2019年9月24日火曜日

山河慟哭 東瀛(エイ、ヨウ、うみ)惨案 史料が語る1923年関東大震災中国人虐殺事件 要旨・抜粋・感想 


山河慟哭 東瀛(エイ、ヨウ、うみ)惨案 史料が語る1923年関東大震災中国人虐殺事件

感想
韓国には被害者名簿がなかった。*中国にはあった。そのため補償の請求ができた。中国本土に逃げられた留学生等が被害の実情を中国にもたらした。

*6)で、留学生の調査により、朝鮮人被害者数6661人、しかし詳細な氏名は殆ど不明。2017.8.3、韓国の遺族5人が、釜山で遺族会を発足とある。

王希天殺害に関して、日本はだんまりを決め込んでいた。しかし、加害者の日記が発見されて、明るみに出た。

1)中国人虐殺事件 仁木ふみ子作成による大島町の地図

大虐殺は戒厳令下で発生した。
9月2日、東京市とその周辺5郡に戒厳宣告がなされ、内務省警保局長が、朝鮮人が暴動を起こしたと認定した。
3日、戒厳宣告が東京府と神奈川県に拡大し、戦時特命の軍事参議官福田雅太郎が、戒厳司令官に任用され、戦時気分を高揚させた。
4日、戒厳宣告が埼玉・千葉両県に拡大した。
 東北や金沢の部隊にも東京への出動を命じた。
 福田は、各地に検問所を設け、「この際地方諸団体及び一般人士もまた極力自衛共同の実を発して、災害の防止に努められんことを望む」と告諭し、軍隊、警察の下に、自警団を取り込み、それが、朝鮮人、中国人、社会主義者を検問・抑留・拘留する根拠となった。
 米騒動1918のときにすでに内務省は、暴動対策として、各市町村に在郷軍人会と青年会を中核とする自警組織を作らせる行政指導をしていた。関東大震災時には、これが自然発生的なものも含めて膨大に組織された。また軍による虐殺の記録もある。
 9月10日までに配置された軍隊は、東京憲兵隊、歩兵59大隊、騎兵6連隊、砲兵6連隊、騎砲兵1大隊ほかで、人員5万2000人、馬9700頭であった。
 軍事的制圧の形態をとり、軍隊による兵器の使用が解禁され、軍隊による検問、令状なしの捜査、自警団への指導がなされた。軍隊の出動は、民衆を、混乱・不安・恐怖から、朝鮮人や中国人の虐殺へと踏み込ませた。
 戒厳令布告は、市民を敵前勤務の心理状態にさせ、「天下晴れての人殺し」を意味した。「朝鮮人を見れば打ち殺してよろしい」と巡査が告げれば、人々は「朝鮮人を捕らえれば金鵄勲章をもらえると思いこんだ
 警視総監の赤池濃と内務大臣の水野錬太郎が戒厳令を推進した。水野は米騒動のときの内務大臣で、1919年には朝鮮総督府政務総監となり、朝鮮総督府警務局長赤池とともに3・1独立運動を弾圧した。
 関東大震災時東京南部を担当した第1師団長衛戍(ジュ)司令官代行石光真臣は、米騒動時の憲兵司令官で、1919年には朝鮮憲兵司令官であった。

中国人被害者の名簿はある。
留学生王兆澄等が、被害にあった中国人一人ひとりについて、生死、被害状況、加害者、目撃者、財産被害状況を調査し、帰国してその名簿を中国にもたらした

