2020年7月14日火曜日

田中義一の死と政界 馬場恒吾 1929年、昭和4年11月号 「文芸春秋」にみる昭和史 1988 要旨・感想

田中義一の死と政界 馬場恒吾 1929年、昭和4年11月号 「文芸春秋」にみる昭和史 1988

 

 

感想

 

筆者は田中義一の突然の死に際し、田中の半生を振り返りつつ、その政治手法を批判したり擁護したりするのだが、結果的に基本的には擁護している。言い過ぎて身に危険が及ぶのを避けながら、政界に関するゴシップを書く政治評論家とでも言うべきか。

 田中義一は大金を使って権力の座を掴もうとした人のようだが、当時の総理大臣の決め方は、以前の元老による推薦方式から、形式的には元老推薦であっても、実質的には政党のボスが総理大臣になるシステムに移行したようだ。

 

 

要旨

 

編集部注 

 

060 田中義一は長州軍閥で、陸軍大将時の「輝かしい」戦歴を持つ。「オラガ宰相」として「親しまれ」た。内政・外交とも「タカ派的」政策を貫き、首相辞任2ヵ月後に死去した。

 

本文

 

060 田中義一は総理大臣、政友会総裁、陸軍大将、男爵だったが、狭心症には勝てなかった。田中は6月28日に内閣を投げ出す決心をした3ヵ月後の1929年9月29日に亡くなった。

061 彼は総理大臣を2年間勤めたが、世人は田中の名を聞くだけで眉をひそめた。(どういう意味か)田中の政友会総裁は認められないと元老の西園寺公望から言われた内田信哉が、田中を引退させて犬養老を暫定総裁にする計画をたて、床次竹二郎鈴木喜三郎の諒解を得た日の翌日、田中は急逝した。

 田中は犬養邸訪問から帰るとき「厭なことばかり聞く」と犬養夫人に漏らしたとのことだが、それは疑獄事件小川平吉の収監などをさすのだろう。

 22日の夜、小泉策太郎は田中に、原敬の言葉「総理大臣は二度勤めるものではない」と説き、維新の元勲は別だが、近年の寺内正毅、原敬、加藤友三郎、加藤高明などがそれを裏書していると言ったが、田中はいやな顔をした。

 

062 田中は死後借金を残した。家族は遺族扶助料の一年三千円足らずで生活しなければならない。田中の政治家としての財政ぶりは、横田千之助のそれに似ている。後の始末を考えずに政治資金をふりまくのは、横田の流儀を受け継いだのだろう。

 田中が総理大臣になってからの一日のポケットマネーは、二万円ずつかかるとのことだ。田中は騙されても金を出したが、それは「こうしておけば、また役に立つこともある」と言ったとのことだ。

 田中は総選挙のとき800万円をこしらえ、久原がそれ以外に200万円をつくり、彼が政治的に使った金は1000万円以上に達する。それが彼の2年間の出費である。

063 田中の債主は高利貸でなく、田中に好意を持つ金持ちだから、証文は田中の死とともに棒引になり、闇から闇へ葬られるだろう。

 田中は金のないときは一文もなかった。加藤高明憲政会単独内閣のとき、政友本党から中橋徳五郎、鳩山一郎諸氏の同好会21名が脱党した。田中側が策動してその同好会を作ったが、その時必要な5000円がなく、友人に出してもらった。

 その1年後、若槻内閣が衆議院を解散するかもしれなかったとき、結局三党首が妥協して解散はなかったのだが、解散前に田中は200万円を持っていた。

 日本のブルジョワは寝室と食事を一緒にすることを嫌うが、田中は気にしなかった。

 

 1000万円を使って田中が得たものは、総理大臣になったという自己満足だけだ。田中が功名心を持ったことは、軍人教育の弊害である。日本の教育の弊害でもある。功名を得ればその実質を問わない。手段を選ばず巧妙を得ようとする。その結果、内容空疎な政治家が出来る

 田中には政策がなかった。口では国家のために政治を行うと言っていたが、実は政策はどちらでもよかった。張作霖でも蔣介石でもよかった。(どういう意味か)金解禁をしてもしなくてもよかった。田中は死ぬまで捲土重来を言っていた。功名の夢が醒めなかったか、醒めても抜けられない事情があったのだろう。

