2020年7月3日金曜日

観兵式場・直訴者の手記 北原泰作 1957年、昭和32年4月号 特集文春 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 要旨・感想

観兵式場・直訴者の手記 北原泰作 1957年、昭和32年4月号 特集文春 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

 

 

この一文は1957年、昭和32年に書かれたものである。戦争が終わって10年余が経過し、朝鮮戦争も終わった頃である。事件が起ったのは昭和2年、1927年であるが、その当時こんな文章を書いて「文芸春秋」に発表できるはずがない。

 

戦後の部落解放運動で、北原という名前は、朝田という名前と共に、以前どこかで聞いたような覚えがあるが、定かではない。ウイキペディアには両人の名前が出てくる。

 

戦前でもこの北原さんのような気骨のある熱血漢がいたということは、誇りとすべきだ。文章もうまい。しかし、ウイキペディアを読むと、この北原さんのように指導者然とした人は、拷問か何らかの手段によって転向させられ、その後は国策宣伝に利用され、部落民を戦争に動員するのに利用されてしまったようだ。

 またウイキペディアによれば、戦後、北原さんは共産党との関係で、それに反対したり、賛成したりして紆余曲折を経ながらも、部落解放運動に一生を捧げたようだ。戦前は、水平社の運動から、共産党に入って活躍したが、捕まって転向を強いられ、逆に国策に部落民を動員する立場を引き受けたようだ。

 

ウイキペディアより

 

北原泰作 1906—1981 岐阜県稲葉郡黒野村(現・岐阜市)の被差別部落に生まれる。高等小学校卒業。

 1925年、全水解放連盟に参加。1927年、二等卒として岐阜歩兵第68連隊に入営。同年11月19日、閲兵式にて軍隊内部での部落差別の存在と待遇の改善(歩兵第二四連隊内でのフレームアップについて言及がない)を昭和天皇に直訴し、逮捕される。(北原二等卒直訴事件)

 1年間の服役後、陸軍教化隊に編入され1928、1929年10月除隊。1930年上京。日本大学専門部に入学。全国水平社本部常任となる。

 1931年12月、「全国水平社解消意見」を執筆。1933年4月、日本共産党に入党。1934年1月、検挙され、転向した。1935年6月、執行猶予判決を得て、出獄。

 1936年2月、衆議院議員で部落解放の父と呼ばれた松本治一郎*の秘書となるが、1938年、決別。

 1940年、朝田善之助らと共に時局便乗の部落厚生皇民運動組織し、以後官製団体の大日本連合青年団や大日本青少年団に奉職。

 

 1949年、部落開放全国委員会(1955年、部落解放同盟と改称)書記長。

 1960年、内閣同和対策審議会委員。1965年まで朝田と共に同盟内の「共産党員の左翼偏向是正」に当たる。

 1967年、部落解放同盟中央と疎隔。また「改良主義的、融和主義的」と共産党から批判された。

 1973年、部落解放同盟から離れ、日本共産党に接近。「国民的融合論」を提唱した。

 

著書『賤民の後裔――わが屈辱と抵抗の反省――』筑摩書房、1974年

*松本治一郎「部落解放への三十年」近代思想社 1948 

 

松本治一郎1887—1966 の方が、戦前の傷も浅く、筋の通った人のようだ。

不当に特権を得ている華族の存在が、部落民が不当な差別を受ける原因であるとし、華族制度の廃止を衆議院で主張した1936。斉藤隆夫がその反軍演説によって衆議院議員を除名されたことに抗議して本会議を欠席し、麻生久によって、他の5名と共に、社会大衆党から党員除名処分を受けた1940

戦後は、社会党左派。GHQと密接な縁となり、「特殊慰安施設協会RAA=Recreation and Amusement Association、売春窟」の経営で富を得て、社会党へ資金援助したが、自らは雑炊や古米を食っていたという。初代参議院副議長1947。天皇に対する「カニの横ばい」を拒否した1948。吉田茂に立候補届出やレッドパージなどで政治活動を妨害された。

 

 

 あらすじ

 

 中隊長に軍隊内での自分に対する差別に関して、差別撤廃のための講演会の開催を提案したら、鼻から否定され、面接・外出禁止処分を受けた。仲間と連絡を取るために脱走したが、2年の懲役又は禁固を食らわないように、6日後に戻ってきた。中隊長は私に重営倉20日の処分を下した。

 

私は連隊の無理解に抗議するため営倉で断食したが、8日目にやって来た父親に「元気でなければ解放運動はできない」と諭され、ハンガー・ストライキをやめた。

 

