2020年7月14日火曜日

十九世紀における革命の一般理念

 

十九世紀における革命の一般理念

 

 

 

ピエール・ジョゼフ・プルードン

 

 

金井正之 訳

 

 

目    次

 

                               本書 原訳書  

訳者より                                  5

翻訳に当たって                               13

原訳書・参考文献                              14

年表                                    16

序言より                                  21  001

産業界の人たちへ                              23  005

十九世紀おける革命の一般理念                        29  011

第一研究 反動が革命の原因となる                                       31  013

第二研究 十九世紀に革命が起こるための十分な理由が存在するか          64  040

第三研究 組合の原理                                  103  075

第四研究 権威の原理                                 130  100

第五研究 社会の清算                                 214  170

第六研究 社会的諸力の組織化                         253  205

第七研究 経済組織における政府の消滅                    289  240

結語                                   342  288

 

 

 

 

 

訳者より

 

 

一 本書との出会い

 中之条の実家の薄暗い北側の廊下に本棚がある。父の死後遺品を整理しなければと思い、とりあえずきちんと並べてみようとして偶然見つけたのが中央公論社『世界の名著』シリーズの一冊『プルードン バクーニン クロポトキン』(中公版)である。ヨーロッパ十九世紀の思想は世界に影響を与えたが、それはどういうものなのかとかねがね思っていた。解説ではプルードンの経済理論は政治理論と比較して、「空想的、無知、価値が低い、学問的基礎を欠く」と厳しく批判され、また訳出から除外されていた部分が、「経済」を冠する表題が多かったので、そういう批判をされる部分はどうしてそう批判されるのか、実際に読んで確かめてみようと思った。ネットで検索して本書(英訳版)を見つけた。一九二三年版である。フランス語で読む実力はないので、英語版である。当初は未訳部分だけを訳そうと思っていたが、一冊の本としてまとめてみたいと途中で思うようになり、全部を訳出した。

 

二 訳出について

プルードンは博識かつ表現力旺盛で、一文が一節になるような長文が多く、訳出には非常に苦戦した。当時の歴史を知らないということもある。ウィキペディアには大変お世話になった。プルードンはラテン語やギリシャ古典にも通じていたようだ。訳出には十ヶ月かかってしまった。論理のつながりはあるのだが、接続語句が省略されることが多く、意味がつかみにくい。批判する相手になりきって論述する場合もあり、どこがプルードン自身の考えなのか、批判対象なのかがわかりにくい。原訳者のミススペリングや文意の不明瞭な訳出もあり、そのような場合は仏語版や中公版を参照した。できるだけ読みやすい訳文にするように努力はしたが、全く間違いがないということや適切な日本語表現に移し替えるということは至難な業であることがわかった。

 

三 訳者近況

翻訳を業とするわけでもなく、畑の草むしりをしながらのんびりと進めた。これは私にとって二冊目である。前訳書は『優越を求める競争』(A Contest for Supremacy, Aaron L. Friedberg, 2011)。今は高野悦子さんの『二十歳の原点』を英訳しているところです。

 

四 内容の構成

第一研究 反動が革命の原因となる。一七八九年の大革命から一八四八年二月革命までの歴史をたどった後で、一八五一年ころの本書執筆時の状況からルイ・ボナパルトによる独裁の延長を予測する。暴力的圧制に対する平和的な譲歩を否定する。

第二研究 十九世紀に革命が起こるための十分な理由が存在する。

1.八九年の革命以後、政治形態の論争に陥り、経済問題をなおざりにしてきた。

2.労働の分割、競争、信用などの悪用が原因で労働者の生活が悪化したが、それは食糧、教育、犯罪などのデータとして表れている。

3.社会で見られる弊害は個人の責任など偶然によるものではなく、制度の問題である。政府統治形態よりも社会経済に注目すべきである。

第三研究 組合は産業力ではないし、自由に対する足かせである。組合の原則と、組合が利用できる経済諸力とを区別しなければならない。ルイ・ブランによる組合の定式では、人は必要以上の義務を果たさない。宗教的組合の掲げる魅力的な労働は産業力ではない。友愛に替えて相互性を原則とし原価で相互的に生産・消費する相互性組合は、大集団に適用されると儲けがなくつまらないものと看做される。

第四研究 権威の原理を批判する。家族の権威から国家の権威への応用。絶対主義、法律、立憲君主制、普通選挙、直接立法、直接政府などを批判。特にルソーとロベスピエールの批判は厳しい。

序論 政治理論においては相互に論駁し合うことによって、つまり否定することによって肯定が生じる。従来の自然発生的政治・社会制度は理性によって変更されなければならない。二月革命以後の多くの民主主義者・社会主義者による偽物の政府否定論は反革命的である。一八五〇年三月・四月における選択肢は王制か共和制かではなく、政府か無政府かという問題であった。

1.従来の政府否定論 政府に対して好意的な偏見は人々の心の深層に沈潜しまた理想化された。直接政府は革命的と思われていたが、独裁制をもたらした。最初の理性的否定は、ルターの自由批判による宗教的権威の否定であった。契約の観念は政府の観念を排除する。ルソーは紛争を解決するための調停者を当事者の了解もなく決める。ルソーは権利・義務について全く触れず、罰則だけを定める。ルソーは人々の一般的理性よりも、それを代表する個別的理性の方が優れているとし、独裁制に道を開く。サン・シモンは封建的・統治的軍事行動から行政的・産業的制度への移行を実験的・帰納的に予見した。

2.ルドリュ・ロランは法律では許可するが布告では禁止する。政府と労働とは共存できないから直接政府は不可能である。ロベスピエールは無定見で、妬み深かった。

第五研究 社会の清算

序論 これまでの論考の要約

1.紙幣の増刷によりお金の価格が高く設定され、お金持ちに有利な状況になっている。

2.国債の利率を下げよ。紙幣が割引されているのだから、国債債権者に対しても割引を要求できるはずだ。

3.土地銀行から低利で借金することによって、高利の借金を完済できるだろう。

4.建物の抵当を廃止することによって、家屋の賃貸を廃止し、持ち家化することができる。

5.土地銀行によって土地を賃借料から解放し、自作農化することができるが、筆者は反対である。また農地改良の価値に対する権利は労働する権利や幸福の権利などと同様に法制化することは困難である。八月四日の夜が再び望まれる。

第六研究 社会的諸力の組織化

序論 権威ではなく契約関係が自由、平等、友愛それに秩序を保証する。

1.信用 銀行は高利貸的行為をやめ、利率を下げるべきだ。

2.財産 農民を組合や国家による統制や地代から解放し、土地を売買対象にすべきだ。

3.労働の集合力が適用されるべき鉄道や鉱山などは会社や国家ではなく労働組合が経営すべきである。集合力を機械的に当てはめるべきではない。革命がもたらす未来の工場労働者像。労働者階級の力量の限界。

4.価値の構成、低価格のための組織化 製品やサービスの価格が生産コストと通商手数料によってではなく、高利の欲望に左右されているのが現状であるが、これを平均コストとしての正当な価格に改めるべきである。

5.外国との貿易、輸入と輸出とのバランス フランス銀行の利率を下げることは関税を下げることにつながる。そしてひいては革命を世界に広めることにもなる。

第七研究 経済組織における政府の消滅

1.権威のない社会 権威主義的・政府統治的システムと契約・経済システムの特徴を項目を挙げて説明し、将来のシステムとして後者を推奨する。

2.政府機能の根絶 礼拝 宗教を完全に否定しきっていない哲学は「無神論的神学」である。大革命以来今日に至るまで世俗権力と教会権力とが和解しようとしている。国民議会が僧侶のための年金を温存したことは間違いだった。政府による教会のための予算措置は講じられるべきではない。

3.正義 社会が裁判し罰することを否定する。個人だけに自らに判決を下す権利がある。正義は良心に基づく行為であり、とりわけ自発的なものである。あなたが或る男を暴力的に断罪する権利をほしいままにするようなどんな取り決めをその男と交わしたのか。自由から生じる正義は断罪的裁判ではなくなり、当事者や証人によって構成され、同意が署名される集会となるだろう。自由から生じる正義は復讐ではなく償いとなるだろう。裁判所は即刻廃止されるべきだ。

4.行政、警察 国家宗教が良心の強姦であるとすれば、国家管理は自由の去勢である。行政にがんじがらめに縛られた人が自由であるといえるか。産業システムによる契約が行政権力に取って代わる。

5.国民が無知なために必要だと思わされている国家公務員は税金の浪費であり不要である。我々が借金、礼拝式、司法制度、警察などを廃止したように、公教育、公共事業、農業、通商、手工業、漁業、労働組合、財政などへの国家による介入は不要で廃止すべきであり、地方や当事者に移管すべきである。

6.諸国民が労働と財産の組織化によって国家を廃止し、革命の契約に署名し、国家間の外交関係を終了させるならば、戦争の原因となるナショナリズムがなくなり、戦争を回避することができる。そして地球上の各民族は自然によって割り当てられた境界の内部で人類を代表し人類のために行動する。革命の機は地下で熟している。革命は文明の力を伴っており、必然である。

結語 

現在の権威主義的傾向と対峙する状況の中で、将来を展望しつつ現状を分析する。革命の敵はイエズス会、王党派、穏健的政府統治主義的共和主義者それにある種の社会理論の空論家であるとする。ウェルギリウスの地下世界を援用しながらの歴史的進展、権威と革命の理念の比較、職業別評価という構成になっている。

 

五 問題点

中公版の解説者はプルードンの経済理論が政治理論に比べて貧弱だと指摘するが、プルードンが強調したかったことはむしろ「契約」による政府的統治=権威の廃止であった。解説者はプルードンの統治システム批判が優れているという意味でそう指摘したのかもしれない。

中公版で訳出から除外された、多くは「経済」を冠する題目部分を読んでみても、訳出された部分と論調はほとんど変わらない。経済理論が貧弱だから訳出から除外したというのではなく、― 解説者がそう明言しているわけではないが、― 紙数が足りないからというのが本音ではなかろうか。虫食いのような訳出でなく、全体として訳出して初めてプルードンの息遣いと全体像が浮かび上がってくるはずだ。

中公版を読んでの感想。バクーニンは観念的な無神論者、クロポトキンは自然科学者的な無政府主義学者であるのに対して、プルードンは生活者的で現実のデータを駆使している。社会の事実を良く見ている。

 

産業革命がもたらした十九世紀の思想が投げかけた問題提起はいまだに解決されていない。マルクスの『資本論』で指摘される十九世紀のイギリスの労働者のおかれた状況と現在のブラック企業の下で非正規で働かざるを得ない労働者とどれほどの違いがあるのだろうか。「階級史観的」とか「左翼の人」とか言って何かしらスティグマを付与しようとする人たちはこの現実をどう考えているのだろうか。

 「右翼」、「左翼」、「テロ」などは実体を描写しない言葉である。ただ「嫌いだ」と言っているに過ぎない。「ボコハラム」は「西洋の教育は悪」という意味だとのことだが、どうして最初から無条件にそう思う人がいるだろうか。どうしてヨーロッパからイスラム国に志願する兵隊が大勢出るのだろうか。それは格差や差別であり、暴力的圧制であると私は考えるが、あなたはどう考えますか。

確かにプルードンの言う一対一の契約が万人の契約にも応用できるという考え方は非常にユートピア的であるとは思うが、その着眼はすばらしいし、それは理想であり、それをぜひ実現して欲しいし、また政府がない方がよいに決まっている。プルードンは権威的・武力的制圧のない世界平和を予見していたのではないか。プルードンはイギリスによる中国での行為を批判している。(P・二八三、二八四)プルードンのヒューマニズムはプルードンの一番の宝である。プルードンならこう言うだろうし、また実際こう言っている。

どうして官僚や政治家の給料を国民が払わなければならないのか。三千万もの収入のある国会議員を。

どうして銀行やサラ金や信用機関に高い利子を払わなければならないのか。

どうして高い地代を払わなければならないのか。小農は一生地代を払い続けても自分の土地を所有することができない。

民衆が普通選挙で主権を行使できる期間はたったの二日間だけであるとプルードンは指摘している。その後は奴隷である。原発の再稼動を七割が反対しているのに、集団的自衛権行使の憲法解釈に五十六パーセントが反対しているのに、名護市辺野古ではバラマキにもかかわらず反対派が多く、また反対派の市長が当選したというのに、反対者を羽交い絞めまでして工事を「淡々と」強行する。これが普通選挙である。そうプルードンなら指摘するだろう。

 

 最近の「小さな政府」やアメリカの「リバタリアン」*などは、プルードンから百六十年余も経ているが、政府を縮小しようとする点ではプルードンの無政府の考えと類似点があるかもしれない。政府はおせっかいだと考える民衆の性向は、お金持ちか否かにかかわらず基本的に人々の心の中にあるのかもしれない。

*「自分の暮らしに関わる重要な決定は、政府ではなく個人が権利と責任を持つべきだ。根本にあるのは権力への懐疑である。権力には乱用の恐れがあり、権力者は自分の考えが全て正しいと信じ、人々に押し付けるようになる。」(ケイトー研究所 デビッド・ボーズ上級副所長 朝日新聞 二〇一四年九月十日)

 

二○一四年十月二十八日()

 

 

 

翻訳に当たって

 

1.訳語の揺れについて

ConventionNational Conventionは「国民公会」だが、Conventionだけの場合「国民公会」かどうか判明せず、「大会」とか「議会」とか訳が揺れた。ただし翻訳推敲中にP・二四六、二六九など一部では「国民公会」と再修正した箇所もある。P・〇三七のように「直接政府」という普通名詞扱いしているものと思われる箇所もある。国民公会は一七九二年から一七九五年までであるが、プルードンは執筆時点に近い一八五二年や一八五六年などの記述の中で昔のNational Conventionについて触れている。

Legitimists:正統王朝派(ブリタニカ国際大百科事典)、王党正統主義者。正統的王政(legitimate monarchy)。ブルボン朝の復活を目指す王党派。(原文のP・〇一六を参照されたい)

Prefect:行政長官、警視総監、行政官、知事、長官。カヴェニャックのような強力な行政長官から地方の知事まで、意味の広い語のようだ。

Collective force 集団力、集合力

Society 社会、団体(P・〇九〇)

Government 政府、統治、政府的統治

People 民衆、人々、人民

 

2.凡例

①本文中の段落最初のアラビア数字は原訳書(英語版)のページを示す。

②本文中のページ数はすべて原訳書(英語版)のページを示す。

②本文中の段落末の*部分は訳注であり、出典はタイトルと更新日時が示されているものはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』であり、その他特に出典が明記されていないものは訳者による。また本文中のカッコ内の9ポイントの注も訳者による。

③本文中のカッコ内の英仏のつづり字や生没年は訳者による。不適切かもしれない訳語の英仏文献を参照されたい。

 

3.原訳書(英語版)

General Idea of the Revolution in the Nineteenth Century” (originally published in 1923)

COSIMO CLASSICS  Cosimo, P.O. Box 416, Old Chelsea Station, New York, NY 10113-0416

原訳書 General Idea of the Revolution in the Nineteenth Century を次のサイトで読むことができる。

http://books.google.co.jp/books?id=_apVMk2aEzQC&pg=PA1&hl=ja&source=gbs_selected_pages&cad=2#v=onepage&q&f=false

これは二〇〇三年にDover Publications, Inc., 31 East 2nd Street, Mineola, N.Y. 11501から再版されたもので、読んでみるとこれがCosimo版と全く同じものであることがわかる。これによると原訳者名(Cosimo版では明記されていない)はJohn Beverley Robinsonであり、初版が一九二三年にFreedom Press, Londonから出版されたとある。(Cosimo版では出版年しか記載されていない)一方Cosimo版は表紙のデザインの著作権取得年から推察して二〇〇七年に再版されたと推察できる。

 

4.参考文献

 CASIO EX-word DATAPLUS 7 XD-N10000 研究社新英和大辞典第六版、小学館ランダムハウス英和大辞典第二版、ブリタニカ・ジャパン ブリタニカ国際大百科事典小項目電子辞書版

 CASIO XD-R7200 三省堂クラウン仏和辞典第五版

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』日本語版および英語版 

中公版 中央公論社『世界の名著』42 © 1967 「プルードン バクーニン クロポトキン」 責任編集 猪木正道、勝田吉太郎。 プルードン『十九世紀における革命の一般理念』訳者 渡辺 一

仏語版 Idée Générale de la Révolution au XIXe Siècle, Choix détudes sur la pratique révolutionnaire et industrielle, Pierre-Joseph Proudhon, General Books LLC(TM), Memphis, USA, 2012

松田祐子 Journal of History for the Public, Vol. 4, pp. 40-59, Bourgeois Women in Belle Epoque France, Marriage and Divorce, Yuko MATSUDA

Tomokazu Hanafusa『フランスにおける階級闘争一八四八年から一八五〇年まで』(マルクス)(c2006.1 (http://www.geocities.jp/hgonzaemon/class_struggle_in_france.html)

イザヤ書七章十四節、ルカ福音書二章一~七節 「父子決別の降誕祭」 クリスマス礼拝  二〇一一・一二・二五(説教一一五二一四〇九)(www.geocities.jp/hayama_church/mikotobas/11521410.pdf)

被造物対創造者 第四章 世 地(第一部) サム・ヤービー

(http://www.christ-is-all.jp/samHP/chapter4.htm)

共和制と恐怖政治(立法議会・国民公会・ジャコバン(山岳派)独裁など) 受験対策問題 六十七

(http://manapedia.jp/text/index?text_id=2969)

フランス革命 戦争と共和政(二)  (https://www.zuknow.net/cardset/8970)

 

 

 

 

年    表

 

一七八九年

五月 五日 全国三部会(Etas généraux; Estates General)

六月十七日 国民議会(Assemblée nationale)

七月 九日 憲法制定国民議会(Assemblée nationale constituante)

七月十四日 バスチーユ襲撃

八月四日の晩 憲法制定国民議会が貴族の領主権や僧侶の十分の一税などの特権の廃止を宣言する。

 

一七九二年

八月十日 八月十日事件(Journée du 10 août 1792)とは、フランス革命期の一七九二年八月十日、パリで民衆と軍隊がテュイルリー宮殿を襲撃してルイ十六世やマリー・アントワネットら国王一家を捕らえ、タンプル塔に幽閉した事件である。テュイルリー宮殿襲撃(Prise des Tuileries)とも言う。(八月十日事件 二〇一四年九月一二日 () 二三: 四一 ウィキペディア フリー百科事典)

九月   九月虐殺(Massacres de Septembre)は、フランス革命において一七九二年九月二日から数日間にわたって行なわれたパリの監獄で起こった虐殺。殺害された人数は一万四千人とも、一万六千人ともいわれる。(九月虐殺 二〇一四年一〇月一四日 () 一一:一〇 ウィキペディア フリー百科事典)

九月二一日 国民公会 第一共和政

一一月  共和暦制定

一七九三年

一月二十一日 ルイ十六世処刑

五月三十一日 五月三十一日の革命。山岳派のロベスピエールらがジロンド派を国民公会から追放し独裁・恐怖政治。

七月 メートル法採用

一一月 エベールが理性崇拝の宗教を創始。

一七九四年七月二十七日 テルミドール九日、ロベスピエール処刑

一七九五年十月二十六日 一七九九年十一月九日 五人の総裁からなる総裁政府(Directoire)

一七九九年十一月九日、革命暦八年 ブリュメール(霧月)十八日のナポレオン・ボナパルトのクーデター。総裁政府を倒し、三人の執政からなる執政政府(=統領政府)を樹立。

一八〇二年八月 ナポレオンが終身統領となる。

一八〇四年五月 第一帝政

 

一八三〇年 七月革命

制限選挙による上層ブルジョワジーの七月王政政府の実力者である純理派のギゾーに対して、ブルジョワ共和派は『ナショナル』紙で普通選挙と人民主権を説き、ブルジョワ急進派は『レフォルム』紙で金融貴族の支配を批判した。(ブリタニカ国際大百科事典)

一八四七年 経済恐慌

一八四八年

二月 二月革命 二十二、二十三、二十四日、労働者、小市民、学生が蜂起した。(改革宴会も禁止されたため)

二月 臨時政府。ブルジョワと社会主義者・労働者とが協調後対立。

三月 六ヶ月以上定住する二十一歳以上の男子による普通選挙法。議員数八百八十人。

四月 普通選挙。ブルジョワ共和派が勝利、社会主義派は少数派となる。

四月十六日の事件

四月十六日の事件は臨時政府がブルジョアとともに行なつた誤報を広める企ての結果だつた。労働者は民兵の司令部に推薦する自分たちの候補を選ぶために、 練兵場と競馬場に大勢集まつてゐた。すると突如としてパリを端から端まで稲妻のやうな速さである噂が広まつた。それは労働者たちが武装して練兵場に集結して、ルイ・ブランとブランキとカベー(一七八八~一八五六年、共産主義者)とラスパーユを先頭にして練兵場からパリ市役所に行進して、臨時政府を倒して共産主義政府の樹立を宣言しようとしてゐるといふものだつた。(『フランスにおける階級闘争一八四八年から一八五〇年まで』(マルクス)

c2006.1 Tomokazu Hanafusa   http://www.geocities.jp/hgonzaemon/class_struggle_in_france.html

五月 憲法制定議会(Assemblée constituante)

六月二十一日 国立作業場(Atelier national)は費用がかさむという理由で閉鎖された。

六月二十三日~二十六日 パリでブルジョワと都市労働者層とが対立し、死者数五千人以上。(六月蜂起)その後のカベニャック(Cavaignac)陸軍大臣・行政長官による弾圧。

ルイ・ウジェーヌ・カヴェニャック Louis Eugène Cavaignac, 一八〇二年十月十五日 一八五七年十月二十八日)は、十九世紀フランスの共和派軍人、首相。アルジェリアを制圧して勇名をはせ、二月革命後に陸軍大臣に就任した。一八四八年の四月総選挙において社会主義者が大敗したことを受けて、国立作業場が閉鎖されたことに反発したパリの労働者が蜂起した(六月蜂起)際、議会はカヴェニャックを行政長官として全権を委ねた。彼は戒厳令をしいて労働者の蜂起を弾圧。三千の死者、二万五千の逮捕者を出した。これが原因で、同年十二月の大統領選挙では市民から反発され、対抗馬のルイ=ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン三世)に敗北した。(ルイ=ウジェーヌ・カヴェニャック 二〇一三年四月一四日 () 二二:一七 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

十一月 新憲法公布(立法議会、大統領制決定)

十二月 大統領選挙(ルイ・ナポレオンを選出)

一八四九年五月 立法議会招集(世界史年表、吉川弘文館)

一八四九年六月十三日 小ブルジョワのデモ

山岳党の憲法擁護の声明に呼応して、六月十三日には小ブルジョアのいはゆる平和的デモが行なはれた。それはシャトー・ドーから大通りを通る三万人の街頭行進で、おもに非武装の民兵からなつてゐたが、労働者の秘密結社のメンバーも混つてゐた。彼らはだらだら歩きながら「憲法万歳」と呼びかけた。しかし、その声は行進の参加者自身が機械的に醒めた調子で、恥づかしげに発せられるもので、歩道に むらがる群集の反響は雷鳴のやうな高まりを見せることなく、皮肉を込めて投げ返されるだけだつた。ルドリュ-ロランは議員の小さな群れの先頭に立つて、山岳党の名誉を救つた。彼らは、パレ・ナショナルに集合してゐたパリ砲兵隊に守られて、 Conservatoire des arts et métiers(工芸学校)におもむいた。そこには民兵の第五、第六軍団が到着するはずだつた。しかし、山岳党が待つても、第五、第六軍団は来なかつた。 用心深い民兵は自分たちの議員を見捨てたのである。(『フランスにおける階級闘争 第三章 一八四九年六月十三日の結果 一八四九年六月十三日から一八五〇年三月十日まで』(マルクス)(c2006.1 Tomokazu Hanafusa  http://www.geocities.jp/hgonzaemon/class_struggle_in_france.html

一八五〇年五月三十一日 選挙法改正で工業労働者の締め出し。

一八五一年七月十日 『十九世紀における革命の一般理念』を執筆。

一八五一年十二月 ルイ・ナポレオンがクーデターを起こす。

一八五二年十二月 第二帝政 皇帝ナポレオン三世

 

 

 

 

序言より

 

 

個人の自由という貴重な原則は、ノルマン人の征服以来、我々の先人たちの中で最も高貴な精神の持ち主たちを触発し、彼等をして、他者を征服する権利を勝ち取り、あるいはそれを受け継いできた者どもによる圧制に抗して反逆せしめてきたのだが、今この個人の自由が、まさに完成されようとするときに、我々の手から失われようとする差し迫った危機にある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

産業界の人たちへ

 

 

005 諸君ら産業界の人たち*に、私はこの新たな論文を捧げる。

Bourgeoiブルジョワ。この翻訳しがたい言葉とそれに類する言葉は、様々な似通った言葉で翻訳された。そしてその全てが適切でない。(原訳者注)

 諸君らは今までいつも最も勇敢で、最も手腕のある革命家であった。

キリスト教時代の三世紀から、諸君らの地方自治的連邦によって、ガリアのローマ帝国を経帷子でくるんだのは諸君らであった。襲来が様相を一変させた野蛮人たちがいなかったならば、諸君らが築いた共和国が、中世を支配していたことだろう。わが国の王家が、フランク族であって、ガリア人ではないことを思い起こしてみられよ。

 それから後になって、城に対して町を対峙させ、領臣(great vassals)に対して国王(king)を対峙させることによって、封建制を制圧したのは諸君らであった。そしてついに八十年前に、信仰の自由、出版の自由、結社の自由、通商と産業の自由などの全ての革命的な考え方を次々に宣言したのは諸君らであった。賢明に起草された諸君らの憲法によって、祭壇と王座を押さえつけ、法の前での平等、国家の記録の公開、政府の人民に対する従属、言論の至高性などを永遠の土台の上に築いたのは諸君らであった。

 十九世紀の革命の原則を打ち立て、その土台を築いたのは諸君ら、諸君らだけ、そうだ、諸君らであった。

 諸君らに対してなされたいかなる攻撃も消滅してしまっている。

 諸君らが引き受けたどんなことも、期待に背くことがなかった。

 諸君らが目指すどんなことも、失敗しないだろう。

 専制政治は、産業の前で頭をたれた。勝ち誇った軍人(ナポレオン・ボナパルト*)、合法的に塗油された者(ルイ十八世*)、市民の王(ルイ・フィリップ*)などは、諸君らの不興を買う不運に見舞われるとすぐに、幻のように消え去った。

*括弧内は原訳者注。

006 フランス産業界の人たちよ、人類の進歩の主導権は諸君らの手の内にある。教育のない労働者たちは、諸君らを主人として、また、模範として受け入れている。あれほど多くの革命を成し遂げた後で、諸君らが、理性に反して、諸君ら自らの利益に反して、名誉に反して、反革命家になってしまったなどということがありうるのだろうか。

 私は諸君らの不満を知っている。その不満が二月*に遡るだけでないことを知っている。

*一八四八年の第二共和制の創設。(原訳者注)

 ある日、一七九三年五月三十一日に、諸君は不意を衝かれ、粗野な軍団*によって取って代わられた。諸君らが遭遇した中で最も恐ろしい期間である十四ヶ月間、指揮権は暴徒の指導者たちの手の内にあった。指導者たちは、人民による独裁制の十四ヶ月間に、不幸な支持者たちのために何をしてあげられただろうか。何ということだ。何もしなかったのだ!これら指導者たちはいつものように生意気で、法螺を吹き、彼らの努力は、結局、できるだけ諸君らの仕事を続けることになった。一八四八年と同様に一七九三年も、人民によって選ばれた人たちは、―そして彼らは大部分、人民の代表ではなかったのだが、―財産権を維持することにしか配慮しなかった。彼らは労働権のためには、何も配慮しなかった。外国の敵に対して抵抗する以外は、この政府の全ての力は、諸君らの利益を守るために注がれたのだ。

*サン=キュロット派。サン=キュロット(sans-culotte)とは、「キュロット(半ズボン)をはいていない者」の意。貴族はキュロットをはいていた。(中公版)

 それにもかかわらず諸君は、諸君の昔からの特権を襲撃され傷つけられた。人々は未経験のために、諸君が始めた革命の継続の仕方を知らなかったので、諸君はテルミドール*の翌日から、この新たな革命に反対するように思われた。このことは、わが国にとっては進歩の停止であり、我々の死の始まりであった。人々は諸君の傲慢さを抑制するためのものとしての、英雄による独裁制、に投票することによって復讐しようと考えた。諸君は反抗の種を蒔き、専制を刈り取った。神的なものの中で最も馬鹿馬鹿しいものであり、また、最も残忍なものである栄光が、自由に取って代わった。十五年間、民衆の指導者たちは沈黙し、上流階級は辱められ、革命は妨害された。強引に引き出されたとか、渋々認められたものではないとか、その他、何と言われようとも、一八一四年の憲章*が、ついに、諸君のおかげで、革命を世に示した。そしてこの時から十五年も経過しない、あの七月の日々に、旧体制が大敗を喫したのだ。

*テルミドール九日(一七九四年七月二十七日)ロベスピエールの処刑と反動体制の開始。(原訳者注)

*ルイ十八世治下の第一王政復古。(原訳者注)

007 一八四八年に、一七九三年当時と同様に諸君らの銃剣に助けられ、人々は年老いた悪漢(ルイ・フィリップ)をチュイルリー宮殿から追い出し、共和国を宣言した。そうやって人々は、諸君の長い間の反対から妥当な結論を引き出し、自らを諸君の気持ちの代弁者にしたにすぎない。しかし人々は、政治活動の秘伝を授けられていなかったのだ。彼等はこれで二度目になるが、革命を制御することに失敗した。そして九十三年のときと同様に、彼等の厚かましさが再び諸君の激怒を買ったのだ。

 それにもかかわらず、諸君が権力の座に復帰するかしないうちに、あのような熱狂的な反動主義者であることを見せつけるとは、いったいどんな悪事を、罪のない人々が、彼等の三ヶ月間の政治空白期間に行ったというのか。臨時政府は、諸君の虚栄心をなだめ、諸君の動揺を鎮めようとすること以外に何もしなかった。臨時政府が最初に考えたことは、諸君を親族会議に呼び戻すことであった。その唯一の望みは、諸君を底辺階級の守護者にすることだけだった。それでは、諸君が政治的優勢の中で復権したとき、諸君がこれらの単純な革命家たちを悪漢や罪人の一団のように扱ったのは、また、飢餓のせいで反乱に駆り立てられ、その犠牲的行為が執行委員会や立法議会での三、四件の陰謀につながる足がかりとして役立った、貧しい労働者たちを、射殺し、国外追放し、牢獄船へ送ったのは、この昔からの友好関係への報復としてであったのか、それとも彼等が諸君の地位を強奪したせいなのか。紳士諸君よ、諸君は残忍で恩知らずだ。さらに六月事件の後で諸君が強引に行った弾圧は、大声で復讐を要求したのだ。諸君は反動の共犯者となったのだ。諸君は自らを恥ずべきだ。

008 さて今日、諸君の永遠の憎しみの対象である、あらゆる種類の腐敗した政治的陰謀が再現している。僧侶たちは諸君らに、火消し役を押し付けたところだ。外国との内通者どもが、諸君に反国民的政策に融資させた。諸君が倒した全ての圧制のゴマすりどもが、自由を破壊しようとする復讐心に燃えて、毎日諸君を彼らの仲間に入れようとしている。諸君の救世主のふりをするものどもが、半世紀の失敗が労働者にもたらした悲惨さ以上に、この三年間で諸君に不名誉を覆い被せた。そして諸君の盲目的情熱が、無限の能力を手に入れるのを許したこれらの男たちは、諸君を軽蔑しあざ笑う。彼らは諸君のことを秩序の敵、規律無能力、自由主義と社会主義に感染した病人と呼ぶ。彼等は諸君を革命家と看做している。

 紳士諸君よ、この名称を、諸君の栄誉のための、また、労働者たちとの和解の誓約のための称号として受け入れて欲しい。和解は革命であると、私は諸君に保証する。敵は、諸君の領域で地盤を築き、その侮辱を諸君の結集のための叫び声に変えた。革命の年長の息子であり、またシーザー家からブルボン家の末裔まで、非常に多くの専制政治が生成しては消滅するのを見てきた諸君は、諸君の運命を逃れることができない。諸君が何かしら大事なことを成し遂げるだろうと、私の心情が私に告げている。人々が八九年、九三年、一八三〇年、一八四八年に諸君の到来を待望していたように、今でも諸君の到来を待望している。革命の女神が諸君に、彼女の腕を差し伸べている。諸君の祖先が人々を救ったように、諸君も革命によって人々を救い、また自らをも救え。

 憐れな革命よ!皆が革命に石を投げつける。革命を中傷しない者でも、革命を信じず、革命を脇にそらそうとする。ある者は大統領の権限の拡大について語り、また、ある者は王政と民主制という二つの選択肢を融合させ、いずれか一つを選択するのを止める必要性について論じる。ある者は一八四八年の憲法を弁護し、また、ある者は直接立法を要求する。諸君はそのようなことを、二月の観念に反する経験主義者の陰謀であると言っていい。

 もしこのような政策が何らかの目的に役立つものならば、そして、もしこのような政策が節度と平和のためのどんなわずかな力にでもなるならば、私は黙っているだろうし、また、紳士諸君よ、私は諸君の平穏をかき乱したいとも思わないだろう。しかし認めようが否定しようがそれは諸君の自由だが、革命は秒速百万リーグ*の速度で諸君らに迫っている。それは話し合いの問題ではない。革命は、それを受け入れる覚悟、とりわけそれを理解しようとする覚悟を求めている。

*一リーグ=約四.八キロメートル

009 権力が私のジャーナリストとしてのペンを折り、現今の論争から私を遠ざけることになった長い収監によって得られた自由時間に、私の革命的精神は、観念の世界であちこちと旅に出かけた。私はあちこちさまよった後で、もし我々が準備した土壌に蒔かれれば、必ずや大きく成長するであろう幾粒かの種子を、陳腐な世間の偏見を乗り越えて持ち帰った。紳士諸君はそれらの種子を最初に蒔く栄誉を与えられるかもしれない。そして最初の果実が、今、関与するだけの値打ちのある唯一のこと、つまり革命を、諸君らに気づかせることになるだろう。

 そして私よりも勇敢な探検家たちが私の先例に勇気づけられて、人々が長い間夢見てきた発見、つまり民主的で社会的な共和国の発見をついに成し遂げるだろうことを期待している。

 

挨拶と友情をこめて

P・J・プルードン

 

コンシェルジュリー* 一八五一年七月十日

Conciergerieは大革命のときに死刑囚を収監したパリ裁判所付属の牢獄(クラウン仏和辞典)

 

 

 

十九世紀における革命の一般理念

 

 

011 どんな革命の歴史にも、三つの様相が認められる。

 革命が転覆しようと目指し、また、存続を続けたいという願望のために反革命になるような、先行する状況。

 偏見や利害に応じて革命に対してさまざまな見解を持つが、革命を甘受し、自らの利益になるように革命を利用せざるを得ない、様々な党派。

 問題解決を構成する革命そのもの。

 一八四八年の革命の、議会史、哲学史、劇場的な歴史が、すでに書物の素材を提供することができる。私は、我々の現在の知識を明らかにするような、ある種の問題点を公平に論じることだけに、この論述を絞りたい。私が述べることが、十九世紀の革命の進展を説明し、我々にこの革命の将来を推量することができるようにするのに十分であろうことを期待している。

第一研究 反動が革命の原因となる

第二研究 十九世紀に革命が起こるための十分な理由が存在するか

第三研究 組合の原理

第四研究 権威の原理

第五研究 社会の清算

第六研究 社会的諸力の組織化

第七研究 経済組織における政府の消滅

012 これは事実を述べたものではない。これは革命の思索上の計画、知的なイメージである。

 もしこの論文を、場所や時間などのデータ、日付、名称、政策宣言書、エピソード、大演説、恐怖、闘い、宣言、操作、議会での術策、暗殺、決闘などで満たすならば、ビュシェ(Buchez)やミシュレ(Michelet)などの書物で記述されるような、鮮やかで血に染まった革命の姿が現れるだろう。

 初めて世の人々は、革命が成就される前に、革命の精神と形態とを判断できるようになるだろう。もし我々の祖先が、様々な危険や党派や人々などの一般的で抽象的な記述の中に、彼等の運命を前もって読むことができたならば、彼等が大災害を避けなかったかもしれないかどうか誰にわかろうか。

 この記述の中で私は、できるだけ事実を証拠として挙げようとするつもりだ。事実の中から、私は常に、最も単純で最もよく知られているものを選ぶつもりだ。こういう方法こそ、今までは預言者的空想にすぎなかった革命が、ついに現実になりうる唯一の方法である。

 

 

 

第一研究 反動が革命を引き起こす

 

 

1 革命の力

 

013 革命はその初期段階で大胆に攻撃されれば、それを阻止できるし、抑圧できるし、そらすこともゆがめることもできる、そしてそのためには、聡明さと力という二つのことしか必要ないという考え方は、今日、保守的な人たちの間だけでなく、進歩的な考え方の持ち主の間でも広く受け入れられている見解である。今日最も思慮深い著述家の一人である、アカデミー・フランセーズ*のM・ドロース(M. Droz)は、彼の言葉を用いれば、革命が予想され、阻止できたかもしれないとする、ルイ十六世の治世に関する特別な報告書を著している。

*「不滅の人」と称される会員を四十名に限定する。一六三五年ルイ十三世治下のリシュリューの発案。(ブリタニカ国際大百科事典)

 そして今日の革命家の中で最も知性的な一人であるブランキ(Blanqui)も、十分な力と技術とがあれば、権力は人々を権力の望むどんな方向にも導くことができ、人々の権利を粉砕し、革命の精神を無にすることができるという考え方にとらわれている。アカデミシャン紙(the Academician)の全ての政策と同様に、ベル・イル氏のトリビューン紙(the Tribune of Belle-Isle)―私は彼についての次の性格描写の大部分を、彼の友人たちも受け入れて欲しいと思うのだが、―の全ての政策も、反動が勝利するという彼が抱く不安、私なら恐れずに滑稽であると言いたいような不安、から生じている。このように、専制政治の病原菌である反動は、あらゆる人々の心の中に潜んでいて、政治的地平の両極で同時に姿を現す。反動は特に、我々の困難の原因の一つである。

 革命を阻止せよ!そう言うことは、神の摂理に対する脅しであり、確固たる運命に向かって投げつけられる挑戦であり、一言で言えば、この上なく馬鹿馬鹿しいことであると思われないだろうか。物が落下するのを止めさせよ、火が燃えるのを止めさせよ、太陽が輝くの止めさせよ!

014 私は我々の眼前で行われていることを通して、以下のことを示してみたい。つまり、保守化へ向かう本能は、あらゆる社会組織に内在するものであるのと同様に、革命の必然性も同じように避けがたいということ、また、どんな政治的党派も、反動化と革命化とを交互に繰り返すかもしれないということ、また、互いに相関していて、互いに他を含意している反動と革命というこの二つの言葉は、両者の間での争いはあるものの、二つとも人類にとって本質的なものであるということである。したがって、左右の側から社会に脅威を与える岩を避けるための唯一の方法は、反動が絶えず革命と立場を入れ替えるということであり、そしてそのことはまさに現在の立法府が成し遂げたと自慢していることとは正反対のことである。不平を拡大することとは、そして比喩的表現を用いてもよいとすれば、抑圧によって革命勢力を封じ込めることとは、慎重さが我々に徐々に渡るように勧める距離を、一跳びで跳び越えるように自らに宣告することであり、また、跳躍や急な動きによる進歩を、継続的な前進に取って代えることである。

 最も強力な統治者たちが、彼等の住む地域の範囲内で革命家になることによって自らを有名にしたことを知らない人がいるだろうか。ギリシャを再統一したマケドニアのアレクサンダーや、偽善的で金銭づくの共和国の荒廃の上にローマ帝国を築いたジュリアス・シーザーや、自らの改宗が、ガリアの地にキリスト教を明確に打ち立てる象徴となり、また、ある程度は、ガリアの大海にフランクの群衆を融合させる原因となったクローヴィスや、自由不動産を中央集権化し始め、封建制創始の象徴となったシャルルマーニュや、いくつかの町に施した善意のために、第三身分(=平民the third estate)にとっては大事な人であるルイ肥満王(ルイ六世Louis the Fat)や、技芸の組合を組織した聖ルイ(ルイ九世 Saint Louis)や、封建領主らを完全に敗北させたルイ十一世とリシュリューなど、全ての人たちが、程度の差こそあれ、革命的行動を成し遂げた。忌まわしいバーソロミューの大虐殺でさえも人々の意見を取り入れ、その点ではカトリーヌ・ド・メディシス(Catherine de Medicis)*と一致しているが、改革者に対するよりも領主に対して向けられたものであった。最後の全国三部会(States General=Estates General)の集会が開かれた一六一四年までは、フランス君主制はその指導性の機能を捨てて伝統を裏切るようには思われなかった。一七九三年一月二十一日*は、そのような犯罪に対する罰であった。

*カトリーヌ・ド・メディシス(Catherine de Médicis, 一五一九年四月十三日 一五八九年一月五日)は、フランス王アンリ二世の王妃。フランス王フランソワ二世、シャルル九世、アンリ三世の母后。国内ではユグノー(フランスカルヴァン派の呼称)とカトリックとの対立が激化しており、カトリーヌは融和政策を図るが、フランス宗教戦争(ユグノー戦争)の勃発を止めることはできなかった。休戦と再戦を繰り返した一五七二年にパリやフランス各地でプロテスタントの大量虐殺(サン・バルテルミの虐殺)が起こり、カトリーヌは悪名を残すことになる。(カトリーヌ・ド・メディシス 二〇一四年三月三〇日 () 〇三:一六 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

*ルイ十六世の処刑の日。(原訳者注)

015 このような実例をさらに増やすことは容易であろう。歴史に関するほんのわずかな知識があれば、誰にでもそういう実例を列挙することができるだろう。

 革命は神の力であれ、人間の力であれ、どんな力でも打ち勝つことのできない力であり、また、その力の本質は、革命が遭遇する抵抗そのものによって強化され、大きくなる。革命は指揮されたり、和らげられたり、遅らされたりすることができるかもしれないが、私が先ほど述べたように、最も賢い政策は、少しずつ革命に屈することであり、また、人類の永遠の進化は、力強い大躍進によるよりも、気づかれないうちにそして静かに成し遂げられるかもしれない。革命を押しつぶすこともできないし、騙すこともできないし、ゆがめることもできないし、また、征服することはなおさらできない。革命を抑圧すればするほど、その反発を大きくし、その活動を抑えがたいものにするだろう。このような次第だから、この事情は、ある観念が初めのうちは迫害を受け、いじめられ、打ち倒されようとも、あるいは、邪魔されずに大きくなり発展しようとも、その観念が勝利することになるのとまさに同様である。祈っても脅しても動かすことのできなかった古代人のネメシス(応報天罰の女神 Nemesis)のように、革命は、友人たちが抛る花の上を、革命を擁護する人たちの血によって、敵の体をすり抜けて、地味で決定的な歩みで前進する。

 陰謀が一八二二年に終わったとき*、王政復古が革命に打ち勝ったのだと考えた人もいた。ヴィレール(Vilèle)に対して侮辱の言葉が浴びせられたのはこのとき、つまり、ヴィレール政権のとき彼がスペイン遠征をしているときだった。*哀れな馬鹿どもよ!革命はすでに死んでいたのだ。しかし、革命は一八三〇年に諸君を待っていた。

*ルイ十八世の第二王政復古の後(原訳者注)

*イスパニア干渉。原文P・〇二七の注を参照されたい。

 ブランキ(Blanqui)とバルベス(Barbès)の攻撃の後の一八三九年に秘密結社が解散されたとき、再び、新たな王家が不滅であると信じられた。進歩は王家の掌中にあると思われた。これに続く数年は、この治世の最も繁栄した時だった。それにもかかわらず一八三九年に産業家たちは提携によって、人々は五月十二日の暴動*によって、重大な政治不信が始まり、結局それは二月の事件につながった。おそらくもっと思慮深さと大胆さとがあったならば、破廉恥にも反動的になっていた君主制の存続は、数年延長されていたかもしれない。しかし遅らされたからといって、破滅はその分ただ激しさを増すことにしかならなかっただろうが。

*ルイ・オーギュスト・ブランキ(Louis Auguste Blanqui, 一八〇五年二月一日 一八八一年一月一日)は、フランスの社会主義者、革命家。十九世紀フランスにおけるほとんどの革命に参加し、のべ三十三年余りにわたって収監された。一八三九年五月十二日秘密結社「季節協会」(別訳語:四季の会、四季協会)を率いパリ市庁と警視庁を襲撃した。逮捕され、死刑の判決を受けるも終身禁錮に減刑される。武装した少数精鋭の秘密結社による権力の奪取と人民武装による独裁の必要を主張した ブランキはフランソワ・ノエル・バブーフを尊敬しており、武装した少数精鋭の秘密結社による権力の奪取や人民武装による独裁といった彼の主張はバブーフから学んだものである。カール・マルクスは彼を革命的共産主義者として称揚している。彼の影響下にあったヴァイトリングは義人同盟(正義者同盟。後の共産主義者同盟)のメンバーであり、共産主義者同盟の文書である共産党宣言で彼は例外的に批判されなかった。(ルイ・オーギュスト・ブランキ 二〇一四年一〇月一七日 () 〇二:四四 ウィキペディア フリー百科事典)

016 二月の後で、我々は、ジャコバン派、ジロンド派、ボナパルティスト*(the Bonapartists)、オルレアン王朝派*(the Orleanists)、正統王朝派*(the Legitimists)、イエズス会など、今まで一貫して革命に反対してきた全ての古い党派、―私は今にも徒党(factions)と言いかけるところだったが、―これらの党派が、代わる代わる、その内容を理解すらしていない革命の鎮圧を企てる様を見た。ある時点ではこの提携は完璧であった。私は共和主義者党*(Republican party)がこの集団からうまく抜け出せたかどうかについては敢えて言わない。反対勢力を持続させよう、残存させよう。しかし反対勢力の敗北はいたるところで見られる。その不可避的な転覆が延期されればされるほど、その遅れのためにますます高い代価を支払わなければならないだろう。それは幾何学の公理のように、革命の進展における基礎的事項である。革命が決して間違っていないという単純な理由によって、革命は決して見逃さない。

*ボナパルティズム(Bonapartisme)は、本来の意味では、ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン一世)によるフランス第一帝政の崩壊以後に活発化した政治運動で、国民の支持でフランスの支配者に選ばれたナポレオンとその一族を再びフランスの支配者に据えようとした運動を指す。ボナパルト家支持者たちはボナパルティストと呼ばれた。より広い意味では、革命運動を強権でもって弾圧しようとする権威主義的・反動的な運動一般のことを指す。(ボナパルティズム 二〇一三年五月一八日 () 一二:五三 ウィキペディア フリー百科事典)

the Orleanists, Orléanistes 一八三〇年一月オルレアン公ルイ・フィリップ・ジョゼフの子ルイ・フィリップをフランス王に推戴するためにL・ティエール、L・モレ、J・タレーランの扇動で結成された党派。(ブリタニカ国際大百科事典)

*レジティミスムまたは正統王朝主義(フランス語: Légitimisme)はフランスの君主制支持運動。この立場を支持する者をレジティミスト (Légitimiste) と呼ぶ。復古王政期には「ユルトラ王党派」と呼ばれ、一八三〇年の七月革命で王位を追われたブルボン王朝の嫡系を強く支持した。レジティミストは反革命的な政治主張によって特徴づけられ、一七八九年のフランス革命、フランス共和国および両者と結びつくもの全てを否認している。このため伝統的カトリック教徒とも立場が近く、また次第に極右政治運動と結びつきつつある。第二共和政時代にレジティミストはオルレアニスト(オルレアン王朝主義者)と連合して秩序党を結成した。一八四八年から一八四九年まで続いたオディロン・バロ内閣で中等教育をカトリック教会の手に委ねることを定めたファルー法を通過させた。(レジティミスム 二〇一四年三月二二日 () 一五:三八 ウィキペディア フリー百科事典)

*フランスにおいては革命時のジロンド派が穏健な共和主義者であり、いっぽうジャコバン派が急進的な民主主義者と捉えうるが、その後はナポレオン・ボナパルトの統治(執政政府および第一帝政)を経て復古王政(レジティミスム)や七月王政(オルレアニスム)、第二帝政(ボナパルティズム)などの権威主義、さらには社会主義などとも絡みあって複雑な展開をみせた。(共和主義 二〇一三年七月二七日 () 〇四:二七 ウィキペディア フリー百科事典)

 あらゆる革命は、最初は、人々の不満として、また、最も貧しい人たちがいつも真っ先に感じる事態の邪悪な状態に対する告発として名乗りを上げる。暴動を起こすことは大衆の本性に反することである。ただし、肉体的にあるいは精神的に大衆を傷つけることに対抗する暴動は別である。これが抑圧や復讐や迫害の対象であろうか。なんという馬鹿げたことだ!政策の本質が大衆の願いを回避することであったり、大衆の不平を抑圧することであったりするような政府は、自らを咎めることになる。そういう政府は、新たな罪を犯すことによって自らの悔恨の念と格闘する罪人に似ている。犯罪行為を繰り返すたびに、罪人の良心はそれだけ厳しく自らをしかりつけるのである。そしてついに彼の良心は屈服し、自らを死刑執行人にゆだねることになるのだ。

 革命の危険をかわすための方法は、すでに私が述べたとおり、一つしかない。それは革命を認識することだ。人々は苦しんでおり、彼等の運命に不満を抱いている。彼等はうめき声を上げる病人のようなものである。ゆりかごで泣き叫ぶ赤子のようなものである。彼等の元に赴き、彼等の苦しみに耳を傾け、その苦しみの原因と結果を調べ、その苦しみを過小評価するのではなく、過大なくらいに受け止めよ。それから苦しんでいる人たちを安心させるために、休むことなく汗をかけ。そうすれば革命は、以前の秩序の自然でたやすい進展として、何の混乱もなく生じるだろう。それに気づく人は誰もいないだろう。それが起こったとうすうすでも感じる人さえいないだろう。感謝の念であふれた人たちが、諸君のことを彼らの恩人と呼ぶだろう。また、彼らの代表、彼らの指導者と呼ぶだろう。このようにして一七八九年に国民議会(National Assembly)と人々は、ルイ十六世を「公衆の自由の回復者」として、彼に敬意を表したのである。あの栄光の瞬間に、祖父のルイ十五世よりも力強かったルイ十六世は、数世紀にわたって彼の王家を確固なものにしたかもしれない。革命は彼に支配の道具としてその身をささげたのだ。しかしこのばか者は、彼の権利の侵害にしか目を向けることができなかったのだ!この考えられないほどの盲目さを、彼は断頭台まで引きずったのだ。

017 ああそれにしても平和的革命は、我々人間の好戦的な本性にとっては、なんとも理想的すぎるに違いないのだ。暴力を行使する口実はいくらでもあるのだ。革命がその原理を貧窮に根ざした暴力に置くとすれば、反動はその原理を慣習の権威に見出す。

 現状は常に貧困に対して処方箋を処置しようとするものである。だから反動は始めのうちだけ、革命が最後に手にする過半数を得るにすぎない。一方の利益が持続的に他方の不利益に変質するような逆方向のこの進展の中で、衝突が起こることをどれほど恐れるべきだろうか!

 二つの原因が革命の平和的達成に対峙している。つまり既得の利益と政府のプライドである。これから説明されることになる運命的な要因によって、この二つの原因はいつも共に手を携えている。だからお金持ちと権力は伝統と共に一方の側にあり、貧困と無秩序と無名な人たちは他方の側にあり、また、満ち足りた者たちはいかなる譲歩をも進んでやろうとせず、満たされない者たちはもうこれ以上屈服することができないから、衝突は徐々に避けられないものとなるのだ。

 進歩的な運動にとって当初は不都合な可能性の全てが、抵抗のための全ての成功要素であるように思われるような、闘いの変遷が認められることは、興味深いことである。どんなに明敏な人でも予想できなかっただろうと自らには思われる結末を理解することのできない、物事の表面しか見ることのできない人たちは、彼らの失望の原因として、不運、こいつの犯罪、あいつのへま、幸運の女神の全ての気まぐれ、人類の全ての情熱などをためらわずに咎める。革命は、知的な現代人にとっては怪物であるが、革命を後になって詳述する歴史家にとっては神の裁決であると思われる。八九年の革命について今まで言われなかったことは何だろうか。あの革命、八回の連続する憲法という形で自らを主張した革命、フランス社会を底辺から上層部に向かって作り変えた革命、そして、古い封建制の記憶さえも破壊してしまった革命について、我々はまだ疑念を抱いている。我々はこの革命の歴史的必然性という考えをまだ理解していない。我々はこの革命の目を見張るような勝利を理解していない。今日の反動は、ある程度は、この革命の原則と傾向(tendencies)に対する憎悪の念によって組織された。そして八九年に成し遂げられたことを擁護する人たちの中にも、その成果を繰り返し言おうとする人たちを公然と非難する人たちが大勢いるのだ。最初の革命によって生じた奇跡のおかげで逃れることができたと彼らは思っているのだが、そういう彼らが二度目の危険は冒したくないと思っているのだ!だから全ての人々は反動に賛成しており、自らは正しいと確信しているのと同様に、勝利をも確信しており、また、彼らが危険を逃れるために取る方策そのものによって却って自分たちの身の回りの危険を高めているのだ。

 018 もし彼らの経験が彼らを確信させないのだとすれば、どういう説明が、また、どういう証明が、彼らを間違いからそらすことができるのだろうか。

 私は革命が、それを歓迎した赤、三色、白などの*保守派の人たちだけによって過去三年の間に「実行されて」きたということを、この著述の他の箇所で証明するだろうし、また今まさに極めて意気揚々としてそのことを確立しようとしている。そして私が「実行される」という表現を用いるとき私は、行為の普及という意味ばかりでなく、この革命という観念の中味の決定という意味でも用いている。間違ってはいけない。もし革命が存在しないとすれば、反動が革命を生じさせていただろう。この革命という観念(Idea)は、必然性の弾みによってぼんやりと考えられていたのだが、その後、矛盾によって形成され、定式化され、すぐにも権利として断言されるだろう。そしていくつかの権利は相互によく結びついているので、一つの権利は他の全ての権利を同時に犠牲にすることなしには否定することはできないのであり、その結果、反動的政府は、それが追及する幻によって無限の恣意的行動へと引き連れられ、また、革命から社会を守ろうとするとき、反動的政府は、革命化された社会の全ての構成員の利益となる。このようにして古い王制は、まずネッケル(Necker)を、次にはチュルゴー(Turgot)を解雇し、あらゆる改革に反対し、第三身分(Third Estate)、議会、僧侶、貴族などの不満を募らせ、革命を創り出したのだ。つまり、革命に事実の世界への仲間入りをさせたということだ。それ以来、その広がりと完成度において止むことなく成長を続け、また、その征服を拡大し続けている革命にだ。

*フランスの国旗は通称トリコロール(仏: Tricolore, 三色の意)と呼ばれる旗。青は自由、白は平等、赤は博愛(友愛)を表すというがそれは俗説である。正式には白がフランス王家の色、青と赤はパリ市の紋章の色であり、三色が合わさり、パリと王家との和解の意味を表している。赤と青はフランス革命軍が帽子に付けた帽章の色に由来し、白はブルボン朝の象徴である白百合に由来する。(フランスの国旗 二〇一四年一〇月一九日 () 〇一:五三 ウィキペディア フリー百科事典)

赤い旗は一八四八年第二共和制のころから用いられ、社会主義の象徴。三色旗は一七九四年二月国民公会(National Convention)が国旗として採用し、中庸の共和主義の象徴。白い旗はブルボン王家の象徴。

 

 

2 二月以降の反動と革命の並行的進行

 

019 一八四八年下層階級は中産階級と国王との争いに突然加わり、その悩みの叫び声を世の人々に知らしめた。その悩みの原因は何だったのか。彼らは仕事がないことだと言った。人々は仕事を要求した。彼らの抗議はそれ以上のものにはならなかった。人々は熱烈に共和主義(republican cause)を擁護した。つまり、人々に仕事を提供することを約束し、人々を代表して共和国を宣言したばかりの人たちを擁護したのだ。それ以上に確実な安全確保のための手段がなかったので、人々は共和国に関する草案を受け入れた。共和国が人々を保護下に置くにはそれで十分だった。協定に署名した人たちが翌日にはその協定を燃やしてしまうことだけを考えるなどと誰が信じただろうか。労働と労働によって得られる食料は、一八四八年の労働者階級の請願事項であった。これは彼らによって共和国に与えられたゆるぎない基盤であった。これが革命である。

 別のもう一つの出来事は、一八四八年二月二十五日の共和国の宣言であった。多少知的ではあるが多少強奪的な少数者による行動であった。しかしそれでも大衆の目からすれば、この出来事は、この共和国に利益を与え、唯一この共和国に真の価値を与えた、労働というもう一つの革命的な問題であった。いや違うのだ。二月の共和国は革命ではなかったのだ。それは革命を約束するものであった。この約束が破られないように気をつけるのは、上層部から下層部まで含めてこの共和国を統治する人たちの義務ではない。どういう更なる条件で人々がその約束を受け入れるかは、次の選挙で人々が決定することだった。

020 当初、このように仕事を要求することは、新任の公務員にとっては法外のこととは思われなかった。というのはこのときまで彼らのうちの誰一人として、経済には全く注意を払っていなかったからだ。それどころかこれは互いに祝い合うべき事柄であった。人々が勝利したとき、人々は、かつて古代ローマの暴徒がパンと娯楽(manem et circenses)を求めたように、それらを求めたのではなく、ただ仕事を要求しただけだった。何と立派な人々ではないか!労働者階級の徳性、規律、従順さは、何という確実な保証ではないか!政府にとってなんと言う確実な安全保障ではないか!この上ない自信を持って、そして認められなければならないことだが、最高の賞賛に値する意図を持って、臨時政府(Provisory Government, Provisional Government)は労働する権利を宣言したのだ!明らかにこの約束は、臨時政府が無知であることの証拠となった。しかしそこには善意もあったのだ。そして善意を明確に示すことによって、フランス国民に何をしてあげられなかったのか。たとえ権力が与えられたとしても、全ての人々に喜んで仕事を与えられないと思うほどぶっきらぼうな雇用者はこの時いなかった。仕事をする権利を!臨時政府はこの運命的な約束がもたらす栄光を、後世主張することになりそうだ。王政の崩壊を確実にし、共和国を正当化し、革命を確実なものとしたこの約束がもたらす栄光をだ。

 しかし約束することは全てではないのだ。約束は守られなければならないのだ。

 もっと詳しく見てみると、労働する権利は、それまでうすうす感じられていた以上に扱いにくい問題であったということはすぐにでも理解できる。様々な議論をした挙句、秩序を維持するのに毎年三億ドル出費していた政府は、次のようなことを認めざるを得なかった。つまり、労働者を支援するためのお金は一セントも残っていないということ、また、労働者を雇うためには、そして、結局彼らに賃金を支払うためには、さらに課税をする必要があるだろうということ、そしてその結果、これらの税金が、支援するために意図された人たちによって支払われねばならないだろうという理由で悪循環に陥ってしまうということである。さらに国家が私企業と競争するということは、国家の介入すべきことではないということだ。なぜならば、私企業にとってもすでに消費は低迷していて、消費の受け皿が求められていたからだ。そしてさらに国家が生産に関与することは、労働者の状態をさらに悪化させる結果にしかならないだろうということだ。結局、こういう理由で、またこれに劣らず有無を言わせぬ他の理由で、政府は、何もできないということを、あきらめて秩序を維持し、我慢して自信を持つことが必要であることを、人々に理解させたのだ!

021 政府がある程度は正しかったということも認めなければならない。全ての人々に労働を確保し、また結局、交易も確保するためには、我々がこれから示すように、今までの方針を変更し、社会経済を修正する必要が生じたのだ。そしてこのことは重大な問題であって、臨時政府の能力を全く超えていたのだ。そしてこの問題に関して、地方(Country)を予備的前提として、地方と相談することが政府の義務となったのだ。この問題について提案される計画に関していえば、また、労働者の労働機会の不足が気晴らしのために話し合われる半官的な会議に関していえば、それらは、記録や批判の栄誉に値するものではなかったということだ。それらは単なる保守側の口実に過ぎなかった。そしてこの口実は、共和主義政党(Republican party)の中でも間もなく明らかになったのだ。

 しかし労働者階級を怒らせ、単なる労働問題を十年もたたないうちに決定的な革命へと変質させた、権力の座に座るものたちの間違いは、次のような場合に明らかになった。つまり、政府が、ルイ十六世がやったように、政治評論家の研究を請い求めることもなく、また、市民に訴え、労働と貧困という大きな問題に関する彼らの願いに耳を傾けることもなく、四ヶ月間敵意に満ちた沈黙を守ったときであったし、また、次のような政府の行為が認められるときであった。つまり、政府は、人々や市民の当然の権利を認めるのに躊躇したこと、自由を、出版や集会の自由でさえも、疑ったこと、保釈金や印紙税に関する愛国者(patriots)の請願を拒絶したこと、結社を組織し管理するのではなく、結社をひそかにスパイしたこと、緊急時のために自主的衛兵(volunteer guard, 国民衛兵)の中から近衛兵団(a body of praetorians)を創設したこと、僧侶と陰謀を企てたこと、軍隊が人々と親しくなるように、軍隊をパリに召還したこと、革命の新しい名前である社会主義に対する敵意を高めたこと、それから、無謀や無能力、不運、陰謀、裏切り、それにこれら全てを織り交ぜまたものなどが原因であるが、パリやルアン(Rouen)の一文無しの群集を無理やり向こう見ずな戦いをするように仕向けたこと、そして最後に、勝利の後では、合法的・非合法的を問わずどんな手段を用いてでも、労働者の叫び声と二月の抗議をもみ消すという一つの考え、一つの観念しか持たないということであった。

022 この四ヶ月の間に、鎮圧が計画され、準備され、組織されたということ、また、反乱が権力によって直接的にもしくは間接的に挑発されたということを確信するためには、臨時政府と執行委員会(Executive Committee)による一連の布告を瞥見するだけで十分だ。

 忘れてならないことは、このような反動的政策が共和主義政党の中で、エベール(Hébert) *や、ジャック・ルー(Jacques Roux)*や、マラー(Marat)*らの記憶におびえ、自らは極限まですべての示威運動と闘うことによって、革命を誠実に援助していると思い込む人たちによって考え出されたということである。臨時政府のメンバーを二つの対立する分派に分断したのは、統治的熱意であった。つまり、一方の側には、勝利によって与えられた権威によって支配するために、革命とおおぴらに争いたいと思わせる統治的熱意であり、もう一方の側に対しては、扇動的行為がうんざりし不毛であると決め付けることによって、平静を回復するために優越的な力と政治や戦争の迷惑さを示すほうがいいと思わせる統治的熱意であった。それ以外のことがあり得たであろうか。否。なぜならば、それぞれの意見のわずかな差は、自らの紋章を真の共和国の紋章であると看做し、ライバルの破滅のために熱心に励み、それぞれがライバルを穏健すぎるとか、極端すぎるとか看做したからである。革命はこれら二つのローラーの間に挟まれざるを得なかった。革命は当時、手に負えない擁護者によってその存在を認められるには、あまりにも小さく、あまりにも弱かったのである。

*ジャック=ルネ・エベール(Jacques René Hébert, 一七五七年十一月十五日 一七九四年三月二十四日)はフランス革命時のジャコバン派内エベール派リーダー。サン・キュロットの指導者。ジロンド派の追放とジャコバン派独裁に貢献し恐怖政治の維持とキリスト教を廃して「理性の崇拝」と称される合理主義的な祭典を行った。(ジャック・ルネ・エベール 二〇一三年九月二一日 () 〇八:四〇 ウィキペディア フリー百科事典)

Jacques Roux (21 August 1752 10 February 1794) was a Roman Catholic priest during the 1789 French Revolution. He expounded the ideals of popular democracy and classless society to crowds of Parisian sans-culottes, working class wage earners and shopkeepers. He became a leader of a popular far-left political faction known as the Enragés (French pronunciation: [ɑ̃.ʁa.ʒe], "madmen"), and in 1791 he was elected to the Paris Commune. (Jacques Roux  15 March 2014, 13:53  Wikipedia, the free encyclopedia  原文中のradical, active role, skillfully, dangerousなど解説者の情緒的と思われる形容詞を削除した。)

*ジャン=ポール・マラー(Jean-Paul Marat, 一七四三年五月二十四日 一七九三年七月十三日)はフランスの革命指導者、医師。革命勃発後、山岳派に加わり恐怖政治を推進した。一七九三年、面会に来たジロンド派支持者のシャルロット・コルデーに暗殺された。『マラーの死』(ジャック=ルイ・ダヴィッド画 (ジャン=ポール・マラー 二〇一三年九月二三日 () 〇〇:二四 ウィキペディア フリー百科事典)

 私は、罪があるというよりはむしろ愚かな人たちに、また、物事の成り行きが権力の座に復帰せしめたと私には思われる人たちに、汚名を着せるというむなしい喜びのためよりも、むしろ、革命が一度彼らを打ち破ったのだから、もし彼らがこれまで革命に対して取ってきた不信と陰に隠れた中傷というやり方に固執するならば、革命が、今度で二度目になるだろうが、彼らを打ち負かすだろうということを思い起こさせたいためにこのような出来事を振り返るのである。

 こうして、統治的偏見と私有財産制の伝統との親密な共闘が、古い自由主義つまり政府の政治・経済理論全体を構成するのだが、この統治的偏見と私有財産制の伝統のために、―私は諸個人を当て付けにしてはいない、私はこの政府という言葉を、六月以前と以後の権力の総体であると理解しているのだが、―繰り返しになるが、政府はある種のユートピア的な人たちを憎むことによって、危険というよりはむしろ騒がしい言葉となったが、正義と慎重さが、労働者階級の要求に際して、地方に訴えることを要求したのに、政府は、今日の社会で最も重要な問題を押さえ込む権利があると信じたのである。それは政府の間違いだった。そのことを政府の課題にもしよう。

023 その時以来、昨日の共和国であれ、九三年の共和国であれ、共和国が、十九世紀においては、決して革命と同義であることはありえないということが認識されるようになった。そして社会主義は、その時以来自らの過ちを認め他党派との同盟関係を代わる代わる求めるようになっていたまさにそういう人たちによって、当時最高潮に達していたのだが、そう、もし社会主義がこの争いを引き起こしていたならば、また、もし社会主義が騙された労働者や裏切られた革命の名において、ジャコバンの共和国であれ、ジロンドの共和国であれ変わりはないが、そういう共和国に反対すると公言していたならば、この共和国は十二月十日の選挙*で圧倒されていただろう。そして一八四八年の憲法は、帝政への一過渡期に過ぎなかっただろう。社会主義はもっと高い見識を持っていた。満場一致の賛成で社会主義は自らの不満を犠牲にし、共和国による支配に賛意を表明したことによって、社会主義は当座の間自らを強化するよりもむしろその危険を高めることになった。この後に続く事柄が、社会主義のとった戦術が賢明であったかどうかを示すだろう。

*一八四八年十二月十日ルイ・ナポレオンが大統領に選出された。(原訳者注)

 こうして闘いは巧妙で情け容赦のない全ての有力な利害関係集団の間で繰り広げられ、これらの利害集団は八九年や九三年の伝統に付け込んだ。そして革命はまだ揺籃期にあり、内部分裂し、歴史上の先例に恵まれることもなく、昔からの定式に沿って結集することもなく、一定の観念によって動かされることもなかった。

 実際、社会主義の危機を最も高めたことは、社会主義が自ら何であるかを言うことができなかったことであり、たった一つの提案でさえ言葉にすることができなかったことであり、自らの不満を説明することもできず、また、その結論を支持することもできなかったということである。社会主義とは何か、と問われた。すると二十の異なった定義が、この主義の空虚さを示すために同時に競い合った。事実、権利、伝統、常識などあらゆるものが社会主義に反対して団結した。さらに古参の革命家を信奉する環境で育った人たちの間では、次のような抗いがたい議論が行われていた、―そしてこの信奉は今日でも彼らの間でささやかれているのだが、―つまり、社会主義の系譜は偉大な時代(great period)にまで遡ることはないと、ミラボーやダントンだったら社会主義を軽蔑していただろうと、ロベスピエールだったら社会主義に烙印を押した後で社会主義をギロチンにかけていただろうと、社会主義は堕落した革命的精神であり、道に迷った我々の祖先の政治であると!もし当時、権力が革命を理解することのできる一人の男を見い出していたならば、この男は自分の思い通りに社会主義の原動力を和らげ、社会主義が遭遇するわずかな好意によって利益を得ていたかもしれない。革命はもし支配階級によって歓迎されていたならば、競走馬のような速さでまっさかさまに墜落することなく、百年の間ゆっくりと発展していたであろう。

024 しかし事態はこのようになるはずがないだろう。理念はその反対物によって明らかにされる。革命は反動によって明確にされるだろう。我々には定式が欠けている。臨時政府、執行委員会(Executive Committtee)、カヴェニャックの独裁制*、ルイ・ボナパルトの大統領の地位などが定式を我々に提供し始めたところだ。政府の愚行は革命家の知恵を生み出す。我々の体の上を通り過ぎた反動の大軍がなければ、わが社会主義者の友人たちよ、我々がいったいどんな人物であるかも、どこへ我々が向かおうとしているかも言うことができないだろう。

 再び私はどんな人の意図をも咎めるつもりがないことを明らかにしておきたい。私は今でも人間の意図の善良さを信じている。もしその善良さがなければ、政治家の潔白はどうなるのか。なぜ我々は政治事件における死刑を廃止したのか。近いうちに反動は崩壊するだろう。もしあらゆる種類の意図を持った反動の代表者たちが、山岳党(Mountain)の頂から極端な正統王朝派(Legitimists)に至るまで連続的な連合を結成しないならば、反動は合理性もないし、道徳的正当性もないだろうし、我々の革命教育のために何ら寄与することもないだろう。

*ルイ・ウジェーヌ・カヴェニャック Louis Eugène Cavaignac, 一八〇二年十月十五日 一八五七年十月二十八日)は、十九世紀フランスの共和派軍人、首相。アルジェリアを制圧して勇名をはせ、二月革命後に陸軍大臣に就任した。一八四八年の四月総選挙において社会主義者が大敗したことを受けて、国立作業場が閉鎖されたことに反発したパリの労働者が蜂起した(六月蜂起)際、議会はカヴェニャックを行政長官として全権を委ねた。彼は戒厳令をしいて労働者の蜂起を弾圧。三千の死者、二万五千の逮捕者を出した。これが原因で、同年十二月の大統領選挙では市民から反発され、対抗馬のルイ=ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン三世)に敗北した。(ルイ=ウジェーヌ・カヴェニャック 二〇一三年四月一四日 () 二二:一七 ウィキペディア フリー百科事典)

025 敵の過剰行為と味方の過ちから自らを日々引き離し続けるということは、十九世紀の革命の特徴である。したがって闘いのどんな時点でも完全に正統であったと自慢できる者は誰もいない。我々皆は、どんな状態であったにせよ、一八四八年に失敗したのだ。だからこそ我々は一八四八年以来大きく進歩を遂げることができたのだ。

 六月の事件で流された血が乾くか乾かないうちに、街頭で打ちのめされた革命は、新聞や集会を通してますます明確に、ますます告発的態度を鮮明にして、再び大声で叫び始めた。三ヶ月もたたないうちに政府はこの不屈の粘り強さに驚き、憲法制定議会から新たな武器を要求した。六月の暴動はまだ鎮圧されていない、と政府は断言した。出版の自由や集会を取り締まるための法律がなければ、政府は秩序を維持し社会を守ることに責任をもてないと。

 革命の圧力を受けることによってその邪悪な傾向を明らかにすることは反動の本質である。カヴェニャックの大臣たちは、今や人々に気に入られて復職されていた臨時政府のあるメンバーがひそかに考えていたことを、大声で叫ぶようになったのだ。

 しかし、打ちのめされた各会派が反対勢力に加わることは、また、当然なことである。だから社会主義は共通の主張を掲げることによって、かつては敵であった党派のうちの少なくともいくつかの党派を当てにすることができるかもしれない。そしてそのことが実際起こったのだ。

 大勢の小商人と共に職工たちも仕事を要求し続けた。産業の状況は芳しくなかった。小農は高い地代と農産品の低価格に不満を持っていた。暴動と闘い社会主義に反対すると公言していた人たちは、報酬として当座の補助金と将来に対する保証を要求した。政府はこのようなこと全ての中に、放血と鎮静剤で処置されなければならない、単なる一時的な疫病や、不運な状況がもたらした結果や、知的・道徳的な急性胃腸炎のようなものしか認めることができなかったのだ。

026 このとき政府は数々の制限によって邪魔されていることに気づいたのだ!法律は政府を保護するためにはもはや十分でなかった。政府は軍政を布かねばならない。一方社会主義は自らを共和主義者であると宣言し、要塞の中でのように非常に不穏なやり方ではあったが、法に則っていた。したがって反動的なあらゆる画策において、法律がいつも革命勢力に味方し、保守勢力には反対したのだ。そんな不運なことは今までになかったことだ。「合法性は我々の滅亡を意味する」という昔の君主制の大臣の言葉が、共和主義政府の下で再び真実となった。法律を廃止しなければならないか、さもなくば、革命が前進しなければならないかだ!

 抑圧的ないくつかの法律が認められ、数回厳しさを増した。私も書いているように、集会の自由が廃止された。革命的出版はもはや存在していない。このような対症療法から政府はどういう成果を得たのだろうか。

 まず第一に、出版の自由を要求する声は、労働する権利を主張する声と結びついた。革命は、出版を封じることが観念の接触伝染に対する治療法であると信じることを拒否する、全ての昔からの公衆の自由の擁護者たちを隊列に加えた。そして出版による情宣活動が中止されたとき、口頭による情宣活動が開始された。つまり、最強の革命的方法が反動の暴力に対峙されたのだ。二年間で革命は、毎日百年間論説で成し遂げられる以上の成果を、全ての人々のこの親密な話を通して成し遂げることができたのだ。反動が活字に復讐するのに対抗して、革命は話し言葉で勝利するのだ。熱病を治療されるはずだった病人は、痙攣によって引き裂かれる!

 こういうことは真実ではなかろうか。我々皆がこういう事実の毎日の証人ではないだろうか。次から次へとあらゆる種類の自由を攻撃することによって、反動はそのたびに革命を再確認しなかっただろうか。そしてこれは現代史ではないだろうか。馬鹿さ加減がぺロー(Perrault)*の物語のそれをはるかに越える、私が今書いているように思われるこの小説ではなかろうか。革命は、最も卓越した政治家たちが革命に対抗して共謀し、革命組織が一切消滅してしまったとき以来、これほど繁栄したことはかつてなかった。さらに、革命に抗して行われるであろう全てのことが、革命を強化するだろう。その主要な事実だけを取り上げてみよう。

*ペロー(一六二八―一七〇三)フランスの批評家、詩人、童話作家。「ガチョウおばさんの話」(研究社新英和大辞典)

027 二、三ヵ月後、革命の慢性病はヨーロッパの三分の二にまで感染していた。その主な中心地はイタリアのローマとベニスとライン川を越えたハンガリーであった。フランス共和国政府はより確実に国内の革命を抑圧するために、外国征服をすることも躊躇しなかった。王政復古は自由主義者の意に反してスペイン戦争*を行い、一八四九年の反動は社会民主主義に逆らってローマへの遠征を敢行した。―私はこの社会民主主義(Social Democracy)という二語を、革命が一年間で成しえた進歩を指し示す言葉として用いる。ヴォルテール(Voltaire)*のある後継者たち、ジャコバンの後継者たちは、―ロベスピエールの助手どもから他のどんなことを期待できようか―ローマ教皇に援助の手を差し伸べ、こうして共和国とカトリシズムを結びつけるという考えを思いつき、イエズス会派がこのことを成し遂げた。社会民主主義はローマで敗れていたので、パリでは抗議しようとした。しかしその努力は戦いになる前に追い払われた。

*イスパニア王国に一八二三年フランス干渉軍がマドリードに入城。一八二〇年からイスパニア革命を指導していたリエゴ(一七八五―一八二三)を王党派が処刑した。(世界史年表、吉川弘文館)

*ヴォルテールことフランソワ=マリー・アルエ("Voltaire" François-Marie Arouet, 一六九四年十一月二十一日 一七七八年五月三十日)は、フランスの政治や政府を痛烈に中傷する詩を書き、流布し続けたあげく、一七一七年五月、彼はバスティーユ牢獄に投獄され、十一ヶ月間を過ごした。二十二才から二十三才の頃である。(ヴォルテール 二〇一四年一〇月一六日 () 一四:〇九 ウィキペディア フリー百科事典)

反動は何を得たのだろうか。人々の心の中で、王に対する憎しみに僧侶に対する憎しみが付け加えられた。そしてヨーロッパ中の政府の権威に対する戦いは、宗教の権威に対する戦いと入り乱れた。一八四八年に医者たちは、唯一の問題が政治的な興奮に基づく問題であると言った。間もなく、治療法が無意味であるために、この問題は経済的な問題になった。そして今ではこの問題は宗教的問題であると言われている。薬は無用ではないのだろうか。さらにどんな薬を用いることができるのだろうか。

 このことはほんのわずかな常識を持ち合わせている政治家ならば退却していたであろうような事例であった。人々が反動を最高潮にしようと決断したのはまさにこの時だった。否、人々は、国家には自らに毒を盛り、自らを暗殺する権利はないと言った。政府の義務は後見人や父親の義務と同じである。人々の安全は最高の法律である。何があろうとやるべきことをやれ!

028 地方が極限にまで清められ、その血が流され、焼灼されるべきだと決意された。大規模な衛生制度が構築され、その指導者たちに栄誉を与えたであろうような献身ぶりで彼らは従った。アテネを疫病から救ったヒポクラテスでさえもこんなに寛大であったようには思われない。憲法、選挙区、国民衛兵、市町村評議会、大学、軍隊、警察、裁判所など全てが火に焼かれた。あの秩序の永遠の友である産業界も自由主義的傾向を咎められ、労働者階級と同じ嫌疑をかけられた。政府は、M・ルーエル(M. Rouher)の言葉を借りるならば、次のようなことさえも口にしたのである。つまり、政府は自らを健全であるとは思っていないと、政府の起原は汚点であると、政府はその体内に革命の毒を持っていると、そら、私は不正の腹の中ではらまれた!*・・・と。さて政府は仕事に取り掛からねばならない。

Ecce, in iniquitatibus conceptus sum! = Lo, I was conceived in iniquity. (原訳者注)

 理性だけに基づき、試験によって選考された世俗の教師による教育は、信頼できないだろう。政府は教育を宗教的権威の下におくことが不可欠であると考えた。教育も出版と同様に次のような施策によってもはや自由でないことが世に公言された。つまり、教師を僧侶や平修道士に従属させることによって、また、市立大学を修道会の人たちに引き渡すことによって、公教育を僧侶の責任の下に置くことによって、教授を司教が弾劾した後で教授の解任を不意に行うことによってである。このような処置によって政府は何を得たのだろうか。政府はその陰険ないじめによって、彼ら全てを革命の側に向かわせたのだ。何も臆病なところのない、実際、若者たちの教育に献身している人たちを。

 さて次は軍隊の番だ。

 大衆の出身で、大衆の中から毎年補充され、大衆と常に接触を持っており、目覚めた大衆と踏みにじられた憲法を目の前にしているのだから、軍隊の服従ほど不確実なものはなかっただろう。完全な隔離や、思考、会話、政治的・社会的話題に関する読書などの禁止と共に、知的な食事制限が処方された。連隊の中に少しでも感染の兆候が現れると、連隊は直ちに清められ、首都や人口の多い中心部から除去され、懲罰としてアフリカに送られた。軍人が何を考えているのかを知ることは難しい。しかし二年以上も軍人が治療されたことは、きわめて明確に次のようなことだったのかと軍人にはわかるが、そのことは少なくとも明らかなことである。つまり、政府が共和国も、憲法も、自由も、労働する権利も、普通選挙も望んでいないということ、また大臣たちの計画が、彼らがローマで僧侶による支配を再構築したように、フランスでも古い秩序を再構築することであること、そしてまた、彼らが軍人を当てにしているということである!・・・疑い深い軍人はこの薬を飲み込むだろうか。政府はそう願っている。それが問題である!・・・

029 一八四八年の四月、五月、六月に秩序派の最初の成功が恩恵を受けたのは国民衛兵*からであった。しかし国民衛兵は暴動を鎮圧したものの、反革命を援助するという考えはなかった。一度ならず国民衛兵はそのことについて触れている。国民衛兵はうんざりしていると言われていた。政府が配慮する全ての事柄のうちで最も政府の注意が向けられたことは、国民衛兵を徐々に、突然にではなく、―それはうまくいかないだろうから、―解散させること、あるいは少なくとも武装解除させることである。武装し、組織化され、いつでも戦闘の準備が整っている国民衛兵に対して、反動の側の知恵では何も自衛手段がなかった。政府は一人でも民兵がフランスにいる限り、安心できないと思っていた。国民衛兵諸君よ!自由と進歩への方向から諸君の目をそらせることはできない。革命に向かって前進したまえ!