064 それは空虚な功名だった。彼の周囲の者は彼の善政と徳望とを褒め称えたが、いつもそれを裏切る事実が後から現れた。彼は支那に向って何事かをしたが、事態は当初の目的とは違う方向に展開された。(どういう意味か)内閣投げ出し後に起った疑獄事件(大規模な贈収賄事件)は彼を憂鬱にさせた。

 田中は総理大臣になるために1000万円使った。今日の日本では総理大臣になるために、またなった後に必要になる金額が段々増加している。自由党時代の総裁板垣退助は一文無しだった。政友会になってからの総裁を列挙すれば、伊藤博文、西園寺公望、原敬、高橋是清となるが、彼等が出費した金額はだんだん増加傾向にある。それは、社会が一般に金を欲しがるようになったからか。否、政情の変化がある。

 今から6年前、清浦内閣が成立するまでは、総理大臣元老の意志で推薦された。しかし清浦内閣が没落してから、加藤高明内閣、若槻内閣、田中内閣が成立したのは、形式的には元老の推薦によってであったが、実質的には、政党の総裁たる者が、内閣組織の任につくようになった。それは憲政常道論による政治の一つの進歩であるが、政党の総裁になっていれば総理大臣になれる。そして政党の総裁を選ぶのは政党である。そうすると総理大臣になろうとする野心のある者は、法外な値段で総裁の地位を買って出るかもしれない。現在のように選挙に金のかかる時代では止むを得ない事情もあろうが(なぜ)、内容は総裁の地位を売買することだ

 元老会議、若しくは元老一人で総理大臣を推薦する時は、その人選が非難されたこともあったが、取引はなかった。今は政党総裁が金を出すことが習慣になって来た。

065 田中は自分の部下の巨頭が続々疑獄の渦に巻き込まれることを心配した。1000万円の入手にも人知れず苦心しただろう。田中から金をもらった党員は、おのおのその分に応じて、田中の死に対する責任を感じるべきだ。

 今政友会は後継総裁を物色しつつある。犬養、床次、鈴木などである。7日夜の最高顧問会犬養翁を総裁に推すことを決した。

 今度の総裁には金の心配をかけさせぬようにすべきだ。金、金、金と要求していたら、三井、岩崎などの大富豪に政党総裁の地位を売るときが来るかもしれない。

 

1929年、昭和4年11月号 文芸春秋

 

以上

ウイキペディアより

 

馬場恒吾(つねご、「文芸春秋」では「こうご」) 1875.7.13—1956.4.5 ジャーナリスト、政治評論家、実業家。ジャパンタイムズや国民新聞などで自由主義擁護の論陣を張る。第二次大戦後、読売新聞社社長。

 

岡山県邑久郡長浜村奥浦(現・岡山市牛窓町)に、庄屋の長男として生まれた。1892年、第三高等学校入学。1895年、三高を修了後、仙台の第二高等学校に入学。東北学院でメソジストとして洗礼を受ける。1896年、二高中退。1897年、安倍磯雄を追って同志社神学校(現・同志社大学)に入学。キリスト教と決別し、1年弱で中退。1898年、東京専門学校(現・早稲田大学)英語政治科入学。大隈重信らと交わる。

 

1900年、父の銀行が閉鎖し、早稲田を中退し、ジャパンタイムズに入社。1909年、ニューヨークへ。日本の中国への帝国主義的侵略を批判し、日本の実業家の利益に反したため、1913年、英文雑誌『オリエンタル・レビュー』が廃刊となり帰国。1914年、徳富蘇峰の国民新聞に移る。1919年、パリ講和会議の特派員。帰国後、同年8月「改造同盟」を結成し、普通選挙実現を目指し演説会を開催する。

 

1924年、前年の関東大震災の被害で経営危機に陥った国民新聞から退社し、フリージャーナリストとして評論活動を行いながら、無産政党の社会民衆党結成に尽力。1928年、『中央公論』『改造』の常連執筆者となる。『読売新聞』で1932年から1935年まで「日曜時評」を、1935年から1940年まで「日曜評論」を執筆した。1941年、内閣情報局が「執筆禁止者名簿」を内示し、矢内原忠雄、清沢洌、田中耕太郎、横田喜三郎、水野廣徳らとともに政治評論が封じられた

