2019年9月18日水曜日

講演「関東大震災における朝鮮人・中国人虐殺」慎蒼宇(シンチャンウ)要旨


講演「関東大震災における朝鮮人・中国人虐殺」慎蒼宇(シンチャンウ)


はじめに

私は韓国籍の朝鮮人で、歴史学の研究者である。

日本では歴史改竄が官民に浸透してきた。

「知事はそこ(都慰霊協会主催大法要会)に出席し、亡くなった人すべてに哀悼の意を表しているため、今後、他の団体から要請があっても出さない。」(東京都建設局公園緑地部)とか、「六千人が正しいのか、正しくないのか、特定できないというのが都の立場。」(東京都)とか、さらには、虐殺を正当化する本も出ている。また、虐殺否定論が、テロ対策と関連づけられ(加藤直樹2019)、軍隊や警察の役割を強調する中で出されている。

 私の祖父の兄、愼昌範はこう言っている。「10月下旬頃、総督府の役人がやって来て、私たちに、(中略)またこの度の事は、天災と思ってあきらめるように等、くどくどと述べたてました。」(朝鮮大学校『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』1963年、163p)「私の身体を一生涯不具にさせ、多くの同胞の生命を奪った日本帝国主義に対する憎しみは、一生忘れることはないでしょう」(朝鮮大学校『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』)(慎蒼宇氏の祖父の兄は、関東大震災時の虐殺の被害者の一人だった。)

在日朝鮮人は虐殺の法的責任を問うてきた。

1 日本の「戦争」観の問題点

私は、関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺事件を、日本の50年戦争(清日戦争1894から敗戦1945まで)の中で位置付けたい。日本は清日戦争以来、中国、「台湾」、朝鮮、「満州」で軍事行動を行ってきた。「朝鮮から見ると日本との関係はけっして15年戦争ではなく、50年戦争なのであり、その間は継続した戦時、または準戦時だった。」(宋連玉2011)植民地(朝鮮・台湾・満州)での戦争(1894--1945)を「植民地戦争」と定義する。それは治安戦であった。日本の軍事暴力と武装群衆の抵抗との戦いは圧倒的な軍事力を前にジェノサイドの観を呈した。戦争が日常の中に埋め込まれ、強制労働や女性に対する性暴力や、直接的な武力も、秩序維持と反乱防止のために日常的に行使された。武力行使の主体は、軍隊に限らず、警察や、しばしば武器を持つ入植者でもあった。植民地においては、戦時が平時が隣り合わせになっており、植民地責任を国家間の戦争の問題に回収することはできない」(永原2011, 7--8p)。

朝鮮人・中国人虐殺の主体は、軍警(日本軍・憲兵・警察)と民(在郷軍人・自警団)であった。
ジェノサイドの銃後は、日本社会の積極的推進層(家族・共同体)であり、彼らはジェノサイドを黙認した。
50年戦争を通じて、日本社会には、人的・組織的・社会的な経験が構築・継続され、迫害体験が蓄積された。
15年戦争史観は、植民地戦争(征服・防衛)の視点が希薄または不在である。

以上まとめると、日本は日清戦争以来、朝鮮の民族運動を弾圧してきた。その弾圧を「植民地戦争」と命名する。その植民地戦争の渦中で、この関東大震災時の虐殺が行われた。そして民間の虐殺を、官憲がバックで応援・推進・黙認し、家族も応援した。植民地戦争の蓄積の上に、虐殺があったといえる。


2 朝鮮・中国(台湾)での日本軍隊の虐殺・迫害経験と関東大震災

2-1 朝鮮における日本軍による苛酷な弾圧

「もう一つの清日戦争」としての東学農民戦争

 日本軍は清日戦争のときに東アジア最初の大虐殺を起こした。一つは、旅順虐殺(*1)であり、もう一つは台湾征服戦争(*2)時の虐殺であった。
朝鮮で起こした日本軍による最初の本格的な軍事的迫害は、東学農民戦争である。この戦争は「もう一つの清日戦争」(姜孝叔2002)と呼ばれ、3~5万人が殺されたとされる。