*国民衛兵(la Garde nationale)は、フランス革命時に従来の常備軍に替わってフランス国内各都市で組織された民兵組織である。最初にパリで作られ、それに倣って各都市も組織した。司令官は初めラファイエット侯爵、ついで短期間マンダ侯爵が務めた。一七九二年夏までは中流階級に基礎を置いており、立憲君主制を強く支持していた。国民衛兵は革命にいくばくかの影響を及ぼしたが、ナポレオンによって武装解除された(ただし一八〇九年と一八一四年にはフランス防衛のため再召集されている)。ナポレオン追放後にはまた復活し、十九世紀の二度の革命(七月革命と二月革命)において重要な役割を演じた。(国民衛兵 二〇一三年一〇月二七日 () 一二:四八 ウィキペディア フリー百科事典)

A new National Guard was established in 1831 following the July Revolution in 1830. It played a major role in suppressing the Paris rising of June 1832 against the government of King Louis-Phillipe. However the same National Guard fought in the Revolution of 1848 in favor of the republicans. (National Guard (France)  22 August 2014, 22:24  Wikipedia, the free encyclopedia)

 全ての変質狂のように、政府はその考え方においてきわめて論理的である。政府はその考え方に驚くほど几帳面にまた辛抱強く従っている。政府は次のことを十分すぎるほど理解していた。つまり、政府自らが医者の役目を自任していた、フランスや他のヨーロッパ諸国の治療が、大衆的選挙を廃止できる時点にまでまだ到達していないかもしれないということ、また、政府の処方する薬によって気が狂った不幸な患者が、その拘束を解き放ち、政府の護衛隊よりも力をつけ、一時間の狂気の行動で、三年間の治療の成果を台無しにしてしまうかもしれないということである。すでに圧倒的大多数が、一八五〇年の三月、四月の選挙制度問題に投票する際に、革命の側に投票していたのである。その争点は、君主制か共和制か、つまり、革命か現状維持かということだった。どのようにしてそのような危険を払いのけ、国民を狂気から救うことができるだろうか。

030 今は遠まわしに物事を進める必要があると、知ったかぶりの連中は言う。人々を二つの範疇に分けよう。一つはその立場からして最も革命的であると思われる全ての市民を構成する人たちであり、彼らは普通選挙から除外されるべきだ。もう一つの範疇はその地位からして現状維持の傾向が強い全ての人たちであり、これらの人たちが選挙人集団を構成するだろう。このような抑圧によって我々は、残りの七百万人がその特権を受け入れれば、三百万人を選挙人名簿から削除できるだろうが、そんなことはどうだっていい。七百万の選挙人と軍隊とで我々は必ずや革命に打ち勝つであろう。そして宗教、権威、家族、財産などが救われるのだ!

 政治学や倫理学関係の二十七人の名士たちが、革命や革命家たちを打ち負かすために、至芸の人たちで構成されるこの評議会に出席していたと言われている。この法令は立法議会に上程され、五月三十一日に承認された。

 不幸なことに容疑者のリストでもあるはずの特権法を作ることはできなかった。五月三十一日の法律は社会主義者と保守主義者の中から左右ほとんど等しく削除することによって、ただ一層革命の機運を高めるのに役立ち、反動を憎むべきものにした。留め置かれた七百万の選挙人のうち四百万人がおそらく民主主義派に属していただろう。この人たちに、除外された三百万の不満分子を加えてみれば、少なくとも選挙権に関する限り、革命と反革命の相対的な力の差が生じるだろう。さらに次のような愚かさに注目されよ!この五月三十一日の選挙法を最初に公然と非難したのは、その人たちのためにこの法律が作成されたまさにその秩序派の選挙人たちであったのだ。彼らは現在の全ての悪と、将来彼らが予想するところのより大きな悪に対して、この法律を咎めるのである。彼らは彼らの新聞でこの法律の破棄を声高に要求している。そしてこの法律が将来決して実行に移されないと信じる最大の理由は、それが全く役に立たないということ、つまり、政府の利益は、この法律を擁護することよりもむしろその擁護から手を引くことであるとしているのだ。大失敗やスキャンダルはこれに尽きるのだろうか。

031 この三年間で反動は革命を温床の中でのように成長させた。反動は、当初は曖昧だったが次第に向きを変えて最後はあからさまに絶対主義的でテロリスト的な政策によって、かつては一人も構成員がいなかった革命的党派を多数作り出した。そして、ああ、このような恣意性の全てはいったい何の役に立ったのか。このような暴力の全てはどういう目的のためだったのか。誰を告訴すべきか。文明や社会に対して敵意を持ちながら、どういう怪物と、彼らは闘おうとしたのか。一八四八年の革命が正しいのかそれとも間違っているのかを、誰かわかっていた人がいただろうか。自らを定義したことのないこの革命が。誰がこの革命を研究したか。誰が胸に手を当ててこの革命を咎めることができようか。嘆かわしい幻想である!臨時政府と執行委員会のもとでは、革命党は噂以外には存在しなかった。革命党の観念は、その謎めいた定式があるだけで、まだ発見されていなかった。このような妖怪に抗する反動の宣言によって、反動はこの妖怪を生き物に、巨人に、たった一撃のそぶりだけでも反動を打ち砕くかもしれない巨人に、作り変えた。この巨人は、六月の日以前、私自身ほとんど想像もできなかったようなものであり、そしてその日以来私が徐々にしか理解できるようにならなかったものである。そして反動の砲火を受けて、今私は敢えて確信して断言する。革命はその姿を明らかにした、革命は自らを理解している、革命は完成されたと。

 

 

3 反動の弱さと革命の勝利

 

031 さて反動主義者よ、諸君は英雄的な手段を取らざるを得ない立場に追い込まれている。諸君は憎まれるようになるまで暴力を振るった。諸君は信用されなくなるまで専制主義的になった。そして諸君は不忠実になるまで立法権を濫用した。諸君は惜しみなく人々を軽蔑し激怒した。諸君は血と内乱を求めた。このようなことの全ては、矢がサイに突き刺さるのと同じ影響力を革命に与えた。諸君を憎まない人々は諸君を軽蔑する。しかし彼らは間違っている。諸君は正直な人たちであり、寛容と博愛の精神にあふれ、この上ない善意で行動しているが、諸君の知性と良心は逆様になっている。私は諸君が革命を攻撃し続けようが、革命を丁寧にもてなそうと決意しようが、―私は諸君が後者を実行することを期待するのだが、―諸君が何を決意しようが無視する。しかしもし諸君が前者の進路を選択するならば、私は諸君が何をすべきかを語ろう。諸君自身が何を覚悟しなければならないかを判断できるかもしれないが。

032 諸君によれば、人々は精神異常に冒されているとのことだ。彼らを治療するのは諸君の務めである。公の安全は諸君の唯一の法であり、諸君の最高の義務である。諸君は後世の子孫に責任があるから、神の摂理が諸君に与えた地位を捨て去ることによって、諸君は自らの名誉を汚すだろう。諸君は正義の側にいる。諸君には力がある。諸君の決意ははっきりしている。

政府の全ての通常の手段は失敗に終わったから、諸君のこれからの政策は、武力という一語に尽きる。

 社会が自滅するのを防ぐための武力。その意味は、あらゆる革命的示威運動や、あらゆる革命的思考を停止させなければならないということであり、また、国民を鉄製の拘束服で縛り付け、二十六の省を戒厳令下に置き、あらゆるところであまねく法律を停止し、無政府的・反社会的観念の著者や助長者をフランスやヨーロッパから追放することによって邪悪を根元から攻撃し、完治されるまで、政府に、財産、産業、通商などに対する自由裁量権を授けることによって、古い制度の復活を準備するなどしなければならないということである。

 絶対的統治権について交渉してはいけない。独裁者の選任について議論してはいけない。正統的王政(legitimate monarchy)、半正統的王政、各党の合併、帝政主義、憲法の全面的ないし部分的改正などの全ては、信じがたいだろうが役に立たないのだ。最も迅速な行動が最も確実である。問題は政府の形態ではないということを肝に銘じておきたまえ。問題は社会である。諸君が唯一配慮すべきことは、慎重に諸君の方策を実施することであるべきだ。なぜならば最後の土壇場で革命が諸君の手元から逃れれば、諸君の負けになるからだ。

033 今権力の座にいる大立者がもし終身大統領になるとすれば、そしてそれと同時に、もし投票者の行動に疑念を抱いている議会を、国民公会(Convention)もかつてそうであったように、負傷者が健康を回復するまで停会にすることができるとすれば、解決策がおそらく発見できそうである。政府はただ大人しくしていさえすればよく、また、民衆は健康回復のためにフランスの全ての教会で祝福されさえすればよいのだ。暴動に抗してほとんどどのようなこともやる必要はないだろう。ジャーナリストの国での法律厳守は非常に強力であるから、当局が法の名において我々に語りかけたらすぐに、我々が耐える覚悟をしていないような抑圧や暴力はないのだ。

 基本的協定の条項によれば、ルイ・ボナパルトは一八五二年四月末に退任するし、議会について言えば、革命の情熱が最高潮のときに、その権限が翌月の五月二十九日に期限が切れる。もし事態が憲法の規定するとおりに進展するならば、全てが失われるだろう。一瞬も無駄にしてはならない。Caveant consules!

*ラテン語で「注意せよ。執政官たちよ!」くらいの意味か。

caveant consules : Consuls (of the Roman Senate) beware.  ローマ元老院の執政官たちよ、注意せよ。

caveant consules ne quid detrimenti respublica capiat : Beware consuls that the commonwealth is not harmed.  執政官たちよ、国家が危害をこうむらないように注意せよ。(http://latin-phrases.co.uk/quotes/caution/)

 さて今や憲法が全ての危険の原因なのだから、また、法的解決の可能性はないのだから、政府は国民のどんな部分の支援も当てにできないだから、そして、腐敗があらゆるものを巻き込んでしまったのだから、諸君は名誉の喪失と臆病だという批判を覚悟の上で、諸君自身と諸君の無限の義務だけから助言を受けねばならない。

 まず第一に憲法が、諸君によって、つまり、権威によって改正されねばならない。それと同時にルイ・ボナパルトが、権威によって権力の座に居座り続けねばならない。

 このような権力の延長だけでは不十分であろう。なぜならば一八五二年の選挙によって扇動的な議会が生まれるかもしれないし、その最初の行動が、再選された大統領とその大臣たちの弾劾になるかもしれないからだ。従って大統領は議会によってその権限が延長されると同時に、今度は彼のほうから権威によって議会を停会にするだろう。

034 このような最初の独裁制的行動の後で、正当に更新された一般評議会(地域圏評議会 région)および市町村評議会(General and Municipal Councils)は、直ちに解散することと委員を派遣することとを覚悟の上で、彼らの同意を通告することを要求されるだろう。

 このような大統領の任期の延長と議会の停会の後には、何らかの混乱が起こりそうである。そのような混乱は犯さなければならないリスクである、避けられない戦闘である、勝ち取らなければならない勝利である。

 「危険を伴わずに征服することは、栄光を伴わない勝利である。」

 決断せよ。

 それから諸君は五月三十一日の法律とともに普通選挙も廃止しなければならない。そしてM・ヴィレール(M. Villèle)の制度と曖昧で不誠実な選挙へと逆戻りしなければならない。そしてさらに良いことには、秩序における国民の再階層化とさらに堅固な土台の上での封建制の復活とを待ち望みつつ、全ての代議制を抑圧しなければならない。

 次にあれほどひどく憤慨させられた革命が失敗しないと想像してみたまえ。あるいは革命が本当に失敗し潰されたと想像してみたまえ。そして二百人の共和国の代議員たちが、大多数の人々の強奪的行動は非合法であり、準備されたものであり、前もって示し合わせ、広められていたものであると言明することによって、そのような大衆行動に答えようとしないと想像してみたまえ。そしてこのような言明の後で、クーデターの発案者たちが、街頭や彼らの家庭や、復讐心をむき出しにする愛国者の集団の手が届くいかなるところでも潰されないと想像してみたまえ。そしてまたパリや各州で人々が集団で立ち上がらないと想像してみたまえ。そしてまた反動がその期待を寄せる軍隊が暴徒に加勢しないと想像してみたまえ。そしてまた二十万または三十万の軍人が、クーデターが烽火(のろし)の合図として役立つであろう三万七千の町の革命家たちを押さえ込むのに十分であると想像してみたまえ。また救済の不足のために生じる納税拒否、操業停止、交通妨害、破壊行為、大火災、それに赤い妖怪(The Red Spectre)*の発案者が予見したあらゆる怒りなどが、今度は反革命の発生を阻止できないと想像してみたまえ。そしてまた行政権の長が四百人の共謀者によって選出され、また、八十六人の行政官(prefect)、四百五十九人の副行政官、検察庁長官、議会議長、代議員、代理人、警察署長、警察委員(commissioners of police)、そして数千人の著名人などが共謀者によって選出され、任務に復帰するために大衆の面前に姿をあらあわすことで十分であると想像してみたまえ。

*共和制政府(the republican government)を打倒した一八五一年十二月のクーデターは、下層階級によって引き起こされた(posed)「赤い妖怪」に対する保守派のパニック的恐怖によってあおられた(fed)着実に高まりつつある反動と抑圧の一事例であった。出版と結社の自由に対する統制は一八四八年の「六月の日々」(June Days)の後に極端に強化され、戒厳令が四ヶ月間続いた。 (Political Repression in 19th Century Europe Routledge Library Editions ... written by Robert J. Goldstein  http://books.google.co.jp/)

035 いいですか、非常にありそうで起こりうる前述の推測のどの一つもが起こらないと想定した上で、もし諸君が諸君の仕事を維持したいと望むならば、次のようなことが必要になるだろう。

一、       戒厳令をあまねく、絶対的に、無期限に実施すると宣言すること。

二、       十万人を海外に追放するという布告をすること。

三、       軍隊の実動能力を二倍に高め、常に戦時体制に置くこと。

四、       守備隊と警察を増強し、全ての要塞を武装し、各地方に強固な城を建設し、軍隊を、部分的に自ら要員を補充でき、基金を供与され、爵位を授与された階級に高めることによって、反動的行動に対する軍隊の関心をひきつけること。

五、       誰も他分野へ近づけないように、工芸関連団体で働く人々を再編成すること、自由競争を抑制すること、通商、工業、農業、不動産、金融などの業界に、軍隊や教会の貴族階級と手を組む特権的通商階級を創出すること。

六、       科学、哲学、歴史の書物など、蔵書の十分の九を削除または焼却すること、この四百年間にわたる知的活動のあらゆる痕跡を抹消すること、研究の方向性や文明関連文献をイエズス会派だけにゆだねること。

七、       これらの施策のための歳出を捻出するために、また教会、神学校、修道院とともに新たな貴族をも支援するための、特別で奪うことのできない特権を設定するために、税金を二億ドル分増額し、また新たに国債を発行すること。

036 以上はもし反動が論理的でありかつ最後までその運命に従いたいと望むならば、今まで着手してきたことを実行し続けるために反動が採用しなければならない、組織化と抑圧のための政策と手段の概要である。これは現代の精神と革命の経験とを備えた新たな要素を助けにして、文明を十四世紀にまで逆行させ封建制を復活させる、社会の再構成をなす。躊躇したり途中で立ち止まったりするようなことは、三年間の努力の成果を不名誉にも失うことであり、また、確実で取り返しのつかない大失敗に陥ることになるだろう。

 反動主義者諸君よ、諸君は次のことを考えたことがあるだろうか。三年間の重圧を通して革命によって獲得された力量を計算に入れたことがあるだろうか。諸君は怪物が爪と歯を大きく伸ばしたこと、また、もし諸君が怪物の首根っこを締め付けなければ、怪物が諸君を貪り食らいつくだろうということをご存知だろうか。

 もし反動が社会の慎重さを当てにして一八五二年の選挙を待とうとするなら、反動の負けだ。この点についてほとんどの人々が、政府内の人であれ、一般の人であれ、また、共和主義者であれ、保守主義者であれ、意見が一致している。

 もし反動が大統領の権限を延期する(prorogue)だけに止めるなら、反動の負けだ。

 もし反動が同じ布告によって議会の権限を停止した後で、五月三十一日の法律が実施されるのを許すならば、反動の負けだ。

 もし反動が十万人の最も活動的な共和主義的社会主義者がこの国の中にとどまることを許すならば、反動の負けだ。

 もし反動が軍隊の現在の数の上での弱点を許容し、人員の補充の仕方を現状のままに維持することを許すならば、反動の負けだ。

 もし反動が軍隊の階層を復活させた後で、産業や通商を封建的原則に基づいて再構築することに失敗すれば、反動の負けだ。

 もし反動が大規模な不動産と長子相続権を再構築しなければ、反動の負けだ。

 もし反動が教育と公教育の制度を完全に改革しないならば、また、人々の頭の中からまさに過去の暴動の記憶を抹消しなければ、反動の負けだ。

037 もし反動がこのような大事業の経費を賄うために税金を二倍にし、それを集金することに成功しないならば、反動の負けだ。

 諸君は一件でも欠けたら諸君を奈落の淵に突き落とすであろうような、これらの不可欠な方策の最初のものでさえも実施することができるだろうか。諸君は人々に向かって次のような違憲的決定を敢えて宣言するのだろうか。つまりルイ・ボナパルトの権限が延長されたと。

 いやいや、諸君には何もできない。諸君は敢えて何もやれはしない。観念に抗して武力を用いたり、乱用したりした王党派、帝政主義者、銀行家(bancocrats)、マルサス主義者、イエズス会派の諸君よ。諸君は諸君の安全のために何の利益もないのに時間を浪費し、自らの評判を落とすことになった。

 議会を停会にしようがしまいが、あらゆるものを改めようが何も改めずにおこうが、シャンボール(Chambord)やジョワンビル(Joinville)を召還しようが、共和国の方へ向かおうが、そのようなことの全ては何の意味もない。諸君は国民公会 (National Convention)を一八五二年でなければ一八五六年に開くだろう。革命の観念は勝利を得ようとしている。諸君が革命の観念と戦うためには、諸君がこの三年間絶えず違反してきた共和主義的な法律に頼らざるを得ない。諸君の唯一の避難所はあの見せかけの共和国の中にしかない。つまり、正義と中庸が原則なしでも存在しうるかのように、正直で中庸であらざるを得なかったあの共和国、諸君が不名誉なむき出しの姿を、今、世の中に向かってさらけ出しているあの共和国の中にしかない。諸君はこの共和国が、時には非常に平和的な情念の装いのもとに、また、あるときには非常に大げさな演説という見せかけの下に、諸君に呼びかけ、諸君に向かって手を差し伸べているのが見えないのか。それではこの共和国の下へ行け。ジャコバン主義と宗教にどっぷり漬かっているものの、シェイエス(Sièyes)の名に呼びかけようが、ロベスピエールの名に訴えようが、反革命の定式に支配されている、この立憲的で議会主義的で政府統治的な共和国の下へ行け。諸君が暴力を使い果たした後には、ごまかしが諸君のために残されている。そしてこの点でも我々はすぐにも諸君らと立ち向かう準備ができている。

 しかしいいですか二月の共和主義者たちよ、目に見えるような意見の違いがなく、革命がいくつかの間違いを譴責するが、罪は譴責しないかもしれない、あの党派の人たちよ。

038 一八四八年、諸君が諸君自身にもわからない革命の問題を提起したのとほとんど同時に、諸君の野心的競争心によって、また、諸君の決まりきった政治によって、また、諸君の回顧的な空想によって、反動に眴(めくば)せしたのは諸君だった。

 諸君は反動が何を行ったかを知っている。

 六月の闘い以前では革命はほとんど自らの存在に気づいていなかった。革命はより不幸せでない状態を目指す労働者階級のほのかな願いでしかなかった。そのような不満は今まであらゆる時代に耳にされて来たことだった。そういう不満を嫌うことが間違いだったとすれば、そういう不満を恐れる必要はなかったはずだ。

 革命が蒙ってきた迫害のおかげで、今日の革命は自らを十分自覚している。革命は自らの目的を語ることができる。革命は今自らを定義し、自らを説明しようとする途上にある。革命はその原則、その手段、その目的を知っている。革命はその方法と基準を持っている。革命は自らを理解するために、様々な敵のいろいろな考え方の関連をたどるだけでよかった。今現在、革命は、革命の姿を曖昧にした間違った主義主張や、革命を妨げた様々な党派や伝統を捨て去ろうとしている。自由で輝かしい諸君は、革命が大衆の心をつかみ、大衆を抗いがたい自発的精神で将来に向かって駆り立てるのを目の当たりにしようとしている。

 革命は、我々が今たどり着いている地点では、思想面では完成しており、後は実行に移されさえすればよいだけだ。鉱山のガス抜きをするには時が遅すぎる。諸君の手の中に戻ってきた権力が万が一にも革命へと向かう政策を変更するならば、それと同時にその権力の原則を変えない限り、その権力は何の結果も得られないだろう。先ほど私が触れたように、革命はその歯を大きく伸ばした。反動は革命にとって、歯が生えかかっているときに時たま襲ってくる疼きのようなものに過ぎなかった。革命はちゃんとした食事を取らなければならない。ほんのわずかな断片的な自由や、革命が表明する利益に対するほんのちょっとの譲歩は、革命の空腹を募らせるのに役立つに過ぎないだろう。革命は存在することを求める。そして革命にとって存在することは支配することである。

 それでは諸君は進んでこの偉大な主義主張に奉仕し、革命に誠心誠意貢献したいか。

039 まだ時間があるからという理由で諸君は、再び政治運動の主導者や規制者になり、重大な危機から社会を救い、混乱もなく下層階級を解放し、諸君自らをヨーロッパの裁決者にし、文明と人類の運命を決定するかもしれない。

 私はそのようなことが諸君の熱烈な願いであることをよく知っている。しかし私は願望は語らない。私は行動、約束が欲しい。

 革命の約束であって、熱弁ではない。経済的再建の計画であって、政府統治的理論ではない。そういうことこそ下層階級が望み、諸君から期待することである。政府!ああ、これから我々はうんざりするほど政府とお付き合いするだろう。そしてそれはなくても済ませられればその方がいいのだが。政府ほど反革命的なものはないということを十分承知して欲しい。政府がどんな自由主義を装おうが、どんな名称を冠せられようが、革命は政府を拒絶する。政府の将来の命運は、産業組織に吸収されるべきである。

 それではジャコバン派よ、ジロンド派よ、山岳党諸君よ、テロリスト諸君よ、放縦主義者諸君(Indulgents)よ、諸君は皆等しく責められるに値する行動をしてきたし、したがって皆等しく許しを受ける必要があるのだが、一度でいいから簡単に語って欲しい。幸運が再び諸君の下にめぐってきたとき、どういう進路を諸君は取ろうとするのか。問題は諸君がかつての急場でやったであろうことではなく、状況がもはや同じではない今現在、諸君が何をしようとするのかということである。

 諸君は革命を支持するつもりか。イエスかノーか。

 

 

 

第二研究 十九世紀に革命が起こるための十分な理由があるのか

 

 

1 社会における傾向の法則―一七八九年の革命はやるべき仕事の半分しかまだやっていない

 

040 革命は、道徳的事実の道理に則った、また、物事の必然性から生じる、結局、自らの正当化を伴う、そして、政治家が革命に反対することが犯罪であるような、最高の正義の行動である。これが我々が第一研究で確立した命題である。

 さて問題は次のことを発見することである。つまり、革命の定式として際立って現れる観念が奇想天外なものではないかどうかということ、また、革命の目標が現実的であるかどうか、また、空想や人気のある誇張が真剣で正当な抗議と誤解されていないかどうかということである。したがって我々が吟味しなければならない第二の命題は次の通りである。

 今日革命が生じるための十分な理由が社会(society)の中にあるのか。

 というのはもしこの理由が存在しないのならば、また、もし我々が架空の主張のために闘っているのだとしたら、そしてまた世間で言われているように、人々が十分すぎるほど裕福であるから不平を言っているのだとすれば、行政官(magistrate)の職務は、こだまが、呼びかける人に応答するように、主義主張もなしに覚醒されるのを我々がよく見かけたことのある大衆の迷夢をただ覚まさせることであろうからだ。

 一言で言えば、物事の本質によって、また、様々な事実の結びつきによって、様々な組織の活動によって、生活の必要性が高まることによって、そしてまた、神の摂理の理法によって、革命が生じるためのチャンスが今現在提示されているのかどうかということだ。

 一見して次のように判断することは可能であるはずだ。つまり、もし長々とした哲学的論述が必要だとすれば、主義主張は存在するかもしれない、しかしその主張はまだただの可能性にとどまる胚のようなものでしかないだろうということだ。そのような主義主張に基づいて議論を評価することは、予言であって現実的な歴史ではないだろう。

041 このような疑問を解決するために、私は過去の革命で起こった事柄が私に提供してくれる、決定的であると同時に単純な法則を採用するつもりだ。つまり、革命の背後にある要因は、ある一定の瞬間に人々が感じる苦痛ではなく、むしろ善いことを中和して消滅させてしまう傾向がある、苦痛の長期化であるということだ。

 だから革命によって開始される裁判とその後に革命が実行に移す判決とは、単なる様々な事実によりもむしろ傾向(tendency)に関係している。それはいわば原則にはほとんど関心を払わないが、目標に向かってだけ進路を定めている社会のようなものだ。

 たいがい善と悪、快と苦は人間関係の諸事において解きがたく絡み合っているものだ。それにもかかわらず、また常に意味の揺れがあるにもかかわらず、善は悪を凌駕するように思われるし、全体的に見れば、我々が見る限り、明らかによい方向に向かっている。

 民衆のものの考え方はこのような考え方に基づいている。人々は楽観的でもなければ悲観的でもない。人々は絶対的なものを決して認めない。人々に人々が信じるとおりにさせておけ。

 常に人々は、改革のたびに、廃止されるべき悪習のたびに、闘われるべき邪悪のたびに、何かもっと善いことを求め、より悪くないものを求めようとすることだけに関心をしぼり、労働、研究、善行を通して自らを正当化しようとしている。したがって人々の行動の原理は、快と善行の方向に向かう傾向である。人々は貧困と腐敗に向かう傾向しか見当たらないときまで暴動に走らないのである。

 したがってすでに一六一四年に明らかにされた退歩的な感情が国王の政策の原則であったけれども、また、ラ・ブリュイエール(La Bruyere 1645-1696)、ラシーヌ(Racine 1639-1699)、フェヌロン(Fénelon 1651-1715)、ヴォーバン(Vauban 1633-1707)、ボワグィベール(Boisguilbert 1646-1714)*などの証言によれば、貧困はひどい状況であったけれども、十七世紀に革命は起こらなかったのである。そしてあきらめの理由は他にもあり、そのうちの一つは貧困が何かしら一時的な原因で生じる偶発的な結果ではないということが証明されていなかったということである。人々にはそんな遠くない昔にもっと惨めだったという記憶があったのだ。人々にとってルイ十四世治下の絶対王政が封建制よりも悪いとは決して思われなかったのである。*生没年はWikipediaより

042 ルイ十五世治下でも革命は起こらなかった、ただし知識人の世界を除いてのことだが。原則の腐敗は哲学者たちには明らかであったが、それは大衆には隠されたままであった。なぜならば大衆の論理は決して観念と事実を区別しないからだ。ルイ十五世治下の大衆の経験は、哲学的批判のレベルにはるかに及ばなかった。国民はお行儀がよく正直な王子ならば国民の蒙っている邪悪がいずれは終わりになるかもしれないと未だに考えていた。ルイ十六世も熱烈に歓迎された。しかし確固たる意志を持った改革者であるチュルゴーは全く同情されなかった。世論の支持がこの偉大の男に対して欠けていたのだ。一七七六年平和裏に改革を成し遂げようと望んだこの立派な男は大衆によって裏切られたのだという人もいたかもしれない。何の混乱もなく、私は革命家の支持もなくといいかけるところだったが、上からの行動によって革命を成し遂げるということは彼の権限を越えていたのである。

 困難が偶発的なものではなく構造的なものであること、また、無秩序が組織的なものであって偶発的なものではないこと、そして、事態が改善されるどころか日増しにますます悪い方へと向かい、お決まりの組織の運命に従っているということを極めて無思慮な人たちに証明するのに、個人的には非の打ち所のない王の治下での十五年の混沌の時期をさらに要したのである。一七九〇年に赤書*(Red Book)が出版されたことが、この真実を数字によって証明した。その時革命は人々の間に広まっており、避けられないものとなった。

*職員録。公務員や国家の年金を受けている人の名を掲載している。赤表紙の本。(研究社新英和大辞典)

The title given to any of various official books of economic or political significance.  Origin: red being the conventional colour of the binding of official books. 公的な経済・政治白書  (オックスフォード新英英辞典)

 我々がこの研究の題目のために用いた問題提起つまり十九世において革命が生じるための十分な理由があるのかは、今や次のような問題に変貌するのである。つまり、今日における社会の傾向とは何か、である。

したがって今私が躊躇せずに指摘する、この問いに対する解答を支持するためには、ほんの二、三ページあれば十分であろう。社会は八九年から九三年にかけての放心状態(distractions)のときや、帝政による家父長的時代、そして一八一四年、一八三〇年、一八四八年の保証の時代を通してこの半世紀の間に自由に発展することができたが、ところがそれとは反対に今や徹底的にそしてますます悪い方向に向かっている。

043 それでは一七八九年の、現在の社会のまさに当初における我々の物の考え方を例にとってみよう。

 一七八九年時点での革命の任務は、破壊と再建を同時に進めることであった。革命は古い規則を廃止しなければならなかったが、革命のルールに従えば計画や性格が以前の組織のそれとは全く正反対であるべき新たな組織を作り出すことによってしか古い規則を廃止できなかった。否定はそれに続くそれとは矛盾する肯定を意味している。

 この二つの作業のうち革命は、大変な苦労を伴ってだが、前者の作業しか完成できなかった。後者は全く忘れ去られたのである。したがって今日の生活のようなありえない状況が生じたのであり、この状態が六十年間フランス社会を抑圧してきたのである。

 八月四日*の夜に封建制の秩序が廃止され、自由と市民の平等の原則が宣言され、その結果将来の社会は政治や戦争のためにではなく、労働のために組織されなければならないことになったのだ。実際、封建的組織とはどのようなものだったのか。それは全く軍事的な組織であった。労働とは何か。戦争の否定である。とすると封建制を廃止することとは、外国との永遠の平和にばかりでなく、国内における永遠の平和にも我々自らが献身することを意味したのだ。このたった一つの行為によって、国家間の古い政治システムの全てが、つまりヨーロッパの力の平衡を維持する全てのシステムが、廃止されたのだ。革命が諸個人にもたらすことを約束したのと同じ平等と独立が、国家間、各州間、各都市間でも存在しなければならない。

*一七八九年八月四日国民議会は教会への十分の一税や領主裁判権を無償で廃止する「封建的特権の廃止」を宣言し、農民反乱はおさまった。しかしルイ十六世はこうした一連の宣言を認めなかった。

(世界史百話(近代編)五八.フランス革命~一七八九年七月一四日 posted on 2010111912:00 by historiai 

http://blog.livedoor.jp/historiai/archives/985106.html)

国民議会は八月四日に「封建的特権の廃止」を決議した。これによって農民の人格的自由が認められ、農奴制・領主裁判権・賦役・十分の一税などが無償で廃止された。しかし生産物や貨幣で領主に納める貢納の廃止は有償とされ、二十年ないし二十五年分の地代に相当する金を領主に支払わねばならなかったので、実際に貢納から解放された農民は少なかった。(世界史ノート(近代編) 第十二章 市民社会の成長 二 フランス革命とナポレオン 3 革命の勃発(その2) http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/kindai/54-france3.html)

 政府を復活させる際に旧来の画期的な施策だけが復活されるのだろうから、八月四日の後に組織されるべきものは政府ではなく、国民経済と利害の均衡であった。革命の問題が、廃止された封建的秩序に取って代わっていたるところに平等と産業の支配を確立することにあったのは、次のような理由で明らかなことであった。つまり、新しい原則に則って、出自が市民の生活状態を決定する際にもはや重要ではなく、労働が全てであり、財産そのものでさえ従属的な位置にあったのだから、そしてまた、外交問題においても、民法、公法*、国際法などは原則においては一つのものであり、それで十分である故、国家間の関係が同様の原則に基づいて改善されなければならなかったのだからである。国有財産の分割後明らかになった農業における発展や、帝政没落後に国民が体験した産業界の推進力や、一八三〇年以来全ての地方(countries)での経済問題への関心の高まりなど、これら全ての要因が、革命の努力が払われるべき領域が実に経済の分野であるということを証明するのに役立った。

*公法とは国家と国民間の法律、統治の形態と作用を規律する。(研究社新英和大辞典)

044 一七八九年八月四日の行動から得られるこのきわめて明確で全く不可避の結論は、一八一四年になるまで、自らがこの行動の解説者を自認する人たちによっても理解されなかった。

 彼らの考えの全ては政治に関するものばかりだった。一方では反革命勢力が援助したために、他方では革命党が当面自らを防衛し、戦争*のために自らを組織しなければならなかったことなどから、国民は再び軍人と法律家の手に落ちた。英国かぶれの立憲主義者(constitutionaries)たち、古典的な共和主義者たち、軍人のような民主主義者たちなどの全てが、古代ローマ人やスパルタ人に夢中になり、そしてとりわけ自分自身に陶酔しきっていたのだが、こういう人たちによるもう一つの統治集団にただ道を譲るためにだけ、貴族、僧侶、王室などが立ち去っただけだと言えるかもしれない。一方この新たな統治集団は、地方が本当に必要とするものにはほとんど配慮しなかったのである。そしてその地方は現に行われていることを全く理解できずに、彼らの都合のいいように半ば破壊されるがままに身を任せ、ついに軍人の運命に寄り添ったのである。

*一七九二年四月、オーストリア・プロシャ同盟、対フランス宣言。一七九三年から九七年にかけて第一次欧州同盟(対仏大同盟、イギリスを含む)(世界史年表、吉川弘文館)

 私の考えはあまり啓発的ではないように思われるかもしれないが、一言で述べれば、革命家たちはルイ・フィリップの退位以来失敗続きであるように、また、その失敗と同じ理由で、バスチーユの陥落後も彼らの任務で失敗していたのだ。つまり彼らは全く経済的観点に欠如していたし、政府を買いかぶるという偏見を持っていたし、彼らが庇護している下層階級を信用していなかったのである。九三年に侵略に対抗する必要上、権力を大幅に集中する必要に迫られたために、この間違いは極限に達した。中央集権化の原則は公安委員会(Committee of Public Safety)によって広く適用され、それはジャコバン派においては教義にまで昇華した。そしてジャコバン派はその教義を帝政やその後の政府に引き渡した。これは一八四八年に臨時政府(Provisory Government)の逆行的政策を決定づけ、今日でも共和主義者党の政策の中身を規定する理論の全体を構成している。

045 こうして経済組織は封建制を完全に廃止した必然的結果として必要とされたのだが、当初から全く指導者のない状態におかれ、一方政治は人々の頭の中で産業にとって代わり、ケネー(Quesnay)やアダム・スミスがルソーやモンテスキューに道を譲ったために、次のようなことが必然的に生じたのである。つまり、新しい社会はほとんど受胎もせず胎芽の状態にとどまり、また、この新しい社会は経済法則に則って発展するかわりに立憲主義(constitutionalism)の中でしぼんでしまい、そしてまた、その社会の生命は永遠の矛盾となり、また、その社会に特徴的な秩序ある状態の代わりに、いたるところで組織的な腐敗と法的な不効率をさらけ出すことになり、そして最後には、この社会の表現である権力は、その原則の矛盾を極めて几帳面なほど忠実に再生産しつつ、人々とは持続的に争う立場に陥り、一方人々の側でも持続的に権力を攻撃する必要が生じるようになったのである。

 要約すれば、八九年の革命が作り出すべきであった社会はまだ存在していないのである。我々がそれ以来六十年間経験してきたものとは、単なる表面的で見せかけの秩序にすぎず、きわめて恐ろしい混沌と堕落をほとんど隠すこともないのである。

 我々には社会の混乱や革命の原因を相当長い間前もって探求するという習慣がない。とりわけ経済的問題は我々にとって非常にいやなものである。人々は九三年の大紛争後に真の関心からひどく逸(そ)れてしまい、知識人は立法議会、公衆の集会、出版などの議論によってうろたえために、政治から経済へ移行するとしても、今度は読者からすぐにもそっぽを向かれ、打ち明け相手としてただ紙しかないという事態にほとんど確実になりそうである。しかしそれにもかかわらず我々は次のことを理解しなければならない。つまり、興味が尽きないと同時に不毛である議会制度(parliamentarism)の領域の外には、我々の運命が何とかして作り出されるもう一つの比較にならないほど広大な領域があるということ、また、外観が我々の想像力を飲み込んでしまうこの政治的幻想の向こうには、調和か不調和かによって我々の社会の善悪の全てを生み出す社会経済の現象があるということである。読者諸君、私が入っていかざるをえない幅広い考察の過程を、十五分間だけ私の後についてきてくれませんか。それが終わったら再び政治に戻って来ることを約束しますから。

 

 

2 経済的諸力の混沌、社会の貧困化傾向

 

 046 私はある種の行動原則を経済的諸力と呼ぶ。それはたとえば労働の分割、競争、集団力、交換、信用、資産などであり、これらは階級の区別、代議制、王室継承、行政の中央集権化、裁判の階層化などが国家に対するものであるのと同様に、労働や富に対するものである。

 これらの諸力が平衡状態に維持され、これらに固有な、個人の恣意的な意志にいかなる点でも左右されない法則に従うならば、労働は組織化され、すべての人々の福祉は保証されるだろう。それに対して、これらの諸力が、方向性もなく、平衡もなく放置されるならば、労働は混沌状態に陥り、経済的諸力の有用な効果は同じ量の有害な効果と混ざり合い、利益は赤字で相殺され、社会は、行為主体の場である限り、すなわち、生産、流通、消費の主体である限り、ますます困難な状況に陥るであろう。

 今日まで社会秩序は政治と産業という二つの形態の一つがなければ考えられないようだ。そしてさらに、これらの二つの形態の間には根本的な矛盾があるのだ。

 産業的諸力の混沌、産業的諸力と政府組織との闘い、つまり、産業的諸力の組織化に立ちはだかる唯一の障害である闘い、産業的諸力が和解することもできず、解けこむこともできないような闘いこそ、フランス社会を混乱させ、また、ルイ・フィリップの治世の後半に悪化した社会不安の根本的な原因である。

 047 七年前私はこのような混乱や、この混乱から生じたひどい葛藤について二冊からなる八つ折版の書物を著した。この書物はまだ経済学者から何の返答もされていないし、社会民主主義者からも同様に好意的に受け入れられなかった。私は私の経験から、経済学の研究者たちはなんてわずかしか人々の好意を得られないか、また、われわれの時代はなんて革命的でないかということを示すために、このことを言いたい。

 私はここでは、今まですべての人々の目から隠され、また、政府の演じるドラマにけりをつけることができる唯一のものである、この諸力と現象との秩序を、読者に瞥見してもらうために、最も一般的な事実のいくつかを簡略に想起するにとどめたい。

 誰でも労働の分割という言葉を聴いたことがある。

 それは、製品が一人の労働者によって完成された製品ではなく、大勢の労働者による共同作業の結果としての製品となるように、それぞれの労働者がいつも同じ一つの、あるいはいくつかの操作を行う方法で、ある一定の産業の手労働を配分することで成り立つものである。

 この法則を初めて科学的に論証したアダム・スミスや他のすべての経済学者によれば、労働の分割は現代産業のもっとも強力な牽引力である。主にこの法則にこそ、文明民族が野蛮民族より優れていることの原因が帰せられるべきである。労働の分割がなければ、機械の使用は、最も古くまた最も一般的な道具をも乗り越えることができなかっただろうし、機械と蒸気力の奇跡がわれわれの眼前に明らかにされることもなかっただろうし、進歩が社会にもたらされることもなかっただろうし、フランス革命それ自体もはけ口を失い、単なる不毛な反乱でしかなかっただろうし、また、何も成し遂げることができなかっただろう。しかし、それに反して、労働の分割によって労働による生産高は十倍にも百倍にもなり、経済学は哲学の高みにかけ上り、国民の知的レベルは継続的に高められる。立法者の注意を引くはずの最初のこととは、封建的で好戦的な秩序に対する憎しみに基づくが結局は労働と平和に自らを組織化すべき運命にある社会における、労働の分割という産業機能の分割であるはずだ。

 048 しかし労働の分割は、そのようには行われなかった。この経済力は、偶然と利害によってもたらされるあらゆる混乱に身を任せることになった。労働の分割は、常にますます細分化され、平衡を欠いたままであり、労働者はますます機械によって品位を汚され、機械に従属されるようになった。このようなことは、比較もできないほど産業の生産力を高めるためばかりでなく、それと同時に、この労働の分割によって資本家や投機家にもたらされるすべての富を労働者の心身から奪うためにも、労働の分割が今日行われているように適用された場合の結果なのである。次に、労働に同情的であるとは思われない観察者であるM・ド・トクビル(M. de Tocqueville, 1805-59)が、この由々しい問題を要約している。

 「労働の分割の原則が完璧に適用されるに伴って、労働者はますます弱くなり、能力が低下し、依存するようになる。」

J・B・セー(J. B. Say, 1767-1832)もすでに次のように言っていた。

 「一生の間にたった一つだけの操作しかしたことのない人は、確かに他の人に比べてその操作をより速く、またより上手にできるようにはなるだろうが、それと同時に彼の、肉体的・精神的な、他のあらゆる操作をする能力は低下する。彼のほかの能力は消失し、個人としては退化する。彼が釘の二十六番目の部分以外は作ったことが一度もないということは、彼にとってとても悲惨なことである。・・・結局、労働の分割は、人間の力を使用する巧みな方法であり、社会の生産物を桁外れに増加すると言えるかもしれないが、それぞれの人を個人としてみた場合、その人の能力から何かしら重要なものを差し引きしてしまうと言えるかもしれない。」

 049 経済学が大きな声で明らかにしなければならない最も重要なこの事実に関して、すべての経済学者の意見が一致している。そして、もし彼らが、彼らの論争でいつも発揮しているあの熱意を持ってこのことを主張しないとすれば、それは、彼らが、経済的諸力のうちでもっとも強力なもののこの変則的状況を避けることができると信じることができないからであると、まことに人間精神にとって恥ずかしいことであるが、言わなければならない。

 したがって労働の分割と機械力が拡大すればするほど、労働者の知性と技術力は縮小する。しかし、労働者の価値が低下し、労働に対する需要が縮小すればするほど、労賃は低下し、貧困化がますます進む。そして、このような経済的不安の犠牲になる者は、二、三百人ではなく、何百万人にもなるのだ。

 英国では、労働の分割と機械力のために、労働者数が、三分の一、二分の一、四分の三、六分の五だけ減少し、また、労賃も同様の割合で減少し、一日につき六十セントから十セントに、そしてさらに六セントに減少するのが認められた。どこでも、まず初めは婦人が、次には子供が、工場制手工業で男性に取って代わった。貧窮した国家では消費が生産に追いつくことができず、生産を一時停止しなければならない。そしてその結果、定期的な失業期間が生じる。パリの労働者の失業期間の統計が、経済学者のピエール・ビンカード(Pierre Vincard, 1820-1882)によって最近出版されたところだ。その詳細は非常に心を痛めるものである。労賃は失業期間に比例して少なくなるから、その結果は、日給二十セントを稼ぐ婦人労働者は、日給十セントで暮らさなければならないということになる。なぜならば、彼女らは六ヶ月間失業するからである。このようなことが、パリの三十二万人の人々が屈従しなければならない規則なのだ。そして共和国中のどこの婦人労働者階級の状況も、この例から推して判断できるだろう。

 博愛主義的保守主義者や古代の慣習を賞賛する人たちは、このような異常事態を伴う産業システムを咎めている。彼らは封建的農業時代に逆戻りしたいと考えている。私は咎められるべきは産業ではなく、経済的な混沌であるといいたい。私は今まで原則がゆがめられてきており、また、諸力の組織化が間違っていること、そして、このことにこそ、社会が押し流されている致命的な傾向の原因を帰すべきであると主張し続けている。

 050 もう一つの例。

 競争は労働の分割に次ぐ産業における最も強力な要素の一つであると同時に、最も貴重な保証でもある。ある程度はこれを目的として最初の革命はもたらされた。労働組合は、パリで数年前に創設されたが、最近、労働者の間で出来高払い労働を新たに設定することによって、また、彼らのその経験に基づいて労賃の平等という馬鹿げた考えを捨て去ることによって、競争に新たな認可を与えたところである。さらに競争は、市場の法則、交易の香辛料、労働の味付けでもある。競争を抑制することは自由そのものを抑制することであり、また、それは、労働を、八九年の革命が我々から取り除いたはずのえこひいきや悪弊などの慣例で置き換えることによって、下から古い秩序を復活させ始めることである。

 しかし競争は、法的形式と優れた規制的知性を欠くことによって、今度は、労働の分割と同様に、最近ゆがめられてきた。労働の分割と同様に競争でも、原則の歪曲、混沌、邪悪に向かう傾向がある。このことは、我々が、フランス国民を構成する三千六百万人のうちで少なくとも一千万の人たちが、競争を禁じられ、わずかな賃金のために仲間同士で争うことしかできないような賃金労働者であることを思い起こせば明らかに浮かび上がってくることがらである。

 従って、八九年に考えられていたように、普遍的権利でなければならないこの競争は、今日では例外的な特権となっている。つまり、資力が豊かで企業経営できる社長になれる人しか、競争の権利を行使することができないかもしれないのである。

 その結果、競争は、ロッシ(Rossi)やブランキ(Blanqui, 1805-1881)や他の多くの人たちも認めているように、産業を民主化し、労働者を助け、通商の正義を保証するどころか、昔の高貴な貴族よりも千倍も貪欲な、商業と土地の貴族を生み出すことになった。競争によって、生産に伴うすべての儲けは資本に転化し、消費者は通商のごまかしを疑いもせず、投機家にだまし取られ、労働者の状態はますます危うくなる。このことについてウージン・ブュレ(Eugene Buret, 1810-1842)は、「私は労働者階級が、身も心も、産業のひどい意図によって奪われると断言する」と言っている。また他のところで彼は、「最も些細な投機であっても、パンの値段を一ポンドにつき一セントに変えられるかもしれない。しかし、それは、三、六〇〇万人の人たちにとっては、一二四、一〇〇、〇〇〇ドルを意味する」と言っている。

 051 警察庁長官が一般の要求に屈して、肉の販売を競売で行うことを公認したことによって、自由競争が人々のためにどんなにわずかなことしかできないかということ、また、今現在のわれわれに対する保証として、それがどんなに幻想であるかということが、最近わかった。まさに、政府の力に助けられた、人々が出し切れるあらゆる力が、肉屋の独占を乗り越えることができるだろう。

 経済学者は、人間性を責め、競争を責めるなと言う。よろしい、私は競争を責めない。私は、人間性の現われとしてのある邪悪な性質が、他の邪悪な性質を修復することはないと言い、また、どのようにして人間性がその道を踏み間違えたのかと問うだけだ。何だって?競争はわれわれをますます平等にかつ自由にするはずだと、だが実際はそうではなく、競争は我々のうちの一人を他の一人に従属させ、労働者をますます奴隷化させる!これは原則のゆがみであり、法の忘却である。これらのことは単なる事故ではない。それらは不幸の全体系である。

 危険で不健康な仕事をしている人々に対して哀れみの念が表明される。文明が、彼らの運命に対する哀れみの情から、彼らの仕事がなくてもやっていけるようにすべきであると、人々は望む。ある種の職業に固有なこのような悲惨な出来事でも、経済的な混沌の災難に比べれば取るに足りないものである。

 もうひとつ例を挙げよう。

 あらゆる経済的諸力の中で、革命によって産業のために再構成された社会でもっとも強力なものは信用(credit)(掛売り)である。私有財産、工業、交易を扱う業界は、次のことをよく知っている。八九年以来、この業界の努力のすべては、憲法制定議会(lAssemblée constituante, 1789の立憲議会)、立法議会(lAssemblée législative, 17911792)、国民公会(la Convention nationale, 179295の革命議会)、総裁政府(le Directoire, 179599)、第一帝政(lEmpire, 18041814)、王政復古(la Restauration, 181430)、七月王政(la Monarchie de Juillet, 183048)など、すべての政体を通じて、根本的には平和と信用という二つの方向へ向かう傾向があった。この業界は、手に負えないルイ一六世を説得するために何をしなかったのだろうか。ルイ・フィリップの治世に、この業界は何を許さなかったのだろうか。

 052 百姓はまた次のことを知っている。彼が実業家同様に、政治全体の中で税金と利子という二つのことしか理解していないということだ。進歩に最もよく適応した労働者階級に関して言えば、その苦しみの真の原因に関して労働者階級があまりにも無知な状態に置かれてきたために、労働者階級が信用という言葉を口ごもり、また、この原則の中にもっとも強力な革命的な力を認め始めたのは、ようやく二月以後になってからのことだった。信用に関して労働者は、パン屋と質屋のつけというたった二つのことしか知らない。

 労働に対して献身的な国家において、信用は、血液が動物に対するように、栄養の手段つまり、命そのものである。社会に対する危険を伴わずに信用が中断されることはありえない。封建的特権を廃止し諸階級を平準化した後に、すべての人々の面前で立法者たちに訴えるたった一つの制度があるとするならば、それは、確かに、信用である。しかし、もったいぶった権利の宣言のどの一つも、また長々と書かれた我々の憲法のどの一つも、これらのうちのどの一つもが、信用について触れることはなかったのだ。信用は、労働の分割や、機械や競争の利用と同様に、好きなようにほうっておかれてきたのである。行政、立法、司法などの力よりもはるかに強力な経済力でさえも、我々のさまざまな憲章の中で取り上げられる名誉に浴さなかった。信用は、一八〇三年四月二三日の第一帝政の布告によって、納税農民(revenue farmers)の集団に譲り渡され、その後今日まで隠れた力のままの状態に置かれてきた。そして利率を五パーセントと定めた一八〇七年の法律を除いて、信用に関する法律をほとんど何一つとして見つけることができない。革命の前と同様にその後も、信用は、精一杯うまくやった。というよりはむしろ、大金持ちを満足するようにうまくやったのだ。政府は地方を犠牲にする一方で、労を惜しむことがなかった、と言ったほうが公平であろう。政府は、他者をもてなすのと同じように、自らをももてなしたのだ。つまり、我々はこの点について政府に反対する材料は何もないのだ。

 053 このような信じがたい無視の結末はどうなったのだろうか。

 まず第一に、買占めと高利貸制度が貨幣に対して選り好んで行われ、また同時に貨幣は、商取引の道具であり、また、商品の中でも最も希少なものであり、したがって、最も安全で最も儲けになるので、お金を商売にすることが、少数の独占業者――その要塞は銀行であるが――の手に集中することになった。

 その結果、国家と地方は、資本家連中の家臣になってしまった。

 この銀行政体(bankocracy)によってすべての工業や農業に課された税金のために、資産はすでに二十兆ドル抵当化され、国家は十兆ドル以上抵当化されている。

 経費(cost)、更新費用、委託手数料、ローン割引(discounts on loans)などを含めたこのような二重の負債に対して国家によって支払われる利子は、少なくとも二億四千万ドルになる。

 この二億四千万ドルという厖大な金額はまだ、生産者が金融搾取者たちに支払わなければならない金額のすべてではない。さらに、割引料(discounts)、前金(advances)、支払い延滞料、配当金、私的捺印による債務(obligations under private seal)、訴訟費用などに対して、一億四千万ドルから一億六千万ドルを追加しなければならない。

 財産は銀行に騙し取られるのだが、企業との関係でも同様の経路をたどらなければならなかった。つまり今度は企業が、労働に対して高利貸になるのである。こうして、農地代や家賃はひどく高率になった。そのため、耕作者は農地から追い出され、労働者は家から追い出される。

 そんな具合だから今日、どんなものを作る労働者でも、自分で作ったものを買うことができないし、家具を持つこともできないし、また、次のようなことも言えないのだ。つまり、この家、この庭、このぶどうの木、この畑は私の物だということを。

 それどころか、今日の信用システムでは、そして、産業力の分解がますます高じてきたために、貧者はますますその労働の厳しさが増し、常に貧乏であり、お金もちは、働きもせず、常にますます豊かになることが、経済的必然となっている。そのことは次に述べることによって容易に確信できる。

054 有能な経済学者M・シュベ(Chevé)の見積もりを信じてもよいとするならば、毎年生産される二十億の価値のうち、十二億は寄生者ども、つまり、金融、貪欲な物欲、それに予算やその付随的な経費によって持っていかれてしまう。残り、おそらく八億は、生産者のために残される。また別の有能な経済学者M・シュバリエ(Chevalier)は、三千六百万人の住民によって生産されるこの国の見積もり生産高を割算し、一日一人当たりの収入が、平均十三セントであったこと、そしてこの数字から利息、賃料、税金、それにこれらに伴う諸経費などを支払うための十分な金額が捻出できるはずだということを発見した。M・ド・モログ(M. De Morogues)もまた学識豊かな経済学者であるが、民衆のほとんどにとって、毎日の生活費が五セント以下であったと結論付けている。しかし、税金と同様に家賃も持続的に増加し、一方、経済的な無秩序のために、労働や労賃は減少するから、労働者階級の物質的な充足度は、減少傾向にある。その傾向は次のような一連の数字で示されるかもしれない。つまり、六十五、六十、五十五、五十、四十五、四十、三十五、三十、二十五、二十、十五、十、五、〇、―五、―十、―十五等である。このような貧困化法則は、マルサスの法則(Malthusian law)から当然導き出される結論である。この根本的事実を統計学のあらゆる書物で見出すことができる。

 ユートピア主義者たちの中には、競争を非難する人もいるし、労働の分割、産業秩序全体を拒否する人たちもいる。労働者たちはひどく無知であるから、機械類をとがめる。今日まで信用の有用性や合法性を否定することなどを思いついた人は一人もいなかった。しかしそれでも、信用制度が広まったことが民衆の貧困化の最も重要な要因であったことは抗いがたい事実である。仮にこれがなければ、労働の分割、機械類の採用、競争などのもたらす嘆かわしい結果は、ほとんど感じられないか、また、ありえないだろう。社会の貧困化傾向は、人々の堕落が原因ではなく、社会の基本的な原則の無秩序によるものであるということが明らかではないだろうか。

055 このようなことが論理の悪用であるとか、資本や土地、家屋などは、ただで貸すことはできないとか、また、どんなサービスにも相応の対価が支払われなければならないとか、言えるかもしれない。おそらくそういうこともありうるだろう。何らかの財を貸すことは、財を創造する事と同様に、保障してもらうに値するサービスであることを私も認める。他者の便益にかかわる問題であるならば、私は正義を思いとどまるよりも、正義を通り越すであろう。しかし、それは、事実を変えることにはならない。私は、信用貸しがあまりにも高すぎると言いたい。今日、警察庁長官が我々に市場の露店経営者よりも三セントから五セントだけ安く提供する肉について言えるように、また、もし鉄道会社が地方に、その莫大な資産を使用することを許可することができ、また、そうするつもりならば、現在の率よりも八十パーセント安くなるであろう運賃について言えるように、お金についても、信用貸しが高すぎると言いたい。私は、貸し手に不当な被害を与えないで、信用貸しの価格を七十五パーセントから九十パーセント下げることができるし、そうすることはたやすいことだし、また、このことが行われるかどうかは、国民や国家次第であると言いたい。法的に不可能であると言い張ることは、議論の余地がないとしよう。貴族や修道院の領主的権利を廃止することが可能だったように、資本家の領主的権利についても、そのような権利を廃止することほど簡単なことはない。そして繰り返しになるが、財産の保全という見地からしても、そのような権利を廃止すべきである。

 封建制という樹木に対してあれほど熱烈に斧を振りかざした、八九年、九二年、九三年、九四年の革命家たちが、もし発展途上の政府権限拡大主義に影響されてあのような封建制の芽が出てくるのを予見していたとするならば、この封建制の樹木の最後の細い根まで根こそぎにしなかっただろうなどということが信じられるだろうか。

 もし彼ら革命家たちが本能的に追求したけれどもその当時の知的レベルや気持ちをそらされたことなどのために想像することもできなかったような政治組織の実情を洞察していたとするならば、名前や形を変えた封建領主的法廷や議会を再構築することもせず、また、憲法の名において絶対主義体制を洗礼した後に再構築することもせず、また、統一と中央集権化を口実にして旧態依然として各州を隷従させることもせず、また、彼ら革命家たちに切っても切れない繋がりのあるものとしてのまやかしの公的秩序――それは単なる混乱、腐敗、野獣的な力に過ぎないのだが――を彼らに授けることによって全ての自由を犠牲にすることもなく、彼ら革命家たちが新しい秩序を歓迎しないで革命を完成しなかっただろうなどと信じられるだろうか。

056 今日の社会はその原則を捨て去ることによって持続的に生産者を貧窮化させ労働を資本に従属させる――そのこと自体矛盾であるが――傾向があるばかりでなく、労働者階級を昔の自由人階級よりも劣った農奴階級に転落させる傾向もあり、そしてまた、労働者階級の奴隷化とその貧困の必然性とを政治的・社会的定説化する傾向がある。

 何百万もの事実から抜き出されたほんのわずかな事実だけでも、このような致命的な傾向を例証するだろう。

シュバリエによれば、一八〇六年から一八一一年までのパリのワインの年間消費量は、一人当たり一七〇クオートであった。(一クオート=0.94L)それが今ではわずか九五クオートである。小売商の店頭で付随的な経費も含めて一クオートについて少なくとも六セントから七セントにもなる税金をやめてしまえば、消費量は九五から二〇〇へと増加するだろう。さらに自分の産物をどうしたらよいのか分からないブドウ栽培農家も、ブドウを売ることができるようになるだろう。

しかしこうするためには、予算額を削減するかお金持ちに税金を賦課するかする必要があるだろう。しかし、そのいずれもが実行可能ではないだろうし、さらに、ワインの消費が労働者階級にふさわしいつつましさとつりあいの取れたものではないという観点から労働者階級がワインを飲みすぎるのは望ましくないから、税金は下げられもせず上げられもしないだろう。

 保守的な発言のおかげで、誇張しているという批判をまず受けることのない著述家であるロードゥ(Raudot)によれば、フランスは、年間、外国の市場で高い関税を払って食肉処理場のための九百万頭の羊や牛を買わざるを得ないとのことである。このような輸入をしているにもかかわらず、販売に供される肉の量は、年平均一人当たり四〇ポンド、一日平均二オンス弱を超えていないのである。しかし、総人口がせいぜい三百万人の八五の市、町、州都は、この四分の一を摂取していることを想起するならば、フランス人の大多数は全く肉を食べないという結論に達する。そしてこのことは実際本当なのである。

057 ワインや肉は今日真っ先に必要とされるもののリストから除外されているということ、また、アイルランド同様フランスでも、非常に多くの人々がジャガイモ、栗、蕎麦(そば)、オートミールしか食べていないということは、このような政策のせいなのだ。

 このような事態のもたらす結果は、理論上予測されることでもある。ヨーロッパ中のあらゆるところで、労働者階級の体格は弱体化した。フランスでは、修正評議会(the Council of Revision)が、ここ五〇年以内のうちに平均身長が半インチ減少したことを立証した。そしてこの減少は主に大衆、つまり、労働者階級の苦境と関わりがある。八九年以前は、陸軍で要求される最低身長が五フィート一インチであったが、その後、生活の極端な破壊とともに身長の減少と健康状態の悪化のために、この水準が四フィート一〇インチに切り下げられた。身長と健康状態の欠損による軍隊任務からの除外に関して言えば、その除外率は、一八三〇年から一八三九年までは四五.五%であったのに対して、一八三九年から一八四八年にかけては五〇.五%になった。

 確かに平均寿命は延びたが、それは上記と同様に労働者階級の犠牲の上にある。このことはとりわけパリの死亡率表によって明らかにされることだ。それによれば、一二番区の死亡率は二六人中一人であるのに対して、一番区ではわずか五二人中一人に過ぎないのである。

 既存の社会において、少なくとも労働者階級においては、病気になる傾向があるということを疑うことができるだろうか。サン・シモン(Saint Simon)が言っているように、社会は、肉体的にも、道徳的にも、知的にも、人間の成長のためにあるのではなく、貧困化、堕落、無知などのためにあるように思われないだろうか。

 理工科大学(Polytechnic School)に入学を許可される年平均の学生数は、確か、一七六人であると私は思う。シュバリエ(Chevalier)が、この二〇倍の学生の入学を許可することができると言うことは、誇張ではないだろう。しかし毎学年末に、この学校が輩出するであろう三五二〇人の卒業生を我が資本主義社会はどのように処遇するのだろうか。私はこの社会がどうするのかと問いたい。

058 学校経営陣が、入学を許可しようとすれば許可できる三五二〇人ではなく、わずか一七六人の学徒しか受け入れるべきでないと命じたとすれば、それは、未だに封建産業的制度の下では、政府がこれらの若者の一七六人以上に対しては、十分に学費を支給することができなかったからなのだろう。

 科学は、科学自身のために発展されるべきものではない。人は機械工や労働者になるために、化学、積分学、解析幾何学、力学などを学ぶのではない。能力が過剰であることは、地方や国家にとって役に立つどころか、かえって、不都合なことである。危険な階級間の転覆を避けるために、教育は財産に応じて施される必要がある。つまり、一番人数が多く、最低の階級に対しては、わずかあるいは全く教育を施さず、中産階級に対しては、ほどほどにし、その能力のおかげで、出自である貴族を代表するように運命づけられた少数の裕福な人たちに対してだけは、より多く施される必要がある。このことは、カトリックの原則や封建的伝統に忠実なカトリックの牧師が常に理解していることである。つまり、大学や学校を、彼らの手の内に納めておく法規こそ、唯一の正義の行為であった。

 従って、教育は、いまだに封建的な社会においては、普遍的であるはずがないし、とりわけ無料であるはずもない、そんなことは無意味である。大衆の隷従を維持し続けるためには、能力を開花させることを抑制し、大学での多すぎかつ管理しきれないほどの在籍を縮小し、むかつくような苦しい労働に運命づけられた何百万人のもの労働者を制度的に無知な状態におき、教育を用いないで、つまり、教育を底辺階級の野獣化と搾取のための道具に転化することによって教育を利用することは、必要なことである。

 そして、善同様に悪も処罰されなければならないかのように、経済的混沌によってすでに予見され、準備され、組織化された赤貧も、処罰されてきた。それは犯罪統計の中に示されている。次に示す数字は、逮捕件数と、検事の要請で起訴された訴訟件数の過去二十五年間分の推移である。

 

年           逮捕件数        訴訟件数

一八二七     四七、四四三   三四、九〇八

一八四六   一〇一、四四三   八〇、八九一

一八四七   一二四、一五九   九五、九一四

 

059 地方の裁判所においても同様に、その推移は増加傾向にあった。

 

年        逮捕件数         訴訟件数

一八二九   一五九、七四〇   一〇八、三九〇

一八四五   一九七、九一三    一五二、九二三

一八四七   二三九、二九一    一八四、九二二

 

 労働者が、労働の分割、機械にべったり貼り付けられること、教育らしい教育が受けられないことなどによって、野獣化されてきたとき、また、労働者が、低賃金によって元気を失い、失業によって道徳性を失い、独占によって飢餓に陥ってきたとき、また、労働者にパンやパン生地もなく、現金も信用貸しもなく、燃料も暖炉もなかったとき、そういうことならば、労働者は、嘘もつき、盗みもし、強盗も働き、殺人も行う。労働者は、略奪者たちの手を経た後、司法の商人たちの手にかかるのである。そんなことは明らかなことではないか。

 さて次は政治に戻る。

 

 

3 政府の異常事態、暴政と腐敗への傾向

 

059 真実が理解に影響を及ぼすというのは、明らかに間違っている。フランス革命は自由と産業上の平等をもたらすどころか、権威と政治的隷従という遺産を我々にもたらした。国家は日に日にその力を増し、果てしもなく大権と特権を付与され、我々の福祉のために、我々が全く異なった源から期待していたかもしれないようなことを実行することに取りかかったのだ。どのようにして国家はその任務をかなぐり捨てたのだろうか。政府はその特別な組織形態にもかかわらず、過去五十年間にどのような役割を果たしてきたのだろうか。国家の今までの傾向はどういうものだったのだろうか。今問題とすることはそういうことだ。

 一八四八年まで、政治家たちは、閣僚であろうと、反対党であろうと、その影響力が国民感情や政府の施策を方向づけるだけの力があるのに、特に労働者階級に関わることにおいては、社会の間違った方向性に気づいてこなかったようである。確かに彼らのほとんどが、労働者の苦境を改善するために尽力することを自らの誇りや義務であると感じていた。ある者は教員が必要であると声高に要求した。ある者は工場での早すぎて非道徳的な子供の雇用に反対した。ある者は、塩、飲料、肉などの税金を引き下げることを要求したし、またある者は、町や税関の税金を完全にやめてしまうことを要求した。また、政府の高いレベルでは、経済・政治問題を扱おうとする一般的な傾向もあった。しかし今日の我々の組織の状態では、そのような改革は、無邪気な幻想に過ぎないということ、つまり上記のような目的を実現するためには、新たな創造、つまり、革命が必要であるということに気づいていたものは一人としていなかった。

060 二月二四日のルイ・フィリップの退位以来、政府特権階級はその方針を変更してきた。彼らがこれまで気づかずに、私は彼らの意志に反してと言いかけるところだったが、行ってきた圧政と貧窮化の政策が、今度は十分承知の上で、多くの者たちによって受け入れられたのだ。

 政府は社会の機関である。

極秘にまた抽象的な言葉を用いて、社会的組織の中で行われることは、極めて軍事的な率直さでもって政府の財政上の数字の上に現れるものである。かつてある政治家が、政府は公債や大型予算なしには存続できないと言ったことがある。この箴言(しんげん)は、――これに対して反対することは異議を唱えることにおいて間違っていたのだが――国家権力の退歩や転覆などの傾向の経済的表現である。我々は今その深刻さを測ることができる。つまりそれは、社会を指導するために組織された政府が社会の反映にすぎないということを意味している。

 

年 月 日    公債に対する利子額($)

一八一四年四月 一日  一二、六六一、五二三

一八三〇年七月三一日  三九、八八三、五四一

一八四七年一月  一日  四七、四二二、六七一

一八五一年一月  一日  五四、二〇〇、〇〇〇

*一ドル五フランで換算しているようだ。フランス語版*では、一八一四年四月一日の利子額は、六三、三〇七、六三七となっている。

Idée Générale de la Révolution au XIXe Siècle, Choix détudes sur la pratique révolutionnaire et industrielle, Pierre-Joseph Proudhon, General Books LLC(TM), Memphis, USA, 2012

 

061 ここで、国家と諸都市とを中央権力の一部と看做すことは正当なことであるが、その国家と諸都市のための公債は、抵当や約束手形の総計の約半分であり、この抵当と約束手形は、地方に対して重圧をかけている。この二つとも同様の原因でともに増加してきた。そして、この傾向ははっきり見て取れる。それは我々をどこへ導こうとしているのか。破産へである。

 総裁政府(179599)樹立後初めての通常予算は、一八〇二年の予算である。このとき以来、歳出は、地方や国家の負債と同様の推移をして、持続的に増加してきている。

 

年       政府歳出($) 

一八〇二  一一七、〇〇〇、〇〇〇

一八一九  一七二、七七〇、六二二

一八二九  二〇一、九八二、八八六

一八四〇  二五九、七〇二、八八九

一八四八  三三八、四三六、二二二

 

この五十年間で歳出はほぼ三倍にもなった。その年平均増加率は、約五百万ドルである。この増加を、大臣の無能さや、また、王政復古と七月王政との間や、王室の反対と共和制の陰謀との間など、それぞれの連続的変化の過程で行われた、彼らの多少とも知的なまた自由主義的な政策などのせいにするのは愚かなことであろう。歳出の増加のように一定で規則的な現象を人の無能で説明することは、特に抵当や約束手形がこの予算と相関して増加しているような場合には、東洋の疫病や黄熱病を医者の無能力で説明しようとすることと同様に馬鹿馬鹿しいことである。攻撃されなければならないのは衛生状態であって、また、改革を必要としているのは経済的秩序なのである。

 こうして社会秩序のための手段とか自由の保証人とか呼ばれている政府は、社会とともに歩調をそろえて進み、ますます困難に陥り、負債を招き、破産の方向に向かうのである。我々はその構成部分が無秩序化するがままにされた社会がかつての身分制を復活させる傾向があるのと同様に、政府の側でもこの新たな貴族階級と共謀し下層階級の抑圧を完成させようとする傾向がある様を間もなく知ることとなろう。

062 社会の諸力が大革命によって混乱したままになっていたという唯一の理由によって、原因がかつてのように生来の能力の不平等に帰せられないような、状況の不平等が生じる。そしてこの状況の不平等は、今度は、社会における偶然性の中に新たな口実を見つけ、その主張の中で自然の気まぐれに運命の不公正を追加するのだ。法律によって廃止された特権は平衡状態の欠如のために再生され、それはもはや単なる神の決定の結果ではない、それは文明の必然性になったのだ。

 特権が天性や神の摂理の秩序の中でのようにいったん正当化されると、特権が決定的に成功を収めるために欠けているものはなんだろうか。特権は自分の利益にかなうように法律や組織や政府を作り変えさえすればよい。つまり、この目的のために特権はまさにその諸力を振り向けようとしているのだ。

 まず第一に、特権が少なくとも生まれつきまたは偶然のどちらかが原因で生じるものである限り、いかなる法律も禁止しないから、特権は完璧に合法的であると自認できるかもしれない。この点で特権はすでに、国民の敬意と政府の保護とを当然要求できるかもしれない。

 既存の社会を支配している原則とは何だろうか。それは、「各人は自らの力で、また、自らのために、神と幸運は全ての人のために」である。特権は幸運から生じ、商業的好機から生じ、現今の混沌とした産業状態が提供するいかなる投機的な方法からも生じるものであるから、それは全ての人が尊重しなければならない摂理的なものである。

 他方、政府の役割とは何だろうか。それは、人間個人において、その人の事業において、その人の財産において、各人を保護し、防衛することである。しかし物事の必然性によって、財産、富、安楽など全てが一方の人々に向かい、貧困のみが他方の人々に向かうとするならば、政府が貧乏人に抗してお金持ちを守るためにつくられていることは明らかである。そしてこのような状況を完成するために、今すでに存在するものが法律によって規定され、神聖化される必要がある。そういうことこそ権力(Power)がまさに望むことであり、予算についての我々の分析が徹頭徹尾証明することである。

 私はあちこちに飛んで述べている。

 臨時政府(1948.2)が明らかにしたように、一八三〇年から一八四八年までの政府の役人の給料の増加は総額千三百万ドルに達した。仮にこの額の半分だけが新たに作られた職場の給料のために使われたとするならば、給料の平均を二百ドルと想定して、政府がルイ・フィリップの治世中に三万二千五百人の役人を新たに雇用したことになる。*ところで今日の役人の総数は、ロードウ(Raudot)によれば、五十六万八千三百六十五人である。つまり、それは九人中に、地方にせよ諸都市にせよ、政府のお金で生計を立てている人が一人いることになる。浪費に反対してどんなに声高に叫んだとしても、私は三万二千五百の役所を新設することは略奪以外の何ものでもないと信じる。

32,500×200=13,000,000/2

063 国王、大臣、あるいはすでに事業所を持っている個人の誰にとっても、仲間の人数を増やすことにどういう利益があるのだろうか。労働者階級の騒ぎが時の経過とともにますます恐怖感を増し、従って、特権階級に対する危険の度合いがますます高まるから、それに伴って、抑圧し、防衛する権力側は、最初の一撃でひっくり返されることを承知の上で、自らを強化しなければならなかったのではないだろうか。

 陸・海軍の予算を調べてみると、このような考えを裏付けることができる。一八三〇年から一八四八年まで――私は定期刊行物『ヨーロッパとアメリカ』からこの詳細を借用している――海軍と陸軍(war)の総予算額は六千四百七十九万六千ドルから一億七百十六万七千四百ドルへと徐々に増額された。年平均額は八千四百万ドルであり、平均増加率は二百四十万ドルだった。*

(107,167,40064,796,000)/182,400,000

そして十八年間の総額は十五億百万ドルであった。

 同じ期間における公教育予算額は四十五万千六百ドルから三百八十五万九千六百ドルに増加した。そして総額は四千六百五十六万四百ドルであった。この予算額と軍事予算額との差額は十四億五千四百四十三万九千ドルであった。

 このように政府は公教育の名目で国民の教化のために平均二百五十万ドルを当てたのに対して、貧困の獰猛さのために万一爆発することに備えて鋼鉄と火薬で無知な国民を抑制するためには、その三十二倍の、八千四百万ドルを当てたのである。*これは当時の政治家たちが武装による平和と呼んでいたものである。同様の傾向が他の予算においても示されている。つまり、予算は常に特権という大義名分への奉仕度に応じて増加し、逆に、生産者への奉仕には逆比例して減少したのである。しかし、この十八年間フランスを統治した財政的・行政的能力の高潔さには、結局あまり重要でないこのような予算の比較によって示されるような意図がなかったと認められるとき、国家による国民の貧窮化と抑圧の体系が、政治家のいかなる共謀をも無しで済ますかもしれないような自発性と確実性を持って進展したということも、それに劣らず真実であろう。

46,560,400/18=2,586,688, 1,501,000,000/18=83,388,889

064 ここでも再び個人の問題はないのである。

 人間の精神以上に、事物の精神が働いているのだ。自分たちの仲間にいつも好意的な哲学者が関与することは、まさに後者のほうである。

 歳出の構成のあり方が興味深いとするならば、売掛金勘定*(account of receipt, account receivable)の構成もそれに劣らず教訓的である。私は詳細について踏み込むつもりはない。一般的な傾向で十分である。真実が発見されるのは、一般化においてである。

accounts of receipts account receivable のことだとすると次のような意味がある。

売掛金勘定(得意先に対する商品販売によって生じた未収金の増減を記録する勘定。売掛勘定。)または

受取勘定(売掛金、受取手形などの売上債権を総称する勘定。広義には未収金や貸付金などを含む。)(研究社新英和大辞典第六版)

 現在の税制が資本に対する単純課税に、例えば一パーセントに切り替わるならば、応分性と累進性の利点を結合し、しかもそれらの欠点もこうむらずに、税がほぼ理想的に、平等に分配されるであろうということが、一八四八年以来、数字によって証明されている。このシステムならば労働は、ほとんど影響をこうむらずにすむだろうし、それに対して資本は、科学的に扱われるだろう。資本が資本家の労働によって守られていないようなところでは、税金が掛けられることになるだろうし、一方、労働者は、その所有物が課税可能額を超えることがないから、なんら払う必要はないのである。課税の公正さは、財政学の極致であろう。しかしそのようなことは政府の反対物であろう。実際の政治家たちによってはねつけられたこの提案は、その提案者の信用を落とし、その提案者をほとんど失意の底に沈めることにしか役立たなかった。

 実際に行われた課税制度はまさにこの正反対であった。それは、生産者が全額払い、資本家は全く払わないように策定される。実際、資本家が、どんな量にせよ、査定者のリストに載せられたり、消費財に対して財務当局によって設定された税金を払ったりするような時はいつでも、彼の収入はその資本に対する利子だけで成り立っており、生産品の交換によるものではないから、彼の収入は課税を免れたままなのである。それに対して、税金を払うのは生産者だけなのである。

065 このような不公正は存在しなければならなかった。そして政府はこの点で社会と完全に協調していた。経済的無秩序から生じる状況の不平等が神の摂理を示すものだと看做されるならば、政府は神の意志に従うに越したことがない。従って、特権を擁護することに飽きたらないで、政府は特権に何も要求せず、特権を援助しようとさえする。そして時がたてば政府は、貴族、商人(Burghers)等々の称号の下に、特権を制度化するだろう。

 従って労働者だけに税金を払わせるために、資本と権力との間に協定が結ばれているのだ。そして私が以前にも指摘したとおり、この協定の秘密は全く、資本に課税する代わりに生産品に課税することなのである。

 このような装いの下で資本家は、他の国民と同様に、一見、彼の土地に、家屋に、家具に、警備に、旅行に、食料にお金を支払うように見える。また彼はもし課税されなければ、六百、千二百、二千、四千ドルの収入が、課税されたために、五百、九百、千六百、三千ドルにしかならないとも言う。そして彼は賃借人(tenants)以上に憤って政府予算に対して不満を言う。

 しかし、これは全くの見当違いである。資本家は一銭も支払わないのだ。つまり、政府が彼と分け合っているだけなのだ。彼ら(政府と資本家)は提携しているのだ。労働者の一人が弁済(redemption, 償還、買戻し)によって収入の四分の一を放棄するという条件で、四百ドルの収入を与えられるならば、その労働者は自らを幸運だと思うだろうか。

 賦課*(assessment)という古い制度を思い出させるように私にはいつも思われた売掛金勘定(accounts of receipts)の一分野がある。

assessment 賦課額、税額、割付け金、割り当て金、払い込み追徴金、(未払込金の)支払い請求(call) (研究社新英和大辞典第六版)

 財務当局が生産者に与える、製造し、耕作し、販売し、購入し、運送するなどの自由を、生産者が手に入れるためにお金を支払うだけでは不十分である。賦課は、生産者が財産を所有することを、できるだけ禁じる。父親からの遺産に対しても、叔父からの遺産に対しても、賃借に対しても、購入した物品に対しても賦課金がかかる。このことは一七八九年の立法者に、封建的権利とまったく同様に不動産も譲渡できないことを再び立法化する意図があったかのようである。それはまるで立法者が、八月四日*の夜までに解放された不運な人に、いまだ彼が奴隷状態に置かれており、土地を所有する権利もなく、耕作者はみな借地人に過ぎず、主権者の許可がない限りは、法律によって土地を差し押さえることができるということを思い知らせたかったかのようである。我々は注意しなければならない。このような考え方を宗教によって正当化できると考える人たちがいることを、また、これらの人たちが我々の主人であり、我々に抵当を設定した上で貸与するすべての人たちの仲間であるということを。

*原文P・〇四三参照

066 政府の支配を擁護する人たちは、役人を責めるのではなく組織形態を攻撃し彼らの世襲の利権と考えるものを脅かすような批判を、確信的な力を振り絞って排斥するのである。

 彼らはこう大声で叫ぶだろう。それは、我々の立法組織の責任なのだろうか。もし、財産や農業や製造業から徴収された何百万ドルの一部が、多大の犠牲を払って、閑職を支え良心を癒すためにだけ役立ってきたとするならば、それは国家の構造上の原則の責任であるのか、それとも、無能で腐敗した浪費癖の大臣たちの責任なのだろうか。また、次のような事態になったとすれば、それは、このような巨大な中央集権化のせいなのだろうか。つまり、もし、税金が途方もなく膨れ上がり、経営者よりもむしろ労働者に過度に課せられるとするならば。またもし、八千四百万ドルもの補助金を受けながら、港湾には船がなく、店には商品がないならば。またもし、一八四八年の二月革命の後で、軍隊には支給品がなく、騎兵隊には馬がなく、要塞はひどい状態におかれているとしたら。またもし、我々が戦争の基盤として、せいぜい六万人の兵隊しか配置することができないとするならば。それともそれとは反対に、組織のあり方ではなく、組織の実行の仕方に責任があるとするのが実情なのではないか。そうなると、あなたが、社会や政府の傾向を非難してきたことはいったいどうなるのだと。

