2020年7月14日火曜日

『寒村自伝』全巻年表

『寒村自伝』全巻年表

 

18878.14 横浜市永楽町にて誕生

1890.5.1 世界で最初のメーデーが行われたとき、フランス政府は、社会主義者や無政府主義者を前夜に検束した。

1890.5 労働組合同盟会が結成された。

1891 谷中村鉱毒被害

1896 日本の社会党は、この年以来、日本の社会主義革命を目指した。(p. 111)

1897 労働組合期成会が片山潜によってつくられた。

1898 社会主義協会設立(上p. 125)(ウィキペディアでは、一九〇〇年一月結成。前身は、一八九八年の社会主義研究会)

1900 山川均と守田有秋が不敬罪(筆禍事件)で、三年六ヵ月入監

1901.5 日本で初めて社会民主党が創建されたが、伊藤内閣の内務大臣末松謙澄は、ただちにこれを禁止した。

1901 高等小学校を卒業、チャールズ・セールス商会へ勤務、英語夜学校に通学

1903.3.8 キリスト教の洗礼を受ける 

1903.3 報効義会へ入会

1903 海軍工廠に勤務

1903.10.12 堺、幸徳、内村らが『万朝報』を抗議退社

1903.11.15 週刊『平民新聞』創刊

1903 ドイツ社会党が八十議席を獲得し、第二党になる

1904 横浜で平民結社を設立

1904.1 社会主義協会に入会

1904.2 日露戦争始まる

1904.3.13 『与露国社会党書』

1904 春 伊藤博文が、韓国の領土保全などを語る日韓議定書に調印

1904.3.27 第二十号『嗚呼増税!』

1904.4から6まで 堺が二十号事件で下獄

1904.8.14 片山潜とプレハーノフとが会談

1904.10から1905.1.25まで 小田頼造、山口孤剣が下関まで行商

1904.11.6 第五十二号『小学教師に告ぐ』

1904.11.13から15ごろ 一周年記念の第五十三号『共産党宣言』。社会主義協会が解散させられる

1904 暮 満州軍倉庫手を辞めて日本に帰る

1905.1.8 母が亡くなる

1905.1.29 週刊『平民新聞』廃刊

1905.3.5 五十二号事件で幸徳(七月末まで)、西川(九月二十六日まで)が下獄

1905.3 末 大阪平民社設立(森近運兵)

1905.4.5から5.13まで、二回目は、7.10から7.30まで 行商に出かける

1905.8 国家社会党設立(山路愛山、斯波貞吉、中村太八郎

1905.8.30 平和条約成立、暴動、戒厳令、『直言』は、無期限発行停止、政府を批判する新聞は、数日間発行停止、集会禁止

1905.9 日露戦争終結

1905.10.9 平民社解散、『直言』廃刊

1905.10 大阪平民社崩壊

1905.10 牟婁新報勤務

『新紀元』発行(キリスト教的社会主義、安部、木下、石川)

『光』発刊(社会主義に基づかない、山口孤剣、西川)

1905.10 幸徳が渡米

1905 木下尚江が東京市衆議院議員補欠選挙に立候補。

1906.1 桂内閣が倒れ、第一次西園寺内閣成立

1906.1 中旬 日本平民党結成(西川、樋口伝)

1906.2 日本社会党結成(堺、深尾韶)

1906.3.15 東京の電車会社、三社の運賃値上げ反対(投石)にともなう、兇徒嘯集罪で二十一人が起訴

1906.4.18 サンフランシスコ地震

1906.6 初め 文部省が、各学校に、社会主義弾圧の方針を発表した。

1906.6 下旬 幸徳、岡繁樹*がサンフランシスコから帰国。*岡は、それまで、サンフランシスコ平民社を設け、邦字新聞を発行していた。

1906.6.28 幸徳の演説『世界革命運動の潮流』(p.194, 223)

1906.9.5から9.7まで 電車ぶち毀し、車掌、運転手、警官らが負傷、五十八名、九十四名が検挙、チラシ「貧富の戦争」の頒布禁止、また、その署名人として、山口孤剣が起訴された。安成と私は、ビラをまいて、一晩、検束留置された。

1907.2.4 足尾銅山の労働者が蜂起、戒厳令。至誠会員十一名、坑夫三百余人、逮捕、起訴。平民新聞の西川光二郎が逮捕された。家屋全焼百六十戸、半焼二戸。倉庫、事務所各七棟