 

戦後1945年、憲法研究会メンバーとして日本国憲法制定議論に関わる。同年12月、読売新聞社社長の正力松太郎が戦犯容疑で勾引され、同社第8代社長に迎えられ、1951年1月まで務めた。

 

 

田中義一 1864.7.25—1929.9.29 陸軍軍人、政治家陸軍大将、陸軍大臣、貴族院議員、内閣総理大臣(第26代)、内務大臣、拓務大臣

 

萩の下級藩士・田中信祐の三男として長門国阿武郡萩(現・萩市)に生まれる。13才で、萩の乱に参加。村役場の職員や小学校の教員を務めた。20歳で陸軍教導団に入団。

 

陸軍士官学校(旧8期)、陸軍大学校(8期)を経て、日清戦争に従軍。その後ロシアに留学、正教に入信。ロシアの連隊に入隊。

 

日露戦争では満州軍参謀。彼の『随感雑録』1906が山縣有朋に評価され、帝国国防方針の草案を作成した。

 

1910年、在郷軍人会を組織した。

 

1915年、参謀次長。原内閣と第2次山本内閣で陸軍大臣。マスコミ操作を狙って陸軍省内に新聞班を創設。

 

1918年、男爵叙任、陸軍大将。

 

1921年、狭心症で倒れ、大臣を辞任。その後、原敬暗殺事件が起った。

 

1925年、政界へ転身。高橋是清の政友会総裁。治安警察法により現役軍人は政治結社に加入できないため、陸軍を退役。

 

1924年、第二次護憲運動の際に立憲政友会は分裂し、第一党の地位を失う。高橋是清総裁は辞意を表明し、後任選びを始めたが、最有力候補の横田千之助は分裂を惹き起こした当事者として辞退した。党外から総裁を迎えることになったが、多くの人が辞退や拒否をし、田中が総裁を引き受けることになった。

 

田中は総裁就任の際、300万円の政治資金を持参金としたが、これが陸軍機密費から出たのではないかと疑われた。また在郷軍人会を票集めに利用したとも疑われた。対立する憲政会(後に立憲民政党)の軍縮政策は、在郷軍人会の投票行動に影響したと思われる。田中は、高橋是清前総裁の、軍部大臣文官化論を否定し、軍備強化・対外強硬路線に転換した。

 

田中の総裁就任直前に横田千之助が死去し、党内に反対者がいなくなった。横田が田中の招聘を決めていた。横田は第二次護憲運動と軍縮路線の担い手だった。

 

1926年、田中は貴族院勅撰議員となった。

 

田中の誘いで政友会に入党した鈴木喜三郎は、自由主義を敵視する司法官僚であったし、久原房之助は陸軍長州閥と組んだ政商だった。

田中内閣で、鈴木喜三郎は内務大臣に、国粋主義者小川平吉は鉄道大臣に、同じく国粋主義者の森恪は外務政務次官に、鈴木の義弟の鳩山一郎は内閣書記官長に任命された。

 

鈴木・原(鳩山では?原敬は1921年に死んでいる。)によって治安警察法が強化され、森・小川によって、軍部と連携して中国への進出が図られた。鈴木は衆議院選挙で選挙干渉をし、政友会の党勢を拡大した。

 

1927年3月、第一次若槻内閣が、銀行の取付騒動(昭和金融恐慌)で総辞職し、立憲政友会の田中が4月20日に組閣した。

 

在任中の出来事 山東出兵、東方会議、張作霖爆殺、普通選挙1928、三・一五事件、水野文相優諚問題(天皇を利用して閣僚を慰留)、昭和天皇からお叱り1929

 

1929年7月2日、田中内閣総辞職。

1929年9月28日、貴族院議員当選祝賀会に主賓として出席した。

1929年9月29日、狭心症で急逝。長州閥の流れは完全に途絶えた。

 

以上  2020714()

 


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