067 そのとおりだとも。さて我々は次に、政治秩序の固有の悪と封建的傾向に、腐敗を付け加えることができる。腐敗は、私の議論を弱めるどころか、強化するだろう。腐敗は権力の一般的傾向と密接に手を携えている。腐敗は権力の手段の一つであり、権力の要素の一つである。

 体制は何を要求するだろうか。

 それは次のことを要求するだろう。資本主義的封建主義は、その権利を確保するために存続されなければならないと。また寄生的階級は、もし可能ならば、いたるところで食客を養うことによって、公共機関を助成することによって、またもし必要ならば雇用を通して、強化されなければならないと。また巨大な財産が徐々に再建され、経営者は貴族として扱われるべきであると、――ルイ=フィリップはその治世の終わりごろに、貴族の称号を授与することに尽力しなかっただろうか――したがってまた、公式の事業所だけでは十分に恩恵に浴すことのできない一定の事業が間接的な方法で補償されるべきであると。そして最後に、何もかもが、国家の至高の保護の下に追加されるべきであると。――つまり、慈善事業、補償、年金、褒章、免許、開発、許認可、位階配分、称号、特権、大臣室、株式会社、地方政府等々である。

 以上のようなことは、この前の治世の下で行われた醜聞に我々がひどく驚いたが、もしその謎がよく説明されていたならば、大衆の良心がさほど驚かなかったような金銭づくの事業の存在理由となっている。またこれは、地方の利権が要求する公正さを、最後のそして最高の値をつける入札者に売り払うことによって、公共の利益を口実に、地方の利権に圧力をかける中央集権化の隠された目的なのだ。

 腐敗が中央集権化の精髄であるということをはっきりと理解されたい。腐敗を免れた王政も民主政も一つとして存在しない。政府はその精神と本質において変わるところはない。政府が公共の経済に関与するならば、それは、好意的にせよ、権力を用いるにせよ、偶発事件が引き起こしそうなことを、でっち上げるだろう。例えば税関を一例にとってみよう。

068 塩税を除いて、輸出入合わせて、税関が課する税金は、国家歳入の三千二百万ドルを占める。ここにごまかしがあることにお気づきだろうか。仮に関税がないと仮定してみよう。つまり、ベルギー、イギリス、ドイツ、アメリカなどの競争国が、四方から我々の市場を取り囲んでいるとしよう。そして、国家がフランスの企業に次のような提案をしたとしよう。つまり、君たちの利益を守るために、どちらのほうを望むかね。国家に三千二百万ドルを支払うかね。それとも君たち自身がその三千二百万ドルをもらうほうかね。

 読者諸君は企業が三千二百万ドルを支払うほうを選ぶとお思いだろうか。ところがまさにこのことを政府が企業に要求しているのである。外国からの輸入品と、フランス企業が外国に輸出している輸出品との、両方に課税される通常の税金に加えて、政府は、三千二百万ドルを賦課しているのである。そしてこの三千二百万ドルは、飲み代として役立っているのだ。こういうことが結局、税関が行っていることなのだ。そして今日の問題は非常に複雑化しているため、あえて一挙にこのような馬鹿げた貢物をやめようと提案する人は全共和国中に一人としていないのである。

 さらに国内産業を保護するために課されると言われるこの三千二百万ドルが、政府が税関から得られる利益の全てではないのだ。

 バール県(Department of Var)では、家畜類の供給が十分でない。バール県では肉が不足している。そこで辺境のピエモン地方(Piedmont, イタリア語はピエモンテ Piemonte)から家畜を輸入するしかない。ところが政府は手なずけた民族を保護するために、そうすることを許さないだろう。これはどういう意味だろうか。カマルグ(Camargue)のロビイストの方が、バール県の消費者よりも大臣に対する影響力が強いからである。それ以外の理由は考えられない。

 バール県の話は、残る八十五県についても当てはまることだ。全ての県がそれぞれ特別の利権を抱えており、結局それぞれが反目し合っていて、調停を必要としている。政府の力を構成するものは軍隊ではなく、このような利権なのだ。また、裁判所が一七八九年以前には僧侶の聖職禄と同様に、大佐や大尉の地位を売っていたように、政府が、鉱山、運河、鉄道などの譲渡者として振舞ってきたことにも注意されたい。

069 私は一人を除いて一八三〇年から行政を担当してきた要人たち全員が、純粋であり続けてきたと信じることができる。しかし、フランス人の特筆すべき誠実な国民性からして、公金を横領する人が珍しいとしても、それでも、公金横領が組織的に行われていることは明らかである。そして、実際それは存在するのだ。

 ツーロン(Toulon)は海に面しているが、漁業権を失ってしまった。読者諸氏はそれがどうしてかご存知だろうか。マルセイユがこのお金になる産業を独占したいと要望したために、政府はツーロンの漁民の魚網が国家の船舶の運航を阻害したという口実を作ったのだ。だからツーロンの住民はマルセイユから魚を移入しているのだ。

 長い間、船舶業界は運河通行税の廃止を求めてきた。なぜならば運河通行税から生み出される税額は相当な額になるのだが、交易にとってはひどい足かせになるからだ。しかし政府は次のように反対する。つまり、政府はただではない。政府は運河改良のための法律を必要としているし、税徴収代行業務に関与しているからだ。その論旨はこういうことだ。高価格で販売したがっている独占販売権があるということであり、さらに、運河航行税が廃止されたら運河が鉄道と競合するようになり、鉄道の独占権を持つ業者はしばしば閣僚メンバーであることが多いのだが、鉄道運賃を下げることがなんら利益にならないからだ。読者諸氏は、レオン・フォシェ(Leon Faucher)、フルド(Fould)、マーニュ(Magne)、そして共和国大統領でさえもが、その地位を利用してお金儲けをしていると疑っているだろうか。私は疑ってはいない。ただし私は、権力の座にある人が横領したいと望むならば、そうすることができるだろうし、また遅かれ早かれ彼はそうするだろうと言うことができるだけだ。私はいったい何を言おうとしているのか。金銭づくの行動は、じきに、政府の特権の一つになるだろう。トラは貪り食うように生まれついているから、貪り食うのであり、それと同様に、腐敗するようにつくられている政府は腐敗しないだろうと予想できるだろうか。

 慈善事業でさえも権力者の目的にかなうべく、とても巧みに奉仕しているのだ。

 慈善事業は特権と政府を保護することをもくろみ、下層階級を支配するための強力な鎖である。慈善事業は経済学の難解な法則よりも人々の心にやさしく響き、貧しい人々にわかりやすいから、慈善事業では正義無しで済ませられるのだ。便宜を受ける人たちは、聖人名簿の中で溢(あふ)れている。一人として法律を実践する人が見当たらない。政府は教会同様、公正さよりも仲間関係のほうを重視する。いくらでも貧しい人たちの味方になって結構である、ただし、政府は計算する人を嫌う。デバ新聞(Journal des Debats弁論新聞)が質屋に関して論じたとき、それに関連してすでに八百以上の州立病院がある事実を人々に喚起したが、さらに続けて、やがていたるところに病院ができるであろうことを人々は理解すべきだと報じたことがあった。そしてデバ紙は、さらに続けて、貸金事務所が同じような傾向であることも報じた。つまり、各町が一ヵ所の貸金事務所を欲しがっており、まもなくそれを手に入れるだろうと。今すぐそれぞれの州に貸金事務所を設置することを提案した二人の名誉ある社会主義者に反対して憤るようなブルジョワ代議員の名を、全議員の中から思い出そうとしても、私は思いつくことができない。デバ紙の尽力に値するこれ以上の提案は、今までになかったことである。労働者の賃金を基にしたこのような貸付制度を創設することは、たとえ貸付が無利子であったとしても、病院の控えの間(予備軍)であると言える。そして病院とはいったい何であろうか。それは貧者にとっての寺院である。

070 以下の三省、つまり、農業・通商省、建設省(public works)、内務省(interior)を通じて、つまり、消費税や関税によって、政府は、全輸出入品を、全生産・消費財を、また、個人、町、州などのすべての企業を、その管理下に置く。政府は、大衆が貧困化していく社会の傾向や、労働者の隷属化や、また、寄生的役所の常に強まる優越性などを維持する。政府は警察によってこの制度に対する敵を監視し、裁判所によって彼らを咎め、抑圧し、軍隊によって彼らを粉砕し、大衆教化によって政府の意にかなった分量の知識と無知とを世に広め、教会によって人々の心の中の抗議の念を眠らせ、財政によって、労働者の犠牲の上に、この広大な陰謀の経費を賄う。

 繰り返しになるが、七月王制の下で権力の座にあった者たちは、彼らを支配していた思想を、大衆同様、理解していなかった。ルイ・フィリップ、ギゾー、そして彼らの仲間たちは、さまざまな手段を極めて巧みに用いて、しかし、その目的をはっきりとはわからずに、彼らにとっては当然と思える単純きわまる腐敗という手段で、様々なことをしでかした。下層階級が二月革命のときに激しく大きな声を上げてから、この制度が理解され始めた。この制度は、独断的な厚かましさで提示された。この制度は、姓をマルサス(MALTHUS)、名をロヨラ(Loyola)と呼ばれた。根本的なところでは、二月革命によっては、一八三〇年、一八一四年、一七九三年の革命によってと同様に、一七九一年に創設された偽りの立憲的な措置は何一つ変えられなかった。ルイ・ボナパルトは、彼が気づいている、いないに関わらず、ルイ・フィリップや、ブルボン家や、ナポレオンやロベスピエールなどと同様の支配を続けている。

071 このようにして、一八五一年は、一七八八年と同様に、また、似たような原因によって、社会には貧困化する深刻な傾向がある。当時と同様に今日でも、労働者階級が不満に思う諸悪は、一時的で偶然の原因によってもたらされる結果ではなく、社会的諸力の制度的な逸脱の結果なのである。

 この逸脱は、はるか昔、八九年以前にまで遡ることができる。この逸脱の原則は、経済一般の奥深いところに秘められている。最初の革命(一七八九年の大革命)は、非常に明らかな悪習に対して闘われたのだが、ただ表面的にしか闘われなかった。圧制を打倒した後で、この革命は、どのように秩序を再構築したらよいのかを知らなかった。そしてその秩序の原則は、この国を覆っていた封建制度の下に覆い隠されていた。さらに、その歴史が我々には非常に完璧に見えるこの革命は、単なる否定でしかなかったのであり、将来世代にとっては単なる最初の革命、つまり、一九世紀全体を通して続かなければならない偉大な革命の夜明けとしてしか映らないだろう。

 八九年から九一年にかけての衝突は、王政とともに封建遺制の最後の残滓を廃止し、法の前における平等や、課税の平等や、出版や信教の自由などを宣言し、国有財産の販売によってできる限り人々の利益になった後でも、なんら組織的な原則も、機能的な組織も残さなかった。この衝突は、その約束のうちの一つとして取り戻すことができなかった。大革命が人々の自由や、法の前の平等や、人々の尊厳や、また、権力が地方に従属することなどを宣言したとき、この革命は二つの矛盾する事柄、つまり、社会と政府を同時に並立したのであり、この矛盾こそ、議会制民主主義が独裁制へと向かう傾向があるために、その議会制民主主義が賞賛するところの中央集権化と呼ばれるこの圧政的な、自由を破壊する集権化の口実となったのである。

072 ロワイエ・コラール氏(M. Royer Collard)は、出版の自由についての演説(一八二二年一月十九日から二十四日までの国民議会での討論)の中で、次のように自らの意見を表明した。

 「我々は古い社会が死滅するのを見てきた。そして、それとともに、個人的な権利の強力な結びつきや王国内部の真の共和国である、その古い社会がその胸中に擁してきた数々の民主的な組織や独立した治安判事なども死滅するのを見てきた。確かにこれらの組織や治安判事などは、主権を持っていたわけではなかった。しかし、それらはあらゆるところで、特権階級が頑強に守ろうとした旧体制に制限を課した。ところが革命後は、何一つ残らなかった。またその代わりに創設されたものは何一つとしてなかった。大革命は、ただ分断された個人だけを残した。この点で、大革命がそこで最高潮に達した独裁制は、その任務を完成したといえる。このような分断された社会から、中央集権化が突如として発生した。そしてその起原を他のどこかに見つけ出そうとする必要はない。中央集権化は、他の主義主張のように頭をもたげて、原則の権威を振りかざしてやってきたのではなかった。それは慎ましやかに、こっそりと、必然の結果としてやって来たのだ。実際、ばらばらの個人しかいないようなところでは、自分の仕事でないすべての仕事は、公の仕事、つまり国家の仕事になる。独立した治安判事がいないところでは、ただ、中央権力の代表がいるだけである。こうして我々は、官僚が大臣をつとめるような権力の中でその官僚自身でさえも中央集権化された責任ある公務員の下での、官僚に支配される国民になってしまった。このような状態で、社会は、王政復古に遺譲されたのである。

 それから憲章*(Charter)は、政府と社会を同時に再建しなければならなかった。確かに社会は忘れられはしなかったし、無視もされなかった。しかし、社会は置き去りにされた。憲章はただ政府を再建しただけだった。そして、主権の分割と権力の多極化によってそれを再建した。しかし、国民が自由になるためには、国民がいくつかの権力で統治されるだけでは不十分である。憲章によってもたらされた主権の分割は、明らかに大事な成果であり、この主権の分割が規制する王権に対峙する意味で、強力な結果をもたらす偉業であった。しかし、そこから生じる政府は、たとえ各部分に分かれていたとしても、実践的機能を有する政府であり、その政府が尊重しなければならないような外部の障害物がなければ、その政府の力は絶大となる。そして、国民と国民の権利は、政府の所有物となる。憲章が社会そのものために社会を取り戻したのは、出版の自由が政府によって保証された時に限られた。」

*一八一四年憲章。(Charte constitutionelle de 1814) 一八一四年六月四日公布。ルイ十八世による欽定憲法。二院制、法の前の平等、所有権の不可侵、基本的人権を定めたが、制限選挙で貴族院が優越していた。(ブリタニカ国際大百科事典)

073 ロワイエ・コラール氏が、一八一四年の王政について述べたことは、一八四八年の共和国についても当てはまる。

 共和国は社会を創設しなければならなかったのに、政府を創設することにしか思いが及ばなかった。中央集権化が持続的に強化される一方で、社会のほうには、政治理念は強調されるのに社会理念は全く欠落していたために、中央集権化に対抗する組織もない間に、事態は、社会と政府が共存できず、後者の存在条件が前者を従属させ征服するような状況にまで達した。

 したがって一七八九年に提起された問題は公式的には解決されたように見えたのだが、根本的なところでは、統治的形而上学――つまりナポレオンがイデオロギーと呼んだもの――における変化にとどまったのである。自由、平等、進歩、そして、それらの修辞的な重要性にもかかわらず、それらの理念は、憲法や法律の条文には書かれるのだが、組織の中にはそれらの痕跡が全くないのである。古代の階級制度は、商工業の高利に基づく下劣な封建制や、利害の混沌、原則の反目、法の品位の低下などによって置き換えられた。つまり、悪習は、一七八九年以前の姿を変え、異なった組織形態に変化し、その数や重要性の点で、決して減ることはなかったのである。我々は政治に専念したために、社会経済学を見失ってしまった。こうして大革命の相続人であるはずの民主主義政党自体が、国家による主導を創設することによって社会を改革し、権力の多産的性格によって組織を作り出そうとした。つまり、悪習を悪習によって正そうとしたのである。

074 全ての人の心が政治によって魔法にかけられ、社会は間違いの繰り返しに陥り、資本をますますとてつもない大きな塊に肥大させ、国家をますます圧制的になる大権の出先と化し、労働者階級を身体的にも、精神的にも、知的にも、取り返しのつかないほど衰退させたのである。

 八九年の大革命は何一つ創造することもなく、また、我々をまったく解放することもなく、ただ我々の悲惨な運命を変えたに過ぎないということは、つまり結局、八九年の大革命によって残された空隙を満たすためには、組織化し、再建するための新たな革命が必要であるということは、多くの人たちにとって醜聞であり、逆説的な提案を提起することである。立憲王政を多少とも決意して擁護する人たちは賛成しないだろう。また、九三年の書簡(the letter of 93)に心を寄せている民主主義者も、そのような課題に腰を抜かしているだろうから反対している。前者にせよ、後者にせよ、いずれの意見によっても、権力の受託人が無能力であることを主な理由として、偶然の苦情しか残されていない。そして、そういう無能力を治すことができるのは、活力あふれる民主主義しかないのである。したがって大革命が彼等の心に引き起こす、反感とまでは言わないにしても、混乱が生じ、また、二月革命以来彼等が取り組んでいるこのような反動的な政策も打ち出されているのである。

 それにもかかわらず、そのようなことが事実であり、統計や調査が事態を非常によく明確にしたので、何もかもが政府の矛盾や弱体ぶりを示しているようなときに、よりよい政策に対して好意的に議論することは、決して愚かなことでも不誠実なことでもない。

 かつての国王の統治を真似たこのような統治上の封建的・軍事的支配の代わりに、新たな産業組織の仕組みが創られなければならない。すべての政治的権力を呑み込んでしまうこのような実利主義的な中央集権の代わりに、我々は経済的諸力の、知的で自由な集中を創設しなければならない。労働、商業、信用、教育、財産、公衆道徳、哲学、芸術など、実際全てのものが、そのような集中を我々から求めているのである。

 結論を述べよう。

 十九世紀に革命が起こるための十分な根拠がある。

 

 

 

第三研究 組合(association)の原理

 

 

075 八九年の革命は封建的秩序を一掃した後で、産業秩序を構築しなければならなかった。しかしこの革命は政治理論に逆戻りすることによって我々を経済的混沌に突き落とした。

 我々は、科学や労働に基づいて練り上げられる自然の秩序ではなく偽の秩序の下にあり、この秩序の下では良識にそむく寄生的利益、異常な道徳、獣のような野心、偏見などがはびこってきており、今日これらの全ては六十年間の伝統を引き合いに出してそれぞれの合法性を主張しており、自らの要求を取り下げたり修正したりすることには消極的で、互いに反目して進歩に対して反動的な態度を取っている。

 原則、手段、目的などを戦争と定めているこのような事態は、純然たる産業的文明の必要に答えられないから、革命は必然の結果となる。

 しかしこの世の中のあらゆるものが高利貸のための材料であるから、革命の必然性が民衆に対して明らかにされるとき、それと同時に理論、学派、宗派などが生じ、これらは民衆の面前に姿を現し、多かれ少なかれもっともらしいことを述べ立てて民衆の気に入られようとし、そしてまた民衆の運命を改善し、その権利を正当化し、権威の執行において民衆を取り込むなどのそぶりをして必死になって民衆を利益誘導する。

 したがって現代社会に提起された問題を解決しようとする前に、全ての革命が避けて通れないお荷物である、民衆に投げかけられた諸理論の価値を評価することは有益である。このような特質を持った課題の中でユートピアは、黙って見過ごすわけにはいかないかもしれない。その理由は一つには、諸党派や諸宗派による一表現として彼らが一役を演じているからであり、もう一つの理由は、間違いというものは非常にしばしば真実をゆがめたものであり、真実の対極に過ぎないから、偏向した見解を批判することは一般的な考え方の理解を容易にするからである。

076 我々が革命そのものの仮説に関する尺度を定めたように、革命諸理論に関して批判する際の決まりについてもまず定めておこう。

 我々がすでに述べたように、十九世紀に革命が生じるための十分な理由があるのかという問は、現代社会の傾向がどういうものかという問に等しかった。

 そして我々はこう答えた。社会が危険な下降傾向にあるのは、全ての統計、全ての調査、全ての報告などの結論であり、またそれは、理由は様々だが、全ての政治党派によって認められていることだから、革命は避けられないのである。

 以上が革命の有用性と必要性に関する我々の理論であった。この理論にこだわってさらにそれを追求することによって我々は我々が必要とする決まりを知ることができるはずだ。

 悪いのは社会の傾向なのだから、革命が扱うべき問題は、この傾向を変えること、若木が支柱の助けによってまっすぐに直されるように、社会の背筋を元通りに伸ばさせること、社会に今までとは違った方向に向かわせることである。それは馬車が轍(わだち)からはずされたら、それとは違った方向に変えられるのと同様である。革命の全ての課題はこのような矯正で成り立つはずである。つまり社会そのものを論じることに異論があるはずがない。我々は社会を独立した生命を付与された優越したものと看做さなければならない。そして結局その社会像は、我々の側で社会を恣意的に再構築するようないかなる考え方とも全く違うものである。

 まず次のような事実は民衆の本能と完全に一致している。

 民衆は、革命の通常の出来事が示すように、実際全くユートピア的ではない。情熱や熱狂は、まれで短い期間に民衆をとりこにするだけだ。民衆は古代の哲学者のように絶対神を追及したり、現代の社会主義者のように幸福を追求したりはしない。民衆は絶対的なものを信用しない。民衆はあらゆるアプリオリな体系を、その本質において致命的であるとして拒絶する。絶対的なものは現状と同様に人間の組織に取り込めないものだということを、民衆はその深遠な感覚を通して知ることができる。民衆がいかなる究極の定式をも受け入れずに持続的に前進したいと思っているのだから、必然的に民衆の指導者が取るべき任務は、地平を広げ、進むべき道を明らかにすることでしかない。

077 革命的解決のためのこの根本的な条件はこれまでに理解されてこなかったように思われる。

 制度の数はいくらもある。組織の数は雨が降るほどたくさんある。ある者は作業場を組織し、ある者は政府を組織し、後者は政府の方に信頼を寄せるのだ。我々はサン・シモン主義者たち(Saint Simonians)、フーリエ(Fourier)、カベ(Cabet)、ルイ・ブラン(Louis Blanc)などの社会仮説を知っている。最近ではコンシデラン(Considerant)、リッティングハウゼン(Rittinghausen)、E・ジラルダン(E. Girardin)などの諸氏が主権の形態について論じたところだ。しかし私が知りうる限り誰一人として次のように語った人はいないのだ。つまり政治・経済問題は組織問題ではなく傾向の問題であること、また、他の全てのことよりも我々がどこへ向かおうとしているのかを見つけることがまず第一に我々のなすべきことであり、独断的に教義を作り上げることではないこと、つまり解決策は、急いで向かっている危険な道から社会を連れ戻し、社会の法則である良識と福祉というあるべき道に戻すことにあるということである。

 かつて提案された社会主義的あるいは政府統治的理論のどの一つもが、問題のこの核心をつかんでいなかった。それどころかそれらの理論は全てこの核心を正式には否定しているのだ。排斥、絶対主義、反動などの精神は、これら著述家たちの共通の特徴である。彼らにおいては社会は生きていけない。社会は解剖台の上に載せられている。だからこれらの紳士たちの考え方が、何も治すことができず、何一つ保証することもなく、何の将来の見通しも提示できず、知性をますます空っぽにしたままにしておき、魂をますます疲弊したままにしておくことは言うまでもないことだ。

 従って制度を吟味する―それは果てしない作業であり、またさらに悪いことには結論の見えない作業である―のではなく、我々は我々の尺度の助けを借りて制度の根本的な原則を吟味することにする。我々は現在の革命の見地から、これらの原則に何が含まれているのかや、これらの原則が何を提供できるのかを追及するつもりである。なぜならば原則が無内容で全く非生産的であるならば、その制度について考えてみても無駄であることは明らかであるからだ。これらの原則の価値は次のように結論づけられるだろう。つまり最も美しい原則は、最も馬鹿馬鹿しい原則であるということがわかるだろうということだ。

078 まず組合の原則から始めよう。私がただ底辺層のおべっかを使いたいだけなら解決策は難しくないだろう。私は社会の原則を批判しないで労働者による社会に賛辞を送るべきだ。私は彼らの有徳さ、忠実さ、犠牲的行為、慈善的精神、すばらしい知性などを褒め称えるべきだ。私は彼らの勝利を前もって宣言すべきだ。私は全ての民主主義的心情の持ち主にとって大事な次のようなテーマについて言わないで済ますことができようか。つまり初期キリスト教共同体がカトリシズムを育てる働きをしたのと同様に、現在の労働組合は社会革命を育てる場として役立っていないだろうか。これらの組合は理論的にも実践的にも常に開かれた学校ではないだろうか。つまりそこで労働者たちは生産の科学と富の分配について学び、また教師も書物もなしに自らの経験だけに基づいて産業組織の法則を学ぶのである。つまりその法則とは、八九年の革命の究極の目的であったが、我々の最も偉大で最も有名な革命家たちでさえもその姿をほんのちょっと垣間見たにすぎない産業組織の法則であると。私にとって、また軽薄な同情心の表明にとってこれは何という話だ!そしてこの軽薄な同情心は、真剣である点で他のものに劣らず公平無私なのだ。私自身が組合を設立することを望んだことがあったこと、否それ以上に労働組合の中央代理機関と普及宣伝組織を設立することを望んだことがあったということを、私はいかなるプライドを持って思い出すことができようか!そして私は政府が三億ドルも支出しながら、貧しい労働者の便益のために用いることのできる一セントでさえ工面できなかった政府をどれほど呪ったことか!

 私は組合のために差し出すことのできるものをそんなもの以上に持っている。私は組合が現在、観念を生み出すために十分貢献できると確信している。そして私が組合のために差し出そうとしているものこそ観念なのだ。私はただおべっかだけで組合の承認を得られるとしたら、その承認を断るべきだと考える。組合の問題を扱う際に私が議論しようとしていることは原則であり、否それ以下であるとすれば、仮説であるということを、このページをお読みになるかもしれない組合員諸氏がただ思い起こしていただけるならば幸いである。つまり私が議論したいことは、その名前にもかかわらず組合が少しも責任を負ってくれないし、またその成功が実際は組合のおかげではないような、この企業とか、あの企業とかについてではない。私は組合一般について述べているのであり、それが何であれそれぞれの組合のことを話しているのではない。

079 私は組合一般は ― つまり友愛は ― 快楽や愛やその他の多くの事柄と同様に、非常に誘惑的な様相の下で善よりも悪を隠し持っている疑わしい取り決めであると常に看做してきた。私が情熱と同様に友愛を信用しないのは、おそらく私の生来の気性のせいであろう。私は情熱と友愛のどちらかでも自慢している人をほとんど見かけたことがない。特に組合が普遍的組織、原則、革命の手段と目的などとして提示されるとき、その中に強盗と専制のひそかな意図が隠されているように私には思えるのだ。私は組合の中に統治システムを推進しようとする意図を感じとる。そしてその統治システムは、九一年に復活し、九三年に強化され、一八〇四年に完成され、一八一四年から一八三〇年にかけて教義やシステムに作り変えられ、最近では直接政府の名の下に、そして人間精神の錯覚が我々人間社会でどれほど進展してしまったのかを示す衝動を伴って再生されたのだ。

 さて尺度を当てはめてみよう。

 今日社会は何を望んでいるのだろうか。

 罪や貧困に向かう社会の傾向は、快適さと有徳に向かう運動にならなければならないということだ。

 このような変化をもたらすためには何が必要か。

 権力の平衡関係を再構築することだ。

 組合は権力の平衡関係か。

 教義である。

 組合を革命のための方策として提起する人たちの目からすると、組合は大いに教義であり、何かしら完成したもの、完全なもの、絶対的なもの、不変なものであるから、このユートピアを採用した全ての人たちは結局例外なく制度をつくることになった。彼らの固定観念で以って、社会全体を構成する様々な部分を照らし出すことによって、彼らは天文学者がその計算を尊重するあまり宇宙のシステムを作り直したように、想像上の計画に基づいて結局は社会を再構築することにきっとなるだろうし、実際そうなったのである。

080 だからサン・シモン学派はその創設者の考え方を通り越して制度をつくった。つまり、フーリエ(Fourier)、オーウェン(Owen)、カベ(Cabet)、ピエール・ルルー(Pierre Leroux)、ルイ・ブラン(Louis Blanc)らは制度を作った。それは一つだけの原則から出発して制度をつくった彼ら以前のバブーフ(Baboeuf)、モルリ(Morelly)、トマス・モア(Thomas More)、カンパネラ(Campanella)、プラトン(Plato)や他の人たちと同様である。そしてこれらすべての制度は互いに反目し合い、また一様に進歩に対して敵対しているのである。原則よりも早く人類を滅亡させてしまえ!これこそあらゆる時代の狂信者たちと同様にユートピア主義者たちのモットーである。

 社会主義はこのような解釈をする人たちの下で宗教になった。しかしその宗教は五、六百年前ならばカトリシズムに対する批判として通用したかもしれないが、十九世紀においてはこの上なく革命的ではないのである。

 そう、組合は産業力(industrial force)でも指導的な原則でもない。組合はそれ自体ではなんら組織力でも生産力でもない。つまり労働の分割や競争などのように労働者の労働力を高め、作業能率を向上させ、生産コストを下げ、原材料からより多くの価値を引き出すようなものでもなければ、行政の位階制のように調和や秩序への願望を生み出すものでもない。

 この主張を正当化するために私はまず例としていくつかの事実を取り上げねばならない。その上で私は一方では組合が産業力ではないこと、他方ではその帰結として組合が秩序の原則ではないことを証明したい。

 私は通商が交易という具体的事実によってもたらされるサービスとは独立してそれ自体で直接に消費意欲を高めるものであること、したがってそれはさらに生産を高める原因であること、つまり価値創造の原則であることについて、『ある革命家の告白』(Confessions of a Revolutionary, 1850, 本書と共に獄中で執筆)のどこかで証明したことがある。

 初めのうちはこのことは逆説的に思われるかもしれない。しかしこのことは経済的分析によって証明されたことなのだ。交換という抽象的な行為は労働に加えて、しかし労働とは異なった方法で、本当の価値や富を生産しているのだ。さらにこのように断言することは、生産や創造が単なる形態の変化にすぎずしたがって創造力や労働そのものは非物質的なものであることを想起される方々にとっては驚くに値しないだろう。だから高利貸的な利益を得るのではなく真の投機的行為によって豊かになった商人は、完全に正当な資格で獲得した富を手に入れることができるのだ。彼の富は労働が生産した富と同様に合法的なのだ。そしてキリスト教会と同様に古代ギリシャ・ローマの多神教信者は、商業による報酬が真のサービスに基づいた報酬ではないという口実で、商業を不当にも中傷したのである。再確認するが、純然たる非物質的な活動としての交換は当事者たちの互いの同意に基づいて行われるものであり、原価と運送のための距離を考慮したうえで、単なる位置の移動や代替ではなく一つの創造でもあるのだ。

081 したがって商業はそれ自体で富を生産するものであるから、人々はあらゆる時代を通じて熱心に商業に関わってきた。立法者たちがその利点について説教したり、商業行為を推奨したりする必要はないのである。ここで全く馬鹿馬鹿しい想定とは思われないこと、つまり通商が仮に存在しないと仮定してみよう、つまり我々の産業行為のとてつもなく幅広い手段の中で交換という観念がないと仮定してみよう。仮に誰かある人がやって来て人々に生産物を交換し彼らの間で商業行為をするように教えたとするならば、その人は彼らに莫大なサービスを提供することになるだろう。人類の歴史はこのような人物に匹敵しうるいかなる革命家の名を挙げることができない。鋤、ブドウの木、小麦などを発明したすばらしい人物たちでさえも、通商を最初に発明した人に優ることはなかった。

 もう一つ例を示そう。

 諸力の結合は組合と混同されてはならないが、我々がこれから間もなく触れるように、これは労働や交換と同様に富を生産するものである。諸力の結合は一つの経済力であり、私が財産に関する最初の論文(『財産とは何か』、 What is Property? Or, an Inquiry into the Principle of Right and Government, 1840)の中で最初にその重要性を力説したと私は信じている。団結し結合する百人は、ある場合には、百倍どころか、二百倍、三百倍、千倍を生産する。そういうことを私は集合力(collective force)と名づけた。そしてこのことからさらに私はある種の形態の横領に反対する次のような議論を展開したのだが、他の多くの議論と同様にいまだになんらの返答もいただいていない。つまり労働者による生産物を合法的に獲得するためには、一定数の労働者の賃金をただ支払うだけでは不十分であるということだ。つまり労働者は二倍、三倍、あるいは十倍の賃金を支払われるべきであること、あるいは彼らの一人ひとりに返礼されるべきサービスと同等の額を支払われるべきであるということだ。

082 集合力はその純然たる抽象的な面から見ると、他のものに劣らず富を生み出すものとしてのもう一つの原則である。さらにこの集合力の適用例は、各個人の努力が何回繰り返されようが非効率であるようなあらゆる場合に見い出される。それにもかかわらずいかなる法律もその適用を命じていない。ユートピア社会主義者たちがこの集合力を自慢しようと思ったことが決してなかったということも注目すべきことである。その理由は集合力が非人為的な行為であるのに対して、組合は人為的な自発的な協定であるからであり、つまり両者は一致する点があるかもしれないが、全く同一ではないのである。

 さて状況が必要としているにもかかわらず孤立した労働者の能力を結合させ結束させる方法を知らない孤立した労働者たちだけからなる労働者の社会を、前の場合と同様にもう一度想像してみよう。まさにこれらの労働者たちにこの秘密を知らせる労働者だけが、蒸気や機械以上に進歩のために貢献するだろう。なぜならば彼だけが蒸気や機械の使用を可能にするだろうからだ。彼は人類にとって偉大な恩人の一人、つまりすばらしい革命家だろう。

 私は同様の例として引き合いに出すかもしれない同じ性質の他の事実、例えば競争、労働の分割、財産等々 ― そしてこれらも私が経済諸力、つまり真の生産的原則と呼ぶところのものを構成するのだが、― についてはここでは触れないつもりだ。このような諸力についての記述は経済学者たちの著作の中で長々と論じられているかもしれないが、これらの経済学者たちは馬鹿馬鹿しいことに形而上学を軽蔑しておきながら、疑うこともなく、経済諸力の理論を用いてキリスト教神学の根本的教義つまり無からの創造を論証したのである。

 組合は、その活動によって有用性をもたらし繁栄の源泉となるこれら本質的に非物質的諸力の一つであるかどうかという問題が残っている。なぜならばこのような条件の下でしか組合の原則が ― 私は学派間の別は問題にしていない ― 貧困の問題の解決策として使用されないことは明らかであるからだ。

083 つまり組合は経済力なのだろうか。この二十年間組合の存在は予言されてきたし、その利点も表明されてきた。しかしどうして誰もその有効性を証明したことがないのだろうか。組合の有効性は通商、信用、労働の分割などの有効性よりも証明するのが難しいのだろうか。

 私としてはきっぱりと答えたい。否、組合は経済力ではない。組合はその本質において不毛であり、有害でさえある。なぜならば組合は労働者の自由の足枷(あしかせ)となっているからだ。今でも多くの人たちがその魅力に取り付かれているユートピア的友愛組合を推奨してきた著述家たちは、理由や証拠をあげることもなく社会契約の利点や有効性を認めてきた。しかしそういう利点や有効性は集団力、労働の分割、交換などに属するものである。大衆はこの混同に気づかなかった。だから社会をその構成のあり方を問題にして実験したり、社会に様々な運不運が生じたり、意見が定まらなかったりするのである。

 或る産業社会ないし商業社会が大きな経済諸力のうちの一つに取り組んだり、独占や或る一定の既存の商売などのような本性上分割が許されないような事業に取り組んだりするとき、このような目的のために結成された社会は成功を収めるかもしれないが、それはその原則のおかげではなく手段のおかげなのである。このことは本当に真実であるために、もし組合がなくても同じ結果が得られるならばいつでも組合は無しで済ます方が望ましいのである。組合は本質的に自由に反する足枷であり、また組合が十分な補償金を提供できない限り誰も従うことに同意しない足枷なのである。したがって全てのユートピア的社会主義者たちに対して次のような実践的規則を突きつけることができる。つまり自らが知らないうちにという場合やそれ以外にやりようがないからという場合を除いて、人は決して提携したりはしないのである。

 ここで組合の原則と、社会がその本質とは無関係な外的状況によって影響されたとき社会が利用する無限に様々な手段とを区別しよう。そして私はそういう手段の中の最高位に経済的諸力を位置づけたい。原則は他の動機が発見されない限り企業をだめにするものであるのに対して、手段は人が独立性を犠牲にしてでも富を獲得できるという希望があるから人が社会の一員になることを許すものである。

084 我々はまずこの原則について説明し、その後で手段について説明しよう。

 組合について語るものは誰でも必ず義務、共同責任、部外者に接する時の権利と義務の抱き合わせを念頭においている。すべての友愛社会はこのように組合のことを理解しており、ハーモニー会派の信者たち*でさえも張り合う競争(emulative competition)を理想としているにもかかわらずこう理解しているのだ。

*ジョージ・ラップ(George Rapp)の率いる宗教的コンミューンであるハーモニー・ソサイアティ(Harmony Society)の成員。一八〇三年ドイツから米国ペンシルバニア州に移住。キリスト再臨を信じ、厳格な独身主義を守った。一九〇六年消滅。米国ペンシルバニア州の町ハーモニーにちなむ。Rappist, Rappite, Harmonite. (ランダムハウス英和大辞典)

 組合の中では、自分ができることをやる人は、自分がやるべきことをやる。というのは組合は弱い組合員や怠け者の組合員のために、そしてそういう人たちのためにだけ役立つものであると言えるかもしれないからだ。したがって組合の最高法規である賃金の平等が導かれる。

 組合では全ての人が全ての人に対して責任がある。最も小さい人に、最も大きな人と同じ価値があり、新入りの人に、最古参の組合員と同じ権利がある。組合はすべての欠点を帳消しにし、全ての不平等を均等にならす。したがって組合員の資格の中に技術のないことや無能力を含む。

 したがって組合の定式は次の通りである。それは次のようにルイ・ブランによって明らかにされた。

能力に応じて各人から

必要に応じて各人に

 フランス法典はルイ・ブランの定式とは別の公衆社会と商業社会に関する定義であるが、リュクサンブール宮殿*の雄弁家の定式と一致している。この原則からのいかなる逸脱も個人主義への回帰と看做されるのだ。

*上院がある。Le Palais du Luxembourg

 このように社会主義者や法律家によって説明される組合が一般化され、普遍的な高等法規つまり全国民の公衆民法となりうるのだろうか。

 このような疑問が様々な社会学派によって投げかけられ、全ての学派がその適用方法においては様々であるが、声をそろえて肯定的に答えるのである。

 私の答はこうだ。否、組合の契約はどんな形式であるにせよ、決して普遍的な決まりにはなりえない。なぜならばこの契約は本質において非生産的であり、人をいじめる性質のものであり、きわめて特別な状況にしか適用できないものであり、その不便さはその利点よりも急速に増大するから、この契約は労働力の有効な利用や労働者の自由に反するのである。だから私は一つだけの組合は決して一つの産業の全労働者を含むことはできないし、ある産業の全企業を含むことや、また三千六百万人の国民全体を含むことにあってはなおさらできないことだと結論づけるのだ。したがってまた組合の原則は、必要とされる解決策をもたらすものではないと私は結論づける。

085 組合は経済力でないばかりでなく、手段に依存し特別の状況下でしか適用できないということを言い添えることができる。この二つ目の命題を事実に基づいて立証し、十九世紀に組合によってなされた役割をはっきりさせることは容易である。

 組合の根本的な特徴は私たちが以前にも述べてきたように強制的な結合であるということだ。

 それではどういう理由で労働者たちは彼らの間で強制的な組織を結成し、自らの独立を放棄し、契約という絶対的な法規の下に、そしてさらに悪いことには、監督者の下に支配されることを甘受するのだろうか。

 その理由は多種多様であり数も多いかもしれないが、その理由が何であれ、それは社会そのものとは無関係であるに違いない。

 ある一つのケースでは人々は分裂し別れ別れになったら失う恐れがある、ある一人の推進者によって創設された商売を存続させるために提携する。またあるケースでは他の方法では十分儲けられず、もし競争して事業を行えば各人が得られる儲けが少なくなる産業、特許、特権等々を共同で継続するために提携する。またあるケースではそれ以外の方法では必要な資本を集められないためである。そして最後のケースでは海難事故や大火による損失の恐れを平準化し分割するためである、あるいは不快できつい任務などを平等に分担するためである。

 要するに繁栄を享受するあらゆる社会が、その繁栄をその社会とは無関係なそして社会の本質とは無関係な外部の要因に求めているということに気づかれるだろう。そして繰り返しになるがそういう外部要因がなければその社会はどんなに立派に組織されていようが存続することはできないだろう。

 だから我々がまず最初に提起した事例においては、社会の目的は既存の評判のよい事業を発展させるということであり、それだけが社会の一番重要な利点なのである。そして二番目の事例では社会が独占つまり極めて排他的で反社会的なことに基づいており、三番目の合資会社(joint-stock company)の事例では社会は集合力であれ労働の分割であれ何らかの経済力を活用しようとする。そして四番目の事例では社会は保険と混同され、それはギャンブル的な契約であり、存続しないかあるいは不活発な友愛関係を得られる場所をまさに提供する目的のために発明されたものである。

086 上記のどんな条件の下でも社会はそれ自身の原則のおかげで存在しているようには思われない。社会はその持てる力や、社会以外の原因に依存しているのである。しかしそういう力や社会以外の原因が約束することつまり我々が必要とするものは、根本的で、人を活気づけるような、行動的な原則なのである。

 人々は消費を節約するために、つまり小売りによって蒙る損失を避けるためにも提携する。それは資力が少ないために卸売りで買うことができない小規模の家庭のためにM・ロッシ(M. Rossi)が推奨する方法である。しかし競り売りで肉を買うような人々のための組合は、原則としての組合にとって不利な証拠を突きつけている。生産者にその生産物を交換することによって彼の食料を卸売価格で買える能力を授けてみよ。あるいは同じことだが小売業に卸売りで買う場合とほとんど同じ安さという利点を授ける条件で小売業を組織せよ。そうすれば組合は不要になる。商品が豊富な状況で暮らす人たちはそのような組合に加入する必要はない。そのような組合は価値があるというよりはむしろわずらわしいものである。

Pellegrino Rossi (13 July 1787 15 November 1848) was an Italian economist, politician and jurist. He was an important figure of the July Monarchy in France, and the Minister of Justice in the government of the Papal States, under Pope Pius IX.  (Pellegrino Rossi  8 April 2013, 21:39  Wikipedia, the free encyclopedia)

 このようにある一定の目的のために創設されたあらゆる社会で、契約の義務が厳密に必要である範囲を超えることが決してないということに注目されたい。組合員は実際互いのために部外者や法規に応接はするが、その範囲を超えれば彼らに義務はないのである。だからパリのいくつかの労働者による労働組合は、当初は必要以上に貢献することによって普段以上に実績を上げることを望み、賃金の平等の原則に基づいて組織されたのだが、後になってその原則を断念せざるをえなくなったのである。現在ではそのような組合の全てで、組合員は出来高払いの仕事をしている。したがって提携された貢献は主として労働からなり、各人は賃金や収益によって各人の生産高に応じて報酬を支払われているのである。労働組合は合資会社とはまさに正反対である。出資が労働ではなくお金によって行われているのが合資会社であり、そしてそのことは友愛関係とは全く正反対である。つまりあらゆる組合で組合員は労働や資本を出し合うことによって、それ以外の方法では入手できない何らかの利益を得ようとするのだが、できるだけ義務を遠ざけまたできるだけ独立を確保するように取り決めるのである。

087 このことは明らかではないか。だから今聖トマス(St. Thomas)に倣って「今まさにマニ教徒に抗して決定された!」*と叫ぶべきときではないか。

Conclusm est adversus Manichaeos!  =  It has been decided against Manichaeans! (原訳者注)

 いかなる外部の経済的配慮もなくまたいかなる主要な利益もなしに形成された組合は、つまり献身的行為いわば家族的絆としてのそれ自身のための組合は、純粋に宗教的行為であり、超自然的な結束であり、真の価値もなく、神話である。

 このことは信奉者たちを迎え入れるために示されたさまざまな組合理論を検証すると、極めてはっきりと浮かび上がってくる。

 例えばフーリエやフーリエの後に続くピエール・ルルーらは我々に次のことを保証している。つまりもし労働者が、性格を規定されたある組織上の精神的親近感、に基づいて集団を形づくれば、そしてそういう場合にのみ労働者は元気が出て能力も向上するだろうと、そしてまた普段は非常に沈んでいる労働者の気持ちは陽気で楽しくなるだろうと、また一人当たりおよび全体としての生産高は大いに高まるだろうと、そしてそういうところに組合の生産力の謎が潜んでいて、その生産力は今後経済力として位置づけられるかもしれないというものである。魅力的な労働は組合のこのような目を見張るような成果を説明するための一般に認められた定式である。このことはルイ・ブランやカベらの理論が哀れなことに立ち止まっている献身とは全く異なっているということが理解されるであろう。

 二人の卓越した社会主義者であるフーリエとピエール・ルルーは、彼らが語る象徴的な事柄を現実だとおそらく誤解したのだろう。まず第一に実際、集団力や労働の分割などに類似したこのような社会的な力をどこにも見かけたことがないし、魅力的な労働の発明者たちやその弟子たちでさえも、これから最初の実験をしなければならない段階にいるということである。そして第二には経済学や心理学の原則をほんのわずかでもかじったことがあれば、そのことは、仲間と一緒にいることに伴う陽気さやボートの漕ぎ手が共に漕ぐときに歌う歌などの魂の高揚と産業力との間にはなんら共通点がないということを示すのに十分であろう。そしてそのような精神の高揚を明らかにすることは、労働に伴う真剣さや無口なこととは正反対であることが非常によくあることであろう。労働は愛と共に人間の最も秘密で最も神聖な働きである。労働は孤独によって強化され、売春によって解消する。

088 しかしこのような心理学的考慮について指摘しまた実験的データの欠損についても指摘する検証は、次のような事実を考慮に入れていないのである。つまりこの二人の著述家が一人は『一連の対照的集団』(the Series of Contrasted Groups)*の中で、もう一人は『三の組』(the Triad)*の中で非常に膨大で深遠な研究の後で発見したと信じていることが、労働の分割、集合力、競争、交換、信用、そしてさらには財産と自由さえも含む産業上の実践の中に常に存在してきたものの神秘的で黙示的な表現に過ぎないということを考慮に入れていないのである。このような神秘性が全ての宗教の神学者に見られるように、古代ならびに現代のユートピア主義者たちにも見られるということがわからない人がいようか。後者がその神秘に包まれて哲学や人道主義的進歩の法則を繰り返し唱えてばかりいるのに対して、前者はその博愛的なエッセーの中で自分でも気づかないうちに社会経済の偉大な法則を夢見ているのである。そして人類を貧困や犯罪から救い出すはずのこれらの法則つまりこれらの生産諸力のほとんどについて私はすでに触れたところである。この法則こそ人を人に縛りつけることもなく、生産者にこの上なく完全な自由を与え、労働を軽減し、労働を鼓舞し、生産量を倍増し、全く人為的ではない義務を人々の間に確立し、全ての同情的な組合や全ての契約よりも強固な結束で人々を団結させることができる真の経済力であり、全ての富の非物質的な原則である。

The series of groups is the method adopted by God in the organization of the kingdoms of nature and of all created things. The naturalists, in their theories and classifications, have unanimously accepted this system of organization; they could not have departed from it without coming into conflict with nature and falling into confusion.  (Charles Fourier (1772-1837) “The Passionate Series”  Source: The Utopian Vision of Charles Fourier. Selected Texts on Work, Love, and Passionate Attraction.  Translated, Edited and with an Introduction by Jonathan Beecher and Richard Bienvenu. Published by Jonathan Cape, 1972;  First Published: in 1822, Théorie de l'unité universelle.  Transcribed(書写): by Andy Blunden.  https://www.marxists.org/reference/archive/fourier/works/ch18.htm)

*ピエール・ルルー(Pierre Leroux, 一七九七年四月七日 一八七一年四月十二日)はフランスの哲学者・政治経済学者。哲学上での彼の基本原理は彼が「三の組」と呼ぶそれである。全てのものに浸透しているという、彼が発見したある三の組で、神におけるそれは「力、知性、愛」、人間におけるそれは「感覚、感情、知識」である。(ピエール・ルルー 二〇一三年三月三〇日 () 一六:三〇 ウィキペディア フリー百科事典)

089 この二人の予言者によって公表された驚異は数世紀にわたって知られてきたことである。我々は『一連の対照的集団』の組織者が夢見た霊験あらたかな恩寵やサン・シモンの弟子がその追随者たちに約束した神の愛の贈り物などの影響を認めることができる。しかしこれらの影響は腐りきっており、また八九年と九三年の革命家たちがこれらを不法と裁定してしまったので、我々は株式市場や商品市場でのこれらの影響の変動を跡付けることができる。センチメンタルな恍惚からユートピア主義者の目を覚まさせよう。彼らに周囲で進行していることに注目していただこう。本を読み、人の話を聴き、実験をしてもらおう。そうすれば彼らのうちの一人が一連の対照的集団の、もう一人が三の組の、そしてさらにもう一人が献身のせいだときわめて情熱的に主張するものが、アダム・スミスやその後継者によって分析された経済諸力の産物にすぎないということを彼らは理解するだろう。

 私がこの議論を始めたのはとりわけ労働者階級のためを思ってのことであるから、私は労働組合について、労働組合が獲得した成果について、労働組合がこれから革命で果たすであろう役割についてさらに一言述べずに終わりにするつもりはない。

 これらの社会(societies)の大部分は、友愛理論に取り付かれまた自らは気がついていなかったかもしれないが原則の経済的重要性を確信している人たちで結成されている。そして概してこれらの社会は同情的に受け入れられたのである。これらの社会は共和国に好意的に受け入れられた。そして共和国は当初、社会に初めて構成員資格を認めたのだ。新聞広告も不十分だったわけではない。十分考慮されたわけではないがあらゆる成功のための要素が備わっていた。しかしそれらの要素は原則とは全く無関係だった。

 さて我々はこれらの社会をどう評価すべきか。

 これらの社会の中でかなりの数の社会が存続し続け、さらに発展しそうである。その理由を誰もが知っている。

 つまりこれらの社会のいくつかは、その事業の中で非常に腕利きの労働者で構成されている。つまりその社会を支えているものは技能の独占なのである。

 次に低価格で構成員を引き付け維持している社会もある。つまりこの社会に命を授けているのは競争である。

090 全く無料の奨励策である、政府による注文や信用を獲得できた社会は言うまでもない。

 最後に概してこのような組合全てについて言えることだが、古い秩序の下で生産者と消費者との中間に立つ仲買人、代理業者、後援者、資本家等々を無しで済ますために、労働者は人一倍働き、安い賃金でやっていかなければならなかったのである。ここでは経済学で全く当然とされる要因しか働いていない。そしてその要因を確保するためには、私がこれからすぐ後で示すように組合は必要ではないのである。

 確かにこのような社会の構成員たちは互いにまた公衆一般に対して非常に友愛の情にあふれている。しかしこのような友愛の情は彼らの成功の原因であるどころか、彼らの相互関係を律する厳格な正義にそれ自体が起因するものではないかと彼らに尋ねてみよ。そしてさらにもし彼らを元気づける施し物、また建材としての石が労働であり労働力を倍増させる力でもある大建造物、の鎹(かすがい)でしかない施し物、以外に彼らの事業に対する保証を見つけられなかったら彼らはどうなるのかと尋ねてみよ。

 社会を維持するために組合の疑わしい利点しかなく、その社会の事業は労働者が寄り集まることもなく個別に行われるかもしれないような社会に関していえば、それらの社会の運営は非常に困難であり、またそれらの社会は献身的努力か継続的な犠牲、無制限な忍耐によってしかその組織の空白を埋めることができない。

 急速な成功の例として食肉処理組合が引き合いに出される。そしてその組合は今いたるところで流行しつつある。しかしこの例は他のどんなものよりも、いかに一般大衆の不注意と観念の不正確さが広がっているかを示している。

 食肉処理組合は名前だけの組合であって、実はなんら組合ではない。それは肉屋の独占に反対して各共同体の市民が出資しあい市民によって支えられた競争である。この組合はともかく相互性(Reciprocity)*という新たな経済力とまでは言えないが新たな原則の適用である。そしてその相互性とは販売者と購買者とが価格を変更できないように原価でその製品を互いに保証することで成り立つシステムである。

*相互性は交換と同じものではない。それにもかかわらず相互性は交換の法則にますます近づき、そこで終わる傾向がある。この法則の科学的分析は「信仰と通貨の組織」(パリ、一八四八、ガルニエ兄弟Garnier Brothers)というパンフレットで初めて提示された。また最初のこの法則の適用は国民銀行(Peoples Bank)によって試みられた。(原訳者注)

091 そしてこの原則に肉屋の重要性の全てが基づいており、この原則は生活協同組合と呼ばれているのだが、組合員同士の交流はほとんどないので、多くの肉屋では株主を代表する監督の指示の下に賃金労働者によって仕事が行われている。この事業所のためには提携関係から離脱した最初の肉屋で十分であった。新たな原料のために出費する必要がなかったように、新たな従業員を雇うための出費も必要なかった。

 肉屋生協と食料品店生協が基づいているこの相互性の原則は、労働組合の中での組織上の原則として友愛の原則にとって代わる傾向がある。次に述べることは一八五一年四月二十日付の「共和国」紙が裁縫師によって結成された相互性組合(The Reciprocity)という新たな団体に関する記述である。

 「この人たちはもし経済学が正統な原則に基づいていたら、その日暮しで資力がまったくない莫大な数の労働者階級を希望のない永遠の奴隷状態に宣告するであろう「資本がなければ仕事も得られない」という古い経済学の格言に挑戦する労働者たちである。これらの労働者たちは公式の科学が規定するこのような絶望的な結末を認めることを良しとせず、むしろ富の生産と消費に関する合理的な法則の助言を求めることによって、労働を行うための不可欠な要素であると言われている資本が実は平凡な実用品に過ぎないと、また唯一の生産主体は人間の知力と腕であると考えている。したがって彼らはただ生産者と消費者との直接交流をさせることによって生産を組織化すること、また生産物の交換とその正常な消費を保証することが可能であると考えている。そうすれば生産者と消費者は抑圧的な仲介者を抑制することによって、現在では労働の最高の支配者であるとともに全ての人々の必需品と生活の最高の支配者でもある資本によってかき集められている利益を手に入れることが可能になるだろう。

092 「こうしてこの理論によれば個々の生産力と需要とを結合させることによって、つまり敵対する利害関係にあることをやめて資本の支配から永遠に逃れることができる生産者と消費者とを結びつけることによって、労働者の解放が可能となる。

 「実際、消費需要は一定しているから、もし生産者と消費者とが直接関係するようになれば、価格の変動つまり、投機が労働と生産に従うように強要する人為的な物価高騰と恣意的な値崩れ、の理由がもはやなくなるだろうことは明らかだ。

 「以上が相互性組合の理想であるが、この相互性組合の創設者たちは常に組合の製品と交換可能な商品券(notes of consumption)と呼ばれる紙幣を発行することによって、すでに彼らの能力を十分に発揮しこの相互性組合の理想を実現している。こうして組合は組合を利用する人たちから資金供与され、製品を原価で販売し、自身の労働報酬になんら加算せず、実際の労働に対するほどほどの請求をするだけである。以上が、特に次に示すような最近提起された経済学の重要な問題の全てにこの相互性組合の創設者たちが回答する合理的な解決法である。

あらゆる形態の搾取の廃止

資本の段階的で平和的な廃止

無利子の信用貸しの創設

労働の保証と公平な労働報酬

底辺階級の解放」

 以上のような裁縫師組合は、今日まで商業慣行において日の目を見ずまた利用されてこなかった経済力に公式にいわば科学的に基づいて創設された最初の組合である。このような経済力を利用することは決して社会契約をなすものではなく、せいぜい商人と顧客との相互的で対等な関係が公式に表現されないとしても少なくとも理解はされるような交換上の契約に過ぎないことは明らかである。そしてかつて共産主義者であったこの記事の著者が組合という語を、相互性組合が生産者と消費者との間に発展させることを提起する新たな関係を指すために用いるとき、彼がかつての先入観に屈していることあるいは彼が慣習に影響されていることは明らかである。

093 さらに相互性組合の創設者たちがこの立派な原則を提供してくれたことに対して「共和国」の著者は彼らにそれ相応の栄誉を授けるとともに、彼らを導くために彼らの理論に関係する次のような根本的事実を彼らに思い起こさせるべきであった。つまり生産者が消費者に対して原価でその製品を手放さねばならないという新たな経済力をなす義務は、本質的には相互的で両面的であるということである。そしてさらにもし相互性の法則があまねく採用されそれが実行に移されるならば、そのような義務は労働者組合の基礎としては十分ではないだろうということ、またこのような基準だけに基づいて形成された社会はそれ自身を維持しなければならず、この社会を蔑視するこの社会の大多数の人々がその構成員にその儲けを手放さねばならないということ、そしてさらに相互性が全ての市民の同意によって社会経済の法則になった日には、この社会のメンバーではない最初にこの社会にやってくる人は、この社会が提供するのと同じ便益を、彼にとっては全てを含んだ経費が不要である点で、より有利に公衆に提供することができるということ、そしてそうなればこの社会は無目的になるだろうということだ。

 組織のあり方が相互性の基本的な定式により密接である同種のもう一つの組合が家事組合(The Housekeeper)であり、この組合について同じ新聞の「共和国」紙は五月八日付の記事の中で説明した。この組合の目的は消費者に対して低価格で良質でごまかしもなくすべての消費財を保証することである。この組合に加入するためには社会資本(social capital)と呼ばれる一ドルとさらに行政の一般経費のために十セントを寄付することだけで十分である。この組合の構成員が全く責任を引き受けず、いかなる関与もせず、注文して自宅に配達された商品の代金を支払う以外には何の義務も引き受けないということに注目していただきたい。組合を包括的に代表する人だけに責任があるのである。

094 原則は二つのケースで同じである。肉屋生協の場合は安い価格、良い品質、十分な重量などの保証は、人数が制限され特別の代理人によって運営される合資会社によって、また所有者と支配人の機能をこの特別な部門に向けて手放すことによって得られる。家事組合の場合は一ドルと諸経費のための追加の十セントの寄付に基づいて全ての消費財を提供する責任を引き受けあらゆる種類の業種を代表する総合支配人がいる。裁縫師組合では商品券という幅広い用途には役立つが現時点では真の利益にはほとんどならない一つの追加的な機構がある。肉屋生協、家事組合の創設者、相互性組合の裁縫師などがその構成員たちに関与するように、市内の全ての商人、工場経営者、販売員などが彼ら同士に対してまた大衆一般に対して関与するならば、組合は普遍的なものになるだろう。しかしそのような組合はもはや全く組合とは言えないだろうことは明らかである。商業慣行が変更されるだろうし、それだけのことだ。相互性はすでに規範になっているだろうが、すべての人は以前と全く変わりなく自由であろう。

 したがって組合が不可欠であるような状況があることを私は認めるから、組合が人間の取引のシステムから完全に消滅してしまうだろうと言うつもりは全くないけれども、それでも組合の原則の実践によって日毎にその組合の原則の存立が危ぶまれていると矛盾を恐れずに断言できる。そしてほんの三年前に労働者全てが友愛組合を目標にすえていたのだが、今日では彼らは次のような保証体系を目標にすえているのだ。つまりその保証体系がいったん出来上がると、よく注意されたい、その体系は或る様々な場合では組合を強要するのと同時に、別の様々な場合には組合を浅はかなものだと決め付けるだろう。根本的には既存の組合には、互いに直接関与させるように生産者と消費者の抑え切れないほどの大集団を形成するときに、このような結果をもたらす以外の目的はないのである。

095 しかしもし組合が生産力ではないとすれば、そしてそれどころか労働者階級が当然自らを解放しようとするわずらわしい状況を組合が課すならば、組合はもはや組織形成の法則とは看做されないだろうし、また組合は平衡状態を保証するどころか、全ての人々に正義や各個人の責任の代わりに全般的な義務を課すことによってどちらかというと調和を破壊する傾向があるだろうことは明らかである。したがって組合は正義の観点からしてもまた科学的な要因としても受け入れがたいものであり、ただ感情論として、また神秘的な原則や神的な組織としてしか受け入れられないのだ。

 それにもかかわらず組合の擁護者たちは彼らの原則が不毛であること、それが自由に反していること、したがって革命の最高の定式としてほとんど受け入れがたいものであることなどに気づいているのに、この友愛の幻影を死守しようとしてとても信じがたいほどの努力を何が何でもしようとしている。ルイ・ブランはあたかも革命を革命化したいかのように共和国の標語を反転させることまでしたのだ。彼は他の皆が言っているようにつまり伝統に則って自由、平等、友愛とはもはや言わないで、平等、友愛、自由と言うのである!我々は今日では平等から始める。我々は最初の言葉として平等を持ってこなければならない。そしてその平等の上に我々は革命の新たな機構を築かねばならないのだ。自由に関して言えば、自由は友愛から導かれるのである。僧侶が死後の楽園を約束するように、ルイ・ブランは組合の後に自由を保証するのである。

 このような言葉の置き換えを弄(もてあそ)んでいる社会主義がどんな社会主義になるのかについては読者のご想像にお任せしたい。

 平等!私は平等が、理論も制約も不必要な自由の必然の産物であるといつも考えていた。いいですか、経済力の組織化、労働の分割、競争、信用、相互性それにとりわけ教育などからこの平等が生まれるだろうと私は考えていた。ルイ・ブランはこの全てを変えてしまったのだ。これは新たなスガナレル*(Sganarelle)だ。ルイ・ブランは二人の盗賊の間に取り囲まれたイエス・キリストのように平等を左に、自由を右に、友愛をその二つの間に配置する。我々は自然が我々に与えてくれた自由を平等になるために手放す。そして労働だけが前段階としてまた国家の命令によって我々を平等にすることができ、その平等の後に我々は政府の都合に沿うように多かれ少なかれ自由となるのだ。

*モリエール(Molière)の一六六五年初演の喜劇ドン=ジュアン(Don Juan ou le Festin de Pierre)の登場人物。妻を逃れ旅に出た女たらしのドン=ジュアンと従僕スガナレルの行状を人間探求の立場から風刺的に描く。(小学館精選版日本国語大辞典)

各人の能力に応じて各人から

各人の必要に応じて各人へ

096 ルイ・ブランによれば平等がこのことを要求するのである。革命家としての能力がこんな詭弁に転落するような革命家たちを哀れんでやろうではないか。しかしだからといって彼らを論駁しないでおくことはやめよう。なぜならば無実の人たちの王国(Kingdom of Innocents)は彼らのものであるからだ。

 もう一度原則を思い起こしてみよう。ルイ・ブランが定義しているように組合は要するに契約を結ぶ人たちを例外なくあるいは部分的に(一般的ならびに特別な組合、民法典(Civil Code)、一八三五条)平等に扱い、その構成員の自由を団体の義務に従属させ、彼らを没個性化させ、M・ヒューマン(M. Humann)が「納税者に可能な限り全ての税金を払わせよ」という格言を定めたときこの納税者たちを扱うであろうのと同様にその構成員を扱うような契約である。この男はどれだけの量を生産できるのか。この男を食わせておくのにどのくらいの経費がかかるのか。こういう問こそ、ルイ・ブランが組合員の権利と義務を要約する「・・・各人から、・・・各人へ」という定式、どう表現したらいいのか、頽廃した定式とでも呼ぼうか、そういう定式から生じる至高の問なのである。

 それではこの男の能力を誰に決定させるのか。この男の必要なものを裁定する者を誰にするのか。

 私の能力は百だとあなたは言う。私は九十しかないと主張する。あなたはさらに続けて私の必要なものは九十だと言う。私は百だと断言する。必要とするものと能力に関して我々の間に二十の開きがある。つまりこれは需要と供給という周知の議論である。団体と私との意見の相違を誰に裁定させるのか。

もし私が抗議しても団体が固執すれば私は身を引く。そしてそれだけのことにすぎない。その団体は組合員の不足のために消滅する。

 もしこの団体が強制力を行使して私に強制しようとするならば、偽善者め!と私は団体に向かって言う。お前は資本と権力によって私が略奪されるのを救い出してくれると約束した、それなのに今は平等と友愛の名の下に今度はお前が私を略奪する。かつて彼らは私から奪い取るために私の能力を過大評価し、私の必要とするものを過小に見積もった。私が製品を作るのにほとんど経費がかかっていないし、私が生きていくためにほんの少ししか必要でないと彼らは言った。お前は同じことをやっている。それでは友愛と労賃体系との間にどういう違いがあるというのか。

097 組合は次の二つの場合のいずれかである。一つは組合が強制的である場合であり、それならそれは奴隷制である。もう一つは組合が任意加入である場合であり、それならこう問いたい。つまり組合の構成員がその能力に応じて仕事をするだろうというどんな保証を組合は確保できるのか。そしてまた組合がその構成員の必要に応じて彼に報酬を与えるだろうというどんな保証を構成員は確保できるのだろうか。そういう議論には製品と必要とが、純然たる自由の規則へと我々を導く相関的な表現と看做されるという一つの解答しかないことは明らかではないだろうか。

 ここでちょっとじっくり考えてみよう。組合は経済力ではない。組合は人の心の内面のあの法廷の前においてのみ義務がある良心の拘束でしかないということ、したがって労働と富とに関して何の効果もなくむしろ有害でさえあるということである。そしてこのことを私が証明するとき多かれ少なかれ巧みな議論の助けを借りる必要はない。それは組合の発生以来の産業実践の結果なのである。革新の世紀に社会的な事柄を理解することにおいて第一人者であることで定評のある著述家たちが全く主観的な原則について、そしてまた世界中のあらゆる世代の人たちによって根底まで調べられた原則について、あれほど大騒ぎしたとは後世の人たちも理解しがたいだろう。

 三千六百万人の人口の中で農業に従事する人たちが二千四百万人いる。諸君はこれらの人たちを決して組合に加入させることができない。組合がどんな役に立つと言えるのか。土を相手に仕事をすることはなんら社会的な計画を作成する必要がない。そして小農の精神は組合を嫌っている。小農が一八四八年六月の弾圧を喝采したことを思い起こして欲しい。小農はその弾圧の中に共産主義に抗する自由の行為を見出したのだ。

 残る千二百万人のうち商人、職人、雇用主、役人などで構成され、組合が何の目標にならないし、儲けにもならないし、興味も引かないと考える少なくとも六百万の人々は自由でいることのほうを選ぶだろう。

098 そしてよく吟味もせずにまた約束の力に影響されて現在の状態が労働組合に対する関心を高めるかもしれない賃金労働者階級を一部に含む六百万の人たちがいる。私はこの六百万の人々、お父さん方、お母さん方、子供たち、お年寄りなどに向かって前もって敢えてこう言いたい。つまりもし彼らが感じていると空想する組合加入のための理由よりも、そしてまた私がその空虚さを証明して見せた理由よりも、重大で真実な理由を革命が彼らに示すことができないとすれば、彼らは早く自発的な軛(くびき)から自らを解放した方がいいということだ。

 確かに組合は諸国家の経済においては有用である。そして労働組合は近い将来重要な役割を果たすように要請されている。そしてまた賃労働体系に対する抗議としてまた相互性の容認としての期待が寄せられている。こういう役割は主として大規模な労働手段の管理に見られるだろうし、また大きな共同作業による効果と同時に労働機能を細部にまで分割する必要がある何らかの大事業、そしてもし組合が否もっと適切表現を用いれば参加制度が導入されたら労働者階級にとってはその分だけ学習の場となるような何らかの大事業を実施する際にも見られるだろう。そしてそのような事業はとりわけ鉄道である。

 しかし組合はそれ自身では革命的問題を解決しない。それどころか組合は問題である。そしてその問題の解決は組合の利点を全て維持しながら組合員がその全ての独立性を享受すること、つまり最善の組合はよりよい組織化のおかげで自由が最も多く入り込み、献身度が最も少なく入り込むような組合であるような内容となろう。

 このような理由から労働組合を導く原則に関して性格を今ではほとんど変えてしまっている労働組合は、それが手に入れる多かれ少なかれうまく行った成果によって判断されるべきではなく、社会主義共和国(social republic)を主張しかつ創設しようとする静かな傾向だけで判断されるべきである。

 労働者たちが知っていようがいまいが、彼らの労働の重要性は下らない組合の利益にあるのではなく、最初の革命が手をつけずじまいだった資本家、高利貸、政府などの支配を労働者が否定することにある。そうすれば後になって労働者たちが政治的な嘘、商業の混沌、経済における封建制などを制圧した暁には、労働者諸団体はパリの法律の条項やそれに似た慰み物を捨て去り彼らの当然の遺産であるところの大きな産業部門を引き継ぐはずである。

099 しかし偉大な革命家である聖ポール(St. Paul)が述べたように、間違いにはその全盛時代がなければならない。異端が現れなければならない。我々がまだユートピア的社会主義者を撲滅していないということは懸念すべきことである。組合は某階級の説教者やおしゃべりどもにとって当分は扇動の口実や知ったかぶりの道具であり続けるだろう。組合が駆り立てる野望、献身の装いをした妬み、組合が目覚めさせる支配本能などのために組合は当分残念ながら人々の間での革命理解を遅らせる先入観であり続けるだろう。労働組合自体がその最初の成功を正当なことだが自慢し、以前の雇用主との競争に夢中になり、彼らの中に生まれた新たな権力をすでに崇め奉っている証言に酔いしれ、全ての友愛団体と同様に権力志向の優越性を打ちたてようと熱心になっているのだから、そういう労働組合が行き過ぎを押さえ、自らの分相応の範囲内に留まろうとすることはやりにくいことだろう。極端な要求、きわめて非合理な連携、災厄をもたらすような変動などが起こるかもしれない。そしてそういったことは社会経済の法則をもっとよく知っていれば防げていたことかもしれない。

 この点に関して歴史上重大な責任はルイ・ブランにあるだろう。リュクサンブール宮で「平等、友愛、自由」というあのなぞなぞで、「・・・各人から・・・各人へ」というあの呪文で初めてイデオロギーを観念に惨めにも対立させ、社会主義に抗して常識を駆り立てたのは彼だった。彼は革命の働き蜂であると自認していたが、実はバッタにすぎなかったのだ。彼は労働者階級を彼の馬鹿馬鹿しい定式に感染させた後で、沈黙の恩恵を、誤りの一日間彼の手に落ちてしまった労働者階級の目標に授けるかもしれない。

 

 

 

第四研究 権威の原理

 

 

100 この研究の過程で私がちょっとうぬぼれの感情を暴露してしまうような言葉を漏らすとしてもどうか読者諸氏にはご勘弁をいただきたい。権威というこの大問題を論じるとき一方では革命を断定的に主張する者が今のところ私一人しかいないという点で、またもう一方では私自身人一倍に嫌っているよこしまな考え方を私のせいにされているという点で、こういう二重の意味で私は残念に思っている。こんなに高尚なテーマを擁護するとき私が私自身の個人的な主張を弁護するように思われるとしてもそれは私の責任ではない。私は知的な読者が何ものをも失わないようにするために、たとえ私が胸を張って自らを弁護することができないとしても、少なくとも私は自説を弁護するつもりだ。さらに人間の精神は反対する考え方との衝突時に光明が浮かび上がってくるときほどはっきりと光をとらえることができないように造られている。ホッブスも言うように人間は闘う動物である。神自身が我々人間をこの地上に住まわせたとき、労働と闘いをどんどん増やせという格言を授けたのであった。

 私はよく覚えているが十二年ほど前に私が当時は予測もつかなかったような政治的結末を全く予測せずに、ただひたすら哲学の更なる栄光のためだけに、社会の基礎についての研究に取り組んでいたころ、私が提唱してから次第に大きな名声を獲得するようになった否定という考え方、つまり政府と財産の否定という考え方を世に問うたのだが、その時私が最初の提唱者であった。私以前の他の人たちも自らが最初であり、ユーモアを解し、あるいは逆説を追及しているなどと思われようとしてこの二つの原理を否定していた人たちもいたが、一人としてこの否定という考え方をまじめで真剣な批判的テーマとして扱わなかった。現代の非常に人のいいジャーナリストであるペルタン氏*(Pelletan)はある日私の弁護を引き受け自ら進んで読者に次のような並外れた発言をしたのであった。つまり私があるときは財産を、あるときは権力を、またあるときは他の何かを攻撃するとき、私が脳みその足りない連中の注意を引くために空に向けて鉄砲を撃っているというのだ。ペルタン氏は善過ぎるくらいにいい人だったし、私は彼の親切にいくら感謝してもしきれないくらいだ。しかし彼は私のことを学者ぶった男だと思ったに違いない。

Pierre Clément Eugène Pelletan (29 October 1813 13 December 1884) was a French writer, journalist and politician.  Elected to the National Assembly in February 1871, he approved the politics of Thiers and became vice-president of the Senate in 1879. In 1884, he was elected senator for life.  (Eugène Pelletan  10 July 2014 at 13:39  Wikipedia, the free encyclopedia)

101 哲学においても政治、神学、歴史においても否定は肯定にたどり着くための前段階としてぜひ必要なものであるということを国民はもうわかってもいいころである。あらゆる進歩は何かを廃止することによって始まる。あらゆる改革は何らかの悪用を弾劾することに基づいている。どの新しい考え方も古い考え方の不十分さが証明されることに基づいている。だからキリスト教は神々が多数存在することを否定し、古代ギリシャ・ローマの多神教の観点からすれば無神論となることによって神の統一性を主張し、そしてこの統一性からその全神学体系を導いたのだ。そしてルターは教会の権威を否定することによって理性の権威を主張し、現代哲学の最初の礎石を据えたのだ。また我々の祖先つまり八九年の革命家たちは封建支配の無欠性を否定することによって、十分理解しないままではあるが何か別の政治体制の必要性を主張したのであり、その体制を説明することは現代の使命なのである。だから最後になるが私自身は秩序の原理としての政府の不合理性と無効性を読者諸氏の目の前に新たに示すことによって、新たな形式の文明をもたらすに違いない生産的で肯定的な考え方をこの否定から生じさせるつもりだ。

 このような考察における私の立場をもっとよく説明するためにもう一つの比較をしてみよう。

 機械類について言えることは物の考え方にも当てはまる。最初の道具例えば鍬、熊手、斧、荷馬車、鋤などを誰が発明したのかは誰にもわからない。これらの道具は古代から地上の全ての国々で見られるものである。しかしこのような自然発生性とも言える事柄は機関車、銀板写真術、気球飛行、電信などのような完成された道具においては見当たらない。もし敢えてこう言ってもいいとするならば、神の指はここにはもはや見当たらない。発明者の名前、発明者が最初に実験した日などは知られている。長期的な実践的技術と共に科学の助けが必要とされてきたのだ。

102 人類にとって役に立ち人類を導いてくれるような物の考え方もこのようにして生まれ発展するのである。最初の物の考え方は自然発生的で直接的な直感によってもたらされ、そこでは優先権は誰からも要求されえない。しかしこのような常識がもたらす贈り物が集団生活にとってもはや十分ではなくなるような時がやって来る。そういう時こそこの不十分さを指摘することができる理性だけが欠陥を補うことができるのだ。全ての国々が独自に教師の力も借りないで権威、財産、政府、裁判、崇拝などの観念をつくり組織してきた。そして今ではこれらの観念の力が弱まりつつあるのだから、そしてまた秩序立った分析が、もしこう言ってもいいならば公式の探求が、理性や社会の法廷でその不十分さを証明しているのだから、問題は我々が科学の判決によって間違いであり有害であると裁決される観念に代わるどんなものを科学を用いて見つけられるかである。

 そして政府や既成の財産に抗する見解を公然と人々の目の前にある種の超法廷的行為によって最初に提起する人は誰でも、新たな社会機構に関する自らの考えをさらに説明しなければならない。以前その批判を試みたように私はこれからその解決方法を示すつもりだ。つまり現代の人たちに彼らの欠陥を認識させた後で、私は彼らの望んでいることにまつわる秘密を解明するつもりだ。私は予言者であるかのように振舞うことは断じてない。つまり私がある観念を発明したかのように振舞うことは断じてない!私は見て、観察して、書くのだ。ダビデと同様に「私が話したから信じたのだ」と言えるかもしれない。

 きわめて単純な疑問にどうしていくばくかの曖昧さが付きまとわねばならないのだろうか。

 哲学的概念は売ることもそれで特許を取ることもできないのに、哲学的概念の価値を知っていてまたそれを発見したことの栄誉に浴したいと考える高貴な精神の持ち主にあっては、哲学的概念における優先権は産業上の発明における優先権に劣らず競争の対象である。技術に応用される機械の改良の分野におけるように純粋な思想の分野においても競争や模倣があり、さらにまた私は危うく偽造もあると言いかけるところだったが、それはこういう強烈な言葉を使って、現代の世代の優越性を証明する名誉ある人たちの野望を中傷することになるのではないかと恐れないとすればの話である。無政府という観念にはこういう運命が付きまとっていた。政府を否定するということは二月革命以来新たな熱意とともに若干の成功を収めながら更新されてきているのだが、無政府の観念即不穏な動きと解する考えに取り付かれた民主主義党派や社会主義党派に属する某著名人たちは政府に抗して向けられる議論を盗み取り、本質的に否定的であるこれらの議論の上に新たな名前を冠しまたいくつかの変更を加えることによって、危険にさらされている原理そのものを回復できるかもしれないと考えたのである。これらの名誉ある市民たちはそうする意図もなしにまたそうではないかと勘ぐりもしないで、反革命家の立場を取ったのである。なぜならば偽物は、結局この言葉は他のどんな言葉よりもよく私の考えを表現できるのであるが、この偽物は政治問題や社会問題においてまさに反革命であるからだ。私はこの点についてすぐ後で証明するつもりだ。以上のことこそ権威のこのような復活が本当に意味することであり、無政府に対抗して最近取られてきた行動であり、直接立法(Direct Legislation)や直接政府(Direct Government)などの名の下で、― そしてこれらの著者や編集者はまず最初はリティングハウゼン氏(Rittinghausen)やコンシデラン氏*(Considerant)であり、後にはルドリュ・ロラン氏*(Ledru Rollin)であるが、― 大衆の注目を浴びてきたことなのだ。

Victor Prosper Considerant (12 October 1808 27 December 1893) was a French utopian Socialist and disciple of Fourier. (Victor Prosper Considerant  9 July 2014, 16:46  Wikipedia, the free encyclopedia)

Alexandre Auguste Ledru-Rollin (2 February 1807, Paris 31 December 1874) was a French politician.  (Alexandre Auguste Ledru-Rollin  4 July 2014, 14:04   Wikipedia, the free encyclopedia)

103 コンシデラン氏やリティングハウゼン氏らによれば、直接政府という観念の最初のものはドイツを起源としており、またルドリュ・ロラン氏においては若干の留保つきで主張しているだけだが、最初のフランス革命を起源としている。そしてこの直接政府という考えは九三年の憲法や社会契約論(Social Contract)の中で長々と論じられている。

 今度は私がこの議論に加わるとすれば、それは優先権を要求するためではない、私はこの問題が語られてきた言葉を用いてまた私の全ての力を振り絞ってこの優先権を拒否すると理解されたい。直接政府や直接立法は政治や哲学の研究紀要における二つの最大のへまのように私には思われる。ドイツ哲学を徹底的に理解しつくしているリティングハウゼン氏がどのようにして、また「フランスにおける政治の解体」(Breaking-up of Politics in France)というタイトルで十年ないし十五年前に小論文を著したコンシデラン氏がどうして、そしてまた九三年の憲法に署名したとき直接政府を実行可能にするためにまた直接政府を常識の範囲内に留めるためにあれほど寛大で無駄な努力をしたルドリュ・ロラン氏がどのようにして、つまり私は尋ねたいのだがこれらの紳士諸君が今まで次のことをどうして理解してこなかったのかということである。つまり彼らが間接政府に抗して用いる議論そのものに、直接政府に抗しても等しく当てはまらないような説得力はないということ、彼らの批判は絶対的なものにされたときにしか認められないということ、そしてまた彼らは中途半端で立ち止まってきわめて哀れな矛盾に陥ったということである。そしてとりわけ彼らが主張する直接政府は政府的観念の愚かさへの逆戻りにすぎないということがどうして彼らにはわからなかったのだろうか。というのは観念の進歩や利害の複雑さなどのために社会があらゆる種類の政府を破棄しなければならないとすれば、まさにその理由は合理的で自由で平等であるように見える政府の唯一の形態である直接政府が、それにもかかわらず不可能であるからなのだろうということだ。

104 一方明らかに観念の発明にあるいは少なくともその完成に参加したいと切望して「政府の単純化による権威の廃止」(Abolition of Authority through the simplification of Government)という定式を提案したド・ジラルダン氏*(de Girardin)がここに現れる。ド・ジラルダン氏はこの馬鹿げた企てでどうしようとしていたのだろうか。脳みそのいっぱい詰まったあのような精神の持ち主は抑制することができないのだ!ド・ジラルダン氏よ、君は機敏すぎて何も成し遂げられないのだ。思想が言葉に対応し、また観念は事実に、魂は肉体に対応するように、権威は政府に対応する。政府が実践上の権威であるように、権威は原則の観点から見た政府である。そのどちらかを廃止することは、もしそれが本物の廃止であるならば、二つとも廃止することである。同様にしてそのいずれかを維持することは、もしその維持が実効的であるならば、二つとも維持することである。

Émile de Girardin (22 June 1802 27 April 1881) was a French journalist, publicist, and politician.  (Émile de Girardin  27 June 2014, 11:13  Wikipedia, the free encyclopedia)

さらに言い添えるならば、ド・ジラルダン氏の単純化は長い間世に知られていた。それは商人が仕訳帳と呼ぶものから借用された重要な登場人物で構成されている。三人の事務員がいる。最初の事務員の名前は借金であり、二人目は資産であり、三人目は貸借勘定である。彼らをあれこれとこき使い彼らに命令を下す主人以外は全てがそろっている。ド・ジラルダン氏の頭脳が毎日生み出す何千もの観念のうちで、そしてそのどれもが定着することはないのだが、彼の政府のこの不可欠の機能を実行する観念を彼がいずれ見つけるだろうことは明らかだ。

105 国民に対して公正な判断が下されなければならない。国民がこれまでにきわめてはっきりと見てきたことは直接政府、単純化された政府、直接立法、九三年の憲法、政府(Government)などこれらの立派な政府的統治に関する発明の全ての中のどんなものであれ、それらは非常に疲弊していてますます無政府の方向に向かう傾向があるということだ。読者諸氏はこの無政府という言葉にどんな意味でも好きなように付与してもかまわない。コンシデラン氏やリティングハウゼン氏にその研究を続けてもらおう。ルドリュ・ロラン氏には九三年の憲法をさらに深く研究してもらおう。ド・ジラルダン氏にはさらにその霊感に自信を持ってもらおう。そうすれば我々は直ちに純粋な否定にたどりつくだろう。そのことが成し遂げられたらこの否定は自らに否定を対置することによって、ドイツ人が言うように肯定を発見すべく存在することにしかならないだろう。革新的な人たちよ、前進せよ!せっかちにならないでそしてもっと大胆に!遠くから諸君の目前に差してきた光に従え。諸君は古い世界と新しい世界との境界にいるのだ。

 一八五〇年の三月と四月に革命は次のような問を投票者たちに投げかけた。つまり王政かそれとも共和制かだ。投票者たちは共和制に賛意を表明した。革命は勝利したのだ。

 私は今日では一八五〇年の二者択一問題には次のような意味しかなかったと責任を持って示すことができる。つまり政府かあるいは無政府かである。反動家諸君よ、もし諸君がこの二者択一問題に反駁できるのならば、諸君はすでに革命の核心をついてしまっているだろう。

 直接立法や直接政府、単純化された政府などに関して言えば、それらの著者たちは、革命家としての立場に対してあるいはリベラルな思想家としての名声に対してほんのわずかでも配慮するつもりならば、できる限り早く辞表を提出した方がいいと私は考える。

106 私は簡略に述べるつもりだ。ちゃんとした形式でそして全ての有益な様々な意味の違いを含めてこれほど重大な問題を説明するためには何冊もの書物を必要とするだろうことを私は知っている。しかし今日では人々の頭の回転は速い。彼らはすべてを理解し、全てを推測し、全てを知っている。彼らの日常経験や直感的自発性は論理学や学識に取って代わっている。ほんの四年前でも専門的な政治評論家による二つ折りのフォリオ版の本を一冊必要としていたであろうような内容を、今では彼らはほんの数ページで理解できるのだ。

 

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一 従来の政府否定論

 

 

 政府に代わる観念の出現

 

106 人間が初めて社会における秩序を考え出した形式は家父長的形式か階層的形式である。つまり原理では権威であり、実務では政府である。正義は後世になってから分配的正義(distributive justice)と交換的正義(commutative justice)とに分けられたのだが、当初は分配的正義の下でのみ現れた。つまり一人の優越した者が劣った者たちにそれぞれの分け前を恵んでやるというやり方である。

 統治的観念は家族の習慣や家庭内の経験から生じた。だからどんな抵抗も生じなかったのである。子供が父親に従うように政府は社会にとって当然のように思われた。だからド・ボナール*(de Bonald)氏は家族が国家の基本的な階級を再生産するその国家の胚のようなものであると、つまり王は父親の中に、大臣は母親の中に、そして臣民は子供の中にその原型を見出すことができると言うことができたし、またそう言ったのも正当なことであった。だからまた家族を社会の初期段階と看做す全ての友愛的社会主義者たちは、政府の最も誇張された形式である独裁制にたどりつくのである。ノーブー(Nauvoo)のカベ*(Cabet)氏の土地での彼の政治がその良い例である。観念のこの連想を我々が理解するのにこれ以上の時間を必要とするだろうか。

*ルイ・ガブリエル・アンブロワーズ・ド・ボナール (Louis Gabriel Ambroise, Vicomte de Bonald, 一七五四年十月二日 一八四〇年十一月二十三日)はフランスの著述家、反革命哲学者、政治家。(ルイ・ガブリエル・ド・ボナール 二〇一三年五月一〇日 () 〇四:二一 ウィキペディア フリー百科事典)

Étienne Cabet (January 1, 1788 November 9, 1856) was a French philosopher and utopian socialist. He was the founder of the Icarian movement. .. The remainder moved to Nauvoo, Illinois, to a site recently vacated by the Mormons. A new colony was established in "Icaria, Iowa" (near what is now Corning, Iowa). After disputes within the Nauvoo community, Cabet was expelled and he went to St. Louis, Missouri, in 1855, where he died the following year. The last Icarian colony at Corning disbanded in 1898.  (Étienne Cabet  16 October 2014, 07:14  Wikipedia, the free encyclopedia)

 この政府による秩序の原初的な概念はあらゆる民族の中で見出される。そしてもし権力の行動を組織し、修正し、制限するための努力が、またこの権力の行動を一般的な必要物や特別な状況に振り向けるための努力が全くの初めから、政府の否定が政府の肯定の中に含意されているということを示すものであるならば、家父長的国家観のライバルとなるような仮説が生じなかったことは明らかである。精神は常に不変だったのだ。国家が、未開で野蛮な状態を抜け出すとすぐに政府的統治システムに向かい始め、常に同一の組織的循環つまり歴史家や政治評論家たちが王制、貴族制、民主制という互いに他の後に続く政治システムとして提示する組織的循環の中をあちこちと動き回ってきた様を、我々は見ることができる。

107 しかしもっと深刻なことがある。

 政府に対して好意的な偏見は我々の意識の最奥の深層に沈潜しており、またあらゆる理性をその鋳型の中に押し込んでいるので、他のあらゆる概念の発生が長い間不可能にされ、最も大胆な思想家でさえも政府が人間にとって明らかに鞭や体罰であり政府は必要悪であると言わざるを得なかったのだ!

