。それと同時に中帰連は解散した。


あとがき 仁木ふみ子

本書で取り上げた供述書は、2005.5、駐日中国大使の王毅氏から、中帰連(および受け継ぐ会)に提供されたものである。
2002、中帰連が解散し、受け継ぐ会が結成された。
188 2006.11、NPO中帰連平和記念館が開館し、図書や資料が集められた。
2004.12、元中帰連と受け継ぐ会の代表が王毅大使を訪れ、供述書のコピーを求め、45名分の供述書が提供された。
 吉田裕、岡本厚(岩波書店)、侵略史研究会(2006.3から開会)が、供述書とその解説をまとめたものが本書である。供述書はいずれ出版される予定だ。

NPO中帰連平和記念館
埼玉県川越市笠幡1947‐25
049‐231‐9706

以上 2019829()



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