2020年7月14日火曜日

週刊金曜日『日本会議と神社本庁』「日本会議と宗教右翼」成澤宗男

週刊金曜日『日本会議と神社本庁』「日本会議と宗教右翼」成澤宗男

 

鎌倉円覚寺の朝比奈宋源、明治神宮の権宮司の副島廣之、成長の家の椛島有三らはこう主張する。

「GHQによって剥奪された、大日本帝国憲法、教育勅語を中核とする天皇国日本を復活しなければならない。

祝昭和天皇在位五〇年、六〇年式典の成功をバネにした、紀元節復活、一世一元の元号法成立の次は、日本国憲法改正、特に、防衛と教育を変えよ。」

 これは日本国憲法に象徴される戦後日本民主主義の破壊である。破壊はたやすい。建設には労力と時間を要する。

 

055 生長の家は、1983年(昭和58年)、突如政治運動との「絶縁」を宣言し、「生長の家政治連盟」も解散状態になった。

056 村上正邦は、魚住昭著『証言 村上正邦 我、国に裏切られようとも』の中で次のように語る。「(生長の家初代総裁の谷口)雅春先生は聖戦であり、明治憲法を復元すべきだと訴えておられたが、(生長の家第三代総裁の谷口)雅宣さんは、明治憲法の復元どころか、改憲も主張しなくなった。挙句の果てには、あの戦争は侵略戦争だったから、日本がアジア諸国に謝罪するのは当然とまで言うようになった」「雅宣さんから見れば、従来の生政連(生長の家政治連合)は実質的に(元参議院議員の)玉置和郎中心の路線だったから、その路線で突っ走ってきた活動家たちを信用できない。」

057 生長の家は2016年6月9日、「『日本会議』という元生長の家信者たちが深く関与する政治組織」があり、「元生長の家信者たちが、(創始者の)既に歴史的役割を終わった主張に固執して…隠密的活動を行っている」のは「慚愧に耐えない」とする声明を出した。

083 「聖戦」とされる過去の戦争

戦前の戦争が「聖戦」だというのは、その戦争が正しかったのだという考えに基づいている。つまり、天皇がやる戦争は間違っているはずがないというものだ。

083 神社本庁に象徴される国家神道の継承者、及びその思考回路と共通する右派にとっては、「皇軍」の戦争や軍事行動が、常に神聖不可侵の「現人神」で「大元帥」であった天皇の名において遂行された、ということが前提となる。それ故に過去の戦争は常に「聖戦」として疑問の余地なく固定化され、他国からの批判も考慮されることはない。戦死した「皇軍」兵士は無条件に靖国神社に「神」、「英霊」として合祀されるべき存在となり、彼らの言う「歴史観」なるものも、厳密な資料研究とは無縁な、他国の被害などまるで顧みない自己中心主義的な「正当化の物語」に落ち着く。

084 椛島有三の戦術は、広範な学者・文化人を顔として表面に出して、大衆にはいい顔をし、背後では自らが事務局長となってコントロールする。椛島有三は、彼らのつくる団体のほとんどの、事務局長を担当してきた。

 日本を守る国民会議の運動は、1995年の年頭から「謝罪・不戦決議阻止」一色となり、まず、「終戦五十周年国民委員会」を発足させるのだが、特に重要と思える当面の政治課題には、本体と一見別のような団体をまず設立し、その事務局を運営しながら、より広い人脈を集める形で、著名人を役員に選出して、運動の全面に立たせる手法だ。

 

足踏みから攻勢へ まとめ(70--89)

樺沢有三の手法は、人海戦術だ。無辜を装った人々の「自分は侵略なんかしていない」という保身につけこんで取り込み、署名させる、知事・市町村長・教育長・校長など、地位・ポストを持つ人々に葉書を送りつけて、自らの要求を受け入れさせる、市町村・都道府県議会で、自らの主張を議決させる、知名人を呼び寄せ、各種宗教の信者を動員して大会を開き、気勢を上げるなどの手法である。

 

彼らの狙いは、教育と軍事と憲法である。教育では、道徳の押し付けや慰安婦記述の削除を教科書の著者、出版社、教科書採択に関わる教育長、校長への圧力、教育基本法改悪(日本の伝統を重視)。憲法改正では、天皇の元首化。そして天皇に対しては、敬語を使わせる。

