2020年7月14日火曜日

『日本共産党史』 田川和夫著 年表

『日本共産党史』 田川和夫著 年表

 

1923 ドイツ革命の敗北により、世界革命は挫折した。

1924.5 ソヴェト共産党第十三回大会。スターリンがトロツキーに勝利した。28

1928.7 コミンテルン第六回大会は、「コミンテルン綱領」を採択した。

1931.4.22 一月以降形成された党の新しい中央部、風間丈吉・岩田義道らは四月二十二日に「日本共産党政治テーゼ(草案)」を作成した。

1932.3.2 コミンテルン執行委員会常任委員会議で東洋部を主宰せるオ・ヴェ・クーシネンは、「日本帝国主義と日本革命の性質」なる報告を行った。そしてこの報告に基づいて採択された「日本の情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」が、三二年テーゼである。

1940~45頃 私は、軍事教練と勤労動員で、少年期を過ごした。

1945~50 私は、二十代の初期を過ごした。

1945.10.10 十八年間の獄中生活を終えて、徳田球一、志賀義雄らが出獄し、連合国軍隊に対して感謝の意を表した。

1945.10.20 徳田球一、志賀義雄らは、共産党拡大強化促進委員会を組織し、『赤旗』を発刊した。

1945.11.8 第一回全国協議会を開催し、党大会準備委員会を選出した。

1945.10~1946.5 この八ヶ月間、米占領軍によって弾圧されるまでは、共産党がほとんどすべての労働運動を指導した。「日本共産党の圧倒的影響力」(p.36)

1946 首切りが頻発した。

1946.4.7 米占領軍が、首相官邸に向かった幣原内閣打倒のデモ隊に向けて発砲した。(四月危機、p.41

1946.5.15 アチソン声明「共産党を歓迎せず」

1946.5.19 食糧メーデーでデモ隊は首相官邸になだれ込んだ。マッカーサーは、「事態の是正に必要な措置をとるのやむなきに至るであろう」と声明を発表した。

1946.5.21 内務省警保局が労働者による生産管理弾圧を全国の警察に指令した。

1946.5.22 第一次吉田内閣が米占領軍の援助の下に組閣を完了した。

1947.1.31 米占領軍が、二・一ゼネストを禁止した。

1948.2 共産党が、地域人民闘争を開始。(地域人民闘争、ウィキペディア)61

1949 労働運動が激化した。

1950 総評が結成され、産別はヘゲモニーを失った。

1950.1 コミンフォルムの第一の論評。

1950.1.10 中西功を除名処分し、「所感」を発表した。

1950.1.17 北京人民日報が野坂理論を批判した。

1950.1.18 第十八拡中委は「所感」を撤回した。

1950.4.28~30 第十九中総は、徳田草案=徳田テーゼ=五十年テーゼ草案をめぐって議論が百出し、一九五一年の、ソ連・中国がおしつけた「五十一年綱領」の決定に至るまで、分派闘争が華々しく行われた。徳田らは、第十九中総終了後の夜、非合法闘争方針を決定した。(非公然組織の準備を進めることで申し合わせた。―『日本共産党の七十年』)

1950.5・30 人民広場でデモ隊と警官隊が衝突。日共は軍事輸送の拒否などの指導を放棄し、最も勇敢に闘っていた全学連に対して「トロツキスト学生の挑発にのるな」とした。101,274

1950.6.6 マッカーサーによって中央委員全員が追放された。

1950.8 宮本顕治らが、所感派に対抗して、全国統一委員会を結成した。

1950.9.3 人民日報が日本共産党の団結を求めた。

1950.10.22 国際派が全国統一委員会を解散した。

1950.12 国際派が統一会議を開催し、所感派の分派狩りに再度対抗した。

1951.2 四全協は、徳田分派以外の分派を批判し、武力闘争方針を決定した。このときはまだ中国革命以外にロシア革命も手本とされ、都市プロレタリアートの蜂起も考慮されていた。