 だから今日に至るまで、最も解放的な革命でさえまたあらゆる自由獲得運動の勃発が、常に権力への信仰と従属の繰り返しに終わったのであり、あらゆる革命が暴政を再興するためにだけ奉仕してきたのである。それでもフランス民主制の二つの最も進歩的な表現である、一八四八年の憲法と同様に九三年の憲法もこの例外ではないのである。

 こんなにも長い間このような精神的傾向を存続させ政府の魅力を避けがたいものにしてきた理由は、政府が、社会と家族との想像上の類似によって正義の当然の機関として、また弱者の庇護者として、平和の維持者として人々の心の中にいつも現れてきたからである。神的な配慮や完全な保証などを政府によるものであるとすることによって、政府は人々の知性と同様に心情にも根を下ろしたのである。政府は普遍的精神の一部をなし、人々の信頼の的、心の内奥の無敵の迷信となったのである!もしこの信頼が揺らいだとしても悪いのは組織ではなく運用の方であると、人々は宗教や財産と同様に政府についても語ったのである。悪いのは王様ではなく大臣たちなのだ。ああ、王様が知っていてくれさえしたら!

108 こうして統治的権威に関する階層的・絶対主義的見解に、魂に訴える理想が、自由や独立への切望に反して不断に陰謀をたくらむ理想が付着する。人々は革命のたびにその心情に沸き起こる霊感に従って政府の欠陥を改革しようと思うのだが、自分自身の考えによって欺かれてしまう。人々は自らの利益に沿うような権力を確保しようと思うのだが、実際は常に自分たちに反するような権力を手にしてしまう。つまり保護者ではなく暴君を手に入れてしまうのだ。

 実際の経験が示しているように政府はもともとたとえどんなに人々のためのものであったとしても、あらゆる所でそして常に、人数が多く貧しい階級の利益に反して最も裕福でまた最も高い教育を受けた階級の側に与してきたのであり、また政府は徐々に偏狭で排斥的になってきており、そして政府は全ての人々の間の自由と平等を維持する代わりに、特権へと向かうその生来の傾向のために、自由と平等を破壊しようと執拗に画策しているのである。

 我々が先の研究で示したように一七八九年以来革命は何事も打ち立てず、またコラール氏*(Collard)が表現するように、社会は砂塵に帰してしまい、富の分配は偶然に任されてしまったので、人間そのものと同様に財産をも保護することがその任務である政府は、実際、貧乏人の不利となりお金持ちには有利になるように組織されるようになった。このような不合理を当時わが国の政治的枠組みの中に具体化したほうが良いと思われていたのだが、現在では全ての政府でこの不合理が普通のことであると理解できない人がいるだろうか。どの時期にも財産は労働だけに基づくと看做されたこともないし、またどの時期にも労働は経済的諸力の平衡によって保証されてこなかった。この件に関して十九世紀の文明は中世の文明と同じくらい進歩していないのだ。権威はどのような経路で確立された権利をも保護することによって、またどのようにして獲得された利益をも保護することによって、常に不運に対しては不利になり富に対しては有利になるように振舞ってきたのである。政府統治の歴史はプロレタリアートの殉教史である。

Antoine-Athanase Royer-Collard (February 7, 1768 November 27, 1825) was a French physician who was born in the village of Sompuis, département Marne.  One of his famous patients at the Charenton was Donatien Alphonse François de Sade (17401814), better known as Marquis de Sade, who spent the last eleven years of his life incarcerated at the asylum. Royer-Collard protested against the imprisonment of Marquis de Sade at the Charenton, believing him to be sane, and his only madness being vice. (Antoine-Athanase Royer-Collard  17 March 2014, 15:20  Wikipedia, the free encyclopedia)

109 とりわけ統治形態の進化における最終段階である民主制において、権力によるこのような避けがたい民衆無視について研究する必要がある。

 人々が貴族制に飽き飽きし君主たちの腐敗に憤慨した後で、自分たち自身の主権つまり自分たち自身の投票の権威を宣言するとき、人々は何をするのだろうか。

 人々はこう考える。

 他のどんなことよりも真っ先に社会には秩序が必要である。

 我々の自由と平等を意味するはずのこの秩序の守護者は政府である。

 したがって政府を我々の手の内に取り込もう。憲法と法律が我々自身の意志の表現となるようにしよう。我々によって選ばれた我々の召使でありまた常に解任される立場にさらされた役所の役人や行政官に、人々の善良な意志が決定したこと以外のことは決してやらせないようにしよう。そうすれば我々がいつも注意を怠らない限り必ずや政府は我々の利益にかなうように励むだろうし、もはやお金持ちの道具になることも野心的な政治家の餌食になることもないだろうし、また物事は我々の望むとおりにそして我々の利益にかなうように行われるであろう。

 このように人々は抑圧されるたびに推論するのである。単純な推論である。これ以上率直な論理はない。そしてこの論理は事実上決して破産することはないのだ。我々の代表者たちは我々の敵である、我々自らが自らを統治しよう、そうすれば我々は自由になれるだろうとコンシデラン氏やリティングハウゼン氏と共に口をそろえて人々が言ってみたとしても、論点に変わりはないだろう。原理つまり政府は変わることがなく依然として結論は同じだろう。

 数千年の長きにわたってこの理論は被抑圧階級と彼らを擁護する雄弁家たちの気持ちを慰めてきた。直接政府はフランクフルトが起源ではないし、国民公会が起源でもないし、ルソーが起源でもない。直接政府は間接政府と同じくらい古くから存在しているし、社会が生まれたときに遡る。

「もう世襲の王権は止めにしよう。

「もう大統領職を止めにしよう。

「もう議員団を止めにしよう。

「もう代表委任を止めにしよう。

「もう権限の譲渡を止めにしよう。

「直接政府、

「つまり主権を永遠に行使する民衆だ!」

110 新しい革命的な提案と受け取られかねないこのように繰り返される言葉の果てに何があるのだろうか。つまり古代のアテネ人やボイオティア人、ラケダイモン人、ローマ人などによってはるか昔に行われてからは今に至るまで知られてこなかったこのように繰り返される言葉の果てに何があるのだろうか。それはいつもお決まりの悪循環ではなかろうか。つまり絶対王制や貴族主義的王制(aristocratic monarchies)、代議的王制(representative monarchies)、民主制などを次々に呑み込んでは消滅させてしまった後で、直接政府という曲がり角にやってきて、そして結局は終身独裁制や世襲的王制を再開することになるという馬鹿馬鹿しさに常に同じように陥ることではないだろうか。全ての民族において直接政府は、滅ぼされた貴族制や打倒された王制の再生のための時期であった。そして直接政府はアテネやスパルタのように人口がごくわずかで奴隷によって奉仕されるという利点に恵まれた民族の間でも存続できなかったのである。直接政府は我々にとって、郵便局、鉄道、電信、法律の簡素化、役人解任権、命令的な委任などに恵まれているとしても、帝政への前兆であろう。直接政府はそれだけ速く帝政的圧制へと我々を放り投げるだろう。なぜならば現代の下層階級はもはや喜んで賃金労働者の地位に甘んじていないし、地主は土地を没収されたくはないだろうし、そして直接政府の推進者たちはあらゆることを政治で解決しようとし、経済組織という考え方を持っていないように思われるからである。この道をもう一歩踏み出せば第二第三のカエサルの時代が現れるだろう。機能しない民主制の後にはいかなる過渡期も経ないでナポレオンが頭になろうがなるまいが帝国が続くだろう。

 我々はこの悪循環から抜け出さねばならない。分配的正義という古代的概念である政治観念を徹底的に否定しなければならない。そしてこの概念を引き継ぐ、法律的論理であると共に歴史的論理でもある相互的正義の概念にたどり着かねばならない。自分の目の前にあるものを好んで雲の中に探そうとする盲目の人たちよ、もう一度様々な書物を読み返し、自らの周囲を見回し、自分自身の定式を分析して見られたい。そうすれば諸君は数世紀にわたってはるか遠い昔からゆっくりと行われてきた解決策を、― しかしそれは諸君や諸君の従者たちの誰もがこれまで気づいていただけなかった解決策なのだが、― 見つけられるだろう。

111 全ての観念は精神の中では永遠に共存する。観念は歴史の中だけで連続的に生起するように思われる。つまり観念は歴史上においては自分の番になって物事の傾向性をつかみ第一の地位を獲得すべく現れるのである。ある観念が権力の座から放逐される操作は論理学では否定と呼ばれ、別の観念が打ち立てられる操作は肯定と呼ばれる。

 したがって全ての革命的否定はその中にそれに続く肯定を含んでいる。この原理は様々な革命的実践が証明していることであるが、今まさに堂々と確認されようとしている。

 これまでに行われた最初の本物の権威観念の否定はルターによる否定である。それでもこの否定は宗教の範囲を超えることはなかった。ルターはライプニッツ、カント、ヘーゲルなどと同様に全く政府統治的な考え方に縛られていた。このような否定は自由批判と呼ばれた。

 自由批判は何を否定するのか。教会の権威である。

 自由批判は何を意味するのか。理性の権威である。

 理性とは何か。直感と経験との一致である。

 理性の権威、それは宗教改革によって信仰の権威に取って代わった永遠で積極的な観念である。かつて哲学が啓示から発生したようにこれからは啓示が哲学に従属するだろう。両者の役割が入れ替わったのである。社会の仕組みはもう昔とは異なる。人々の道徳の考え方は変わっている。運命そのものについての考え方も修正されているように思われる。人間の言葉が神の声に取って代わった、この世界観の更新が意味するすべのものを、今すでに我々は垣間見ることができる。

 同様の動きが政治観念の分野でも今まさに起ころうとしている。

112 ルター後、自由批判の原理は特にジュリウー*(Jurieu)によって宗教界から世俗界に適用された。ボシュエ*(Bossuet)の敵対者は神的権利の主権に対して人々の主権を対置した。そしてジュリウーは人々の主権を社会契約あるいは社会的約束という言葉を用いてきわめて正確に、力強く、そして深い意味をこめて表現したのである。そしてこの社会契約ないし社会的約束が権力、権威、政府、国家の絶対権(imperium)、始源(αρχη)などの言葉を否定していることは明らかである。

Pierre Jurieu (December 24, 1637 January 11, 1713) was a French Protestant leader.  (Pierre Jurieu  26 March 2014, 04:35  Wikipedia, the free encyclopedia)

Jacques-Bénigne Bossuet (French: [bɔsɥɛ]; September 27, 1627 – April 12, 1704) was a French bishop and theologian, renowned for his sermons and other addresses. (Jacques-Bénigne Bossuet  18 July 2014, 07:34   Wikipedia, the free encyclopedia)

ジャック=ベニーニュ・ボシュエは、フランスのカトリック司教・神学者。著書に『哲学入門』『世界史叙説』『棺前説教集』等がある。(ジャック=ベニーニュ・ボシュエ 二〇一四年三月六日 () 〇一:三九 ウィキペディア フリー百科事典)

 社会契約とは実際どういうことか。市民と政府との契約だろうか。否、それでは同じ考え方の継続を意味するだけだろう。社会契約とは人と人との契約であり、そこからいわゆる社会が生じる契約である。この社会契約において、交換という原初的な事実によって最初提起されローマ法によって定義された相互的正義という概念は分配的正義の概念に取って代わるのだが、共和主義者の批判にさらされて何の反対もされないで退けられる。契約や相互的正義などの言葉は法律用語であるがこれらの言葉を産業上の言葉に置き換えると通商という言葉が得られる。つまり通商とは人と人とが互いに自らを本質的に生産者であると宣言し、互いを統治しようとする全ての主張を放棄する行動、その言葉の最高の意味での行動である。

 相互的正義、契約の支配、産業的・経済的システムなどは、それらが一般化するに伴って、分配的正義、法の支配、もっと具体的に表現すれば封建的な政府統治的・軍事的支配などの古いシステムを廃止するはずの観念と、言葉は違うが同じ意味の言葉である。人類の将来の展望はこの置き換えができるかどうかにかかっている。

 しかしこの理論革命が定式化される前は、またこの理論が理解される前は、そして唯一それを実行することができる諸民族の心をこの理論がとらえる前は、何と実りのない議論であることよ!何と退屈な観念の不活発さよ!扇動家や詭弁家にとっては何というすばらしい時代であることよ!ジュリウーとボシュエとの論争からルソーの社会契約論(一七六二)の出版まで百年近くが経過した。そしてルソーの社会契約論が現れたとき、それは観念を主張することではなく観念を窒息させることであった。

113 ルソーの権威は百年近く我々を支配し続けてきたが、ルソー自身社会契約について何も理解していなかった。九三年の大きな逆戻りの責任はとりわけルソーに帰されねばならない。そしてこの九三年の逆戻りの罪は五十七年間の実りのない無秩序によってすでに償われているのだが、賢明というよりはむしろ血気の方が優っている或る人たちはいまだに我々にこの逆戻りを神聖な伝統と看做すように望んでいる。

 契約の観念は政府の観念を排除する。ルドリュ・ロラン氏は法律家であり、私はこの点に関してロラン氏の注意を喚起したいのだが、彼はこの真実を知るべきである。契約の特徴は対等な交換をするという約束である。そして自由や福祉が増進するのはこの約束のおかげである。一方権威を構築することによって自由や福祉は必ず縮小する。このことは次のようなことを考えてみれば明らかであろう。つまり契約とは、二人または数人の人たちが消費のためにせよ生産のためにせよ契約によらなければ全く孤立してしまうことを自覚しているからこそ、我々が今まで交換と呼んできた産業力を一定の目的でまた一定の期間これらの人たちの間で組織することに同意し、その結果互いに対して責任を持ち、彼らが互いに手に入れたり与えたりできる立場にある一定量のサービス、製品、便益、義務などを相互に保証してきた行動であるということだ。

 契約する人たちの間には互いに対して全く個人的な利害も必ずあるものだ。このことは人がいかなる損害も蒙らないで自由と収入の両方を同時に確保したいという目的を持って交渉することを意味している。* それに対して統治する者と統治される者との間には、どんなに政府機能の代表制度や代議制度(representation or delegation)が整っているとしても、我々がこれまで説明してきたあらゆる便益と引き換えに市民としての自由や手段の一部を譲渡するということが必ず起こるのである。

*原訳者注 私は勝手ながらこの一節で二語を変えた。直訳では意味を成さないからだ。原文に何らかの間違いがあるに違いない。

中公版では「人間が、可能な補償なしに自己の自由と収入とを減少させる目的で契約するというのは、矛盾である。」

 従って契約は本質的に相互的なものである。契約は当事者個人が相互に譲渡するという約束に起因すること以外には当事者間にいかなる義務も課するものではない。契約はいかなる外部の権威にも屈しない。契約だけが当事者間の法律である。契約はそれを履行するために当事者の自発性を待っている。

114 しかし以上のことが最も一般的に受け入れられている意味での契約でありまた日常的に実践されている契約であるとするなら、国家の全構成員を同一の利害関心に結束させるために当てにされるような社会契約とはどんなものなのだろうか。

 社会契約とは市民の一人ひとりが仲間の愛情、観念、労働、製品、サービス、品物などを手に入れることができることと引き換えに自らの愛情、知性、労働、サービス、品物などを社会に与えることを誓う至上の行為であり、また各人の権利が各人の貢献の重要性に応じて決定され、各人の報酬が各人の譲渡に応じて要求できるような仕組みである。

 だから社会契約は利害関係を持つ全ての市民を含まなければならない。もしたった一人でも契約から除外されたとしたら、またもし知的で勤勉で賢明な存在である国家の構成員が交渉するように求められる利害のたった一つでも除外されたとしたら、契約は多かれ少なかれ相対的なあるいは特別なものになり、決して社会的とは言えないだろう。

 社会契約は全ての市民の福祉と自由を増進させなければならない。もし一方に偏った条件がもぐり込めば、またもし市民の中のある一部の人たちが契約のおかげで残りの市民によって従属させられたり搾取されたりするならば、それはもはや契約とは言えないだろう。それはいつでも正当に取り消すように訴えられてしかるべき欺瞞であろう。

 社会契約は全ての参加者によって自由に議論されるべきであり、個々に受け入れられるべきであり、自らの手で署名されるべきものである。もし社会契約についての議論が禁じられ中途で終わらされごまかされるならば、またもし同意がごまかしによって得られるならば、またもし署名が委任によってあるいは書類を読むことも事前の説明もなしに白紙でなされるならば、またたとえ軍隊の宣誓のように同意が当然のこととされ強制的であるとしても、そういう社会契約は最も無知で、最も弱く、最も人数の多い人たちの自由と福祉に反する陰謀に過ぎないだろうし、またあらゆる抵抗手段やさらに報復手段でさえも権利や義務と看做されるような組織的な略奪に過ぎないだろう。

115 我々が今述べている社会契約は、先の研究で我々がすでに示したような、契約する当事者が利益を手に入れることができるという多少根拠のある期待をしながら、自分の自由の一部を放棄して、うるさくそして危険なことが多い義務に服従するような組合契約(contract of association)とは全く共通点がないと言い添えることができる。社会契約には交換契約的性質がある。社会契約は当事者に彼の全ての所有物を彼のものにしておくだけでなく彼の財産を増やしもする。社会契約は労働を命令しない。社会契約は交換に関与するだけである。このようなことの全ては組合契約にはない点であり、また組合契約は社会契約と敵対的でさえある。

 以上のことが法と普遍的慣習が定めることに基づいた社会契約であるはずだ。社会的約束が定義や規定をするように要求される多数の関係の中からルソーが政治的関係しか見なかったということ、つまりルソーは契約の根本的な点を押さえつけ副次的な点だけを強調したということを今わざわざ言う必要があるだろうか。当事者の絶対的な自由、当事者の個人的で直接的な関与、十分理解した上でなされる当事者の署名、当事者が享受すべき自由や財産を分かち合うことなど、本質的で不可欠な条件のうちのどれ一つをもルソーが理解せずそれに敬意を払わなかったとわざわざ言う必要があるだろうか。

 ルソーにとって社会契約は相互的行為でもなければ組合的行為(act of association)でもない。ルソーはそのような考慮はしないように注意している。ルソーがやることとは、調停者がその決定を実行し給料を掻っ攫う(かっさらう)ための十分な権力を身にまとい、市民の間でこれから結ばれるかもしれない関係の中で起こりうる競争、争い、詐欺、暴力などの全ての訴訟を処理するために、なんら事前の協定もなく、市民によって選ばれる調停者を指名する行為である。

116 ルソーの書物にはどんなテーマに関しても本当で真実な契約の痕跡がひとかけらもない。ルソーの理論が正確にどういうものかを示すために私はルソーの理論を次のような商業上の協定に譬えてみるのが一番いいと思う。つまりその商業協定では当事者の名前や、関係する商品、製品、サービスなどの特質と価値、そして品質、引き渡し、価格、弁済など契約の要素を構成する実際あらゆる事柄に関する条件などが省かれていて、罰則と司法権以外のどんなことも述べられていないような商業協定である。

 ジュネーブ市民よ、確かにあなたは話が上手だ。しかし主権や君主、警官や判事について長々と論ずる前に、この交渉での私の分け前がどうなのかについてまず私に語ってもらいたい。何だって、私が市や地方のまた河川や森林の警察に千もの違反で起訴され、裁判所に引き渡され、判決を受け、損害、詐欺、詐取、窃盗、破産、強盗、国家の法に対する不服従、公衆道徳に対する違反、放浪などの廉で有罪とされるような協定に私が署名することをあなたは期待している。―― そしてこの協定には私の権利や義務については一言も書かれておらず、罰則しかないのだ!

 しかしどんな罰も義務を前提にしていることは明らかである。そしてあらゆる義務は権利に対応している。それではあなたの協定のどこに私の権利や義務があるのか。私は仲間の市民に対してどんな約束をしたのか。そして仲間の市民は私にどんな約束をしたのか。そのことを私に示して欲しい。というのはもしそれがなければあなたの言う罰は権力の過剰でしかないし、またあなたの言う法治国家とは目に余る強奪でしかないし、あなたの言う警察、判決、死刑執行は権力の濫用に過ぎないからだ。財産を十分に否定したあなたが、人間の間での生活条件の不平等を極めて雄弁に弾劾したあなたが、私に判決を下し、私を投獄し、私の生命と名誉を奪う権利があると主張するとは、いったいどんな威厳と地位をあなたはあなたの考える共和国で私に対して持っているというのか。不誠実な大告発者よ、あなたが搾取者や暴君を大声で痛烈に非難したのはただ何の防衛手段もない私をそういう搾取者や暴君に引き渡すためだけだったのか。

 ルソーは次のように社会契約を定義した。「各組合員の人格(person)と所有物を共同体の全権力をもって防衛し保護する組合の形式を見つけること、そしてまた各人は他の全ての人たちと結束し、自分自身だけに従い、以前と同じように自由であり続けられるような組合の形式を見つけること」と。

117 その通り、これこそまさに所有物と人格の保護と防衛に関する限りでの社会的約束の条件である。しかし物の獲得や移送の方法について、労働、交換、製品の価値と価格などについて、教育について、また人間が希望するしないに関わらず仲間との永遠のお付き合いを続けていかなければならないような無数の人間関係について、ルソーは一言も語らない。彼の理論は全く無意味である。権利や義務についてなんら定義もせずにそれに続く制裁が全く無効であるということを理解できない者がいるだろうか。規定がない場合は違反もありえないし、結局いかなる犯罪もありえないということを理解できない者がいるだろうか。そして最後に哲学的厳格さで締めくくるとすれば、反乱を駆り立てておきながら後でそういう権威を根拠にして人を罰し殺すような社会はそれ自体が計画的な裏切りによって暗殺を犯すことであると理解できない者がいるだろうか。

 ルソーは国家や個人の財産を律する原理や法律について社会契約の中で取り上げるべきだとは全く望んでいないので、彼の教育論と同様に扇動家としての計画の中でもまず次のような間違ったこそこそして残忍な想定から始めるのである。つまり個々人だけが善であること、また社会は個人を堕落させること、したがって人間はできるだけ仲間との全ての関係を避けるべきこと、この地上界で我々がなすべきことの全ては完全な孤立を維持しつつ我々の人格と財産を保護するために我々の間で相互保険的社会を築くことだけであること、他の全てのことつまり本当に唯一重要なことである経済的な事柄は、出自の偶然や投機に任されるべきであり、また訴訟の際には選ばれた役人たち自身によって定められた決まりに基づいてあるいは生来の公平さに照らして判決を下すはずの選ばれた役人たちの恣意にゆだねられるべきであるというものである。つまり社会契約とはルソーによれば持たざる者たちに対する持てる者たちの攻守同盟にすぎず、市民によって果たされる唯一の役割は、市民がその財産に応じて評価されるまた一般的な人間不信のおかげで市民がさらされる危険のある警察に対して、袖の下を使うことくらいである。

118 この男の才能を信じるとしても私は悪漢の信念と呼びたいがそういう信念の上に立ってルソーが社会契約と呼ぶものはまさにこのような憎しみの契約であり、このような救いがたい人間不信の記念碑であり、相続権を奪われた下層階級に対抗するこのような資産、商業、産業に関与する男爵たちの同盟であり、まさにこのような社会戦争の誓いなのである。

 しかしもし有徳で繊細なジャン・ジャックが人々の間の永続的な不和を自らの目標として設定したのならば、ルソーは人々の永遠の反目というこの憲章を、人々の結束のための契約として人々に差し出す以上のことができただろうか。ルソーの仕事ぶりに注目されたい。そうすれば諸君はルソーの統治理論の中にルソーの教育理論をもたらしたのと同じ精神を見つけることができるだろう。教育者のように政治家であるのだ。教育者は孤立を説き、政治評論家は紛争の種を蒔く。

 人々が唯一の主権者であること、人々は自分たち自身だけをその代表としうること、法律は全ての人々の意志の表現であるべきこと、そしてその他の壮大な陳腐なことなどを扇動政治家のやり方に倣って原則として定めた後で、ルソーはこの原則を静かに捨て去るのである。まず第一にルソーは一般の人々の集合的で不可分の意志の代わりに多数派の意志を採用する。その後で全ての国民が朝から晩まで公の業務に専念することは不可能であるという口実で、ルソーは人々の名において法律を作りまたその布告が法の力を持つ代表または代理人を選挙によって指名することに逆戻りする。市民の利害が及ぶ直接的・個人的取引の代わりに、市民には相対多数によって自らの支配者を選ぶ権限しか残されていない。かつて暴政は神聖な権利を要求して憎悪の対象となったのだが、ルソーは、彼の言葉を借りるならば、暴政は人々から生まれるとすることによって、暴政を承認し見栄えの良いものにするのだ。全ての人々の権利を保証し、全ての人々の必要とするものを提供し、全ての困難から身を守ってくれ、そして全ての人々が理解し、同意し、署名しなければならない普遍的で完全な協定の代わりにルソーは我々に何を提供してくれるのか。それは今日我々が直接政府と呼ぶところのものである。つまり王族、貴族階級、聖職者たちがいなくても、抽象的な人々の集合性が、少数者の寄生と多数者の抑圧とを存続させるために今なお利用可能な方法である。つまりそれはずるがしこい詐欺行為による社会的混沌の合法化であり、また人々の主権に基づいて貧乏人を生贄にすることである。さらに労働、財産、産業力などの全てを組織化することはまさに社会契約の目的とされるべきなのに、それらのことについて一言も触れられていない。ルソーは経済が何を意味するのかを知らないのだ。ルソーの計画は政治的権利を語るだけである。経済的権利は取り上げないのだ。

119 ルソーは我々に次のように教えている。つまり集合的存在である人々は一つのまとまった存在ではないし、人々はそれ自体では思考し、行動し、移動することができない抽象的な人格でありまた道徳的な個性である。そしてその意味は一般的な理性は個別的な理性より優れていることはなく、結局最も発達度合いの高い個別的理性を持つ者が最もよく一般的理性を代表することができるというのだ。直に独裁政治への道を開く間違った提案である。

 ルソーは様々な格言を用いてこのような自由を破壊する理論の全てを我々に教え、この最初の間違いから次のような推論を導く。

 人々のあるいは直接的な政府は、各人が全体の利益のためにしなければならない自由の譲渡から本質的に生まれるものであること。

 権限の分割は政府統治の第一条件であること。

 十分に秩序立てられた共和国においては、市民によるいかなる組合や特別な集会も許されないこと。なぜならばそうすることは国家の中に国家をつくることだからであり、また政府の中に政府をつくることだからである。

 主権と君主とは別のものであること。

 主権は決して君主を除外するものではない。したがって最も直接的な政府はルイ・フリップの治下で見られたように、また将来も再びお目にかかりたいと考えている人もいるように、世襲的君主制と十分共存しうるものであること。

120 主権者つまり民衆は架空の存在であり、理想的な人格であり、単なる精神の概念に過ぎないのだから、民衆は、自然で目に見える代表者として、一人であるからこそ一層値打ちがある君主を戴くのである。

 政府は社会の中には存在せず、社会の外にある。

 ルソーにおいて幾何学の定理のように関連づけられたこのような考察の全てによれば、真の民主主義は今までに存在したことがなかったし、これからも決して存在しないだろう。というのは民主主義においては法律を定め権力を執行するのは多数者であるが、多数者が統治し少数者が統治されるのは自然の秩序に反するからである。

 直接政府は実行不可能であり、とりわけフランスのような国では不可能である。というのは何を措いても真っ先に財産を平準化する必要があり、そして財産の平準化は不可能だからである。

 さらに、平等な条件を維持し続けることは不可能であるから、直接政府は最も不安定であり、最も危険であり、大災害や内乱などを最も引き起こしやすい。

 古代民主制が奴隷制という強力な助けがあったにもかかわらず存続できなかったのだから、我々においてもこのような政府の形態を構築しようと企てることは無駄だろう。

 民主制は神々のために作られたのであり、人間のためではない。

 以上のようにジュネーブのペテン師は長い間読者を弄び、社会契約という人を騙す名称を用いて資本家や商人の専制政治のための法典を書き上げた後で、底辺階級、労働の従属性、独裁性、宗教裁判のような厳しい裁判などの必要性を導き出す。

 文体が理性や道徳性に取って代わるのは文学に通じた人たちの特権のように思われる。

 知的自尊心、魂の味気なさ、趣味の悪さ、堕落した習慣、恩知らずなどがこれほどひどく結びついた人は今だかつていなかった。温かみをこめた雄弁さ、見せかけの繊細さ、逆説の厚かましさなどにこれほどのぼせ上がった人はいまだかつていなかった。ルソーの時代から今日までルソーを模範として慈善と献身ゆえに名誉を博しながら一方では実はきわめて完璧な利己主義に徹する情緒的で博愛主義的な学派、私なら産業と言いたいところだが、そういう学派が我々の間に結成されてきた。ルソーのこのような哲学、政治学、社会主義理論を信用してはいけない。ルソーの哲学は空言である。ただ空虚さを覆い隠しているだけだ。彼の政治学は支配一色に塗りつぶされている。ルソーの社会観について言えば、この上ない偽善性を隠そうにも隠しようがない。ルソーの書物を読み彼を賞賛する人たちは単なる間抜けであるが、私はそういう人たちを許す。ルソーの後に従いルソーに倣おうとする人たちに関して言えば、私はそういう人たち自らの評判に気をつけたほうがいいと警告する。ルソーから引用したらすぐにもその執筆者に嫌疑がかけられるようになる時が来るのはそれほど遠い先のことではない。

121 結論として次のように締めくくらせていただきたい。十八世紀と今世紀にとって恥ずかしいことだが、雄弁奇術の傑作であるルソーの社会契約論はこれまでに感嘆され、この上なく賞賛され、公衆の自由の記録と看做されてきた。また国民議会派(Constituents)、ジロンド派、ジャコバン派、コルデリエ修道士会(Cordeliers)などはこぞってこれを神託と看做し、またこの社会契約論は、起草者たち自らによって馬鹿馬鹿しいと大っぴらに評された九三年の憲法の原典として役立った。そして政治学や社会学の最も熱心な改革者たちが今でも啓発されているのもこの書物によるのである。人々がモンフォコン*(Montfaucon)に担いでいくであろうこの著者の遺体は、自由、正義、徳行、理性などの言葉の意味を人々が知るようになる日にも、パンテオンの地下埋葬所の中で栄誉に満ち敬意を表されつつ眠っているだろう。しかし貧しい家族を自らの血で養う正直な労働者たちの誰一人としてそこに埋葬されることはない。一方労働者の崇拝の的とされるようにお膳立てされた学識の深い天才たちはみだらに取り乱して彼らの厄介者を救貧院へ送り込むのだ。

The Gibbet of Montfaucon (French: Gibet de Montfaucon) was the main gibbet of the Kings of France until the time of Louis XIII of France. It was a large structure located at the top of a small hill near the modern Place du Colonel Fabien in Paris, though during the Middle Ages it was outside the city walls and the surrounding area was mostly not built up, being occupied by institutions like the Hôpital Saint-Louis from 1607, and earlier the Convent of the Filles-Dieu ("Daughters of God"), a home for 200 reformed prostitutes, and the leper colony of St Lazare.  (Gibbet of Montfaucon  29 March 2014, 02:50  Wikipedia, the free encyclopedia)

どんな公衆の良心からの逸脱も罰を伴う。ルソーの流行は、三人の有名な高級売春婦たちコティヨン(Cotillon)Ⅰ、コティヨンⅡ、コティヨンⅢ(シャトルーChateauroux*、ポンパドゥールPompadour*、デュバリーDubarry*)等の憎たらしい治世がかつてフランスに犠牲を払わせた以上の金貨、血、恥をフランスに支払わせた。外国の影響を除いて決して苦しめられることのない我が国は、九三年の血で染まった闘いと失敗に関してルソーのお陰を蒙っている。

courir le cotillon 「女の尻を追いかける」(三省堂クラウン仏和辞典)

Marie Anne de Mailly-Nesle, duchesse de Châteauroux (5 October 1717 8 December 1744) was the youngest of the five famous de Nesle sisters, four of whom would become the mistress of King Louis XV of France. (Marie Anne de Mailly  2 July 2014, 17:05  Wikipedia, the free encyclopedia)

*ポンパドゥール夫人は、ルイ十五世の公妾。Jeanne Antoinette Poisson, Marquise de Pompadour, also known as Madame de Pompadour (29 December 1721 – 15 April 1764, French pronunciation: [pɔ̃.pa.duːʁ]) was a member of the French court and was the official chief mistress of Louis XV from 1745 to her death. She was trained from childhood to be a mistress, and learned her trade well. She took charge of the king’s schedule and was an indispensable aide and advisor, despite her frail health and many political enemies.  (Madame de Pompadour  23 July 2014, 19:01  Wikipedia, the free encyclopedia)

Jeanne Bécu, comtesse du Barry (19 August 1743 8 December 1793) was the last Maîtresse-en-titre of Louis XV of France and one of the victims of the Reign of Terror during the French Revolution.  (Madame du Barry  2 September 2014, 16:37  Wikipedia, the free encyclopedia)

122 こうして十六世紀の革命的伝統は、非常に公正な性格のガリアの天才が突き止めずにはおかなかった観念であるところの、政府の観念の対極としての社会契約の観念を我々にもたらしたのだが、ある一人の雄弁家の術策のせいで我々は十分に真の道筋からそれてしまい、社会契約の解釈は遅れることになった。政府の否定 それはモルリ*(Morelly)のユートピアの基礎にあり一筋の光明を投げかけたのだが、アンラジェ派*(Enragés)やエベール主義者*(Hébertists)などによってひどい公開のされ方をしたためにすぐに消え去ってしまい、またそれはもしバブーフ*(Baboeuf)が自らの原理を推論し演繹する方法を知っていたならば、バブーフの理論から生まれたかもしれないのだが、― この偉大で決定的な否定は十八世紀を通して理解されずじまいに終わった。

Étienne-Gabriel Morelly (1717 ?) was a French utopian thinker and novelist. An otherwise "obscure tax official", Morelly wrote two books on education and a critique of Montesquieu. However, he is best known as author of The Code of Nature, published anonymously in France in 1755. This book severely criticized the society of his day and proposed a constitution intended to lead to an egalitarian society without property, marriage, church or police. (Étienne-Gabriel Morelly  22 March 2014, 15:49  Wikipedia, the free encyclopedia)

Les Enragés (literally "the Enraged Ones") were a loose amalgam of radicals active during the French Revolution. Politically they stood to the left of the Jacobins. Represented by Jacques Roux, Théophile Leclerc, Jean Varlet and others, they believed that liberty for all meant more than mere constitutional rights. Roux once said that "liberty is no more than an empty shell when one class is allowed to condemn another to starvation and no measures taken against them". (Enragés  18 May 2014, 22:18  Wikipedia, the free encyclopedia)

The Hébertists were a radical revolutionary political group associated with the populist journalist Jacques Hébert. They came to power during the Reign of Terror and played a significant role in the French Revolution. The Hébertists were ardent supporters of the dechristianization of France and of extreme measures in service of the Terror, including the Law of Suspects enacted in 1793. They favoured the direct intervention of the state in economic matters in order to ensure the adequate supply of commodities, advocating the national requisition of wine and grain. (Hébertists  18 May 2014, 18:15  Wikipedia, the free encyclopedia)

*フランソワ・ノエル・バブーフ(François Noël Babeuf、一七六〇年十一月二三日 一七九七年五月二七日)は、フランスの革命家、思想家である。通称グラキュース・バブーフ(Gracchus Babeuf)。平等社会の実現を目指し、いわゆる「バブーフの陰謀」を企てたが、失敗して刑死した。「独裁」という語を、現代の意味で初めて使った人物の一人である。(フランソワ・ノエル・バブーフ 二〇一三年三月二二日 () 〇九:五二 ウィキペディア フリー百科事典)

しかし観念は消滅するはずがない。観念は常にその正反対のものからよみがえる。ルソーに勝利を味わわせておけ。一瞬の彼の栄光はそれだけひどく憎まれることになるだけだろう。契約観念の理論的・実践的推論を期待する一方で、権威の原理を徹底的に検証することは人類の教化に役立つだろう。この政治的進化の完成によってその対極の仮説がついに現れるだろう。政府は、自らを論じつくすことによってその歴史的帰結として社会主義を産み落とすだろう。

 臆病な言葉遣いでそしていまだにぼんやりとした意識でこの糸を再び最初に手繰り寄せたのはサン・シモンであった。

 一八一八年に彼はこう書いた。「人類は最初、政府統治的・封建的支配の下で生きるように求められてきた。しかし人類が物質科学や産業の分野で十分な発展を遂げると、人類は政府統治的・軍事的支配から行政的・産業的支配へと移行するように運命づけられている。

123 「そしてついに人類は今日までその組織化を通して軍事的システムから平和的システムへと移行する際の長くて暴力的な危機に耐えなければならなくなった。

 「現代は過渡的な一時期である。

 「移行期における危機はルターの説教から始まった。その時以来思想の傾向はきわめて重大で革命的である。」

 サン・シモンは自らの考えを補強するために、この大きな変容を幾分曖昧に理解していた人として政治家の中からはシュリー*(Sully)、コルベール(Colbert)、チュルゴー(Turgot)、ネッケル(Necker)、そしてビレル*(Villèle)などの人たちを、そして哲学者の中からはベーコン(Bacon)、モンテスキュー(Montesquieu)、コンドルセ*(Condorcet)、A・コント*(Comte)、B・コンスタン*(Constant)、クザン*(Cousin)、A・ド・ラボルド*(de Laborde)、フィエベ*(Fièvée)、デュノワイエ*(Dunoyer)などの人たちを列挙する。

Maximilien de Béthune, first Duke of Sully (13 December 1560 22 December 1641) was the doughty soldier, French minister, staunch Huguenot (Protestant) and faithful right-hand man who assisted king Henry IV of France in the rule of France.  (Maximilien de Béthune, Duke of Sully  26 May 2014, 18:24  Wikipedia, the free encyclopedia)

Jean-Baptiste Guillaume Joseph Marie Anne Séraphin, comte de Villèle ([pronunciation?]; 14 April 1773 13 March 1854), was a French statesman. Several time Prime minister, he was a leader of the Ultra-royalist faction during the Bourbon Restoration.  (Jean-Baptiste de Villèle  19 April 2014, 19:50  Wikipedia, the free encyclopedia)

*コンドルセ侯爵マリー・ジャン・アントワーヌ・ニコラ・ド・カリタ(Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet, 一七四三年九月十七日 一七九四年三月二九日)は、十八世紀フランスの数学者、哲学者、政治家。社会学の創設者の一人と目されている。現在のエーヌ県リブモン生まれ、パリ近郊のブール・ラ・レーヌ没。(ニコラ・ド・コンドルセ 二〇一三年八月二六日 () 一〇:五一 ウィキペディア フリー百科事典)

*オーギュスト・コント(Isidore Auguste Marie François Xavier Comte, 一七九八年一月十九日 一八五七年九月五日)はフランスの社会学者、哲学者、数学者。「実証哲学講義」、「通俗天文学の哲学的汎論」、「実証的精神論」などの著作がある。(オーギュスト・コント 二〇一三年三月一〇日 () 〇五:三一 ウィキペディア フリー百科事典)

Henri-Benjamin Constant de Rebecque (French: [kɔ̃stɑ̃]; 25 October 1767 – 8 December 1830), or simply Benjamin Constant, was a Swiss-French politician, writer on politics and religion.  (Benjamin Constant  11 July 2014, 00:35  Wikipedia, the free encyclopedia)

Victor Cousin (French: [kuzɛ̃]; 28 November 1792 – 14 January 1867) was a French philosopher. He was a proponent of Scottish Common Sense Realism and had an important influence on French educational policy.  (Victor Cousin  9 June 2014, 10:38  Wikipedia, the free encyclopedia)

Comte Louis-Joseph-Alexandre de Laborde (17 September 1773 20 October 1842) was a French antiquary, liberal politician and writer, a member of the Académie des Sciences morales et politiques (1832), under the rubric political economy.  (Alexandre de Laborde  20 February 2014, 18:05  Wikipedia, the free encyclopedia)

Joseph Fiévée (April 9, 1767 - May 9, 1839) was a French journalist, novelist, essayist, playwright, civil servant (haut fonctionnaire) and secret agent. He also lived in an openly gay relationship with the writer Théodore Leclercq, with whom he was buried after his death.  (Joseph Fiévée  12 February 2014, 20:38  Wikipedia, the free encyclopedia)

Barthélemy-Charles-Pierre-Joseph Dunoyer de Segonzac (20 May 1786, Carennac, Quercy (now in Lot) 4 December 1862, Paris) was a French liberal economist.  (Charles Dunoyer  21 June 2014, 10:31  Wikipedia, the free encyclopedia)

 サン・シモンのすべてはこの数行の中に予言者のような文体で書かれている。しかしこれが書かれた時代には理解されにくく、この高貴な革新的思想家に初めて接した若い人たちにとってはあまりにも意味が深く凝縮されすぎていた。よく注意して見てもらいたい。ここには商業共同体、婦人共同体、肉体の浄化、両性具有、至高なる父(Supreme Father)、円環(Circulus)、三の組*(Triad)などは見当たらない。サン・シモンの弟子たちによって広められたあらゆるものが、実は彼のものではないのだ。弟子たちはサン・シモンが意図したことを全く誤解してきたのである。

*原文P〇八八参照

 サン・シモンは何を意図したのか。

 一方では哲学が信仰に取って代わり古代の統治概念を廃し契約概念に代えるときから、他方では封建制度を廃止した革命の後で社会がその経済諸力の発展と調和を必要とするようになったときから、この瞬間から、すでに理念上は否定されていた政府が実際の上でも分解してしまうことが避けられなくなる。そしてサン・シモンが古い形式に倣ってこのような事態の新たな秩序を指して行政的または産業的などの形容詞と結び付けて政府という言葉を用いるとき、この言葉に、知識や経験の少ない人たちを誤解させずにはおかない暗喩的ないやむしろ類推的な意味が、サン・シモンが書いたことから付与されることは明らかである。しかし以下に私が引用するもっと明白な一節を読めば、サン・シモンの考えを誤解するはずがない。

124 「個人の教育課程を観察してみると、初等学校では統制が最も重要であり、より高等な学校では子供たちを統制することがますますその程度を弱め、一方では教示することの方が重要性を増すということがわかる。このことは社会を教育することについても同じであった。軍事行動つまり封建的または統治的軍事行動は社会の誕生時には最も強力でなければならなかったが、それは常に縮小しなければならなかった。一方、行政的活動はより重要性を増さなければならなかった。そして行政的権力は最終的には完全に軍事力の影を薄くしなければならない。」

 このサン・シモンからの引用の他に彼の有名な『寓話』(Parable)についても触れなければならない。この『寓話』は一八一九年にお役所界に斧のように振り下ろされたのだが、著者はそのために一八二〇年二月二十日に巡回裁判所(Court of Assizes)で裁判にかけられたが証拠不十分で無罪放免となった。この著作は長編であることでいっそう有名なのだが、そのためにここでは引用しかねる。

 容易にわかるようにサン・シモンの政府否定は、すでに八十年間にわたってルソーやその信奉者たちによって堕落させられ汚名を着せられていた契約の観念から導き出されるものではない。サン・シモンの政府否定は事実の観察者にふさわしい全く実験的で帰納的な異なった種類の洞察から生じる。神意によって思いつかれた契約理論は、ジュリウー*(Jurieu)のころから未来社会に政府の終焉を予測していたのだが、それをサン・シモンは議論の高まりの中で最高潮に達したとき人類進化の法則から基礎づける。こうして法の理論と歴史哲学とは互いに他の前に打ち込まれる探険家のポールのように、精神を未知の革命の方向に向ける。もう一歩踏み出せば我々は核心にたどり着くだろう。

*原文P一一二参照

 諺にも言われるように全ての道はローマに通ず。全ての研究も真実に通じる。

 古典的で回顧的で演説調のルソーの共和主義によって道を間違わなかったならば、十八世紀は契約の観念を発展させることによってつまり公正な道筋に従って政府否定にたどり着いていたであろうと私はこれまでに十分すぎるほど立証してきたと思う。

125 サン・シモンはこのような政府の否定を歴史研究や人類の進歩の観察などを通して導き出したのである。

 さてここで私のことについて述べさせていただきたい。私一人が革命的な物の見方を代表している今現在、もし私が私自身について語ることを許されるならば、私は経済の諸機能や信用・交換理論などの分析を成し遂げた。この発見を確立するために私はこの発見が記録されている様々な著述や論文をここで取り上げる必要はないと思う。なぜならばそれらの著述や論文はこの三年間で十分悪名をはせているからである。

 こうして不朽の種であるところの観念は意欲的な精神の持ち主を時には照らしながら、いかなるものも脅すことのできない知性がその観念を受け取り、育み、そして流星のようにそれを驚嘆する群衆の中に放り投げる日まで時代を下ってやってくる。

 政府の観念の対極である契約の観念は、宗教改革の所産だったのだが、ただ一人の政治評論家にも気づかれず、ただ一人の革命家にも発見されずに十七世紀、十八世紀を通り過ぎてきた。一方、教会、哲学、政治などの分野で非常に著名な人士たちの全ては共謀してそれに反対した。ルソー、シエイエス*(Siéyès)、ロベスピエール、ギゾー氏*(Guizot)など議会主義者たちの学派が反対の旗を振った。ついに一人の男がこの主要な原理が無視されていることに気づき、新たな実り多い観念を再び白日の下にさらした。しかし不幸なことに彼の理論の実践的側面が彼の弟子たちを惑わした。弟子たちは生産者が支配者の否定であること、組織が権威と矛盾することを理解できなかった。そして三十年間この原理は世の人々に注目されることがなかった。しかし抗議の声を大きくしたことによってついにこの理論は世間の支持を勝ち取ったのだが、その後で、愚かな人たちよ!心意気のない人たちよ!*反対が革命をもたらす!無政府の観念が人々の心の中に根づこうとするかしないうちにこの観念は、悪口の水をこの観念にかけ、間違った解釈でこの観念に肥料をやり、憎しみの温室でこの観念を温め、馬鹿馬鹿しい反対でこの観念を支持したいわゆる庭師たちに直面した。今日では彼らのおかげで無政府の観念は反政府的観念、労働の観念や、また大きく成長し、這い上がり、その巻きひげで労働者集団をつかもうとしている契約の観念などをすでに産み落としており、そしてまた福音書に出てくる芥子の種の粒のように、地上を覆い尽くす枝を生やす大木にもうすぐなるだろう。

*エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス(Emmanuel-Joseph Sieyès, 一七四八年五月三日 一八三六年六月二十日)は、フランスの革命指導者、政治家、聖職者。総裁政府の五人の総裁のひとり(ルーベルの後任)。(エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス 二〇一四年二月一六日 () 一四:〇七 ウィキペディア フリー百科事典)

*フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー(François Pierre Guillaume Guizot, 一七八七年十月四日 一八七四年九月十二日)は、フランスの政治家・歴史家、首相(在任:一八四七年九月十九日 一八四八年二月二十三日)。(フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー 二〇一四年五月二一日 () 〇六:四九 ウィキペディア フリー百科事典)

O vanas hominum mentes, o pectora coeca! = Oh, dim minds!  Oh, dull hearts of men! (原文と原訳者注)

126 理性の絶対的主権が革命の絶対的主権に取って代わり、

契約の観念が政府の観念のあとを継ぎ、

歴史的進化が人類を不可避的に新たなシステムに導き、

政治的組織が産業機構の中で消滅しなければならないと経済的批判がすでに示しているのだから、

革命的定式は直接立法でも、直接政府でも、単純化された政府でもあろうはずがなく、決して政府なんかではないということを我々は恐れずに結論づけてよい。

それは君主制でもなく、貴族制でもなく、またたとえどんなに人々の名において行動し、自らを民衆だと名乗っているとしても、それが少なくとも政府を意味している限り、民主制そのものでさえない。無権威、無政府、さらには大衆的でさえないこと、それが革命だ。

 直接立法、直接政府、単純化された政府などは、それらをよみがえらせようとしてもむなしく失敗に帰す古代からの嘘に過ぎない。直接的であろうが間接的であろうが、また単純であろうが複雑であろうが、民衆を統治することは常に民衆を詐取することになるだろう。それは常に人が人に命令を下すことであり、自由を消滅させるための作り話であり、唯一問題に答えることができる正義の代わりに問題点を途中で切り上げてしまう野蛮な権力であり、献身と軽信への足がかりとなる頑固な野心である。

 否。古い蛇ははやらない。それはこの直接政府という問題に関与することによって自らの首を絞めてしまった。今や我々は政治的観念と経済的観念、生産と政府などを明白な対概念としてとらえているのだから、そしてこの対概念を構成する一方から他方を相互に推論でき、またこの対概念を検証・比較できるのだから、新ジャコバン主義からの反対はもはや恐れるに足りない。

127 今でもロベスピエールの分裂主義のとりこになっている人たちも明日には革命の正統派になっていることだろう。

 

 

二 権威理念の一般的批判

 

 

127 私はこの研究の第一部で三つのことを証明した。

1.権威と政府の原理は家族の支配的態度にその源があるということ。

2.この原理は社会秩序の条件として全ての民族の圧倒的な同意を得て採用されてきたこと。

3.歴史上の一定の期間にこの原理は自発的に否定され始め、またそのときまでは従属的だと思われていた別の観念、つまり全く異なった社会秩序を意味する契約という観念によって取って代わられ始めたということである。

 この第二部において私は、権力を否定するように社会を導きまた権力を非難するための理由を示すところの、権利上ばかりでなく事実上の原因あるいは根拠を簡潔に思い起こしてみるつもりだ。読者諸氏がこれからお読みになる批判は私自身による批判ではなく、民衆自身による批判であり、しばしば取り上げられてきた批判であり、いつも様々な観点からなされた批判であるが、その結論はそれぞれの検証の最後では常に同じものであり、また我々が今生きている時代に実効性のあるものになりそうである。私が述べることは私の考えではない。それは数世紀にわたる思想の集積であり、人類の思想である。私はただそれを繰り返すだけだ。

 

 

1 論題 ―― 絶対的権威

 

 どんな観念もいわばその有機体である一連の用語によって構築され論駁される。そしてこの一連の用語の中で最後のものがその観念の真実性や間違いを必ず証明する。もしその展開が単に精神や理論においてだけでなく事実や組織においても同時に実施されるならば、この展開は歴史となって現れる。そしてこの事情は権威や政府の原理に関しても当てはまる。

128 この原理が現れる最初の形式は絶対的権力の形式である。この形式は最も純粋で、最も合理的で、最も効果的で、最も直截的で、全てを考慮すれば最も非道徳的でなく、最も不愉快でない政府形式である。

 しかし絶対的権力はその最も単純な表現においては理性や自由にとって非常に不愉快であり、民衆の感情は常にそれに抗して掻き立てられ、感情に続いて反乱がその抗議の声をあげる。そして権威の原理は退場を余儀なくされ、ある譲歩が他の譲歩よりも不十分であるとして一連の譲歩を経ながら徐々に後退し、その一連の譲歩のうちで最後の純粋な民主主義つまり直接政府は不可能でありまた馬鹿馬鹿しいものであることになって終わりとなる。従ってこの一連の用語の中で最初のものが絶対主義(ABSOLUTISM)であり、最後の運命的な用語があらゆる意味における無政府(ANARCHY)である。

 我々はこれからこの大きな進化における主要な用語を一つ一つ検証しようとしている。

 人類はその主人たちに「あなた方が私を統治し支配するというこのような主張はどういう根拠に基づいているのか」と尋ねる。

 彼らは答える。社会は秩序無しには済まされないからである。社会には従属し労働する者と一方では命令し指示する者がいることは必然であるからである。また各人の能力には不平等があり、利害は相反し、情念は反目し合い、一個人の利益は一般の利益に相反しているので、権利・義務の境界を定める何らかの権威が必要であり、争いを収める調停者や主権者の裁決を実行する何らかの公権力が必要である。国家権力はまさにこのような自由裁量のある権威であり、各人に各人の所要物を授ける調停者であり、また平穏が保たれるように保証する権力である。一言で言えば政府は社会秩序の原理であり保証であり、またそれこそ自然と常識が我々に教えてくれるものであると。

129 このような説明は社会が始まったときから繰り返されてきた。それはあらゆる時代を通じてまたあらゆる権力者の口から発せられても同じである。マルサス主義経済学者たちの著作の中で、反対派の新聞(Opposition newspapers)の中で、共和主義者の信仰告白の中などで同じような表現を例外なく諸君は見つけることができるだろう。権威の原理を傷つけながら彼らが提案するところの自由への譲歩の度合い以外には彼らの間に相違はない。そしてそういう譲歩は穏健的、立憲的、民主的などの政府の形態を追加する架空の譲歩であり、偽善の匂いを添えるものであり、そしてそのような匂いが少しでもすればそれだけ一層彼らを軽蔑すべきものにするのだ。

 こうして政府は修正されないままの本質においては、秩序の絶対的で不可欠な必須条件として現れる。それゆえ政府は様々な顔をしながら絶対主義を常に熱望する。実際この原理によれば政府が強くなればなるほど秩序はますます完成の度合いを高める。そして政府と秩序というこの二つの概念は互いに原因と結果の関係となっている。原因が政府であり、結果が秩序である。原始社会はこのように推論してきたのである。そのような社会が人間の運命についてどのように考えただろうかということから推測して、こういう社会がこれ以外の推論をしたであろうということは全く考えられないことであったが、そのことについて我々はすでに触れた。

 しかしそれにもかかわらずこのような推論は間違っており、その結論は全く容認できない。なぜならば観念の論理的な分類によれば政府の秩序に対する関係は、政治家たちが主張するように原因・結果の関係ではなく、一般に対する特殊の関係である。秩序が属であり政府が種である。つまり秩序を想定するための様々な方法があるということである。しかし社会の秩序が、その社会の主人が恣意的に秩序と呼ぶところのものであるということをいったい誰が証明したのだろう。

 一方では能力の生来の不平等が主張され、そこから生活条件の不平等が推論される。他方では多様な利害を結びつけることや多様な意見を調和させることなどが不可能であると主張される。

130 しかしこのような反目があってもそこにはせいぜい解決すべき問題があるだけであり、暴政のための口実があるはずがない。能力の不平等!利害の不一致!さて王冠をかぶり官服で身をまとい束桿(そっかん fasces)を持つ主権者たちよ、そういうものこそまさに社会問題が意味することであり、諸君はそれを棍棒と銃剣で解決しようと考える!サン・シモンは政府と軍隊とを同義語と看做したが、それはきわめて正当なことであった。政府が社会の秩序をもたらすだと?それはアレクサンダー大王がゴルディオスの結び目*(Gordian knot)を剣でほどこうとしたことにそっくりだ!

*アレクサンダー大王は解きほぐすのが難しいゴルディオス王の轅(ながえ)と軛(くびき)とを結びつける綱の結び目を剣で切ってしまった。これを解けるものはアジアを支配するだろうという神託があった。(ランダムハウス英和大辞典)

 それでは民衆の羊飼いたちよ、諸君らに次のように考えることを正当化してくれるのはいったい誰なのだ。つまり利害の対立や能力の不平等などの問題は解決できないと、またこのことから階級の区別が必ず生ずるものであると、そしてこのような自然で神の摂理による区別を存続させるために武力は必要であり合法的であると。それに反して私は、また世の人々がユートピア主義者と呼ぶ人たちの全ては諸君らの暴政に反対であるから私と共に、その解決策は発見できると断言する。その解決策を共同体の中に発見したと信じる人もいるし、また組合の中に、そしてまた一連の産業(industrial series)の中に発見したと信じる人もいる。私としては契約という至上の法則の下で経済諸力を組織化することの中に発見できると言う。このような仮定のどれもが真実でないと誰が諸君らに保証できるというのか。

 諸君らの無知にしか基づかない、詭弁以外の原理を持たない、武力以外の手段を持たない、人類から奪い取ろうとすること以外に何の目的も持たない諸君らの政府理論に抗して、この自由の理論は「労働および観念」の進歩を原動力として私の口から発せられる。

 利害の不一致を収束させることによって、個人の利益を確定することによって、また教育の不平等によってもたらされる「生来の不平等」をなくすことによって全ての政治的・経済的矛盾を解決することのできる取引の形式を発見すること、市民も君主も共に、また支配者も被支配者も共に各人が生産者でもあり消費者でもあり両者が同義語となるような取引形式を発見すること、また各人の自由がそのどんな一部をも断念する必要がなく自由を着実に増大させることのできる取引形式を発見すること、そして最後に各人の財産においても、労働においても、弁償においても、そしてまた利害の、意見の、あるいは仲間相互間の友情などの関係においても、社会のあるいは仲間の市民の行動によって各人の物質的財産を失うことなくそれが無限に増大するような取引形式を発見すること。

131 何だって、このような条件は諸君らには解決できそうもないと思われるって?社会契約が規制しなければならない非常に多くの関係を考慮すると、円を四角にするとか永遠に運動し続ける物体を発見するとかの難問のように、社会契約以上に解決しがたいものを想像することができないと諸君らには思われるのだろうか。だから諸君らはこの苦闘に飽き飽きして絶対主義や武力に逆戻りするのである。

 さらに次のようなことをよく考えてみられたい。つまりもし社会契約が二人の生産者たちの間で解決されるならば――そしてこういう単純な関係に還元されれば社会契約が解決されうることを疑う者がいるだろうか――社会契約は常に似たような約束に関与するのだから、何百万人の間でも解決されるだろうということ、そしてまた契約の署名者数は社会契約をますます効果的にすることはあっても、社会契約に対してなんら余計な難問を付け加えるものではないということである。したがって不可能であるという諸君らの弁解はありえないし、その弁解はこっけいであり、諸君らになんら弁解の余地はないのである。

 それはどうあれ権力者たちよ、生産者たち、プロレタリアート、奴隷、そして諸君らが諸君らのために無理やり働かせたいと思っている人たちの言葉に耳を傾けよ。私は誰からも商品やお金を強要したりしないし、また私の労働の成果が他者の餌食になるのを黙って許すような人間ではない。彼らが主張するところの政府によって秩序を絶えずひっくり返し続けている人たちと同様に、私も秩序を望んでいる。しかし私は秩序を私の自由な選択の結果として望んでいるのであり、また私の労働のための条件として、また私の理性の法則として望んでいるのである。私は他者の意志から発せられる秩序に、また前提条件として私に犠牲と隷従を課するような秩序に従うつもりはない。

 

 

2 法律

 

 政府は民衆の苛立ちや反乱の急迫のために譲歩しなければならなかった。これまでに政府は組織と法律を約束してきた。政府はその極めて熱烈な願望が、ぶどうやイチジクの木から収穫できる各人の労働の成果を各人が受け取れるようにすべきであるということだと表明してきた。これは政府の立場の必須条件である。政府が正義の審判者としてまた運命の絶対的調停者として現れたときから、政府はその意のままにあえて民衆を駆り立てようとすることができなくなった。君主であれ、大統領であれ、総裁、委員会、人民議会(Popular Assembly)などのどれであれ変わりはない。権力には行動のルールがなければならない。それなしにどうやって権力は臣民の間に規律を確立できるだろうか。命令がどういうものかについて市民が知らされていなかったら、また命令が発表されるかされないうちに廃止されたとしたら、また命令が一日毎にまた一時間毎に変わったりしたらどうして市民は命令に従うことができるだろうか。

132 だから政府は法律を作らなければならない。つまり自らに制限を課さなければならない。なぜならば市民にとっての規則であるものは何であれ支配者にとっての制限であるからだ。政府はその利害があることに関してそれと同数の法律を作らなければならない。そして利害関係は数限りないから、また相互関係から生じる人間関係は無限に増大するから、そしてまた敵対関係は無限であるから、法制化も止まることなく続けられなければならない。法律(laws)、布告(decrees)、勅令(edicts)、条例(ordinances)、決議(resolutions)などが雨あられのように不運な人々の頭上に降り注ぐだろう。しばらくすると政治的地面は地質学者が紙質層(papyraceous formation)として地球の変動史の中に記述するであろう紙の層で覆われるだろう。国民公会(1792.9.2195.10.26)は三年一ヶ月と四日の間に一万一千六百の法律と布告を通過させた。憲法制定国民議会(Constituent Assembly, 178991, (1848))と立法議会(Legislative Assembly, 179192, (1849.551.12))も同数の法案を通過させた。帝政とその後に続く政府はその仕事を引き継いだ。今日、法律広報(Bulletin of Laws)の中には五万以上の法律があると言われている。もし代表者たちがその義務を果たせばこの莫大な数字はじきに二倍になるだろう。人々があるいは政府自身でさえもこのような迷宮の中でその理性を維持できると諸君はお考えだろうか。

 確かに我々はすでに原始的組織から遠ざかっている。政府は社会の中で父親としての役割を果たしていると言われている。しかしどんな父親がかつてその家族と協定を取り交わしただろうか。あるいは子供たちに対して憲章を認め、自らと子供たちの母親との間で権力の均衡のための調停をしたであろうか。家族の頭はその統治においては自らの心情に突き動かされている。彼は子供たちから奪い取ろうとはしない。彼は自らの労働によって子供たちを扶養する。愛情ゆえに彼は子供たちの利益と環境のことだけに配慮している。彼の意志が子供たちにとっては法律である。そして母親と子供たちの全てが彼の意志を信頼している。しかしもし父親の行動が少しでも反対され、またその大権が制限され、事実上前もって決定されていたとしたら、この小さな国家の望みはくじかれるであろう。何だと!政府は規制に従い臣民と妥協し、そして神的なものであれ民衆によるものであれ政府自らのものではない規則の奴隷となるのだから、政府が国民にとって父親ではないということが真実でありえようかだって?

133 もしそうなら私自身がこの法律に服従しなければならない理由が見当たらない。誰が私にこの法律の公正さと誠実さを保証してくれるのか。この法律はどこからやって来るのか。誰が作ったのか。ルソーは真に民主的で自由な政府においては市民は法律に従うことを通して自分自身の意志だけに従うのだとまぎれようもない明白な言葉で教えている。しかし私の参画もなしに、私の絶対的反対にもかかわらず、また法律が私に及ぼす損害にもかかわらず法律は成立させられた。国家は私と交渉しない。国家はそれと引き替えに私に何もしてくれない。ただ私から強奪するだけである。それでは私を結びつけるはずの良心、理性、情熱、興味などの絆はどこにあるのか。

 しかし私は法律に関してなんと言うべきか。自分自身のためを考える人にとっての法律についてである。また自分自身の行為についてだけ責任を負うはずの人にとっての法律についてである。そして自由になりたいと思いまた自分自身が自由を享受するに値する人間であると思っている人にとっての法律についてである。私はすぐにも交渉はしたい。だが法律はいらない。私はどの法律も認めない。必要性を装って私の自由意志に課すことが何らかの権力を喜ばせるかもしれないようなどんな秩序に対しても私は抗議する。法律!私たちはそれがどういうものかを知っている。どういう値打ちのものかを知っている!それはお金持ちや権力者にとってはくもの巣であり、弱い者や貧乏人にとっては鋼鉄製の鎖であり、政府の手に握られた魚網である。

 諸君はほんのわずかな法律しか作らないつもりだという。簡潔で良い法律にするつもりだという。しかしそれこそ犯罪の自白である。もしこのようにその欠陥を公言するのならば、政府はまさに有罪である。きっと政府は立法府議場の正面に、立法府議員の教育と国民の教化のために、深酒を警告するものとしてブーローニュの司祭がその地下倉庫の入り口の上に掲げたラテン語の一節を掘り刻むことだろう。つまり

 「牧師よ、君の健康のためにぶどう酒はほんの少しだけ飲まれたい。ただし極上のぶどう酒を飲まれたい。」*

Pastor, ne noceant, bibe pauca sed optima vina. = Pastor, for your health, drink but little wine, but of the best. (原訳者注)

134 わずかな法律!極上の法律!それは不可能である。政府は全ての利害関係を規制し全ての紛争を裁定しなければならないのではないか。また利害関係は社会の本質からして無限にあるのではないか。そして人間関係は、限りなく変わりやすく変化しうるのではないか。だからどうして法律をわずかしか作らないということが可能なのか。どうして法律が簡素でありうるのか。どうして最善の法律がいやらしいものでないことがあろうか。

 諸君は簡素化について語る。しかしもし諸君がある一点で簡素化できるならば全ての点で簡素化できるはずだ。百万の法律の代わりにたった一つの法律で十分であろう。この法律はどんな法律になるだろうか。諸君に対して他人にやってもらいたくないと思うことを他人にやってはならない。諸君に対して他人にやってもらいたいと思うように他人にもしてやれ。これがその法律であり、預言書でもある。

 しかしこれは明らかに法律ではない。これは正義の基本的定式であり、全ての取引におけるルールである。だから立法の簡素化は我々を契約の観念に導き、結局は権威の否定に到達する。実際、法律がたった一つしかないとすれば、またその法律が全ての社会矛盾を解決できるならば、そしてそれが全ての人々によって承認され受け入れられるならば、それで社会契約のためには十分である。諸君がそれを普及させるとき、政府の終焉を公表することになる。だから諸君がこの簡素化を直ちに実行するのを邪魔するものがあるだろうか。

 

 

3 立憲君主制

 

 八九年以前、フランスの政府は、オーストリア、プロシャ、ロシアやいくつかの他のヨーロッパの国々が現在でも取っている政府の形態、つまり何らかの組織が全ての人々に対して法律による強制力を持つ無制約な権力であった。それはモンテスキューも言ったように穏健君主制(monarchie temérée, qualified monarchy)であった。このような政府は、それが極めて良心的にではあるがそれほど思慮もなくそれまで擁護することに同意していた封建的・教会的特権と共に消滅した。この政府は暴力的な激突と多くの紆余曲折を経て、いわゆる代議制政府(representative Government)や立憲君主制(Constitutional Monarchy)に取って代えられた。しかし廃止された封建的権利からの解放と没収された国有財産の販売を除いてはこのすぐ後で民衆の自由と繁栄が増大したというのは言いすぎだろう。それにもかかわらずこのような政府原理の新たな後退が、政府の革命的な否定をそれと同じくらい前進させたことは確かなことであるし、また認められなければならない。このことは権利のことだけを考える我々にとっては、穏健君主制よりも立憲君主制のほうが望ましいと考える真のそして決定的な理由であるし、同様にして代議制民主主義や普通選挙による統治のほうが立憲制よりも我々には好ましく思われ、また直接政府の方が代議制よりも好ましく思われるのである。

*クラウン仏和辞典ではこれも「立憲君主制」であり、そうするとmonarchie constitutionelle, constitutional monarchyと区別できなくなる。「穏健」というより「真正」の方が文意に合うか。

135 しかし我々が直接政府というこの最後の用語にたどり着いたとき、混乱が最高潮に達しているであろうことはすでに予測のついていることかもしれない。そしてそれに対しては、政府を発展させ続けるかまたは一歩踏み出して政府を廃止してしまうかの二つに一つしか残されていないだろう。

 我々の批判を再び始めよう。

 主権は民衆の手の内にあると立憲主義者は言う。政府は民衆から発する。従って国家の中で最も教養のある人たちに頼んで次のような立派な市民を選出してもらおう。つまりその立派な市民とは財産、知性、才能、徳などの点から最も著名な人たちであり、また法の正義や巧みな国家運営に最も直接に関心のある人たちであり、そしてそこに参加するための能力の最も高い人たちである。そして定期的に招集され諮問されるこれらの人たちに君主の評議会に出席してもらい、君主の権威の行使にも参加してもらおう。そうすれば我々は我々の本質の不完全さゆえに期待できまた人々の自由と繁栄のためにも期待できることの全てを成し遂げることができるだろう。そうすれば政府は民衆と常に接触を取り合っているのだから、政府が危害をもたらすことはないだろう。

 確かに以上のことはすばらしい言葉である。しかし八九年以来そしてまた主にルソーのおかげで、公衆の事柄に関わる全ての人たちを信頼することができなかったとすれば、以上のことは或る注目に値する詐取を示す言葉である。

136 我々はまず立憲制度、新たな主張の解釈、民衆の主権などについて理解しなければならない。いずれ折を見て我々はこの主権がどういうものであるかについて理解しようとするつもりだ。

 宗教改革まで政府は神権によるものであると看做されてきた。つまり全ての権力は神に由来する。*ルター以後、政府は人間の組織として考えられ始めた。ルソーはこのような見解を理解した最初の一人であったが、この政府からルソーは彼の理論を導いた。かつて政府は天から降りてきたが、ルソーは普遍性の度合いで差はあるが普通選挙という手段を用いて下から政府を持ち上げた。しかしルソーは次のようなことを理解しようとする配慮がなかった。つまりもし彼の時代の政府が腐敗し弱体化したとすれば、その理由は国家に適用された権威の原則が間違っており有害だったからであり、また結局変更する必要があるのは権力の形式やその由来ではなくむしろ権力を適用すること自体を否定するということをである。

Omnis potestas a Deo. = All power is from God.(原訳者注)

 ルソーはまた次のようなことも理解していなかった。つまり本来適用されるべき分野が家族であるところの権威は、謎めいた原理であり、子供の意志ばかりでなく関係者や父母らの意志の前にあってそれらよりも優れているということ、またもし社会の中にとにかくどんな権威でもその原理と根拠が含まれているならば、家庭の中での権威に関して当てはまることは社会の中での権威についても等しく当てはまるだろうということ、またいったん社会の権威理論が容認されれば、その理論が協定に基づくことはどんな場合にもありえないということ、また権威に従わなければならない者が、権威を法令で定めることから始めるなどということは矛盾していること、そして他方、もし政府が存在すべきあるとするならば、それは物事の必然性によって存在するということ、また家族の場合と同様に政府も、神の秩序かもしくは自然の秩序――そんな区別は我々にとってはどうでもいいことだが――の一部であること、また誰もが政府について議論したり、政府について判断を下したりすることは不適切であること、したがって権力は代議員たちによる規制や民衆の議会の司法権に従うどころか、誰も触れる権利のない不可侵の方法によって、またその臣民には、そのとてもへりくだった意見、情報、慰めの言葉などを差し出し君主の正義を啓発するための許可しか手元に残してくれないような不可侵の方法によって、自らを維持し、発展させ、更新し、永続させるために、権力は、政府だけのものだということをである。

137 二種類の宗教がないのと同様に二種類の政府もない。宗教が天からのものであるかそれとも無であるかのいずれかであるのと同様に、政府も神権によるものかそれとも無であるかのいずれかである。民主的政府や自然宗教は二つとも矛盾である、諸君がそれらの中に神秘化を認めたいと思うのなら別だが。そこの民衆には教会での発言権がないのと同様に国家における発言権もない。

 さらに、原理が見間違えようもなく存在するのだから、また人間だけには非合理的で通す権利があるのだから、政府は――八九年の憲法やその後に続く全ての憲法の政府と同様にルソーの政府も――選挙の形式は取っているが、自由と良心の支援を求めるそぶりをしつつその実自由と良心を抑圧する、神権による政府でしかないし、神秘的で超自然的な権威でしかない。

 次に挙げる一連の例について考えて見られよ。

 家族において権威は、人間的感情と密接に結びついており、世代の違いによって自らを押し付ける。

 獰猛(どうもう)で未開な民族においては先の例の範疇に含まれる父権制や、あるいは武力によって、権威は自らを押し付ける。

 聖職尊重主義の民族においては長子相続制や階層制によって、権威は自らを押し付ける。

 ルソーの制度においてはくじや数によって権威は自らを押し付ける。

 世代、武力、信仰、長子相続、くじ、数などの全ては一様に理解しがたく不可解である。なぜならばそれらについて人は理屈を言ってはならず、ただ従うことしかできないからだ。そういうものは、私は原理とは言わないつもりだ、――権威は自由と同様にそれ自身だけを原理として認める――そうではなくてそういうものは人間社会の中で権力を権力として承認させるための別の様式である。原始的で、優越的で、時間系列において先んじていて、議論を受け付けない原理のために、人間の本能は、同様に原始的で、優越的で、先んじていて、議論の余地のないものでなければならない表現をこれまでにいつも見つけようとしてきた。権力を生み出すことに関する限り、武力、信仰、相続、数などはこのような厳しい試練を課すための変化形である、つまりそれらは神の裁定なのである。

138 数は信仰や武力よりも合理的で、本物で、道徳的であるような何かしらを諸君の心の中にもたらすのだろうか。投票は伝統や相続よりも信頼に値するように思われますか。ルソーは武力が数とは違って強奪に一枚噛むかのように最強の人たちの権利を激しく攻撃する。しかし数とは何か。数は何を証明するのか。数にはどんな価値があるのか。誠実さの程度が様々であり、意見が全員一致するかどうかも定かでない投票者の意見と、全ての意見と全ての投票とを支配するものとの間にはどんな関係があるのか。このことは真実で正当なことなのだろうか。

 何だって!問題は私にとって最も大事なことの全てに関することなのだ。つまり私の自由、私の労働、妻子を養うための食糧に関することなのだ。私があなたと協定を結ぼうとしているとき、あなたはくじを引くという偶然な行動によって選ばれた議会に全ての業務を譲り渡す。私が契約を結ぶために出頭するとき、私のことを知らないでまた私のことを理解もしないで私の有罪か無罪かを宣告する調停者を選出する必要があるとあなたは私に言う。この議会と私との間にはどんな関係があるのかと私は尋ねたい。どんな保証をこの議会は私にしてくれるのか。この議会が私の意志の表現としてまた私の権利の正当な判定として喜んですぐにでも決定するかもしれないどんなものでも受け入れるために、私はこのような莫大で取り返しのつかない犠牲をこの議会の権威に対してなぜしなければならないのか。そしてこの議会が、私には何も理解できない議論の果てに、私に銃剣を突きつけて、その決定を法律として私に押し付けようとするとき、私は問う、もし私が主権者であるということが本当なら私の尊厳はどうなっているのかと。またもし私が契約の一方の当事者であると看做されるべきだとするならばその契約はどこにあるのかと。

 秩序や自由、労働者の繁栄、それに進歩などに最も関心の高い人たちとして選ばれた市民によって、議会の代議員たちは国中で最も有能で最も正直で最も独立性の高い人たちとして選ばれたのだから、きっとそういう立派な性向を持ち続けるだろうと彼らは言い張る。立候補者たちの善意を保証する賢明に考え出された計画であることよ!

