2019年9月13日金曜日

戰爭抛棄に關する條約(パリ不戦条約)


戰爭抛棄に關する條約(パリ不戦条約)

当初、仏(ブリアン)米(ケロッグ)間の協定から始まり、1928年8月27日、パリで、15カ国が署名し、採択され、その後、63カ国が署名した。  



人類の福祉を增進すべき、其の嚴肅なる責務を深く感銘し、

其の人民間に現存する平和及友好の關係を永久ならしめんが爲、國家の政策の手段としての戰爭を卒直に抛棄すべき時機の到來せることを確信し、

其の相互關係に於ける一切の變更は、平和的手段に依りてのみ之を求むべく、又平和的にして秩序ある手續の結果たるべきこと、及今後戰爭に訴へて國家の利益を增進せんとする署名國は、本條約の供與する利益を拒否せらるべきものなることを確信し、

其の範例に促され、世界の他の一切の國が此の人道的努力に參加し、且本條約の實施後、速に加入することに依りて、其の人民をして本條約の規定する恩澤に浴せしめ、以て國家の政策の手段としての戰爭の共同抛棄に、世界の文明諸國を結合せんことを希望し

茲に條約を締結することに決し、之が爲左の如く其の全權委員を任命せり。

獨逸國大統領、以下省略。「日本國皇帝陛下」「樞密顧問官伯爵 田康哉」も名を連ねている。

因て各全權委員は互に其の全權委任狀を示し、之が良好妥當なるを認めたる後、左の諸條を協定せり。


第一條

締約國は國際紛爭解決の爲、戰爭に訴ふることを非とし、且其の相互關係に於て、國家の政策の手段としての戰爭を抛棄することを、其の各自の人民の名に於て嚴肅に宣言す。

第二條

締約國は相互間に起ることあるべき一切の紛爭又は紛議は、其ノ性質又は起因の如何を問はず、平和的手段に依るの外、之が處理又は解決を求めざることを約す。

第三條

本條約は前文に揭げらるる締約國に依り、其の各自の憲法上の要件に從ひ、批准せらるべく、且各國の批准書が總て「ワシントン」に於て寄託せられたる後、直に締約國間に實施せらるべし。(以下省略)

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以下は日本的解釈。人民主権ではなく、天皇主権であることの主張。当時の日本の、世界における位置を知る意味で、参考までに掲げる。他方、先進的世界の主流は人民主権であったことが、条約の条文から分かる。


1929年条約第1号 公布: 1929年(昭和4年)725日 発効: 1929724日 通称:パリ不戦条約、不戦条約、ケロッグ・ブリアン協定。 閣總理大臣 濱口雄幸 外務大臣 男爵・幣原喜重郞


天佑を保有し、萬世一系の帝祚を踐める

日本國皇帝(御名)(は)此の書を見る有衆に宣示す。

朕(私は)昭和三年(1928年)八月二十七日(に)巴里(パリ)に於て、帝國全權委員が關係各國全權委員と共に署名調印し、且第一條中の字句に關し、昭和四年(1929年)六月二十七日附を以て帝國政府が宣言する所ありたる、戰爭抛棄に關する條約を覽點檢し、右帝國政府の宣言を存して、之を嘉納批准す。

神武天皇卽位紀元二千五百八十九年、昭和四年(1929年)、六月二十七日、東京宮城に於て、親ら名を署し、璽を鈐せしむ。

御名國璽

外務大臣 男爵田中義一
宣言

帝國政府は、千九百二十八年八月二十七日、巴里(パリ)に於て署名せられたる、戰爭抛棄に關する條約第一條中の「其の各自の人民の名に於て」なる字句は、帝國憲法の條章より觀て、日本國に限り適用なきものと了解することを宣言す。(主権は民衆にはないということを言いたいようだ。)

昭和四年(1929年)六月二十七日


Wikipedia 最終更新日時 2018322 () 17:20


 (参考)ウイキペディアに、自己中的で日本保守派的な主張が掲載されていた。今日の日本保守派の源流を支えていた人たちの一人と思われる高柳賢三である。保守の奥深さ、執拗さを感じる。東大法学部卒、英米法学者、成蹊大学名誉教授である
高柳は、極東国際軍事裁判で、日本側の弁護人として、「検察側の国際法論に対する弁護側の反駁」1947.2.24と題する弁論の中で、ケロッグの不戦条約案の説明を引き合いに出し、満州事変から始まる15年戦争は自衛戦争だとし、不戦条約は、日本の戦争を断罪し、被告人を処罰する根拠にはなり得ない、と論駁したとのことだ。「自衛戦争」論は、ここから出ているのかもしれない。不戦条約の条文の意図を素直に読み取れないようだ。

2019913()


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