2020年7月5日日曜日

赤色戦線大検挙 纐纈彌三(こうけつやぞう) 1955年、昭和30年8月号 三十五大事件 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 要旨・感想

赤色戦線大検挙 纐纈彌三(こうけつやぞう) 1955年、昭和30年8月号 三十五大事件 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 

 

 

感想 これは全くの居直りの自慢話、勝鬨の雄叫びだ。戦前について反省しようという気が全く見られない。公職追放を解除され、一転してレッドパージが行われ、日本が米軍の手から離れ、身の安全を確認してから、戦前についての反省も全くなく、戦前自分が共産党員や労働者に対して行った虐待の数々を自慢するかのような口ぶりだ。人を痛めつけ、陥れておいて、そんなに気分がいいのだろうか。戦前、政治の上層部にいたこの種の人達が、戦後のこの時期に息を吹き返し、今日に至っていると思われる。自慢話だから、話の脈絡がなく、唐突に終わる。

 

彼は冷酷・冷徹で、戦前に自分が行った残虐行為の数々について死ぬまで全く反省がなかった。スパイ行為や拷問については一言も触れない。対外的にも対内的にも、加害者は被害者の気持ちが分からず、居直っている。

冷徹でまるで機械のようだ。思想が何も見えない。それは何か物を正確につくる作業に似ている。相手が何を考え、何を思っているのかについては全く関心がないようだ。恐ろしい鬼のような人だ。

 

 4・28を日本が米軍の手から離れた日として祝い、「主権回復記念日祝日制定」のために「主権回復記念国民集会」などとして毎年開催している三人がいるとのことだが、この人たちも、彼同様、戦前についての反省のない人達なのだろう。井尻千男、小堀桂一郎、入江隆則の三人である。

 

1955年、レッドパージが済んで、右派がほっと一息ついたところでこの一文を投稿したのだろうか。誇らしげに書いている。「人は取り締まるためにある」が彼の哲学か。纐纈彌三は偽名かと思って、ウイキペディアを調べたらこの名の人物が出てきた。ウイキペディアで触れられている、米軍へ提出した特高に関する調書とはどんなものだったのか、読んでみたい。

 

ウイキペディアによると

 

纐纈彌三 1893—1978 内務官僚、政治家(日本民主党、自由民主党 1955—1966)。警視庁特別高等警察課長、大分県知事 1939--1941、衆議院議員4期、政務次官。

 

岐阜県恵那郡蛭川村(現・中津川市)に生まれる。

第一高等学校卒業。

1920年7月、京都帝国大学法学部卒業。内務省入省。

1921年12月、北海道庁警視・警察部保安課長

1925年1月、兵庫県警察部外事課長

1927年5月、警視庁警視・総監官房特別高等警察課長外事課長

この間、1928年の三・一五事件(これが本文の主な内容である。)、1929年の四・一六事件で活躍し、その功労として、1934年、叙勲。

1929年、茨城県警察部長。

1932年、領事・上海在勤。

1935年、宮城県警察部長。その後、兵庫県警察部長。

1939年、大分県知事

1941年、文部省社会教育局長。その後、普通学務局長、国民教育局長

 

1946年、公職追放。

この間、東京で神主を務め、米合衆国陸軍情報部(CIC, Counter Intelligence Corps)の依頼で特高警察に関する調査報告書を作成。

1951年、公職追放解除。

1955年2月、衆議院議員総選挙に自由民主党から岐阜2区に出馬し初当選。この後に本文を執筆したようだ。

1960年、文部政務次官(第二次池田内閣)

1963年、大蔵政務次官。

1964年、科学技術政務次官、その他自由民主党文教部会長。

1967年、政界を引退し、地盤を旧内務官僚で岩手県特高課長だった古屋亨に譲る。新東京国際空港公団監事。

・日本共産党機関紙「赤旗」の取材に応じ、十数回にわたり証言し、録音された。この時、貰い物の食品は妻や客が先に毒味をした後食べたことや、日本共産党内のスパイに金品や就職など、家族ぐるみで世話をした、と妻シマは述べている。

 

 

メモ

 

・レポーター(レポ)というのは共産党シンパか、あるいはただ身近にいた人で、伝言を運ぶ任務を帯びた人のことらしい。040

・県庁の職員が警察の援助をし、尾行を手伝っていたようだ。それとも、県庁内に警察の出先機関があったのかもしれない。042「大阪府庁に手配し、6月28日、福本和夫は、出入橋から桜橋方面へ歩行中を府庁の刑事課員に逮捕された。」042

 