139 しかし中産階級を構成する誉れ高きブルジョワ諸氏がどうして私自身よりも私の真の利害をよく理解できるのだろうか。問題は私の労働に関することなのである、私の労働に基づく交換、つまり詩人も次のように言っているように、愛情の次に、権威とは全く関わりのない大事なことに関することなのである。つまり

 権威と愛とは両立しがたい。両者が長続きすることはない。*

Non bene conveniunt, nec in una sede morantur Majestas et amor!  =  Authority and love do not fit well together, nor stay long together. (原訳者注) (オウィディウス、 Ovidius, Ovid

 そして諸君は委任されることによって私の同意なしに私の労働や私の愛情を処理しようとしている。諸君の代理権がその特権によってもたらされる権力を略奪の道具に変えてしまうためにその特権を利用しないだろうと誰が私に保証できるだろうか。人数が少ないために代理人たちが手や足も分別もともども腐敗する、などということはないだろうと誰が私に保証してくれるのだろうか。そしてもし彼らが腐敗しないように努力するつもりでも、もし彼らが権威をして理性に耳を傾けさせることができないならば、権威が服従するだろうと誰が私に保証できるのか。

 一八一五年から一八三〇年まで法律によって構築されたこの国は常に権威との戦争状態にあった。そしてその戦いは革命となって終わった。一八三〇年から一八四八年にかけて、王政復古という不幸な体験をしたあと十分に強化された選挙人階級は権力の誘惑にさらされた。二月二十四日の革命が勃発したときその大多数はすでに腐敗していた。この裏切りは再度革命となって終わった。証明されたのだ、もう二度と同じことが繰り返されないだろうということだ。さあそれでは代議制を熱心に推進しようとする人たちよ、もし諸君が強制的な結婚*や大臣たちの腐敗そして民衆の反乱などを我々のために維持できるならば、諸君らは本当に我々のために奉仕してくれることだろう。姦淫の精神から、真昼の悪魔の攻撃から。*

*ブルジョワの娘たちは結婚を強制されていた。(松田祐子 Journal of History for the Public, Vol. 4, pp. 40-59, Bourgeois Women in Belle Epoque France, Marriage and Divorce, Yuko MATSUDA

A spiritu fornicationis, ab incursu et daemonio maridiano. = From the spirit of fornication : from the attack of the noonday fiend. (原訳者注)

 

 

4 普通選挙

 

解決策が見つかったと勇敢な人たちは叫ぶ。全ての市民を投票に参加させよう。彼らに抵抗することのできるどんな権力もないだろう。彼らを腐敗させることのできるどんな誘惑もないだろう。そのように共和国の創設者たちは二月二十四日の翌日に考えた。

140 こう付け加えた人たちもいた。委任を強制的なものにしよう。代議員を常にリコールできるようにしよう。そうすれば法律の高潔さは保証されるだろうし、立法者たちの忠誠も保証されるだろう。

 我々もこの議論に加わってみよう。

 大衆が一目瞭然に立候補者の長所と値打ちを見極めることのできる、この大衆の占いじみた本能を私は全く信用しない。そしてそれには十分な理由がある。選挙で承認された人が民衆の前に初めて姿を現すまさにその演壇で、すでに裏切りの網を張り巡らそうと準備していた例に事欠かない。民衆が十数人のならず者の中から一人の正直な男を選挙のときに選び出すことはまずできないことだった。

 しかし繰り返しになるが、このような選挙の全ては私にとってどれほど重要なことなのか。代議員たちの必要性と同様に代理人たちのどんな必要性が私にはあるのだろうか。そして私が必要とするものを明確にする必要があるそのときに私は誰の助けも借りないで私の必要とするものを説明できないのだろうか。その時私には何かそれ以上のことが必要なのだろうか。私は代理人以上に自分のことについて確信が持てないのだろうか。

 何かをやる必要があると言われている。私がこんなにも多くのまた多様な利害関心に注意を払うことはできないと言われている。そして結局、全ての人々の投票によって構成員が指名された調停者たちの評議会は、横柄な大臣や行政官が退任させられないために彼らを君主自身と同様に私の手の届かないところにおいてしまう、そういう大臣や行政官によって代表される無責任な君主の正義よりも、はるかに優れていて真実や正義により近づくことができそうだと言われている。

 まず第一にそんな代償を払ってまでしてどんなことでもやる必要があるとは私には思われない、またさらにどんなことをも成し遂げられるとも思われない。選挙や投票によってはどんなに満場一致であっても何事も解決しない。我々があらゆる種類の選挙方法を試してきたこの六十年間に我々は何を成し遂げたのだろうか。我々は何かについてその概要を描きさえしただろうか。国民はその議会からどんな光明を手にしただろうか。国民はどんな保証を手に入れただろうか。国民が一年間に十回その命令を繰り返さねばならず、また毎月市の役人や判事を再選しなければならないことによって国民の収入は一セントでも増えるのだろうか。国民は夜床につくとき明日何か食糧を手に入れることができ、それによって子供たちの食い扶持をつなぐことのできる何かを手に入れることができると今まで以上に確信することが出来るようになるだろうか。国民は逮捕されたり刑務所に連行されたりしないと確信することさえできるのだろうか。

141 一定の決まった解決策のない問題について、また重要ではない利害や日常的な事柄などについて、恣意的な決定に服してもいいということは私も理解できる。そういう交渉には、正義よりも優れた何かしら例えば親友間の感情のようなものが心の中にあることを明らかにするような徳性や慰みなどがある。しかし原理に関して、権利の本質に関して、社会の方向性に関して、産業諸力の組織、私の労働、私の生存、私の生活などに関して、そして我々が今論じているまさに政府に関する仮説に関しては、私は一切の前提される権威を拒否する。全ての間接的な解決方法を拒否する。私はいかなる専断的で不公正な議会(star-chamber)を認めない。私は私のために直接、個人的に交渉したいと思う。普通選挙は私からすれば宝くじでしかない。

 一八四八年二月二十五日、一握りの民主主義者が王制を廃したあとでパリで共和国を宣言した。彼らはただ次のような挙に出るために彼らだけで協議した。彼らは最初の会合で、民衆が共和国を宣言するまでは待たなかった。市民の支持は彼らによって大胆にも前提された。彼らは良くやったと私は心から誠意をこめて信じている。彼らは残りの国民の千分の一でしかなかったけれども、彼らの権利を十分に発揮して行動したと私は思う。そして私は彼らの所業の正当さを確信していたから、私自身も躊躇せずそれに参加した。私の考えでは共和国は、国民と政府との賃貸借契約の解消に過ぎないと思っている。「敵に対しては防衛権は譲り渡せない」*と十二表法にもある。権力に抗して返還を要求する権利は消滅するはずがない。強奪は無意味である。

Adversus hostem aeterna auctoritas esto. = Against the enemy the right of defence is inalienable. (原訳者注)

142 しかしそれにもかかわらず、我々が多かれ少なかれ認めている、数に基づく主権や強制的な委任あるいは普通選挙などの観点からすれば、これらの市民たちは強奪行為を犯したのである。つまり公衆の信用や国家の法律にそむく犯罪的な攻撃を犯したのである。委任もされずにどういう権利があって彼らは、また民衆によって選ばれたのでもない彼らは、また大多数の市民の中では取るに足りない少数派に過ぎない彼らは、私は尋ねたい、どういう権利があって彼らは海賊の一団のようにチュイルリー宮殿を襲撃し、王制を廃し、共和国を宣言したのだろうか。

 「共和国は普通選挙に優る!」と我々は一八五〇年の選挙のときに言った。そしてこの言葉は後になって下院の演壇から、喝采されながら、カベニャック将軍(General Cavaignac)という無政府的見解を抱きそうもないような男によって繰り返された。もしこの言葉が真実ならば二月革命の道徳性は立証される。しかし共和国を宣言する傍らその中に普通選挙の行使という新たな政府形態の創設しか認めない人たちについて我々はなんというべきか。政府の原理を認めるとしても、その形態を宣言するのは民衆である。民衆が選挙で意向を問われたとしたら、共和国に賛成の票を投じていただろうと誰が言うことができようか。

 一八四八年十二月十日、民衆は最初の行政長官の選挙で意向を問われて、七百五十万人の選挙人中五百五十万人の多数でルイ・ボナパルト*を指名した。この候補者を選出する際に今度は民衆の側が彼らの意志だけで協議した。彼らは共和主義者たちの予想や意見などを考慮しなかった。私としては共和国の宣言を支持するようになったのと同じ理由でこの選挙には賛成しなかった。そして私はこの選挙に賛成でなかったから、私の力の及ぶ限りそれ以来民衆選出による政府に反対している。

*ナポレオン三世。以下は父親のルイ・ボナパルトに関する記述。

父親のルイ・ボナパルト(Louis Bonaparte, 一七七八年九月二日 一八四六年七月二十五日)は、シャルル・マリ・ボナパルトの五男でナポレオン・ボナパルトの弟。兄によって帝国顕官国民軍総司令官、ホラント(オランダ)王、サン=ルー伯の位を与えられた(オランダ語名Lodewijk Napoleon)。

兄のイタリア遠征やエジプト遠征に参加した。後にリウマチにかかる。

兄の妻ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネの連れ子であるオルタンス・ド・ボアルネと結婚した。オルタンスとの間には男子三人が生まれた。

  ナポレオン・シャルル・ボナパルト(一八〇二年 一八〇七年)

  ナポレオン・ルイ・ボナパルト(一八〇四年 一八三一年) ホラント王ローデウェイク二世

  シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(一八〇八年 一八七三年) フランス皇帝ナポレオン三世

(ウィキペディア フリー百科事典 ルイ・ボナパルト 最終更新 二〇一三年一〇月二〇日 () 一一:一二 (日時は個人設定で未設定ならばUTC))

 しかしそれにもかかわらず、普通選挙、強制された委任、数に基づく主権などの観点からすれば、私はルイ・ボナパルトが国民の考え方、必要とするもの、性向を表現するものと信じなければならない。つまり私は彼の政策を国民の政策であると受け入れなければならない。たとえ彼の政策が憲法違反であるとしても、憲法は国民から直接生じたものではないし、他方大統領は投票者たち大多数の人格化であるという単なる事実からして、彼の政策は国民主権によって認められたものとされるべきであり、また国民主権の意志を表明するものであり、国民主権によって活気づけられているものと看做されるべきである。一八四九年*六月十三日にコンセルヴァトール*に出かけた人たちは反徒であった。*民衆が六ヵ月後に大統領を見捨てるだろうと想定する権利を誰が彼らに与えたのか。ルイ・ボナパルトは伯父*の援助によって頭角を現した。そのことが何を意味するのか誰もが知っている。

*原訳者は一八四八年。中公版や仏語版では一八四九年。

Conservatoire des arts et métiers(工芸学校)『フランスにおける階級闘争  第三章 一八四九年六月十三日の結果 一八四九年六月十三日から一八五〇年三月十日まで』(マルクス)(c2006.1 Tomokazu Hanafusa

*民衆の支持が得られなかった。(年表参照)

*ナポレオン一世、ナポレオン・ボナパルト

143 諸君は今でも民衆について語っているのか。つまり大衆的集会や投票箱に出向く民衆についてである。彼らが二月の共和国の件で敢えてその意向を問おうとしなかった民衆についてである。四月十六日や六月の日々に圧倒的多数で社会主義に反対する姿勢を明らかにした民衆についてである。*ナポレオン・ボナパルトを敬愛するがゆえにルイ・ボナパルトを選出した民衆についてである。憲法制定議会(Constituent Assembly)を選出しておきながら後になって立法議会(Legislative Assembly)を選出した民衆についてである。六月十三日の蜂起に立ち上がらなかった民衆についてである。五月三十一日*に抗議しなかった民衆についてである。改正を求める請願に署名しておきながら改正に反対する請願にも署名するような民衆についてである。最も有徳で最も有能な人々を選出することになった場合、また労働、信用、財産、そして権力そのものなどの組織について決定することになった場合、以上述べてきた民衆がお上から教化されうる民衆であろうか。そしてそういう民衆の知恵によって活気づけられた民衆の代表者たちはそのことによって全く間違うことがないとされるのだろうか。

*一八四八年、年表参照。

*一八五〇年の選挙法改正か。P・二八八参照。

 ドイツで直接立法の原理を発見したリティングハウゼン氏も、この崇高な観念を非常に長い間拒否し続けたことに対して神や人類に許しを乞うたコンシデラン氏も、この両者を九三年の憲法やジャン・ジャック・ルソーに帰するルドリュ・ロラン氏も、自らをロベスピエールとギゾー氏との中間に位置させ、上記三者を全て純粋なジャコバン主義に召喚するルイ・ブラン氏も、普通選挙権や代議制的君主制(representative monarchy)と同様に直接立法をも信用せず、政府を簡素化することのほうがずっと手早く、ずっと役に立ち、ずっと簡単に完成できると信じるジラルダン氏も、――時代の中で最も進歩的なこれらの人たちのどの一人も、労働の安全、財産における正義、通商における誠実さ、競争における道徳性、信用における多産性、課税における平等などをもたらすために何をする必要があるのかを知らないのだ。あるいは彼らのうちの誰かが知っていたとしても、その人は敢えて語ろうとはしないのだ。

144 しかしこれらの専門的な思想家のように社会組織の原理を研究したこともなく、分析したこともなく、その原理の原因を調べたこともなく、その原理相互間の類似性を比較したこともない一千万の市民が、また全てのアイドル的な人物にかけて宣誓し、全ての計画を賞賛し、全ての政治的企画の手先であったお頭の弱い一千万人が、また演壇に近づきその目的のために代理人を指名するこれらの一千万人が革命の問題を間違いなく解決してくれるだろう!ああ閣下諸氏よ、諸君らは本当はそんなことを考えていない。諸君らは本当はそんなことを望んでいない。諸君らが本当に信じていることは、そして諸君らがほとんど確信していることは、諸君ら皆が著名で有能な人士として民衆の一部によって選出されることだ。ルドリュ・ロラン氏は共和国大統領として、ルイ・ブラン氏は発展大臣(Minister of Progress)として、ド・ジラルダン氏は財務大臣として、コンシデラン氏は農業・公共土木大臣として、リティングハウゼン氏は法務・公衆教育大臣として選出されることだ。そしてその後で革命の問題はおのずとその赴くままに解決されるかもしれない。もうたくさんだ、率直に語ろう。普通選挙や強制的な委任、代議員たちの責任など、実際、選挙制度の全体は子供の遊びにすぎない。私はそういうものに私の労働や私の心の平穏、私の運命などを任せるつもりはない。私はそれらの制度を守るために私の髪の毛一本たりとも危険にさらしたくない。

 

 

5 直接立法

 

145 直接立法!いやおうなしに我々はこの問題を取り上げなければならない。ルイ・ブランの引用によればロベスピエールは次のように空しく叫ぶ。「諸君は次のようなことを理解できないのか、つまりこの企画(民衆の意向を問うこと)が国民公会そのものを破滅させることにしかならないということ、また予備議会(primary assemblies)はいったんそれが開かれると陰謀や扇動などのために、民衆の不誠実な目的に奉仕するかもしれない全ての提案について討議せざるを得なくなるだろうということ、また民衆は共和国の宣言さえも疑問に付すことになるだろうということだ。諸君らの制度には、民衆の成し遂げたことを破壊しかねない企画、また民衆によって打ち倒された敵を結集させることになりかねない企画しか私には認められない。もし諸君らが民衆の絶対的な意志に対してそれほど誠実な配慮をするのならば、その意志を尊重すべきである。民衆が諸君らに委託した義務を実行せよ。主権者が諸君らに配慮するように命じた業務を主権者に委託することは主権者の威厳をもてあそぶことである。裁判で判決を下し、また国家の諸問題について決定を下すために集まる時間が民衆にあるならば、民衆はその利害に対する配慮を諸君らに任せたりしないだろう。諸君らの忠誠を示すための唯一の方法はただ法律を作ることであって、内乱を引き起こすことではない。」

 私はこのロベスピエールの言うことに全く納得がいかない。私はその中に彼の独裁制を非常にはっきりと見て取ることができる。「予備議会が国家の諸問題に判定を下すために召集されるならば、国民公会は破壊されるだろう」と彼は言う。明らかにその通りである。もし民衆が立法者になるのなら代議員にはどんな必要があるのか。もし民衆自身が統治するのなら大臣にはどんな必要があるのか。もし民衆に統制権を授けるなら権威はどうなるのか。・・・ロベスピエールは、国民公会に対して敬意を払うべきだと説くことによって、公的な事柄に関与する習慣から民衆を退かせ、テルミドールの反動*への道を開いた人たちの一人であった。自らをこの反動の頭にするためにロベスピエールは、愚かにも彼の競争相手によってギロチンにかけられる代わりに、彼らをギロチンにかけさえすればよかった。そして無敵の皇帝を待っている間に彼は執政政府*(三人委員連合政府Triumvirate)や総裁政府の一人に納まっていたかもしれない。しかし共和国の運命にとって大して違いはなかっただろう。ただ主張の撤回がまた繰り返されただけに過ぎなかっただろう。

*一七九四年七月二十七日。この事件でロベスピエール自身が打倒された。(原訳者注)

*一七九九年十一月九日のブリュメールのクーデターの後、ナポレオンとエマニュエル=ジョゼフ・シエイエスによって設立された執政政府(統領政府、Le Consulat、一七九九年 一八〇四年)に三人のコンスルが置かれた。当初、三人のコンスルは同じ権限を持つとされたが、やがてナポレオンが三人の中の最強の者となった。(ウィキペディア フリー百科事典 第一コンスル 最終更新 二〇一四年一月一〇日 () 一二:一八 (日時は個人設定で未設定ならばUTC))

146 民衆には時間がないと結局ロベスピエールは言う。・・・ひょっとしたそうかもしれない。しかしだからといってそのことで私が彼を頼りにすべきだという理由にはならない。繰り返しになるが私は自分の交渉は自分でやりたい。そして立法化が行われなければならないとすれば私自身が私のことに関する立法者になりたい。それではこのような不寛容なアラスの法律家*の主権国家を捨て去ることからまず始めよう。そして我々が正当にも彼の理論を葬り去ったとき、我々はリティングハウゼン氏の理論にやってくる。

*マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール(Maximilien François Marie Isidore de Robespierre, 一七五八年五月六日 一七九四年七月二十八日)は、フランス革命期の政治家で、史上初のテロリスト (恐怖政治家)・代表的な革命指導者。フランス北部・アルトワ州アラス(現在のパ=ド=カレー県)生まれ。(ウィキペディア フリー百科事典 マクシミリアン・ロベスピエール 最終更新 二〇一四年一〇月一九日 () 〇一:四七 (日時は個人設定で未設定ならばUTC))

 そしてそれはどんな理論か。

 我々が直接におせっかいなしに我々の必要に応じて互いに交渉すべきであるということか。とんでもない。リティングハウゼン氏はそれほど権力の敵ではない。彼は普通選挙を立法者の選出のために用いるのではなく、普遍的で非個人的な法律の直接的立法化のために普通選挙を用いたいと思っているだけである。だからこの普通選挙は依然として競争であり、神秘化である。

 普通選挙を立法に適用することに関して、審議のための議会に対していつもなされる異議について私は繰り返し述べるつもりはない。例えばたったの一票が多数を決定するかもしれないのだから、たったの一票の差で法律が通過するかもしれないという異議である。この一票が一方に向かえば立法者は賛成だと言い、別の方に向かえば反対だと言う。この政治的機械の主動力である、このような議会における馬鹿馬鹿しさは、普通選挙の分野にまで応用されると疑いもなくひどいスキャンダルと共に大変な争いをもたらすだろう。立法家としての民衆は間もなく信用を失い、民衆自身にとってもいやらしいものとなるだろう。私はそういう異議はけちな批評家たちに任せておく。私はこのいわゆる直接立法にまつわる根本的な間違い、避けがたいごまかしについてだけ強調したい。

 リティングハウゼン氏が探求していることは、彼が常にそう言っているわけではないかもしれないが、一般的で、集合的で、統合的で、分割不可能な思想である。つまり群衆としての人間だとか、想像力を持つ被造物としての人間ではなく、より優れた生物としての人間の思想である。ルソー自身の理論もこのような見解に到達していた。普通選挙や多数決の法則に関するこのような論考によって彼は何を目論んでいたのだろうか。彼の弟子たちは何を目論んでいるのだろうか。彼らは多数者の意見を一般的で本能的な感情の適切な表現と看做すことによって、できるだけこの一般的で本能的な感情の近似値を得ようとする。リティングハウゼン氏は全ての人々が或る法律に関して投票することによって、単なる代表者の大多数による投票よりも真実に近い値を得ることができると想定する。彼の理論の独創性や道徳性の全てはこのような仮説の中にある。

147 しかしこのような想定は必然的にもう一つの仮説を含んでいる。つまり人々の集合性の中には集団と個人の利害を同時に表すことのできる何らかの特別な種類の思想があるということ、そしてそういう思想に、何らかの投票過程によって、正確さの程度で一様ではないが、到達可能であるということ、そして結局ルソーも述べていたように人間はただ単に精神を持つ動物であるだけでなく、また思想を人格化したものであるだけでなく、自らの真実性、自らの個性、自らの本質、自らの生命、自らの推理力を持つ真の人格でもあるということだ。もしそうでないとすれば、つまりもし投票あるいは普通選挙によって真実よりも優る近似的な意見が得られるものと、それを推進している人たちによって看做されるということが真実でないとすれば、少数者が多数者に服従しなければならない義務は何に基づくのかと私は問いたい。そうすると集合的存在の真実性と人格性という考え方は、ルソーの理論が最初からきわめて明確に否定する考え方であるのに、上記の理論の土台にあることになる。より完全にまたより正確に人々を立法過程に参加させようとすることを目的としている人々にあってはなおさらそうであるに違いない。

 集合的存在の真実性と人格性、つまり今日まで十分な形でどんな哲学者にも取り上げられてこなかった考え、そしてまたこの考えを説明するにはこの書物と同じくらいの分量の一冊の書物を必要とするであろうこの考えについて、当面私は長々と触れるつもりはない。個人の主権と同義である人類の主権について具体的に表現するだけのこの考えは、民衆の意向を問う全ての制度の、承認されてはいないが秘密の原理であると述べるに止めておきたい。

148 さてリティングハウゼン氏に戻って、私は彼に言う。特殊であると同時に一般的な、集合的であると同時に個人的な、つまり統合的な意見の表明が、多様性の公の表現である投票によって得られるとあなたはどうやって信じることができるのか。斉唱で歌う十万人の人々の声を聞いても民衆の実体について曖昧な感じしかつかめないだろう。しかし個々に意見を尋ねられる十万人の声が、各人が各人の意見に基づいて答えることによって、――つまり十万人の声が異なった調子で別々に歌ったら、恐ろしい轟にしかならないだろう。そして声の数が増せば増すほど、混乱はますます深まるばかりだろう。そうすると人々の本質であるところの集合的な意見の近似値を得るためにあなたがしなければならないことの全ては、あらゆる市民の生の意見を集めた後で、彼らの意見を要約し、各意見の動機を比較し、そこから正確さの程度が一様ではない帰納をすることによって、唯一民衆の意見であるとされる、各人の意見よりは優れた一般的意見であるところの統合を得ることだけである。しかしこのような作業にどのくらいの時間が必要だろうか。それを実行するのを誰が引き受けるのか。この仕事の正確さやその結果の確実性を保証するのは誰か。死の灰しか含まれていないこの投票箱から生きた、活気づけるような胚つまり民衆の観念(Popular Idea)を引き出すのを引き受けるのはどんな論理学者だろうか。

 明らかにこのような問題は込み入っていて解決不能である。さらに、リティングハウゼン氏は民衆が自らの法律を立法化するという譲り渡すことのできない権利についてきわめて立派な金言を提示した後で、全ての政治的事業と同様にこの問題もごまかすことで終わりにするのである。民衆は問題を提案すべきではない。政府がそれをすべきである。民衆は政府によって提案された問題に対して教義問答における子供のようにイエスやノーでしか答えられないのである。民衆には修正する機会さえも与えられないだろう。

149 多数者から何かしらを得ようとすると、このように争っている立法制度の下では、このような結果になるに違いない。リティングハウゼン氏はこのことを率直に認めている。集会に集まった民衆に問題を修正する力があれば、あるいはさらに重要なことであるが、問題を提起する力があれば、直接立法は単なるユートピアに過ぎないだろうということを彼は認めている。このような立法を実現可能にするためには、主権者が一方の条項には全ての真実つまり真実だけを含み、他方の条項には全ての間違いつまり間違いだけを含むような一つだけの選択肢を決断しなければならないことは必然的だ。この二つの条項のいずれか一方が真実以上あるいは以下のものや誤謬以上あるいは以下のものを含むならば、主権者が大臣の質問にごまかされて愚かな返答しかできなくなるのは避けがたいことだろう。

 しかし全ての人々の利害を含む普遍的な問題においては、大変厳しい二者択一問題に陥らずに済ますことは不可能である。そしてそのことは、どんな方法で人々に問題が提起されたとしても、人々がほとんど確実に間違った投票をするだろうということを意味している。

 いくつかの例を挙げてみよう。

 政府は直接政府であるべきかそれとも間接政府であるべきかという問題だとしてみよう。

 リティングハウゼン氏やコンシデラン氏などの考え方が民主主義の下で収めるであろう成功の後では、ほとんど確実にその答は圧倒的多数で直接政府であろうことは推測できる。しかし政府が直接政府か間接政府かということは、根本的には同じことである。一方は他方と同じくらいに良くないのである。もし民衆が間接政府と答えれば、民衆は政府からかけ離れることになり、もし直接政府と答えれば、民衆は自らの首を絞めることになる。諸君はこの結果についてどう思われますか。

 もう一つの問題。

 政府の中には二つの権力があるべきか、それともただ一つだけにすべきか。もっとはっきり言えば、大統領は選出されるべきか。

 今日の精神状況では、進歩的であることを自認している共和主義に影響を受けているので、誰もがこの答はノーであるだろうことを疑わない。しかし政府組織に関与している、つまりこのように全権をたった一つの議会の中に集約することに関与している誰もが知っているように、人々はフライパンから火の中に身を投じることになるだろう。しかしそれにもかかわらず、問題はきわめて単純に見えたのである。

150 課税は比例税かそれとも累進税にすべきか。

 或る他の時期ならば比例税の方が当然のことのように思われるだろう。しかし今日では好みが変化しているので人々が累進税の方を選ぶだろうことは百対一の割合で確実であろう。いずれにしても主権者としての民衆は不正行為を犯すことになるだろう。もし税が比例制ならば労働が犠牲にされ、またもし累進制ならば才能が犠牲にされる。いずれにしても公の利益は損なわれ、個人の利益は痛手を蒙る。全ての投票よりも優れている経済学がこのことを教えてくれる。しかしこの問題は最も基本的なものの一つだと思われていたのである。

 例を挙げようとすればきりがないだろうが、その中でもリティングハウゼン氏が当然のことながら 、十分に明確で納得のいくものと考えた、彼によって示された二つの例を引用してみたい。

 リヨンからアビニヨンまで鉄道を建設すべきか。

 人々はきっとノーとは言わないだろう。なぜならば民衆の最大の願いは距離を短縮することによって、そして旅客や物資の輸送をできるだけ助成することによって、フランスをベルギーやイギリスと肩を並べられるようにするということだからである。だから民衆はリティングハウゼン氏が予想したようにイエスと投票するだろう。しかしこのイエスは重大な誤りを含むかもしれない。いずれにしても地方の権利は侵害されるのだ。

 シャロンとアビニヨンの間には鉄道よりも運賃が七十パーセント安い交通手段を提供する航路がある。この料金は私がたまたま知ったことだが、さらに九十パーセントにまで下げられるとのことだ。四千万ドルの経費をかけて鉄道を建設しないで、ほとんど経費のかからないこの水路をどうして利用しないのか。―― しかし長官(commissioner)のいない立法議院においては、このように理解されていない。そしてローヌ(Rhône)川とソーヌ(Saône)川(ローヌ川の支流)沿いの住民は除外してフランス国民は、この二つの川で行われていることに関して彼らの代表者たちと同じくらいに無知であるため、彼らが自らの意志に基づいて決定するのではなく彼らの代表の希望に基づいて決定するだろう事は容易に予測できることである。八十二の県は残りの四県を破滅させる判決を下すだろう。そういうのが直接立法である。

151 鉄道を建設する主体を国家にすべきかそれとも株式会社にすべきか。

 一八四九年の時点では株式会社が歓迎されていた。民衆は彼らの貯金を寄付した。真の共和主義者であるアラゴ(Arago)氏は民衆を代表して投票した。民衆はその時会社がどういうものかを知らなかった。今日では国家が選択肢となっている。常によく教育された民衆は疑いもなく国家を選ぶだろう。主権者である立法者がどちらの選択肢を選ぼうが、彼は何らかの野心家たちの操り人形である。会社の場合では低価格が犠牲にされ、通商は通行料金を徴収される。国家の場合では労働はもはや自由ではなくなる。それは交通に適用されたメヘメト・アリ*(Mehemet Ali, 17601849)の制度である。鉄道が何らかの契約者たちの私服を肥やすのと、リティングハウゼン氏の仲間のために閑職を提供するのとで、民衆にとってどんな違いがあるのだろうか。本当に必要なことは鉄道を新たな種類の財産に仕立て上げ、鉱山に関する一八一〇年の法律を完成させ、それを鉄道にも適用可能にし、鉄道を経営する特権を一定の条件の下で、資本家ではなく労働者たちによる責任ある会社に授けることである。しかし直接立法は人間を解放するところまでは決して踏み込まないだろう。その定式は一般的であり、それは全ての人を奴隷化する。

*エジプトの太守

 国家はどのような方法で鉄道を建設すべきか。国家は必要とされるお金を税金で調達すべきか。それとも八パーセントまたは十パーセントの利率で銀行家から借金すべきだろうか。それとも鉄道そのものを担保にして手形(circulating notes)を発行すべきだろうか。

 答。国家に手形を発行させよ。私はリティングハウゼン氏のお許しを乞いたいが、彼がここで民衆の名の下に提案する解決策は一見そう思えるほど値打ちのあるものではない。手形が五パーセント、十パーセント、十五パーセントあるいはそれ以上のパーセントの減価分を失うということは十分起こりうることであるかもしれないし、実際極めて確実にそうなりそうなのである。従ってこの方式は課税や借金のいずれよりも人々にとっては重荷になるかもしれない。再度問おう。民衆が高利貸的な利益を銀行家に支払う場合と、最初から事業に加わって有利な立場にある政府の代理人に利益を支払う場合とで、民衆にとってどれほどの違いがあるのだろうか。

 政府は無料の運賃を提供すべきか。それとも鉄道から歳入を取り立てるべきか。

152 もし人々が無料の運賃を要求すれば人々は自らを欺くことになる。なぜならば全てのサービスは料金を支払われるべきだからだ。国家が歳入を引き出すべきであると人々が決定すれば、人々は自らの利益を無視することになる。なぜならば公共のサービスは利潤目当てであってはならないからだ。最初の問いは適切に表現されていない。「運賃はその原価と等しくすべきか否か」とすべきである。しかし原価は常に変化するのだから、また原価の動向に注視するためには特別な調査と立法化が必要になるだろうから、他のどんな点についてと同様にこの点についても、人々の回答は法律どころではなく大失敗に過ぎないだろうことは明らかである。

 直接立法は相も変らぬごまかし以外の何ものでもありえないということは明らかであろうか。政府によって民衆に提案される百の問いのうち九十九は先に示した問いと似たような事情にあるだろう。そしてその理由は、リティングハウゼン氏は論理学者としてこのことは無視できないことだが、民衆に対して提案される問いは普通は特別な問いであろうが、それに対して普通選挙はただ一般的な回答をすることしかできないということである。型どおりの立法家はこの難問に屈せざるを得ないから、場所、時、状況などの要求に沿ってその定式を修正することができない。したがってその回答は大衆の好みによって前もって計算され事前に知ることができるだろう、そしてその回答がどうあれ、それは常に間違いだろう。

 

 

6 直接政府または九三年の憲法 政府観念の馬鹿馬鹿しさへの帰着

 

 ルドリュ・ロラン氏がこの論争で取った立場は注目に値する。もし私が彼の思想を理解しているとすれば、まず第一に彼は九三年の憲法の起草者たちの直接政府という当初の観念を復活させたいと思ったことであり、またそれと同時に第二点目として民主的発展の絶頂であったこの憲法が、可能性の限界を超えるものではないにしてもそこに到達するものであるということを示したかったことであり、そして最後に様々なユートピアの空虚な好奇心から注意をそらし再び革命の本物の方向性に狙いを定めたいということであった。

 このような点でルドリュ・ロラン氏が、ロベスピエールの政府中心主義(governmentalism)の頑固な追随者であるルイ・ブラン氏よりは自由主義的であることがわかり、そしてまた理論が不可能な事柄に凝り固まってしまい率直で非難の余地のない論理という利点さえもないコンシデラン氏やリティングハウゼン氏よりも政治的問題において知的であることがわかるが、そういう認識をするのになんら手間はかからない。

 153 ルドリュ・ロラン氏は九三年の憲法の化身のような人であり、生身の問題児であるように思われる。つまりこの問題児は人々に向かってこう語りかけるのだ。「諸君はこの憲法を思いとどまってもいけないし、またそれを行き過ぎてもいけない。そして九三年の憲法のこういう評価が正しいということは認められなければならない」と。

 しかし国民公会の最も自由主義的な精神の持ち主たちによって編纂された九三年の憲法は、政治的支配に抗する証人として我々の祖先によって提起された記念碑であるということ、また我々はこの憲法の中に日程表を見て取るのではなく課題を発見すべきであり、つまりこの憲法を到達すべき目標としてではなく出発点と看做すべきだと私は結論づけたい。ルドリュ・ロラン氏は進歩的な人である。彼は、九三年の憲法を統治的実践の最新の表現であると看做す結論を認めないではいられない。そしてこれを出発点としてより高い領域へと駆け上がり、革命的領域を完全に変更する。

 このような観点から私は九三年の憲法に関する私の見解や、またルドリュ・ロラン氏によって最近追加されたこの憲法についての論評に関する私の見解などの全てを一本の提案にまとめ、最終的な立証として、権力と自由との絶対的な非両立性を明白な形で示してみたい。

 民衆が回答することしかできない問いを提案する権利を政府に留保することによってひどい規制を民衆の大権に課す直接立法は、子供っぽく非道徳的な神秘化にすぎないことをルドリュ・ロラン氏はきわめてはっきりと知っていた。九三年の憲法に関して再度触れて彼は時代の主流の感覚に合わせて次のように語った。「民衆は最も一般的な問いにだけ意見を述べるべきであって、詳細は大臣たちや議会に任せるべきである」と。

 「法律と布告(Laws and Decrees)との区別は正当に行われてきた。どんなに反対意見が述べられようとも、この境界線を維持することは簡単である」と彼は言った。

154 実践的にはその通りである。そして民衆の権利の根本的な点が問題とされる場合には、民衆はいつでも決定することができる。そしてこのことはそのように九三年の憲法の起草者たちによって理解されていた。しかし理論的にはつまり正確な区別が必要とされるような場合には、全くそうではない。そのような問題では九三年の憲法は強奪を特別視するように思われる。ルイ・ブランは次のように述べている。「というのは三万七千の郡区がその法律に関して投票できるとき、何を法律とするかを決定する権力をどういう権利に基づいてこれら郡区から奪うのか。昔の暴政を名前を変えて存続させ続けることをおそらくはっきりと許してしまうかもしれないような布告を、そしてまたこれら郡区が認めようとしないような布告をどういう権利に基づいて諸君はこのような郡区に課すのか。」

 コンシデラン氏の提唱する組織である「平和的民主主義」(Pacific Democracy)はこれよりもずっと明確である。「全ての憲法の中で、またヨーロッパの全ての基本法において、基本的な原理は十分に定式化されている。この根本的な原理は概して法律によって規定されているが、それはいわゆる布告によって詳細においてはひっくり返され廃止される。諸君らの制度を導入することは、新聞販売、印紙、印刷業認可などに関する、また立法議会によって捏造される抑圧のための全ての組織に関する議会の布告によって出版の自由を廃止するために、この出版の自由を民衆に宣言させるようなものである。またそれはすぐ後で強制的な布告によって卑しい多数者たちを排除するために、普通選挙を民衆に基づくものだとするようなものである。そしてまたそれはすぐ後で、しかもまた国家と文明を救うという口実で、議会の決定によって戒厳令を敷くために、民衆に人間の権利を公表させるようなものである。・・・また諸君らの代表者たち(と、大衆においては当然である抵抗の本能と)の当然の敵対関係がいついかなるときにも起こしかねないような司法権における争いを、つまり諸君らの二つの立法権力間の司法権の争いをどうやって諸君らは防止するつもりなのか。・・・」

 以上の考察にはそれなりの利点はある。それにもかかわらず九三年のような憲法においては、理論上は別としてこのような考察はあまり価値があるものではないと繰り返しになるが私は思っている。事実にもっと直接に関わるように私には思われることを次に述べる。

155 九三年の憲法とルドリュ・ロラン氏とによって採用された法律と布告との区別は、基本的にはルソーによって定められた規則に基づいた、立法権と行政権との区別である。

 「法律は一般的な意志の宣言にすぎないのだから、民衆は立法権において代表とされることはできず、法律の適用される唯一の権力であるところの行政権において代表とされることができまたそうすべきであることは明らかである。」

 ルソーのこの原理に基づいて一八一四年と一八三〇年の憲章では立法権は国王と二つの議院にあったが、行政権は国王だけにあった。こうして国王はルソーの規則に基づいて国家の唯一で真の代表になった。

 しかし法と布告との区別をする前に、そして前者を民衆に割り当て後者を政府に割り当てる前に、全ての民主的な精神を持つ人たちの意見において、民衆に向けて次のような前段階の質問をする必要がある。つまり

 権力の分割は政府の条件とすべきか。

 つまり

 立法分野では民衆を代表にすることはできないのだから、民衆は政府の行政分野で代表とされるべきだろうか。

 言い換えれば

 大統領を置くべきだろうか。

 私は全民主主義的集団に身を置くいかなる人に対してもこの問いに対してその通りだと答えてみよと言いたい。従って諸君にとって大統領も、執政(Consul)も、三人委員(Triumvirs)も、総裁(Directors)も、国王も、そしてルソーの神託にもかかわらず、行政権のいかなる代表者も不要ならば、法律と布告との諸君による区別はいったいどんな役に立つのか。リティングハウゼン氏も望むように、民衆は法律と布告とを共に含めてあらゆることに投票しなければならない。しかしそれは我々が今までに示したように不可能なことである。直接立法は葬り去られているのだ。我々はそこに戻る必要はない。

156 ルドリュ・ロラン氏あるいはむしろ九三年の憲法は、行政権が、選出する能力のない民衆によってではなく議会によって選出されるべきであるとコンドルセに倣って言ってこの難問を切り抜けようとした。

 私はコンドルセの許しを乞いたい。何だってあなたは民衆が行政分野で代表とされうるしまた代表とされなければならないと言って切り出しておきながら問題が民衆のこの代表を選出する段になるとこの代表を市民によって直接選ぶのではなく民衆の代理人によって指名したいと言うのか。これでは民衆から政府の最善なものの半分を奪うことになる。なぜならば行政は政府の半分以上を占めるからだ。それは実際、政府の全体である。あなたは民衆から全ての立法義務を奪った後で、権力のあらゆる行為に対する責任は民衆自身の法律の適用に過ぎないという口実で、あなたは民衆にその責任を押し付ける。あなたは主権者、立法者、判事である民衆に「話して、決定して、立法化して、投票して、命令せよ!」と語りかけているようだ。「諸君の代理人である我々がまず責任を持って諸君らの命令の解釈を引き受け、その後で諸君らの命令を実行する。しかし我々が何をしようが諸君らに責任があるのだ。諸君が何を言おうが、我々が証拠を出そう*」と。

Quidquid dixeris, argumentabimur. = Whatever you say, we will bring proof. (原訳者注)

 ルドリュ・ロラン氏が間違いを犯したとするならば、それはコンシデラン氏の例に倣ってこのことを直接政府と呼んだことであった。

 まず第一に民衆が、リティングハウゼン氏が望んだように国家の全ての事柄に関してイエスやノーで答える、のではなく法律について判決を下すことしかできないならば、布告の名において民衆の主導権から全ての問題の十分の九は除外されることになる。

 第二点目として全ての行政権力は民衆から奪い去られる。民衆はいかなる任命もすることができなくなるかもしれないばかりでなく、民衆に代わって任命をする民衆の代表者を選出することさえもできなくなるかもしれない。

 このような矛盾の究極においては、前述の代表が民衆の代理人によって選出されそのためいかなる代表を出すことも許されず、またいかなる権力を委任することも許されず、それどころかその直接的主権が恒常的に機能していなければならない民衆は、自らの代理人たちよりも少ない権威しか持っていないということがわかり、また行政権力の中の民衆の代表として、資格が立法分野の民衆の代理人たちによって布告された一人かそれ以上の個人だけを、認めざるを得ないことになるだろう。

157 私はもうこれ以上何も言わないが、全ての正直な人たちに尋ねたい。全てのことを人々に約束するが何一つ与えることのない九三年の憲法が、また合理性と現実との両極端に位置する九三年の憲法が、新世界の入り口に我々の祖先によって立てられた灯台のようにではなく、むしろ我々の祖先がその実行を子孫に託した未来に向けた計画のように人々には思われるのではないかと。

 リティングハウゼン氏やルドリュ・ロラン氏の制度に倣って必ず生じるだろうより進歩的な制度について私は触れない。このような制度のそれぞれについて似たような批判を始めることはきわめてうんざりすることであろう。私は最終的な仮説に進む。

 それは次のような制度である。ここでは民衆は絶対的な権力に復帰し、全体として自らを自分自身の独裁者と看做し、結局自らが自立するような制度であり、したがって、適切なことであるが、民衆が全ての特権を享受し、立法上の、行政上の、司法上の、そして他にもあれば他の権力を全て自らの人格の中に結合するだろう制度であり、また民衆が全ての法律を定め、全ての布告、法令、決議、判決、審判などを宣言し、全ての命令を送付し、最上層から最下層まで全ての代理人と役人の責任を負い、仲介者なしに直接彼らに自分たちの意志を伝達し、その各々に責任を分担させることによって彼らの執行状況を監督し、またそれを確実にし、民衆自らが全ての寄付金、市民名簿(civil lists)、年金、報酬などを授与する、そして実際上のまた権利としての国王として主権、権力、お金、快楽、余暇などの名誉や利点を享受するだろうような制度である。

 我々の最後の望みであるこの制度の中に、そして原理の明確さ、簡潔さ、厳格さなどやその原理の適用の際の厳しさなどの点で、また民主主義的・自由主義的に徹底的であるゆえに、エロー(Héraut)やセシェル(Séchelles)、コンシデラン、リティングハウゼン、ルイ・ブラン、ロベスピエールやその仲間たちなどの臆病で、混乱して、中途半端な企画をはるかにしのぐこの制度の中に、私はいくばくかの論理を吹き込むべくできる限り努力するつもりだ。

158 しかし運悪くこの制度は敢えて言うが、全体としてまた詳細な点では申し分のない制度なのだが、実践的には乗り越えがたい困難に直面する。

 それはつまり政府の中にはその相関者として統治される人々を含むということである。つまりもし全ての人々が主権を要求して政府に就けば、統治される人々がどこにいるのかと空しく捜し求めることになる。政府の目的は敵対的な利害を調停することではなく、――政府もこのことをするには全く無能であることを認めている――利害の争いがあっても社会を維持することなのである。つまり政府の目的は経済秩序の欠陥や産業の調和の欠如を付け足すことなのである。したがって民衆が自らの自由と主権を求めて政府を担当すると、民衆はもはや生産活動に専念することができなくなる。というのは物事の本質からして生産と統治とは矛盾する機能であるからであり、またこの両者を結び付けようとする試みはあらゆるところで分裂を拡散させることになるだろうからだ。そして繰り返しになるが、どこに生産者がいるのか、どこに統治される人々がいるのか、どこに臣民がいるのか、どこに犯罪者がいるのか、どこに死刑囚がいるのかということになる。

 我々が絶対王制であろうが修正的王制であろうが、王制の下にいたときは、政府は王であり、それに対するものは国民であった。―― 我々はこの政府は好きでなかった。そして我々はこの政府の腐敗と不道徳とを責めたが、それは理由のないことではなかった。

 我々が立憲王制の下にいたころ政府は国王と二つの議院から成り立っており、この両議院は世襲かあるいは国王の選り好みによってあるいは国民のうちの或る階級からなど、何らかの方法で構成されたのだが、これらに相応するものは、政府の活動に全く関与しなかった全ての民衆であった。これらの民衆は程度の差はあるが国民の圧倒的大多数であった。―― 我々がこのようなことの全てを変えたのは理由のないことではなかった。政府は民衆にとって癌になっていたのである。

 現在我々は外見上は民主的国家の中にいる。全ての市民は三年または四年ごとに最初は立法権を次に行政権を選出することが認められている。しかし民衆にとって政府に参加できるこの期間は束の間である。それぞれの選挙についてせいぜい四十八時間に過ぎない。こういう理由で政府の対極にある人々は以前とほとんど変わらない状態のままであり、このことは国全体でほとんど事情は同じである。大統領と代議員たちはいったん選出されると主人であり、それ以外の者たちは従うだけだ。彼らは止まるところなく統治され、課税され続ける臣民である。

159 この同じ制度の下で大統領と代議員とが毎年選出され常にリコールされる立場に置かれたとしても、対極の民衆の方ではほとんど事情は変わらないように思われた。民衆にとっては数日間延期され、統治する少数者にとっては数日間短縮されるだけであり、事態は話すに値しない。

 この制度は疲弊しきっている。この制度を望むようなものはもはや政府の側にも民衆の側にも一人としていない。

 このような場合に絶望して彼らは直接立法や直接政府などの名目で他の取り組みを提案している。例えば全ての民衆あるいは一千万人の市民あるいは少なくとも彼らのうちの一部分によって立法業務を執り行ったり、あるいは現在では大統領によって指名されている、行政権を持つ代理人や役人のうちの何人かをこれらの同じ一千万の人たちによって選出させたりするなどである。このような異なった制度のもたらす傾向は政府に市民の少なくとも一.五倍を配置することになり、そのことは、少数者が多数者によって統治されることは自然の秩序に反するというルソーの教えに反することである。

 我々は次のことを証明したばかりである。つまり多かれ少なかれ矛盾点があることによってしか互いに他から区別されないようなこれらの企画は全て、実際上の乗り越えがたい困難に突き当たるということ、またさらにこれらの企画は始めから圧制と野蛮な力に特徴のある不名誉な企画であるということだ。なぜならば民衆の法律は投票によって得られるから必然的に偶然の法律であり、そして民衆の権力は数に依拠しているから必然的に野蛮な力を持つ権力であるからだ。

160 そうするとこのような下降を続けていたら止まるところがない。我々は最終的な仮説にたどり着かねばならない。つまりそこでは民衆が一団となって政府の中に入り、権力の全ての分野を行使し、また民衆は常に全員一致であり、民衆の上には大統領も、代議員も、代理人も、法律によって定められた地方(law-made country)も、多数党もない。つまり民衆はその集合性において唯一の立法者であり、また唯一の役人である。

 しかし権力のためにこのように組織された民衆の上に何もなければ、彼らの下には何があるのかと私は問いたい。つまり政府の対極となるものはどこにいるのか。労働者や機械工、商人、軍人などはどこにいるのか。労働者と市民はどこにいるのか。

 諸君は民衆が同時に全てのものであると答えるのだろうか。つまり民衆が生産活動と立法活動とを同時に行い、また労働と統治とが民衆の内部で結合しているのだと答えるのだろうか。しかしそれは以下の理由で不可能である。つまり一方では政府の存在理由は利害の不一致にあり、他方では、権威や多数決による解決は認められないのだから、そして総体としての民衆だけに立法化の権力があるのだから、結局、立法化のための議論は立法家の人数が増えるに伴って長引くだろうし、国家の取り扱う事柄は政治家が増加するのに比例して増加するだろうし、市民が自らの生業に専念するための時間やゆとりがもはやなくなるだろうし、彼らにとって昼間の時間は、政府の業務を処理するのにゆとりがありすぎるということはないからである。中間の選択肢はないのだ。労働かそれとも支配かのどちらかなのである。これは君主の法則であるのと同様に民衆の法則でもある。ルソーに尋ねられてみよ。

 こんなふうにアテネでは物事が執り行われていたのである。アテネでは数世紀間、全ての民衆が公共の集会場に集まり朝から晩まで様々な問題について話し合っていた。しかし主権を構成する二万人のアテネ市民には彼らのために働いてくれる四十万人の奴隷がいたのである。それに対してフランス人には彼らのために奴隷として働いてくれるものは誰もいないし、またアテネ人の千倍もの処理しなければならない業務がある。繰り返し尋ねるが、民衆が立法者でかつ支配者になったとすれば、民衆は何に関する法律を作るのか。どんな利益のために、どんな目的のために。そして民衆が統治しているとき、誰が民衆を支えてくれるのか。「原因が取り除かれれば結果もなくなる」*とスコラ学派(the School)は言う。民衆の一団が国家になれば、国家にはもはや存在する理由がない。なぜならばもはや民衆がいないからであり、統治の等式はゼロになるからだ。

Sublata causa, tollitur effectus. = The cause removed, the effect ceases. (原訳者注)

161 こうして権威の原理は家族から国家に適用されたのだが、制定法(definite laws)、立憲的憲章、普通選挙、直接立法等々の権威の原理自らが自らに対してせざるを得ない譲歩を積み重ねることによって、政府も民衆も共に廃止される傾向があるのは避けがたいことである。そして政府や民衆を消滅させることは、特に後者にあっては、不可能であるから、この運動はしばらくすると中断され復古的運動によって再開する。このようなことが一七八九年以来フランスがたどってきた道筋であり、また間違った仮説が行きつ戻りつをもたらすということを民衆の良識が結局理解することにならなければ永遠に続くであろう道筋である。我々の祖先にとって直接政府が独裁制への一歩であるにすぎず、またこの独裁性そのものが暴政への入り口であるということを、我々に九三年の伝統について想起させる政治評論家たちは無視してはいけないことである。

 民衆が自らを直接統治するために招集されることになった有名な法律である、あの嘆かわしい記憶を呼び起こす国民公会が一七九三年六月二十四日に通過したとき、ジロンド派の没落以来全盛を誇っていたジャコバン派や山岳党は、エロー=セシェル*(Héraut-Séchelles)のユートピアがどれほどの値打ちがあるかを十分理解していた。直接政府は平和が訪れるときまで延期されるべきだという布告を、彼らは国民公会というつつましい召使を利用して通過させたのだ。平和が訪れるときまでとは諸君もご存知のように当初から二十五年を意味していたのである。直接政府の創立者たちは賢明にもこう考えたのである。つまり立法家であり、労働者でありまた軍人でもある民衆は一方では労働をし他方では戦いながらこれらの高貴な職務を果たすことはできないし、またまず国家が救われなければならないし、その後で民衆に何も恐れるものがなくなったときに民衆は主権を行使し始めることができるのだと。

Marie-Jean Hérault de Séchelles (September 20, 1759 April 5, 1794) was a French judge and politician who took part in the French Revolution.  He was tried before the Revolutionary Tribunal and condemned alongside Danton, François Joseph Westermann, Camille Desmoulins, and Pierre Philippeaux. They were guillotined on the same day: April 5, 1794 (16th Germinal in the year II).  (From Wikipedia, the free encyclopedia. Last modified on 8 May 2014 at 21:44)

162 以上のことが九三年憲法の延期の際に民衆に提示された理由であった。

 三ヶ月、六ヶ月、一年と経過したが山岳党も平原党(the Plain)も民衆の主権を攻撃するこの反立憲的な条項を廃止するように要求しなかった。公安委員会は革命政府と和解した。民衆について言えば、彼らは直接政府にほとんど関心がないようだった。

最終的には、公安委員会による指令の停止の必要性についてかねてから語っていたダントンは、革命法廷に送られその穏健性を咎められて断頭台に送られた最初の人であった。不運な人よ!ダントンは、九三年の憲法を信じあるいは少なくともこの憲法を実験してみたいと思っていたデムーラン*(Desmoulins)、エロー=セシェル、ラクロワ(Lacroix)などと共におそらく最初の人だっただろう。ダントンはギロチンにかけられた。直接政府は経験豊かな人たちの目から見れば全くのインチキであった。ロベスピエールはこの秘密が嗅ぎ出されないように注意していた。ルソーの凝り固まった弟子であるロベスピエールは、最近ルイ・ブランが明らかにしているように、間接政府に対してはっきりと断固として好意的であることを常に明らかにしていた。そしてこの間接政府とは一八一四年や一八三〇年の政府と全く同様に代議制政府である。

いる。

*ルシー・シンプリス・カミーユ・ブノワ・デムーラン(Lucie Simplice Camille Benoist Desmoulins、一七六〇年三月二日 一七九四年四月五日)は、革命派のジャーナリストで編集者、およびダントン派の政治家である。一七九四年、かつての友であるロベスピエールに対抗し、ダントンと共に、恐怖政治を終焉させようと寛容を主張するキャンペーンを展開。しかしそれが元となってサン・ジュストの告発によってダントン派と共に粛清され、裁判後に処刑された。(ウィキペディア フリー百科事典 カミーユ・デムーラン 最終更新 二〇一三年三月二二日 () 一八:一二 (日時は個人設定で未設定ならばUTC))

 「私は共和主義者でもないしまた王党派でもない」とヴァレンヌ*(Varennes)の反逆の後でロベスピエールは言った。彼はこう言うつもりだったのだ、つまり「私は直接政府に賛成でもないしまた絶対主義に賛成でもない。私は中道を支持する」と。実際、五月三十一日(1793)以後に犠牲になった何人かのジロンド党の人たちや画家、それに国民公会が草月の日々(the days of Prairial)の後で犠牲に供した、単純に信じ込んでいた何人かの山岳党の人たちを除いて、この議会の中にたった一人でも共和主義者がいたかどうか疑わしい。大多数の者はほんのわずかな違いはあっても、九一年の観念であるロベスピエールの考え方を共有していたのであり、総裁政府の憲法に貢献したのである。とりわけこのようなことはテルミドール九日(1794.7.27)に明らかになったことである。

*ヴァレンヌ事件(La fuite à Varennes)は、フランス革命時の一七九一年六月二十日から翌朝にかけてフランス国王ルイ十六世一家がパリを脱出し、二十二日に東部国境に近いヴァレンヌで逮捕された事件である。(ウィキペディア フリー百科事典 ヴァレンヌ事件 最終更新 二〇一四年一月二七日 () 〇五:五六 (日時は個人設定で未設定ならばUTC))

The king and his family were eventually arrested in the town of Varennes, 50 km (31 Miles) from their ultimate destination, the heavily fortified royalist citadel of Montmédy. The incident was a turning point after which popular hostility towards the French monarchy as an institution, as well as towards the king and queen as individuals, became much more pronounced. The king's attempted flight provoked the charges of treason which ultimately led to his execution in 1793.  (From Wikipedia, the free encyclopedia  Flight to Varennes  This page was last modified on 11 October 2014 at 05:11.)

163 民主主義の背教者が革命の殉教者に変身したこの日について十分な説明をした歴史家は私の知る限り一人もいない。それにもかかわらず事態は十分明白なのである。

 ロベスピエールはアンラジェ派(the Enragés)、エベール主義者(the Hérbertists)、ダントン主義者など当時無政府的と看做された党派を、つまり九三年の憲法について真剣に考えているとロベスピエールが疑っていた全ての人たちを、次から次へとギロチンにかけることによって自らを延命させてきたのだが、ついに最後の一撃を加えるべきときがやってきたと考えたのである、つまり正常な土台の上に間接政府を再構築すべきときがやって来たと考えたのである。このような見解は今日では経験上咎められる政府復古的な見解なのだが、ロベスピエールの時代では政治権力の連合体によってなお高く評価されていたのである。ロベスピエールがテルミドール九日に国民公会に要求したことは、常にギロチンを用いて前もって粛清しておいた後での権力の一層の集中や政府における結束の傾向、つまり実際ルイ・ボナパルトの大統領の地位に何かしら似ている、公安委員会と総合防衛委員会(Committee of General Security)であった。このことは特にビュシェ氏*(Buchez)やルバ(Lebas)氏などロベスピエールの弁護論者によって今日認められているロベスピエールのものとされる一連の演説によって証明されるし、またそれは後で歴史の一部となったのである。

*P・一二参照、Philippe-Joseph-Benjamin Buchez (17961865), more commonly called Philippe Buchez, was a French historian, sociologist, and politician. He was the founder of the newspaper, L'Atelier, and he served briefly, in 1848, as the president of the Constituent National Assembly, which was then meeting at the Palais Bourbon in Paris.  (From Wikipedia, the free encyclopedia  Philippe Buchez  This page was last modified on 17 May 2014 at 21:47.)

 ロベスピエールは国民公会の多数派が抱いていたひそかな願いに自らが答えているということを十分に知っていた。ロベスピエールはいくつかの原則で多数派と自らとが一致していると感じていた。そして外国の外交筋が自らのことを理解しあえそうな政治家と看做し始めているということに明らかに気づかないはずがなかった。ロベスピエールがいつもぺこぺこと頭を下げていた国民公会の「正直な男たち」が、彼らの全ての願いである立憲主義を再開すれば喜ぶだろうということをロベスピエールははっきりと知っていた。またそれと同時に血なまぐさい熱気が彼らの中道的傾向を震撼させる何人かの民主主義者から彼らが解放されればまた喜ぶだろうということもはっきりと知っていた。戦いの一撃は十分に準備され、計画はたくみに練り上げられ、これ以上好都合な機会はありえないだろうと思われる時がやってきた。テルミドールの直後に起こったこと、革命家たちの裁判、革命暦五年(1796-1797)の憲法、総裁政府、ブリュメールの政策などは、ロベスピエールが考えていたことの一連の適用にすぎない。この男の地位は、直接政府にどう対処すべきかを十分に知りつつ、できるだけ早く間接政府に逆戻りしたいと願い、また民主主義に抗して自らが開始しようとしている反動が自らを帝国にまで至らしめてくれることを願っていたシエイエス*(Sieyès)やカンバセレス*(Cambacérès)等々の人たちの地位と同列に並べられるはずのものであった。

*P・一二五の注を参照

*ジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレス(Jean-Jacques Régis de Cambacérès,一七五三年十月十八日 一八二四年三月八日)は、フランスの法律家、政治家。ナポレオン・ボナパルトによってパルマ公に叙された。ナポレオン法典の起草者の一人として知られる。(ウィキペディア フリー百科事典 ジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレス 最終更新 二〇一四年一月二二日 () 〇四:一三 (日時は個人設定で未設定ならばUTC))

164 不幸なことにロベスピエールには国民公会の中にほとんど親友がいなかった。彼の企ては先が見えなかった。彼のような天才にしても彼と身近に接していた人たちの信頼を得ることがほとんどできなかった。彼は身近な人たちとすごく狂暴に対立した。そのため彼が演説をぶった国民公会の中の立憲的で中産階級の多数派の人たち、つまりそうすることによって彼が今の状況の中心人物に据えた人たちが、彼のほのめかした考えを奪い取ってそれを今度はその考えの発案者とその敵対者たちに同時に振り向けるかもしれないという危険が生じたのである。

 そのことこそまさに実際起こったことであった。

 ロベスピエールの口車に乗せられていた多数派の指導者たちは一石二鳥かもしれないと思った。一八四八年の場合と同様に正直で穏健な多数派は自らの立場が国民党(National Party)であるとともに改革党(Reform Party)でもあるということに気づいた。決定的な瞬間に彼らは独裁者を見捨てた。そして彼は自らの反動的行為の最初の犠牲者になったのである。ロベスピエールがダントンを失脚させたように、また彼がカンボン(Cambon)、ビヨー(Billaut)、バレンヌ(Varennes)やその他の人たちを失脚させようとしていたように、彼が頼りにしていた国民公会の穏健な人たちが、そして実際ロベスピエールの期待に背かなかった人たちが、今度は彼を失脚させた。そして他の人たちもその後その跡に続いたのである。間接政府の最も激しい敵であったダントンや間接政府の最もぶっきらぼうな競争相手であったロベスピエールらによって産み落とされたこの間接政府は、今後再び姿を現しそうであった。

 ロベスピエールは独裁者の地位に就きたいと思っていたのだと言う人もいたし、また彼は王制を復興させたかったのだと言う人もいた。このような非難は互いに論駁し合う。自らに対する人々の人気を捨て去ることがなかったように自らの確信を捨て去ったこともなかったロベスピエールは、立憲政府の執行権力のボスになりたかったのである。彼は総裁政府(Directory)や執政政府(Consulate)の下でのなんらかの地位を受け入れていたかもしれない。彼は一八三〇年後の王朝に反対していたかもしれない。彼は二月後の臨時政府を承認していたかもしれない。そして彼は無神論者を憎み僧侶たちには本能的に好意を寄せていたから、ひょっとするとローマ遠征へ一票を投じていたかもしれない。

165 慎重にというよりはむしろ正直にダントンを模範にして直接政府の提案を今日に蘇らせる人たちに、そして再びダントンのように民衆にその絶対的な権利を思い起こさせ「独裁者はこりごりだ!空論家はこりごりだ!」と叫ぶ人たちに、独裁制が彼らの理論の最後に待ち構えていることを、また彼らが非常に恐れているこの独裁制の理論が、正当にも罰せられたテルミドールの裏切り者の理論であるということを、忘れさせてはならない。直接政府は、政治的陰謀に飽き飽きした民衆が、反動家の野望が彼らを待ち構えている絶対主義的政府に自らを安住させることにつながる、長い間知られている変遷過程に過ぎない。独裁制の観念はすでに、私が今この文章を書いているときにも、民衆の中に投げかけられ、忍耐心に欠ける臆病な人たちによって受け入れられてしまっているのではなかろうか。直接政府と混沌との両方と同時に戦い、時にはロベスピエールの評判を引き合いに出しながら時には彼の名を憎むのを我々が目の当たりにしているまさに同じ人たちの全てが、二月革命の後には自由の主張を抑制し、民衆の願いに別のはけ口を与え、立候補者たちの罷免に賛成の票を投じ、そして民衆が行動と理念を要求する場合にはいつもまたどこでもただ口先だけや中傷で応答しているのを我々は見かけなかっただろうか。

 今でもジャコバンの伝統に従っている人たちあるいは従っていると思っている人たちの中の私の友人は一人に止まらない。私がこのような文章を書くのも主に彼らのためである。今まで彼らが感づきにくかったことつまりテルミドール九日の真の意味とロベスピエールの真の意図とが、我々の時代と当時の時代との類似性によってついには彼らによって発見されることを私は期待する。

166 九三年に革命家の肩書きを極めて声高に自慢した人たちが、民衆のために労働の保証と生活可能な賃金を要求した無政府主義者を断頭台に送り、財産や社会経済などの問題は大衆に向けて扇動すべきでないと望んだように、今日でも革命のさなかに公然または非公然のジャコバン主義の継承者たちは、ただ政治問題だけに依拠し、経済改革についての発言を控えている、あるいはたとえ彼らが経済問題に触れるとしても、それはエルサレムの愛の宴から我々の許に降りて来ていくつかの毒にもならない友愛的教訓をぶつぶつ言うためだけである。自らの計画を明確に述べるようにまた自らの方法と手段を説明するように召喚されたとき、自らの敵が困ったことをしでかしたと責めはするが、困難に直面してただ尻ごみをすることしかできない、頭が空っぽで腹黒い永遠の告発人であるロベスピエールを、全ての人気取りの連中、革命のペテン師どもは彼らの権威者として崇め奉ってきた。九〇年に裁判に巻き込まれることを恐れて、自らの口から漏れ、またデムーラン*(Desmoulins)によって報告されたからかいの言葉を否認したこの卑怯で口先だけの男は、また九一年にルイ十六世の退位の宣言に反対しシャン・ド・マルス*(Champs de Mars)の請願を咎めたこの男は、そして九二年にはジロンド派の評判を高めすぎることになるからという理由で宣戦布告に反対したこの男は、また九三年には大衆の蜂起に敵対したこの男は、そして九四年にはそれに関与しないように常にどこでも民衆に勧めたこの男は、またカンボン(Cambon)やカルノー*(Carnot)など自らが探検家と軽蔑して呼ぶところの全ての人たちの計画をよく理解もせずにいつも潰したこの男は、そして自らが妬み剽窃した全ての著名な人たちを飽きもせず中傷し続けたこの男は、五十年後、びっこで引きずられるように歩む馬が馬車を引っ張るのを手伝うのと同様に、目のくらんだ革命家たちの主張を手助けして、このような革命家たち全てにとっての守護聖人として役立っている。偉大なロベスピエールの全ての弟子の皆さんよ、諸君は革命という言葉で何を意味しようとするのか、諸君の方法と手段とはどういうものか、一度でいいから我々に話してくれたまえ。

*P・一六二参照。Lucie Simplice Camille Benoît Desmoulins (French pronunciation: [kamij demulɛ̃]; 2 March 1760 – 5 April 1794) was a journalist and politician who played an important role in the French Revolution. He was a childhood friend of Maximilien Robespierre and a close friend and political ally of Georges Danton, who were influential figures in the French Revolution. Desmoulins was tried and executed alongside Danton in response to Dantonist opposition to the Committee of Public Safety.  (From Wikipedia, the free encyclopedia   Camille Desmoulins  This page was last modified on 6 August 2014 at 13:28.)

*エッフェル塔の下にある旧練兵場

Nicolas Léonard Sadi Carnot (French: [kaʁno]; 1 June 1796 – 24 August 1832) was a French military engineer and physicist, often described as the "father of thermodynamics".  (From Wikipedia, the free encyclopedia  Nicolas Léonard Sadi Carnot  This page was last modified on 22 August 2014 at 20:51.)

167 ああ!人は友人以外に騙されることはない。一七九三年と同様に一八四八年においても革命の指導者とは革命を代表する人たちであった。昔のジャコバン主義と同様に現在の共和主義も単なるブルジョワの空想に過ぎない。それは原理も計画も持たず、欲しいと言って欲しがりもせず、いつも𠮟って、勘繰ってばかりいるが、それでいて騙される。そしてどんなところでも自分の党派以外には徒党と無政府主義者しか目に入らない。そして警察の記録を調べ挙げ愛国者たちの現実のまたはでっち上げた弱点しか発見できない。そしてシャテル(Chatel)崇拝を禁止する一方でパリの大司教にミサを歌わせる。そして自らに妥協することを恐れてあらゆる問題に対して適切な回答を避け、あらゆることに対する決定を留保し、何も解決せず、明白な理由や明らかな立場でも信用しない。もう一度言うがこのようなことの全てが、なんら指導力もないおしゃべりだけのロベスピエールその人ではないか。つまり彼はダントンの中に過剰な男らしさを認め、自分にはそういう長所がないからという理由でダントンの寛大な大胆さを責め、八月十日*にはためらい、九月の大虐殺*を承認もしなければ否認もしなかった。そして九三年の憲法に賛成の票を投じておきながら、平和が訪れるときまでそれを延期することにも賛成した。また理性の宴*(Feast of Reason)を非難しておきながら至高の存在(Supreme Being)の宴を確立した。カリエ(Carriers)を告発したかと思えばフーキエ=タンヴィル*(Fouquier-Tinville)を支持する。朝にカミーユ・デムーラン(Camille Desmoulins)に平和的な態度で接したかと思えばその晩には彼を逮捕した。死刑廃止を提案したかと思えば草月(Prairial)の法律を引っ込めた。そして順番にシエイエス、ミラボー、バルナブ(Barnave)、ペシオン*(Pétion)、ダントン、マラー、エベールなどを高く評価したかと思ったら、エベール、ダントン、ペシオン、バルナブを、エベールは無政府主義者だとして、ダントンは寛大すぎるとして、ペシオンは連邦主義者だとして、そしてバルナブは立憲主義者だとして、次から次へとギロチンにかけ追放した。そして政府的統治を支持するブルジョワと強情な僧侶だけを尊重し、またある時には教会の宣誓に関することで、またある時にはアッシニヤ紙幣の際に、革命に対して不信の念を投げかけた。そして沈黙と死によって難を逃れることができた者だけを容赦した。そしてついにこの男は、中道派の人たちの中でほとんどたった一人取り残されても、彼らと共謀してまた自らの利益のために革命を鎖につなごうとしたときついに屈したのである。ああ!私はこの卑劣な人間を知りすぎるほど知っている。私はこの男の中に私が容赦すべき犬の尻尾があまりにも頻繁に振られるのを感じてきた。それは民主主義者の隠れた悪徳、あらゆる共和国を腐敗に導く大騒ぎ、そして妬みであった。テルミドール派の人たちにちなんで呼ばれるようになった人々に九四年に門戸を開き、革命をどこかになくしてしまったのはロベスピエールであった。社会主義が一七九七年と一八四八年に追放されるようになったのは、ロベスピエールの例に倣っていたこと、またその権威のおかげであった。ロベスピエールによる偽善的で憎たらしい影響が最終的に絶滅されなかったとすれば、今日でも新たなブリュメールを再びもたらすだろう男こそロベスピエールである。

*八月十日事件(Journée du 10 août 1792)とは、フランス革命期の一七九二年八月十日、パリで民衆と軍隊がテュイルリー宮殿を襲撃してルイ十六世やマリー・アントワネットら国王一家を捕らえ、タンプル塔に幽閉した事件である。テュイルリー宮殿襲撃(Prise des Tuileries)とも言う。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 八月十日事件 最終更新 二〇一四年六月五日 () 二一:〇二)

*九月虐殺(Massacres de Septembre)は、フランス革命において一七九二年九月二日から数日間にわたって行なわれたパリの監獄で起こった虐殺。殺害された人数は一万四千人とも、一万六千人ともいわれる。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 九月虐殺 最終更新 二〇一三年九月一〇日 () 一〇:〇六)

The Temple of Reason (French: Temple de la Raison) was, during the French Revolution, a temple for a new belief system created to replace Christianity: the Cult of Reason, which were based on the ideals of atheism and humanism. This "religion" was supposed to be universal and to spread the ideas of the revolution, summarized in its "Liberté, égalité, fraternité" motto, which was also inscribed on the Temples.

  For instance, at the Notre-Dame Cathedral in Paris, on November 10, 1793, a special ritual was held for the "Feast of Reason": the nave had an improvised mountain on which stood a Greek temple dedicated to Philosophy and decorated with busts of philosophers.  (From Wikipedia, the free encyclopedia  Temple of Reason  This page was last modified on 5 September 2013 at 21:50.)

*アントワーヌ・カンタン・フーキエ=タンヴィル(Antoine Quentin Fouquier de Tinville または Fouquier-Tinville, 一七四六年六月十二日 一七九五年五月七日)は、フランス革命期の革命裁判所の検事。カミーユ・デムーランの遠戚。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 アントワーヌ・フーキエ=タンヴィル 最終更新 二〇一四年七月五日 () 〇九:一三)

Jérôme Pétion de Villeneuve (3 January 1756, Chartres, France 18 [?] June 1794, Saint-Magne-de-Castillon (near Saint-Émilion)) was a French writer and politician who served as the second mayor of Paris, from 1791 to 1792.  (From Wikipedia, the free encyclopedia  Jérôme Pétion de Villeneuve  Last modified on 21 May 2014 at 04:24.)

168 革命の本来の敵が革命に戦いを挑むときにも、革命の行く手を誤らせようとする党派や派閥によって革命は常に分断される。キリスト教には当初から異端がいた。そしてそれが後になって大分裂をもたらした。宗教改革にも何回かの分裂といくつかの宗派があった。フランス革命にも、最もよく知られる名前を挙げれば、立憲主義者、ジャコバン派、ジロンド派などがいた。

 十九世紀の革命にもユートピア主義者、様々な学派、様々な党派、そして全ての多かれ少なかれ後退的な、反動的特徴が反映された集団がある。つまり絶望的沈黙が、迫害された急進的な人たちの間に広がっているとき、進んで無政府に反対する行動を取ってやると自ら名乗りをあげる秩序の擁護者たちを、反動的集団の中と同様に革命家の中にも認めることができる。そして社会とは、革命が反対することの全てであると考えるような社会の救済者たちがいる。そして人が大火の役割を引き受けるように、その政策が革命の役割を引き受けることであるとする中道派の人たちがいる。そしてまた革命的な言葉遣いが観念に取って代わるような急進派の人たちがいる。また自らがミラボーやダントンになり得ないために、カリエ(Carriers)やジュールダン*(Jourdan)などの首切り人の不滅性を喜んで引き受けるようなテロリストもいる。ある人たちにとっては一八四八年の憲法が、ある人たちにとっては直接政府が、またある人たちにとっては独裁性が、そしてまたある人たちにとっては革命法廷や戦争評議会(Council of War)などが、旗印や太鼓の役をする。そしてさらにこれら全ては政府統治的観念の上に立っているのである。権力があちこちで破滅しようとしているとき、権力はこれらの人たちが考えることのできるただ一つの観念なのである。権力は、これらの人たちに彼らの運命を警告する、そしてこれらの人たちを、最後の皆殺し人ロベスピエールの前兆やまたその犠牲者として我々の前に明らかにする、最後の痕跡なのである。

*ジャン=バティスト・ジュールダン(Jean-Baptiste Jourdan,一七六二年四月二十九日 一八三三年十一月二十三日)は、フランス革命戦争で活躍した共和派の軍人・政治家。帝政期には帝国元帥。帝国伯爵。五百人院議員として一七九八年に近代最初の徴兵制度を成立させ、同法はジュールダン法と呼ばれる。(ウィキペディア フリー百科事典 ジャン=バティスト・ジュールダン 最終更新 二〇一四年二月一五日 () 〇七:〇〇)

169 一七九二年八月十日、王国は田舎部隊の弾丸によって倒された。一方ロベスピエールと彼のジャコバン派はナンシーの兵隊とシャン・ド・マルス*(Champ de Mars)の愛国者の血にぬれながら、まだ九一年の憲法によりすがっていた。

彼らは議会の要塞の高みから発砲し続け、王国と憲法とを共に破壊してしまうことを口にする人たちを信用しなかった。彼らが今度はその支配者と主人になることを望んでいた立憲王制を追い詰めるために、こそこそ動く犬のような彼らを引っ張りまわしていたダントンのような勇敢な革命家たちを、彼らは決して許さなかった。ロベスピエールは言った。「革命のためには憲法で十分だ」と。

 最も善良な市民たちの血を吸ったこの党派の憎しみは、今でも我々の後を追いかけている。私は人とは和解できる。なぜならば私も彼らと同様に間違いをするかもしれないからだ。しかし党派とは私は決して和解できない!彼らに我々を憎み続けさせておけ。なぜならば、ああ!革命がその馬勒からはずされるのはそれほどすぐ先のことではないからだ。もし彼らの手によって革命が成し遂げられるならば、我々は我々よりもあまり進歩していない人たちに主導権を喜んで引き渡すつもりだ。テミストクレス*(Themistocles)がエウリビアデス*(Eurybiades)に次のように言ったように、我々もロベスピエールに言う。「政府の食客よ、攻撃せよ。革命のおべっか使いよ、攻撃せよ。至高の存在の偽善的な崇拝者よ、ロヨラの堕落した従者よ、攻撃せよ。攻撃せよ、しかし私の言うことに耳を傾けよ。」

*P・一六六参照。

*アテナイの将軍。陶片追放に会いペルシャに逃れた。

Eurybiades (Greek: Εριβιάδης) was the Spartan commander in charge of the Greek navy during the Second Persian invasion of Greece (480-479 BC).  He was the son of Eurycleides, and was chosen as commander in 480 BC because the Peloponnesian city-states led by Sparta, worried about the growing power of Athens, did not want to serve under an Athenian despite the Athenians' superior naval skill. Despite the enmity between the two, Eurybiades was assisted by the Athenian naval commander Themistocles.  His first act as commander was to sail the fleet to Artemisium, north of Euboea, to meet the Persian fleet.  When they arrived the Greeks found that the Persians were already there, and Eurybiades ordered a retreat, although the Euboeans begged him to stay. Instead, they bribed Themistocles to keep the fleet there, and Themistocles used some of his bribe to pay off Eurybiades (at least according to Herodotus).  The subsequent Battle of Artemisium was indecisive, and the Greeks removed their fleet to Salamis Island.  二人とも海軍司令官であり、作戦上の不一致もあったが、協力してペルシャ軍と戦った。(From Wikipedia, the free encyclopedia  Eurybiades  This page was last modified on 21 June 2013 at 14:27.)