 東学は19世紀後半に、朝鮮半島南部の農民を中心に広まった民衆宗教で、清日戦争と前後して全琫準を総大将にして2回の蜂起を起こした。
最初の蜂起は、幣制改革と閔氏政権打倒を目指した民衆反乱1894.5で、第二次蜂起1894.10は、清日戦争を通じて朝鮮に侵略を始めた日本に対する抗日蜂起であった。
 日本は清日戦争を遂行するに当たって、兵站を農民に襲撃されることを恐れ、大島圭介駐朝公使は、日本に援兵を要請するように、金弘集政権に提起し続け、親日派政権と日本軍による農民迫害が始まった。日本軍による農民軍処断=苛烈なジェノサイドは、国際法・朝鮮刑法を意に介さない殲滅戦と処刑の様相を呈した(井上勝生2013)。
この前後、日本軍は王宮占領戦争1894.7.23と閔妃殺害1895.10.8を起こした。

*1 旅順虐殺事件は、1894年11月、日清戦争の旅順攻略戦の際、市内及び近郊で日本軍が、清国軍敗残兵掃討中に起こした事件である。
日本軍は11月21日に旅順に入り、冷酷にほとんど全ての住民を虐殺した。無防備で非武装の住民たちが自らの家で殺され、その体は言い表す言葉もないぐらいに切り刻まれていた。三日間の虐殺によって僅か36人の中国人だけが生き残った。1万8000人が殺された。
ウイキペディア日本語版には、日本の加害行為に関する日本側からの記述が見当たらない。上記の被害状況に関する記述は、米国人記者の証言であり、しかもウイキペディアは、それを批判的に語っている。ここにも自己中が蔓延している。

*2 台湾征服戦争 (乙未(いつび)戦争) これは、下関条約によって台湾の日本への割譲が決まったとき、上陸した日本軍が、抵抗する清国兵や台湾住民と起こした戦争である。1895.5.29--10.21
日本軍は村ごと殺戮し、婦女子を姦淫・殺害し、家屋の中を荒らし、田畑を奪った。日本は76000人の兵力を動員した。台湾民主国軍の義勇兵などと住民をあわせて、14000人が死亡した。劉永福がアモイに逃げた10.19後も、1933年4月22日まで戦闘が続いた。

露日戦争下の民衆迫害

 露日戦争が始まると、日本は韓国駐箚軍を、植民地化推進のための治安維持機構として位置づけ、強制的徴発に対する朝鮮民衆の反発・抵抗(電信・電話線の破壊など)を取り締まるために、軍律を制定した。また、集会や結社を取り締まる軍事警察(憲兵による高等警察)を設置し、軍政を布いた。
朝鮮民衆にとって露日戦争は、ロシアとの戦いではなく、日本軍との戦いであった。(海野福寿)軍律によって、朝鮮民衆の35名が死刑、46名が監禁・拘留、100名が笞刑に処せられた。これらの行為には韓国国内法の法的根拠がない。
日本は、1905年11月に韓国を保護国化すると、韓国統監の統帥権と、朝鮮駐箚軍司令官による兵器使用権限の構築を推進した。(徐民教2005、辛珠泊2010

義兵戦争

 韓国の保護国化に抗して、朝鮮では国王から官民に至るまで反発が起こり、閔宗植や崔益鉉らによる抗日蜂起が起こった。1907年7月、ハーグ密使事件によって高宗が退位させられ、8月1日、韓国軍が解散させられると、朝鮮全土で武装蜂起が発生した。(抗日義兵戦争)日本はこれに対して軍事行動で対応した。(朝鮮植民地征服戦争)この戦争は韓国併合後1915年まで9年間繰り広げられ、2万人が殺された。
 義兵戦争を通じて、日本は朝鮮を植民地化し、武断政治による植民地征服体制を形成していった。義兵戦争勃発当初、日本政府は伊藤統監の要請で、既存の韓国駐箚軍(第13師団)に加え、歩兵1個旅団を小倉第12師団から派遣したが、それは平時編成であった。早期鎮圧できると踏んでいたのだ。
この歩兵第12師団が2年後1909に帰還する時の、韓国駐箚軍司令官の大久保春野の感想は「今や殆ど戦時と同一の状況において起居する2年下の久しきに亘り」としている。1908年5月、第6師団から歩兵第23連隊、第7師団から歩兵第27連隊が派兵され、2個師団の軍隊と憲兵・警察によって苛酷な「暴徒大掃蕩」が行われた。