 

感想

 著者成澤宗男の楽天的な論述では、勢いづく右派を抑えることはできないのではないかと、不安を感じた。左翼の論者はこの程度なのだろうか。右派を突き放すのではなく、もっとその心情を本質的に理解し、彼らの論理を反駁し、こちら側の論理に引き込まなければ、問題解決につながらないのではないか。

 確かに日本会議の面々は癒し難く、感情的に反共で、戦前回帰に執着している。天皇、天皇、天皇、日本、日本、日本、なのである。つまり、彼らは感情的に反共なのである。しかも、ひどいことに、彼らは暴力的なのだ。

彼らは、広島の某校長を自殺に追いやるほど、執拗で暴力的である。文部省から送り込まれた県教育長・辰野雄一の指示による、度重なる電話攻撃の後の、押しかけ面談の直後、校長は自殺した。その日は日曜日だった。校長は君が代が身分差別的だとの信念を漏らしていた良心的な人だった。

自民党「教育問題連絡協議会会長」を務めた奥野誠亮は、元特高だった。105, 107

第三代目日本会議会長になった、元最高裁長官の三好達は、戦争犠牲者の追悼を、靖国神社ではなく、国立追悼施設で実施することに反対し、「靖国神社を創建した明治天皇の大御心を踏みにじるもので、不遜極まりない」と主張した。100

元最高裁長官であった石田和外は、「英霊にこたえる会」の初代会長で、日本を守る国民会議の前身の「元号法制化実現国民会議」の議長だった。99

かつての思想検事で、検事総長出身の井本台吉は、「英霊にこたえる会」の会長だった。99

小山孝雄も悪である。1998年4月、彼は、国会に福山市の中学校教員を参考人として呼び、虚偽の証言をさせ、広島の教育の悪さを喧伝させた。しかし、それは証人の勤務する学校の話ではなく、単に証人が聞いた話だった。

さらに小山は、広島県での卒業式・入学式での日の丸・君が代の実施率が低いと主張し、文部省による現地調査を要求し、また国会議員調査団=国会議員教育視察団の広島への派遣を要望した。105

小山は元生長の家職員である。生長の家政治連合職員から村上正邦の秘書に転じ、1995年、自民党公認として参議院比例区で当選した。94

 


神社と国家の関係はどう変化したか 宗教学者 島薗進 インタビュー

 

 中島岳志・島薗進共著『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(集英社新書)120

 

感想 201799()

学者は弱い、曖昧、逃げ道を用意している。島薗進は、国家神道を否定しない。

「国家神道が存続したことがマイナスと言いたいのではありません。国家神道を除去することが良かったとは必ずしも言えません。それは天皇制が廃棄されることがよかったかどうかはわからないし、象徴天皇制の下で、民主主義が成熟していく可能性はありうるわけですから。」134

 

122 招魂祭は、江戸時代末期に始まり、靖国神社のもとになった。日露戦争や野木希典(まれすけ)大将の殉死*で、殉教的な「軍神」という観念となり、多くの兵士に強要されるようになった。

*野木希典は、1912年、天皇の後を慕って殉死した。

 1930年代以降、「国体」や「伝統」が強調され、天皇の犠牲になって死ぬことが、非常に高い価値を持つようになった。

123 軍歌『海行かば』*は、大伴家持の長歌であり、天皇国家日本が、古代以来長い伝統の下に一貫して天皇の下に統治されていた観を与えるが、現実の歴史はそれとは異なり、天皇の支配の及ばなかった時代も長く続いた。確かに、天皇が日本に存在し続けて、ある一定の地位を維持してきたことも事実ではあるが。

 

*海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍

 大君の辺(へ)にこそ死なめ かへりみはせじ(長閑(のど)には死なじ)

 

信時潔がNHKの嘱託を受けて1937年に作曲した。将官礼式曲として用いられた。

 

123 国体論的な皇室観と、現憲法の下での象徴天皇観とがある。自民党の主流は、後者の考え方だと思われていたが、この間、どうも前者の日本会議のような方向になっている。世界各国も驚いているのではないか。