1951.8.10 「恒久平和」紙が、四全協を支持した。

1951.8 二十中総が、五一年綱領草案を採択し、分派闘争が終結した。

1951.9 コミンフォルムが第二の論評を発表し、四全協を支持した。83

1951 秋 社会党が左右に分裂し、左派が労働運動の指導権を握った。111

1951.10 五全協は、五一年綱領を採択し、中国革命だけを手本とし、遊撃隊を中心とする軍事方針を決定した。一九五二年二月、論文「中核自衛隊」を発表し、一九五二年二月二十一日の交番派出所襲撃闘争を皮切りに半年間、火炎瓶闘争を行った。このころの社会党左派・総評による破防法反対の闘争には目もくれなかった。

 また五一年綱領は、日本を植民地・従属国と看做し、民族の独立を求め、(「民族解放民主革命」)戦後の農地改革がなされているのに、農村を依然として半封建的土地所有に縛られていると看做し、農村に工作隊を派遣した。

1951.12 数多の治安立法が成立した。破防法、刑事特別法など。

1952.5 血のメーデー事件を共産党が組織した。

1952.8 共産党は、「左右社会党がマーフィーの手先」だとし攻撃した。

1952.10 総選挙で共産党は惨敗し(当選者ゼロ)、左派社会党が躍進した。徳田は、「労働者・農民から遊離し、党指導部の好みをおしつけては」いけないと自己批判し、火炎瓶闘争は終結した。(「ストやデモを労働者・農民の実際的要求から離れて指導者の好みによっておしつける傾向」がある。)

1953 鳩山派が自由党から分裂し、国会は解散した。

1953.3 左派社会党、右派社会党、改進党などの候補への投票を呼びかけた。

1953.5 改進党の重光を首班にさせようと、左派社会党に一方的に申し入れたが、第五次吉田内閣が成立した。

1953.8 重光を首班に推したことは間違いだったとした。

1953.12 志田分派は、党員の総点検運動を行い、同調しないものをスパイ、分派主義者として追放するカンパニアを起こした。258

1954 証券労組、近江絹糸、日興室蘭で労働争議。

1954.1.1 一・一方針。「敵は優勢、味方は劣勢」、三反(反米・反吉田・反再軍備)統一戦線(「統一政府」1954.8からの転換)、身の回り主義。146

1955 左派社会党が、総評事務局長高野実を下ろし、岩井章にさせた。

1955~57 神武景気

1955.1.1 「アカハタ」は、極左冒険主義廃止の宣言をし、五四年一・一決定の「三反統一戦線」を引っ込めた。(一・一決定)

1955.6(『世界史の窓』は7月) ジュネーブ米ソ英仏四巨頭会談。資本主義の昂揚を背景とした。「平和的気運」

1955.7 六全協は、武力闘争を廃止した。

1955.8 重光外相は、アメリカに、対等な安保条約を要求したが、アメリカは、日本に憲法改正と軍備増強を要求し、破談となった。239

1955.8.11 宮本顕治は、政策発表集会で、「数年間の経験は、この新綱領(五一年綱領)が正しかったことを証明している」とした。

1955.9 労働者と農民による、第一次砂川闘争。

1955.10頃から 党中央は、下部から、「具体的な政策を出せ!」と突き上げられた。それは、春日庄次郎も指摘するとおりである。157, 176

1955.12~1956.1 志田重男が失踪した。

1955.12 休養させられた志田は、遊興問題を突きつけられた。

1956.1 志田は姿をくらました。

1956.1 自民党は選挙法改正を決定した。

1956.1末 学生党員は、五〇年以来の学生運動の総括を進め、授業料値上げ反対闘争を準備した。

1956.2.8 自民党は、春闘を「革命的暴挙」と呼び、治安対策閣僚懇談会、各省官房長連絡会などを発足させた。

1956.4 五一年綱領を正しいとする前提に立った、「方針」を発表したが、行方不明になった。

1956.4.16~27 第六回中央委員会総会。

1956.4.28 労働者と学生が、公然たる政治スローガン(おそらく、小選挙区制・教育三法反対)をかかげてデモを行った。共産党はこれに関与せず、「日ソ交渉が差し迫っている」とした。