三・一独立運動、シベリア戦争、間島虐殺から関東大震災へ

 義兵戦争収束の4年後に、3・1独立運動が起こった。3・1運動の弾圧は、第一次大戦時の民族独立運動と社会主義革命への危機意識を反映した、植民地民族防衛戦争であった。
韓国3・1運動データベースhttp://db.history.go.kr/samil/によれば、二ヶ月間で死者934名とされるが、当時の朝鮮人知識人の朴殷植は『韓国独立運動之血史』の中で、朝鮮人死者7500人としている。
 この同時期に日本軍はシベリア干渉戦争を起こし、「初めて経験する無残な敗北」(原暉之)を喫した。これは極東アジアにおける本格的な人民戦争で、多くの朝鮮人・中国人が革命側に参加した
日本軍は撤退時に、中朝国境付近の朝鮮民族運動(独立軍)を弾圧する名目で、琿春事件*をでっち上げ、間島に出兵した。これは朝鮮総督府・朝鮮軍が主体であった。3・1運動後は「文化政治」などと言われているが、実は戦争が継続していたことをこれが示している。1921年5月までに、数千人が犠牲になり、多くの家屋が焼夷・破壊された。(朴慶植1973
 関東大震災の朝鮮人虐殺は、その2年半後に行われた。これは「不逞鮮人」デマに基づく戒厳令下で、軍隊、警察、自警団によって行われた虐殺であった。

*琿春事件 1920年、日本軍が琿春の朝鮮人居住者や独立運動家を大量虐殺した事件。
朝鮮王朝末期から朝鮮人の居住地区になっていた満州間島省の琿春県には、1919年の3・1運動後、民族主義者が流れ込み、独立運動の拠点になっていた。

2020年9月12日と10月2日の二回にわたって、満州の中国人馬賊の長江好が、琿春県城を襲い、それに対して、日本軍の羅南師団と日本の咸北警察部派遣隊が出動し、朝鮮人活動家や住民を殺し、韓民会を破壊した。1921年1月に日本軍が撤退するときに、日本軍は民間人を含めて朝鮮人3000人を殺害した

馬賊の構成員の中に朝鮮人がいたとする日本側に対して、韓国側文献は、それは謀略であり、日本軍が馬賊の長江好を買収して琿春を襲撃させ、日本人犠牲者(日本領事館警察署長、朝鮮人巡査、在郷軍人の3人と、その他男性6人、女性2人、子供2人の計13人が殺害され、重傷11人、うち1人はその後死亡、軽傷20余人)は、彼の部下でない馬賊によるものだとする。
実際、日本軍は日露戦争時代から、中国の馬賊に武器供与や軍事教育を施していたし、張作霖は、この間島事件で日本軍に援軍している。
また、中国の文献は、日本領事館を襲ったのは、拘禁されていた独立軍兵士を救出するためだったとしている。(ということは、馬賊の中に朝鮮人がいたことを暗に認めるのか。いずれにしても虐殺はあった。)コトバンクとウイキペディアより


2-2 朝鮮軍司令官・参謀長・各司令官の植民地戦争経験

特徴1 関東大震災時の軍上層部への(からの)連続と断絶

 関東大震災時の、関東戒厳司令部や地方師団長・歩兵連隊長の経歴(表1)(慎蒼宇氏は丹念に資料を作成し、それを表にした。)
大半がシベリア戦争から連続し、社会主義や民族独立運動に敗北し、それに対して憎悪を抱いていた。
間島虐殺経験者、武断政治期の朝鮮における「暴徒討伐」経験者、台湾派兵経験者、中国派兵経験者(義和団事件、青島、駐屯軍)が多い。

福田雅太郎は戒厳令施行の議を陸相田中義一大将に建言した一人だった。(黒板勝美『福田大将伝』1937, 379p)(福田雅太郎、1923年8月6日、軍事参議官9月3日、兼関東戒厳司令官9月20日、甘粕事件(大杉栄殺害)の不手際を問われ、免官。ウイキペディア)

特徴2 複数の植民地戦争・ジェノサイド経験(表2、日露戦争以後)

 旅順攻撃、義兵戦争、シベリア戦争、東学農民戦争、台湾守備、朝鮮北部軍政、間島虐殺、清日戦争時にソウル占領・守備、3・1運動、壬午軍乱*などの経験者。

 戊辰・西南戦争世代は、日清・日露戦争、台湾征服戦争、韓国併合、3・1運動までの戦いを牽引した。
旧新の陸士世代は、1860年~70年代の生まれで、関東大震災時まで中心的役割を果たした。日清・日露戦争を経験し、多くは朝鮮での軍経験を持つ。このグループの下の世代は、シベリア戦争・関東大震災を経て、その後軍の要職についた。
出身県別では山口県、福岡県が多い。