1907.2.5付『平民新聞』に、幸徳が『余が思想の変化』を発表

1907.2.17 社会党大会

1907.2.19付『平民新聞』上の幸徳の演説原稿のために、発禁、起訴

1907.2.22 社会党は、解散を命じられた。(世にあるは、一年を出でず)

1907.4.14 平民新聞は、三ヶ月で、七十五号をもって自ら廃刊した。

1907 徴兵検査

1907.6 『社会新聞』発行(軟派の片山、田添、西川)

1907.6.25 日本社会平民党結党(片山、田添、西川)、即時禁止

1907. 『大阪平民新聞』(十一月から『日本平民新聞』)発行(硬派の森近運兵)

1907.7.5 谷中村に強制土地収用法を発動

1907.8.25 『矢中村滅亡史』を発行、同時に禁止

1907 秋 『大阪日報』の記者となる。

1907 末 平民協会結社(片山)

1908.1.17 屋上演説事件、六人検挙(堺、山川、大杉、森岡栄治、竹内善作、坂本清馬)

1908 春 『大阪日報』を退社

1908.5 『日本平民』廃刊

1908.6 上旬 山口孤剣出所出迎えのとき、巡査とやりあった。

1908.6.22 両派合同の山口孤剣歓迎会のとき、赤旗事件

1909.2 社会党大会で幸徳は直接行動論を述べた。

1909.5.19から1910.1.15まで 安倍磯雄が『資本論』の一部分の翻訳を発表。

1910.2 上旬 私と宇都宮が、満期出獄

1910.5.25 宮下太吉、新村忠雄、新村善兵衛を検挙

入獄中の管野も連累

1910.6.1 幸徳を拘引、全国数百人の無政府主義者、社会主義者を検挙

1910.9 下旬 堺が出獄。堺は、売文社をおこした。

          私は、二六新報社に入社した。私はこのころ竹内玉と結婚していた。

1910.12.10 大逆事件の開廷

1911.1.18 大逆事件の判決

1911 私は、『日本新聞』へ転勤した。

1912.10.1 大杉と私は、雑誌『近代思想』を発行した。

1912.12 山県・桂一派の陰謀により、第二次西園寺内閣は毒殺され、倒壊し、桂が宮中から出て、内閣を組織した。

1912 友愛会が、鈴木文治によって、結成される。

1913.2 政友会と国民党が、藩閥政府を弾劾し、群衆と警察が衝突し、国民、やまと、報知の各新聞社が、焼き討ちされ、軍隊が出動した。

1913.7 『日本新聞』を退社

1913 石川三四郎がフランスへ亡命

1914.2 ジーメンス事件で、同志会、中正会、国民党が、山本権兵衛内閣に不信任案を提出し、群衆が警察と衝突し、軍隊が出動された。

1914.9 片山潜がアメリカへ去る

1914.10.15 『近代思想』を廃刊し、月刊『平民新聞』を発行、初号から発禁

1915.3.15 月刊『平民新聞』廃刊

1915.9 堺利彦が、月刊『新社会』を発行。第七号は、表紙絵のために発禁。 

1915.10 月刊『平民新聞』の性格を持つ、『近代思想』を復活したが、初号から発禁

1916.1 復活『近代思想』を第四号で廃刊、リグレー会社支店に勤務

1916.4 荒畑がリーフレット『労働組合』を発行。

       荒畑がリーフレット『青服』を発行。後に、私と山川は、出版法違反で起訴。また、大杉の『労働新聞』の和田久三郎と久坂卯之助も同じく起訴。

1916.11.3 欧文植字工組合信友会が組織された。その後、活版工組合信友会と改称。

1916 工場法が施行された。

1917 堺が総選挙に立候補。演説会は中止解散命令。

1917 メーデー記念会

1917.12 米国の反戦投獄者応援記事のために、『新社会』が発売禁止。

1918 夏 米価高騰。窮民や暴徒が富豪を襲撃、放火、掠奪。警官と流血闘争、軍隊出動。

1918.8.13から8.16まで 私は、新宿警察に検束された。

1918.10から1919.2まで 私と山川が一九一六年の出版法違反のために入獄。

1919.2 『新社会』が廃刊となる。

1919.3 大阪の岩出金次郎が、月刊『日本労働新聞』を創刊した。

1919.4 雑誌『国家社会主義』を、高畠が出版。その続刊『大衆運動』を高畠が出版。いずれも発禁処分が相次いだ。

1919.4 月刊『社会主義研究』を堺、山川が出版。

1919.8 東京で新聞ゼネスト。

1919.8 山崎今朝弥主催の平民大学夏季講習会で、私どもの講演が中止させられた。