2)大島事件
 大島事件はまず、帰国した唯一の幸存者・黄子蓮によって明らかにされた。また日本の外務省の記録もある。
 資料① 日本外務省資料「支那人に関する報道 9月6日警視庁広瀬外事課長直話」は、「軍隊及び自警団」の関与の下に「9月3日…支那人及び朝鮮人三百名乃至四百名三回に亘り銃殺又は撲殺せられたり」とある。
 資料② 9月21日、外務省亜細亜局長「支那人王希天行衛不明の件」(「不明」とうそぶいているが、実は秘密にしておこうと取り決めていた(後述))で、「本所大島町付近に於いて、約三百名の支那労働者殺害せられたる事実は、9月16日、警視総監の出渕局長に言明(正力(松太郎)官房主事熱心にこれを裏書せり)せる」「同問題と王希天行衛不明問題とは、多分早晩支那側の疑惑を惹起するに至るが如き」と記している。
 資料③ 『支那人虐殺事件』(防衛省防衛研究所所蔵、陸軍省-密大日記 上海陸軍歩兵少佐小林角太郎作成)には、「惨殺せられたるもの170余名」「その大部分は(中国浙江省)温州付近のもの」とある。
 資料④ 古森(繁高)亀戸警察署長の白上官房主事宛『木戸四郎が新聞記者に説明した報告』には、「9月3日正午より軍隊約7名が5名の鮮支人を現場において撲殺せるを手始めに続々二三丁目方面より支那人を三々五々連行し撲殺し、午後6時までに約250名を、軍隊、自警団警官にて惨殺せる」とある。(これによって、中国人を間違って殺したというのは嘘だということが分かる。)
 資料⑤ 関東戒厳軍司令部詳報第三巻「震災後警備のため兵器を使用せる事件調査表」には、戒厳部隊の動きとともに「大島町事件」虐殺の事実が記されている。「支那労働者なりとの説あるも、軍隊側は鮮人と確信殺害したるものなり」とあるが、生存者証言があり、これまでの資料から、むしろ中国人と認識した上で、国際問題になることを恐れ、隠蔽する意図が明白である。

感想 この資料の表題には「鮮人保護」とあり、その内容部分には、「大島町付近住民が鮮人から危害を受けようとしていたとき、軍隊が救援隊を出し、鮮人を包囲しようとした。群衆と警官四五十名が、約二百名の鮮人団を引っ張ってきて、それをどう始末するか話し合っているとき、騎兵卒三名が鮮人の首領二名を銃把(取っ手)で殴打したことから、鮮人と群衆及び警官とが争闘となり、軍隊はこれを防ごうとしたが、鮮人は全部殺された」とあるが、これは嘘っぽい話だ。連れて来られた朝鮮人が、どうして警官・群衆と闘うことができるだろうか。原文は下記の通りである。

大島町付近人民が鮮人より危害を受けんとせる際、救援隊として野重(野戦重砲兵)一、二岩波少尉来着し、騎十四の三浦少尉と偶々会合し、共に鮮人を包囲せんとするに、群衆及び警官四五十名、約二百名の鮮人団を率い来たり、その始末協議中、騎兵卒三名が鮮人首領二名を銃把を以て殴打せるを動機とし、鮮人は群衆及び警官と争闘を起こし、軍隊はこれを防止せんとせしが、鮮人は全部殺害られたり。

一、野重一、二将校以下六十九名は兵器を携行せず(明らかな嘘、デマ)
二、鮮人約二百名は暴行強姦略奪せりと称せられ棍棒鉈等の凶器を携行せり(自分たちが普段やっていることではないか)
三、本鮮人団は支那労働者なりとの説あるも軍隊側は鮮人と確信殺害したるものなり

大島町事件の背景
 9月3日、大島町付近で300名から400名の中国人が、戒厳軍、警察、自警団によって虐殺された。
 大島町には中国人労働者が集中して生活・就労していた。大島町は、第一次大戦後、水運を利用した工場地帯として発展した。大島町の北には、鐘淵紡績、東洋モスリン、日清紡績、東京キャラコなど『女工哀史』で有名な紡績工場ができ、亀戸町には、日立製作所亀戸工場、汽車会社、精工舎ができ、大島町には、東京スプリング、大島製鋼、日本鋳鋼、東京鋼材、高砂鉄工大島工場、日東化学などができ、小名木川周辺には、東京人造肥料工業、浅野セメント工場、日本精製糖などができた。
 中国人労働者は日本人労働者より大幅に安い賃金で、石炭運びなどの荷揚げ作業を担った。日本人労働者の労働・生活条件も劣悪だった。この地域は労働運動の中心地となり、労働争議が不断に発生した。中国人労働者は東京市内での在住を禁じられ、大島町を中心に、同郷人が開設した小さな宿屋にまとめて住んでいた。大島町三丁目に「僑日共済会」ができ、中国人労働者の権利擁護のために闘っていた。
 ロシア革命1917、米騒動1918、3・1民衆蜂起1919、5・4運動1919が起きた。「万国の労働者団結せよ」のスローガンが世界に広がり、全世界の労働者と被抑圧民衆との連帯が広がりつつあった。 中国に権益拡大を求める日本政府・資本にとって、朝鮮・中国の労働者を弾圧し、日本の労働者・民衆から分断するのは必須と考えられた。