 

第五研究  社会の清算

 

 

170 現代社会とそれが示唆する改革とに基づくこれまでの研究は、ここでまとめて列挙することが望ましいいくつかの事柄を我々に教えてくれた。

1 七月王制の崩壊と共和制の宣言は、社会革命の合図であった。

2 この革命は、はじめのうちは理解されなかったが、臨時政府の最初の数日のころから、この革命に反対してなされたまさに同様の反動の影響によって、少しずつ定義され、決定され、決着がついた。

3 先の革命によって現在の体制が神政的、僧侶的制度に取って代わったのと同様に、この革命においては、経済的ないし産業的体制が統治的、封建的、軍事的体制に取って代わった点にその本質がある。

4 産業制度によって我々が理解する内容とは次のとおりである。つまり農業、工業に従事する人たち、会社の創立者、地主、労働者たちなどが、かつて貴族や僧侶等が主要な階級であったように、今度は現代の主要な階級になるような、そういう政府の形式としてではなく、社会の基礎として、政治権力の階層性の代わりに、経済的諸力の組織を有するような社会の構成として理解する。

5 そしてこのような組織が、物事の本質から生じなければならないとか、そのことについてなんら恣意的なことはないとか、その法則を既成の慣習の中に見出すことができるなどと説明するために、我々はこう言ったのである。つまりそのようなことを生起させるためには、問題はたった一つのことがあるのみであった。つまり物事の流れを変えること、つまり社会の傾向である。

071 次に、指導原理として役立ち、また各党派の旗幟としても役立つ、主な理念を吟味してみることによって、我々は次のことを認識した。

6 ほとんどの党派によって採用された組合の原則は、本質的に不毛な原則であること。それは産業上の力でも、経済的法則でもないということ。それは大革命が禁じる、統治と服従とを共に含むであろうということ。

7 直接立法とか直接政府などの呼称で最近よみがえった政治原則は、その射程範囲が家庭内にとどまり、したがって、正当にも、都市や国家にまでは延長されえないということなどである。

 これらと同時に我々は次のことを証明した。

 8 組合の理念に代わって、我々が経済的な力でもありかつ法則でもあると認めた相互性という新たな理念で置き換えようとする傾向が、労働者階級の間で起こったということ。

 9 政治的伝統そのものにおいても、政府という理念に対立して、自由で平等な人間が受け入れることのできる唯一の道徳的な結びつきである、契約という理念があったということ。

 このようにして、我々は、革命の必須の要素を認識するようになる。

 その原因:一七八九年の大革命がその後に残した経済的な混沌。

 その誘因:政府自らがその促進者でありかつその支持者であることを否が応でも認めるところの、進行的、組織的な貧困化。

 その組織的な原則:相互性。法律用語では、契約。

 その目的:労働と賃金の保証。したがって富と自由の無限の増加。

 我々が二つのグループに分ける党派:組合の原則に頼る社会主義的各党派と、依然として中央集権と国家の原則に献身する民主主義的各党派。

 最後に、その敵、つまり資本主義的、神学的、高利貸的、統治的な、現状維持を擁護する人たち。つまり、まさに、労働によってではなく、偏見と特権によって生きているすべての人たち。

172 革命的セクト、党派、組合などからのものにせよ、反動勢力や、現状を維持しようとする者たちからのものにせよ、我々が革命原則を導き出そうとするとき直面しなければならない困難や反対を考慮しながら、相互性と契約という、経済上のものであり、かつ法的なものでもある観念であるところの、組織上の革命原則を導き出そうとすること、また、労働者が保証を見出し、資産家にとっては足かせとなり、商業にとっては均衡を保つことができ、政府は無用の長物となるような、改革と新たな組織の全体を明確にすることなどは、知的観点から言えば革命の物語を語ることを意味する。

 したがって私がここでこれから述べようとすることは、私が今まで述べたことと同様に、予言でもないし、扇動でもないし、警告でもない。今日の多くの人たちがよくご存知のように、私はどの党派にも所属していないし、あらゆる派閥を拒否している、したがって私には、日ごろ指示を与えたり、命令を下したりするような配下もいない。私は事実を語るだけである。そして結局は、将来事実となることを語ることになるだろう。私が感じる事実や、同国人や同時代の人たちにその置かれた状況について明らかにしたいという気持ちなど以外に書きたいという理由は私にはない。

 このような問題は、どのように、また、どういう順序で生じるものなのだろうか。革命から生じる活動は、どのくらいの期間継続するのだろうか。それは一七八九年八月四日の革命*のように、一晩で完成するものなのだろうか。それとも反革命に対する革命の側の一連の勝利の後に完成するものなのだろうか。どのような妥協が行われるのだろうか。どのくらいの遅れや延期なら許されるのだろうか。原則についてのどのような修正ならば、各政党、セクト、それにうぬぼれの強い人たちが許すのだろうか。そしてこの物語を活気づけ、飾りつけるために、議会による、行政府による、選挙民による、軍部によるどのような物語が書き加えられることになるのだろうか。私にはわからない。私には全くこういうことはわからない。繰り返しになるが、私は予言者でもなければ、政党やセクトの人間でもない。私はただ、現在の事実から、将来の一般的な結果を導き出すだけである。つまり、私が放り捨てる運命の神の書物から導き出せる何ページかを引き抜くことしかできない。これは現に存在する事実である。私にはそうとしか言えない。なぜならば、それは現に書かれているからだ。我々はそれを否定することができない。しかしどんな具合にその事実がやってくるのか、私には予測がつかない。なぜならば、我々は完全にわれわれ自身の運命を左右することのできる主人であり、この点について我々が下す自由な選択こそ、最後の手段を判定する鍵となるからだ。

*年表参照。

One of the central events of the French Revolution was to abolish feudalism, and the old rules, taxes and privileges left over from the age of feudalism. The National Constituent Assembly, acting on the night of 4 August 1789, announced, "The National Assembly abolishes the feudal system entirely." It abolished both the seigneurial rights of the Second Estate (the nobility) and the tithes gathered by the First Estate (the Catholic clergy).The old judicial system, founded on the 13 regional parlements, was suspended in November 1789, and finally abolished in 1790.

(From Wikipedia, the free encyclopedia, Abolition of feudalism in France, Last modified on 14 July 2014 at 18:13.)

173 したがって私は読者諸兄に、全く歴史家としての私の確信だけで、私の人間としての感性を判断しないようにお願いしたい。もし私が私の心情の声に耳を傾けるならば、おそらく態度を変えてしまうことになりかねないような何がしかの手段を、事の必然からして、維持し続けなければならないような状況に私は一度ならずおかれることになるだろう。そしてそれは私にとって耐えがたい苦痛である。しかし多くの人たちは、自分たちをおだて上げる優雅で感傷的な著者よりも、人々に知識を提供する頑固な論述家のほうを好むとするならば、私のことを許してくれることだろう。

 以上のような前置きはさておき、私は次の三つのやるべきことを提示したい。

 第一は、かつての革命が我々に遺した分裂的傾向を中断すること。そして新たな原則の助けを借りて、既存の利権を瓦解する方向に進むことである。――このように国民議会は、一七八九年八月四日の晩に進行したのだった。

 第二番目は、常に新たな原則に基づいて、経済上の諸力を組織化すること、そして同時に所有権の原則を廃止することである。

 第三番目は、政府とか、国家とか呼ばれるところの、この巨大な機械の歯車のすべてを次から次へと減少させ、簡素化し、脱中央集権化し、抑圧することによって、経済システム内における政治的ないしは統治的システムを分解し、埋没させ、消滅させるように仕向けることである。

 以上のことが、我々がこれからこの研究やそれに続く二つの研究で取り扱おうとしている問題である。そしてまた別の研究では、より高い立場から再び革命的実践を取り上げ、そこから特に宗教的観念、道徳性、哲学、文学、芸術などに関わる分野の中から、より高尚な物の見方を取り出そうと努めるつもりである。

 次のようなことを想定してみよう。そしてそれならどうなっていたことだろうか。一八五二年、人民がその代表を選出すべく招集されたとき、人民が投票箱に向かう前に、人民同士で相談し、一七八九年の時のように、彼等の要求項目を再検討し、彼等の代表たちにその要求を実行するように命じていたらどうなっていただろうか。そしてまた人民が、次のように、代議員たちに言っていたらどうなっていただろうか。

174 我々は平和的な革命を望んでいるが、革命が迅速に、決定的に、また完全に、遂行されることを望む。我々はこの抑圧と貧困の体制に代わって、安楽と自由の体制が続くことを望む。そして政治権力に基づく政体に取って代わって、経済的諸力から構成される組織がその代わりをすることを、また、人民や市民が、いかなる従属と服従に基づく結びつきで社会の中に組み入れられるのではなく、ただ自由な契約によってのみ、社会の中に入れられるべきであることを望む。そして最後に、我々の望みが実現されるためには、代議員諸君が、我々が諸君に改廃するように課す組織や、また新たな社会が古い社会からの、自発的で、自然で、必然的な進展であるように思われるように諸君が完成しなければならない法の原則などを、利用するように要求する。そして革命が古い秩序を改廃する一方で、それにもかかわらず、その古い秩序から引き出されることを要求する。

 つまり、人民がいったん彼らの真の利益に関して目を覚ましたならば、政府を改良するのではなく、社会を革命的に変革しようとする彼等の意思を明らかにする、そしてその際、さらによい計画があるかもしれないことに対して偏見を持つことなく、そこで指摘された秩序が絶対的であるとか、またあらゆる修正もできないとか言い張るのではなく、――そしてそれが、人民の代表が人民の命令を実行するやり方なのだと私は考えるのだが、――そんなふうに社会を革命的に変革しようとする人民の意志を明らかにする、と想定してみたらどうなるだろうかと私は言いたいのだ。

 さて私はまず退屈と思われるかもしれない問題、つまり割引(利子先払い)銀行を取り上げる。私はあらゆる技術的に詳細な事項や、理論に関するあらゆる議論は控えて、この問題に新たな光を当ててみたい。

 

 

1 国有銀行

 

174 二人の生産者は、その品物と価格について同意のうえで、それぞれの製品の販売と交換を約束し、またそれを相互に保証し合う権利がある。(民法典第一五八九条、一七〇三条)

 相互に販売または交換をし合うという同様の約束は、同じ法的根拠に基づいて、無数の生産者の間で存在しうる。それは、無数の回数繰り返される同様な契約になるであろう。

175 今日の商業上の混沌のために、重さが不足し品質の劣るものが法外な値段で売られているが、それに対して、良質なパン、肉、その他の消費財を低価格で販売し交換することを保証するパン屋、肉屋、食料品店などを設立するために同意し、もし必要ならば資金を出し合う権利がフランス市民にはある。この目的のために正当な値段と正直な製品の交換をお互いに保証するための組合であるハウスキーパー(家屋管理人組合)という組合が創設された。

 同じ規則に基づいて、市民の商取引になくてはならない通貨を安い価格で得る目的で、また個々の特権的銀行と競争するために、彼等の望むだけの資金量を元にして、彼等の共通の利益のために、市民には銀行を設立する権利がある。そして彼等の間でこの目的に関して意見を一致させる際にも、彼等は、商業の自由の原則と、その解釈であるところの民法典第一五八九条ならびに一七〇三条とによって彼等に保証された権利を用いるにすぎないだろう。

 したがって割引銀行は、公共機関であるかもしれない。そしてそれを創設するためには、組合も、友愛団体も、義務も、国家による介入も不要である。ただ、販売と交換のための相互約束、つまり簡単な契約が必要なだけである。

 以上のことが解決されたならば、割引銀行が公共機関であることばかりでなく、そのような銀行が必要とされていることも、私は強調したい。以下にその証拠を述べよう。

 1 フランス銀行は政府の特権を持ち、千八百万ドルの資本で株主たちによって設立された。その金庫室に眠るお金の現在高は、約一億二千万ドルである。したがって、一般に流通させるために金属貨幣に代わって紙幣を代用したことによって、この銀行の金庫室に蓄積されたお金の六分の五は、市民の財産である。したがって、この銀行の所有ではない資本を使うことに基づいた仕組みの本質からして、この銀行は当然公衆の組織にすべきである。

176 2 このようにお金が蓄積されたもう一つの理由は、フランス銀行が貯蔵所となっているお金に対して紙幣を発行するという、フランス銀行が国家からただで得た特権である。したがって、すべての特権は公衆の所有物なのだから、フランス銀行も、その特権そのものを持っているという理由だけで公衆の組織になるべきである。

 3 銀行券を発行し、流通過程で徐々に紙幣で金属貨幣に取って代えるという特権のために、次のようなことが生じる。つまり、一方では、銀行の株主に、彼等の資本に本来支払われるべき利息額をはるかに超えた金額を支払わなければならないとともに、他方では、銀行家や、金貸し階級にとっては莫大な儲けになるが、通貨を利用するあらゆる種類の製造業者、手工業者、商人、消費者などにとっては大変な損害となるように、お金の価格を吊り上げておかなければならないということである。株主に支払われる利息が過剰であることと、お金のレートの上昇とは、いずれも権力者がお金持ちの資本家階級に対してご機嫌をとりたいためにいつも抱いていた欲望の結果なのだが、それ自体不公正なものであるから、そのようなことは長続きするはずがない。したがってフランス銀行は、その特権が非合法であることによって、公衆の組織になるべく運命づけられているのである。

 したがってまず、官僚組織のノウハウを握っている人民の代表たちが、一八四八年の憲法によって彼等に付与された権力を行使し、フランス銀行が国家の所有物ではなく、――その理由を私はすぐ後で説明するつもりだが、――公衆の役に立つべき組織であると宣言し、この会社の解体を命令する法令を公布すべきであると、私は、経済慣行によって示される徴候に基づいて提案する。

 それだけではない。

 フランス銀行が、公衆の役に立つ組織となり、その資本が顧客たち自身によって提供されるようになった後では、フランス銀行はいかなる外部の利益に奉仕する必要ももはやなくなるだろう。まず第一に、「国家は、国民の何の役にも立たない」(Res sua nulli servit)という法の原則は、この銀行とは正反対のものであるし、さらに、お金も、肉やワインや他の商品と同様に、できるだけ低価格で売られるべきであるという、一般に認められた善行は、この銀行とは正反対のものである。すべての商人や手工業者たちは次のことをよくわかっている。つまり、わが国で貧困を長引かせており、またフランスがイギリスよりも劣っている原因は、お金が高いということであるということだ。

177 フランス銀行における、お金にかける現在の利率は、四パーセントである。ということは、フランス銀行での割引の特権をほとんど独占している他の銀行では、五、六、七、八、九パーセントになることを意味している。

 さて、この利息は公衆のものであるから、公衆は、フランス銀行から多額の歳入を引き出すことができるにせよ、またより少ない経費で事業を展開できるにせよ、それらに応じて思いのままに利率を、三、二、一、二分の一、四分の一パーセントに引き下げることができるだろう。

 そしてこのような値下げの取り組みがたとえ小額であるにせよ、いったん取り組まれ、思いのままの速さで継続されるとしよう、――そして、それをより速めるとか、もっとゆっくりやるとかは、全く大差のないことだ――そうすれば、フランス共和国の全領土に渡り、お金や割引の価格に関与するすべてのところで見られる社会的傾向は、事実上、直ちに変化するであろう。そしてこのような単純な変化であっても、フランスが、現在の資本主義的で、政府による中央集権的システムから、革命的システムに変化するきっかけとなるであろうと、私は断言する。

 諸君!革命ほど恐ろしいものが他にあるだろうか。

 もし諸君が今私に、私としてはこの利率の低減をどの位にまで下げるべきであると考えているのかと問われるならば、私は躊躇せずにこう答えるだろう。政府機能を執り行うための経費と金属の磨耗とをカバーするために厳密に必要な数字、おそらく二分の一パーセント、あるいは四分の一パーセントであると。そして私は布告にそういう趣旨の二番目の条文を付け加えることを提案する。

 私はそういう私の意見の根拠について、ここでは詳しく論述しないつもりだ。そしてそういう私の意見を、私は今まで長い間、自分の胸のうちにだけ留めておいた。私は他のところでそのことについて触れたことがある。私はさしあたって、経済学や財政問題や道徳については、ここでは触れない。私はここでは単純に革命について述べているだけだ。だから私は主として原則論を強調しているのであり、一方では慣習に関わることについて、前もって私の意見を勝手に述べさせてもらっているのである。諸君がフランス銀行の民主化と利率の低減を布告するとき、そのときこそ諸君は、革命の道に突き進んでいることであろう。

178 しかし私はついでに、ひとつの重要な私の思いについて触れないではいられない。もし私がフランス銀行に利子を払いたくないとするならば、それは利子が、もし地方銀行(the Bank of the Country)が国立銀行に変わったとするならば、我々がとても逃げることのできない、私の目からすれば、統治的で封建的な慣習であるからだ。長い間社会主義は、国立銀行、国債、国家の歳入や儲けなどについて夢想してきたが、それらはすべて、共和国の名における、共和国を模範にした、共和国の庇護の下での、民主主義的で社会的な、略奪の原則や労働者からの強奪の神聖化を意味しているのだ。人民銀行を政府の手に預けてみよ。そうすれば、新たな課税、新たな閑職、巨大な役得などに代わって、国家のために割引による儲けを蓄えるという口実で、前代未聞の浪費が、人々の犠牲の上に新たに行われることになるだろう。つまり、高利貸、寄生行為、特権などが、再び好まれるようになるだろう。私は国家など真っ平だと思う。公務員のためにも私はそれを望まない。私は政府を退ける。直接政府でさえも退ける。私はこれらの新たに発明された仕組みの中に、怠け者たちのための、寄生や避難所の口実しか認めない。

 そういう私の行動は、私にとっては最初の革命的な行動になるだろう。つまりそれは、私が社会を分解し始めるはずの最初の行動となるだろう。

 諸君は、私のこのような行動の中に、何か不公正や暴力的なものを認めるだろうか。そのような行動は、諸君にとって専制的な匂いがあるように思われるだろうか、それともそれは、自由によって刻印されるべきものだろうか。諸君は、組織的な原則や、相互性や、契約などの表現をそこに認めないだろうか。商人、手工業者、農民などには、何か不満に思うことがあるだろうか。国民議会(the National Assembly)によってその布告が通過し、――というのは、現状を変革するために、現にあるものをどうして利用していけないことがあろうか――組織が設立され、執行のための評議会が選出されたとすれば、人民銀行は政府とどういう共通点を持つはずがあろうか。そして諸君が非常に誇りに思っているこの有名な集権化に関して言えば、すべての町、工業、企業における利率を、三、二、一、二分の一パーセントにまで下げるであろう機関のほうが、財務大臣によって取り仕切られた中央銀行による農工業の絶対的な統制から帰結するだろうものよりも、優れているように思われないだろうか。紋切り型の政治家たちよ!真の集権化とは、官僚の階層化ではなく、富と安全の平準化なのだということを理解せよ。

 

 

2 国家と負債

 

179 契約によって二人の人間の間の関係で生じるたった一つの問題を解決できるならば、契約によって何百万人もの人々の間に生じるかもしれないすべての問題をも簡単に解決することができるだろうと、私は一般的に政府を批判する際に言ったことがある。したがって社会における秩序の問題は、権威の力によって解決しようとするよりも、契約によって解決しようとすることのほうが、何百万倍も容易なのである。そのようなことが、私が本研究やこれに続く研究で十分な証拠を提示しながら、十分に理解してもらいたいと思うことである。交換と通貨という最初の問題がすでに解決されたのだから、他のすべての問題も容易に解決できるだろう。

 公債は、短期返済のものと利付長期公債のものとをあわせると、およそ十二億ドルになる。そして一八五一年の予算によると、利子は五千四百万ドルである。

 この五千四百万ドルの費用に、さらに償却の名目で永続的な借金の一部を買い戻すことによって、毎年償却する目的のもう一つの費用が追加される。そしてこの償却費用は、千四百八十万ドルである。

 私はここでは、次のようなことを語るつもりはない。つまり、常に国家予算で支えられ、常に納税者によってあてがわれる、この償還のための費用が、いかなるものをも取り戻すことがないということ、また、その償還金のすべてが、歳出額を過度に高めていること、また、借金が絶え間なく増加し続けているということである。私がここで行おうとすることは、その借金を完済するためのいくつかの手段を探り出すことだけである。

 最後に、これら六千八百八十万ドルの利子や償還金に加えて、政府が二十五年あるいは三十年勤続の官僚に時々提供している、千百万ドルの年金や恩給があるから、国家がその業務のために支払う金額以外に、国家が支払うべき負債額の総計は、七千九百八十万ドルになるだろう。

 国家が借り手になるとき、借金から自らを解放すると公然と意図して償還のための基金を立ち上げるという事実だけからしても、国家の側には、その借金を完済しようとする願望と意志があるということになる。もっと突っ込んで言えば、国家には償還という手段で自らを救済するという、借り手としての立場に固有な権利、当然の権利があるということだ。

 ところで借金にかかる利率は、五、四.五、四、三パーセントに固定されている。つまり繰り返しになるが、そのことはすべての借り手と同様に、国家がその時々の状況に応じて、多かれ少なかれ、厄介な状況に従わねばならないということを意味している。そしてまたそのことは、もしより低利で借金することが可能ならば、国家にはそうする権利があるだろうということも示しているのだ。

180 実際、永続的な利息について語る人は、貸し手が借金の返済を強要することはできないし、借り手は自由意志で返済することができるとそれとなく語っている。そのようなことは財政家たちによって、国家と国債所持者との関係に関して認識されている事柄である。

 したがって、もし我々が一八五二年の国会議員が布告するだろうと思っていた最初の布告によって、信用制度が、共和国中で、民主的に組織され、銀行家たちの間での競争の結果、国立銀行でのお金にかかる利率が、四パーセントから三パーセントに引き下げられたとするならば、株式取引所へ資金が流入し始め、政府国債に対する需要が高まり、そうすれば、政府は、その一部の担保物件(保証料)の利率を、五、四.五、四パーセントから三パーセントに取って代えることができるであろう。それは転換といわれる操作である。そしてもし、国立銀行の利率が、三分の一パーセントや四分の一パーセントに引き下げられれば、返済もそれに伴って、国家にとって有利になるように増加するだろう。そして一定の時期が経過すれば、借金総額が転換され、年間の利払い総額は、七分の六減少し、あるいは、利息はほとんど無視してもいいくらいの額になり、返済が債権所持者自身から要求されるようになり、国家はもう年金以外の利息を支払う必要がなくなるだろう。状況のもたらす圧力が、国家が強く要求しなくても、このようなことをもたらすだろう。

 このような動きを待っているのではなく、今やるべきことは、この動きを期待し、駆り立て、国家の全借金を速やかに、かつ完全に弁済するために、法律によってこの運動のために確保されたすべての力を用い、また国立銀行のような組織によって提供されるあらゆる力を用いることである。

 まず第一に、割引率の引き下げ効果や、資本の提供、国債の需要などをややあきらめ気味に待つのか、それとも、転換(conversions)で積極的な役割を果たそうとするのか、そのどちらの側が選ばれようと、予算の方向性と、その結果の、地方(Country)の方向性とは、政治的機構のこの部分に関わるすべての分野ですでに変化しているだろうし、また借金額を継続的に増加させるのではなく、借金を支払っていく展開にいったんなれば、我々は革命的な方向に向かっていることだろうと、私は先ほど述べたようにここでも述べたい。そしてその動きが速かれ遅かれ、それに伴って獲得できる借金の減少量は、原則とはかかわりがない。考慮しなければならない最も重要なことは、原則、つまり傾向なのである。

181 諸君は借金を増やしたいか。それなら、それは保守的だ。そういうことなら、国立銀行も、利率の低減も、不要になるだろうし、高利貸にとっては全くの自由が保証されるだろうし、フランス銀行には永久に特権が付与されるだろうし、短期返済金が定期的に利付き長期国債に切り替えられるだろう。そして国家の貸付金は、二十五、三十、四十など標準以下となるだろう。

 それとも諸君は借金を減少させたいとお思いだろうか。それなら、それは革命だ。そうするには一つの方法しかない。それは個々の資本から割引という商売を排除することであり、商業上の利率をいたる所で二分の一パーセントから四分の一パーセントの間に固定することである。こうして資本は財務省のほうへ流れ込むようになるだろう。そして諸君は、借金が消滅するまで、転換と、償却をすることができる。

 以上のことが、保守主義と革命との違いの全てである。

 私はすでに私の考えを述べ始めているのだから、私の意見をさらに明確にするならば、次のようになる。取るべき最も賢明な道筋、最も確実で、最も公正な道筋は、公債をフランス銀行と同様に扱うこと、つまり、一挙に、利息を廃止してしまうことだろう。つまり、布告の日から、債権所有者に対して以前同様に支払われ続けるであろう利息を、額面価格に固定された元金から差し引いて年金として算入し、市場の状態がどうあれ、また、市価と平価(額面価格)との差がどうあれ、償還時の遅れ(時間差)による割増金に取って代えるということである。

 私は債権者や株式投機家や金融暴力団など全てが、もし今日、株式市場で毎日行われているように、元金の市場価格を下げないで、国家が利率を下げたとするならば、横領だといって叫ぶだろうことをよく知っている。銀行階級の徳性を褒めてやろうじゃないか!利率を一定に保った上で、唯一の真の価値を示す資本の名目上の価値を上げたり、下げたりする高利貸的な投機は合法であるが、全ての資本を返還しながら、利子を廃止するという、主権者たち(Sovereign People)による布告は、強奪行為である。そしてこれらの人たちは、自らを、経済学者、道徳学者、法学者、政治家だと自称しているのだ!そして中には、キリスト教徒で通っている人たちさえいるのだ。それならそれでいい。私はこのような烏合の衆とあまりにも長い間議論をしすぎた。私は人民の許しを請いたい。人民こそ最強である。忍耐強くあれ、そうすれば事態は好転するかもしれない。

182 私は知的で真面目な人々に言いたい。もし事柄の自然の成り行きとして、また市場の変動によって、フランスの利率が全体として三パーセントに下落したとするならば、国債の払い戻しも、五、四.五、四パーセントから三パーセントに下げることも、全く合法的であると看做さない人はいないだろう。もし次のような条件があるとすれば、どうしてそうすることが、より合法的でないといえるだろうか。つまり、もし、国家主権の意志に基づいた行為として、また公衆の知性の向上のおかげで、そして、すべての利害関係者の間での契約によって、お互いを信用する、という原則が、――この原則は今では全くの掛け声でしかないのだが、――社会契約上の第一条になったとするならば、また協同組合においてすでに最初の兆しが現れ始めている、国家のこの法則のおかげで、お金の価格が、フランス銀行が業務を遂行するのに必要な経費にまで下げられたとするならば、という条件があればということだ。すべての産業は割引率によって規制されているから、国家の債権者から相互主義の原則を要求しても、どんな不正が生じるだろうか。そして負債が、法律が通過する前に契約されているかもしれないから、すでに貸し出された資本は、この措置からは除外されることになるのではないだろうか。非遡及性の原則が守られるように、この法律が、法律成立以後に期限が切れる貸し出しにだけ適用され、それ以前に期限が来るものには適用されない、という条件だけで十分ではないだろうか。

 社会がすべての人々に対してやってあげることを、社会は、それぞれの人から期待する権利がある。つまり、社会が、各市民の割引された紙幣について許諾するのと同じ利率の低減を、それぞれの市民に要求する権利がある。社会はそれが支払う利子を根拠として、利益を得るべきである。社会は個人のものさしである。そのようなことが相互性の法則、契約の法則である。そしてそういう条件がなければ、生産者にとっては、貧困と隷従しか残されないことになる。

 教えて欲しい。次のようなことをする必要があるのだろうか。つまり、政治形態をさらに何十回も改めること、議会内の馬鹿騒ぎをさらに五十年以上も続けて我々を消耗させること、一七九二年、九三年、九五年、九九年、一八〇四年の悲喜劇をさらにまた始め、一八一四年、一八三〇年、一八四八年のような結果になること、政党や学派の指導者たちの病んだ頭脳が、毎日のように提案している直接立法、直接政府などの馬鹿げたことで国家を疲弊させることなどである。そして以上のようなことは、次のような重要な改革を成し遂げる目的にかなっているのだろうか。つまり、国家の負債を完済すること、新たな体制の下では古い財政慣習は完全に廃止されるだろうから、地方の名において、さらに貸し出し契約を結ぶことをすべての大臣たちに禁止すること、そして、すべての年金や恩給を禁止することなどの目的である。そして、この最後の件に関する理由は次のとおりである。つまり、病人の面倒を見て、従業員に補償をしその栄誉をたたえることは、地方や町、会社、組合などの業務であるからであり、要するに公債問題、短期債務の償還、貯蓄銀行、十字勲章、綬章(じゅしょう)*、年金、恩給などの膨大な重荷を、中央政府の業務からはずすためである。

*功績を表彰して与える、紐のついた記章

183 大多数の人々は公債があるということを知らない。彼等は償還、整理統合(consolidation)、転換、年金などの言葉が何を意味するのか全く知らない。彼等は、七十五、七十、五十五での貸し出しがあるということを聞けばひどく憤慨するだろう。次のような歴史上の基本的な事実を、つまり、一七八九年から一八五二年までの期間に、そして特にこの期間の後半に、王国の借金を一掃したあとでも、人々がすでに廃止したものと思い込んでいた昔の封建時代の賠償請求に取って代わって、公債、償還、貸し出し、年金、恩給などの名目で、総額八千億ドル超の金額を、人々が今でも毎年支払わねばならないということを、彼等が理解できるようになるまでにおそらくあと半世紀は必要であろう。

 そして諸君が主権や立法や政府について語ろうとしている当の相手は、その当の相手にとって重要であるはずのすべてのことに無知なこういう人々なのである。これらの人々の興味をひきつけるために、また彼らの思考が革命に及ぶのをそらそうとするために、諸君は人々に、政治や、友愛組合について語るのだ。諸君は、ある古代人が語ったように、いつも赤い豆ではなく、白い豆を取ろうとする奇妙な革命家たちだ。そして本当に本質的な問題を避け、偽り、葬り去ろうとすることだけに奔走している。実際諸君のような人達が一七八九年に生きていたとしたら、そういう人達は、慎重に王政と封建体制を維持していたことだろう。そして借金や、年金受給職員録(Red Book)、飢餓協定、十分の一税、封建的権利、僧侶の収入や、その他の、革命を必然化するであろう何百もの悪弊について、彼らは誰にも人々に向かって語らせようとはしなかっただろう。彼等は、組合や隷従国家について説教したことだろう。以上のようなことが、彼等が二月以来やってきたことではなかったか。臨時政府の中の誰がいったい革命を援助しようとして何かをやっただろうか。誰がいったい市庁舎での取り決めについて心を痛めただろうか。誰がリュクサンブール宮殿(国会)でそのことを思いついただろうか。山岳党員の中の誰が、その言葉を敢えて発言しようとしただろうか。・・・

 もうこういう人たちを当てにするのはやめにしよう。十九世紀の革命は、運命のなす業になるだろう。運命よ!我々に慈悲を授けたまえ!

 

 

3 抵当によって担保された借金  単純な義務

 

184 公債の蓄積が止められ、それが完済されたのだから、次は、市民の借金を少なくし、完済する必要が生じる。

 個人の借金には二種類あり、一つは、長期にわたるもので、不動産や抵当などの約束が担保とされる抵当保証の借金であり、もう一つは、ただ約束手形だけで保証される商業用の借金である。

 これらにさらに株式会社の社債がある。社債の利子は、配当とは幾分異なり、毎年、会社の借用勘定に記載されるものである。

 これら二種類の借金のために支払われる利子は、二億四千万ドルと見積もられるから、公債の総額が、五パーセントで資産勘定に計上されて見積もられるならば、それは私的借金の三分の一しかないことになるだろう。

 借り手が利率を下げたいと思うだけでなく、実際にそうしようとするのは、公債の場合に限らず、私的な借金についてもいえることだ。この件に関して真に革命的な精神の証を示したフローダン(Flaudin)やプージャール(Pougeard)などの最も誉れ高い地主たちによって国民議会(Constituent Assembly)に提起された計画は、「土地銀行の組織」と題され、低価格で農業、不動産、工業などにお金を提供し、それらを高利貸から徐々に救済するという以外の目的はなかった。このような善意で中庸な共和主義者たちが、その改革案によって選挙民のために獲得しようとした利率低減は、利息全体に対して平均して、少なくとも六パーセントの減額幅であった。国立銀行でお金にかける九パーセントに替わって、土地銀行はわずか三パーセントしか要求しなかっただろう。そのような措置は、私がフランス銀行の解体によって完全に成し遂げようと提案していたことを、少しばかり成し遂げるだろう。そしてそれは多かれ少なかれ、革命を開始することであった。しかしそのような組織が既存の指導者たちを強奪することであったとは、誰もその時考えなかった。批評家たちは、人々が自信を失うだろうとか、信用証券は評価損を生じる恐れがあるとか発言するだけであった。私は、提案された後で結果的に拒絶されたこの計画を実行に移すためのさまざまなやり方に、賛成も反対もすることができない。ただ私は、このような立案が、主として革命的であるという理由によって拒絶されたと述べるにとどめておく。金銭強奪者どもの集団は、九パーセントの利率のほうが、三パーセントの利率よりも、彼等にとっては好都合であることや、特権が特権階級にとっては好都合であることや、土地銀行が、直接、社会主義につながる恐れがあることなどを考慮していたのだった。「物を持っていることは、現状を維持することであり、馬鹿は要求ばかりしている」(Having is keeping, and a fool for asking)と諺も言っている。高利貸の爪を切り取ろうと望んでいた人たちは、国民議会では多数派ではなかったので、当然のことながらたたかれた。わが国の統治システムでは、政治は合法性の前例に倣い、投票による真実を採用しているのだから、過去に行われたことは、すべてよく行われたものと看做され、したがって、我々には何も不満に思うことはないのである。

185 しかし、それでもこういう問題は再燃するかもしれない。多数派におけるちょっとした変化が、法における変化をもたらすかもしれない。私が次のような計画案を公表するのもそのような期待をするからである。

186 以上述べたように、抵当によって保証される貸付の改革の妥当性は、疑問の余地がないから、つまり、抵当に基づく貸付にかかる利率低減のことを私は言っているのだが、まだ残っている問題がある。第一に、どのくらいの利率で、それが落ち着くのかということ、第二は、新しいシステムが古いシステムに全国いたるところで取って代わるのに、どのくらいの期間を要するのかという問題である。

 利率についてであれ、貸付の条件についてであれ、書類の形式についてであれ、発行高の総計についてであれ、それらに関するどういうシステムが採用されようと、いったんこの方向に向かったとすれば、社会の傾向は貸付や借金に関するあらゆる分野で変化するだろう。つまり、信用貸しに対する障害や高い利率などのために現在行われている後ろ向きの傾向から、貸付を受けやすくなることや経費が緩和されることによって、その傾向は革命的な傾向に変化するだろう。その運動の速度がより速いかやより遅いかということが、事の本質に影響を及ぼすことはないだろう。パリからダンケルクに向かって鉄道で行こうが、馬車で行こうが、いずれにしても背をバイヨンヌに向けていることに変わりはないのだ。

 フローダン氏やプージャール氏などによる土地銀行が、三パーセントの利率を維持して今存在しているとしてみよう。この銀行はその発行高のために、しばらくすれば抵当の利率ばかりでなく利率一般の規制機関となるだろうし、また、この銀行の影響が及ぶ範囲内において、いたるところにそれが適用されることになるだろう。

 そして今度はこの土地銀行が、その発行高(issues)を限定したと仮定してみよう。つまり、信用貸しの発行高を、一年につき、一億ドルに制限したとしよう。国や都市や個人の借金の総額は、仮説によれば、五十億ドルであるから、現在の貸し手がこのように進展する傾向や自発的な利率低減などを先延ばしして彼等の主張を続ける場合は除外して、五十年以内に、この土地銀行の取引高は、これらの借金総額をすべて吸収してしまっていることだろう。

 この計算に基づけば、信用貸しにおける革命は、九パーセントから三パーセントに利下げされることによって、五十年で完成されるであろう。

187 以上のことに反して、諸君は、現在のシステムを継続し、さらにそれを強化することの方をお望みだろうか。それなら、その方法は簡単である。何もしないことである。国民議会がそうしたように、信用貸しに関するすべての計画を拒否することだ。借金は累積され、地方は破綻し、財産はめちゃくちゃになり、労働は隷従化し、国家(state)同様に国民(nation)も奴隷状態に陥り、挙句の果ては、破産というお決まりの経過をたどることになるだろう。

 こういうわけだから、反動と革命との間の中間的な方法は存在しない。しかし、反動は全く不可能なのだ。我々には革命という選択肢を選ばないままでいる自由はないのだ。我々には、ただどのくらい速く革命を起こすべきかという選択肢しかないのだ。私自身に関して言えば、革命を引き起こす牽引力となる方を選びたい。

 したがって私は、我々が公債やフランス銀行を処理したのと同様に、私的債務も処理するように勧めたい。つまり、一気にその過程を終了し、途中で立ち止まらないで目標にたどり着くことである。

 こういう目的のためには、政府や組織構成、行動の引き伸ばしや修正、それに組合などに心を惑わされずに、我々は、一般的な方策を採用して進み、国家機能を利用すべきである。というのは、国家は、すでに我々の最初の計画によって、蚕食されているとは言うものの、依然として社会の主要な動力であるからだ。

 まず、国民議会の布告によって開始することだ。

 以前の布告は、フランス銀行の割引率と公債の利率を二分の一に固定したが、抵当や約束手形や債権などを含めてすべての債務の利率を同じ率に固定すべきだ。

 元金の払い戻しは、年金の支払いによる場合にしか請求できないこととする。

 総額が四百ドル以下の年金の利率は十パーセントに、それを超える場合は五パーセントにすべきであることとする。

 債権者の払い戻しを促進し、かつての金貸しの機能を果たすために、国立割引銀行(National Bank of Discount)の一部署は、抵当権設定の貸し出しをするだろう。そして年間のそういう貸付総額は、最大でも、一億ドルを越えてはならないこととするなどである。

 その普遍性と急進性において論理的であると同時に情け深い改革に対して不満に思う人はいるだろうか。それは貸主たちだろうか。しかし彼等は千人中の一人のように、希少な存在ではない。さらにたとえ彼等が希少な存在だとしても、我々は、彼等と共通理解し合わねばならない。力が正当であるとは限らないのだ。

188 六、八、九パーセントで貸している男は、借り手が彼からお金を強奪していると不平を言うことがないことは確かである。なぜならば、この男は三パーセントで借りたほうがいいと思うからである。この点に関して資本家たちには何も反対することがないだろう。しかし資本家たちは、抵当権設定者や国家に対して、次のように言うであろう。

 突然資本を大量に流通させたり、金融計画を変更したりすることによって、現在行われている利率以下の信用貸しが生じるならば、君たちは利率を下げてもよいし、その利率低減を普及させてもよい。しかし、君たちには、元金の払い戻しを延期する権利はない。そうすることで君たちは契約の尊厳を犯していることになるだろう。即座に元金を払い戻すか、さもなければ、利息を払ってもらいたい。これは、難問である。

 そして国家や各市の債務を含めないで、債務総額がおよそ三十六億ドルに達し、一方、流通しているお金がせいぜい二億ドルしかないのだから、直ちに払い戻しをすることが不可能であることは明らかである。彼等は議論で我々を打ち負かしたのである。

 私は一八四六年から四七年にかけて、リヨンの海運関係の代理店に勤めていたことがある。会社の中には、南方や東方からやってきた、年間の信用取引のある荷主や買い手が多数いた。通行料は固定価格であり、その中には、河川や運河の航行権も含まれていた。穀物に対する優遇された利率の低減が布告され、航行権に対する料金の総額が、船積み請求書から減額された。そのため、海運業者ではなく、顧客のほうが、この低減によって利益を得ることになった。しかしもし大臣が、手数料を下げる代わりに上げたとするならば、反対のことが起こっていたであろう。いずれの場合においても、君主の行為から生じる至上の権力が働いており、その権力が、契約の条文の適用外である限り、契約にもかかわらず、その権力には従わねばならなかった。

 この規則を応用してみよう。

 交易の改善や、権威者の介入などによって生じる予期せぬ出来事のために、法定利率が、三、二、一、二分の一パーセントに下げられたとするならば、それと同時に、既存の契約に規定された利率も、それに応じて引き下げられるに違いない。交通運賃や商品価格と同様に、お金の価格も、さまざまな要素によって構成されている。そしてその要素が増えると、お金の価値も高くなり、減ると、結果として、お金の価値も下落する。この点までは、この喩は正確である。

 189 しかし、債権者が、もう信用貸しをしたがらなくなり、払い戻しを請求する。つまり、彼は法律を逃れ、利率を維持するために、市場に出回るお金の量を少なくすることによって儲けようとする。そのような不正直は目に余るものであるが、それでもその言い訳はもっともらしい。したがってその言い訳に答えないわけにはいかない。

 お金の市場は、何に基づいているのだろうか。それは、お金が少ししか出回らないことに基づいている。金や銀の流通量が、二十倍、三十倍に増加したとするならば、これらの金属の価値は、十倍、二十倍、下落するだろう。そして、結局、利率も、十倍、二十倍、下落するだろう。そして、金や銀を、鉄や銅と同じぐらいにしか評価しないことになるだろう。そして、もはや、金や銀が、利息をつけて貸し出されるようなことはなくなるだろう。このように、お金の流通量が少ないということが、お金の機能の本質にとって不可欠なことなのだ。

 しかし、このようにお金が不足気味であるということは、それでも、悪なのである。なぜならば、先ほども分析したように、農業や商業や工業などが不平に思うことは、決まって、このお金が不足気味であるということだからだ。したがって奇妙な矛盾なのだが、労働と交易は、それらにとってなくてはならないと同時にいつも品不足から免れることのない商品が不足していることに苦しむようになっているのだ。

 ところが市民は、互いに同意することによって、あるいは国家は、新たな秩序が打ち立てられるまで市民を代表する限り、お金が増えすぎないように、したがってお金の価値を失わずに、もはやお金が利率を危機に陥らせずに、また同時に、お金が、商業や生産にとって脅威にならないようにすることができる方法を発見したのだ。この方法こそ、流通を中央集権化し、貸し出しを相互的にすることである。

 そうした後でも、とても不可能な払い戻しを要求したり、それができないときには不法な利率を要求したりするために、お金が不足していることを利用することは、立法者が悪意のある影響を阻止したいと思う事実そのものに基づいて議論することであり、またまさに疑問視されていることや、さらにそれ以上に、すでに解決済みのことを、原則として定めることであるということが明らかではないか。

190 我々は資本家たちにこう言うことができるだろう。君たちは我々から三十五億ドルを要求する。しかし実際は五十万ドルしかないのはどうしてか。それならどうしてこの五十万ドルで、君たちは我々に三十五億ドルの借金をさせたのか。君たちは言うだろう。それはお金の転換や貸付の更新によってだと。それなら我々が、君たちに対する我々の負債を解消するのも、お金の転換と年金の更新によって行おう。君たちは貸付する際にずるずると時間をかけた。我々も返済する際にたっぷり時間をかけよう。君たちはたとえ利息を失うとしても、君たちの元金の価値を維持するのはうれしくはないのかね。

 しかし理屈を述べるだけでは何の役にも立たないだろう。鷲はその高巣を守る。ライオンも巣穴を守る。豚は餌入れを守る。それと同様に、資本もその利息を手放しはしないだろう。そして我々貧窮者たちは、無知で、無防備で、分断されている。我々の中の誰かが、何らかの衝動によって革命に立ち上がるように突き動かされたとしても、別の衝動によって抑制されないような者は誰一人としていない。

 一七八九年においては、事態は少なくともはっきりしていた。一方の側には貴族、僧侶、君主がいて、もう一方の側には、それだけで国民の九十九パーセントを構成する第三身分がいた。今日では利害が分断され、極めて複雑である。同じ一人が、十の異なった利害と、十の矛盾する意見を持っている。二月の共和国(the Republic of February)がこのような藪の中に紛れ込んだとき、それはいくつも頭のある竜のようなものであった。それは下草の中で身動きがとれなくなった。共和国が何かをしようと努力をすればするほど、ますます複雑さを増すばかりだった。それに決着をつけるためには、たった一つの方法しかない。藪に火をつけることだ。

 

 

4 不動産、建物

 

190 私の個人的な結論がどうあれ、また私が提案の中でどんなに急進的なことをはっきりと述べるにしても、一般的に承認された原則から、社会で広く認められる傾向から、敬意を表すべき人々によって表明された願いに基づいて、私がいつも始めているということが認められるであろう。またそれだけでなく、私が、進行が十分にゆっくりとし気づかれないほどであると想定しつつ、正確な結論に基づいていつも物事を進めていることも認められるであろう。私にとって革命と、革命を実行に移すこととは、全く別物である。革命は確かなものであり、疑いようもなく方向性がはっきりしているが、革命を実行に移すことに関しては、確かに、革命をできるだけ急いで成し遂げることは分別があり、そのほうが望ましいけれども、だからといって私はこの点について私と意見の異なる人を敵だとは看做さないだろう。

191 非常に耐え難い主張の、また非常にこっけいな恐怖心の源である財産という大問題を取り上げてみよう。革命には財産に関して成し遂げるべき二つの課題がある。一つは財産を解消することであり、もう一つは財産を再構成することである。私はまず財産を解消することから述べ、その手始めに建物を例にとってみたい。

 上に述べられた手段を用いて、建物という財産から抵当が除外されるならば、そしてまた建物の所有者や建築業者が、前者にとっては建物の価格に対する、後者にとっては建築資材の購入に対する資本が、安価であると認識するようになれば、まず第一に、建築価格は相当下落し、古い建物は安価にそして有利に修理できるようになり、そしてさらに家賃の下落も認められるような状況になるだろう。

 他方、資本が政府の有価証券や銀行などで、利益を伴う投資の対象にならなくなれば、資本家たちは不動産、特に建物に投資をするようになるだろう。なぜならば建物は土地よりも常に儲けが大きいからである。そしてそのすぐ後で、この件に関しても競争が激しくなり、建物の供給は需要を追い越し、賃貸料もさらに下落するだろう。

 銀行に集約され、国家の貸し手に支払われる利息の減少幅が大きくなるにつれ、賃貸料はそれだけ下落するだろうし、また私が提案するように、もしお金にかかる利息がゼロに固定されるならば、建物に投資される資本による儲けもじきにゼロになるだろう。

 それから建物の賃貸料は、建設資金の償還と、建物の維持費と、税金との三つの要素で構成されているから、賃貸借は、使用のための貸付であることを止め、現住者に対する建築会社による販売という形式に代わるだろう。

192 最後に、投機行為がもはや建物を投資として求めず、単なる産業の対象と看做すようになれば、ローマ法が我々に伝えた、地主と賃借人との純粋に法的な関係は、販売人と現住者との純粋に商業的な関係に取って代わられるだろう。つまり、荷物を提供する人とその引受人との関係と同じ関係、また結果的に、それと同じ法、同じ裁判制度になるだろう。一言で言えば、家の賃貸はその封建的な性格を失い、商業行為になるだろう。

 政府の関与を示す残滓を排除する方向へ我々を導いてくれるものは、常に契約と相互性の法である。

 さて、賃借料を下げるということが、それが資本やサービスの低価格化によってもたらされる限り、人々の富と快適さの増進の兆候であるということは本当だろうか。

 社会が当然のことながらこのような価格の下落を望んでいるということは本当だろうか。またかつての革命(the old Revolution)が社会を突き落とした経済的混乱によってのみ、こういう社会の期待する気持ちが萎えたということは本当だろうか。

 そして最後に、住宅家賃の下落を組織的に行うという考え方が、最初の寄付金の提供者が共和国大統領であった労働者村(Workmens Villages)のための運動で特に、過去三年間、公に取り上げられたということは本当だろうか。

 もしこれらの事実が否定しがたいものであり、また合法的でもあり、そして政府や人々の望むあらゆる点に即しても価値のあるものとするならば、社会が建物という財産の法的立場を変更したいと思っているはずである。そしてもし二月革命以来、社会がこの方向に自らを向けることができたならば、またもし上からの突き上げが続いていたならば、我々が今日建物に関する限り、すでに革命的な方向に向かっているということになるはずである。しかしもしこの点に関して、意見の変化があったとすれば、その理由は、ルイ・ボナパルト氏の雑用係たちがあらゆる改善という考え方に反対した暖かい思いやりのせいであり、また共和国政党の知力とエネルギーが欠けていたせいでもあり、また労働者階級の貧困と無知のせいでもある。

193 賃貸料の下落を要求する代わりに、不動産の販売価格を下落させようとする運動が起こった。困ったのは所有者たちだった。賃貸料はほとんど一定であったが、販売価格は、五十、六十、八十パーセント下落した。フランス大革命は財産を維持していただろう。ところが反動(Reaction)はその獰猛さのさなかに、取り返しのつかないほどの財産の下落をもたらした。

 このことを理解したうえで、次のようなことを想像してみよう。つまりパリ市が労働者の居住のためのかつて放棄された企画、つまり高い居住費に反対する運動を再開し、最低価格で販売されている家屋を買い取り、それらの家屋を修繕し維持するための建物業組合と契約を結び、競争と対等な交換の原則に基づいてそれらの家屋を賃貸したと想像してみよう。しばらくすればパリ市は、全市の家屋のほとんどを所有し、パリ市民すべてを借家人にするだろう。

 いつもそうであるようにここにおいても時代の傾向がひときわ目立って認められ、そしてそれは重大である。つまり権利は議論の余地がないということだ。もしバスチューユを占領した後にパリ市がそのような家屋の獲得のために、それまでに公のお祭りや王家の戴冠式や王子の誕生祝のために使っていたお金のすべてを蓄えておいたならば、パリ市はすでに数十億ドルの価値のある財産の支払いを済ませていたことだろう。社会(Country)に裁決させてみよう。社会に何年かけてこのような第一級の財産を革命化しようとするのかを決定させよう。社会が解決することを私は賢明に解決されたものと看做すだろうし、またやる前からそれを承諾する。

 待っている間に私に或る企画を定式化させていただきたい。

 財産権はその起源が労働以外の何ものにも基づかないのであり、その起原においては非常に名誉あるものであるが、その財産権はパリでも他のほとんどの都市でも、市民の居住場所を舞台とする投機という不適切で不道徳な道具となってしまっている。最も必須であるパンや食料における投機行為は、不徳行為として、また時には、犯罪行為として罰せられる。人々が居住する住宅を投機の対象にすることは、より許容されるべきものであろうか。我々の良心は、とりわけ我々の懐に関わることになると、自己中心的で、怠け者で、盲目的であるために、今までのところ、この両者が似通っていることに気づいていない。革命がそういう行為を非難する理由はますますあるはずだ。もし最後の審判のトランペットの音が我々の耳に響きわたるとするならば、我々のうちの誰がその時告白するのを拒否するだろうか。それなら今その告白をしようではないか。というのは私は昔からの悪習に対する最後の瞬間が近づいていると確信するからだ。煉獄やゆっくりとした懺悔や漸進的な改革などについて語るのでは遅すぎる。そんなことをしていたらいくら待ってもやって来ない。天国と地獄との中間は存在しない。我々は立ち上がらなければならない。

194 私は賃貸料の解消は、国立銀行、公債、私的債務や義務などの解消と同様に処理すべきであると提案したい。

 「未来の代議員によって可決されることになる布告の日から、賃貸料名目のすべての支払いは、一年間の賃貸料の二十倍と見積もられる価格で、財産の購入会計へ移管されるべきである」

 「あらゆるそのような支払いによって間借り人は、自らが住んでいる家や、賃貸用に建築され、また市民の居住用に供されるためのすべての建物で、それ相応の分割されない居住部分を購入できるものとする」

 「このように購入された財産は町の執行機関の管理下に移管され、その町の執行機関はその財産に付与されていた最初の抵当をすべての間借り人の名において引き受け、彼等全員に永遠に、また建物の建築のために要した原価で、彼等の居所を保証すべきであること」

 「町は、賃貸に供されていた建物の購入と、それに対する即座の支払いについて、所有者と交渉できること」

 「そのような場合、現在の世代が賃貸料の減額の恩恵を享受できるように、先ほど述べられた町は、完済が三十年以内になされるように、町がこれまでに交渉した家屋の賃貸料の即座の減額を調停できるものとする」

「建物の新築だけでなく、修理、管理、維持などのために、町は、新たな社会的契約の規則や原則に基づいて、石工組合や建物業組合と交渉すべきであること」

195 「自分自身の家屋を占有する所有者たちは、彼等の利益にかなう期間中ずっとその財産を保有すべきであること」

 地方にこのような取り組みを行わせれば、人々の安全は保証されるだろう。すべての法、すべての選挙組合、すべての人々による制裁などよりも強い保証は、労働者の居住を永遠に保証し、投資や賃貸に逆戻りするのを不可能にするだろう。政府も立法も規約も必要ではなく、ただその執行が町に委任される、市民間の協約だけで十分である。つまり生産者は、国王も独裁者も成し遂げられないだろうところの単純な商取引によって制約されるのである。

 

 

5 土地という財産

 

195 土地を通して人間の略奪が始まった。そして土地に人間の略奪は根を下ろした。土地は、封建制と古代貴族社会の要塞であったように、現在では資本家の要塞と化している。そして最後になるが人気のあるヘラクレスが巨人を放り投げるときにはいつでも、常に更新される権力であるところの統治の原則に権威を授けるものこそ土地なのである。

 今日要塞はその稜堡のすべての秘密の地点を攻撃され、ジョシュアのトランペットの音を聞いてジェリコの壁が崩れ去ったように、まさに我々の目の前で崩れ落ちようとしている。*

*旧約聖書「ヨシュア記」による。ジョシュア(ヨシュア)がラッパを吹いてジェリコの要塞の壁を陥落させた。

(http://www.geocities.co.jp/MusicHall/6654/jerico.htm)

 ポーランド、スコットランド、プロシャなどの土地所有者たちの間で長い間用いられてきた土地銀行(land bank)について誰もが耳にしたことがあるだろう。そしてフランスの地主や農地所有者たちはわが国へのその導入を執拗に要求しているのである。先の論文で抵当で保証された借金を清算することについて述べた際に、国民議会(National Assembly)の何人かの誉れ高い保守主義者たちによる、フランスにもこのような情け深い組織を導入しようとする企てを想起する機会があったが、それに関連して私は土地銀行がどうして負債や利子に関して革命の道具となりうるかについて示したことがある。私はここではそのようなことがどのようにして土地所有に基づく財産に関しても同様であるかについて示してみたい。

196 土地銀行の際立った特徴は、その信用貸しが低価格であり、利便性があることに加えて、年金による払い戻しがあることである。

 地主たちがもはや政府が行動するのを待っていないで、彼等の問題を彼等の手で引き受け、労働者たちの組合の例に倣って団結し、出資金や相互保証によって銀行を設立したと想定してみよう。

 また次のようなことも想定してみよう。この信用事業において四億ドルの資本につけられるだけの発行高(issues)が一年間に八千万ドルと固定され、また年金は小額の利息に加え、前金支払いが可能な二十分の一に固定されるとしよう。

 すると次のようなことが容易に理解できる。つまりこの銀行の援助によって、土地資産は、今では平均九パーセントで借金でき、毎年八千万ドル分を転換することができるだろう。つまり八千万ドル分の抵当を、五.五、六、七パーセントの年金用の出資金によって、九パーセントで完済できるだろうということだ。

 五年後に四億ドルの資本は消費しつくされるであろうが、この銀行は、年金から得られる収益や信用貸しによって得られる割引によって、この取引の結果、総計四億ドルを手に入れることになるだろう。そして銀行はこの四億ドルを新たに更新するであろう。このようにこの操作が継続され、ついに二十年後には土地付の資産は、四億ドルを四回転換していることになるだろう。つまり十六億ドルの抵当ということになる。そしてそれは、三十年後には、高利貸たちから解放されるだろう。

 繰り返しになるが私は、今まで進められてきた土地銀行計画のどれにも賛成するつもりはないと言いたい。しかし私はそのような組織を設立することは可能だと考える。そしてその論理は次のような想定に基づいている。またそれは私にとって仮説以上のものである。

197 土地を買い戻すことにこのような信用貸し制度の仕組みを応用することほど簡単なことはない。そしてこの信用貸し制度は、一般に、過度な利息に対する保護であり、また抵当の転換のための道具であるとしか看做されていない。

 土地資産の平均収入は三パーセントである。

 土地が二、三、四、五パーセントをもたらすと言われるとき、その意味は、労賃が支払われた後、(農夫、小農、奴隷などは生きていかなければならない)余剰――それが何であれ――つまり地主の取り分が、土地の価格の二十分の一、二十四分の一、三十分の一、四十分の一を表しているものとされるという意味である。

 こうして、利率三パーセントで三十四年間、あるいは利率二.五パーセントで四十年間農地を借りるということは、農地資産の価値と同額になることになる。

 農夫や小農は、こうして、もし地主が同意するならば、二十五年、三十年、三十四年、四十年で彼らが耕作する土地代金を支払うことができる。もし彼等が年金制度によって土地を買い受けることができるならば、彼等は二十年、十八年、十五年で土地代金を支払うことができる。それではどこでも小農が土地所有者となり、農地の賃料から解放されるのを妨げているものは何なのだろうか。

 彼にそうさせないものとは、地主が現金で支払うことを要求し、もし現金が用意できないのならば地主が土地を貸すことになる。つまり地主は永久に支払いを要求するのである。

 それなら賃貸人がお金を借りて払ったらどうなのだろうかと言われる方もおられるだろう。

 しかし残念ながらそれができない理由は、抵当にかけられる賃料は農地の賃料と全く同額だからである。このような貸し出しに要する利息は、借金を消滅させるためには全く役に立たず、農地の賃料よりもさらに高いのである。したがって小農は堂々巡りの円の中に閉じ込められているのだ。小農は永久に耕すが、決して農地を所有することはないのである。もし小農がお金を借りるならば、自らを第二の主人、二重の利息、二重の隷従に服さしめることになるのだ。妖精の助けがなければここから逃れる手だてはない。

 ところがその妖精が存在するのだ。その妖精の杖のありがたみを試してみることが、我々だけに残されている。その妖精とは土地銀行である。

198 若い小農が所帯を持とうとするとき、農場を買いたいと思う。その農場の価格は三千ドルである。

 ところでこの小農が妻の結婚持参金とわずかな遺産と少しばかりの貯金で、この金額の三分の一を用意できるとしてみよう。つまり土地銀行は三千ドルの抵当で、すでに述べたとおり、一年ごとの分割払込金で支払い可能な二千ドルをすぐにも貸してくれるだろう。

 このことの意味は、耕作者が二千ドルの値打ちの財産の所有者になるためには、十五、二十、三十年間、賃貸料を払わねばならないかのようである。だから農地の賃貸料は、永遠に払い続けなければならないようなものではないのだ。それは毎年、帳簿上の価格から除かれていくのだ。またそれは資産所有権を付与するのである。不動産の価格は、土地を耕作することに必要な原価を越える産物の一部の、二十、三十、四十倍の資産化にすぎないのだから、不動産の価格を青天井に値上げすることはできることではない。だから小農が必ず資産を自分のものにすることができることは明らかである。土地銀行のおかげで農夫は解放される。とっつかまるのは地主のほうである。諸君は今やなぜ国民議会の保守主義者たちが、快く土地銀行を認めたがらなかった理由がお分かりだろうか。

 だからローマ時代の圧制と封建時代の強奪とによって我々に残された、農地の賃貸料と言われるものは、資産そのものによってさえ要求される、銀行の組織化というたった一本の糸によってぶら下がっているだけなのだ。土地がそれを耕作する人たちの手に戻される傾向があるということ、また農地の賃貸料は家賃や、抵当の利息と同様に不適切な投機にすぎず、そしてそのことが現在の経済システムの無秩序と不合理とを示していることが証明されたのだ。この土地銀行を必要とする人がそれを望むようになる日に設立されるであろうこの土地銀行の状況がどうあれ、そのサービスの利息がどうあれ、またどんなにその銀行の発行高(issues)がわずかであれ、土地を干からびるまで吸い取り、他方では耕作者の首を絞める寄生地主から何年後に土地が解放されるようになるのかを計算することができる。

 そして革命組織が土地を解放し、農業が自由になった暁には、封建的搾取が再生することは決してありえないだろう。資産はそのときから売られ、買われ、市場に出回り、分割され、結合されるなど、どんなことでもできるだろう。そして古い農奴制の鎖と重い金属球が二度と引きずられることはなくなるだろう。財産はその根本的な悪徳を失い、形を変えるだろう。それはもはや以前と同じものではなくなるだろう。それでもそれを、人間の心情にとって愛らしい、また人間の耳にとても心地よい、資産という言葉で呼び続けようではないか。

199 私が今、土地銀行(Land Bank)は直ちに設立されるべきなのだろうか、という疑問を投げかけるのはどういう目論見があるのか。確かにそれは何かしら重要なことではあるだろう。しかしどうして一跨ぎに、土地銀行が成し遂げるのに百年もかかるようなことを、今やってしまわないのだろうか。

 我々の傾向こそ我々の法である。確かに我々のいろいろな考え方の中に連続性がないわけではないけれども、また精神は常に、ある一つの考え方と別の考え方との間に、必要に応じて好きなだけさまざまな中間的な言葉を差し挟むことができるものであるが、それでも社会は急な結論や大躍進を望むものである。革命によってできることの三分の一、四分の一、十分の一を実行すること以上に子供っぽいことがあるだろうか。資本は十分に腹を肥やしたのではないのか。資本はわれわれがまだ五十年間の犠牲を払い続けねばならないほど尊敬すべきであり、寛大で、純粋なのだろうか。我々は今進歩する過程にある。普遍的な慣行が我々を弁護している。それでは何を我々は待ち望んでいるのだろうか。土地賃貸料に反対して全速力で前進することだ!

 我々は次のような布告をすることを提案する。

 「不動産使用賃貸料のどんな支払いでも、その不動産を共有する権利を農夫に与えるべきであり、またその支払いはその不動産の先取特権(lien)となるべきである。

 資産が完済されたとき、資産は直ちに町に復帰し、そして町はかつての地主に取って代わり、無条件相続権(fee simple)と経済的な賃貸料とを農夫と共有すべきである。

 町は賃貸料の払い戻しと資産の即座の購入のために、希望する所有者と直接交渉できるものとする。

 その場合、町を監督したり、耕作者を任命したり、また土地の肥沃度に何らかの不都合がある場合、土地の面積を増やして補償し、また生産高に賃貸料をつりあわせるなどの配慮をして、土地所有の境界を定めたりするなどの規定が必要である。

200 すべての土地資産の代金が完済された直後に、共和国のすべての町は町相互間で、耕作の仕方の偶然の違いと同様に土地の質をも均等にするように合意すべきである。それぞれの町の領域に関してそれぞれの町に要求する権利がある賃貸料の一部は、補償費用や一般的な保証として役立てるべきである。

 また同時に以前の地主でも、彼等自身が耕作していたことによってその権利を維持する人たちは、地域や相続の特殊性が特定の人物の利益にならないように、また耕作の状況が全ての人に平等になるように、新たな所有者と同じ土台に置かれ、また同じ賃貸料の支払いに従い、同じ権利を付与されるべきである。

 土地への課税は廃止されるべきである。

 地域の警察は市の評議会の統制化におかれるものとする。」

 私は次のことを示すのに注釈を加える必要はないと思う。つまりこの計画は他の様々な計画の必然の帰結であるが、まだ契約という観念の大きなものさしに適用したものにすぎず、また中央の権威は、私が選挙人の投票によってすでに表明されていると思う、人々の意思の実行のためにのみ現れるものであり、またいったん改革が実行されたならば、権力の支配は農業や農地に関する事柄から永遠に消滅するであろうということだ。このような繰り返しは読者にとって退屈であろう。私は現時点では、私の計画を擁護する或る緊急の考慮の証拠を挙げることのほうがより好都合だと思う。

 農地という資産についての二月革命の予想される結末に関して、多くの州で地方の住民の注意が覚醒された。彼等は、この革命が彼等のあやふやな所有形態を終了させ、その生産物に対する市場や低利率での資金ばかりでなく、とりわけ資産をも彼らのために確保するはずだと理解している。

201 このことに関連して小農の間で好評な考え方の一つに、小農が耕す資産の改良に対する耕作者の権利というものがある。

 価格八千ドルの農地が、年二百四十ドルつまり三パーセントで農夫に賃貸される。十年後にこの農地は農夫の賢い営農のおかげでその価値を五十パーセント上乗せした。つまり八千ドルではなく、その農地の価格は一万二千ドルになった。この農地の改良はこの農夫の労働だけの成果であるにもかかわらず、この農夫にとって何の利益にもならないだけでなく、この賃貸が終了したとき、怠け者である地主がやってきて、賃貸料を三百六十ドルに値上げするのである。農夫は誰か他の人のために四千ドルを新たに創造した。それどころか彼の主人の資産を半分だけ高めたことによって、彼は自らが支払わねばならないものをその分だけ高めたのである。つまり世間の人も言うように、彼は主人に、彼をたたくための棒を差し出したのである。

 小農はこの不公正をよくわかっている。そしてそれに対する賠償をしてもらう代わりに、八九年に証文を焼き払ったように、遅かれ早かれ政府や資産を転覆するだろう。このようなことはいつでも起こりうることである。しかし別の側面から、労働がそれ自らの仕事に対する報酬を得る必要があると感じている人も地主の中にはいた。彼等は農夫たちの要求以上に自発的に賠償をし始めさえした。改良による価値に対する権利は、暴動やおそらく農民一揆を想定しつつ、少なくとも原則的には立法者たちが真っ先に認めなければならないことの一つである。

 しかし私としてはそのような革新は、今日の我々の法の体系や資産の状態から見て、実行できるものではないと思う。私は小農たちの希望が、このことにまつわる数限りない困難と複雑な事情に打ち勝つことができるか疑わしく思う。私は真っ先に、農地改良に伴う価値の権利の合法性を認めるものであるけれども、権利を認めることとその権利をかなえてやることとは別物である。この権利をかなえてやることは、財産を管轄するすべての法、伝統、慣例と矛盾するのである。民法典(Civil Code)の第二巻と第三巻のそれぞれの条文、否ほとんどすべての用語で、削除、付記、修正をし、千七百六十六か条を改正し、議論し、分析し、改廃し、置換し、改良するなどして、この部分の完全な書き直しを少なくとも必要とするだろう。これは国民議会が十年かかってもできない作業である。

202 財産の評価に関わるすべてのこと、つまり参入権、使用権(用益権)、地役権(通行、採光などに関して、他人の土地を利用する権利)、相続権、契約、時効、抵当などは、土地改良に伴う価値に対する権利と調和され、下から上へと変更されなければならない。国会議員たちがどんなに熱心であれ、また彼等がどんな光明を人々に射そうとも、彼等が選挙民や自分自身たちでさえも満足させる法律を考案することができるとは私には思われない。土地改良の価値に対する権利とそれから生じる結果とをあらゆる状況下で分離し、神聖化し、規制するような法律は全くありえない。それは、権利がどんなにはっきりしているとしても、立法化の定義からすり抜けてしまうようなものの一つである。

 農地の価値が農夫の労働によってしか高まることがないのと同様に、労働なしにはその農地の価値が維持されることもない。放棄されたりあまり手入れが行き届いていなかったりする農地は、その価値を下げたりますます悪化したりしていくのに対して、適切に管理されるならば農地は価値を増す。農地を維持することは農地を新たに創造することである。というのは農地を維持することは、損失に抗して毎日繰り返し農地を作ることを意味しているからである。したがって農夫に対して農地改良の価値に対する分け前を認めてやることが正当であるのと同様に、農地の維持に対してもその価値に対する分け前を認めてやることは正当なことである。農地改良の価値に対する権利を認めた後にはさらに、農地の維持の価値に対する権利も認めなければならない。このような新しい統治を行うのは誰だろうか。誰が立法においてそのような統治を採用できるだろうか。誰が民法典の中にそのことを明記できるだろうか。

 このような疑問を投げかけることは、深海に測鉛をたれ下げるようなものである。農地改良の価値に対する権利は小農の気持ちにとっては大事なものであり、多くの地主の公正な心によって認められるものであるが、それは一般性と深さとに欠けていて、つまりそれは十分に根源的でないから、実現不可能である。労働する権利においてと同様に農地改良の価値に対する権利においても、国民議会の誰一人としてその正当性に異議を唱えるものはいなかったけれども、それを成文化することは同様に不可能だった。労働する権利、生命の権利、幸福の権利、愛する権利などこれらのすべての決まり文句は即座に大衆の心を掻き立てることはできるが、現実的な意味に全く欠けるのである。それらの権利は大衆の間に真の必要性を明らかにするものの、それらを考案した人たちの無能さをより明らかに示すのである。

203 先に進むことにしよう。一八四八年に我々が労働者たちに語ったように、小農にも次のように語ろう。何もやるべきことなどないのだ。農地改良の価値に対する権利は、労働する権利やすべての押し付けがましい福音主義の権利と同様に、確かに魅力的なものではあるが、実現は全く不可能である。また世の中は今までいつもそうだったし、これからも常にそうあり続けるだろう。神の摂理は樫の木やサンザシの藪を作り、また今までに何百回となく論駁されてきた、マルサス主義のすべての平凡な物事を作ったように、ある人を地主に、またある人を借地人につくった。そしてまた情報は、不当に受け止められるかもしれない。だから労働者同様に小農も、その情報によって説得されるかは疑わしいかもしれない。そのうちに問題が解決されるに違いない。もしそうならなかったなら、体に気をつけてね!私は大衆が何も利益を得ることなく、また前もって保証されることもなく、全ての人が没収されるようになるのではないかと恐れる。

 私はこの研究を終わりにし、この研究を詳細に突き詰めていくことは読者諸氏に任せ、私は一般的な点について触れたことで満足したい。

 全般的な清算は、どの革命にとっても必須の前駆的条件である。六十年間の商業的ならびに経済的な混沌の後で、二度目の八月四日*の夜は避けられない。我々は今でも状況を左右できる主人であり、また我々が望ましいと考えるかもしれない十分な慎重さと節度を持って自由に前進することができる。後になれば我々の運命が我々の自由意志による選択に依存しなくても済むようになるかもしれない。

*P・一七二参照。

 私はようやく次のことを証明することができた。つまり地方の熱望の中で、また小農や労働者たちの間に限らず資本家や地主たちの間にも見受けられる考え方の中で、あらゆるものがこの清算に向かって進んでいるということだ。例えば協同組合、銀行での硬貨の蓄積、為替手形の割引商会(discount houses)、貸方票(入金通知書 credit notes)、土地銀行、労働者村、農地改良に伴う価値に対する権利等々だ。私はこれらの考え方を分析し推論した。そして私はこれらの考え方の底流には常に、統治の原則ではなく相互性と契約の原則を発見した。そして最後になるがそれぞれの事柄において私は、どうしたらこの清算が、望める限りの速さで機能させられるかを示した。そしてたとえ私が、最も簡単で最も速やかな方法を推奨すると公言したとしても、それは、人々に思われているほど私が極端な意見を持っているからではなく、この方法こそが最も賢明で、最も公正で、最も控えめで、そしてすべての利害関係者たちにとって、つまり借主、貸主、家主、借家人、地主、小作農などにとって、最も利益にかなうものであると確信したからである。

204 私は極端な意見を擁護する!それでは諸君は、私が好み、提案する和解計画よりも根源的で手短なものはないとお考えだろうか。諸君はフレデリック大王がサン・スーシ(Sans Souci)の水車屋に言った言葉をお忘れだろうか。

 「わしがこれを代金など払わずに没収できるということをお前は知っているか。」

 年金による返済と没収との間にはさまざまな程度の違った段階がある。反革命を長引かせてみよ。そうすればおそらく一年もたたないうちに下層階級が、賠償と補償として金持ち連中からその財産の四分の一、三分の一、二分の一を要求するようになるだろうし、数年後には全部を要求するようになるだろう。そして下層階級はフレデリック大王よりも強力である。そして小農や労働者たちは、労働する権利や農地改良に伴う価値に対する権利などを要求したりしないだろう。彼等が要求するものは、戦争する権利や報復の権利となるだろう。それに対する返答はいったいどうなるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

第六研究 経済的諸力の組織化

 

 

205 自らが同意しなかったような法には従うべきではないとルソーが述べたことは真実である。また結局法は代表者たちの仲介によらずに主権から直接発するべきであることを証明したリティング・ハウゼン氏(Rittinghausen)も正しかった。

 しかしこれらの著述家たちが失敗したのはその言葉の適用においてであった。参政権あるいは普通選挙においても、法が集団意志の反映でないのと同様に、直接的でもまた個人的意志の反映でもないことは明らかである。多数によって決定された法は私個人のための法ではない。それは力による法である。したがってその法に基づく政府は私の政府ではなく、それは力によって統治されるのだ。

 私が自由であり続けるために、また私自身の法以外のいかなる法にも従う必要がないために、そして私が私自身を統治するためには、参政権に基づく権威を取りやめるべきである。我々は代議制や君主制と同様に投票制度も放棄しなければならない。つまり神に論拠をおく社会統治のあらゆるものを押さえ込まなければならない。そしてすべては契約という人間の考えに基づいて再構築されなければならない。

 私が一人またはそれ以上の仲間の市民とどんなことにせよ意見の一致を見るとき、私自身の意志が私の法となることは明らかである。私が義務を遂行するとき、私自身を統制するものは私自身である。

 したがってもし私が幾人かと契約を結ぶことができるように、すべての人々とも契約を結ぶことができるとするならば、そしてもしすべての人々が互いにその契約を更新することができるとするならば、そしてもし町、郡、州、組合、会社などの市民集団のそれぞれが同様の契約によって結成され、一人の道徳性を持った人格として考えられ、その後でそしてまたいつも同様の契約によってすべての他の集団と意志を一致させることができるとするならば、まるで私自身の意志が無限に増殖された場合と同じことになるだろう。何百万もの異なった主体によって、共和国のすべての問題に関して、こうして作られた法は、私の法となんら変わりがないだろう。もしこの新たな秩序が政府と呼ばれるとするならば、それは私の政府となるだろう。

206 従って契約の原則は権威の原則よりもはるかに多くの生産者たちの組合を結成させ、彼等の力を集中させ、彼等の利益の結束・団結を保証するだろう。

 法律体系に取って代わった契約体系は、人や市民の真の政府を樹立するだろう。つまり共和国という人々の真の主権を樹立するだろう。

 というのは契約は自由つまり共和国の座右の銘の最初の合言葉であるからだ。私たちはこのことについて権威の原則や社会の清算などに関する研究で十分すぎるほど明らかにしてきた。私が私の仕事、賃金それに権利と義務の尺度などに関して他の人――それが大多数と呼ばれようと社会と呼ばれようと――に依存するとき、私は自由ではなくなる。また私が他の人――それが最も有能でもっとも正義感の強い権威者だとしても――によって私の法律を改めるように強制されたとすれば、私は私の主権と行動において自由ではない。また私が私を統制するための代議員――たとえそれが私の一番献身的な召使だとしても――を与えられるように強制されたとするならまた全く自由ではない。

 契約は平等という言葉の深くまた精神的な本質において平等である。この男は自分のことを私と同等なものと信じているのだろうか。この男は私にふさわしい仕事量以上のものを私から要求しておきながら、その余剰分を私に返還する意図がなく、また私には私自身の法律を作る能力がないと言い、私に彼の法律に従うように要求する私の主人や搾取者のような態度を取らないだろうか。

 契約は友愛である。なぜならば友愛は、すべての利害関係を認め、全くの相反関係を結びつけ、すべての矛盾を解決し、そして結局経済的混沌や代議制の政府や外から押し付ける法律などによって踏み潰される善意と親切な気持ちに翼を与えるからである。

207 そして最後に契約は秩序である。なぜならば契約は自由を疎外し権利を犠牲にし人々の意志を隷従させることなどではなく、経済的諸力を組織化することだからだ。

 この組織を意味づけしよう。清算の後には再構築が、またテーゼとアンチテーゼの後には総合(synthesis)が生まれるということだ。

 

 

1 信用

 

207 信用制度の組織化は、特権的・高利貸的銀行を廃止し、それらを利率二分の一パーセント、四分の一パーセント、八分の一パーセントの流通・貸付国立銀行に切替え・再編することによって、四分の三を処理できる。残されている課題は必要なところにどこへでもこの国立銀行の支店を開設し、金属貨幣(正金)を徐々に流通から引き上げ、金や銀の貨幣としての特権を奪うことだ。

 個人間の信用に関しては、これは国立銀行が扱う業務ではなく、これが扱われるべき所は労働組合や農業・工業団体などである。

 

 

2 財産

 

207 私はこれまでに財産が家賃や地代によって買い戻され、借り手に引き渡されることについて述べてきた。私がここで述べるべきこととして、特に土地財産との関わりで我々がこのような所有権の転換を引き起こすために用いた原則の組織化する上での効力が残されている。

 サン・シモン、フーリエ、オーエン、カベ(Cabet)、ルイ・ブラン、チャーチスト運動家たちなどすべての社会主義者たちは、農業の組織化について二様に考えてきた。

 一つの考え方では労働者はコンミューンとかファランステール(Phalanstery)とか呼ばれる大きな農業組織の労働組合員に過ぎなかった。  

*フーリエ(Fourier, 17721837)の主唱する社会主義的共同生活団体。

 もう一つの考え方では耕作者の一人ひとりは、すべての土地が国家によって所有された後で、国家の借り手となり、国家は唯一の所有者で唯一の地主である。この場合地代は税金の一部となるかあるいは全く税金に取って代わるかもしれない。

208 これらの制度のうちで最初のものは統治的でありかつ共産主義的でもある。したがってこういう二重の原則のためにこの制度には成功の見込みがない。それはユートピア的概念であり不成功に終わるだろう。ファランステール主義者たちは長い間彼等の共同体について語り続けるだろうし、共産主義者たちには田舎の親密な隣組制度(rural fraternity)を捨て去る気持ちがない。彼等はそれを慰めとして取っておきたいのだろう。しかし主として統治機構そのものに反対して行われた革命で政府がなお存在しうると想定しつつ農業組合や政府による耕作という考えが革命の最中に重大な政策として提起されたとするならば、農民にとって反乱の見込みしか残されないだろう。農民にとっては社会主義者を自認する人たちからの圧制さえも含めて圧制の恐怖しか残されないだろう。

 二つ目の制度のほうがより自由主義的のように思われる。耕作者はその仕事の主人になりうるし、いかなる命令にも従わなくてもよいし、いかなる規則をも課せられることがない。現在置かれた農家の境遇からすれば、賃貸期間はより長期間であり賃貸料も穏当であるから、この制度を創設することに対して地方ではほとんど反対されることもないようである。私自身に関しても、ある程度の自由を認め不公正に咎めることもできないこの考えに対して長い間判断を留保したことを認めなければならない。

 しかしそれにもかかわらず私はこの考えに全く満足していたわけではなかった。私はこの考えの中に私にとっては不愉快な統治的で専制主義的な性格をいつも感じている。私はその中に取引や相続などの自由に対する障害があると思う。つまり農地の自由な処分権が耕作者から奪われており、このかけがえのない主権、法律家が言うところのこの卓越した領域(eminent domain)が市民に対して禁止されており、それが知性も情熱も道徳性もない我々が国家と呼ぶところの架空の存在のために取っておかれていると私は考える。このような取り決めのために土地の賃借人は以前以上に農地との関わりを持たないのである。土の塊が立ち上がって彼にこう言うだろう。お前は税金の奴隷にすぎない。わしはお前のことなど知らんぞ!と。

209 しかしどうして田舎の労働者がつまり大昔から存在する最も高貴な労働者がこのようにさげすまれなければならないのか。小農は無限の愛をこめて土地を愛している。ミシュレ(Michelet)はこう詩的に述べている。小農は賃貸という内縁関係などを求めていない、結婚したいのだと。

 人類は一つの集団として土地に対する以前からの絶対的な(時効で消滅できないimprescriptible)譲渡できない権利を持っていると主張されている。だからかつて重農主義者たちによって推論されたように、都市や地方が経済地代*(economic rent)に関与すべきであるとされた。この経済地代は税金の中に含められるべきだと言われている。そしてこのようなこと全てから永続的で不変の賃貸による封土が生じ、そしてもっと深刻なことだが、量では最大で最も高価な全資本の流通停止と不活発さとがその安全性のために生じた。

economic rent ①経済地代:ある生産要素を現在の用途にとどめるのに必要な額を超えてその生産要素に支払われる金額。②経済的地代:需要過多のため一般相場以上に支払われる超過報酬。(研究社 新英和大辞典 第六版)

 この理論は私には致命的であると思われる。そしてそれは科学の全ての教えに背いており、危険な傾向であると思われる。

 1.いわゆる農業における経済地代はただ土地の肥沃度における不平等にだけその原因がある。このような不平等がなければ経済地代など生じないだろう。なぜならば比較のしようがないからだ。したがって誰かがこのような不平等のために権利を主張するとするならば、それは国家ではなくてやせた土地を持つ他の土地労働者である。だから我々の清算のための企画では、我々はあらゆる種類の耕作が農業労働者間で均衡のとれた報酬を得られるようにし、また生産物を保証することをもくろんでそれ相応の税金を払うべきであるとしたのだ。

 2.工業職種はひいきされて地代が留保されているように思われるが、それは国家と同様に地代に対する権利を持たない。その理由は工業職種は農業労働なしにはまた農業労働から独立しては存在し得ないからである。つまり工業職種は農業労働の下位職種であるからだ。農業労働者が全ての人々のために耕作し収穫するのである。職人、商人、製造業者などは農業労働者のために働いているのである。商人が商品の価格を受け取った瞬間にこの商人は土地から生産される全生産物の分け前だけでなく経済地代の分け前も払ってもらっているのだ。商人の勘定は決済がついたのだ。税金が経済地代であるという口実で税金を農業労働者だけに支払わせるということは、他の産業の利益となるように免税してやることであり、彼等の側の互恵義務を無視して彼等に地代の全額を受け取らせることになる。

210 3.不動産が市場で流通しないことから生じる難点について私はすぐ後でそれがどれほど重大なことになるかについて示すつもりだ。

 4.最後に時代の最も明らかな期待に反しているこの普遍的で絶対的で取り返しのつかない農地賃貸の身分は、私にとって今日のような重大な状況ではきわめて愚かなことであるように思われる。人々は社会主義者でさえも彼等がなんと言おうとも自分では所有者になりたいと思っている。そして私は証人として発言するならば、十年間の詳細な調査の後でこの点に関する大衆の感情が他のどんな問題にも増してより強く抵抗する傾向があることがわかった。私は彼等の考えを揺さぶることには成功したが、彼等の感情に影響を与えるところまでには至っていない。どれほど人々の心の中で個々人の権威が集団的な権威と同一視されているかを示す注目すべきことが一つある。つまり民主主義の原則の根拠がより強固になればなるほど、都市部の労働者たちも地方の労働者たちもこれらの原則を個人の所有に対して好意的に解釈する傾向があることを私は見届けてきた。