福岡県の軍隊内での部落民差別に対する抗議運動にまつわるフレームアップ事件があり、他にも各地で部落差別事件が頻発していて、それらに抗議し、実情を訴えるために、天皇が名古屋に軍事演習を見に来る時直訴した。

 

 天皇への直訴は、それでどうなるものでもないとは分かっていたが、抗議の意思表示をしなければならないという思いでやった。1年間の懲役となり、大阪の衛戍監獄に収監された。

 

 

要旨

 

028 編集部の注 1927年、昭和2年11月19日、名古屋城東練兵場の陸軍特別大演習観兵式で天皇が閲兵中、北原泰作二等兵22が天皇の前に駆け出し、直訴した。訴状には、「軍隊内で依然差別待遇がひどいので陛下の聖察をお願いする」とあった。軍法会議の結果、26日に懲役1年のスピード判決が下された。

 

本文

 

028 1927年、昭和2年1月10日、私は現役の初年兵として、岐阜の歩兵第68連隊に入隊した。その頃私は水平社の運動に参加していた。

 前年の1926年1月、福岡の歩兵第24連隊で、差別事件が起った。部落出身の和田軍曹を一兵卒が、「あいつは下士官で威張ってやがるが、素性はこれだ」と4本の指を示して侮蔑した。四足の獣だというのだ。

029 この種の事件は全国各地の部隊で頻発した。中には自殺や逃亡をして、処罰されるものもあった。埼玉県のある村では、かつてシベリアに出兵して戦死した英霊に対して、部落出身だというので忠魂碑に名前を刻まなかった。

 軍当局はこれに善処しないばかりか、抗議を弾圧した。

 全国水平社本部と九州連合会は、歩兵第24連隊事件を糾弾し、民主的一般市民や、労働組合、農民組合、革新政党などがこれを支援し、反軍闘争の方向に向いそうだった。

 官憲はこれに恐れをなし、スパイを使って事実無根の「福岡連隊爆破陰謀」という犯罪をでっち上げ、松本治一郎氏他10名の幹部を検挙し、裁判にかけ、懲役3年半と3年の刑罰を言渡した。

 これに対して全国6000の部落は立ち上がった。

 部落の青年大衆はこれに関心をいだき、全国的カンパニアに参加した。私もその一人だった。

 私の入営の日には多くの同志が荊冠旗(黒地に真紅の茨の輪を染め抜いた水平社の旗)を押し立てて、営門まで見送ってくれた。私は同志たちに「軍隊内の差別をなくすために、徹底的に、体を張って戦う覚悟だ」と挨拶した。

 私が入隊してから2ヵ月後、私が所属する第5中隊で差別事件が起った。勤務から帰った二等兵数名が内務班で雑談をしていたが、スリッパを自分で修繕しながら、「今日はエッタの仕事だ」と私がいる前で言い放った。私はその兵隊を責めようとは思わなかった。そうしても問題の本質的解決にならないと分かっていたからだ。

 他の中隊でも差別事件が発生していることを部落出身の仲間から聞いていたので、その事実を中隊長に報告して、連隊幹部のこの問題に対する善処を要請したが、そのとき差別撤廃講演会を開催し、将兵を啓蒙・教育することを進言した。ところが中隊長は一喝し、私の要求を退けた。

030 中隊長は「講演会は地方民がやることだ。もし貴様が、隊内で起こった事件を水平社に報告したり、外部のものと連絡して騒ぎを起こしたりしたら、営倉にぶち込んで処罰するぞ!お前は当分の間、外出はもちろん面会も禁止だ…」と私を怒鳴りつけ恫喝した。

 兵隊も人間だ、人権を踏みにじられても泣き寝入りをしなければならぬという不合理に、私は屈服することはできなかった。外の同志と連絡するには脱出する以外に手段はなかった。3月28日の夜、脱走した。

 陸軍刑法によると、逃亡の罪は平時でも6日過ぎたる時は2年以下の懲役または禁固に処せられる。私は6日目に帰隊した。私は名古屋市内の同志の家に隠れていた。

 中隊長は脱営の経路や潜伏の場所をしつこく訊問したが、私は黙秘権を使って答えなかった。中隊長は私に重営倉20日の処分を言渡した。

 私は連隊の無理解な態度に抗議を続けるため、その日からハンガー・ストライキを宣言し、実行に入った。断食の辛いのははじめのうち2日間ぐらいのもので、あとは食欲に悩まされることはなくなるが、しだいに体の衰弱が加わっていくということを経験した。