*壬午軍乱 1882年、朝鮮王朝の閔氏(李朝の閔妃)政権とそれを支えた日本に対する兵士の反乱。大院君政権が一時復活したが、清が介入し、閔氏政権を復活させた。
反乱の一ヶ月後に清と日本が出兵・干渉し、清は反乱軍を鎮圧し、大院君を捕らえて中国に連行し、その圧力で閔氏政権を復活させた。日本は、閔氏政権と交渉して、済物浦条約(仁川の旧名)を締結し、日本公使館襲撃・日本人軍事教官殺害に対する賠償金を支払わせ、公使館護衛のための日本軍の駐留を認めさせた。


特徴3 台湾征服戦争・守備と、中国派兵経験者が多い

韓国(朝鮮)駐箚軍・朝鮮軍司令官に、台湾征服戦争経験者が多い。

福田雅太郎の第一次大戦時における中国への派兵に関しての発言「そうだ、膺懲だ。東洋平和のため、隠忍、妥協、啓発、あらゆる手段を尽くしたが、皆目効果がない。もはや膺懲により覚醒せしむるの一途あるのみだな」(同上、350--351p
(某)台湾軍司令官の発言「今君の言葉の中に民族自決云々とか申して、もし議会設置の請願ということでも採用されないと、独立の機運が漲って来ると君は申したが、その時こそ俺の任務である。俺は台湾の治安を維持するという大命を奉じているのだ。」(同上、367p

2-3 繰り返された殲滅と連座

・東学農民戦争
 1894年の東学農民戦争での弾圧は、中国での三光作戦の起源と言える。連座制で、村民全体の責任にした。性暴力も行われた。
 1894年9月2日、釜山兵站監から大邱兵站監へ「責任ある村は焼き払い、その民は撃殺すべし。」
 1894年10月27日、川上操六兵站総監・参謀次長「ことごとく殺戮すべし。」(大本営秘密命令)

・日露戦争下の民衆迫害 中期義兵運動
軍律 京城―元山、釜山、仁川、平壌間の電信線・軍用鉄道に関して、「全村民の責任」

・義兵戦争(後期義兵)
- 初期方針 長谷川軍司令官「将来を考慮」「猛烈に膺懲的討伐を施すべき必要」1907.8.18
軍司令官の一般民衆への告示1907.9.8 義兵の無根拠地化、村落連座制。

「その一旦方向を誤り匪徒に与せる者も、衷心悔悟速やかに帰順する者は、その罪を問わず。その非徒を拘拿(だ)し、あるいはその所在を密告する者は、必ず重くこれを賞せん。ただそれ頑陋悟るなく、あるいは匪徒に与し、あるいはこれを隠秘せしめ、あるいは兇器を蔵匿するものに至りては、厳罪毫も仮す所なきのみならず、責を現犯の村邑に負わしめ、その部落を挙げて厳重の処置に出んとす。爾(なんじ)等、本職誠意の存する所を解し、敢えて愆(あやまり)なきを期せよ。」(「明治40年(1907年)9月軍司令官の告示」韓国駐箚軍『明治40~42年暴徒討伐概況』)

- 捕虜に対する長谷川軍司令官の令達1907.8.23 -「やむを得ずして生じたる捕虜(なるべく捕虜とする以前において適宜処分すべし)(歩兵第14連隊『陣中日誌』135頁)
- 南韓大討伐-「暴徒はもちろん一般人民の精神上に得たる帝国の威武」

 「今回の大討伐は、村落、森林、田圃、山岳等、限りなく捜索し、一暴徒一兵器といえども、検挙せざればやまず。また大討伐地区内は、苟も軍隊の足跡を印せざるなく、士卒の眼目に触れざるところなきが如くし、軍隊の武力を津々浦々の韓国人民に示し、文禄の昔日を夢見つつある頑迷の輩をして、帝国陸軍の勢威を知らしめ、歴史的恢復をなすの必要ある。(中略)元来全羅南北道の人民は、日清日露の両戦後において、未だ一回をも日本軍隊の行動せし(ところを見た)ことなきを以って、単に各地に駐屯せる小守備隊のごときものを以て常態とみなし、常に文禄の役における李舜臣の戦勝のみを夢想し、かつ日本の海賊が沿岸を掠奪し、常に韓人より撃退せられありたる由なりしか、大討伐に当たりたる約1旅団の兵員を前後縦横に行動し、同一部隊をして同一地を前後数回行動したるが如きこと多かりしを以て、自ずから兵員夥多なるの感を生じ、十万の日本軍来れり等のことを揚言し、日本は此の如く多数の兵員を韓国に派遣せば、本国には守備兵少なからん等の言を溌する者ありて、その愚昧なる、寧ろ憐れむべきものあり。此の如く状況なりしを以て、暴徒は勿論、一般人民の精神上に与えたる帝国の威武は、将来永遠に彼らの記念するところなるべく、行動間においても、最初傲慢なりし一部の韓人も、遂に唯々諾々、一々軍隊の要求に応ずるに至り、洵々愉快にたえざるところなりとす」(臨時韓国派遣隊司令部「南韓大討伐概況」 文庫 千代田資料623『明治40~42年暴徒討伐概況』防衛庁防衛研究所図書館所蔵)