125 神道指令では、皇室儀礼についてほとんど触れられなかった。そのため、その後の伊勢神宮真姿権限運動は、伊勢神宮の地位を国家的なものにしようとするものであり、また、靖国神社を国家的な戦没者追悼施設にする企てが繰り返されてきた。靖国神社に祀られるということには、「天皇の犠牲となって死んだ命」が尊いという考えがついてくる。

126 戦前は「神社は祭祀であって宗教ではない」とされた。今も、「儀礼は宗教ではない」とする津地鎮祭最高裁判決は、「宗教といっても、それほど思想信条の自由に影響を及ぼさない範囲のものは、行政の関与を認める」とした。この考えは、大喪儀や大嘗祭を神道式にできることにつながる。

127 教育勅語は国体論を民衆に教え込んだ。当初民衆は天皇崇敬にあまり関心を持たなかったが、戦争と軍隊がそれを広めた。支配層が方便として考えた教育勅語=天皇崇敬論は、国民への天皇崇敬の浸透がすすむと、国民の方が逆に支配層の方便論に抗い、それを軍部が後押しした。

130 安倍晋三首相は、2013年、伊勢神宮式年遷宮の遷御の儀に参列したが、これは1929年の濱口雄幸(おさち)首相の参列以来、史上二度目のことである。

131 現在、大学内で自由にものが言えないし、テレビ報道を国家が規制している。ソフトな全体主義が進行している。

 「伊勢神宮や三種の神器が国家的な地位を持つようになった」と、ジョン・ブリーンは指摘している。*

*『神都物語』ジョン・ブリーン、吉川弘文館、2015

132 現在、教科書で天皇の地位が重視され、「戦前の体制が良かったんだ」と主張することは、多様な思想・信条を抑えこもうとするものだ。

133 戦前、神職は国家機関として神社の聖職者として養成された。葦津珍彦(あしずうずひこ)など神社界のリーダーが国家祭祀の担い手だった。

135 江藤淳は、戦後検閲を批判している。占領軍の言論統制の下で、日本人自身が自分たちの思考と言語を通して戦後の社会構成のあり方や思想原理を形作る過程が弱かった。

 


政治団体化する神社 

 

神社乗っ取り事件 片岡伸行

141 2016年の年始に各神社は、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」に協力する神社本庁の意向を受けて、「憲法内容の見直しへの賛同署名活動」を行った。

2016年夏の参議院選挙で、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」は、「『憲法改正国民投票』の実現と、過半数の賛成による憲法改正の成立」を掲げた。安倍晋三首相は、2015年11月の「今こそ憲法改正を!武道館一万人大会」にビデオメッセージを寄せた。共同代表は、櫻井よしこ、田久保忠衛、三好達、38人の代表発起人の中には、田中恆清・神社本庁総長、葛西敬之、すぎやまこういち、中西輝政、舞の海秀平、長谷川三千子、百田尚樹らがおり、また事務総長は、打田文博・神道政治連盟幹事長である。

神社本庁が各神社の宮司の人事権を戦前のように握ろうと、つまり、中央集権化しようとしている。

142 2008年7月15日、大分県宇佐市の宇佐神宮の責任委員会は、宇佐神宮の宮司池永公比古(きみひこ)の後任として、到津(いとうづ)家の長女、到津克子(よしこ)を決定し、神社本庁に任命の具申をしたが、神社本庁からは何の返答もなかった。

2008年8月、池永宮司が死亡した。「神社本庁が、『宇佐神宮のような大きなお宮の宮司には、女性は任命しない、(当時の)宮内庁掌典長のI氏にせよ』と言ってきた」と元大分県教育委員長の長岡恵一郎が、宇佐神宮の責任委員の一人賀来昌義医師に語った。この人事に関わったのは、田中恆清・神社本庁副総長(現総長)だった。

143 2008年9月、天皇は国体で大分を訪れ、大分県出身者の学習院同窓会・桜友会に参加した。

144 天皇は克子さんの母親の悦子(としこ)さんに、娘の克子さんがまだ宮司になっていないのを気遣った。

 

天皇「そりゃ大変だ。すぐに本庁の権限のある者に電話をしなさい」

悦子「神社のトップは陛下でいらっしゃいますから、ご命令ください」

天皇「私に権限があったならすぐにでも(宮司に)したい。到津家は歴史ある家です。(到津家を)ちゃんとしてもらわないと困りますね」

 