1919.10.24 日本労働新聞社主催、労働問題大講演会で、大阪府警が、堺さんの演説だけを中止させると、聴衆は警官と衝突した。

1919 釜石で鉱山ストライキ。暴動となり、軍隊が出動。

1919.12.26 私を含む代表団が、釜石の罷業の応援にかけつけた。

1920 恐慌

1920 労働組合同盟会が結成された。

1920 大杉栄が上海の極東社会主義者大会に参加した。

1920.1 『新社会』を『新社会評論』と改題した。

1920.2 イタリアでトリノのマッツォーニス織物工場を労働者が占拠した。

1920 東京市電労働運動で、組合幹部の拘引、従業員の検束がおこなわれた。

1920.5.2 日本で初めての正式のメーデーが行われた。社会主義者は、検束された。

1920 夏 社会主義同盟が組織された。

1920.9 イタリアでミラノの鉄工所を労働者が占領し、雇い主を放逐した。

1920.9から1921.1まで ウィリアム・フォスターがAFLに加わり、米大鋼鉄ストライキを成功させた。

1920.9.18 第二回京阪労働問題大講演会大阪大会では、中止・解散に抗議する聴衆が、警官と格闘した。検束者多数。二十日の神戸大会も、大混乱となった。

1920.10.2から10.4まで 友愛会大会で、日本労働総同盟友愛会と改称した。イギリスから野坂鉄(参三)が、全国労働組合大会の開催促進を建議した。

1920.11.14 印刷工組合印友会の労働問題演説会に、八尾常の八十余人が、五条警察署長から暴力の許可を得て、会場内に陣取っていた。

1920.11.30 高山義三が軍隊を除隊になり、その出迎えのときの旗に書かれた「出獄」の文字を警察が問題視し、乱闘になった。私は調停しただけだったが、私を含め、七人が告発された。(赤旗事件の京都版)

1920.12.1 私は、京都刑務所に送られた。(赤旗事件の京都版)

1920.12.9 社会主義同盟創立大会は、中止させられ、十三人が検束・起訴された。このとき、皇道一心会が、「国賊社会主義者を殺せ」というビラをまいた。

1921 コミンテルン第三回大会

1921.1 近藤栄蔵が大杉栄の機関誌『労働運動』に参加した。

1921.1.21 自由人連盟の演説会で、記者松本淳三が、大和民労会員に短刀で刺された。大和民労会員が、「社会主義者をやっつけろ」と罵るのを、警官は、傍観放任した。

1921.1.24 私は、予審が終結し、保釈された。(赤旗事件の京都版)

1921.1.29 同盟会員は、赤衛団を組織した。警官は、演説会を中止させ、赤衛団員を検束したが、民労会員にたいしては、幹部を説得するだけだった。

1921 春 私は、京都刑務所を出所した。

1921.4 赤旗事件の京都版の一審が始まった。

1921.5 第二回社会主義者同盟大会も禁止された。

1921.5 大阪電燈に対する電業組合員と警官隊との流血的衝突

1921.6 山川家で共産主義グループの組織を協議した。

1921.6 赤旗事件の京都版の判決で、私は、懲役六月、他は、四月に処せられた。

1921.6.10 『日本労働新聞』を終刊とする。

1921.6 末 私は、京都刑務所に下獄した。(赤旗事件京都版)神戸の川崎、三菱両造船所の労働者が工場を占拠し、軍隊が出動した。

1921.9.2 山口孤剣が亡くなった。

1921.10頃 イルクーツクの極東民族大会に、徳田球一ら一行が参加し、さらにモスクワに送られた。(p. 21)

1921.11 暁民共産党員が逮捕された。

1921.12 京都刑務所を出所、雑誌『前衛』の同人となる。

1922 夏 第一次共産党結成。山川が規約や人事案を発表した。

1922.7.15 細胞代表者会議を開催した。

1922.8 山川が『無産階級運動の方向転換』を発表した。

1922.9.30 日本労働組合総連合結成大会が決裂した。

1922.11 コミンテルン第四回大会に川内、高瀬を派遣した。

1922.11 私は上海でマーリングとウィルデに会い、北京でヨッフェと会見した。

1922.12 堺が一兵士に刺された。

1923.2.4 党大会を開催したが、山川は欠席した。

1923.3 私はコミンテルン拡大執行委員会の日本代表としてソヴェト・ロシアに向かった。

1923 ロシア共産党第十二回大会を傍聴した。片山潜(1914-訪米、後訪露)、山崎一雄(1922.9-在露)が同伴した。私は大会で英語で挨拶した。和田軌一郎(1921-在露)とも面会した。鍋山貞親もロシアにいた。(p. 192)