 カロリーを補給しないので、桜の花が咲いている季節だというのに、寒くてしょうがなかった。

031 絶食4日目に妹が面会に来た。泣いて食事をすすめた。翌日母親がやって来た。母は私の好きなフライ饅頭を持ってきた。これは中隊長の作戦だと知っていた。

 8日目に父親がやって来た。「命があぶないじゃないか。食事は取って、体を丈夫にして、しっかりたたかわんかい。」

 父は懐から牛乳の二合瓶を取り出した。私は黙って頷いてそれを飲んだ。私はハンストを中止した。

 日曜には面会に来た若い女性の華やかな服装が、私の目にまぶしかった。

 20日間の重営倉を了えて出ると、持病の外痔核が悪化していたので、陸軍病院の外科で手術を受けた。治療に二ヶ月かかった。それから内科へ転入した。軍医正が胸膜炎の後遺症だと診断したが、自覚症状はなく、胸膜炎にかかったこともなかった。しかし、私の病状日誌には病状の悪化だけが記録されていった。

032 連隊当局はやっかいものの私を、疾病を理由に現役を免除して帰郷させよとしているらしかった。ところが9月になると連隊の方針が一変した。それはここでは言えないが、ある理由による。

 私は6ヶ月ぶりで中隊に帰った。

 

 その年1927年の晩秋、濃尾平野で陸軍特別大演習が行われ、68連隊は、第三師団所属の歩騎砲工空各部隊と共に、近衛師団を敵とする模擬戦に参加した。この演習に摂政宮から皇位についたばかりの今の天皇が大元帥として臨んだ。

 私は退院後、練兵には出ず休養していたが、心に決するところがあるので、参加しようと思い、親しい軍医に健康診断をしてもらい、参加許可の証明書をもらい、人事係の特務曹長から許可を取った。連隊はすでに機動演習に出ていたが、私は三日間の特別大演習にだけ参加するつもりだったので、中隊に残っていた。天皇に直訴しようと考えたので、訴状を書くための奉書紙を買いたかったが、残留組は外出を許可されていなかったので、例の軍医に頼んで歯の治療に外出する証明書をもらい、岐阜市の文房具店で奉書紙を買った。

 私は一年志願兵の部屋で誰にも見られずに訴状を書き上げた。

 

恐れながら及訴候

一、軍隊内における我ら「部落」民に対する差別は封建制度下の如く厳しく、差別事件が頻発している。しかるに、軍当局はこれが解決に誠意なく、かえって被差別者に対して弾圧的である。

一、全国各部隊のこの問題に対する態度は一律であるが、これは陸軍省当局の内訓、指示に基づくものと思われる。

一、歩兵第二四連隊内において惹起した差別事件のため、被差別者側の十数名のものが、警察の犯罪捏造によって牢獄に送られようとしている。

右の情状御賢察の上御聖示を賜りたく及訴願候 恐々拝々

 

033 大演習は11月18日早暁の小牧山付近における戦闘を最後に終了した。68連隊は、その夜は名古屋市内の民家に宿営した。班長の小森軍曹は、上官から私を監視するように命じられていた。某会社の重役だという裕福な家に泊まったが、そこに美しい女性がいて歓待してくれた。彼女は森田草平の「輪廻」という小説本を読んでいた。私はその人とほんの短い時間であったが、文学について語った。私は周囲の者が寝てから、一装用軍服のズボンの左ポケットに訴状を入れた。右手に銃を持つことを考えて。

 私は決行の瞬間を想像した。悪魔的な快感が体内を走ったが、すぐその後で恐怖の感情が襲いかかってきた。どういう意義があるのか。直訴すれば差別がなくなるのか。歴史によって深く根ざしたこの問題は簡単に消滅しはしない。抗議だ。衝撃的な方法で抗議するのだ。人権を踏みにじり、人間の精神も肉体も無価値のように扱う凶悪な権力に対して、体をぶっつけて抗議するのだ。それがどういう結果をもたらすか、世間がどう批判するか、気にすることはない。一番下積みにされた人間が一番上にあぐらをかいている者に対して、どん底の苦悩がどんなものかを知らせるために叫ぶんだ。私は自分自身を納得させ、安静な眠りにおちた。

034 1927年11月19日午前8時、名古屋城東練兵場に連隊縦隊で整列した。はじめ私は前列だったが、小隊長の奥田少尉が私を後列にかえた。

 午前8時30分、天皇の閲兵が始まった。参列の光栄に感激する6万の将兵は、不動の姿勢を一層硬直させて緊張した。一瞬間、厳粛な雰囲気が広大な式場を包んだ。私はその巨大な軍国主義の圧力に押し倒されそうな感じであった