 従ってこれからは私の批判の目的について誰も誤解することはありえないはずだが、私はそういう批判を続けつつ次のような結論に至らざるを得なかった。つまり一般的な農場賃貸制度という前提は私が求めた解決を約束するものではなかったということ、また土地に我慢して定住した後で労働者に完全な主権を有する形で土地を再配分することを真剣に考える必要があるだろうということだ。そしてその理由はもしそれがなければ彼の市民としてのプライドや生産者としての権利も満足されないからだ。

 この重要な解決を――そしてこの解決なしには社会の中でなんら安定的なものは生まれないだろうが――私はついに発見できたと信じる。そしてこの解決をかつてのほうがすぐにも享受できたが、いつもそうであるように今ではこの解決がより簡単でより現実的でより実りあるものであることがわかった。この解決こそ土地獲得の原則に姿を変えた清算を我々がするのに役に立った原則そのものである。

 我々はこう言っていた。「どんな家賃や小作料の支払いによっても借家人であれ農民であれ小農であれそれ相応の所有権に関与できるのだ」と。

211 明らかに極めて否定的で一見したところ単なる空想のように思われるこの考えを、肯定的で一般的で堅固な規則にするならば資産が構成される。この考えは組織、規則、警察、制裁などを備えるだろう。この考えはその底にある理念(Idea)つまり全ての人々のためのまた全ての人々によって受け入れられる憲章をたった一つの条文の下に実行するであろう。そしてそこから他の全てのものは常識の光に照らされて導き出されるのだ。

 商業組合や農業組合によって保護され強固にされ保証されたこの簡単な契約によって、全く心配なく所有者が自由意志で自らの財産を販売し送付し譲渡し流通させることができるようになるだろう。この新しい制度の下での土地財産は、つまり賃貸料が廃止され鎖から解放され癩病を治された財産は、所有者の手の中にある五フラン硬貨や銀行券のように今や所有者の手の内にあるのだ。その土地の価格は高すぎもせず安すぎもせずその本来の価格であり、持ち主が変わってもその価格が増したり減じたりすることもありえず、もはや減価見積もりされるという心配もなく、とりわけそれ自体においてでなく財産に付着した上層階級や貴族に有利な古来の偏見によって財産に付きまとっていた利子の累積という致命的な力をも失っているのだ。

 したがって条件の平準化と労働と社会生活の安全の保証との見地からすれば、土地財産は社会経済に対してなんら不安材料をもたらすものではない。土地財産はその悪質な性質を失ったのだ。そして土地財産が獲得したに違いない良い性質がこれから見られるようになるだろう。このことこそ私が組合=政府と契約との違いを良く考えるように求めたい読者特に共産主義者に注意を向けてもらいたいことである。

 もし土地財産が何人かの人たちが提案するように万が一にも国家に戻され結局国家の手の内に固定され耕作者を組合員や賃貸小作農家のままにしておくならば、権利としてのまた法的原則としての財産ばかりでなく価値としての財産もなくなってしまうようなことにもなるだろう。

 政府が動産(personal wealth, movable wealth)にせよ不動産(real wealth)にせよ地方の全ての富の完全な目録を作るように命じたと仮定してみよう。お金、蓄えられている商品、収穫されていない穀物、家具、工具、家屋、店舗などを記載した後で土地つまりふつう財産と呼ばれているものが追加されるだろう。そして我々はこう言うだろう。その土地は百六十億ドルであり百億ドルの製品と商品などを追加すれば総計二百六十億ドルになるなどと。

212 それに反して普遍的な賃貸制度の下ではこの百六十億ドルの土地の価値はこの目録から完全に削除されなければならないだろう。なぜならばそれは販売や交換をされることがないから他の価値あるものと比較されることがなく、全ての人々のものでありつまり誰のものでもないから、この百六十億ドルの価値はどんな分類をされようとも空気や太陽の光と同様に国家の富とは看做されないからだ。

 おそらく次のようにも言えよう。これはただ簿記係の術策にすぎないのだ。つまりそれは地方の真の富つまり人々にとってプラスになる財産に影響を与えることがないのだと。しかしそれは間違っている。それでは人々は百六十億を失ったことになる。なぜならば人々はそれを処分する権利を失ったからだ。実際九三年の宣言によれば財産とは自由に処分できる能力のことを言う。人間に内在する自由に処分することができる能力としての財産は、まさに我々が物の価値と呼ぶところのものである。したがってそのいずれかを失う者はそのいずれをも失うのである。このことはいつも行われている慣例に基づいている。この道筋を注意深くたどられてみよ。

 一八四八年の憲法によれば、それは労働から生じる財産権を確約したのだが、畑を開墾し囲い込み耕し肥沃にしその畑の中に彼の汗、血、魂をつぎ込む者にはすでに彼のものであるところの収穫をする権利があるばかりでなく、彼はさらに価値としての畑をも手に入れたのである。そしてその価値とは彼にとって追加的な価値であり、彼はそれを自分の所有物の一つとして計上し、それを自分の財産と呼ぶのである。彼はこの財産を交換したり売ったりそれと交換にその重要度に応じてお金を手に入れることができるのだ。そして彼はそのお金を元手にして仕事もせず数年間生活してもいいのだ。

 全ての我々の憲法によって捧げられたこの慣習に対応するものとして、我々は我々の土地銀行に認可された権威の中に同様の決まりを定めたのだった。つまり「家賃や地代などどんな支払いであってもその借り手はその財産のそれ相応の部分を自分のものにすることができる」というものである。

213 それでは革命によって与えられる有利な点によって儲けることのできる農夫が二十年間の賃貸料の支払いによって四千ドルの値打ちのする財産を入手できたと仮定してみよう。諸君は農夫が次のように言えることを同じことだとお考えだろうか。つまりまず第一に共産主義的(コンミューン的Communisitic)統治制度の下で:なるほど革命によって私はより長い賃貸期間を手に入れ、より低額の賃貸料ですむようになる。しかし革命によって私は何物も手に入れることができない。私はこの土地を自分のものにすることは決してできないだろう。私は裸一貫でここにやって来て裸一貫でここから去るだろう。私の仕事は土を鍬で耕すことであり私にはそれ以外のことはできないから私の今の状態が変化を起こすことはありえない。ここに私は土とともに生涯の間また子供たちの代に至っても縛り付けられている。このように我々の統治者の意のままにさせておけ。つまり我々に代わって法律を制定するように我々が選出し、また我々を代表し我々を統治する、我々の統治者の意のままにさせておけ。

 それとも二つ目として相互互恵的契約制度の下で:

 革命によって私は賃貸料から解放された。毎年私が賃貸料を払うことによって私はこの農地の一部を私のために買い取ることができる。そして二十年後にはこの財産は私のものになるだろう。無一文の私が、何も手に入れることもできないだろうと考えていた私が、子供たちのために私の疲労困憊とあきらめの思い出しか残さずに死んでしまったであろう私が、二十年後には四千ドルの値打ちのこの農地の所有者になるだろう。私はこの土地の主人、地主になるだろう!私はもし私が望むならばこの土地を売って金、銀、銀行券などに換えられるだろう。もし商売が息子に向いているならば私は息子を商人にすることもできるだろう。もし娘が望むならば娘を教師に嫁がせることもできるだろう。そして私自身に関して言えば私が年をとって働くことができなくなったとき、私のために年金を買うこともできるだろう。私の財産は私の老後の手段である。

 諸君は農夫がどちらを選んだらいいのか一瞬でも躊躇するだろうとお考えだろうかと私は尋ねたい。

 いずれの場合でも国家全体としての富が増えもせず減りもしないことは明らかだ。個々人の富を構成する百六十億ドルの不動産が全体額の中に含まれようが含まれまいが社会にとっていったいどんなに重大なことがあろうか。しかし自由に土地を流通させることができ、土地をいわば一種のお金のように流通する価値にすることのできる農夫にとっては同じことと言えるだろうかと私は再度問いたい。

214 私が述べることはまさに私のできる範囲で人々の意見を形成し、破滅的な試みを止めさせるためである。結果に関して言えば、それは私がこれまで最後の結果について概要を述べてきたようなものになるだろう。つまりそれは人間の心情に調和した最大の力や物事の必然性が意図したようなものになるだろう。国家以外に所有者を認めなかった農夫は、じきに自らを国家に取って代えるだろう。彼は真の所有者として自らの所有物を扱うようになるだろう。彼は公証人事務員などが事務所を販売するために行っているのと同じ慣行を、農地の移転のためにも農業従事者間で取り決めるだろう。そしてフランスの小農がいつも最強であるだろうように、彼等はその強力な布告によって、あるユートピア主義者たちを喜ばせる強奪と呼ぶところのものをじきに奉納しているだろう。

 それではここで避けがたい解決策を予測してみよう。つまりそれは地方の利益、土地の保持、財産の平準化、財産移転の自由などが要求する解決策であり、また財政的改革が指し示し要求する解決策でもある。大多数の人々を個人の主権の名の下に彼等の本能に反するような法律に従わせたいと望むことは馬鹿げたことである。それとは反対に彼等大衆にその自尊心に訴えるようなものつまり彼等が熱心に歓迎できるようなものを提案することのほうが正当であり本当に革命的なことである。政治的な事柄における人々の自尊心は第一の法則である。

 国民議会にせよ立法議会にせよ、一八五二年の議会に行動開始させよう。議会に農地賃貸料を廃止させよう。そしてそれと同時に大衆の福祉にとってひどい大災厄であるこのようなばかばかしい小区画化も止めさせよう。そして議会が相続の賠償をし、それ以後相続が消滅してしまうことを防ぐために土地の全体的な清算によって儲けられるようにさせよう。毎年の支払いによって土地が購入しやすくなったために、不動産の価値は、土地を切り刻むのではなく、無限に分割され交換されあらゆる考えられる移転を蒙るようになるだろう。さて残りは詳細に関わることであり、我々はここではそれを扱う必要はない。

 

 

3 労働の分割、労働の集団化、機械類、労働組合

 

215 フランスでは三分の二の住民が土地所有に関心を持っているが、この比率でさえ今後増加するはずだ。信用は全てを統制するが、その信用に次いでこの土地所有は経済的諸力の中で最大のものである。だからこの土地所有を手段にして第二に重要な革命的組織化へと進まなければならない。

 農業労働はこの土地所有に基づいており、その自然の威厳の中に現れる。全ての職業の中で農業労働は道徳性と健康の観点からすれば最も高貴で最も健康的でありまた知的な活動としては最も多岐にわたるものである。このような考慮全てからして農業労働は社会的形態を最も必要としない労働であるし、もっと踏み込んで言えば社会的形態を最も厳しく拒否する労働であるとも言えよう。小農が畑の耕作のために集団を形成することは今まで一度も見られたことがないしまた今後もないだろう。農業労働者の間に存在しうる団結や連帯の唯一の関係、つまり田舎の産業が許容しうる唯一の中央集権化とは、これまでに我々が指摘したような経済地代(economic rent)に対する補償や相互保証などから生じる関係であり、またとりわけ土地の集中、土地の小区画化、小農の農奴化、相続の解消等を永久に不可能にする地代の廃止から生じる関係である。

 しかしこのようなことは次のようなある種の工業形態には当てはまらない。つまり多数の労働者、多数の機械と人手、それに専門的な表現を用いるならば労働の細分化、そして結局生産力の高いレベルでの集中などを結び付けて使用することを必要とする工業形態である。このような場合労働者は他の労働者に必然的に従属し、人は他の人に依存している。生産者は農場のようにもはや一家の絶対的権力を持つ自由な父ではなく、一つの集合体となる。鉄道、鉱山、工場などがその例である。

 そのような場合次のような二つの生産者の形態が考えられる。一つは労働者が必然的に部品としての労働者でありただ単に所有者・資本家・推進者の従業員になるだろう場合であり、もう一つは労働者が組織の盛衰変化に関与し評議会で発言するつまり組合員になる場合とである

216 最初の場合では労働者は隷従し搾取されている。つまり彼の永続的な状態は従属と貧困の状態である。それに対して第二の場合では彼は人としてまた市民としての威厳を取り戻し、快適さを熱心に求めるかもしれない。そして町の中で彼がかつては単なるその臣民に過ぎなかった主権者の一部を形成するように、かつてはその奴隷にすぎなかった生産組織の一部を形成する。

 だから我々は躊躇する必要はない。なぜならば我々には選択肢がないからだ。生産活動が労働の極度の細分化と相当な集団力とを必要とするような場合、その産業内で労働者間の組合を結成する必要がある。なぜならばもしそれがないならば彼等は従属者たちと優越者たちとの関係のままであり、結果として自由で民主的な社会と矛盾するような主人と賃金労働者という産業上の二つの階級をもたらすだろうからだ。

 従ってもし我々が革命を賢く実行したいと考えるならば、このようなことは規定しなければならない規則である。

 その本質からして大勢のさまざまな特殊技能を持った労働者を雇用する必要があるいかなる産業、活動、事業も、労働者社会や労働者集団になるように運命づけられている。

 だから私は一八四九年の二月または三月のある日に愛国者たちの集会で資本家たちの会社によるあるいは国家による鉄道の建設と運営にも反対すると言ったのだ。私の考えでは鉄道は国家から独立していなければならないように、今日のような商業的会社とは違った労働者たちによる会社が活動する分野に位置づけられるべきである。鉄道、鉱山、工場、船舶などは、蜜蜂の巣が蜜蜂に対するように、自らがそれら(鉄道、鉱山等)を利用する労働者に対するものである。それらは同時に道具であり住居であり居住している地方であり活動範囲であり自分たちの財産でもある。このようなことがこの原則の普通の適用の仕方であるということを、あれほど熱心に組合の原則を主張する人たちが理解しなかったとは驚くべきことである。

217 しかし特殊技能を持った労働者の協力がなくても個人や家族の労働によって生産物が得られるようなところでは組合を結成する機会はない。仕事の特性から組合が要求されないようなところでは、儲けられる見込みもないし長く持続的な経営も行われないだろう。私はその理由について他の場所で触れたことがある。

 私が組合を必要とする必須の条件として集団力や労働の極度の分割について語るとき、それは厳密な論理的・数学的意味で理解されるべきではない。組合結成の自由が制限されているのではないから、小農が組合を結成するのが良いと考えるならば、そのことに伴う考慮すべき不利な条件があってもそれとは無関係に彼等が組合を結成するだろうことは明らかなことであるし、それとは反対に科学の厳密な定義にのっとらねばならないと考えるならば、集団力と労働の分割がどんなわずかであってもいたるところに存在するかぎりすべての労働者が組合を結成しなければならないという結論になるだろうことも明らかである。

 我々は言葉の足りないところを補わねばならない。そして博物学者がその分類において行うことを、つまり定義を根拠づけるために疑念がなく明白な特徴を選ぼうとするやり方を経済学においても行わねばならない。

 したがって私は労働者間で組合を結成しようとする傾向の度合いは、彼等を結びつける経済的関係に相応しなければならないと言いたい。だからその関係が希薄であまり重要ではない場合には考慮される必要はない。それに対してその関係が顕著で支配的であるならば注目されなければならないということだ。

 だから私は次のような現象は労働の分割や集団力の論理的な分類に当てはまるとは考えない。つまりあらゆる商売に見出される、また諸力の組み合わせの有機的な結果であるというよりもむしろそれを経営する人々の好みの結果であると私には思われる、小規模経営の作業所が多数あるという現象だ。裁断して一足の靴を縫って完成することのできる人なら誰でも、たとえカウンターの向こうにはただ彼一人しかいないとしても、免許状を取得して開店し「何某靴製造商」という看板を掲げてもよいのだ。そしてもし商売を始めるリスクを負うよりは熟練工の賃金の方を好む仲間の一人が前者に加わるならば彼は雇用主を自称するだろうし、もう一人は賃金労働者を自認するだろう。実際彼等は全く対等で完全に自由なのである。また十五歳ないしは十六歳の青年が商売を学びたいと思うとき、彼に対して何らかの労働の分割が提示されるだろう。しかしこの労働の分割は徒弟制の条件であり、そのことに特別に何か意味があるわけではないのだ。そしてまた注文がどんどん入ってきて助っ人やおそらく事務員のほかに数人の熟練工と徒弟が働いているかもしれないが、そうするとそれはいわゆる作業所となるだろう。つまり六人、十人、十五人の全てが同じ仕事に取り組みただ生産量を増やすためにだけ共に働き、決して彼等の異なった能力によって生産品の完成のために努力するのではないのである。そして突然雇用主の業務が混乱に陥り破産したとしても、彼が雇っていた人たちは他の作業所を見つけなければならないという面倒があるだけであり、顧客に関していえば全くリスクを負うこともなく、熟練工のそれぞれがまたその全員が同じような作業を再開するかもしれないのだ。

218 以上のような場合、個々の好みがある場合は除いて、組合を結成する理由は見当たらない。どんなに集団力があるからといってそれはあまり重要ではない。その集団力が投機的事業のリスクを相殺することはない。熟練工は繁盛している組織の利点を手に入れたいと思うかもしれない。雇用主が同意し法が禁じないならば私はそうすることになんら問題はないと思う。雇用主も熟練工も皆そうすることが自分たちの利益になるとわかっているのかもしれない。このような場合は特別なケースでありここでは考慮しないことにする。しかし我々を導く経済法則からすればそのような参加は強要されるべきではない。そのような参加は新しい権利の法則の規定外のことである。このような状況で組合を結成することを命じたり規定したりすることは、革命が廃止した不幸な封建的組織を卑しくねたましい精神で再興することになるだろう。そのようなことは進歩に対して不忠実であり後退的行動である。そしてそのようなことはあってはならないことだ。そのようなことは経済的・革命的組織として考えられた場合、組合の未来の姿とは言えない。私は他のどこかですでに触れたことを繰り返さないではいられない。つまりパリでこのような特質を持つ産業のために形成された労働組合は、従業員に配当を与えた事業所の社長と同様に、全く異なった視点からまた異なった目的のために、自らが革命に貢献していると考えるべきである。私はこのことについてすぐ後で再び述べるつもりだ。

219 しかし企業がいくつかの産業、職業、特別な業種などが結びついた援助を必要とするとき、またこのような結びつきによってどんな一人の個人によっても作れないような新製品が生み出されるとき、そしてその結びつきとは車輪と車輪とがぴったりとうまく合うように人と人とがぴったりと合うような結びつきなのであるが、つまりこの結びつきにおいては労働者たちの一団全体が時計や機関車の各部品の結びつきのように一つの機械をなしているのだが、実際そのような時、状況はもはや同じではない。誰にそのような奴隷たちの集団を搾取する権利があるというのか。誰が一人の人間をハンマーと看做し鋤と看做し留め具と看做しレバーと看做すほど大胆でありえようか。

 諸君はこう反論するかもしれない。つまり資本家だけが、先ほど我々が述べたばかりの靴製造職人の雇用におけるように、企業を経営するというリスクを負っているのだと。確かにそのとおりである。しかしその比喩はそれ以上は当てはまらない。資本家たちだけで鉱山を経営し鉄道を運行できますか。一人の人間だけで工場を操業し船を航行させ悲劇を上演しパンテオン(Pantheon)や七月の円柱(Column of July)を建設することができますか。たとえどんな人が、必要な資本を全て持っているとしてもその人は以上のようなことができますか。そして雇用主と呼ばれる人は指導者やボス以上の何かであるのだろうか。

 そのような場合にこそ組合が絶対に必要で正しいことだと私には思われる。

 継続して行われるべき産業、成し遂げられるべき仕事などは、それに参加する人たち全ての分割できない共有財産である。だから賃金労働者の肉体と魂を略奪する株主の会社に鉱山や鉄道の特許を授けることは権力の裏切りであり公衆の権利の侵害であり人間の尊厳と人格に対する暴行である。

220 革命の道筋を最初につけ利害の独自性の原則を断言したパリの労働者たちは、確かに最初のうちはそのような方法を実行することができなかった。彼等が自分たちを組織して製造会社や鉄道を創設するということは彼等のすることではなかった。私は断じてそのことで彼等を咎めたりはしない。そのような立場は数千の銃剣によって確保され(今後も確保され続けるだろう)維持された。返済すべき資本の額は莫大であった。そのような場合に不可欠な信用組織は存在しなかった。労働者たちはこのような方向に向けて何もできなかった。状況のもたらす力学が彼等を組合が最も役立たないような産業に振り向けた。さらに彼等の仕事は全く献身的な仕事でありその性格は暫定的であり、そして彼等の仕事の目的は、高利貸的通商を邪魔し寄生的投機を排除し職人たちの選ばれた集団を形成するなどの目的以外のものではなかった。そしてその職人たちとは昔の革命の若い将軍のように、工業主義の戦術を更新し底辺階級のための勝利を組織することができるだろうような職人たちであった。

 このように革命の全貌はその概略的な姿を現し始める。そしてすでにその様相は壮大である。

 一方に小農たちがいる。彼等はついに、彼等が耕しそこに根を張りたいと思う土の主人となった。共通の担保物件によって目覚め同一の利害によって団結した巨大で征服することのできない大集団は、民主主義の勝利と契約の永続性を永久に保証する。

 他方孤立してあるいは小集団で働き最もよく職場を転々とする多数の小製造業者、商人、職人、商工業の志願者たちがいる。そして彼等は土地の権利よりも完全な独立性のほうを望み、仕事を見つけることができればどこででも自らの住める地方を確保できると確信している。

 最後に革命の正規軍である労働組合がある。その中で労働者は大隊の軍人のように、彼の扱う機械のような正確さをもって機械を操作し、また知的で誉れ高く意志を持った何千もの人たちは、彼等によって制御される手がその協調した動きによってその数以上に大きな集団力を生み出すように、一人のよりすぐれた意志を持った男に従属する。

221 かつて耕作者は賃貸料と抵当による封建的な隷属状態におかれていたが、今や彼は土地銀行によって、そしてとりわけ土地財産を使用する人たちに与えられる権利によって解放される。広がりと深さにおいて広大な土地は平等の基盤となる。

 同様に大産業の賃金労働者は集団力のうまみを奪われて奴隷よりもひどい状態に押しつぶされていたが、彼がその発生源であるところのこの集団力によって得られる儲けに対する権利に気づくことによって、尊厳と快適さを取り戻す。そして貴族制と窮乏化の元凶であった巨大産業の方は、今度は自由と大衆の繁栄のための主要な組織の一つとなるのだ。

 我々の読者はもう社会経済の法則がいかなる人のまたいかなる立法者の意志からも独立しているということを知らねばならない。社会経済の法則を実現するのは我々の特権であり、それに従うのは我々の名誉である。

 この実現とこの服従は、現在のような偏見に満ちた状況では、また我々を取り囲む古い伝統の規則に縛られているときには、ただ市民間の互いの同意によってのみ、つまり一言で言えば契約によってのみもたらすことのできるものである。我々が信用、住居、農業などのために行ったことを大産業のためにも行わねばならない。そしてこの場合、他の場合と同様に、立法的権威はただその遺言状を作成するためにだけ介入するであろう。

 それではこの新しい革命的な力を構成しなければならない協定の原則を規定してみよう。

 大規模産業は、社会的天才によって発見され突然創設された新たな土地に、そして全ての人々のためにその土地を所有しそれを活用するために社会が植民団を送り出す新たな土地にたとえられるかもしれない。

 この植民団は二重の契約によって支配されるだろう。つまり一つはこの土地に命名しその財産を確立し母国に対する権利と義務を定める。もう一つは彼等の間の異なった成員を結びつけ彼等の権利と義務を規定する契約である。

222 この労働集団は社会の創造物であり社会に依存しているのだが、そういう社会に対してこの労働集団は、この社会から要求される製品やサービスをいつもできるだけ原価に近い価格で提供し、また公衆に対して全ての望ましい向上や改良などの利点を提供するように約束する。

 この目的のためにこの労働集団は全ての結びつきを捨て去り、競争の法則に従い、その帳簿と記録を社会の思うがままにさせ、それに対して社会の方は統制の権利という制裁としてこの労働集団を解体する権利を保持している。

 その労働が組合(association)の主体であるところの個人や家族に対して、この労働集団(company)は次のような規則を作る。

 男であれ女であれ子供であれ老人であれ各部署の長であれその助手であれ労働者であれ徒弟であれ、組合に雇われるあらゆる個人は労働集団の財産に対して分割されない分け前を持つこと。

 全ての被雇用者は性、年齢、技能、雇用期間などの適切さに応じて、労働集団の中でいかなるレベルであれその地位を得る権利を有すること。

 したがって被雇用者の教育、指示、徒弟制度などは、不愉快でいやな任務を分担させる一方で、当局は彼にさまざまな仕事と知識を与え、壮年期以降は多様な才能と十分な収入とを保証するように行われるべきこと。

 全ての地位は選挙によって選ばれ、また条例は構成員の承認に基づくこと。

 給料は地位の特性、才能の重要度、責任の程度などに応ずるべきこと。

 各構成員は勘定を決済し負債を支払ったときにはすぐに自由に退団でき、一方労働集団はいつでも新たな構成員を採用できること。

223 以上の一般的な原則は、かつて前例がなく手本もないこのような組織の精神と範囲を説明する上で十分である。これらの原則は、集団力と分業という二つの重要な社会経済問題の解決策を提供する。

 損失と利益への関与、段階的な俸給制度、全ての階級と地位への連続的昇進などのおかげで、共同体(community)の産物である集団力は、一握りの支配人や投機家たちのための儲けの源になることをやめる。それと同時に広範な教育、徒弟制度の義務化、そして集団作業に関与する全ての人たちの協同などによって、分業はもはや労働者の品位を貶める源ではなくなる。それどころか分業は教育の手段や労働者の安全などを約束するものとなる。

 さらに次のようなことを言い添えることもできるかもしれない。このような原則を変遷の過程で適用することは、あらゆる心の暖かい人やあらゆる真に革命的な人などが喜んですること、つまり中産階級のための改革や中産階級の底辺階級との融和などを始めるという特権を伴うだろう。

 しかし次のようなことも認めなければならない。つまり確かに労働者階級はその人数が圧倒的に多いということ、また労働者階級が議会の決定に対して圧力を及ぼすことができるということが避けがたいということなどのおかげで、それにまたいく人かの開化した市民の助けを借りて革命の工程表の最初の段階、つまり社会の清算と土地付財産の解決とをもたらすことができるかもしれないが、それにもかかわらず労働者階級はその見解の狭量さと産業経営における不慣れのために、通商や大規模産業などのような大きな利害を伴う事業を運営することができない。そして結局労働者階級はその真の目標を実現することができないということだ。

 民主主義制度の下で人材が不足しているように、底辺階級においても人材が不足している。我々はこの三年間そのことをあまりにも明白に見てきた。公務員として最高の知名度に達した人たちは、労働や社会経済に関する事柄で人々の信頼に値することが最もできなさそうな人たちである。経験によって啓発されたパリの組合担当者たちに、最近彼等の前で友愛の旗を振った小さな大物たちの集団について、今日どう考えているか尋ねてみられよ。大規模な産業を運営していくことに関して何人かの通商や産業の専門家が、解放された労働者たちに物事の運営の仕方を教えるために、彼等労働者たちと面識を持つことは避けがたいことであろう。そういう専門家たちは大勢いる。通商や産業やその数知れないほど多いリスクなどをよく知っている商人階級の人たちの中で、私的事業にまつわる全ての懸念に悩まされるよりも労働組合の中での安定した給料と名誉ある地位の方を望まない人は一人としていない。また大きな組合の中の役職を受け入れるために、不安定な地位から去ろうとしない厳格で能力のある事務職員は一人としていない。労働者たちにそのことを考えさせよう。労働者たちにけちでねたみ深い心を捨てさせよう。革命の明るみの下では誰にも活躍する余地がある。まじめだが明らかに無能な指導者たちによって振りかけられる果てしなくまた常に破壊的な口げんかによるよりも、そのような克己心によって得られることの方が労働者にとってはずっと多いのである。

 

 

4 価値の構成、低価格のための組織化

 

224 ある一定の流儀に基づいて行われる通商あるいは交換がその本来の利点のおかげですでに富を生み出しているものであるとするならば、またこの理由で通商や交換がいつもそして地球上の全ての民族によって行われてきたとするならば、そして結局通商や交換を経済力と看做さなければならないとするならば、次のようなこともそれに劣らず真実であり、またそれはまさに交換の考え方から生じるものである。つまり販売と購入が最低価格でそして最も正当な価格で行われるならば、つまり交換される製品がより潤沢にまたより正確な比率で提供されるならば、通商はそれだけいっそう儲けをもたらすものであるはずだということである。

 製品が不足しているということつまり商品の価格が高いということは通商における悪であり、また不完全な関係つまり恣意的な価格や異常な価値などはもう一つの悪である。

225 通商に食い込みそれを蚕食するこれら二つの病気から通商を救出することは通商の生産性を高めることであり、また結局それは社会の繁栄につながるだろう。

 あらゆる時代を通じて投機は製品の希少性と恣意的な価値というこの通商の二つの鞭を強化し不幸な人々に圧力をかけるためにそれらを利用してきた。そしてまたいつも大衆の良心は営利主義による取立てに反対して反乱を起こし平衡を回復するために闘ってきた。我々は皆裁判所や前例によって支持された穀物の独占者たちに反対してチュルゴー(Turgot)によって行われた死に物狂いの闘いのことを知っている。また我々はそれより不運な議会(Convention)による努力と、その議会による最高価格を決定する法律のことも覚えている。今日ではパンに対する課税、食肉処理場の特権、鉄道運賃表(the railroad rate scale)、大臣庁舎の特権等々の廃止などが同じ方向性を持つ試みである。

 それにもかかわらずある経済学者たちが法律の中にこの営利主義的な無秩序と通商上の混乱とを創設しようと熱心に望んだことは、常に恥ずべきこととして記憶されなければならない。彼等はその法律の中に家族や労働の原則と同じ神聖な原則を見出そうとする。イギリスやフランス国内の資本主義のために売り渡されたセー(Say, 1767---1832)学派は、イエズス会(Jesuits)に次いで反革命の主要な中心的存在なのだが、この十年間お金と必需品の独占家たちの忌まわしい仕事を保護しかつ賞賛し、もともと困難で複雑な事柄で満ちている科学のあいまいさをますます深めるためにだけ存在するように思われた。これらの物質主義の使徒たちは、良心の永遠の死刑執行人たちと協力させられた。つまり二月の出来事の後で彼等はイエズス会と協定を――偽善の契約と飢餓の取引とを――結んだのだ。彼等を結びつける反動が逆戻りするのを速めさせよう。そして彼等に速やかに口実を作るのに取り掛からせよう。というのはもし革命が人々を容赦するとしてもその行為は容赦しないだろうと私は彼等に警告するからだ。

 明らかなことだが価値や自由の表現や労働者の人格から生じたものなどは、全ての人間活動のうちで最も規定しにくいものである。ここに経済学者のいつもの誤りやすい議論の口実が潜んでいる。だからマルサスやセーの使徒たちは通商や工業に関するどんな事柄にも国家が介入することに全力で反対するのだが、時にはこのような一見自由主義的なそぶりを利用し、自分たちが革命(Revolution)よりも革命的であることを必ずといって示そうとするのだ。まじめな研究者は一人ならずこのことによって騙されてきた。彼らは経済活動におけるこの権力の不行使が統治の土台になっているということに気づかなかった。もし権力がいったん我々に経済秩序を享受することを許したとするなら、一体我々にとって政治組織のどんな必要性があるのだろうか。

226 しかしまさに価値が最も定式化しにくいものであるから、価値が常に売り手と買い手との、また経済学者たちの言葉を借りるならば供給と需要との取引の結果であることからすれば、価値は著しく取引的なものである。

 実際、物の価値は契約における根本的な問題である。つまりそれは人と人との全ての契約の中で、一つの自然で不変の要素である。だから価値の理論は十戒のように全ての立法化の先頭に位置すべきものである。なぜならば先に存在する何らかの価値がなければ、販売、交換、賃貸、社会、利益、債権、抵当などはありえないからである。したがって必要とされるものは単に価値を理論的に決定することではなく、価値の観点で正直な取引に配慮するための現実的な方法である。

 もし実際の証拠が我々の目の前にないとするならば、人類が法律によって統治し始めてからのこの六千年間に、物の価値を定めること――それは不可能であるが――ではなくそのおよその価値を定める方法を取引しあう人たちに教えることを目的とするこの世界において、今までに法律が一つとして作られたことがないということを誰が信じることができるだろうか。契約の形式に関する規則はたくさんあり、また種類も数限りなく多い。しかしその素材(matter)に関しては何の疑問も呈されなかった。だから我々には法律は何十万とあるのだが、原則は一つとしてないのだ。それではあべこべの世界である。戦争の世界である。弁護士と判事とが作ったような世界である。イエズス会とマルサス主義者たちが維持したがるような世界である。

227 私がここで価値から生じる理論上並びに実際上の問題について十分論ずることができないことを理解していただきたい。それは際限のない話だからだ。つまり誇張ではなくこの問題は経済学の全て、哲学の全て、歴史学の全てを含むかもしれない。私はこの興味深い研究を他の機会に譲りたい。今のところ私は簡略で断定的で実際的でなければならない。もし人々がその実践的であると共に革命的な本能によってこの課題の十分の九を削除しないとしたら私はこの課題に絶望するだろう。私はこれから人々の最近の実践について定式化しようとしている。人々は真の哲学者たちに霊感を授けることのできる神である。どうか人々が私の早口の中からも彼等自身の考え方を掴み取ってくれることを望む。

 大昔から交換が販売と購入という二つの基本的な操作に分割されてきたということを誰もが知っている。お金はこの二つの操作を結びつけ交換を完成するために役立つ普遍的な商品でありまた割符でもある。

 したがって交換を規制し通商を組織化するためには、交換を構成する二つの行為つまり販売と購入のいずれかに組織立った影響を及ぼすことで十分だろう。

 それでは販売を例に取ってみよう。

 我々が先程来述べてきたことに基づけば、人間の計算が正当な価格での販売の成立を許す限り、もし販売が正当な価格で行われるならば、経済的正義と価値との観点からして販売は真正で正常で公正であろう。

 それでは全てのサービスや商品に対する公正な価格とはどういうものだろうか。

 それはまず第一に自由な生産者の平均的な経験に基づく生産コストの総計と、第二に商人の受け取る報酬つまり販売者が販売される商品を手放すときに販売者から奪われる利益に対する損害補償、この二つを正確に表現するものである。

 もし契約の素材を構成するあらゆるものがこの規則に基づいて販売され賃貸され交換されるならば、全世界は平穏を享受でき世界平和は侵されることもないだろうし、軍人も奴隷も征服者も貴族たちもいなかったことだろう。

228 しかし不幸なことに通商においては物事はそのように行われていない。物の価格はその価値に対応していない。正義が批判するにもかかわらず既存の経済的混沌つまり高利が言い訳するところの影響に応じて、その価格はその物の実際の価値よりも高くなったり低くなったりする。

 高利は通商における恣意的な要素である。今日のシステムの下で生産者が自分の生産物を交換し商人が購入した商品を再び販売するという確実性が保証されない限り、それぞれは過剰な儲けを設定することによって、労働や交換によっては十分彼等に保証されない担保を得るために可能な限り最高の価格で商品を手渡そうとする。販売者の報酬も含めた原価以上に得られる儲けは価格の吊り上げ(Increase)と呼ばれている。だから価格の吊り上げ――窃盗――は不安に対する補償なのである。

 誰もが価格の吊り上げを許されているのだからあらゆる関係において相互欺瞞が生じ、また物の価値に関して共通の同意の上での普遍的なペテンも生じる。もちろんこのことは契約の中に明確に記述されてはいない。とはいっても裁判所がこのことを容認する可能性は十分あるのだ。裁判の精神においても、また各関係者たちの意見でも、そのことは彼等の間で十分わかっていることである。

 価格の吊り上げが相互的であると同時に対等であるならば、協定の対等性、通商の平衡、またそれゆえに社会の繁栄は困ることはないだろう。等量分増加された二つの等しい量は依然として等しい。これは数学の公理である。

 しかし価格の吊り上げには決まりがなく偶然に左右される。平等や秩序を作り出そうとすることは偶然の本質に反することである。したがって価格の吊り上げの相互性は単なる悪事の相互性に過ぎないことになり、また経済学者たちのこの見せかけの法則は、略奪と貧困の最もあくどい原因であるということになる。

 次のことは革命が提起することである。

229 製品やサービスに対する価格吊り上げ分を互いに取り合い、商取引では陰にかくれて行動し、強引な行動をするなど、つまり一言で言えば商取引上のあらゆる策略を用いて互いに不意打ちし合うという全ての生産者や商人たちの間における普遍的で暗黙の協定があるのだから、同様に、価格つり上げを放棄するつまり平均的コストとしての正当な価格でしか売買しないという普遍的で暗黙の協定があってもいいのではなかろうか。

 そのような協定は非合理的ではないだろう。そのような協定だけが人類の繁栄と安全を確保できる。遅かれ早かれそのような協定は実現しうるし実現させなければならない。そして私としては人々がわずかの忍耐心を持てばそのようなことが実現するだろうということに疑いを持たない。

 しかし時代の流れを止め偏見を元に戻すことは難しい。人々の良心がそのような高みに達するまでには長い時間おそらく何世代もかかるだろう。このような目を見張るような変化を待っている間に、いくつかの特別の形式的な協定によって、他の特別な協定を伴わない暗黙で普遍的な同意から今後生ずるものを獲得するための方法は一つしかない。

 正当な価格で販売することだって!と経験豊かな人たちは叫ぶだろう。そのことは昔から長い間知られてきた。それはどんないいことをしたのだろうか。正当な価格で販売する商人はもう一財産を築くことはできないし、他の人たちよりも破産する恐れが少なくなるわけでもない。そして購入者としては余計にサービスが受けられるわけでもなく、今までよりも支払額が少なくなるわけでもない。そのような話は全て単なるいんちき医者の手口にすぎず、幻想・絶望という使い古された観念の再来に過ぎないと彼等は言うだろう。

 まさにそのようなことこそ私が否定することだ。正当な価格で販売することは今知られていないのだ。それは今まで実行に移されたこともなかったのだ。そしてそれが今まで理解されてこなかった正当な理由もある。

 読者を一人ならず驚かせるだろうこと、そして初めのうちは矛盾しているように思われることは、正当な価格がどんな種類のサービスや保証とも同様に支払われねばならないということだ。商品それ自体と同様に商品の低価格は補償されねばならない。商人に提供されるこの手数料がなければ正当な価格は不可能であり低価格は幻想となるだろう。

230 経済学の最も深遠な真実の一つであるこの真実について吟味してみよう。

 もし商人が普通そうであるように原価で商品を売ることを拒むとするならば、その理由は一つには自らの収入を確保するだけの商品を販売できるという確実性がないからであり、二つ目の理由は彼が購入に際して同じ待遇をしてもらう保証がないからである。

 このような二重の保証がなければ市価よりも安い価格である正当な価格での販売は不可能である。そのようなことが起こる唯一の場合は倒産か清算だけである。

 それでも諸君は正当な価格で商品を手にいれることを、低価格のメリットを確保することを、真実を語る通商を実践することを、交換における平等を確保することをお望みだろうか。

 諸君は商人に十分な保証をしなければならない。

 この保証にはさまざまな形態があるかもしれない。おそらく正当な価格のメリットを確保したいと願う消費者とは生産者そのものであろう。そして今度は自分自身が様々なパリの組合間で行われているのと同じ条件で、商人に自分の生産物を売らざるを得なくなるだろう。おそらく消費者は相互協定もなく商人に割増金や利息などを、例えば商人の資本や固定配当金やまた商人に収入を保証してあげられるだけの販売量などを保証することに満足するだろう。このことは我々がすでに話したことのある肉屋組合や家政婦協会などによって行われていることである。

 このような様々な保証は議会の代表による活動や予算による手当てなどの援助を受けて、急速に一般化しすぐにも並外れた効果をもたらすかもしれない。

 さてここで政府や、提案が上程される国民議会などが本当に産業を再生させ、通商や産業や農業などを救済し、財産価値の下落を押さえ、労働者たちには仕事を保証すると仮定してみよう。

 それは次のように保証することによって行われるかもしれない。つまり例えば全共和国の最初の一万人の雇用主、製造業者、商人などに、これらの人たちのそれぞれが仕事につぎ込む資本の五パーセントの利子を平均額二万ドルまでそれぞれに保証することによって行われるかもしれない。

231 私は利子を払うことによってではなく保証することによってと言っているのだ。つまり事業の純利益が五パーセントかそれ以上になった場合には、国家は利子をなんら払うべきではないと同意されていたことだろう。

 こうして一万人に対して保証される資本は二億ドルになるだろう。そして支払われるべき利子はもしこの額全体に対して支払われるとするなら一千万ドルになるだろう。しかし国家がそのような額を支払わなければならなくなることがないだろうことは明らかである。通商関連の一万人が互いに支え合わないで同時に事業を展開することはありえない。つまり一人が生産する物をもう一人が消費するし、労働はそのはけ口(outlet)であるからだ。国家はそれが保証した一千万ドルの利子のうちの二百万ドル以上の利子を払う必要はないだろう。*

*二万ドル(一人当たりの保証される資本金)×一万人(雇用主、製造業者、商人などの人数)=二億ドル(保証対象の資本金総額)・・・A

Aの五パーセント=一千万ドル(保証される利子総額)

 資本の回収と雇用主の不確実性によって引き起こされる生産過程における損失や、資産価値の大幅な下落や、下層階級を滅ぼした財産にまつわる苦闘などとこのような総額を同等と看做すことができると考えてもいいだろうか。

 ある公開された(published)記念館で、リヨン(Lyons)の商社を代表して、私は政府に対してこれとは違った内容の提案をしたことがある。つまりアビニヨン(Avignon)からシャロン・スェル・マルヌ(Châlons-sur-Marne)までの商品や乗客の船賃として、鉄道料金よりも六十パーセントから八十パーセント安くなるように保証したらどうかと提案したのだ。そしてさらにそれに加えて(鉄道の)建設業者にはその投資の五パーセントの利子を国家が保証することも明らかにした。

そうすると六万ドルを買い取り、数百万の節約になるだろう。*

*(仏語版)Cétait acheter 300,000 fr. une économie de plusieurs millions.

(原訳書)That would be to obtain, for $60,000, a saving of several millions.

 諸君はそれに対する返事がどういうものであったかご存知だろうか。

 パリ‐リヨン鉄道の政府理事はある独占企業に有利になるように価格を下げることを望まないという口実で、考えうる鉄道料金よりも高い価格で、この鉄道会社と取引関係がある何人かのひいきの投資家を厚遇することの方を選んだ。したがって二、三年後にこの鉄道が完成するならば、この鉄道会社または国家は依然として地方に対して便益を提供しているように思われるだろう。事業を掌握している政府はこのように振舞うものである。ルイ五世(Louis V)は飢餓協定の大株主であった。歴史家や当局の友人たちは彼の醜聞に関する記憶をもとに非難し続けている。彼は食料を投機の対象にした。共和国の大臣やその取り巻き連中はその高潔さによって名声を保ち続けるだろう。彼等は運輸関連にしか投機をしない。

232 パリや各州の労働組合は人々の救済と革命(Revolution)の将来をその手中に収めていると私は率直に言いたい。彼等がその腕前を発揮すれば何でも成し遂げることができる。彼等の側で活動のやり方を更新するならば、どんな野蛮な人にも光明を与え、価値の構成(Constitution of Value)を一八五二年の選挙の公約リストの先頭に位置づけさせることができるに違いない。

 この構成は私が今まで述べてきたとおり、自由に達せられかつ自由に表明された普遍的な同意によってのみ得られるものである。この構成を準備しできるだけ遅延なくそれを提供するためには、そしてもし指示が、国家や町への代表者たちによる新たな組織を通じて、またそのそれぞれがその権威の範囲内で、またその持てる資源の限度にまでなされるならば、一定数の雇用主、機械工、工場主、農夫、牛飼育者、御者、郵便配達人等々と共に、次のような基準に基づいて入札に関する忠告をするだけで十分である。

 「国家は暫定的に代表する利益の代理人として、そして州や町はそれぞれの住民の代理人として、全ての人たちに製品とサービスの公正な価格と高い品質を保証し、また詐欺、独占、価格水増し(increase)などを防ぐことなどを望み、最も有利な条件を示す入札者に対して彼等の事業で用いられる資本や工場設備に基づく利子や一定額の配当金やもし実行可能ならば十分な量の注文も保証すると提案すること。」

 「そして今度は入札者の方では消費者の必要を満たすために、彼等の入札に記されているように彼等の製品やサービスを提供することを請け合うだろう。ただし競争のための十分な自由裁量が許されるべきである。」

233 「入札者は価格の基礎となるもの、引渡し方法、契約有効期間、履行手段などについて述べなければならない。」

 「規定された期間内に留めおかれ封印された入札は直ちに開封され、賠償金が支払われる前にその主題の重要性に応じて一週間、二週間、一ヶ月、三ヶ月等の期間公表されるだろう。」

 「それぞれの契約が終了したときに新たな入札が受け付けられるだろう。」

 価値の構成は契約の契約である。それは他のすべてのものを含み、我々が他の論文で説明したことのある考え、つまり社会契約は全ての人と全ての利害とを含むべきであるという考えを実現するものである。

 負債の清算、信用の組織化、お金の増加圧力の除去、財産の制限、労働組合の創設、公正な価格の適用などによって、価格を押し上げる傾向ははっきりと価格を押し下げる傾向によって取って代わられ、また市場の変動は正常な通商レートによって取って代わられるだろう。一般的な同意が通商界におけるこの大転換をもたらしたとき、最も観念的であると共に最も現実的なものでもある価値が構成されたと言えるかもしれない。そして価値は産業の永遠の進展を通じてその流動性を維持しつつ、いついかなる時もあらゆる種類の製品に対して労働と富との真の関係を表現するだろう。

 労働組合の組織化が集合力と労働の分割の問題を解決するように、価値の構成は競争の問題と発明の権利の問題を解決する。私はここではただこの主要な法則のこれらの結論を示すことができるだけだ。これらの結論の進展については、革命の哲学的論評においてはあまりにも述べることが多すぎるだろう。

 

 

5 外国との貿易、輸入と輸出とのバランス

 

234 税関の機能を抑制することによって革命(Revolution)は、理論上からもまた軍事的・外交的介入にもかかわらず、フランスから諸外国へと広がりヨーロッパ中にそしてその後は世界中に拡大するだろう。

 フランスの税関を抑制することは実際我々が国内の通商を組織化したように外国との貿易を組織化することである。またそうすることは我々と貿易する国々を、フランスの通商上の法体系の中で我々と同等な関係にさせることである。そしてまたそれはそのような諸外国の中に価値と財産の構成を導入することである。一言で言えばそれは交易の力を借りて新しい社会契約を全ての国々の間で共通のものにすることによって、フランス国民と他の人類との間で革命の団結を構築することである。

 私は簡略にこの運動の概観をしようとしている。

 どういう目的で税関は設置されたのだろうか。

 それは国民の労働を保護するためである。

 この保護はどういうところに存在するのだろうか。

 国家は国の玄関を守る守護者であるから、外国の商品に対してそれがフランスへ入って来るとき、その価格を吊り上げ国内製品の販売を有利にするための税金を多かれ少なかれ支払うように要求する。

 外国製品の方が国内製品よりも安いということが真実ならば、なぜ外国製品のほうを望まないのかと尋ねられる方もおられるかも知れない。

 その理由は製品は製品によってしか買えないということだ。もし外国がもたらす競争が全てのあるいは非常に多くの方面で国内産業を押しつぶすとすれば、輸出で輸入との平衡を保つことができなくなるし、その差額をお金で支払わねばならないだろうし、またそのお金も尽きてしまえばお金を外国から借りなければならなくなるだろうし、こうして外国人に国内の財産に対する抵当を与えさらに悪くすると外国人に利子、利益、賃貸料などを支払わねばならなくなるからだ。

 以上のことが税関を設置するための賢明で尤もな理由である。全ての諸国民はそのことを理解していて自らを守っている。ここではその方法の有効性に関しては問題にしないことにしよう。そしてその表向きの意義を持つものとして額面どおりに税関を理解しておくことにしよう。

235 このような関税の定義からすれば次のような理解が得られる。つまりもし関税が生産者を保護するためのものならば、関税は生産者を仲間の市民の中での搾取者や怠け者にするためのものとして理解されるべきではなく、ただ単に彼に雇用を保証し国家の独立を外国の支配から守るためのものとして理解されるべきである。このような意図があるからこそ関税は産業が発展し儲けが出ている限り生産者の利益ばかりでなく消費者の利益を守るためにもその税率を下げ外国からの競争を招き入れたりするのである。

 繰り返しになるがここでは次のようなことは問わないことにしよう。つまり良識が提案する全てのこれらの手段がそれらに期待されるとおりのサービスを行うかどうかということや、またこれらの手段が正当に行われているかどうかということや、また何らかの変則的なことがもぐりこんでいるかどうかなどということは問わないということである。今ここで問題にしていることは道義性の問題でもないし国家が保護者として行動するときのその能力の問題でもなく、ただ単にこの組織の目的の問題でありまたこの組織に求められている必要性の問題である。

 したがってどの産業にも発展がありまた生産コストを下げようとする傾向したがって利潤を増加させようとする傾向があるのだから、同様に関税を下げようとする傾向もあっていいはずである。

 このシステムの理想とは次のようなことになるだろう。つまり労働はいかなるところでも保証され、競争はどこでも行われ、販売はどこでも保証され、価格は最低価格に維持されるような状態である。そのようなことが関税の本当の意味であり意図でもある。

 我々が財産の構成や労働者社会の組織化や低価格の保証などとの関連だけでなく社会的清算に関連してもこれまで述べてきたことからすれば次のようなことが生じるだろう。つまり銀行での貸し出し手数料が下げられそれに応じて公的債務や私的債務にかかる利率も下げられまたその結果家賃や地代も同率で下げられそしてまた価値や財産などの表が作成されるなどが行われるならば、あらゆる種類の製品の原価は顕著に下がりその結果関税も全ての人々の利益になるように下げられるかもしれないということだ。

236 以上のことは今まで一度も見られたことのない――なぜならば政府はこのようなことをもたらすことができないからだが―― 一般的な進歩へ向けた第一歩であろう。

 もし私が今まで一度ならず述べてきたこのような一般的な運動が開始されるならば、またもし信用に連動させられる関税がどんなわずかであってもこの方向に向かって動き続けるならば、我々の外国との関係にまつわる全てのことにおける古い物事の秩序は突如として変えられ、国際経済は革命の方向に向かっていることだろう。

 関税に関することにおいては他のどんなことにおいてと同様に、物価上昇によって示される現状は反動であり、物価下落によって示される進歩は革命である。有名な貴族であるロバート・ピール(Robert Peel)はそれをこのように理解し実践した。そして自らを資産所有者の利己主義から遠ざけたのと同様に、ゴブデン(Gobden)の理論からも自らを遠ざけた。ロバート・ピールの関税改革は、イングランドにおける資本の過剰とその低価格とをその基礎におき、またそれを前提条件としていた。一方私どもフランスの自由貿易主義者たちは山岳党員(Mountainists)の支援を受けて、国有資産の代償として関税の廃止を要求している。しかしそのためフランスの欠乏を修復するために外国の侵入を招くことになり、またフランスのプロレタリアートを解放するのに役立てるためにイングランド、スイス、オランダ、アメリカ、ロシアなどの資本家の搾取を招くことになる。このような例を必要とするまでもなく次のようなことがわかっていた。つまりもしフランスという国家が外国人に売却されるならばまたもし革命が裏切られるならばまたもし社会主義に反対して陰謀がたくまれるならば、そのようなことは主として共和主義者政党の組織や代表によって今まで行われてきたということだ。しかし我々は彼等を許してやらなければならない。なぜならば彼等は自分たちが何を望んでいるのかを知らないのと同様にいま自分たちが何をしているのかも知らないからだ。

 私としては自由貿易主義者たちが利子に賛成していながら他方では関税の廃止を要求しているという理由で自由貿易主義者に反対なのだが、利子が下落し始めた瞬間から関税を引き下げることには賛成である。そして利子が廃止されたりあるいは四分の一や二分の一パーセントにまで下げられたりするならば、私も自由貿易に賛成するだろう。

237 私は利子が廃止された結果としての、そしてそれ以外の場合は除外して、たとえ双務性がなくても、自由貿易は望ましいものだと考える。次に私の意見が基づく根拠を示す。

 もし明日フランス銀行(the Bank of France)が利子や手数料を含めてその割引率を二分の一パーセントに下げたとしたら、パリ銀行と信用取引のないパリや各州の製造業者や販売業者は取引のために直ちにパリ銀行の銀行券を取得せざるを得なくなるだろう。というのは私設銀行では六、七、八、九パーセントの経費がかかるのに対して、この銀行券ではわずか二分の一パーセントの経費しかかからないだろうからだ。

 しかしこのような取り決めに参入するのはフランスの販売業者ばかりではないだろう。外国の販売業者も参入するだろう。フランス銀行の銀行券が二分の一パーセントしかかからないのに対して他の国の銀行券が十ないし十二倍もするのだからフランス銀行券の方が好まれるだろう。世界中がこのお金を支払いのために利用するだろう。

 そしてこの銀行券をより多量に取得するために、外国の製造業者たちは彼等の商品の価格を下げるだろう。そしてそのことによってフランスの輸入量も増加するだろう。しかし外国の製造業者たちは、我々がすでに国家債務を清算してしまっているから、債券を買うためにこの銀行券を使うことはもはやできないし、また我々がすべての抵当を清算し財産の形態を変えてしまっているから、土地にかける抵当にも投資することができないから、したがってこの銀行券を我々のフランス製品を買ってその代金を支払うときにしか使用できないから、我々がもはや輸入品に対して自らを防衛する必要がないことは明らかである。それどころか我々は輸入品を歓迎すべきである。関係が逆転するだろう。つまり我々はもはやフランスが購入する量を減らす必要はないだろう。むしろ外国人のほうこそ買い過ぎないように注意しなければならなくなるだろう。

 どうしたら国家は売ることを拒むことができるだろうか。このような考え方は嫌悪感を引き起こす。産業が国際的に発展し国家間での労働の分割がなされるにともなって、そのようなことは矛盾を意味するからである。

 バランスを再構築しこのような駆け引きから身を守るために外国人は自らの税関を廃止せざるを得なくなるだろうし、また自らの銀行システムを改良し価値を再構築し底辺階級の人たちを解放せざるを得なくなるだろう。つまり一言で言えば革命をもたらさざるを得なくなるだろう。その時自由貿易は対等な交換になるだろう。国家間における利子の相違は結局徐々に利子の統一へと変わっていくだろう。そして訴訟を起こしうる事柄がなくなり争いの原因もなくなることによって個人間の訴訟がなくなるように、国家間の戦争がなくなる日も間近いことだろう。

238 私が今まで自己規制せざるを得なかった限界を超えることなくして私が産業機構の正体を、特に自由契約という新しい秩序の原則と関わるものの正体を、さらに明らかにすることはできない。過去十年間私の革命的議論の道筋をたどってきた私の読者たちは、欠如しているものを容易に補充できるだろう。一連の経済的否定を再び取り上げる際に、彼等は断言することと結論を総合(synthesis)することとを容易に区別できるだろう。

 社会契約が統治と対立することから導かれる革命的定式を発展させることによってこの新たな道筋を切り開き今世紀の精神にまで到達することのできる人は次のような共和国の法学者たちである。つまりクレミュー(Crémieux)、(ブルジュの)ミシェル(Michel (of Bourges))、(ストラスブールの)マータン(Martin (of Strasbourg))、ジュール・ファブル(Jules Favre)、マリ(Marie)、ベトゥモン(Bethmont)、グレヴィ(Grévy)、(ブュサックの)デュポン(Dupont (of Bussac))、マディエ・ド・モンジャウ(Madier de Monjàu)、デマレ(Desmarest)、マルク=デュフレッス(Marc=Dufraisse)、ルドゥリュ=ロラン(Ledru=Rollin)らである。非常に長い間、政治は法律界の優れた人たちにとって躓きの石であった。そして小農や軍人が政治家の仕事ぶりを見てその雄弁と愛国心をあざ笑うのも十分な理由がないわけではない。法律に従事する人と権力を振るう人との間にどんな共通点がありえようか。五十二年前の専制政治の再来は、法廷弁護士の追放と礼儀作法の復活という特徴を伴った。革命暦五年*(一七九六年)の憲法は弁護士たちにとっては悪い事例であった。彼等が統治の原則を認めるや否や彼等は単なる権力の代表者たちに道を譲ったのである。法的推論は権力の執行とはなんら関係がない。

*フランス革命暦(Calendrier révolutionnaire français)(共和暦Calendrier républicain):王政が廃止された翌日のグレゴリオ暦一七九二年九月二二日(秋分)を共和暦元年元日とする。共和暦V年は一七九六年となる。

 この研究を閉じるにあたって私が私の著書『矛盾』(Contradictions)の巻頭に記した標語「私は破壊し再建するだろう」(Destruam et aedeficabo)のために非常に頻繁にまた非常に間違ってなされた私の自尊心に対する非難に対する返答を一言述べることを許されたい。

239 この対句は『申命記』(旧約聖書第五の書)から引用されたものだが、本論文の基礎として役立つ革命的法則の、つまりどんな否定にも肯定が含まれているということそしてまず第一に真の破壊者である人だけが真の再建者になれるという法則の、定式以外の何ものでもない。

 

 

 

第七研究 経済組織による政府の消滅

 

 

1.権威のない社会

 

240 初めに人と家族と社会が与えられた。

 個人とは性的・社会的存在であり、また理性、愛情、良心を授けられ、経験から学び、反省によって自らを完成し、労働によって生計を得ることができる存在である。

 問題はこの存在が常に平穏に暮らせるようにまた彼に与えられた自然(Nature)から最大限の福祉を引き出せるように彼の能力を組織化することである。

 我々は過去の世代がどのようにこの問題を解決したかを知っている。

 彼等は人類(Humanity)の第二の構成部分である家族(Family)から家族だけに固有の原則つまり権威(Authority)を借用しこの原則を恣意的に使用することによって、これまで当然の秩序でありまた人類にとってなくてはならないものと看做されてきた、期間と精神風土に応じてさまざまな種類がある、人工的システムを構築した。

 このシステムは権威による秩序のシステムと呼ばれるかもしれないが、当初は精神的権威と世俗的権威とに分かれていた。司祭制はそれが優勢であった短い期間とその優越性を維持するための何世紀にも渡る闘いの後で、ついに世俗的権威に対する要求を放棄したようである。教皇制度はその軍隊組織を持っていたけれども――そしてイエズス会や今日の平修道士たち(lay brothers)は再びそれを復活させようとしているが――追い払われ単なる人間の利害関心の対象の陰に隠れてしまった。

241 二年前から教会権力は革命勢力に対抗して世俗権力と提携してきており、世俗権力と同等の立場で交渉している。そして両者は次のような認識を得るに至った。つまり両者の意見の相違は誤解に基づくものであったこと、そして両者の目的、原則、方法、信条などが完全に一致しているのだから政府による統治は両者によって共有されるべきであること、あるいはむしろ両者は互いに相互補完しあう関係にあることを認めるべきでありしたがって両者の結束によって単一で不可分の権威を構成すべきであることなどの認識である。

 少なくとも以上のような結論は、もし人類の進歩の諸法則がそのような和解を可能にするならばまたもし革命がその最終段階にすでに達して(marked the last hour)いなかったとすれば教会と国家とがおそらくたどり着いたであろう結論である。

 しかし確かにその通りかもしれないが人々の精神を確信させるためには一方では政治・宗教システム(哲学は長い間宗教界と世俗界との境界をはっきりと示してきたけれどももはやこの境界の区別を認めるべきではない)の根本的な考え方を、他方では経済システムの根本的な考え方をともども並べて比較することが望ましい。

 それでは政府による統治つまり不可分に結束している教会と国家とはその信条として次のようなものをもっている。

1.       人間性の本来の邪悪さ

2.       財産の不可避的不平等性

3.       争いと戦争の永続性

4.       財産は取り返しがつかないということ

したがってこれらのことから次のようなことが導かれる。

5.       統治、服従、あきらめ、信仰などの必然性

 これらの原則が今日でもそうであるようにほとんどあまねく認められているのだから、権威の形態はすでに定着している。つまりその権威の形態とは

a.人々を階級や階層に区分すること、つまり人々は互いに従属しておりその階層はピラミッドをなして段階付けされており、その頂点には祭壇に座す神のようにまた王座に座る王のように権威が現れるのである。

b.行政の中央集権化

c.裁判の階層化

d.警察

e.礼拝

 上記にさらに加えて民主的原則が優勢になった国々では

f.権力の分立

g.代表を選出することによって人々(People)が政府による統治に介入すること

h.中世に広まった身分的主教会議(Convocation by Estates)から普通直接選挙に至るまでの数限りないさまざまな選挙制度

i.法律に基づいた選挙と国民の代表による徴税への同意

k.多数決の原則

242 上記は大まかな権力の構築計画であるが、それを構成する部分のそれぞれが受ける修正については考慮していない。その修正とは例えば中央権力といっても今度はさらに王制、貴族制、民主制などの形態を取るようになるかもしれないし、またこの中央権力がかつて表面的な性格に応じて類型化される根拠を政治評論家(publicists)に提供したことなどである。

 政府の統治システムはますます複雑化するがだからといってより効果的でより道徳的になるわけでもなくまた人や財産に対してさらに保証を提供するわけでもない傾向があることが認められるだろう。このような複雑化が生じる原因は以下の通りである。つまりまずそれは常に不完全で不十分な立法から生じるし、第二には役人どもが大勢いることから生じる。しかしとりわけ執行主体と人々の同意という二つの反目し合う要素間の妥協から生じる。幾世紀にもわたる発展が不可避的にするこのような交渉が、腐敗・頽廃そして権威の分解が迫っていることなどの最も確実な指標であることを、明白に立証することは我々の時代に残された課題であった。

 この組織の目的は何だろうか。

243 その目的は次のような手段によって社会の秩序を維持することである。つまり市民の国家への服従を神聖化し正当化することによって、また貧しい者たちを金持ち連中に従属させることによって、同様にして一般の人々を上流階級に、労働者を怠け者に、世俗の人たちを聖職者に、産業界の人たちを軍人に従属させることによってである。

 人類の記憶がたどれる限りのはるか昔から秩序が教会による秩序、政府による統治的秩序のいずれにせよ政治的秩序を構成する上記のようなシステムの上に組織化されてきたことがわかる。しかし権力に自由主義的な装いを与えようとするあらゆる試みは決まって失敗してきた。そしてそのような試みは人々 (People)に政府内部でのより大きな関与を認めさせようとしたとき、さらに実りのないものとなった。そのような試みは次のようにたとえることができるだろう。つまり主権と人々という言葉はそれらを何とかして結合させようとしたにも関わらず、自由と専制という別の二語と同様に本来反目し合うものであるかのようにである。

 過去六千年間にわたってその最初の言葉が絶望でありその最後の言葉が死であるところのこの情け容赦のないシステムの下で人類は生き続けなければならずまた文明も発展し続けなければならなかった。どういう秘密の力が人類を存続させてきたのか。どういう力が人類が生き残るのを可能にしたのか。どういう原則がまたどういう考え方が教会および世俗の権威の短剣を突きつけられて流れ続けた血液を補充したのだろうか。

 その謎が今解き明かされる。

 政府統治の機械の下で政治的組織の陰にかくれてまた政治家や聖職者の目の届かないところで社会はゆっくりとそして静かにそれ自身の組織を立ち上げようとしている。そして社会は新しい秩序を構築しその生命力と自立性を表現し、古い宗教だけでなく古い政治をも否定しようとしている。

 この組織は現在のシステムとは相容れないのに対して社会にとってはなくてはならないものだが以下のような原則を持っている。

1.       個人と民族の無限の完成可能性

2.       労働することの名誉

3.       財産の平等

4.       利害の一致

5.       反目の終焉

6.       快適さの普遍化

7.       理性の主権

8.       人と市民の絶対的な自由

244 以下にこの活動の主要な形式を挙げる。

a.労働の分割、それによって産業の違いに応じて人々を種別化することが、階層によって人々を選別することに取って代わる。

 b.集合的な力、つまり軍隊に取って代わる労働組合の原則

 c.法律に取って代わる契約という具体的形式であるところの通商

 d.交換における平等

 e.競争

 f.従属に依拠する統治的階層化に対して利子に依拠する信用

 g.価値と財産の平等

 権威と信仰に基づいていた古いシステムは基本的には神の権利に基づいていた。そして後になって導入された民衆の主権という原則は古いシステムの本質を変えなかった。そして今日、科学的結論を前にして絶対王政と立憲王政との間のまた後者と民主共和国との間の、根本的原則に触れない区別をし続けることは間違いである。民衆の主権はここ百年間にわたって自由を求める上での小競り合いの場にすぎなかったし今でもそうだと私は思う。王による統治のイメージを模して主権を有する民衆を提唱することは間違いであったか、あるいは我々の父祖たちのずるがしこい企みであったかのどちらかである。しかし革命が次第によく理解されるにつれてこの神話も消滅し政府的な全ての名残も消滅し、またそれは政府そのものの原則に従って消滅していくだろう。

 自発的な勤勉の実践に基づき個人的・社会的理性に合致した新しいシステムは人権のシステムである。それは恣意的な命令に反対し、基本的に客観的であり党派や分派を許さない。またそれはそれ自身で完結しているし規制や分断を許さない。

 政治システムと経済システムとの間のまた法システムと契約システムとの間の融合は考えられない。どちらかが選ばれなければならない。雄牛はそれが雄牛である間は鷲にはなれない。またコウモリも同時にカタツムリにはなれない。同様にして社会がほんのわずかでもその政治的形態を持ち続けるならば経済法則に従って組織化されることはありえない。どうやって地方の主導権を中央の権威の優勢と調和させられようか。同様にどうやって普遍的参政権を役人たちの階層性と調和できようか。そしてまたどうやって自らが同意していない法律に誰一人として忠誠の義務を感じなくてもよいという原則を、多数の権利と調和させることができようか。

245 もしこのような矛盾を理解している著述家がこの矛盾を和解させようとするならば、彼が大胆な思想家であるどころか浅ましいペテン師であることが暴露されるだろう。

きわめて頻繁に証明されたこの二つのシステムの絶対的な非両立性であっても、権威の危険性を一方では認めながら他方では権威を秩序を維持するための唯一の手段と看做してそれに固執しその権威の周辺に空虚な廃墟しか認めないような著述家たちを確信させることができない。もし病気を治したいのならまずやるべきことは医者どもから手を切ることだと言われた喜劇に登場する病人のように、これら著述家たちはどうしてこの男が医者なしにやっていけるのかとかどうして政府なしに社会が成り立つのかとか相変わらず問い続けるのだ。これらの著述家たちは政府的統治形態をこの上なく共和制的で慈愛に満ちていて平等であると看做すだろう。彼等は政府に対抗するためのあらゆる考えられる保証を取り付けまた市民の威厳を支持して政府を見くびったりほとんど政府を攻撃したりさえするだろう。彼等は我々に言う。諸君らが政府なのだ!我々は諸君に大統領もなしに代表もなしに代理人もなしに諸君自らを統治させよう。だからいったい何を不満に思うことがあろうかと。しかし政府なしに生活すること、決定的に率直に全ての権威を廃止すること、純粋な無政府を構築することなどは彼等にとっては滑稽で考えられないことと思われる、つまりそれは共和国に反し国民に反する策略だと思われるのだ。そして彼等はこう尋ねるのだ。政府を廃止することについて語るこれらの人々はその代わりに何を置こうと考えているのかと。

 我々はその問いに難なく答えることができる。

 我々がたった今証明したように我々が政府に取って代えようとするものは産業機構であると。

 法律の代わりに我々は契約を代置する。多数決によってあるいは全会一致であってもそのように決定された法律はもういらない。市民一人ひとりが各町が各産業組合がそれぞれ自らの法をつくるのだ。

246 政治権力に取って代えてわれわれは経済的諸力を代置するだろう。

 貴族、中堅市民(burghers)、小農などの古代の階級や実業家と労働者などに取って代えて、我々は農業、手工業、商業などの、一般的呼称と特別な産業部門を代置するだろう。

 公共権力に取って代えて我々は集団力を代置するだろう。

 働きのない軍隊に取って代えて我々は産業組合を代置するだろう。

 警察に取って代えて我々は利害の固有性を代置するだろう。

 政治的中央集権に取って代えて我々は経済的集中を代置するだろう。

 役人がいない秩序つまり深遠で十全な知的結合がどのようにして存在しうるのかが諸君はもうお分かりになっただろうか。

もし諸君が立法者、検察官、司法長官、税関職員、警察官などの一切の組織が存在しなければ統一は考えられないとお考えならば本当の統一とはどういうものかを今まで知らなかったのだ!諸君が統一や中央集権と呼ぶところのものは永遠の混沌にすぎず、それは永遠の圧政の土台として機能するのだ。その統一や中央集権とは混沌の真の原因であるところの専制を擁護するための議論として、社会の諸力の混沌とした状況を推し進めることである。

 さて今度は我々の側から我々が協定を結んだときいったい政府のどんな必要性があるのかと尋ねよう。さまざまな支店を持つ国立銀行は中央集権化と統一を成し遂げないだろうか。農地資産に対する補償、市場での売買、経費の弁済などのために締結された農場労働者間の協定は統一をもたらさないだろうか。そして我々がこれまで呼んできたような契約の契約であるところの価値の構成は最も完璧で不変の統一ではなかろうか。

 そしてもし諸君を納得させるために我々自身の歴史の中の例を諸君に示さなければならないとしたら重量と寸法の制度であるところの、国民公会(Convention)*の最も公正な記念碑は、過去五十年間にわたって、政治的統一に取って代わるように運命づけられた経済的統一の土台をなしてきたのではないか。

*メートル法は一七九三年に国民公会が制定し、九九年正式に採用された。

(フランス革命―戦争と共和政()  https://www.zuknow.net/cardset/8970)

247 だから政府の代わりに我々が何を代置しようとするつもりであるのかとか政府がなければ社会はどうなるのだろうかとかもう二度と尋ねないようにしてもらいたい。なぜならば私は将来政府のある社会よりも政府のない社会を頭に描くことの方がずっとたやすいだろうことを諸君に保証するからだ。

 今社会は飛び立とうとする前に日の光の中で金色の羽を震わせている繭を出たばかりの蝶のようなものである。蝶に花を避け光からその身を隠すために再び絹の覆いの中にもぐりこむように言ってみたまえ!

 しかし革命は公式どおりに行われはしない。偏見は根本的に攻撃されなければならないし廃止されごみの中に投げ捨てられなければならないし、その有害な影響は説明されなければならないし、その滑稽で非常に不愉快な性質は暴露されなければならない。人間は自らの試金石しか正しいと信じない。この試金石が人間の頭脳を混乱させ血液を干上がらせてしまうようなことがなければ幸いである。それでは明晰な批判でもって、政府を試す試金石を、組織のばかばかしさが全ての人々の心を打ちのめしまた天罰として恐れられる無政府が利益をもたらすものとして受け入れられるようになるほど決定的な試金石に仕立て上げようではないか。

 

 

2 政府機能の根絶 ―― 礼拝

 

247 昔の革命は公的な礼拝を攻撃しなかった。それは公的な礼拝を脅しつけることで満足していた。しかしそのことは今日でも繰り返されている不誠実な間違いであったし、そしてまたそのいずれの場合においても世俗権力と教会権力との間の和解を求めようとする今でも残存している欲望として説明される間違いだった。

 それにもかかわらず敵が潜んでいる。神と王、教会と国家である。これらは昔から保守勢力の精神と肉体であった。中世における自由の勝利はこの二つを分離するところにあった。いやむしろその勝利はこの二つのいずれもが馬鹿馬鹿しいものであることを示して、この二つを分離することを原則として認めるところにあったとさえ言ってよい。今日我々は何の危険も恐れずにそのことを心から表明することができる。しかし哲学的にはこの分割は容認されていないのだ。王を否認する者は神を否認する者でありその逆も然りと。一昔前の共和主義者を除いてほとんど誰もこのことを当然視したがらない人はいない。しかしこのお世辞を我々の敵どもに認めてやろう。イエズス会派の人たちはそのことを知っている。というのは八九年以来真の革命家たちが教会と国家とのいずれとも闘い、これら二勢力を互いに対立するように扱ってきたのに対して、神聖教会集団(Holy Congregation)はまるで信仰が理性によって分離されたものを再び結びつけることができるかのように常に心の中ではこれら二つを結合させようとしてきたからだ。

248 ロベスピエールは一七九四年に社会による神への回帰の兆候を示した最初の人であった。この卑劣な雄弁家の心の中でカルビンの魂がよみがえったように思われるが、またこの男の有徳さはミラボー派(the Mirabeaus)、ドゥムリエ派(the Dumouriezs)、ダントン派(the Dantons)、バーラ派(the Barras)などを寄せ集めた全ての悪徳を越える危害を我々にもたらしたのだが、この男は全生涯を通じて権力と礼拝との復活という一事しか眼中になかった。彼は次のような手段を用いてこっそりとこの偉大な事業の準備をした。つまり時には不運な無神論者たちや無害なアナーキストたちをギロチンに送ることによって、また時には至高な存在に小夜曲を捧げ、人々に権威の教理問答集を教えることによってである。彼は彼のことをよく理解していた皇帝(the Emperor)が彼について語ったこと「あの男は諸君が考えている以上の手段を持ち合わせている!」にぴったり当てはまる人物であった。ロベスピエールの手段とはただ宗教によって権威を復活させること、またその逆に権威によって宗教を復活させることであった。最初の統領政府(17991804)の八年前にロベスピエールは「宇宙の偉大な建築家の栄光のために」という宗教裁判所の判決を祝って教会を再開し、政教条約(Concordat)への道を開いたのだった。ボナパルト*は草月(革命暦第九月)のローマ教皇による政治を復活させたに過ぎなかった。しかしアルコラ(Arcola)*の勝者*はフリーメイソンの教理の効力をあまり信用していなかったし、さらに彼はマホメットのように新たな宗教を開くだけの力量がないと自認していたから、古いものを再構築するに止めその目的のためにローマ教皇と条約を結んだのである。*

*ナポレオン・ボナパルト、ナポレオン一世

*一七九六年四月、ナポレオン・ボナパルトのイタリア遠征。アルコラはヴェローナ(Verona)の近くにある。

*ナポレオン・ボナパルト、ナポレオン一世

*一八〇二年四月、ナポレオン・ボナパルトは教皇との協約を公布した。

 そのときから教会資産は返還された。教会による資産の取得、蚕食、影響力の行使などは権力による強奪のペースと歩調をそろえて進んだ。そしてそれは当然のことであった。というのは宗教は疑いようもなく最も古くからある統治の表明であるし権威への近道であるからだ。そして二月の革命は僧職者たちの自尊心と自負心とを極限にまで高めた。ロベスピエールの或る使徒たちは彼等の主人を範として共和国に対する神の祝祷(しゅくとう)を援用し、二度目にはその祝祷を僧侶たちに譲り渡した。市民の良心のつぶやきにもかかわらず最も影響力を持つものがイエズス会なのかそれとも代議員たちなのか今日では知るよしもない。

249 それでもカトリシズムは屈服しなければならない。十九世紀の革命の至高の任務はカトリシズムを廃止することである。

 私がこう言うのは不信感からでもないし悪意からでもない。私は決してあざけったりしなかったし誰をも嫌ったりしない。私はただ論理的結論を述べるだけだ。テーマの趣旨からして私は予言さえするだろう。あらゆることがフーコー氏(Foucault)の振り子でさえも僧侶に反対する陰謀に加わっている。保守勢力が底辺から上層部にかけて全身で、魂、物の考え方、物事の傾向などにおいて社会を蘇生させることに成功しない限り、キリスト教信仰はあと二十五年も持たないだろう。おそらくあと五十年もすれば僧侶は詐欺師としてその職業から追放されるだろう。

 オディロン・バロ氏(Odilon Barrot)はフランスの法律が無神論的であると言ったことを取り消した。彼は自らの考えを修正したのだ。オディロン・バロ氏はそういう取り消しをしたがそれは間違っていた。無神論はフランスの法律の第一条なのである。国家が何らかの教義を公然と受け入れなくなった瞬間からその国家にはもはやいかなる信仰も存在しない。国家は神や宗教を否定する。私はそうあるべきだということが矛盾であることを知っている。しかし矛盾にもかかわらずそうなのだ。そしてそうあるべきだということは少しも革命の勝利などではない。宗教は敬虔さの単なるあいまいでばくぜんとした感情として存在することはありえない。宗教は積極的で独断的で決然としている。さもなければ宗教は取るに足りないものになる。だからジャン=ジャック・ルソー、ベルナルドゥン・ド・サン・ピエール(Bernardin de St. Pierre)、ジャコビ(Jacobi)等がなんと言おうとも彼等はヘーゲル、カント、スピノザなどと同程度の無神論者なのだ。このような無関心こそユダヤ教徒をもキリスト教徒をもイスラム教徒をもギリシャ正教徒をもカトリック教徒をもプロテスタントをも等しく我々に平等に保護せしめることを求める無神論、いやもっとよく表現すれば反・有神論ではないだろうか。このような哲学的精神こそ第一原則や原因の中の原因などに一顧だにせず、事実を事実としてその進化・系列・相互関係などにおいて考えようとする無神論、それも最も高尚な無神論ではないだろうか。もし次のような二語を結合できるとしたらそれは無神論的神学(atheistic theology)つまり原因、実体、精神、神、来世等々の観念を人間の理解の形式と看做すような、あるいは人間の意識の象徴と看做すようなまた結局全ての宗教的啓示や神学や神統系譜学などを我々の同意を強く求めるようなやり方で概念の開花として説明するようなこのような合理的批判論ではなかろうか。

250 我々が宗教のためにこの世でその存在価値を認められる分野が見つけられるのかと尋ねてみても無駄である。なぜならば宗教の教義は全て、最も合法的で承認された社会の傾向とは百八十度対立しているからであり、またその道徳性は自由、平等、完成可能性、幸福などの我々の考え方と全く一致しない、罪の贖いに基づいているからであり、またずっと昔に間違いだと証明された啓示は、哲学がその啓示の伝説的起原を説明するときに人類の精神の直感的考え方の原始的形態であることを我々に示してくれることがなければ全く軽蔑にも値しないだろうからだ。我々が僧侶のための一職務であり信仰の口実にもなっている礼拝式の理由を見つけようとしても無駄である。我々が自発的に自らを盲目にしない限りどんなにわずかな望ましい点を含む答えを見つけ出すことも不可能である。我々の寛容さが信念よりも大きくなかったならば、またわれわれの実践が我々の理性よりも幅広くなかったとしたら、確かに宗教はずっと昔に社会の中で取るに足りないものになっていたであろうし、また我々の個人的な良心の中でさえも取るに足りないものになっていたであろう。礼拝式は我々の考え方、道徳、法律、本性と相対立する。礼拝式は僧侶たちの財産の売却を命じた最初の国民議会(Constituent Assembly)が不可解な良心の咎めのために僧侶たちに対する補償として彼等に年金を与えなければならないという義務感を抱かなかったならば廃止されていたことだろう。

 我々の中で教会を支持するものいやむしろ教会を存続させる口実として役立つものは、ほとんど全員がサボイ(Savoyard)の教皇代理*の宗教を信じている自称共和主義者の臆病さかげんである。サナダムシに悩まされるときその一部だけを取り去るがその頭は注意深く温存するとオーベール(Aubert)医師が私に話してくれたアビシニア人(Abyssinians)のように、我々の理神論者たちは宗教から彼等を困らせたりショックを与えたりするものは何でも切り取るが、彼等は決して迷信や強奪や圧制などの永遠の源である宗教の原則をひっくり返そうとはしないだろう。崇拝も秘跡も啓示も捨て去りはしないだろう。それは彼等にぴったり当てはまるからだ。しかし彼等の神に触れてはいけない。彼らは諸君を親殺しであると咎めるだろう。したがって迷信、強奪、赤貧などがサナダムシの節のように止まるところなく再び大きくなる。そういう人々が共和国を統治しているそぶりをしているのだ!敬虔な精神の残りがあったためにローマ教皇を国家の中で厚遇したカベニャク(Cavaignac)将軍は大統領候補である!諸君は君たちの娘を、胸の中にそういう怪物を抱いている男にくれてやろうとするだろうか。

*『エミール』(ジャン・ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)著)の中に現れる教皇代理。

Book IV also contains the famous Profession of Faith of the Savoyard Vicar(サボイの教皇代理).  Rousseau, through the priest, leads his readers through an argument with only one concluding belief: natural religion.    Religion is insignificant in Emiles education and socialization.  (Emile, or On Education From Wikipedia, the free encyclopedia This page was last modified on 6 October 2014 at 15:41.)