1923.6 コミンテルン拡大執行委員会

1923.6.5 日本共産党検挙

1923.6 モスクワを出発し、チタへ向かう。和田軌一郎が同伴した。辻井民之助がチタで拘留されていると知らされていた。

1923.7 辻井、和田とともにチタからウラジウォストークに向かう。ウラジウォストークでは間庭末吉が出迎えた。セダンカのダーチャで、辻井、佐野学、近藤栄蔵、高津正道、(後に、山本懸蔵)と同居した。

1923.9.1 関東大震災

1923.10 私は山本懸蔵と帰国した。途中芝罘(チーフー)で山本と別れた。

1923.11 長崎着

1923.12 福井県芦原温泉から上京した。

1924.1 総同盟第十三回大会

1924.1 伊豆の長岡に滞在

1924.7 東京から上海へ。病気で、上海から長崎を経て、別府温泉へ。

1924.7.23 安成貞雄が死去した。

1925 治安維持法制定

1925.2 上海テーゼを日ソが協議してまとめた。

1925 春 総同盟大会

1925 夏 鍋山、佐野文夫、徳田、福本らが訪ソ。コミンテルンが福本、徳田を批判し、鍋山、渡辺らが党の指導権を握るようになった。また、私の執行部入り(統制委員長)も、コミンテルンが命じたことだったが(p. 272, 鍋山貞親)、私は断った。

1925.5 日本労働組合評議会を創立。(総同盟被除名組合の連合)

1925.12. 農民労働党(無産政党)結成。解散命令。

1926.3 労働農民党結成

1926.3.5 禁錮十月の刑に服した。(一九二三年の六・五事件、結党事件、下p. 259

1926.12 第二次共産党結党

1927 ヨッフェが自殺した。

1927.1.12 巣鴨を出所した。

1927.12 『労農』創刊。

1928.2 第一回普通選挙

1928.3.15 共産党検挙。千余逮捕、三百起訴。労農党、労働組合評議会、無産青年同盟の解散命令。

1928.6 私は拘引された。(ビューロー時代の関係から)

1928.12 日本大衆党成立。猪俣が清党運動をおこす。

1929.2 山川が『日本大衆党の成立とその任務』を発表。

1929.3 未決拘留が終了。

1929.12 東京無産党結党(日本大衆党分裂)

1930.3 第二回総選挙、無産階級の当選者は、八から五に減少した。

1930.7 全国大衆党成立

1931.7 大山郁夫一派の労農党が全国大衆党と合同し、全国労農大衆党を結成した。

1931.9.18 満州事変勃発

1931.10 錦旗革命事件(陸軍クーデター未遂事件)

1932 『労農』廃刊

1932.1 上海事変。犬養首相暗殺、財閥巨頭の暗殺、共産党が銀行を襲撃。

1932.5 社会民衆党と全国労農大衆党が合同して、社会大衆党を結成。社民党は国家主義の方針を大会に提出。

1933.1.23 堺が逝去した。

1934.2.12 オーストリアのドルフス政府は、社会民主党や労働組合総同盟の本部カール・マルクス・ホーフを攻撃した。

1934 秋 軍部のパンフレット「戦争は創造の母である」の配布を社会大衆党が協力。

1935 コミンテルンが反ファシスト人民戦線の方針を決定した。

1936 妻が脳出血で倒れた。

1937.3 社会大衆党から労農派ら左派が脱党し、日本無産党を組織した。

1937.8 社会大衆党の河上丈太郎らは戦時体制強化の特別委員会をつくった。

1937.12.15 労農派事件(人民戦線事件)で拘引された。

1939.4 保釈された。

1939.8 独ソ不可侵条約が成立したため、平沼騏一郎内閣が辞職した。

1940.10 無産党を含む一切の政党が解消し、大政翼賛会となる。労働組合も自ら解散して、産業報国会をつくった。

1941.10.24 妻がなくなった。享年六十六。

1942.1.19 猪俣津南雄が逝去した。

1942 人民戦線事件第一審は懲役三年。全員が控訴した。

1944.4 控訴棄却、上告。(終戦で、控訴破棄となる。)