・1928年の三・一五では党員が誰なのか、よく分かりもしないのに、幅広く逮捕した。「労働農民党本部、日本労働組合評議会本部、その支部、無産者新聞社、東京市従業員組合本部、無産青年同盟本部、産業労働調査所、マルクス書房、希望閣など、左翼急進分子が出入すると思われる50余ヶ所を一斉検挙した。また各新聞社を始め、あらゆる報道機関に対して午前5時を期し、日本共産党の検挙に関する一切の記事の掲載禁止命令を伝達した。」039 (こんなことが当時は警察の命令でできたのだ。)

040 「当日の検束者はおよそ300名に達し、治安維持法違反として強制処分に付した。」

・「彼らの秘密組織には縦の連絡はあるが、横の連絡がない。」

・「この検挙において我々の捜査線上に上っていた者は五色温泉における創立大会を中心として、各所で持たれた細胞会議に関連した党員程度を出ていなかった。」(めくらめっぽうに網を広げて逮捕したということだ。)

・「中央執行委員・中尾勝男の身体検査をしたところ、懐中にブローニングの拳銃を持ち、数種のレポを発見した。」

「数字の書類は党員名簿であること、党員が400余名であることを自供した。」

「軍の暗号研究家がその数字を1ヶ月で解読した。」

労働農民党、日本労働組合評議会、無産青年同盟に対して結社禁止命令が出された。その命令書は内務大臣から警視総監に宛て伝達を命じたものだった。」(こんなことがこのころは可能だったのだ。)

 

 

要旨

 

037 三・一五弾圧作戦の始まりは、山形県の五色温泉での宴会に関する某情報に基づく捜査から始まった。

毛利基次席警部は、日本共産党が再建されたという情報をすでに得ていたが、1927年8月、(スパイから)「東北地方の、子供ができる温泉で、重要会議があったという噂があるが、知っているか」という匿名電話を受けた。

 この情報は係長の浦川秀吉警部からに伝えられ、三人で相談し、毛利警部が五色温泉に出張し、内偵した。出張命令書には「日本労働組合評議会の活動状況調査のため、大阪府に出張を命ず」と記された。(警察の記録を見ても、それ自体がごまかしである可能性がある。)

 五色温泉には宗川旅館という旅館しかない。女主人は語った。「たしか昨年1926年、大正15年12月初旬(3日)、最初二人が来て、翌朝(4日)15人がやって来た。一年中で一番閑散な時期だった。午後、相談があるから誰も来ないでくれ、用事があれば呼ぶから、と言われた。相談は夕方まで続いた。その間誰かが見張りをしていたようだ。5日の午前中に皆帰った。旅館名入りの手拭を贈呈したが、誰も持ち帰らなかった。」

038 毛利警部が日本労働組合評議会幹部の顔写真を見せたが、係りの女中が里へ帰っていて不在で、はっきりしたことは分からないということだった。

 

 五色温泉での集会は日本共産党の創立総会であり、当日出席した17名の氏名を明らかにすることができた。(どのようにしてかは書かれていない)

 

 創立準備委員会代表 福本和夫、佐野文夫、渡辺政之輔中尾勝男、松尾直義、三田村四郎 関東地区代表 片山久、水野成夫、日下部千代一、豊田直、門屋博 関西地区代表 国領伍一郎、喜入虎太郎 九州地区代表 藤井哲夫 書記 中野尚夫、藤原久 警備 菊田善五郎

 

1923年、大正12年6月5日、第一次日本共産党の一斉検挙が行われた日の前夜、検挙打ち合わせのために某料亭で、署長の懇親会を開催した。宴会終了後、署長たちは本庁へサイドカーを走らせたため、新聞社が一斉検挙だと号外を発刊し、5日払暁に、被疑者の家に踏み込んだが、もぬけのからで、そこには号外が置いてあった。今回は検挙の日まで秘密にした。

039 内偵を極秘に行った。(明るみ内偵するようなことがあるのだろうか。)

 同僚の目もかすめ、記者に感づかれないようにした。しかし、五色温泉での創立総会以後半年たっても、党の最高幹部の所在がつかめなかった。

 

 ところが、1928年、昭和3年2月20日、最初の普通選挙が行われることになり、労働農民党から立候補した数名の共産党員の演説会場で、日本共産党と明示された数多のビラが公然と撒かれていた。福岡県第一区から立候補した徳田球一は長い間地下にもぐっていたが、終盤戦に選挙区に現れた。無産者新聞で私はこれを知り、福岡県庁に打電して、彼を終始尾行するように依頼し、選挙戦を終えて帰京したところを品川駅で検束し、高輪警察署に留置した

 

 3月初旬、東京ステーションホテルで警保局長山岡万之助を中心に、検事局から松阪次席検事、平田思想主任検事、警保局から友部保安課長、三橋、宮野両事務官、警視庁から私と浦川警部とが集まって、3月15日、全国一斉に日本共産党の大検挙を断行すると決定した。

 