1956.7.1 共産党が、突然、五一年綱領の暴力革命方式の廃棄を宣言し、革命の平和的手段の可能性を訴えた。

1956.7 参院選。

1956.9 八中総。第七回大会を、一九五七年半ばごろに開催すること、五一年綱領の農業・農民問題を改訂することなどを決定した。

1956.11 九中総。五一年綱領の全面的討議を許可した。

1957 十中総。

1957~58 世界的恐慌。

1957.2 石橋から岸政権へ。

1957.2.21 国労が順法闘争に入った。

1957.3 第二回東京都党会議で、学生党員や党内左翼民主主義者が提出した決議案を、宮本は党の組織原則を突きつけ、採択させなかった。

1957.3.7 炭労が四八時間ストに入った。

1957.3.11 国労が半日の職場大会に入った。炭労が七二時間ストに入り、国鉄機労、全逓、全通、日教組、合化連が闘争に入った。

1957.3.23 国鉄労働者が自主的に職場大会に入り、業績手当が支給された。

1957.4 国鉄当局が処分した。さらに二人の新潟地本幹部を解雇し、敦賀支部委員長ら五人を逮捕した。

1957.7.9 新潟地本の国鉄労働者が、無期限順法闘争に入った。北陸、新潟、高崎、水戸、千葉、名古屋、静岡、長崎の八地本で、これ(処分)に反撃した。

1957.7.14 新潟地本は、六十箇所で職場集会を開いた。

1957.7.15 国鉄当局は交渉で譲歩しようとしたが、国労の日和見本部が、闘争を収拾しようとすると、十五日、態度を急変し、処分撤回を拒否し、警察が五人の地本幹部を逮捕した。労働者は、地本の指令で、無期限の職場大会=ストライキに突入した。関東、関西、西部各ブロックは、十六日朝から職場大会に入った。東京地本は国電のストップを計画し、大阪地評は、四五単産二二万人が職場集会に入る決定をした。

1957.7.16 国鉄中闘は闘争中止指令を出した。

1957.8.13 闘争が「一段落」した。

1957.11.1 原子戦争準備反対国際統一行動で、学生たちは自らの理論を深めた。

1958 日本は、南ヴェトナムとだけ賠償協定に署名した。

1958 第四共和制が崩壊し、ド・ゴール独裁が成立した。アルジェリアで武力蜂起。

1958.1 第三回都党会議は、五〇年問題の解明を要求した。

1958.1.8 十七拡中総は党大会を再度延期した。

1958.2 本来開かれるべき第七回党大会が再延期され、それに代わって、全国活動者会議が開かれた。(1958.2.20-22)このとき、宮本が病気のため、党の中心が、改良主義左翼反対派=構造的改良派に流れていた。所感派の春日(正)と構造的改良派の亀山幸三が、宮本を支える二本の柱とされた。(構造的改良派の懐柔)210

1958.4~5 勤評闘争は、総評幹部の冷淡な態度によって孤立させられながらも闘われた。

1958.5 全学連第十一回大会を、党指導部とその走狗は妨害した。

1958.6.1 六・一事件。党指導部が開いた全学連大会代議員グループ会議で、指導部の目論見に反して、指導部が突き上げられた。紺野与次郎は暴力と官僚的手段で、学生たちの提起を回避しようとしたが、学生たちは、革命的方針を提起し、指導部を批判し、中央委員会の不信任決議を行った。217-218

1958.7~1961.12 岩戸景気。

1958.7.21~8.1 権謀術策の第七回大会。予備会議で、芝寛、武井昭夫を排除した。反対派の構造的改良派は、恫喝・懐柔されて、大会後は、大会を賛美した。

三分の一の代議員が党中央に反対した。254

1958.7.30~8.4 全電通労組大会は、解雇・組合員資格剥奪された、旧三役の組合員資格剥奪に反対したが、中央執行委員会は、それを認めず、大会を無期延期した。

1958.8 二中総。

1958.9 第四回都党会議で、党中央は、経歴を理由に、(構造改革派の、)野田弥三郎、山本正美らの都委員資格を剥奪し、さらに、都委員会の自己批判を、四割の反対を押し切って、強行し、都委員会から、芝、武井、片山さとしなどが総退陣し、所感派の官僚、春日正一が委員長にすえられた。大阪、京都でも同様なことが行われた。253