3)王希天事件
 吉林省出身の留学生王希天は、1918年、「中日共同防敵軍事協定」反対運動を周恩来とともに推進し、1919年、五・四運動において、東京で支援運動を起こし、日本官憲から「反日の巨頭」と目された。
 さらに日本に出稼ぎに来ていた中国人労働者の生活と権利擁護のために、1922年9月21日、労働者の拠点である大島町3丁目に「僑日共済会」を作った。設立大会には公使館から江秘書官も出席した。僑日共済会には、名古屋、大阪、京都にも支部があった。1923年5月には、会員3000人にまでなった。僑日共済会は、未払い賃金の労働相談や、労働者を国外退去攻撃から守り、身分安定を求める行政交渉にあたった。
 1923年9月9日、王希天は大島町の労働者の様子を見に行ったところで、亀戸警察署に逮捕され、9月12日夜、亀戸署から軍隊に引き渡され、その未明、逆井橋のたもとで、野重(野戦重砲兵)第3旅団第1連隊の垣内八洲中尉、佐々木兵吉大尉等によって虐殺され、切り刻まれ、中川に投げ込まれた。
 軍隊によるこの虐殺は、日本政府によって隠蔽され続けたが、関係した軍人の日記などによって事実が明らかになった。(『関東大震災と中国人-王希天事件を追跡する』田原洋、2014年、岩波現代文庫

4)当時の中国、日本の新聞は虐殺事件をどう伝えたか (仁木ふみ子・青木書店「震災下の中国人虐殺 中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか」より引用)

 『中華新報』(上海)1923年10月17日の社説
…日本の震災の初めは大変な混乱で、警察力も不足し、青年団の暴行も烈しかった。中国の学生も非常な辱めを受けた者がいる。しかし、中国人一般は、空前の変災中の事として深く理解し、これを責めるつもりはない。だが、200余人の華工が殺され、共済会長王希天が警察に捕らえられたまま行方不明であるとするならば、ことは重大で不問に付するわけにはいかない。…日本の官庁は検挙しないわけにはいかないだろう。日本で未だにこの事が伝わらないのは、故意の隠蔽によるのである。共済会長がすでに殺されたとするなら何の咎によるのか。日本政府は即刻発表すべきである。
…たとえ、ことごとく自警団の暴行であったとしても、日本当局は責任を負わなければならない。しかし王(兆澄)氏の報告によれば、軍隊、警察の手によったものがかなりある。もし被害華工たちが、殺人、放火をしたということがなければ、軍禁を犯したことにはならないはずである。何故これを殺したのか。
…日本の新聞の最近の記事では、震災中の無数の暴行がだんだん暴露されてきた。その中、日本官吏の最も不名誉なものは往々にして殺人の後、これを隠蔽している。憲兵甘粕がほしいままに大杉栄夫妻及びその7歳の甥を殺してその死体を隠したように。…また、亀戸地方で、労働党14人を殺して軍警また死体を隠し、その家人に告げなかったのも同様である。青年団の種々の残虐、軍警の合法非法の種々の拷問をみると、華僑の被害もあり得ることだと思われる。しかも日本軍警の度重なる隠蔽を見れば、華僑事件の隠蔽もうなずけるのである。
吾人は誠意を以て日本国民に訴える。日本文明の名誉のために、中国国民の感情のために、人道と法規のために、世論の力を以て、東京当局を鞭撻し、速やかにこの事件を発表し、法によって責任者を追及し、以て冤魂を慰め、公道を明らかにされんことを。