元皇族の久邇邦昭(くにくにあき)統理(当時)は「天皇はいらんことをした」と漏らしたという。

146 田中恆清・神社本庁副総長(石清水八幡宮宮司)は悦子さんに「世襲は三家だけだ。宮司でない権宮司の克子さんは、気多(けた)大社のように、脱退できない」と言った。(神社本庁の囲い込みの意図が見える。またその言葉遣いが暴力的だ。)

 

「誰が宮司になんかするか!世襲は田中、千家、西高辻の三家だけじゃ。宮司じゃないと脱退できないからな。気多大社みたいにはいかんぞ」

 

144 2009年1月13日、到津公齊名誉宮司が死亡した。

2009年1月16日、宇佐神宮の禰宜(ねぎ)(宮司の補佐)11人が、克子さんの宮司就任を拒否する嘆願書が神社本庁に郵送された。11人のうちの一人が、永弘(ながおか)健二権宮司(その後禰宜から昇進)だった。

146 2006年8月、気多神社が脱退を決めると、神社本庁は、当時の宮司を懲戒免職にし、石川県神社庁長を兼任宮司に任命した。

 気多神社は文部科学大臣を相手取って裁判に訴えた。

2010年4月、最高裁は気多神社の神社規則変更(神社本庁からの脱退)を認めた。

148 神社本庁は、2009年2月26日、宇佐神宮の特認宮司に穴井伸久・大分県神社庁長を任命した。

2010年3月、到津さん側は、提訴。

2013年5月、最高裁は「審理すべき事案ではない」として、到津さん側の、宮司としての地位確認の要求を却下した。

148 永広権宮司は、克子さんを監視し、会話の録音をし、彼女に暴力をふるった。克子さんは刑事告訴したが、不起訴になった。

また、永広権宮司は克子さんの待遇を引き下げたため、克子さんは、中津労働基準監督署に申し入れた。

2013年11月、中津労基署は宇佐神宮に改善を指示したが、宇佐神宮側はそれに従わなかった。

2013年12月24日、穴井宮司等で構成される責任委員会は、克子さんの懲戒免職処分を決定した。

2014年1月10日、宇佐神宮責任委員会は、「到津克子権宮司懲戒免職願」を神社本庁に提出した。

2014年5月15日、神社本庁は、克子さんの免職を決定し、宇佐神宮も解雇を通告した。

2014年6月、克子さんは解雇(免職)無効を求めて提訴した。

 克子さんの代理人・弁護士の岡村正淳(まさあつ)氏は、「女性差別ばかりでなく、神社本庁による直轄支配が本質的な問題だ」と指摘した。

2014年11月、「宇佐神宮の伝統を守る会」が結成され、会報でこの問題を「宇佐神宮の乗っ取り策動、仕組まれた解雇」と位置づけ、支援を呼びかけている。

2015年7月10日、宇佐神宮の権禰宜同士による暴力事件が起こった。傷害罪で略式起訴された。

2015年11月5日、中津簡裁は、加害者に罰金十万円の略式命令を出した。

穴井宮司は加害者を擁護し、被害者の権禰宜を首にすると言い出した。

2015年12月5日、宇佐神宮の氏子総代5人中の4人と、県神社庁宇佐支部の全役員ら10人が、穴井宮司解任を求める嘆願書を神社本庁に提出し、後任に県神社庁長を推薦した。

これは到津さんとは無関係である。永広権宮司は、「加害者の権禰宜が、到津家排除の嘆願書を書いた」と著者の質問に答えた。

150 宇佐神宮は、穴井宮司を解任し、神社本庁総務部長を新宮司に任命することを検討しているとのこと。それならまさに神社本庁による直轄支配の完成だ。

 

全国にある神社は本来独立した存在である。本山、末寺という関係ではない。神社本庁の庁規第61条によれば、「本庁之を輔翼す」とある。「輔翼する」とは補佐であり、1946年2月3日に創立した神社本庁の存立趣旨である。

 神社本庁が各神社の宮司の任命権と財産処分権をにぎるならば、補佐ではなく、中央集権化である。

神社本庁は、国家神道時代に回帰し、政治運動体化した。

151 神社神道の研究家で地元宇佐文学顧問の岩男英俊は「今の神社本庁は、戦前の内務省神社局のような機関になろうとしている。神社本庁は全国350社ある別表神社の宮司や神職の任命権を握ろうと画策している。国家神道の復活を狙っているとしか思えない」と言う。