1958.9 日米安保条約の改定交渉に入った。233

1958.9.25~29 全電通近畿地本の党員が、旧三役の組合員資格剥奪に賛成したことを受けて、続開大会が開かれ、旧三役の組合員復帰が否決された。

1958.10.7 政府は、警職法改悪案を国会に緊急提出したが、十一・五闘争によって、十一月二十日、審議未了となった。

1958.11.5~7 自民党が、警職法闘争で、政府危機に陥った。

1958.12.2 ソ連外相グロムイコが、「中立と平和は、日本の独立を確かにする」とした。また中国の外相陳毅も、「日米安保条約改定は、不平等条約である。日本人民が、独立・民主・平和・中立のために闘うことを期待する」とした。それをうけて日本共産党中央は、中立を唱えるようになった。(四中総、1959.1

1959.1 四中総。

1959.4 東京地裁は、全電通本社支部の旧三役の組合員資格剥奪は違法である(?原文は「勝利」としているだけ)と判決した。

1959.4 党中央は、構造的改良派の理論誌、『現代の理論』が、「マルクス・レーニン主義の発展方向への蔑視」であるなどと批判した。構造的改良派は、反論せず、雑誌を廃刊にした。

1959.7 六中総は、全党員に、中央に宛てて手紙を出すように強要した。

1959.9 第四回港地区党会議で、トロツキストと中央が「激突」した。

1959.9 東京都党組織での反対派の勢力は失われた。

1959.9 第一回藤山・マッカーサー会談で、安保改定交渉を開始した。

1959.11.27未明 政府は、ヴェトナム賠償協定を、衆院で強硬通過させた。この日から十二月十日まで、労働者・学生が国会内に突入した。

1959.12.13 トロツキストの拠点、港地区委員会は、党内闘争を開始する声明を発表した。日共の三大拠点経営細胞の一つ、三菱長崎造船細胞で、集団脱党が起こった。

1959.12 私は、東京・港の地区委員長だった山崎衛君と共に、《反党分子》《トロツキスト》と悪罵をなげつけられ、党から除名処分を受けた。295

1950年代末 「フルシチョフ訪米、全面軍縮提案、東西首脳会談の決定、ド・ゴールのフルシチョフ招待発表、ジュネーブ会談以後の新しい雪解け。」

1960.1 日米安保条約調印。

1960.1.12 日本は、南ヴェトナムとだけ、賠償協定の批准書を交換した。

1960.1.16 羽田闘争に対して、党中央は、きちがいじみた反対を唱えた。

1960.4 我々は、双方の機関決定後に、共産主義者同盟と統一した。

1960年代初 「平和共存の新たな年。」韓国で学生暴動、火はトルコに燃え広がった。U2型機の飛行、東西首脳会談の決裂。

1960.3 八中総。

1960.5.15 全学連が国会突入した。

1960.5.19 労働者のジグザグ・デモを、党中央は、「へびおどり」「みこしかつぎ」と評した。

1960.5.19‐20 安保闘争。

1961 旧構造改革派の、春日庄次郎、内藤知周が、脱党・除名となった。

1961 第八回党大会。日本は半占領状態にある。米帝と日独の二つの敵論。民族民主主義革命綱領。

1964.4.8 日共による、スト破りの四・八声明。

1964.4.17 ストライキ闘争と原潜寄港阻止闘争で、労働者階級とスターリン主義との亀裂が決定的となった。日共は、中国に傾斜し、スト破壊を行った。

1964.5 志賀義雄、鈴木市蔵が、党議に反して、国会で、部分核停条約の批准に賛成した。彼らは、除名処分となった。304

1964.7 九中総で、日共は、四・八声明を自己批判した。

1964.7 志賀は、「日本のこえ同志会」を結成し、自らが、正統派であるとした。後に、神山茂夫、中野重治が同調した。

1964秋 中国が核実験をした。

1964.11 第九回党大会でも、日共は、四・八声明を自己批判した。

1964.12.1 志賀ら四名は、「訴え」を発表し、第九回党大会の無効を主張し、日本共産党(日本のこえ)として発足した。

 

 

 


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