 やがて諸兵総指揮官の賀陽(かや)近衛師団長官を先導として、近衛騎兵が捧持する天皇旗、愛馬「初緑」にまたがった天皇、つぎにやや距離をおいて奈良侍従武官長、そのあとに侍従武官や陸軍の諸将星が従い、外国の武官がしんがりという順序で、きらびやかな騎馬行列が粛々と進んだ。

 右翼の部隊から次々に、隊長の「捧げー銃(つつ)」という号令がかかった。いっせいに銃を捧げて敬礼する動作で、数千の銃身に触れる革紐が、びしっと鳴った。次々と、号令と動作が機械的な正確さをもっておこなわれていった。

 父母や姉妹のこと、同志たちのこと、恐ろしい刑罰のことなど、電光の速さで頭の中を去来した。私は走り出す時間と最前線までの距離を測っていた。

 (それ、今だ!)と、何ものかに背後を突き押されるような感じがした。私は大きく息を吸い込んだ。数分後に起る私の行動によって、私自身の上にもたらされる運命の変化を、私は瞬間的に意識した。私はぐっと腹に力を入れた。

035 私は68連隊の全将兵が敬礼の動作に移った時、隊列を離れ、駆け出した。私は銃をひっさげたまま駆けた。最前線まで150メートルばかりあった。誰一人として私を追っかけてくる気配はなかった。みんな固くなって捧げ銃を続けていた。

 私は最前列に出た。先導の賀陽中将宮がおどろいて、馬上から指揮刀を振いながら「捕らえろ!捕らえろ」と叫んだ。天皇と私との間隔は10歩くらいであった。私は訴状を左手に高く差し上げて、右手に銃を持ったまま天皇に近づいて行った。天皇は呆然と、馬上から私を見下ろしていた。その時奈良侍従武官長が馬をすすめて、天皇と私との間を遮った。私は停止して「折敷け」の姿勢をとり、「直訴!直訴!」と叫びながら訴状を前方へ差し出した。

 「捕らえろ!捕らえろ!」と、また賀陽宮が叫んだ。そのとき私は背後から強い力で引き倒された。起き上がると、血の気を失った奥田少尉の顔が目に入った。

 奥田少尉は何事かを叫んだようだったが、声がかすれて言葉にならなかった。彼は震える手で私の背嚢を掴み、どんどんと突き押して、私を後方へ連れて行った。私は憲兵隊に引き渡された。

 

 一週間後の1927年11月25日、第三師団軍法会議が開かれ、私は「請願令違反」の被告として法廷に立たされた。

 法廷内外の警戒は厳重をきわめた。歩兵第六連隊から特務曹長の指揮する一個分隊の衛兵が出動し、中尉の指揮する十数名の憲兵と共に警戒にあたった

 一般傍聴人の数は制限され、満員となった。私の直属上官として事件の責任者である石坂連隊長をはじめ、大隊長、中隊長、それに第三師団の参謀長、高級副官などが特別傍聴人として着席していた。

 私は二人の看守に守られて出廷した。傍聴席には懐かしい同志や知人の顔が見えた。私は微笑を送って挨拶した

 小林検察官が公訴事実を述べた。ついで判士長の高羽歩兵中佐によって審理が始められた。私はこの裁判を、他人事のような気持ちで眺めていた。判士長の訊問に対しても、なるべく口数少なく答えた。

 検察官が、犯罪の動機は売名だと言ったのには腹が立ったが、うまく意見を述べることができなかった。

 判士長が「親や兄弟やその他の人々に迷惑がかかるが、それを承知でやったのか」と訊ねたので、私はこう答えた。

 「親や姉妹に迷惑や心配をかけるのは申し訳ないが、差別され迫害される部落の同胞を思えば、肉親を犠牲にしても闘わねばならない。それが私の信念です。」

 判士長が最後に「いまはどんな心境か」と聞いたので、私は「いささか後悔などしていません。私は正義を実践したと信じております。私は罪を犯したとは考えていません」とはっきり答えた。

 検察官は私の罪を論告し、懲役1年を求刑した。そしてその翌日、弁論抜きで、判決が言渡された。求刑通りだった。それは請願令違反の最も重い刑罰であった。

 私はただちに服罪するつもりだったが、同志たちは、弁論を許されない裁判に承服できないと主張した。

 私は無駄だと思ったが、上告の手続をとった。

 拘置所での夜、「解放の歌」を歌う同志たちの声が聞こえてきた。

 1928年、昭和3年1月10日、陸軍高等軍法会議が東京で開かれ、私の上告について審理が行われたが、上告の理由なしとして却下された。一審の判決が確定し、私は大阪の衛戍監獄に収監された。

 

1957年、昭和32年4月号 特集文春

 

以上 202072()

 


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