・3・1独立運動、間島虐殺も同様。


2-4 軍法違反の蛮行の恒常化

・抗日義兵戦争で、発砲、捕虜虐殺、村落焼夷、性暴力が頻発した。

国際的批判への恐れから、牟田敬九郎・韓国駐箚軍参謀長が各軍へ内蝶1907.9.14し、それを受けて、暴挙の禁止を軍司令官が訓示した。1907.10.8

「言語相通ぜず人情風俗を異にする外邦に於いて、慎重なる考慮を欠き、一時の激昂に駆られ、民家を焼毀し、無辜を殺害し、以て快とするが如きは、王者の師にあらず。斯くの如きは、徒に良民をして塗炭の苦を叶はしめ、窮困の余、遂に或いは奔て、賊徒に投ずるに至らしむことあらん。若しそれ財物を掠め、婦女を辱かしむるに至りては、瞬時たりとも黙過すべきにあらず。苟も斯くの如き事実を生ずるに至れば、唯に我が軍隊の威信を失墜するのみならず、ひいて我が対韓政策上に及ぼす不利の影響や実に測るべからざるものあり。想て茲に至れば、誠に寒心に堪えざんとす。団隊長は宜しく重ねて部下を戒飭(かいちょく)し、厳に斯くの如き暴挙を禁止し、事を慮する深思熟慮ならび行い、以て膺懲に努め、苟も客気に逸り、臝(ら、裸)弱無辜の良民をして、永く悲惨の巷に往徨せしむることなく、一日も速やかに鎮静せしむるを期すべし。(歩兵第14連隊『陣中日誌』Ⅰ、韓国土地住宅博物館、2010344--345頁)

しかし、この訓示も甲斐なく、その後も虐殺が繰り返された。

1907.10.26 義兵李先達を隠し置ける家人2名及び九尾洞長を拘引。九尾里洞長は暴徒の一なることを知り、これを銃殺せり。
1907.11.1 吉瀬少尉が二人を李千達と相通じ暴行を働きしを以て、これを銃殺せり。
1907.11.18 賊5名を捕獲し、5名を銃殺す。
1907.12.27 日本兵27名が匪徒1名を射殺。店幕主人及び休息していた洞民4名が銃声を畏れて門外に走ると、これを銃殺。被害者は全部で6名。女性に弾丸が被弾。
1907.12.14 捕虜にした(李南奎ら)3名の義兵を取り調べ中、逃走を企てしより、これを銃殺せり。
1907.12.27 金泉守備隊兵8名が、郡旺星や金泉で、合計6名を銃殺。
日本兵が、薪を取りに来た老人と、薪運びをしていた子供など、韓人3名を銃殺。罪ありて殺されたるものは当然なるも、罪なくして殺されたるものは、豈曖昧ならざらんや。言語通ぜず、事情を達せざりき場合においては、自民匪徒の区別を弁ぜずして生殺をなすとは、通訳の口弁にあるなり。
1908.6.2 5月28日、義兵李東九父子を捕獲し、帰還中逃走を企てしを以てこれを射殺。火賊権文善を捕獲せんとするも、逃走を企てしを以てこれを射殺。
1908.6.21 智異山賊徒12名を逮捕。捕虜は尋問中逃走を企てたるを以て悉く皆射殺す。
1908.7.17 長鬐(き)郡の火賊7名を検挙。途中逃走を計りしため悉く射殺せり。
1908.9.6 全羅南道の福内場での渡辺軍曹騎兵隊によると、「賊は容易に村落より退却するの模様なく、賊もまた抵抗ますます頑強を加え、突撃容易ならざるを以て、やむを得ず、村落を焼棄して賊を駆逐するに決し、午前10時、一騎兵をして潜行、西端家屋に放火せしむ
1909.1.2 今回の行動地区中、所在村落の、同守備騎兵隊のために、焼却せられたるものを見、また洞長等の、その甚だしき打擲(ちょうちゃく、鞭で打つ)に遭いたるものあるを聞けり。その結果ならんか、土民の我が軍を畏怖して遁走し、夜になるも帰来せず。
1908.12.17 谷城郡で賊徒金文三以下4名を逮捕。金文三ともう一人は、付近村民のために撲殺せられ、ほか2名は、逃走を企て追求するを得ざりしを以てこれを射殺。
1908.12.29 羅州で義兵将・全海山部隊との戦闘で、二名を捕獲。途中逃走を企て追求すること能わざりしを以て射殺す。