感想 こんなにバランス感覚のある文章を書ける人が中国にいたということはいいことだ。

削除された「読売新聞」1923年11月7日の社説(復元。筆者小村俊三郎は中国通だった。)
支那人惨害事件 
一 朝鮮人虐殺、及びこれに伴い我が日本人まで殺傷を被るものがあった事件は、大杉その他の暴殺事件と共に、日本民族の歴史に一大汚点を印すべきものであることは、繰り返してこれを言うまでもない。…多数の支那人が惨害を被り、事件発生の二ヶ月を経つ今も、我が政府は何ら事実も、それに対する態度をも明らかにしていない。
二 京浜地方で被害を被った支那人は300人くらいにのぼるであろうとのことである。その中で最も著大で最も残虐な事実は、9月3日、大島町の支那人労働者合宿所で、多数の支那人が何者かに鏖殺(おうさつ、皆殺し)され、また同月9日、僑日共済会元会長王希天氏も亀戸署に留置された以後生死不明となった事実である。これらの事実は主として支那人側、とりわけ我が政府の保護を受けて上海に送還された被害者中の生存者から漏泄されたものである。
三 大島町の惨事から既に2ヶ月経過している。この事実は、人道上、国際上から、とりわけ善隣の誼みある支那との関係であるだけ、重大な外交問題である。また国内の司法警察の眼からみてもこれは重大な内政問題でもある。この問題が相手国の支那で問題とされるまで、我が内務及び司法の官憲は果たしてその知識を有していたか否かをも疑われ、そして支那において問題とされる今日まで、なおその真相をも態度をも明らかにしていないということは、実に一大失態である。
四 本事件は、内政関係は、鮮人事件、甘粕事件と同一の原則により、厳正な司法権の発動を待ち、わが国内の法律秩序を維持回復する意味において重大である。同時にその外交関係は、その事実を事実と認めて男らしくこれに面して立ち、出来るだけ自ら進んで真相を明らかにし、その犯行に対してはあくまで法の厳正なる適用を行い、以て内自らその罪責を糾正し、それによって対支那政府と国民とに謝するの外はない。幸いに支那政府国民は今回の惨害が天変地異と相伴うて起こった不幸の出来事であるに対し、多少の寛仮と諒恕とをば有し、とりわけ心ある者は、これによって震災以後せっかく湧起した両国の好感を根本から破壊することのないようにと考えていてくれるものすらあるようである。
五 吾人は内務・司法並びに外務の当局に対し、十分にその苦心を諒とする。しかし、政府当局者は当面の責任を免れぬ。本事件に対する政府の責任は、他の朝鮮事件、甘粕事件同様、我が陸軍においてその大部分を負担すべきはずである。なぜならば、これらの事件は、すべて戒厳令下で起こった事柄であるからだ。もし陸軍が司法・内務並びに外務の当局者と協調し、共同の事件調査と共同の責任分担を行わないならば、司法・内務並びに外務は、行き詰まるだろう。そして最後は国民自身が全責任を負うことになるだろうから、吾人は、我が国民の名において、最後にこれを陸軍に忠言する。

感想 この時代にもこういうことをはっきり言える人がいたのだ。軍部の独走・弾圧がすでに始まっていたとも言える。削除されたとあるが、どんな経緯だったのだろうか。

5)当初日本政府は中国人虐殺を隠蔽しようとした
 1923年11月7日、五大臣会議(総理山本権兵衛、内務後藤新平、外務伊集院彦吉、司法平沼騏一郎、陸軍田中義一)によって、「徹底的に隠蔽」が決定され、政府方針となった。「王希天問題及び大島町事件善後策決定の顛末」と題する、11月8日出渕亜細亜局長の口述が残されている。そしてそこには「(追て焼捨てる事)」と書いてある。
「10月29日、岡田警保局長、出渕亜細亜局長を来訪し、王希天問題及び大島町事件は、結局之を隠蔽せんこと得策なる可し、と思考する処、事件は頗る重大問題なるにつき、閣議又は総理及び本件に最も関係深き内務・外務…」

6)朝鮮人虐殺事件

1894、東学農民運動大虐殺
1895.10、韓国国王妃(閔氏)虐殺
1904、日韓議定書締結
1905、第二次日韓協定締結、保護国化
1909.10、韓国の義士安重根が初代韓国統監伊藤博文を暗殺
1910.6、大韓帝国を併合
1919.3.1、朝鮮全土で民衆蜂起。
1919.4.15、京畿道提岩里事件。村人を教会に閉じ込め、射撃後、放火。(これだけではない。)
1919.9.2、独立運動家姜宇奎が南大門駅(現ソウル駅)で朝鮮総督に着任した斉藤実らに爆弾を投げつけた。関東大震災時の弾圧責任者水野錬太郎も同伴。
1920年代、多くの困窮した朝鮮人が渡日。
1923.9.1、旧四ツ木橋で軍隊が機関銃で韓国・朝鮮人を射殺、(日本人)民衆も殺害。中国人を含めて千人から数千人の朝鮮人を殺害。(内閣府中央防災会議『災害教訓の継承に関する専門調査会報告』2008.3における、(朝鮮人被害者数が)「震災の死者数の1%から数%」により、死者10万名として計算)
しかし、上海の大韓民国臨時政府機関紙『独立新聞』1923.12.5では、留学生の調査により、朝鮮人被害者数6661人。(山田昭次が再計算すると6644人)そして詳細な氏名は殆ど不明
2017.8.3、韓国の遺族5人が、釜山で遺族会を発足。

