2019年9月24日火曜日

関東大震災時の中国人虐殺追悼集会での中国人代表団の挨拶 2019.9.8 要旨


関東大震災時の中国人虐殺追悼集会での中国人代表団の挨拶 2019.9.8

「歴史を忘れず、鑑としよう」 周江法

私の祖父周端楷は、兄弟の周端興、周端方、周端勲、母方の祖父林永潘、親戚(祖母の妹の夫)の麻銀宝の計六人で、1922年、出稼ぎで、東京の大島町で合法的に働いていた。9月3日夜明け前から、日本は軍隊を出動させ、計画的に組織された警察、青年団を中心とする自警団は、あちこちで中国人労働者を包囲し、惨殺した。私の村の出身者は20名いたが、当日山林に逃げた周賢者、周慶飛の父子以外の18名は、大島町七丁目、八丁目あたりで惨殺された。一家六名が惨殺されたニュースは、全中国、全世界を震撼させた。
中国に残された私の父は当時3歳だった。曾祖母、祖母は、数ヵ月後に6人の死を知り、子供の周端田、孫の周錫昌を養育した。祖母(氏)は、夫の周端楷など6人が虐殺されたことを知ると、病気になり、1924年8月に死去した。私の父は、父母を失い、父の祖母、私の曾祖母によって育てられた。1997年に77歳で亡くなった父は、死ぬとき、日本の地に赴き線香をあげてくれと私に遺言した。
私は日本政府から賠償を求めるために、2013年9月から今までの6年間、妻や娘、孫娘とともに6回も来日し、先祖追悼行事にも参加し続けた。2014年、私は、700余名の受難者の遺族を代表して、日本外務省に請願状を提出し、2015年9月以降、催促状を届けた。日本政府は、死難した700余名の人たち、数万人に及ぶ死難者の遺族に対して、公正かつ明確な答えを出してもらいたい。
我々は700余名の遺族の代表者として、日本政府に歴史を直視し、96年前に犯した卑劣な罪を認めることを要求する。
日本政府は、歴史の真相を究明し、その惨劇が日本の国家行為だと認め、1924年に日本政府が予定した賠償案を切実に実現し、無残に虐殺されたわが先祖や遺族たちに明晰な結論を出してほしい。
私たちは「歴史を忘れず、歴史を鑑に」という基本を決して忘れてはなりません。
中日両国の関係者に対して、この悲惨な歴史に注意を払い、両国の次の世代のために、美しい平和な環境を築き、両国の人民の幸福のために努力していただくよう、これからも呼びかけていきたい。

王旗
真実を保存し、記憶を守り抜く、常に尊敬することを忘れない。
祖父王希天や温州旅日華工の追悼活動にこのたび参加した。
王希天は1914年来日した。1918年周恩来とともに「拒約運動」を起こした。
王希天の陵園が吉林省長春に建設された。
日本人研究者が「東瀛(よう)惨案」*の研究を深め、関東大震災時の虐殺の歴史の真相を明らかにした。
日中二つの社会価値観の相互の衝突と交流を実現すれば、歴史研究が推進するだろう。
中日両国人民が後の世代まで友好でありますように。
 *「東瀛(よう)惨案」とは、関東大震災時の中国人虐殺事件のこと。瀛は海の義。
王思迪(テキ、ジャク、みち)
青山は老いることなく、忠義な魂は永遠にとどまる。
今年は曽祖父王希天烈士が殉難してから96周年目になる。
私の年長者たちは私に、民族の大義と民族の気概を知らなければならないと教え諭した。
私は英国に留学後、中国に戻り、一流教育ブランドを創造するために努力している。私は最高素質の中国人になれることを心から願っている。
私たちは平和な時代に、髪を振り乱し、熱血を注いで、私心を捨て革命千烈となった人々を決して忘れてはなりません。
中日両国人民の世々代々の友好を!

張令威

今年は、曽祖父王希天烈士が殉難してから96年になる。
1970年代に、周恩来や鄧穎(エイ、ヨウ、ほさき)超等の配慮の下に、私の母王旗と家族は、王希天烈士の資料の調査・収集活動を行った。
中国社会科学院近代史研究所、吉林省社会科学院、吉林省党史事務室、吉林省档(とう)案局、吉林省革命博物館等も王希天に関する資料の収集を行った。
1990年代に中日両国の研究者の努力で、関東大震災時の殺傷事件が、(事件発生以来)70余年をかけて、世界に公開された
1994年、長春に王希天研究会が成立した。
1996年、吉林省革命博物館は、『王希天生涯業績展』を、長春、北京、遼寧、黒竜江等で開き、王希天烈士陵園が長春石碑嶺に落成した。また、この期間に10余部の専門書と図録が編集出版された。
1922年、王希天は、旅日華工を貧困から助け出し、困難から救い出し、その権益の合法化のために、東京地方裁判所に申請し、中国僑日労働同胞共済会を創建し、会長に推挙された。
1923年、793人の旅日華工が日本人によって理由もなく殺戮され、数千人の華工が習志野の収容所に押送された。王希天はその真相を調査し、被災した中国人を慰問したが、日本の軍警によって逆井橋のたもとで殺害された。
今日王希天烈士の奮闘献身した祖国は繁栄しており、世界の東方に巨人としてそびえている。
中日両国人民の世々代々の友好のために、私たちは神聖な責任を負いましょう。

周松権

私は、中国浙江省温州市甌(オウ、わん、はち)海区澤雅鎮の桂川村*の出身である。
*桂川村は、前述の周江法さんと同郷。
今年は中国浙江省の温州、青田両地方の在日労働者や商売人700数名が虐殺されて96年目である。96年前、温州、青田両地方の山地の農民や職人は、合法的に日本に渡来し、生計を立てようとした。1923年9月1日の地震時には中国政府や民間各業界は、たくさんの支援物資を日本に送った
ところが、日本政府は戒厳令を下し、治安維持の名目で、渡日華工と行商人、そして中国人留学生のリーダーで「共済会」会長の王希天を残忍かつ卑劣にも惨殺した。
我が桂川村だけで、祖父周可洪を始め、周可其、周端楷*など18名が惨殺され、2人だけが生き残った。
*周端楷は、前述の周江法さんの祖父。
中国に残された家族は、病死、餓死、衰弱死、家族の離散などの悲劇に苦しめられた。
日本政府は、悲劇の被害者とその遺族に謝罪して欲しい。私たちは2014年に請願書、2015年から毎年督促状を日本政府に提出したが、日本政府は未だに回答していない。
私たちは日本政府が1924年に内閣決議した賠償方針に従い、相応の賠償をするように求める。また受難した700数名の中国人労働者や行商人のために、記念館や記念碑を建てることを求める。

蘇秀栄

 私は中国浙江省温州市甌(オウ、わん、はち)海区澤雅鎮の黄降村の出身である。私の父、蘇上三、蘇上四を含む同郷の6名の祖先が、被害にあった。
1920年から1923年の間、私の祖父、蘇上三と蘇上四ら6名は東京大島の七丁目や八丁目一帯に住み仕事をしていた。
1923年9月3日、軍隊と自警団は、至るところから中国人労働者を取り囲んで虐殺した。当日私の村の6名の村人は皆八丁目で虐殺された。
祖父蘇上三と蘇上四が殺されたという知らせは1923年の冬に伝えられ、全村は悲痛の声で覆われた。家族は離散し、一家は没落し四散した。
日本政府は歴史的犯罪を調査し、歴史の公道と正義を回復し、国家的責任をもって95年前に政府決定した賠償を誠実に実行し、公道を取り戻すよう誓約する(してほしい)。

以上 2019924()


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