・実態を隠蔽した。 

3・1運動の場合、米国キリスト教会連合協議会「朝鮮の状況に関する報告」の「広範に亙る報告書の一部(証拠書類XXVI, 1919.4.24)」によると、

「官庁の記録や警察側の死傷者数の報告は、疑いもなく正しいが、朝鮮人の死傷者数の方は、実情に比べ全然少ないし、死傷したと公的に知られたものを記録しているに過ぎず、暗い村道での見境ない射撃で死傷した人々を含めていない。」(「朝鮮の状況に関する報告」『朝鮮2』397頁)

また、義兵戦争や3・1運動で、日本側は、殲滅作戦を「正当防衛」「やむなく発砲」と正当化している。

・関東大震災の場合 国家責任の隠蔽と、その論理としての「一部不逞の輩」という捉え方による正当化。
10月20日の司法省調査発表で「一部不逞の輩」という「架空の朝鮮人犯罪」を設定し、国家責任を隠蔽しようとする。
また、兵卒の処置は、自警団暴力から鮮人を保護する過程で起きたとし、「やむをえない事情」だったとする。


3 朝鮮植民地戦争の「銃後」 郷土部隊の経験とその蓄積

3‐1 東学農民戦争から関東大震災までの師団・歩兵連隊・騎兵連隊の派遣経験(表3、沖縄からは徴兵しなかった。表3-1
・近衛師団及び、第1師団から第18師団までの全ての師団に、朝鮮派兵経験がある。

3‐2 植民地戦争の「銃後」と「暴徒殲滅」論 義兵戦争を例に

「1」全国紙『読売新聞』社説の変化

・「武装的平和」二個師団駐屯と警備の軍は、居留民保護のためである。 1907.7.25

「論者或いは曰く、今に於いて軍隊を韓国に増派せば、必ず韓人を激せしめ、却って禍乱を増大するの恐れあらんと。我輩は以為く、然からず。水の漏るる、必ず物の間隙よりす。禍乱の起こるは畢竟、警備の足らざるためのみ。我にして軍容を荘にし、障らば斬らんの概あるを示さば、彼の草賊は無論のこと、官兵また何ぞ我に抗するを得んと。論者また或いは憂いて曰く、軍隊の増派は、第三国の感受を害するの恐れなきやと。我輩以為く、これまた無用の心配のみ。剣に殺人剣と活人剣とあり。我輩の期待せる派兵は警備の軍なり、活人の剣なり。(中略)武装的平和の語はすでに古りたれど、意義長えに妙味あり。我輩は韓国に軍備を充実するは、即ち韓国を平和にするの一大捷径(近道)たるを思い、この意味において、帝国政府が時局如何によっては、直ちに出兵を断行せんことを切望す。」

・「韓国暴徒の大掃蕩」1908.5.9「峻厳なる」大掃蕩支持へと変化した。

「由来韓国の暴徒は、宛も頭上の蝿の如く、払えば去ってまた来る。(中略)これまでの通り、温和なる懐柔策を繰り返したるのみにては、却って彼らの軽蔑を招き、現に帰順法制定以来は、朝に帰順を表して、夕に忽ち暴動を行うもあり。変幻常なく、遂にその治平を見る能わず。斯くては韓国の開発上、至大の妨害あるより、伊藤統監はこの際断然たる処置をとり、最も峻厳なる手段によって、これを掃蕩鎮圧する筈なりと云う。(中略)統監が極力鎮圧の方針を執りしは、何人もこれに異論を唱えるもの無かるべし。」