 1928年、昭和3年3月15日午前5時、前日の秘密司令を受けた30余班の特高・外事の両課員は、指定の場所に集まり、班長から初めて日本共産党員何某逮捕の任務を言渡され、指名者の家宅に踏み込んだ。管下の警察署は管内の、労働農民党本部、日本労働組合評議会本部、その支部、無産者新聞社、東京市従業員組合本部、無産青年同盟本部、産業労働調査所、マルクス書房、希望閣等、左翼急進分子が出入すると認められる50余箇所の一斉検挙を行った。また、各新聞社をはじめ、あらゆる報道機関に対して、午前5時を期して日本共産党の検挙に関する一切の記事の掲載禁止命令を伝達した

 私は、午前5時、捜査本部の自分の室に出かけ、浦川労働係長、石井石蔵特高係長とともに、結果を待った。失敗は、菊田善五郎の逮捕に向った鈴木内鮮係長の一斑が、一旦捕らえながら逃亡されたことだけだったが、このことは中尾勝男を逮捕することにつながった。

 

040 当日の検束者数は300名で、治安維持法違反として強制処分に付し、直ちに市ヶ谷刑務所に収容された者は約30名だった。

 彼らの秘密組織は縦の連絡はよく保たれているが、横の連絡がない。我々の捜査対象は五色温泉での創立大会を中心にして、各所で持たれた細胞会議に関連した党員程度を出なかった。(僅かな情報しかない中を、大網をかけて、関係のない人も含めて大勢を捕まえて、自白を強要したということだ。また言い訳がましく)当日検束した者で、容疑薄弱のため即日釈放した者がいたが、その中には後になって党員であったことが判明した者もいた。

 (鈴木内鮮係長らが)たまたま取り調べたレポーターの所持した紙片に、「三・二六・后六時三越本店ショウウインド前」と書かれたものと「白山上カフェー白バラ三・二七・后二時」というレポを入手した。(レポーターというのは党員ではないが、協力者として働いた伝言係ということか。)前者は空振りだったが、翌日、若林警部補は一人の係員と共に白山上の白バラカフェーに客を装って入り、他の者は一軒おいた家具屋に待機させた。定刻から5分ほど過ぎて若い男が扉を押して店内を見回したが、中に入らず立ち去った。若林警部補は飛び出して、その男を誰何した。逃げる男を追い、警笛を吹いて待機の係員とともに逮捕した。ブローニングの拳銃と数種のレポを持っていた。本庁に連行し、浦川係長が取り調べ、逮捕した男が中央執行委員の中尾勝男であることが判明した。(どうして分かったのか。拷問か)三・一五検挙後の連絡方法に関する対策についての意見書や、数字で綴られた数葉の書類があった。この数字の書類が暗号による党員名簿であることを自供したが、そのキーは語らなかった。浦川係長が追求し、党員増加の状況、党員の社会的構成、党の組織、各地方委員会所属の党員名を記載したものであることを明らかにした。(口を割らせたということか。)また、現在の党員数は、不良党員と海外党員を除いて、400余名であることを自供した。これは殊勲甲の捕物であった。

041 暗号は軍の暗号研究家の一ヶ月に渡る研究で解読に成功し、その結果409名の党員名がことごとく判明した。ただし、最高幹部だけは偽名が記されていた。

 (一旦捕まえたが逃げられた)菊田善五郎も4月5日に逮捕された。

 

 記事掲載禁止の結果、デマが飛び交い、人心が動揺するおそれがあったので、4月10日、一部記事掲載禁止を解除した。それと同時に、日本共産党ともっとも密接な関係があると認められた労働農民党、日本労働組合評議会と無産青年同盟に対して、結社禁止命令が発せられた。その命令書は内務大臣から警視総監に宛て伝達することを命じたものだった。この発表は社会全般を震駭させた。(なぜ日本共産党でもないのに結社禁止にされねばならないのか。一部記事とは何か。発表しない部分とは何か。)

 4月24日、逮捕を免れていた党首脳部の渡辺政之輔、福本和夫、佐野学、三田村四郎、丹野節、鍋山貞親、市川正一、国領伍一郎、難波英夫、長江甚成ら九名(10人ではないか)の写真2万枚を作成し、(この10名を含む)22名の指名手配書にそれを添付し公開した。また中尾勝男の暗号が解読されてからは、未逮捕の党員を指名手配に付け加えた。

 4月7日、関東地方委員会本部の所在を突き止めてこれを襲い、委員長村尾薩男を検挙し、拳銃を持っていた門尾博をはじめ、浅野晃、木村節夫、内垣造、田中稔男、曾田英宗らを逮捕し、本部印刷局の責任者今野健夫を検挙した。

 