 


冠纓(かんえい)神社も乗っ取られた

 

153 香川県香川郡香南町(現在の高松市香南町)由佐の冠纓神社も、神社本庁が主導し、地元香川県議会議員・綾田福男、高松市議・元香南町長・辻正雄、元町会議員・田中宏和、自民党香南支部顧問・連合自治会長・赤松千寿、香川県神社庁長・松岡弘泰、県神社庁に事務局がある神道政治連盟香川県本部長・池田博文などが、香南町連合自治会を利用し、一部の地元町民を抱きこんで、神社本庁から脱退しようとする冠纓神社宮司友安盛敬(もりのり)やその妻(友安安記子)を排除し、宮司職を奪い、松岡を宮司に事実上任命した。157

 香川県知事は友安盛敬氏の離脱申請を認可せず、文科省の審議会も友安盛敬氏の離脱請求を棄却し、司法でも友安盛敬氏が敗訴した。156

 

153 冠纓神社は861年の創建とされ、「かむろ八幡宮」とも呼ばれ、安倍晴明が神主をしていたとの社伝がある。

香南町は圃場整備事業で、神社の参道を田んぼへの入り口とするような設計をした。154

2001.4 香南町は、神社に隣接する圃場整備事業で、冠纓神社の承諾も得ず、境内地を横断する配水管埋設工事に着手した。町担当者は、冠纓神社の訴えを無視した。

2001.10 高松地裁は、埋設した配水管の撤去を命じた

154 圃場整備事業の町の担当者は、土地改良区の理事長の甥だった。工事を請け負った和泉建設の顧問は、自民党の地元選出県議・綾田だった。

155 圃場整備の地権者15人は、冠纓神社の氏子で、その中には神社総代で、圃場の区画変更(換地)の責任者がいた。

2001.12.15 総代会の16人は、友安宮司の境内地の変更を許さない態度に反発し、総辞職した。

2006.9 神社側の承諾もなく、綾田が代表の「冠纓神社氏子会」が結成され、一戸当たり2000円の「祭り費用納入」を呼びかけた。

 神社側は、香川県神社庁、神社本庁に苦情・抗議を申し入れたが、無視された。綾田は県神社庁に事務局がある神道政治連盟香川県本部の顧問で、県議団会長だった。

 冠纓神社は、新たに責任委員を選出し、神社本庁からの離脱を決定し、公告した。綾田が代表の「冠纓神社氏子会」は、宮司の権限停止を求めて仮処分を申請した。

2007.10.22 高松地裁は、「冠纓神社氏子会」を正当な団体と認めなかった

156 香川県知事・真鍋武紀は、神社本庁離脱申請を認可しなかった。

2008.5.12 文科省宗教法人審議会は、請求を棄却した。この審議会委員には、日本会議副会長兼神社本庁総長・田中恆清、日本会議事務総長兼神道政治連盟幹事長・打田文博がいたが、関係者だとして退席した。

2011.1 裁判でも離脱を決めた責任委員会の正当性が認められず、冠纓神社側の敗訴が確定した。

2012.11.19 友安盛敬宮司が亡くなった。

2012.11.26 冠纓神社責任委員会は、友安の長女竹内照実を「宮司代武者」に任命するように神社本庁に具申したが、何ら返事が来なかった。

2014.9.12 松岡弘泰を冠纓神社の宮司と決定した。参加者は、「冠纓神社氏子会」を改称した「冠纓神社見守り会」会員、香川県神社庁から24人、綾田、赤松、辻、田中、松岡、池田、神道政治連盟香川県本部参事・上里昌文などだった。(「冠纓神社氏子会」副会長の赤松千寿談)157