「2」第12師団(小倉)歩兵第12旅団(歩兵第14連隊と歩兵第47連隊とで構成)派遣1907.7--1909.3.9

足立参謀長談「韓人の騒心は基本色とでも称すべく、彼らは一定の職業なきため、何か些かのことがあると、長煙管を咥えて只徒にワイワイと騒いでいる。それで根底ある騒ぎではない。雨が降り出すとスグ影もなく解散してしまうというような有様である。京城(ソウル)外の土地にても、多少の匪賊が利欲を欲するを貪るため、その際に乗じて役所などを襲うことはあるとしても、組織あるところの暴挙を企てることはあるまいと思う。(中略)当師団の出兵が永く駐屯するとも、何とも極まっておりませぬ。」(「足立参謀長の韓国暴徒観」『福岡日日新聞』1907.7.29

「将校中にはイヤ今度は豚追いに行くのだ・・・ナニ巡査の代わりに行くのだ・・・左様ちょっと韓国まで避暑体験に参りますと満面の得意」「出発部隊の初回目には、相応に万歳の声も出たが、二回目には少数の万歳。三回目、四回目は遂に皆無」「この際際立ったのは将校婦人の見送りであった。日露戦争の折には未だ随分質素であって、指輪などを差したる者は皆無であったが、今度は反対に指輪を差さぬ者は殆ど皆無である。「出師雑俎」『福岡日日新聞』1907.7.29

「3」『九州日日新聞』『日州新聞』『鹿児島新聞』(第6師団)

・熊本の第6師団歩兵第23連隊派遣1908.5--1910.4

「蓋し、未開の民を治るの道は、恩恵を以てこれを悦服せしめんとするより誤れるはなし。彼らは威の畏るべきを知るも、恩の懐(なつ)くべきを感ぜず。寧ろ軽侮の念を以てこれを見るなり。韓民由来遅鈍蒙昧にして、しかも剽悍殺伐の気その中に存せる者あり。彼らに臨むは惟(ただ)大威圧、大厳励を以てすべきのみ。要するに、軍隊的政治は実に今日に処するの最善の治道たるなり。(中略)韓人に対して濫りに独立的観念を増長せしめて、その自国真正の立場を顧みず、以て日本の統治に不平不服を唱はしむるに至りては、頗る馬鹿馬鹿しきなり。日本は韓国に対し、先ず事実上の示現によりて、韓国をしてこの構想を悟らしめざるべからず。その道外なし。反抗行動をなし、不平不服の云為を済する者に対しては、ドシドシ抑圧すべきのみ。抑圧して痛みを感ぜしめ、以て自国真正の立場を悟るを余儀なくせしむべきのみ。これ実に今日韓国統治の根本義ならざるべからず。」(「韓国暴徒の討伐」『九州日日新聞』社説1908.5.10

3‐3 関東大震災へ 地方における流言と迫害

・「流言は全国に及び、日本列島を排外心のるつぼにしていった。」(姜徳相1975
・「政治性を帯びた朝鮮人暴動」とか、「非人道的で残虐な朝鮮人」とか、「遠隔地で朝鮮暴動が拡大」とかの流言記事を、地方新聞が報道していた。(山田昭次2014

・関東大震災時の流言と軍隊の出動
9月4日夜、松本で、歩兵第50連隊の武装した兵士が辻々を固め、憲兵・騎兵・警官も市中を警戒した。
東京出勤の際に残留した静岡連隊(歩兵第34連隊)の歩兵が、5日、武装して治安維持。箱根裏街道から小川町に来た朝鮮人20名ばかりを捕らえた
1923年9月4日夕方、現関が原町(不破郡玉村)の陸軍火薬庫付近と、関が原村付近の日本紡工事現場に百数十名の朝鮮人工夫。歩兵第68連隊1個中隊を出動。

・関東以外で迫害が報道された地域(山田昭次2014
‐東北地方 盛岡、秋田大館、大曲駅、白石駅、鶴岡、新庄、米沢、山形、
会津若松では「爆弾所有の鮮人、若松市に入り込み、見つかり次第殺される」(『秋田魁新報』1923.9.6
‐中部地方 新潟柏崎警察署、高田駅、長野市内、富山滑川町、
金沢駅では「9月4日金沢駅に到着。(東京から避難民を乗せた)列車に朝鮮人二名がおり、駅前広場に集まった群衆が殺気立ち、巡査に伴われた朝鮮人を襲撃。」(『北国新聞』1923.9.5
松本市では「(3日朝)興奮しきった民衆が警察署に押し寄せ、『不逞漢を我々の手に渡せ』と絶叫しつつ投石する等、物凄い光景」(『新愛知』1923.9.6
‐その他の地方 三重県、宇和島、高知県、佐賀県。