 芝区三田四国町の自宅で所轄愛宕警察署員の監視下に置かれ、肝臓を患っていた(日本労働組合)評議会の幹部で、先の総選挙で北海道から立候補した山本懸蔵は、5月8日の真昼に逃亡し、一時浅草金竜山瓦町の三田村四郎のアジトに身を寄せていたが、入露した。第6回コミンテルン大会に日本代表として参列し、その後ロシアに滞在し、片山潜亡き後の任務を引き受けていたが、その後消息を絶った。客死したようである。

 

042 福本和夫は、神奈川すみ、下田文子、中村恒子を「手中に収め」た。福本はロシアから帰国後、市外長崎町の洋画家前田寛治方に身を潜め、翌年(いつか)3月、小石川区小日向水道町の平井泰造方に秋山利春として移り住んでいたが、この隠れ家を探知し、5月24日襲ったが、中村恒子とともに西下した後だった。福本が、大津市士官町医博の稲富稔氏方から大阪市住吉町辻村徳次郎方に、毎日新聞記者後藤浩と名乗って居住していることを探知し、大阪府庁に手配し、6月28日、福本は、出入橋から桜橋方面へ歩行中を、府庁の刑事課員に逮捕され、東京に護送された。

 川合悦三も8月4日、下谷のアジトで捕らえられた。

 

 浅草金竜山瓦町四の佐藤きく方に思想犯らしき人物の出入する事実を突き止め、10月2日、国領伍一郎が訪れたのを係官が見つけ、石井係長039自ら、伊藤警部補、高木、中原両部長ら十数名を従え、同家を襲った。高木部長は二階で銃撃され、下顎に命中し、階段から滑り落ち、兇漢は戸外に逃亡した。高木部長は逃げようとする女を捕まえ、伊藤警部補と協力して女を象潟署へ連行した。

 高木部長は一命をとりとめた。

 非常線を張って警戒中、午後10時10分、坂本署の渡辺巡査外一名の刑事が、下谷区竜泉寺町31番地を警邏中、挙動不審により誰何したところ、彼はモーゼル型拳銃を発砲しようとしたが、安全弁がかかっていたためか、拳銃を刑事の顔面に投げつけ、坂本二丁目方面に逃亡した。

 象潟署で浦川係長が女を取り調べた。彼女は佐藤きく森田京子といい、和歌山県下の豪農の娘で女子大の卒業生で、三田村四郎のハウスキーパーとして同棲していた。高木部長を射撃したのは三田村四郎だった。三田村四郎は、翌年1929年4月16日の四・一六事件の直後、赤坂田町の待合山升で鍋山貞親とともに逮捕された。

 

 渡辺政之輔と鍋山貞親は、9月10日頃、宮島に一泊し、門司から青島に行き、さらに汽船で上海に渡った。POボックス1260宛の手紙を投函して連絡を取り、翌日カフェーで支那人と会った。その支那人の案内で仏租界の米国人宅へ赴き、約10日間そこで過ごした。

渡辺政之輔は鍋山を上海に残して、帰国しようとし、台湾経由の湖北丸に、一等船客、東京市浅草区神吉町時計商米村春太郎と偽名して乗船した。10月6日朝、基隆港に入港したが、時しも今上陛下の戴冠の大典を控え、水上署員の検索は厳重だった。銘仙の袷に鉄無地の羽織を着て博多帯をし、金縁眼鏡をかけた一見商人風の男が、与瀬山刑事に氏名住所を尋ねられたとき、台北市滝口町堀田吉三と印刷した名刺を提示した。与瀬山刑事は船客名簿と一致していないので、黒革製中型トランクを調べた。グレーの合着背広一着、レインコート、山梨県下部温泉大森旅館名入りの爪楊枝入れ、門司市群芳閣の扇子、米村春太郎の名刺、時計のカタローグの外、日本紙幣で150円、米国紙幣800ドル、支那紙幣数葉を発見した。与瀬山刑事は水上署に同行を求め、水上署のランチ「ときわ」に乗り、哨船頭の岸壁に着いた。米村はこの時、懐中に隠し持っていたブローニング六連発の拳銃を取り出し、前に立った与瀬山刑事に二発撃ち即死させた。「ときわ」より遅れて上陸した平間警部補らは、米山を追跡し、米山は路地に逃げ込んだが、袋路地と分かり、拳銃を自らのコメカミにあて、右から左に前頭部を打ち抜き自殺した。

044 水上署は重大犯人と認め、警視庁に打電し、米村の取調べを求め、人相や指紋を送った。身長五尺三寸、頬骨高く、額広く、口はやや大きく、中肉、頭髪は七三に分けていた。左手上膊部内側に幅四分長さ一寸五分の短冊形に「こうこ」と刺青していた。指紋の対照によって渡辺政之輔と確認した。

 渡辺政之輔は第一次日本共産党事件に連座し、8ヶ月懲役に服した。

 

1955年、昭和30年8月号 三十五大事件

 

以上 202075()

 

 

 


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