2015.9 香川県神社庁は「冠纓神社秋季例大祭開催について」のなかで、香川県神社庁の松岡弘泰庁長が冠纓神社の「代表役員宮司を努めております」とした。

158 神社本庁には人事権はない。

神社本庁の「指導」や「命令」で決められるものではない。

ところが、赤松は「指導を仰いだもので、命令ではない」とする。

冠纓神社規則第37条・20条「氏子名簿に登録された氏子から16人の総代を選出。総代の中から選ばれた5人の責任役員が宮司を(神社本庁に?)具申する」

158 綾田、赤松両氏は、過去十五年間、維持負担金を納めず、氏子名簿にも登録されていない。辞職当時(2001年)の総代も責任役員も、負担金を納めていない。

 香川県神社庁は、松岡庁長の冠纓神社宮司就任に関して、「なほ存在している責任役員による適切な手続きで就任したとしている。

159 著者は、香川県神社庁事務局長職の上里参事に、以下のような疑問を呈しつつ、指摘する。

 

・15年前に辞職した人は、正当な責任役員とはいえない。

・責任役員の数より地元有力者の方が多く参加した会議は、正当な責任役員会とはいえない。

・決め方が、神社規則に反している。

 

 香川県文書での冠纓神社役員名簿には、責任役員の記載がない。

宗教法人法第25条によれば、役員名簿、責任役員会の議事録を神社に備えておくことを義務づけている。

160 全国8万社余の神社のうち、賽銭、祈祷料、お守りの販売などの収入で維持管理していける神社は、数百程度であり、多くの宮司が神社を複数掛け持ちしたり、副業をしたりしている。

 冠纓神社は、かつて地域の氏子から一戸当たり7000円の奉納金を受け取っていたが、圃場事件以降はなくなった。自治会から除籍され、回覧板も回ってこない。(収入源となる)伊勢神宮のお札(神宮大麻)の頒布もない。そして安紀子さんは、「神社庁の参事から、出て行けと言われた」と言う。


明治時代の天皇崇拝は神道の長い歴史では特殊 三輪隆裕

 

164 江戸時代からの神官たちは、明治なって、社領を政府に取り上げられ、一部を除き、廃業した。神社は、土地も建物も国有化され、宗教からはずされた。古くからの神官たちに代わって新しく神官となった人々は、準国家公務員で、彼らにとっては、明治が最初の時代である。

165 新たな神官には、宗教行為・布教は許されず、国家の祭祀・儀式・儀礼だけが許された。つまり「神社は宗教ではなく、国家の儀式をつかさどる機関である」とする「国家の宗祇」理論である。内務省が神社を管理し、文部省が宗教を管理・区分した。国家は宗教の代わりに「教育勅語」を国民教化のために作った。

 


幼稚な陰謀論と歴史修正主義 熊川元一(のがわもとかず)

 

185 高橋史朗は、江藤淳が『閉ざされた言語空間』の中で指摘するところのWGIPつまり、War Guilt Information Programをその論拠にしている。WGIPとは、戦後の連合国軍総司令部(GHQ)の民間情報教育局(CIE)が行った、日本の戦前の戦争に対する罪悪感を、新聞やラジオで日本人に刷り込もうとした宣伝政策をいい、高橋はそのために、日本人のその後の心性が、つねに謝罪に結びつくようになったという。

 

 高橋史郎は育鵬社の中学公民・歴史教科書を支えている一般財団法人「日本教育再生機構」の理事である。

 

 高橋史郎は、『日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと』(致知出版社、2014)の中で、CIEの主要任務が、日本人の「内部からの自己崩壊」「精神的武装解除」であったとしている。そして今日の日本が「自虐的に全て日本が悪かったのだと謝罪を繰り返すようになって」いるのは、WGIPの成果であるとする。

 

 GHQが、東京裁判やその報道、検閲などを通じ、日本の侵略戦争や戦争犯罪についての認識を当時の日本人に持たせようとしたことは事実である。1945.12.15の「神道指令」は、国家と神道とを分離した。また「大東亜戦争」など、国家神道や軍国主義と密接に結びついた用語の公文書での使用を禁じた。

 CIEは全国紙の全てに、「太平洋戦争史―真実なき軍国日本の崩壊」という記事を掲載させ、同趣旨のラジオ番組「眞相はかうだ」をNHKで放送させた。

 

186 しかし、高橋の論述の欠陥は、次の点を見落としていることだ。つまり、日本には「アメリカ側の提示した価値観を受け入れるだけの歴史的土壌があったということ」(『日本人の戦争観』、吉田裕)である。

 またWGIP論が陰謀論であるとする第二の理由は、高橋が、侵略戦争や戦争犯罪などの事実を認めることを「自虐」ととらえていることだ。

 

 


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