 軍隊や自警団が朝鮮人に暴力を加え例が、東北や中部地方に多いのは、海外派兵の経験のせいかもしれない。


最後に

1 官民一体の関東大震災時の朝鮮人虐殺の歴史的背景

・「軍隊・警察のみならず、日本人庶民・諸公もまた偏見・差別の持ち主であった。自警団の主体となった在郷軍人、消防団員、青年団員をはじめ、町の八百屋や魚屋、豆腐屋のおじさんたちは、みな甲午清日戦争、露日戦争、義兵戦争、シベリア戦争、3・1大虐殺、間島大虐殺に参加した日本軍兵士の軍歴を持ち、「明治」以降の日本のマスコミの朝鮮人蔑視観・敵視の風潮に染め上げられていた天皇教徒であった。」(姜徳相2008, 56頁)

・日本軍の指導層と組織は、民族運動や社会主義への蔑視・侮りから、恐怖・憎悪へと増幅した。
「植民地の民族運動との対抗・矛盾のあり方が、植民地支配の性格を特徴付ける。」(中塚明)
台湾・中国・シベリアとの同時代性。

・日本社会全体で、兵士・銃後ともに、朝鮮民族運動への弾圧に参与しなかった地域は殆どない。

2 不在の「植民地支配・戦争責任」

・日本近代史における、植民地での「戦争」に関する認識が欠如していることの延長線上に、関東大震災の朝鮮人・台湾人の虐殺がある。
中国人虐殺の歴史的背景 19世紀末、日本における中国人労働者の取り締まり。日清戦争時の(中国人)虐殺(旅順のことか*)。「21か条の要求」。第一次大戦・シベリア出兵・五・四運動。

*日中戦争研究者の小笠原強氏も、日清戦争時に在日中国人が敵国人として扱われ、襲撃されることもあった、日本人も犠牲になっている、と述べているから、日本国内での虐殺もあったのかもしれない。

・植民地支配責任・植民地犯罪の追及へ 日本の「戦争責任」論の限界
国際法や軍法との葛藤があってもなお、繰り返された捕虜銃殺、村落傷痍、虐殺、性暴力。 

3 歴史修正主義を支える近代日本史認識 根強い「支配者顕彰史観」からの脱却を。

・戦後70年談話の陥穽、中国と朝鮮との差別化。満州以前のものは一切反省していない。
中朝連帯の歴史的意義を捉えなおすべきだ。


感想 暴力を振るい、人を殺すと、その人の顔はゆがむ。負ければ、引きこもり、自殺し、忘れれば開き直り、勝てばエスカレートする。口実は、民族差別、自分たちは偉い、神=天皇がついている。残念ながら戦前の大多数の日本人の心性はそのようなものだったようだ。

関東大震災の時、朝鮮人、中国人、社会主義者が、軍・警察と民間(=兵隊経験者とその家族)によって殺された。

慎蒼宇(シンチャンウ)氏は、それが忽然と起こった出来事ではなかったことを実証する。

その頃既に大方の日本人の心の中には、朝鮮人や中国人や共産主義者に対する、日本国民あげての憎悪の念が、植民地戦争における殲滅作戦に兵隊として狩り出された経験の中で出来上がっていた。
朝鮮人に対しては、韓国軍解散命令1907に反発する義兵戦争や、三一独立運動1919との戦いの中で、共産主義者に対しては、シベリアでの戦いの中で、すでにその憎しみが醸成されていた。その戦いは、中国での日本軍による三光作戦の原型ともいえる戦い方であった。つまり、民衆を含めて、殺しつくし、焼き尽くし、奪いつくすという戦い方であった。まさに憎悪がなければ戦いえない戦いであった。
関東大震災の時に、朝鮮人や中国人の殺戮に関与した「民間人」(=大方の日本人)は、徴兵制によってそのような残酷な戦いに狩り出された兵隊経験者とそれを応援する家族である大多数の日本国民であった。

201999()

感想 暴力至上主義。暴力を振るわなければなめられる。朝鮮人=土人、野蛮人、という蔑視。それを軍人だけでなく、新聞も扇動していた。戦前の日本は恐ろしい国=政治のあり方だった。

2019914()


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