7)亀戸事件、甘粕事件

亀戸事件

 1923.9.3日午後11時頃、亀戸町の南葛労働会本部において、川合義虎、山岸実司、北島吉蔵、加藤高寿、近藤広蔵、鈴木直一の6人が、亀戸署に検束された。同じ頃、南葛労働会吾嬬支部長吉村光治佐藤欣司も検束された。さらに、純労働組合平沢計七は僑日共済会近くの自宅で検束された。
 以上10名(9名ではないのか)は、亀戸警察署の中庭で、4日夜から5日未明(一説には、3日夜から4日)にかけて、田村春吉少尉率いる習志野騎兵隊第13連隊によって殺害された。
1923年10月12日付けの朝日新聞の報道によると、「復も社会主義者九名 軍隊の手に刺殺さる 亀戸署管内に於ける怪事件 死体は石油を注いで直ちに焼却す … 意外な事実が … 帝都は真に殺気漲り渡るものがあった。 … 一大異変事さえ起こったのである。 … 警官が抜刀して乗り込んできた 文句なしに検束 … 」

江東区浄心寺境内に「亀戸事件犠牲者之碑」がある。

これ以外にも、4人の砂町の自警団員や多くの朝鮮人と何人かの中国人が、亀戸警察署内で虐殺された。またさらに、南葛労働会と純労働者組合に対する検挙は続いた。

南葛労働会は、王希天による僑日共済会設立の1ヶ月後、1922年10月に結成され、大島製鋼争議などを激しく闘った。1923年9月1日は、亀戸の広瀬自転車製作所の争議を行っていた。
亀戸警察署、特高の蜂須賀等が、南葛労働会に張り付き、王希天も監視対象にしていた。
平沢の純労働者組合も大島製作所の争議などを激しく闘っていた。
亀戸警察署長の古森は、警視庁特高課労務係長から、亀戸地区の革命的労働者取締りの特命を受けて就任していた。

近衛師団文書によると、戒厳軍は出動に際して、以下のように指示されていた。

「都市内部における騒擾、不逞分子所在地域破壊の結果、騒擾混乱を惹起せる地域に兵力を配置し、不良分子を威圧掃蕩し、騒擾を予防、鎮圧するを要す。」「特に兵力を以て占領警備すべき要点…労働者の集合する地点、工場、並びに不良分子及び動揺しやすき住民群衆せる箇所

以上から、朝鮮人・中国人労働者と手を組もうとする労働運動の中心地を破壊・制圧しようとする意図を持っていたことが分かる。

甘粕事件

 1923年9月16日、無政府主義者の大杉栄と妻伊藤野枝、大杉の甥橘宗一(6歳)の3名が憲兵隊に連行され、憲兵隊司令部で憲兵大尉(分隊長)甘粕正彦等によって扼殺され、遺体が井戸に遺棄された。
 軍法会議の結果、憲兵大尉甘粕正彦と同曹長森慶次郎等5名の犯行と断定され、憲兵隊の組織的関与は否定された。甘粕は懲役10年の判決を受けたが、3年足らずの1926年、摂政裕仁成婚恩赦で仮釈放され、その後、満州に渡り、1931年9月18日の謀略に関わり、「満州国」の要人となった。

この件に関する大正12年9月20日付けの「大阪朝日新聞第二号外」によると、以下の通りである。

「…然、関東戒厳司令官以下憲兵司令官、憲兵隊長の大更迭を見るに至った、憲兵分隊長甘粕大尉の不法行為内容について本社の探索するところによれば、右は16日、無政府主義者大杉栄を逮捕したるに関わらず、赤坂憲兵隊留置所において、同大尉が独断にて刺殺したるためであると」