1945.9中 民主人民連盟を山川が提起した。

1945.9末 社会党結成懇談会(旧社民、旧日労、旧日本無産、忠孝労働組合、右翼などで構成)

1945.10.10 全国労働組合結成懇談会開催。(日本労働組合総同盟)

1945.12 神奈川県工場代表者会議(共産党系)

1946 初 野坂参三が中共から帰国。

1946.2~3 労働戦線に関する社共の討論会。

1946 春 山川が病に倒れた。

1946.4 戦後の第一回総選挙、森川初枝と結婚した。中央労働委員会の労働者側委員をつとめた。

1947.1 産別議長の聴濤克己が右翼に襲撃された。

1947.2.1 GHQがゼネストの中止命令を出した。

1947.2 労働総同盟の高野実が社共排除の新党を結成しようとした。

1947.5 総選挙で社会党が第一党となり、民主、国協と連立内閣をつくる。

1947.5.16 自由党を加えた四党が合意し、重要産業の国家管理を決定した。八月、自由党はその協定を破棄した。

1947.10.11 田中伊勢吉がヤミ利得者に抗議して、宮城前で切腹、縊死(いし)した。判事山口某はヤミ生活を拒んで、栄養失調死を遂げた。

1947.11.10 十二指腸潰瘍と診断された。

1947 炭鉱国管案が可決された。民主党の一部と共産党は反対した。

1948.2 衆議院予算委員会(委員長は社会党左派の鈴木茂三郎)で補正予算案を否決し、片山内閣は総辞職した。

1948 総選挙で社会党は大敗した。?

1948 春 森戸辰男が『現実社会主義への道』(国民政党論)を発表した。

1948 夏・秋 共産党は革命前夜的戦術をとる。(徳田・野坂)

1948.7 マッカーサー書簡。公務員の組合活動の制限。

1948 秋 宝樹らは社会主義労働党の結成について協議した。

1948.10 西尾が収賄で逮捕され、社会党は総辞職を決定した。

1948.10 山川新党結成(社会主義政党結成準備会、後に、社会主義労働党準備会。労働総同盟を排除。)

1948.11 社会主義政党結成促進協議会結成

1949.1 総選挙。私は社会主義労働党を代表して立候補したが落選した。民自党が絶対多数、社会党は大敗、共産党は躍進した。(三十五議席)

1949.9 全逓が分裂した。

1949.10 全逓民主派が、組合再建大会を開催し、共産党支配から脱した。

1949.10 社会主義労働党準備会結成

1949.11 山川が『われわれの手でわれわれの政党を』を発表した。

1950.1 社会党が分裂した。

1950.2.28 社会党が分裂を回避した。

1950.4.1 『労働者新聞』を創刊した。(新党準備会)

1950.6.25 「文化的自由のための会議」がベルリンで組織された。

1950.7.12~15 宇部窒素労働組合で講演した。

1950 夏 レッド・パージ。職場や国会から共産党員がいなくなった。

1950.8.5 田中耕太郎最高裁長官が、レッド・パージは「思想問題として取り上げたい」と発言した。私は、九月一日、それを批判した。

1950.8 雑誌『前進』(主な同人は、山川、向坂、高橋、板垣、小堀、私。一九四八年、昭和二十三年、荒畑が片山を批判して投稿したとある。(p. 380))が経営難で廃刊となった。

1950.9 インド文化自由会議が組織された。

1951.2.25 山川が社会党に入って、準備会は解散した。

1951.4.26 文化自由会議日本委員会が成立した。

1951 春 社会主義協会が組織されたが、私は脱退した。

1951 夏 パージ解除。鳩山一郎ら政界の大物、職業軍人、特高などが大量にパージを解除された。

1951.3 インド文化自由会議に招待された。

1952.3 胃潰瘍の手術をした。

1954 『自由の旗のもとに』(1952.9-1954.1)の廃刊と同時に、文化自由会議日本委員会も自然消滅した。

1954 春~夏 蔵王温泉で執筆

1954.6 安部幹三が逝去し、帰京した。

1956.2 ソ連共産党第二十回大会で、フルシチョフがスターリンを批判した。

1956.10~12 ポーランド及びハンガリーで叛乱が起こった。

1958 春 山川均が逝去した。

1959 小堀が逝去した。

1961 『近代思想』創刊五十周年の小集会を開催

1974.1.7 妻が脳出血で死亡した。七十四歳であった。

1974.4 肺結核で二ヶ月入院した。

1975 元旦 朝日文化賞を受賞した。

1981.3.6 世田谷の玉川病院で死没

 

 

 


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