感想 この表現だと、社会主義者を逮捕したことは正当なことであり、悪かった点は、甘粕が独断で刺殺したため取調ができなくなったことだと読める。

8)国際基準は国家賠償

 1923年11月、外務省条約局第三課は、諸外国の11の事例を検討し、「内乱又は暴動による不法行為に対する国家の責任に関する国際法上の原則」は、「国家賠償である」と報告した。

 中国駐在の芳澤公使は、「元来該誤殺事件そのものの存在は、彼我(中日)共に之を認め居る次第なるを以て、今更之を争うに適せず、我は寧ろ機会を捕らえて本件解決を計画すること最も必要」「先方の主張を容認し、被害者の数及び金額の検討は両国調査委員の裁定に任せる」などの申し入れを松井外務大臣にした。(1924年3月4日芳澤公使の松井外務大臣宛機密文書)

感想 (朝鮮人と間違えて)「誤殺」と、ここでも嘘をついている。(労働運動をする厄介な)中国人と承知の上で虐殺しているくせに。相手が中国だと国際的な問題になり厄介だから、意図的に殺したなどと言えない。だから嘘をついているのだろう。一方、朝鮮人の場合は「国内問題」として捉えている。併合がその口実なのだろう。

9)日本政府の賠償決定

 日本政府・清浦奎吾内閣は、1924年5月27日、被害者への20万円(当時)の責任支出を政府決定した。

亜細亜局長

本年5月27日、前内閣総理、外務、内務、司法、陸軍及び大蔵各大臣決裁の上、別紙の通り支那人殺傷事件慰藉金二十万円責任支出の件決定相成り、右に基づき在支公使館に於いて支那側と商議を試み居れる処、最近在支太田代理公使より、右責任支出の件は、前内閣当時の方針と異なりなきものと心得然るべきや問合の次第ありたるにつき、右に対し、従来の方針を大し、速やかに解決方この上とも努力するよう回訓すること致し候。

10)日中交渉とその中断

 1925年6月6日、6月12日の二回、中国の沈瑞麟外交総長と日本の芳澤公使との間で交渉が開始されたが、1926年4月23日の時点では、すでに中止が決定されていた。その理由は、「日本側の内閣更迭、中国側の各種要償案件の一括商議の主張等」とされている。1926年4月23日付け芳澤公使の幣原外務大臣宛、在杭州領事代理宛、返信写送付き(機密469)によると、

「時局をもって中止せられ…その後続開をみずして今日に至る」

 また、日本政府はこの問題が「未解決案件」として残されていることを、1936年の第68回帝国議会説明資料で確認している。但し、人数と「要求額不明」は、(中日間の)決定事項を踏まえていない。

昭和十一1936年度執務報国 
帝国議会関係雑件 
説明資料関係 第三巻
作成者 東亜局
昭和11年(1936--1936
資料作成日 昭和11年12月1日(1936/12/01)
内容
(一)大正九年六月二日「マゴ」下流にて日本砲艦に撃沈せられたる支那帆船の被害、死者34名、船体及び物品の破壊 賠償要求不明(本件は事実相違を理由として我が方に於いて拒絶せるものなり)
(二)琿春事件…
(三)長沙事件(六一事件)…
(四)震災支那人誤殺事件 大正十二年九月中 関東震災の際支那人労働者等にして不逞朝鮮人と誤認殺害せられたる者174名 要求額不明
(五)田種香事件

1926年交渉「中断」の「時局」

 関東大震災時、日本は国際連盟の常任理事国、五大国の一つ、アジアの大国とされ、その中では、中国人虐殺事件について国際基準に基づく対応が求められ、ワシントン体制の下で、米英と中国権益をめぐって妥協をせざるを得なかった。
 しかし、この国際協調は、帝国主義と植民地主義の野望の下の脆弱なバランスでしかなかった。
日本は中国の軍閥の様子を見ながら、支持したり牽制したりした。
日本国内では、清浦内閣が第二次護憲運動で倒れ、護憲三派加藤高明内閣が登場した。
1925、5・30事件*が発生した。日本の大手紡績企業はすでに上海や青海に進出し、中国人を低賃金で働かせ、中国人の不満や反日運動が高まっていた。4月に青島在華紡争議が起こり、幣原外相はこれを強硬に弾圧した。

*上海でのデモに、上海共同租界警察が発砲し、13人の死者を出した労働運動弾圧事件。日本人監督が工場で中国人労働者を射殺したことが事件の発端となった。労働運動はその後も高まり、労働者の死傷者数もさらに増えた。)

1926年3月12日、大沽(こく)事件*が起こり、3・18惨案*が起こり、反日反帝運動が高まった。
加藤内閣1924.6.11--1926.1.30は、軍国主義化を強め、宇垣一成陸相は、帝国在郷軍人会、青年訓練所、学生の軍事訓練などを強化した。
1926、蒋介石が北伐を始めた。
1927.4月に登場した田名義一内閣は、第一次山東出兵5.28--9.8、第二次三東出兵1928.4.19、済南事件*を引き起こし、1928年5月8日、第三次山東出兵を行い、6月4日、張作霖を殺害した。
このような中国への「積極外交」の下で、中国人誤殺事件の賠償問題は問題外となった。

*済南事件とは、国民革命軍と日本軍が、国民革命軍の一部による日本の民間人襲撃をめぐって武力衝突した事件。1928.5.3

11)中国人被害者遺族の訴えと活動

 2016年5月14日、温州市で『1923年関東大震災旅日罹災華工遺族座談交流会』が開かれ、250名余が参加し、『遺族系列活動準備会』が結成され、302名の遺族が集団署名した。
 2017年5月21日、温州市歴史学会で、東瀛惨案史研究センターが授牌した。毎年、9月初め、東京で、遺族参加の下、追悼会が開かれている。
 温州華蓋山の『吉林義士王希天君記念碑/温処旅日蒙難華工記念碑』の前で毎年追悼会が開かれている。

 被害者遺族は、日本政府に対して、2014年9月8日に下記の要望書を提出し、その後毎年回答を求めて督促しているが、未だに何ら誠実な回答はない
 それどころか、日本政府は、2015年以来の民主党等(2018年は立憲民主党)国会議員による『関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺に関する質問趣意書』に対して、一貫して「政府内に、これらの事実関係を把握することができる記録が見当たらない」という答弁書を出している。(無視を決め込んでいる。)

要望書(要旨)

1、国家としての責任を取り、この歴史の事実を認め、1923年の関東大地震下で虐殺された中国人受難者と彼らの遺族に謝罪すること。
2、1924年の貴政府内閣の決定した賠償方針に基づき、現行の国際慣例、物価水準、及び被害者数にのっとって修正し賠償を実施すること。
3、歴史を以て鏡とし、次世代にこの歴史の真実を伝えるために、受難当地に記念碑を建立し、並びに朝鮮人虐殺を含む歴史の記念館を建設すること。
4、日本の歴史教科書に書き、日本の若い世代にこの歴史を伝えて、教訓を汲み取ること。

よびかけ

 1923年9月の関東大震災で、6000人に及ぶ朝鮮人が虐殺され、700名余の中国人労働者が虐殺された。
中国政府は「犯人の処罰、遺族への補償、在日中国人の安全確保」を日本政府に要求した。
仁木ふみ子氏(故人)は浙江省の遺族との交流事業を育ててこられた。
東京・両国にある「横綱町公園」は、関東大震災と東京大空襲の犠牲者の慰霊施設であり、中国仏教徒から贈られた「幽冥の鐘」がある。しかし「朝鮮人犠牲者追悼碑」はあるが、中国人のものはない。
京成線八広駅近くの朝鮮人虐殺現場の一つである荒川土手に、市民運動により「韓国・朝鮮人殉難者追悼碑・悼」が建てられている。横綱町公園と虐殺現場である大島町に、中国人追悼碑を建てたい。

136-0071 江東区亀戸6丁目57番19号 丸宇本社ビル6階 亀戸法律事務所気付 関東大震災中国人受難者を追悼する会 編集人 木野村間一郎

以上 2019924()

0 件のコメント:

コメントを投稿

大橋昭夫『副島種臣』新人物往来社1990

  大橋昭夫『副島種臣』新人物往来社 1990       第一章 枝吉家の人々と副島種臣 第二章 倒幕活動と副島種臣 第三章 到遠館の副島種臣     19 世紀の中ごろ、佐賀藩の弘道館 026 では「国学」の研究が行われていたという。その中...