251 千八百年以上も前にある男が今日我々もそうしようとしているように人類を裏切ろうとした。彼の生き様は神聖でありその知性はすばらしく憤りに燃えていたが永遠性に対する敵であるこの革命の天才は自分に息子がいることに気づいたと思った。彼は息子の前に現れ地上の全ての王国を指差しながらこう言った。もしお前が私をお前の父として認め私を敬愛するならばこれらの王国のすべてをお前に与えようと。ところがナザレ人(キリスト)はいやだと答えた。私は神を敬愛しており神だけに仕えると。この非論理的な改革者は磔にされた。彼の後にもっと抑圧的で強欲で悪名高いパリサイ人、収税吏、僧侶、王たちが再びやってきた。そして革命が二十回開始され二十回放棄され今日でもその成果は疑わしい。ルシファー(魔王)、サタンよ誰であってもいい神に歯向かう悪魔よ、私の祖先の信念に従って私を助けてくれ!私はお前のために発言するつもりだ。そしてお前からは何も要求しない。*

*『この世の王子』(ヨハネ十二章三十一節、十四章三十節、十六章十一節)や『この世の神』(第二コリント四章四節)はルシファー、悪魔、サタンである。悪魔は「もしお前(キリスト)がひれ伏して、私(悪魔)を拝みさえすれば、この世の全ての王国をお前(キリスト)に与える」と申し出た。(マタイ四章八、九節)

(被造物対創造者 第四章 世 地(第一部) サム・ヤービー http://www.christ-is-all.jp/samHP/chapter4.htm

 私はよく知っている。政府が国家に対するのと同じように政府が宗教に対しても同様な関係にあることを。また政府の空虚さと無能力さとを示すことだけでは十分でないということを。また政府がなくなった後の空虚さを満たすために我々が何かを提供しなければならないということを。私は政府の代わりに我々が何を提供するのかを尋ねる人が必ず神の代わりに我々が何を与えてくれるのかを尋ねるだろうということを知っている。

 私はどんな困難に直面してもひるまない。私はかつての無神論者たちが認めなかったことを、そしてそういうことが哲学の課題であるべきだということを、誠実に確信をこめて認めさえする。政府の代わりに他の何も代置しないで政府を廃止することが十分ではないように、人間の概念や社会的発展の順序にのっとって神の後を継ぐはずの未知なるものを示さないで神を完全に追い払うことはできないということを私は認める。

252 今はこの交代に取り組もうとは思わないが、もし次のような状況になっているとすればその交代がすでに十分前進しているだろうことを理解できない人がいるだろうか。つまり神の原理の理論的・実践的不十分さやその原理が経済的に適合しないということや、またその原理が現在の革命と相容れないということなどが全ての人々に明らかになったとするならばということだ。新しい見解の方がその類似物が一般に理解されているよりもずっとよくまたずっと速やかに理解されるだろうということを理解しない人がいるだろうか。つまり政府の理論の代わりをする自由契約の理論の方がより早く人々の共有財産となり、その結果次のような等式の必然性がより際立つようになるということを理解しない人がいるだろうかということだ。つまりその等式とは至高の存在がXに対する比は政府システムが産業システムに対する比に等しいということだ。社会におけるどんな否定もそれに続く肯定を含意するようにその逆も成り立つのだ。つまり全ての肯定は排除の前段階を含意するということだ。諸君はあらゆる時代の社会主義者たちによって叫ばれてきてイエス・キリスト自身によって聖霊の名の下に公に明らかにされた新たな原則を引き倒したいか。まず永遠なる父を天に送り返すことから始めよう。*我々の中での神の存在はほんの一本の糸でつながれているにすぎない。つまりそれは予算だ。その糸を断ち切ってしまえ。そうすれば諸君は革命が神の代わりに何を代置すべきかを発見できるだろう。

*十字架こそ神が御子イエスと父子決別をなさった場所なのです。その御子イエスを天使ガブリエルは「インマヌエル」(神われらと共にいます)と呼ぶのです。(説 イザヤ書七章十四節、ルカ福音書二章一~七節 「父子決別の降誕祭」 クリスマス礼拝  二〇一一・一二・二五(説教一一五二一四〇九)www.geocities.jp/hayama_church/mikotobas/11521410.pdf

 さらに私には聖職者の予算に関わることで、或る民主主義者たちの示す繊細さを理解することができない。古い国民議会の先例が彼等を麻痺してしまった。市民による僧侶たちのリストは、教会の財産に取って代えるために一七九九年に創設されたと彼等は考えている。そしてその教会財産は国家にとって必要なものの代金を支払うために売られたのだし、聖職者に関する予算を廃止することは没収ではないだろうかと。

 ここには誤解がある。つまりその誤解を利用して陰謀をめぐらす人々のためばかりでなく、とりわけその誤解によって惑わされる腰抜けの人々のためにもこの誤解について整理しておくのが望ましい。

253 中央集権政府も予算もなくまたお金も乏しく生活の唯一の保証が不動産でしかなかった数世紀に及ぶ信仰の時代には、僧侶たちは単なる個人としてでなく大衆が崇拝する聖職者として信者の敬虔な心から資産を受け取っていた。寄付を受けたのは宗教的組織であった。宗教団体は単に使用権を有する組織であったにすぎない。しかし公的財政が礼拝式(public services)の原資を他の分野に振り向けることを許可したり、あるいは寄付の目的が失われ宗教的組織が今にも消滅しかけたりしているとき、この聖職者団体が使用権を失うのは当然の成り行きであった。八九年のころこのことは世俗権力についてと同様に教会についても言えることだった。教会は腐敗しており教会に対する信仰は揺らいでいた。お金で天国を買えると考えた人々の敬虔な心は多数の不労所得者たちの懐を肥やした。主権者は寄付をする人たちの願いをかなえてやりたいと思いつつも当面の宗教の有用性に関する問題には深く関与したくなかったために、将来的に教会の収入は施されたサービス(礼拝式)の量に応じるべきであると決定した。つまり教区機能を行った僧侶たちだけが謝礼を受け取るべきであると決定した。確かに国民議会はもっと厳しく対処して正義を実行することもできただろう。教会は一八四八年以来そうしているように革命の外に身を置いてきたのだから、教会から財産や俸給を取り上げることは理にかなったことだった。僧侶に補償をしてあげるどころか革命に対してひそかに反対したことによる損害を理由に僧侶たちを訴えることの方が正義にかなっていただろう。国民議会は自らの統治的政府のために僧侶たちを必要としたのだ。

 我々は次のような理由でつまり民衆の感情が静まったときに起こった思想状況の進展のせいで、また聖職者たちのますます公然として表明される敵意のせいで、もっと言い添えざるを得ない。そしてこの聖職者たちは哲学的議論も政治的自由も社会的進歩も許さず、貧困の軽減のためには施し物を与えることしか知らず、したがって神の摂理による侮辱を不運な負傷者たちに加えているのだ。まさに聖職制こそ科学の普及と繁栄の増進に伴って破壊されるべきものである。

254 礼拝は自由であるべきだしまた祭壇に仕える者は祭壇からの収入で賄っていくべきであることを私は認める。しかし私は正義を貫き通すためには聖餐式に参加する者たちが聖餐式を勤める牧師にそれ相応の謝礼を支払うべきであるということをつけ添えたい。礼拝式の費用のための税金が免除されそれに要する八百万ドルが町の税額の査定から差し引きされた暁には、また永遠で奪うことのできない寄付が禁止され一七八九年以来聖職者集団によって獲得されたものが没収された暁には、秩序が再びあまねく支配するだろう。町はおそらくまた宗教的結社も、彼等の好むままに彼等の僧侶に物品を提供するだろう。僧侶に関してどうして国家が町のための資金提供源にならなければならないのだろうか。どうして国家が牧師と教区民との間に入って干渉しなければならないのだろうか。政府は敬虔な労働の評価をするのだろうか。政府は神聖な像やマリアの心や聖餐式などに関与するのだろうか。政府はミサやテデウム(賛美の頌)を必要とするのだろうか。

 もし礼拝式に本当に物質的・道徳的な価値があるのならばまたもし礼拝式が大衆が必要とし要求する業務ならば私には異論がない。好きにさせておこう。産業と同じように礼拝式も自由にさせよう。ただ私は聖的な事柄に関する取引は他のどんな取引とも同じように需要と供給の原則に従うべきであり国家によって甘やかされたり補助金を受けたりすべきではないこと、またそれは政府が関わる事柄ではなく交換に関わる事柄であることを言い添えたいだけだ。他のどんなことにおいてと同様にこの点においても自由契約が至高の法則であるべきだ。洗礼を受け結婚式をしてもらい埋葬時にお祈りをしてもらうために各人が謝礼を払うのは結構なことだ。敬愛したいと思うものがその敬愛の経費に応じて自らを評価したいというのならそうさせておけばいい。これほど正義にかなったことはない。祈りのために集まる権利は政治や経済を語るために集まる権利と同等である。クラブ会館と同様に小礼拝堂も犯すことのできないものである。

 しかし国家宗教だとか大多数の人々が信じている宗教だとか俸給をもらって行う礼拝式だとかネオ(新)・キリスト教共和国だとかについてこれ以上我々に語らないで欲しい。こういうことのそれぞれは理性と正義への背信行為である。革命は神性と和解することはできない。とりわけ直接立法を口実として次のような質問を人々にこれ以上しないでもらいたい。そして私はそれらの質問に人々が雷鳴のような大声でイエスと答えるだろうことを、またそれもこの世で最も良心的なイエスで答えるだろうことを確信している。

神は認められるべきでしょうか。

宗教は存在すべきでしょうか。

この宗教は牧師たちによって管理されるべきでしょうか。

これらの牧師は国家によって俸給を支払われるべきでしょうか。

 諸君は反革命が二日で完成されることをお望みだろうか。完璧にしかもあまねく。人々に国王や皇帝や共和国などについて語らないで欲しい。また土地改革や自由銀行や普遍的選挙権などについても語らないで欲しい。人々はこれらの事柄が何を意味するのかをもうちょっとのところでわかりかけているところだ。人々は自分が欲しいものと欲しくないものとを知っている。ロベスピエールがやったようにやりたまえ。人々に至高の存在と魂の不滅性について語りたまえ。

 

 

3 正義(司法)

 

255 正義と権威、この二語は両立しがたい言葉だ。しかし一般の人は執拗にこれら二語を同義と看做している。一般の人は人々による政府について語るのと同様に法の権威についても語る。しかしこれらの言い回しは現在の権力者によって一般の人の頭の中に徐々に注入された言い回しであって、人はそこに含まれる矛盾に気づかない。どこからこのような考え方のゆがみが生じるのだろうか。

 正義は秩序と同様に権力と共に始まった。はじめのうち正義は君主の法であり良心の法ではなかった。この法は愛によってではなく恐怖によって従わされ、したがってそれは説明されるよりもむしろ強制される。政府による統治と同様に法は多かれ少なかれ恣意的な権力のずるがしこい使用例である。

 フランス史よりも先に遡るまでもなく正義は中世においては領主の特権であり、領主個人によって執行されることもあったし場合によっては借地農夫や警察署長によって執行されることもあった。人々が一定の日数の労働を領主に対して奉仕する義務があったようにまた今日でも税金を払う法的義務があるように人々は領主の裁判に従う義務があった。人々は穀物を挽いてもらいパンを焼いてもらうのにお金を支払わねばならなかったように裁判に対してもお金を支払わねばならなかった。そして一番多額を支払った者が裁判に勝利する最善の機会に恵まれた。調停者を通して二人の間の不和を解決したことで有罪とされた小農たちは反逆者と看做され当の調停者は強奪者として告発された。他人の正義を管理するのだって?なんというひどい犯罪であることよ!

256 徐々に国家は将来フランス国王となる主要な男爵を中心として集団を形成し全ての正義が次のような代理形式を取りながら彼から生じるものと思われた。すなわち正義が家臣に対する王の特許として授与されたり、あるいは今日でも登録官や法定代理人によって行われているようにギルドのメンバーがその特権に対して現金でお金を払って正義の執行を任されたりしていた。

 ついに一七八九年から正義は国家によって直接執行されるようになった。そして国家だけが強制力のある判決を行い、罰金を含めずに五百四十万ドルの固定収入を小額ながらも手に入れている。この変化によって人々は何を手に入れたのだろうか。何も手に入れなかったのだ。正義はかつてと同様であり権力者の影響力の下にあった。つまり強制の形式であり基本的に効力がなくその決定の全てにおいてさまざまな批判が自由になされた。我々は何が本当の正義なのか知ることさえできない。

 私は次のような問いについて議論されるのをよく耳にしたことがある。つまり社会には死刑で人を罰する権利があるのだろうかと。ベッカリーア(Cesare Bonesana Beccaria, 1738 --- 1794)という大して才のないイタリア人は死刑支持者を論駁したその雄弁によって前世紀に評判になった。そして一八四八年人々はさらによいことを期待しながら政治犯に対する死刑を廃止するという点で自分たちがすばらしいことを行っていると考えた。

 しかしベッカリーアも二月の革命家たちもこの問いの最初の言葉にさえも触れなかったのだ。死刑を採用するということは犯罪裁判における一つの特別な表明にすぎない。真の問題は社会に死刑を課す権利があるかどうかとかどんな些細なことでも少なくとも罰を課す権利があるかどうかとかあるいは無罪にし恩赦しさえする権利があるかどうかということではなく、社会にはそもそも判決を下す権利があるかどうかということなのだ。

257 社会が攻撃されたら社会に自衛させよう。それは社会の権利の範囲内のことだ。

 社会の利益になると思われるのならば報復のリスクを払いながらも社会に復讐させよう。

 しかし社会が裁判しその後で罰するということ、それは私は否定する。それは私がどんな権威に対しても許容することを拒否するものである。

 個人だけに自らに判決を下す権利がある。そして彼が罪の償いが彼にとって望ましいことだと思うのならば彼には自らの罰を要求する権利がある。正義は良心に基づく行為でありとりわけ自発的なものである。なぜならば良心は自らによってしか判決を下されず有罪とされず無罪とされないからだ。それ以外の場合は全て戦争であり権威のルールであり野蛮であり権力の乱用である。

 私は今不運な人たち(unfortunates)の集団の中で暮らしている。不運な人たちとは彼等が自称している名前である。彼等は正義(司法)が窃盗、偽造、破産、婦女暴行、幼児殺し、暗殺などの理由で司法の前に引きずり出した人たちである。*

*プルードンは本書を獄中で執筆している。P・〇〇九参照。一八四九年三月、ルイ・ナポレオンを攻撃したため、三年の禁錮刑と一万フランの罰金刑を言い渡される。一時ベルギーに亡命したが、パリに戻って六月に逮捕された。一八五二年六月出獄した。(中公版)

 私の知る限り彼等のうちのほとんどは四分の三だけ有罪である。つまり彼等は告発されても自白していないのである。(rei sed non confessi = Accused but not confessed.) そして私が一般的に彼等が譴責を免れるとは思われないと言っても彼等を中傷することにはならないと思う。

 私は、仲間と戦闘状態にあるこれらの男たちが召還され彼らが引き起こした損害を修復しその費用を負担させられるべきであるということには納得できる。また多かれ少なかれ故意になされ、彼等が一因となっている社会に対する面汚しや社会不安などを理由に、ある程度まではさらに罰金を払わせるべきだということにも納得できる。つまりこのような敵同士の戦闘における法の適用は納得できるということだ。戦争における正義ということは言わないことにしよう。それは正義という言葉に対する冒涜であろう。しかし戦争にもそれに類似するものがあっていいかもしれない。戦争にもルールがあるはずだ。

 しかしこの範囲を超えて次のような事態になれば話は違う。つまりこれらの同じ人々が、彼等を矯正するという口実で暴力の巣窟の中に閉じ込められ烙印を押され手かせ足かせをはめられ心身ともに拷問を受けギロチンにかけられあるいはもっとひどいことには刑期が終わった後でも警察の監視下におかれ彼等がどこに逃げ隠れしようとも必ず探し出して彼等を追いかけることである。再度私は最も強い言葉で、社会や良心や理性などにおけるどんなものでもそのような圧制を認可することを否定する。法典は正義のためにつくられてはいない。それは非道で残虐な復讐のためにつくられたものであり、奴隷階級に対する古代貴族の憎しみの最後の残滓である。

258 この男たちの悪事に対して鎖や暴力、世間の烙印などによって彼等に責任があると看做す権利を諸君が思いのままにするようなどんな取り決めを諸君は彼等と結んだのか。諸君が乗じて利用できるどんな約束を諸君は彼等としたのか。彼等が違反したと看做されるどういう条件を彼等は受け入れたのか。彼等の激情の過剰に対して課せられ彼等によって認められたどんな限界を彼等は行き過ぎたのだろうか。彼等が諸君のためにどんなことでもすべきであるほど、どんなことを諸君は彼等のためにやってあげたのか。彼等はどんな義務を諸君に対して負っているのか。私は彼等に対して拘束力のある、自由で自発的な契約を捜し求めている。私には刀身のような正義と剣のような権力が彼等の頭上にぶら下がっている様しか見えない。私は彼等の怠慢を公布する、彼等の手によって署名された文書による相互的義務を要求する。しかし実際私が見出すものはどんな権威でも手に入れようとして、死刑執行人の助けを必要とする、自称立法者の脅迫的で一方的な禁止しかない。

 今まで契約がなかった場合には法廷で犯罪や不品行などが裁かれることはありえない。だからここで私は諸君の金言にのっとり諸君が次のように考えているものと看做す。つまり法によって禁じられていないことは全て許される、そして法は将来に対してだけ適用され過去への遡及的効力はないと。

 そもそも法律は(そしてこの文章は諸君等の制度下での六十年間の後で書かれているのだが)人々の主権の表現である。つまりもし私が大きく間違っていないならば、法律は社会契約であり人や市民の個人的な義務である。私が法律を必要としない限り私が法律に同意しない限り私が法律に賛成して投票しそれに署名しない限り、私には法律に従う義務はないし法律は存在しない。私が法律を認める以前に法律を適用することや、諸君が私の意に反してまた私の抗議にもかかわらず法律を利用することは実質的には法律に遡及的効力を与え法律そのものに違反することになる。毎日のように書式の間違いのために判決が逆転することがある。しかし被告人が法律を知っていたはずだという想定の根拠の薄弱さそれも最も不条理な薄弱さに汚されていないような諸君の行動は何一つとしてないのだ。ソフラー(Soufflard)やラスネール(Lacenaire)*や諸君が刑場に送った全ての犯罪者たちは墓の中で腹を立てて寝返りを打ち間違った判決に対して諸君を告発する。諸君はそれにどう答えるつもりなのか。

Pierre François Lacenaire (20 December 1803 9 January 1836) was a French poet and murderer.    and during the trial he fiercely defended his crime as a valid protest against social injustices, turning the judicial proceedings into a theatrical event and his cell into a salon. He was executed in Paris, at the age of 32.  (From Wikipedia, the free encyclopedia  Pierre François Lacenaire  This page was last modified on 4 February 2014 at 18:34.)

259 暗黙の了解、社会の不滅の原理、国家の道徳的水準、宗教的良心などについて語らないでもらいたい。諸君が社会の原理を説明し社会全員の黙従を要求すべきだったのは、まさに普遍的良心が正義や道徳性や社会の要求などを実際認めるからである。諸君はそうしただろうか。否。諸君は諸君が望むものを何でも法制化し諸君の布告を良心の規則だとし一般大衆の同意の表現だとしたにすぎない。諸君の法律には我々が同意していない不公平、言外の意味、あいまいな言葉などがあまりにも多すぎるのだ。我々は諸君の法律ならびに諸君の言うところの正義に抗議する。

 一般の人々の同意だと!それは全ての被告人はその当然の裁判官であるところの同僚によって裁かれるべきだという、諸君にとってのもう一つの勝利のしるしとして諸君が我々に提示するところのもう一つの見せかけの原則を思い起こさせる。笑止千万だ!この男つまり法律論議に一度も加わるように依頼されたこともない男、この法律に賛成して一度も投票したこともない男、この法律の条文を一度も読んだこともない男、仮にそれを読んだとしてもその意味がわからないであろう男、立法家の選定の際に一度も相談を受けたこともない男このような男にその当然の裁判官がいるのだろうか。政府と関わりを持ち政府の保護とひいきを受ける資本家、地主、お金持ちなどが貧しい人たちの当然の裁判官であろうか。これらの人たちは「その栄誉と良心に基づいて」(被告人にとってなんという大きな保証であることか!)「神の前において」(被告人は神のことなど一度も耳にしたことがない)「人々の前において」(その人々の中に彼は含まれていない)彼を有罪であると宣告する「正直で自由な人たち」であろうか。そしてもし彼が抗議して、社会が彼を陥れた惨めな状況を持ち出すならばまたもし彼が彼の生活の貧しさや苦境を彼等に思い起こさせるならば、彼等は人類の暗黙の了解と良心を持ち出して答えるのだろうか。

260 いやいやもう結構。行政官諸君よ、諸君にこのような暴力と偽善をもうこれ以上立法化させたくない。諸君の善意に疑義をさしはさむような点が何もないということだけで十分だ。それにこういう諸君の善意のおかげで将来も諸君が赦免されるだろうということだけで十分なのだ。しかしそれ以上のことを諸君らにさせたくない。諸君らには判決を下す権利はない。そしてこのように諸君らに権利がないこと、そして諸君らの任期が無効になっていることは、個人の主権以外の何ものでもない人々の主権という原則が全フランス連邦で世界に向かって宣言された日にすでに無条件に断言されていたのだ。

 正義を行うにはたった一つの方法しかないということを思い起こしてもらいたい。それは容疑者あるいは被告人自らが正義を行うべきであるということだ。そして彼がそれを行うであろう時とは次のような場合である。つまり市民一人ひとりが社会的契約の場に現れこの厳粛な集会の中で権利や義務それに各人の役割などの意味が明らかにされ保証が相互に担保され同意が署名される場合である。

 その時、自由から生じる正義はもはや復讐ではなくなり償いとなるだろう。そして社会の法と個人の意志との間の対立はもはやなくなるから訴訟はなくなり残るものは自白しかないだろう。

 さらにそうなると訴訟の仕組みは単なる証人たちの集会となり、原告と被告との間や債権者や債務者との間には仲裁を依頼された友人たちを除いて仲裁者は不要になるだろう。

 そして実際判事が訴訟当事者たちによって選ばれるべきであるという民主的原則にのっとって、国家は決闘に対してと同様に司法関係の事柄にももはや関与しなくなるだろう。全ての人々に認められた正義への権利こそ裁判の最善の保証である。

 いかなる代替機関も移行措置もなく裁判所(courts)や法廷(tribunals)を完全にかつ即時に廃止することは革命がなすべき主要で不可欠なことの一つである。他の改革でどんな遅れが生じようとも例えば社会的清算がこれから二十五年間起こらないとしてもあるいは経済諸力の組織化が五十年間行われないとしてもいずれにしても司法権威の廃止は延期されるべきではない。

261 司法制度に関わりのある原則に関する限り、今日の既成の正義(司法)は専制政治のための定式と、自由と権利の否定以外の何ものでもない。諸君がどこで司法権を生き延びさせようとも、それは諸君が反革命の記念碑を建立することであり、したがって遅かれ早かれ新たな政治的・宗教的専制政治が生まれるだろう。

 政策に関して言えば、有害な考え方に浸された古臭い治安判事(magistracies)たちに新しい社会契約の解釈を任せることは全てを危険にさらすことになるだろう。司法の管理者たちが社会主義者たちに情け容赦ない仕打ちをするならば、それは司法機能の背後でそれを支える法律とともに司法機能そのものをも社会主義が否定するからであることがきわめて明らかに見て取れる。判事が革命的な考え方、発言、著作などを理由に逮捕された市民の運命を宣告するとき、判事が攻撃しようとする対象は被告人ではなく敵なのである。正義のために正義(司法)を管理すると言いつつ実は自らの地位と家庭の安寧のために闘っているこの役人を追い出してしまえ。

 さらにそのための方法は詳細に作成されている。裁判所によって非常に頻繁に命令された商業法廷、調停者たちの評議会、調停の承認、専門家の指名などは正義(司法)の民主化へ向けてすでになされた第一歩である。この運動を完成させるためには誰の依頼によって指名されたにせよ、その全ての仲裁者に権威を付与し証人たちを送り出し彼等の決定を実行するための布告以外に必要なものは何もない。

 

 

4 行政、警察

 

261 我々の社会の中のあらゆるものが矛盾している。だから我々は決して互いに理解し合うことができずいつもすぐ喧嘩ばかりしている。公衆行政と警察はそのもう一つの証拠を我々に提示する。

262 今日不適切であり神聖を汚し理性と良心の自由に直接攻撃を加えるように思われるものがあるとするならば、それは信仰の領域を強奪し国民の精神的義務を支配すると主張する政府である。キリスト教徒の目から見てもそのような圧制は耐え難いだろう。もし暴動が起こらなければ殉教がそれに答えるだろう。上から組織され奨励されている教会は人々の魂を支配する自らの権利を主張するが、この権利を国家に譲り渡すことは拒否する。このことは注目に値することでありおのずから自由主義の始まりをなしている。吊り香炉に手を触れるなと教会は支配者たちに向かって叫ぶ。お前らは物質的世界の守護者であり我々は精神的世界の守護者である。お前らの前では信仰は自由である。つまり宗教はお前らの権威から生じたのではない。

 少なくともフランスではこの点についての意見は全員一致である。国家はいまだに喜んで礼拝式の代金を支払おうとしており教会はその補助金を喜んで受け取っているが、国家は教義や儀式に全く干渉しない。信仰しようがしまいがお祈りをしようがしまいがそれは個人の問題である。政府はもはや良心の問題に介入しないと決めたのである。

 その事情に関して二つのことが考えられる。一つは政府がこのように主導権を握る権利を犠牲にすることによって重大な間違いをしたというもの。もう一つは政府が一歩退き我々にこの譲歩を約束しようと敢えて意図したというもの。実際もし政府が宗教を我々に強制する権利がないと考えるのならば、なぜ政府は我々に法律を強制する権利があると考えるのだろうか。なぜ政府は立法の権威だけで満足しないのか。なぜそれに加えて司法の権威を行使するのか。なぜ警察の権威を行使するのか。なぜ行政の権威を行使するのか。

 来世の幸せと同様に現世の秩序も、魂を制御することに依拠しているのだが、政府はそういう我々の最も重要な部分である我々の魂への配慮を我々に任せる一方で、我々の物質的な事柄、通商業務、近隣の人々との関係などの最も普通な事柄には実際どうして介入するのだろうか! 権力は補助司祭の女中(curates maid)のようなものである。権力は魂から抜け出して悪魔に乗り移る。権力が望むものは肉体しかない。権力が我々の財布の中に手を突っ込むことができるならばその次は我々の考え方をあざ笑うだろう。何という不名誉なことか!少なくとも我々が自らの救済について心を配り自らの魂を管理するのと同様に、我々には自らの所有物を管理し勘定書を手配し他人との不和を解決し我々の共通の必需品を手配することなどができないのだろうか。我々は国家宗教と同様に国家による立法、国家による司法制度、国家警察、国家による管理などといったいどんな関係があるというのか。どういう理由でどういう口実でさえ国家は地域や個人の自由にこのような例外を突きつけられるのだろうか。

263 このことに関して次のような説明がなされるのだろうか。つまり矛盾はただ単に明白であること。あるいは国家の権威は普遍的でありそのことに例外はないということ。あるいはまた国家がより完全な機能を果たすためには二つの対等で独立した権力つまり一方は魂への配慮を任された教会もう一方は肉体の支配を担当する国家という二つの権力に分かれる必要があったというものである。

 私はこれに対して次のように答える。まず第一点は国家の教会からの分離はよりよい組織を目指して行われたものではなく両者が支配する利害の両立しがたい性格のためであること。第二点目はこのような分離によってもたらされた結果が非常に嘆かわしいものであったこと。その理由は教会が現世の事柄を支配する権力を失ってもはや精神的な事柄においても人々から耳を傾けてもらえなくなっていること、一方国家の方でもただ物質的な問題だけに干渉しその問題をただ力によって解決することによって、人々の敬意を失い非難を掻き起こすことになったからである。だからまさにこういう理由によって国家と教会はこれら両者が分割できないものであるということを確信するのが遅きに失したのだが、今ではまさに革命がこれら両者の没落を宣言したときに両者の不可能な融合を画策しているのだ。

 しかし教会は政治的拘束力を欠いているから思想の支配を維持することはできないし、また国家の方でもより高尚な原則(思想)を奪われているので物質的利害の支配を望むことができない。一方この両者の融合に関してであるがそれは絶対王政と立憲王政との融合以上に奇想天外である。自由が分離したものを権威が結合することはできないのだ。

264 私の疑問はこれまで触れられて来なかった。どういう権利があって国家は、思想や礼拝式に全く配慮しない国家は、法律のように神を認めない国家は、物質的利害は支配しようとするのか。

 この疑問は法律と道義性に関する疑問であるがこの疑問に対する返答は次のようなものである。

 第一の返答は個人や地域共同体は一般的な利害に配慮できずまたその利害は対立しているから何らかの最高の支配者を必要とするというものである。

 第二の返答はもし各地域、各組合、各利益集団がそれぞれの衝動の赴くままに放置されまたもし役人たちが個人の利害と同数の異なった相矛盾する注文を受け付けるならば物事は調和的に進められないから、単一の権力が命令を下すべきでありしたがって役人たちも政府によって任命されるべきであるということが不可欠であるというものだ。

 諸君はここから逃れることはできない。不可避的で致命的な利害の反目があるということ。それが前提であること。中央集権的で公の命令がなければならないということ。それが結論である。

 このような理屈があったからこそ我々の祖先は九三年に神の権利、封建制度、階級の分断、男爵による法廷などを破壊した後に選挙民の意志に基づく政府を再び樹立し、一方ではどうやって統一を確保したらよいのかについて明言できなかったけれども中央集権化には反対したと言われているジロンド派の人たちに異議を唱えたのだった。

 さてこの政策の結果を検証しよう。

 ルウドゥ氏(Raudot)によれば国家と地方自治体の政府の役人の総計は五六万八千三六五人である。この数字に軍隊は含まれていない。したがって数が四十万と五十万との間で変動する軍人に加えて国中に分散された総勢五六万八千三六五人の法の執行官(警官 agents)、管理者、調査官などがおり、政府は国費で彼等を雇いおそらく人々の素行を監視し不満分子の攻撃に備えていやもっと恐ろしいことには反逆思想を抱いた者の襲撃に備えて自衛するために彼等を利用している。

265 以上が中央集権化が我々に課す掟である。完全な無政府状態のほうが、我々の自由と利益を攻撃するために武装したこの百万の寄生虫どもよりも望ましいと諸君には思われないだろうか。

 そして話はそれだけでは終わらないのだ。大臣(the ministry)によって命令される五六万八千三六五人の国家の役人がいる一方で、君主制のか民主主義のかの別はあまり重要ではないが反対勢力の側にもこの二倍、三倍、四倍の人たちで構成される大群がいるのだ。そしてそれらの人たちは仕事もなく自らの地位に不満を抱き政府の境遇を欲しがりそれを手に入れるために地域の指導者の指揮の下で各県(departments)の政府のボスを倒そうと躍起になっている。したがって一方では役人集団と産業との間の闘いがありもう一方では大臣(the ministry)とその反対勢力との間の闘いがある。諸君はこのような秩序をどうお考えか。

 このような隅取り鬼ごっこ(this game of puss-in-the-corner)をしながら九三年以来我々の不幸な国は生きながらえてきた。そしてその結末はまだ見えない。全ての人々にすでに知られていることを語ってもよいとするならば共和国の団結(Republican Solidarity)という組織がある。この組織は革命を主張し広め防衛するために創設されたものであるが、同時に政府を転覆させることを目標とするのではなく全部の職員を完備しておき緊急の要請があれば年老いた役人に代わって業務を頓挫させることなく職務を継続する目的で創設されたものである。そんなふうに今日の革命家たちは自らの任務を理解している。ルイ・ボナパルトの政府がこの共和国の団結を解消したことは革命にとっては何とよかったことか!

 国家宗教が良心の強姦であるように国家管理は自由の去勢である。これらは抑圧と不寛容という同じ狂気によって作られた致命的な装置である。そしてその有害な結末がその本質を示す。国家宗教は宗教裁判を生み出し国家管理は警察を生み出した。

 僧侶階級は初めのうちは中国の官吏のようにただ科学的で文学に通じた階級だったが、一方で科学は間違いに不寛容であるために当然理性を教え込もうと望むものだから、彼らが次第に宗教的支配をしようという考えを抱き始めたかもしれないことは容易に理解できることである。僧侶階級は経験主義的で進歩的という特徴がある科学を教える限りこの特権を享受していたが、進歩と経験に反する立場に身を置くようになるとその特権を失ってしまった。

266 我々はあらゆる政府の歴史を通じて次のような国家にまつわる事実を知らなかった。つまり国家の唯一の科学は武力であり、その唯一の理論は礼儀作法とおべっか使いどもと同様に一斉射撃隊と大隊であるということ。また国家は国民を永久に子ども扱いして、国民の犠牲の上にまた国民の意志に反してまた国民の望みと必要とするものとの不一致を口実に国民の財産を管理し、国家の利益にかなうように何が適切かを判断し、国民に移動や自由や生活の行使能力を惜しみながら少しずつ与えようとすること。しかしそういうことは実に考えられないことであり地獄の策謀を示すものである。(そして最後に)もし権力がいつも人々を支配してきたとするならばその理由はあらゆる時代を通じて秩序の法則に無知な人々が権力の共犯者であったためであるということ、これらのことを我々はあらゆる政府の歴史を通じて知らなかった。

 もし私が、自由を愛し自尊心を持つ人々に話しかけているとすればそして彼等に反乱を起こすように鼓舞したいと思うならば、私は私の発言を行政官(prefect)の権力を復唱することだけに絞って話したい。

 その権力の立案者によれば

 「行政官は中央権力の代理人である。行政官はまた政府と県(Department)とを仲介する働きを持つ。また彼は管理的行動を手に入れる。彼は自らの行為によって直接公衆業務を提供する。」

 「中央権力の代理人として行政官は国家や県の財産に関わる行動を行う。そして警察の機能を果たす。」 

 「政府と県との仲介役として彼は大臣たちから彼に送りつけられる法律を公表しそれを実行し徴税吏(taxrolls)に行政権力を付与する。そしてその逆に彼は中央政府に要求や情報などを転送する。」

267 「管理的行為を確保・提供する者として彼は自らが担当する人たちや部下たちに対して様々な機能を果たす。それは以下の通りである。教育、指示、入会手続(initiation)、検閲、監督、改善、矯正、処罰などである。」

 「公衆業務に必要なものを提供する人として行政官は、時には後見人として時には軍事司令官として時には司法上の裁判権を持つ者として行動する。」

 行政官は県や国の業務を担当する。つまり司法警察、仲介警察(intermediary police)、全権のある警察などの警察官や教師、長官、入会の担当者(initiator)、検閲官(inspector)、監督、査定官、管理者、検閲官(censor)、改善者、矯正官(redresser, corrector)、後見人、司令官、監督者(superintendent)、造営官(aedile)*、判事などの業務を担当する ―― それらが行政官であり政府である。そして諸君は次のように私に語るのだ。つまりこのような規則に従う国民、このように手綱をつけられ首当てと馬勒をあてがわれ鞭(rod, whip)を当てられる国民が自由な国民であると!そういう国民が自由を理解しており、そういう国民が自由を味わい自由を享受できると!いやはやそんな国民は奴隷以下である。そんな国民は軍馬にすぎない。そういう国民を解放する前に彼の知性を再構築することによって人間としての威厳にまで高めねばならない。彼は諸君にその信念の素朴さでもって次のように言うだろう。鞍と馬勒がなくなれば私はどうなるのだろうか。私は今までこれ以外の生活のあり方や他の状態を経験したことがない。私の考えを一切きれいに空にして私の愛情を満足させ私の興味のバランスを取るならば、私は主人を必要としないだろうし御者なしにやっていけるだろうと。

*(古代ローマの)公共施設の管理、厚生、治安などをつかさどった官吏(研究社新英和大辞典)

 こうして社会はその告白によって堂々巡りをする。社会はこの政府を指導的原理として持ち上げるのだがそれが社会の存在理由の補完品に過ぎないことを社会は認める。良心の導きと本能の圧制との間で人間は神秘の支配者である僧侶に自らを捧げてしまったように、また自己の自由と隣人の自由との間で人間は判事をその調停人にしたように、自己の利益と公衆の利益との間で――この関係は理性と本能との間のように和解しがたいものと人間には思われたのだが――人間は君主というもう一人の調停者を捜し求めた。人間はこうして自らの道徳的性格と司法上の威厳を脱ぎ捨て人間の主体的権利を捨て去ってしまった。そしてこのように自らの能力を失ったことによって人間はペテン師や専制君主の憐れな奴隷となったのだ。

268 しかしまさにイエス・キリスト、イザヤ、ダビデ、モーゼなど以来、正義を行う人は生贄や僧侶を必要としないということが認められるようになったのである。そして裁かれる人よりも優れた裁く人を措定することは原則的に矛盾であり社会契約違反であるということを我々はつい今しがた証明したばかりである。我々の社会的・市民的義務を成し遂げるために国家による高尚な介入を無しで済ますことの方が難しいことだろうか。

 我々は産業システムが社会的清算、無利子の通貨と信用、経済的諸力の組織化、価値と財産の構成などから生じる利害の調和であることをこれまでに示してきた。

 そのことが成し遂げられた暁には政府はもうどんな役に立つだろうか。また懲罰や司法権力ももうどんな役に立つだろうか。契約が全ての問題を解決する。生産者は消費者と取引する。構成員はその社会と取引する。農夫は町と取引する。町は州と取引する。州は国と取引する等々である。その時依然として同じ価値が流通し変形しバランスを取りそれが無限に反映される。そしてまた中心がそれを引っ張る辺縁に向かうように同じ考えが魂のおのおの能力から発散する。

 信者と僧侶とを平等に扱うこと原告と判事とを同等に扱うことなどと同様に市民と国家とを同等に扱うための秘訣は、労働者と雇用者との間のまた農夫と地主との間の資本家的利益を廃止することによってもたらされる経済的平等――それは先ほどから我々が構築したことであるが――にある。義務の双務性によってこの古代奴隷制の最後の残滓を廃止せよ。そうすれば市民も地域社会も共に次のような諸事業をなす際に国家による介入を必要としなくなるだろう。つまり市民や市民社会がその業務を継続し財産を管理し港や橋、波止場、運河、道路などを建設し市場を開設し訴訟を処理し代理人を教育し彼等に指示し彼等を統制し彼等を検閲しまた監督や警察の業務を成し遂げるなどの諸事業である。またこのようなことは次のようなことをする際にも国家による援助を必要としないことと同様である。つまり神を礼拝する際や、また(犯罪の)動機がないということは犯罪をやめることにはつながらないと想定して犯罪者を裁判し、傷害(刑罰)を加えることを市民や地域社会の能力の及ばないこととする際にである。

269 もう終わりにしよう。中央集権政府は、王国の第一の男爵と呼ばれた国王がその神聖な権利のおかげで全ての正義、全ての実行する権力、全ての財産などの源であるとされた時の古い君主政治の下で理解されうるものだ。しかし国民議会の宣言がなされ、さらに明白で積極的な拡充が国民公会(Convention)によってなされてからは、次のようなことは全てフランス革命の真の精神とその最も保証された意図を裏切ることであり進歩を否定することである。すなわち地域社会つまり自らの関心事の及ぶ各地域には自らを支配し管理し裁判を行い統治する権利がないと言い張ること。また共和国は一つであり分割できないという口実の下に人々からその武力の配備を取り上げること。また暴動によって専制政治を倒した後に空論に依拠してその専制政治を再構築すること。また自由と地方の主権に好意的に話す全ての人々を連邦主義者(Federalists)として扱い公権剥奪の対象とすることなどである。

 私はこれまでにも述べたしまたあまり頻繁に繰り返すことはできないが、ロベスピエールやジャコバン派によって九三年に広まった中央集権のシステムは形を変えた封建制にすぎなかったということ、そしてそれは代数学を専制政治に応用することであった。ナポレオンはそれに最後の筆を加えたのだが、彼はその証拠を体現している。

 ルドリュ・ロラン氏(Ledru Rollin)に次のことをよく考えてもらおう。ルイ・ブラン氏(Louis Blanc)が言うところの「ジロンド主義」に反対するルイ・ブラン氏の抗議が政府的統治の反動の最初の動きであったとすれば、直接政府に好意的なルドリュ・ロラン氏の最近の声明はジャコバンの伝統を乗り越え真の革命的伝統に復帰するための最初の一歩である。九三年の憲法はジロンド派とダントン派とを反映している。代議員制度はジャコバン派とロベスピエールとを反映している。しかしロベスピエールとジャコバン派は信用を失っている。これまでの六十年の経験が彼等の共和国の結束と不可分性がどのような値打ちのものであったかを我々に教えてくれた。

270 九三年の憲法について言えばたとえそれが実際思考の新たな秩序に向かった運動であったかもしれないが、今日では我々の模範となるものではない。とはいってもその言葉遣いや傾向は思い起こすだけの価値はあるかもしれないが。革命的精神はそのときから前進してきた。我々は実際この憲法と調和している。とはいえ我々はもうそれから六十年にもなるのだが。

 

 

5 公教育、公共事業、農業、通商、財政

 

270 次のような質問を人々にしたとするとその返事を前もって確信することができる。

問:教育は自由で強制的でなければならないか。答:そのとおり。

問:誰が教育を提供すべきか。答:国家である。

問:その費用は誰が負担すべきか。答:国家である。

問:公教育担当の大臣がいた方がよいか。答:その通り。

ご承知のように人々に法律を制定させることほど簡単なことはない。万事が質問の仕方にかかっているのだ。それはソフィストを論駁するソクラテスの方法である。

問:公共事業の大臣もいた方がよいか。答:もちろんだとも。なぜならば公共事業が行われるだろうからだ。

問:それでは農業大臣や通商大臣もいた方がよいか。答:その通りだ。

問:財務大臣は。答:もちろんだ。

なんと驚くべきことだ!人々は年長者たちの間に挟まれた幼少のイエス・キリストのような口ぶりで話す。どんなに諸君が人々をあまり好きではなくても、私は人々に十分の一税や初夜権やダゴベール(Dagobert)*の王国が欲しいと言わせようとしている。

*ダゴベルト一世(Dagobert I, 六〇三年 六三九年一月十九日)はメロヴィング朝の四代目の国王。クロタール二世の長男。領土(Neustria)相続問題で伯父(Brodulf)を暗殺した。(ウィキペディア フリー百科事典 ダゴベルト1世 最終更新 二〇一三年四月一日 () 一一:〇二)

On the death of his father in 629, Dagobert inherited the Neustrian and Burgundian kingdoms. His half-brother Charibert, son of Sichilde, claimed Neustria but Dagobert opposed him. Brodulf, the brother of Sichilde, petitioned Dagobert on behalf of his young nephew, but Dagobert assassinated him and gave his younger sibling Aquitaine.  (From Wikipedia, the free encyclopedia  Dagobert I  This page was last modified on 17 October 2013 at 08:11.)

 国家の存在を認める口実として役に立つ弁解をもう一度吟味してみよう。

 国民は人数が多いから教育、適切な行儀作法、自らを防衛することなど自分自身の諸事を処理できないと思われている。そしてその事情は偉大な国王に似ているとも思われている。つまり国王は自らの運命を知らないし、知的判断においてもあまり正しくない。それにもかかわらず彼は彼の財産の管理費、国内経済関連の諸経費それに自分自身や代理人、従者たち、監督などもろもろの人たちの生活費などを支払っている。そしてその人たちとは例えば彼の収入を管理し出費を規制する人たちやまた彼の名の下で供給側の商人や銀行家などに対応する人たちやまた彼の身辺の安全を警護する人たち等々である。

271 このようにして主権者の出費のための予算は二つの部分からなっている。一つは彼の生活費や彼の娯楽や贅沢品などが構成される実際の業務や現実の物品である。二つ目は彼のために働く人たち例えば召使や側近や委任権を持って代行する人や衛兵らに対する報酬である。

 この二番目の予算が最大である。それらは次のものによって構成されている。

 第一に国民が経常勘定(current account)を預けている銀行家に支払われる利子である。今日その額は減債基金(sinking fund)*を含めて六千九百二十万ドルに及びそれは国民の負債となっている。

*債権を償還するための基金

 第二は重要な役職を持つ公務員や、主権者を直接代表する者たちや、支所の長官などの俸給でありその額は百八十万ドルになる。

 第三は様々な身分・位階の従業員、事務員、助手、使用人らの俸給である。様々な従者たち(ministers)のために認められる一億六千百万ドルのうち少なくとも四分の三がこのような出費に当てられている。

 第四は間接税や査定、国庫歳入の集金などにかかる経費でありこれが二千九百八十万ドルになる。

 第五は三十五年間の奉職後に年老いた使用人に公費から支払われる年金でありこれは総額九百万ドルになる。

 第六は最後になるが不測の事態に備える経費や未収益金や名目の受領高(nominal receipts)や損益会計に計上される全てのお金などでありこれらが一千六百万ドルになる。

 このようにして政府統治システムは国民の毎年の出費が構成される実際の業務や現実の物品に必要な高々四千万ドルから六千万ドルに対して、二億八千六百八十万ドルを国民に支払わせている。つまり二億ドルから二億四千万ドルを儲けていることになり、この儲けを国民の奉仕者たちは彼等の任官によって得ている。そしてこれらの奉仕者たちは永遠にこの莫大な餌食を確保するために、またいかなる改革や解放の考えも主人の耳に届かないようにするために、主人に自分が永遠に少数者であることを宣言させ、国民的・政治的権利を実施することが不可能であることを明言させてきたのである。

272 この制度の最悪な点は主人の滅亡が不可避的であることではなく、むしろ彼の召使どもが彼に対して抱く憎しみと軽蔑である。つまり彼の召使どもは彼を直接には知らず任官や命令を受ける直属のボスである監督しか知らないのであり、そして常に主権者である国民の意に反してこのボスの味方をするのである。このシステムをその前線で攻撃したとき我々は次のように言った。

 国民は集団的実体であると。

 はるか昔から人々を搾取してきた者どもは今日でも国民を隷属状態におき国民本来のこの集団性の上に胡坐をかいて、そのことから国民の無能力を合法的に導き出し彼等の個人的支配が必要であることの根拠にしてきた。それに反して我々は国民の集団性から、国民が完全にまた完璧に能力があることまた国民は何でもできることそして国民に制限を加える人など必要としないことなどの証拠を導き出す。唯一の問題はどうやって国民の能力を全開させるかである。

 だから公衆の債務について話したとき我々は国民が多様であるからこそ非常にうまくその信用を組織することができ、金貸しと関わりになる必要がないということを示した。そして我々は借金をなくした。資本家と国民との間でもう借金は必要でなく、元帳勘定(ledger account)も仲介者たちも国家も必要ないのである。

 教会の礼拝式も同様に処分された。いったい僧侶とは何者かと我々は尋ねた。人々と神との間の仲介者である。神自身いったい何者か。これもまた人間生来の本能と人間理性との間の想像上の超自然的な仲介者である。人間は創造者への敬意によって強制されないで自らの理性が指し示すものを行うことができないのか。そのようなことは矛盾であろう。いずれにしても信仰は自由で任意のものであるし各人は自ら自身の宗教を作り出すのだから、礼拝は心の中の法廷となり良心に関わることがらとなり物質的効用のためのものではなくなる。こうして喜捨行為は抑制された。

273 司法制度もなくなった。正義とは何か。それは互いに対する保証である。それは二百年間我々が社会契約と呼んできたものである。この契約に署名した誰もが判事の資格を得ることができる。全ての人々のために正義を。権威は誰にとっても不要である。手続に関して言えば最短が最善である。法廷や司法権をもうやめにしよう。

 最後に警察を伴った管理がある。われわれの決定は速やかになされた。国民は多様であり利害の一致が集団性を構成するのだから中央集権化はこの利害の一致に基づいて生じるのである。中央集権を担当する人は必要ないのである。各家庭、各工場、各組合、各自治体、各地方にそれ自身の治安に注意を向けさせそれ自身の事柄を注意深く管理させよ。そうすれば国民の治安は維持され国民の管理も行われるだろう。どうして我々は見張られ支配され毎年決まって二千五百万ドルも支払う必要があろうか。行政官(prefect)も委任された長官(commissioners)も警察官も止めてしまおう。

 次の問題は学校である。この件では抑圧という考えはなくただ政治的組織を経済的組織に変えるという考えしかない。もし我々が現在用いられている教育方法を継続するならばいったい国家による介入の必要はあるのだろうか。

 地域社会は教師を必要とする。地域社会は好きなように教師を選任する。教師は若くても年老いていてもよい。既婚者でも単身者でもよい。師範学校の卒業生でも自学自習した者でもよい。学位を持っていても持っていなくてもよい。唯一の必須の要件は父親たちの望みにかなう人であることであり、また父親たちが子供たちを彼等教師に預けるかどうかは自由でなければならないということだ。この点では他の事柄でも同様だが教師と父親との交渉が自由な契約であり競争にゆだねられるということが不可欠である。そのようなことは不平等、えこひいき、大学の独占などのシステムの下では考えられないことであるし、また教会と国家が結託しているようなシステムの下でも考えられないことである。

274 いわゆる高等教育に関して私は先の場合と同様にどうして国家による保護が必要であるのか分からない。高等教育は自発的な結果であり初等・中等教育の当然の関心事ではなかろうか。どうして初等・中等教育が各地域・各州で集権化されてはいけないのだろうか。そして初等・中等教育に振り向けられるはずの資金の一部が、必要であると思われまたその教師陣が初等・中等学校の教師陣から選ばれることになる高等教育機関を支援するために振り向けられてはならないことがあろうか。あらゆる軍人がその背嚢の中に司令官の官杖(かんじょう)を持っていると言われている。もし実際そうでないのならそうすべきである。どうしてあらゆる教員がその学位に大学教授の肩書きを持っていてはいけないことがあろうか。労働組合で行われていることの例に倣って教員も学術評議会(Academic Council)に対して責任があるのだからこの学術評議会の構成員がどうして教師たちによって任命されてはいけないことがあろうか。

 しかしここで底辺の事情についての話題に変えよう。教育は徒弟制度と切り離すことができないということまた科学教育は職業教育と切り離せないということなどの決定的な理由から、公教育における政府による中央集権化は産業システムにおいてはありえないことである。したがって教師や教授は彼ら自身が工場の親方でない場合は、何はさておき彼等自身が彼等を雇う農業集団や工業集団の組合の一員である。子供が両親の愛の証でありかつ担保(pignus, ローマ法)でもあるように、学校も産業組合と家庭とを結びつける絆となる。学校が作業場から切り離されること、また学校を完全なものにしてほしいという請願を口実にして学校を外部の権力に従属させることなどは不適切なことである。

 今日行われているように教育を徒弟制度から切り離すこと、またさらに異論の多いことであるが職業教育と現実の重要な日々の有用な職業実践とを区別することなどは、別の形での能力の分割や階級の分断を再生産することつまり政府による圧制と労働者の隷従のための二つの最も強力な手段である。

275 次のことを労働者階級に考えてもらおう。

 もし鉱山学校が鉱山産業にふさわしい研究を伴った鉱山の実務以外のものであるならば、そういう学校はその目的として鉱夫を養成するのではなく鉱夫長つまり貴族を養成しなければならないだろう。

 もし技芸学校や手工業学校が技芸や手工業を教えるのではないとするならば、その学校の目的は職人を養成することではなく職人たちの管理者つまり貴族を養成することに早変わりするだろう。

 商業学校が全く商店や会計事務所ではないとするならば、その学校は商人を養成するためではなく産業のボスつまり貴族を養成するために使われるようになるだろう。

 海軍学校が船室でのボーイの業務も含めて船上での実務以外のことを教えるとすれば、その学校は海軍軍人と将校という二つの階級を養成するための手段にしか役立たないだろう。

 このように我々は政治的抑圧と産業上の混沌という現在の我々のシステムの下で物事が進行するさまを見て取ることができる。我々の学校がもし閑職連中の贅沢や弁解のための組織でないとするならばそれは貴族のための学校である。ポリテクニク*や師範学校、サン・シール (St. Cyr)の陸軍士官学校、法学校(School of Law)などが創設されたのは人々のためではなかったのだ。それは階級間の差別を支持し強化し補強するためであったし、また労働者階級と上流階級との区分を完成し取り返しのつかないものにするためだったのだ。

Polytechnic, lÉcole polytechnique 理工科学校 一七九四年創立(三省堂クラウン仏和辞典第五版)

 各人が普通教育も高等教育も自らの家庭の管理下で受けられるような真の民主主義社会においては学校教育によるこのような選別性は存在しないだろう。そのような選別性は社会の原理に反している。しかし教育が徒弟制度と融合するとき、そして教育の本質が理論的にはもろもろの考え方の類別化にありまた実際的には労働の専門化にあるとき、そしてまた教育が精神の訓練となると同時に作業所や家庭で現実に起こる事柄への応用となるとき、教育が国家に依存することはもはやありえない。教育は政治的統治とは矛盾するのだ。今日共和国の中に科学アカデミー*と経度事務所*とがあるように中央教育事務所と手工業や技芸の中央事務所とを設立したいというのならそうしなさい。私には何も異議はありません。しかし再度問いたいのだが権威とはいったい何のために必要なのか。労働者と雇用主との間に中間的な組織が介在するのが認められないときどうして学生と教室との間にまた作業所と徒弟との間にそのような中間的組織が必要なのだろうか。

*科学アカデミー(Académie des sciences)はフランス国立の学術団体でフランス学士院を構成する団体の一つ。フランス国内の科学研究を活性化させ保護するべきであるという財務相ジャン=バティスト・コルベールの助言を受けたルイ十四世によって一六六六年に創立された。(ウィキペディア フリー百科事典 科学アカデミー (フランス) 最終更新 二〇一三年三月一九日 () 〇七:〇〇 (日時は個人設定で未設定ならばUTC))

The Bureau des Longitudes is a French scientific institution, founded by decree of 25 June 1795 and charged with the improvement of nautical navigation, standardisation of time-keeping, geodesy and astronomical observation. (From Wikipedia, the free encyclopedia  Bureau des Longitudes  This page was last modified on 20 February 2014 at 21:19.)

経度事務所はフランスの科学団体。一七九五年六月二十五日の布告によって創設された。航海術の改善、標準時管理、測地学や天文観察を担当した。

276 公共事業事務所、農業・通商事務所、財政事務所の三事務所は全て経済機構の中から消滅するであろう。

 最初の公共事業事務所は二つの理由で存在し得ない。第一の理由はそのような事業を管理することは地方自治体やその司法権の及ぶ地区(districts)に属することだろうからだ。第二の理由はそのような事業の実施を管理することは労働組合に属することだろうからだ。

 民主主義がごまかしでない限りまた国民主権が冗談でない限り次のようなことが認められねばならない。つまり自らが属する産業界の中のそれぞれの市民やそれぞれの領域内の各自治体評議会、各地区評議会、各州議会などは唯一の当然で合法的な主権の代表者であること、したがってまた各地方はそれが抱えている利害を運営・管理する際に直接また自分たちだけで行動すべきでありまたその利害に関して十分な主権を発揮すべきであるということなどである。国民とは一人ひとりが自由であり自発的に協同できまたそうすべきでありそして決してそういう権利を何一つ放棄しない個々の意志の有機的な結合にすぎない。そのような結合は彼等の利害の調和の中に求められるべきであり人為的な中央集権化の中に求められるべきものではない。なぜならばそのような中央集権化は集団の意志を表明するどころか単に個々の意志の反目を表明するに過ぎないからである。

 地方に属する公共事業を手配する際の地方の直接的で主権を伴った主体性は民主主義の原則と自由契約の結果である。地方の国家への従属は九三年のでっち上げであり封建制への逆戻りであった。これはロベスピエールとジャコバン派に特有な仕業であり民衆の自由に対するきわめて致命的な攻撃である。その報いは今日よく知られている。中央集権化した権力がなかったならばパリからヴェルサイユへ向かう二つの道路のばかばかしい競争はなかっただろう。中央集権化した権力がなかったならばパリとリヨンそれぞれ別個の要塞化も行われなかっただろう。中央集権化した権力がなかったならば鉄道という急進的なシステムが優先して採用されることはなかっただろう。いつも最も重要なものを自らに引き寄せないではいられない中央集権化した権力がなければ、そういう最も重要なものを子分やゴマすりどもの利益のために利用・活用するために、公的財産が譲渡され公共事業が独占され税金が無駄に使われ浪費に対して報酬が与えられ国民の運命が立法者や大臣によってむやみに犠牲にされるようなことなどを毎日目の当たりにすることもないだろう。

277 国家の優越は公共事業において民主的原則に反するように、それは革命によってもたらされた労働者の権利とも矛盾すると私は言い添えたい。

 今まですでに特に国立銀行の創設と労働組合の設立に関連して紹介する機会があったが、経済秩序において労働は才能と資本とを二つとも自らに従属させた。このことは次のような理由からなおさら言えることである。つまりあるときは同時的に行われまたあるときは単独で行われる労働の分割や集団力を必要とする作業においては、封建制への逆行を覚悟の上ですべての構成員労働者が対等な条件で民主的社会へ自らを組織化する必要が生じるからである。このような組織化を必要とする産業として我々はすでに鉄道の例を挙げたことがある。これにさらに追加すれば道路、橋梁、港湾などの建設や維持、造林、清掃、排水などの作業、一言で言えば我々が国家の領域に入るものと看做す習慣がある全ての作業を加えることができる。

 したがってもし建物、水域、森林、鉱山などのための組合に緊密にあるいは距離をおいて関与する労働者を単なる傭兵のように金銭づくで働く人と看做すことができなくなるとすれば、またもし我々がこの低級な群衆を主権を有する組合だと看做さざるを得ないとするならば、どうして我々は大臣の県知事に対する、県知事の技術者に対する、技術者の一般労働者に対する階層的関係を維持できるだろうか。つまりどうやって国家の優越を維持できるだろうか。

278 労働者たちは彼等に与えられた政治的権利を活用することによって大いに意気が上がりその権利を十分に行使したいと思うだろう。労働者たちは仲間と知り合いになることによってまず指導者や技術者、建築士、会計士などを選出し、次には交渉能力を持つ団体として公共事業の執行を担当する市や地方の権威者と直接に交渉するだろう。労働者たちは国家に服従するどころか彼等自身が国家になるだろう。つまり彼等の産業の専門分野に関わる全てのことにおいて彼等は直接的で自発的な主権者の代表になるだろう。彼等に経営陣を設立させ信用取引を始めさせ誓約させよ。そうすれば地方は彼等の中に国家より優れた保証を見出すだろう。なぜならば彼等は少なくとも彼等自身の行動に対して責任を負うだろうが、それに対して国家は何事にも責任を負わないからである。

 農業・通商省についてお話しましょうか。この省のための予算は総額五百五十万ドルに達しそれは助成金、賞与、手当、報奨金、賄賂(remittances)、秘密基金、監督、中央業務などに浪費されている。言い換えればこれは情実、腐敗、閑職、寄生、強盗を意味する。

 こうして農業教育や農業に関する様々な援助に対して六十四万ドルが当てられている。私は尊敬すべき教授陣に敬意を表するけれども百姓にとって六十四万ドルのグアノ*の鳥糞石の方が教授の授業よりも役に立つだろうといって間違いない。

*グアノ(guano): 海鳥類、コウモリ類、アザラシ類の糞の堆積物で、上質の有機肥料となる。(ブリタニカ国際大百科事典)

 獣医学校や養馬場に対して六十八万五千ドルが当てられている。この予算額にも関わらずフランスの馬の体力は継続的に悪化しており馬が不足している。我々は騎手クラブを自由にしてやり畜産家には干渉しなくてもよい。

 セーブル(陶器の産地)、ゴブリン(織物の産地)、ボーヴェ(タペストリーの産地)などの製造業や、工芸学校*や技芸・手工業諸学校などを含めた通商や製造業に対する助成金は七十五万九千六百十五ドルである。これらの製造業は何を製造しているのか。何も製造していない。傑作すら製造していない。わが国の学校は産業にどんな進歩をもたらすのだろうか。何ももたらさない。わが国の学校は国際経済の真の原則すら教えていない。通商に対するこれらの奨励金はどういう目的に役立っているのか。明らかに何も役に立っていない。銀行の有価証券明細票は毎日空になっていく。

Conservatory, Conservatoire des arts et métiers 年表参照

279 海洋漁業に対しては八十万ドルが予算化されておりそれは船員に対する奨励金である。さらに八十万ドルがこの同じ漁業に課される免許のために予算化されている。ということは我々は魚を食べるために百六十万ドルを余計に払っていることになる。そしてこの措置がなければ我々フランス人は外国の漁船団との競争に太刀打ちできないということになる!漁船所有者を苦しめているあらゆる種類の税金や経費のための百六十万ドルをやめたほうが簡単ではなかろうか。つまり税金や経費に関する限り省の施策をやめたほうが簡単ではなかろうか。

 この省の最も奇怪な条文は労働組合を扱った条文である。私は冗談を言っているのではない。一八四八年以来政府は社会主義に対する免許代を払うようになった。つまり組合の監督のために一万五千四百ドルを支出している。

 そういうことはやめにして政府に労働組合に対してその分をあげさせよう。彼等は喜んで受け取るだろうし政府はその分だけトラブルを抱えることが少なくなるだろう。

 最後にこのような全ての寄生行為いわゆる中央管理を維持し指揮し監督しその経費を支出するために十四万二千六百三十ドルを予算化している。その総額を二倍にせよ。農業と通商のための予算を二倍にせよ。そして国家に農業や通商、工業、馬の飼育、漁業などに介入するのを控えさせよ。そしてその総額を労働組合に引き渡させよ。そうすれば労働組合は科学者や技芸家の指示の下にそのお金を何か価値あるものに変えるだろうし、国家は何もしないことによって出費せずに儲かり初めて秩序回復に貢献できるだろう。

 財務省に関してはその機能が全く他の各省の範囲内に限定されていることは明らかだ。つまり財政は秣(まぐさ)台がロバに対するように国家に対するものである。政治的機構の働きを制約せよ。そうすれば唯一の目的が食料を調達し分配することである運営機能が残されることになるだろう。そして地方や自治体は公共事業の管理を再開し自らの出費を策定するとともにその支払いもすることができるようになる。そして(国家による)財政的介入は消滅する。我々は高々統計のための一般事務所として会計局(Chamber of Accounts)を存続させるだけになるかもしれない。

 

 

6 外交関係、戦争、海軍

 

280 「ある一つのことで有罪である者は全てにおいて有罪である」と福音書は言う。もし革命が政府のどんな一部分でも残存することを許すならば政府はその全体をすぐにでも回復させるだろう。しかし外交問題を扱う際どうやって政府なしで済ますことができるのだろうか。

 国家は自らと同じような他の集団に持続的に対処する集団であるから、国際関係のために何らかの機関、何らかの代表つまり政府を設置しなければならない。それでは少なくともこの点に関して革命は自らの原則を裏切り「例外が規則を証明する」という馬鹿馬鹿しい口実を引用することによってその過失を正当化しようとするのではないのか。そういうことは嘆かわしいことであり、さらに許せないことでさえある。もし政府が外交にとって必要不可欠ならば戦争や海軍にとっても必要不可欠であることになり、また全てのものは力と社会で成り立っているのだから、我々は警察その次には行政その次には司法などにおいて統治的傾向が復活するのをすぐにも認めることになるはずだ。そうなったら革命はいったいどこに存在するのだろうか。

 外交政策に関してこのように躓いていることが、いかに我々の中での革命概念が弱いかを最もよく示している。このことは旧来の専制政治の伝統に対する偏見を伴った忠誠と、国家間の力のバランスを維持することに不断に余念のないヨーロッパ民主主義の反革命への危険な傾向とを示している。

 この件や他の件についても我々の考え方を再構築し我々を慣習から解き放とうとしようではないか。

 国内で革命が成し遂げられた後で、国外での革命も成し遂げられるのだろうか。

 このことについて疑念を持つ人がいるだろうか。もし革命が伝染しないのならば革命は空しいものになるだろう。もし革命が世界中に広まらないのならば革命はフランスでさえ消滅してしまうだろう。最も熱狂的でない精神の持ち主は、革命的国家フランスが武力でもって他国に介入する必要があるとは思わない。フランスがその模範と勇気づけによってフランスの例に倣おうとする外国の人々のどんな努力をも支援することで十分であろう。

281 それではフランス国内だけでなく外国でも完成された革命とはどんなものなのだろうか。

 資本主義的搾取や私的所有制による搾取はあらゆるところで廃止され、賃金制度は廃止され、平等で正当な交換が保証され、価値体系が構築され、安価が保証され、保護貿易の原則が変更され、世界市場が全世界の生産者たちに開放され、その結果障壁は取り除かれ、諸国家の古臭い法律は通商の取り決めに取って代わられ、警察、司法、行政などあらゆるところが労働者たちの手に任され、経済的組織が大都市と同様に植民地においても政府や軍事システムに取って代わり、そしてついにただ契約の法則の下だけでの自由で普遍的な諸民族の交流が生じるだろう。それが革命である。

 このような状況においてつまり農業、財政、産業などに関する全ての利害が同等で相互に絡まりあっているような状況において、また国内ならびに外国においても政府機関が何もすることがないような状況において、諸国家が個別の政治的集団を形成し続けることは可能なのだろうか。また諸国家の生産者と消費者とが混交するとき諸国家が分離されたままでいることが可能なのだろうか。そしてまた諸国家は何の対象も無いのに様々な要求を解決し、優先権を決定し、相違点を調整し、互いに保証し合い、条約を締結するなどのために依然として外交を維持することが可能なのだろうか。

 このような質問をすることはこのような質問に答えることでもある。何も例証を示す必要はない。必要なことはただ国家の観点からのいくつかの説明だけである。

 原則を思い出そう。我々がすでに語ったように政府組織の存在根拠は経済的混沌である。革命がこの混沌を規制し産業諸力を組織化したとき政治的中央集権化の口実はもはや存在しない。その政治的中央集権化は、産業の結束つまり一般的理性に基づいた結束、そしてパスカルが宇宙について語ったような「中心がいたるところに在り辺縁がどこにも存在しない」という表現が当てはまるような結束の中に吸収される。

282 政府という組織が廃止されそれが経済的機構によって取って代わられるとき世界革命の問題は解決される。ナポレオンの夢は実現されセント・ピーター聖堂の司祭の怪物*が必然となる。

The grave claimed by the Church to be that of St. Peter lies at the foot of the aedicula beneath the floor. (From Wikipedia, the free encyclopedia Saint Peter's tomb  This page was last modified on 12 July 2014 at 22:18.) 

「セント・ピーターのものだと教会が主張する墓は床下の小神殿の下部にある」との記述に関係があるのか。

 人々の間に秩序を構築するというそぶりをしつつ直ちに人々を敵対的な陣営に分断するものこそ政府そのものである。そして政府の唯一の仕事は国内では隷属関係を生じさせることにあるように、海外での政府の特技は実際の戦争であれ起こりそうな戦争であれ戦争を続けることにある。

 国民の抑圧と民族相互の憎しみとは二つの相関し合い区分しがたく密接に結びついた事実であり、これらは互いに他を再生産しまた政府という共通の原因を廃止することによってこれらを同時に廃止しなければ廃止できるものではない。

 だから諸国家が王、護民官、独裁者などの支配下に置かれている限り、また諸国家がそれらを律する法律が生じてくる諸国家間に創設された目に見える権威に従う限り、諸国家は不可避的に戦争状態を続けるのである。神聖同盟(Holy Alliance, 1815)、民主会議(Democratic Congress)、隣保同盟(Amphictyonic Council)、中央ヨーロッパ委員会(Central European Committee)などのどれもが問題解決に役立たない。 このように構築された大規模な人類の集合体は融合することができずまた正義を認めることもできないから、必然的に利害関心において対立している。諸国家はそのような枠組みの中では、戦争やあるいはそれよりも幾分致命的でない外交によって必然的に争ったり戦ったりしなければならない。

 国家によって喚起されるナショナリズムは経済的結束に対して克服しがたい抵抗を突きつける。このことはなぜ君主制が決して普遍的になれなかったかを説明する。普遍的君主制は数学で四角を円にするとか永遠の運動とかのように政治の世界での矛盾である。国民の経済的諸力が未組織状態にある限り、また国家権力のナショナリズムがその原則の妥当性に関して幻想をもたらし政府がその国民だけのものである限り、国民は政府に我慢することができる。政府は君主制、貴族制、民主制という果てしない連続を通して持続する。しかし権力が外部からのものであると国民はその権力を侮辱と感じる。反乱はどの人の心の中にも芽生え、その権力は長続きしない。

283 いかなる君主制もローマ帝国の皇帝たちによる君主制でさえも今まで成し遂げることのできなかったことを、そして古代の信仰の典型であるキリスト教が今までもたらすことができなかったことを、普遍的な共和国が、経済革命が完成させるだろう。必ず完成させるだろう。

 そのことは実に他の科学と同様に経済学においても当てはまる。そのことは世界中で不可避的に同様である。そのことは人や国家の空想に依存しない。そのことはいかなるもののむら気にも屈しない。ハンガリーのドイツのアメリカの物理学や幾何学が存在しないのと同様に、ロシアのイギリスのオーストリアのタタールのヒンズーの経済学も存在しない。真実だけがどこでも同一である。科学は人類を結束させる。

 それでもし科学が、そしてもう宗教や権威がではないのだが、あらゆる国々で社会のルールとして採用され、利害関係の最高の仲裁者であった政府が存在しなくなれば、世界の全ての立法は調和するようになるだろう。言葉の政治的な意味での国籍や祖国はもはやなくなるだろう。それらの語は人の生まれた土地を表す意味しかもたなくなるだろう。人間はどういう人種であれ皮膚の色であれこの世界の住人である。市民権はあらゆるところで獲得される権利である。限られた領土の中で自治体が共和国を代表しその権威を行使するように、地球上の各民族は自然によって割り当てられた境界の内部で人類を代表し人類のために行動する。国家間で外交も評議会もなしに調和が行き渡る。これからはいかなるものもこの調和を撹乱させることはできない。

 革命計画を採用した国々の間での外交関係に参加するための目的とはどんなものがあるのだろうか。

もう政府がないこと

もう征服がないこと

もう税関がないこと

もう国際警察がないこと

もう通商上の特権がないこと

もう植民地を除外することがないこと

もう他民族によるある民族の支配がなく、他の国家によるある国家の支配もないこと

もう戦略的国境がないこと

もう要塞がないことなどだろうか。

284 ロシアはワルシャワでロシア国家を樹立しているようにコンスタンティノープルでも国家を樹立したがっている。つまりロシアはボスフォラスやコーカサス(黒海とカスピ海の間の地方)を自国の領土に編入したがっている。まず第一に革命はそのような事態を許さないだろう。はっきり確認しておくならば革命はポーランド、トルコそれに革命が革命化させることのできるロシア各州の全てを、革命がセント・ピータースブルグに達するまで革命化し始めるだろう。そのようなことが成し遂げられた後ではロシアのコンスタンティノープルやワルシャワでの関係はどうなるだろうか。その関係はロシアのベルリンやパリでの関係と同様のものになるだろう。つまり自由で平等な交換が可能な関係になるだろう。それではロシアそのものはどうなるのだろうか。ロシアはただ言語の独自性や職業の類似性や領土内の状況などだけによって結束した自由で独立した諸民族の集合体になるだろう。そのような状況下では征服は意味をなさない。もしコンスタンティノープルがいったんロシアが革命化された後でロシアに帰属することになれば、コンスタンティノープルはその主権を全く失わない場合以上でも以下でもないようにロシアに帰属することになるだろう。北(ロシア)から発せられる東欧問題は消滅する。

 イギリスはマルタやコルフ(ギリシャ北西岸沖の島)、ジブラルタルなどを確保しているように、エジプトも確保しておきたがっている。革命による解答を提示しよう。革命はイギリスにエジプトに対するいかなる企ても自粛するように通告する。さらに確認しておけば革命はイギリスに、イギリスが諸国民や海上の自由を脅威にさらす基地となっている島々と要塞を放棄するように勧める。革命がオーストラリアやインドを、これらの大陸との通商においてイギリスが閉じ込めている要塞と同様に、イギリスの独占的な所有物であるとして放置するだろうと想像することは、革命の本質とその内容の及ぶ範囲に対する全くもって奇妙な誤解であろう。イギリスによるアイルランドやポルトガルの搾取がヨーロッパ全体に対する侮辱であるのと同様に、そしてまたイギリスによるインドの所有と中国との通商が人類全体に対する侮辱であるのと同様に、ジャージー島やガーンジー島(両島ともイギリス海峡にある)にイギリス人が在住すること自体がフランスにとって侮辱である。アルビオン(Albion=Great Britain)は世界の他の国々と同様に革命化されねばならない。もしイギリスを革命化させる必要があるならばそのような試みを大して難しい課題だとは思わないだろう人々がここ(フランス)にいる。ロンドンで革命が成就しイギリスの特権が根絶され焼失し吹き飛ばされるならば、イギリスにとってのエジプトを所有していることの意味はどうなるのだろうか。それは我々フランス人にとってのアルジェリアを所有していることの意味と同様に意味をなさなくなるだろう。全世界が自由に出入りし交易し、農業や鉱工業資源の利用を調停できるようになりそして利益は全ての国々にとって同一のものになるだろう。地方の権力はその地方の警察のための費用に及ぶだけとなり、その費用は植民者と原住民とが支払うだろう。

285 フランスは地理上の版図を取り戻さなければならないと声高に主張する排外主義者たちがいまだに我々の中にいる。彼等は多くのことを要求しすぎるかあるいはあまりにもわずかなことしか要求しない。フランス文化は世界中のいたるところで見られる。つまりフランス語はいたるところで話され、フランス革命はお手本となり、フランスの計量法やお金と同様にフランスの風習や芸術・文学などは採用されている。このような物の考え方を延長するとベルギーのほとんど全域とヌーシャテル(Neufchâtel)、ボー(Vaud, スイス西部の州)、ジュネーブ、サボイ(Savoy, スイス・イタリアとの国境に近い地方)などの各郡とピエモンテ(Piedmont, イタリア北西部の州、イタリア語名 Piemonte)の一部などはフランスに帰属する。しかしフランスはアルザスとおそらくプロバンス、ガスコーニュ(Gascogne)、ブルターニュ(Bretagne)などの一部でさえ失わなければならない。というのはそこの住民はフランス語を話さずまた彼等の中には革命に反対する王や僧侶の側にいつも与してきた人たちがいるからである。しかしこのようなことを繰り返し述べ立てたところでどんな役に立つというのか。国民公会(Convention)や総裁政府(Directoire, 1795---99)の統治下で共和国に反対する他国に対する不信感を掻き立てたものは、また我々にボナパルトを愛好させ最後には我々をワーテルローで果てさせたものはまさに領土併合を求める熱狂であった。革命化せよと私は言いたい。国境周辺が革命化されるならば諸君の国境はいつも十分に長く十分フランス化されるだろう。

 ドイツは帝国になるのだろうかとか一元的な中央集権的共和国になるのだろうかとかそれとも連邦国家になるのだろうかとか、数年前世間で大きく騒がれたドイツの結束の仕方に関する有名な問題は革命の面前では何の意味も持たない。実にそのことは今までドイツで革命が一度もなかったことを証明している。他の国々と同様にドイツにおける国家とはいかなるものか。それは様々な程度の尊大さを持つ圧制にすぎず次のような相も変らぬ口実にその根拠を置いている。つまりまず第一に下層階級に対して貴族や上層階級を擁護するという口実。第二は地域の主権の独立性を維持するという口実である。このような国家に対してドイツの民主主義は常に脆弱であった。どうしてか。それはドイツの民主主義の活動が政治的権利の内部だけにとどまったからである。ドイツの経済的諸力を組織化せよ。そうすればたちどころに政治サークルや選帝侯領や公国や王国や帝国などの全てが一掃されるだろう。関税同盟(Tariff League)でさえも消滅するだろう。つまりドイツの結束は諸国家の廃止から生じる。古いドイツが必要としているものは連邦制ではなく清算である。

286 これで最後になるがきっぱりと理解してもらいたい。革命によってもたらされる最も特徴的で最も決定的な結果とは労働と財産を組織化した後で政治的中央集権化つまり国家を廃止することでありまたその結果諸国民が革命の契約に署名するとすぐに国家間の外交関係を終了させることである。どのような形であれ旧来の政治の伝統に逆戻りすることや、ナショナリズムと国家の独立とを口実にしてヨーロッパの力のバランスに関して少しでも懸念があることや、また同盟関係を樹立し主権を認め各州を復活させ国境を変更しようとするなどのいかなる提案も、時代の必要性を全く理解できていないということを、また社会改革に対する侮辱や反革命に対する偏愛を社会運動の組織体の中で暴露するだろう。

 国王たちは最後の軍事行動のために彼等の剣を砥ぐかもしれない。十九世紀の革命の至高の課題は彼等の王朝を倒すことではなく彼等の組織を根底まで破壊することである。彼等は内戦であれ対外戦争であれ戦争をするために生まれついており戦争をするために教育されており戦争によって養われているのだから、労働と平和を旨とする社会で彼等はいったいどんな役に立つというのか。したがって戦争を放棄することを拒否することと同様に戦争をすることにおいても何の目的もありえないのである。普遍的な兄弟愛が確固とした土台の上に築かれようとしているのだから、専制政治の代表たちは退場することしかやるべきことはないのである。彼等が次のような事実を理解できないのはどうしてなのだろうか。つまりワーテルロー以来彼等が体験したこのように常にますます自らが存在しにくくなってきていることの理由が、彼等が考えさせられているようにナポレオンの没落以来中産階級に再び取り付き始めたジャコバン的な物の考え方からではなく、政治家どもにはわからないうちにヨーロッパ中に広まってしまった地下活動から、つまり文明の隠れた諸力を極度に高めつつその隠れた諸力の組織化を社会的必然性に変えた、つまり不可避的な革命の必然性に変えた地下の活動から生じるという事実をである。

287 王たちが退場した後でも執政や大統領や独裁官、陸軍司令官、海軍大将、大使などの職をまだ夢見る人たちに関して言えば、彼等もまた引退した方がよいということだ。革命は彼等の奉仕を必要としないから彼等の才能がなくてもやっていける。人々はもはやこのような国王の亜流を望んでいない。人々はどんな用語が用いられようとも封建制度、政府的統治システム、軍事システム、議会制度、警察制度、法や法廷、搾取のシステム、腐敗、うそつきや貧困などの全ての語が同義語であることを理解している。ついに人々は次のことを知るに至ったのだ。つまり革命が古い奴隷制度の最後の残滓である賃借料と利子を廃止する過程で、死刑執行人の剣を、裁判の刃を、警察の棍棒を、税関職員の計器を、官僚どもの消去用ナイフをつまり若き自由の女神がそのかかとで踏みつける全ての統治的痕跡を一撃の下に廃止してしまうということを知るに至ったのだ。

 

 

 

結  語

 

 

288 五月三十一日の法律*以来革命は沈黙を守っているようである。一つの新聞ですら革命の大義を公式に支持しなかったし、誰かの一声ですら革命を大胆にかつ知的に擁護しなかった。革命は自らの勢いだけで進行してきたのだ。初めのうちは革命旗の下に結集していた民主的諸勢力は、革命的発言を慎むように強制されたことから教訓を得て、気づかれぬうちに後退し政治的友好関係に戻った。社会主義はますます曖昧な用語で表現されたり空虚なユートピアで表現されたりし、もう消滅しかかかっていたとも言えるだろう。一八五二年は革命の葬式のために設定された年であった。昨日の共和主義者たちのうちある者は一八四八年の憲法の中で、ある者は直接政府の中で革命を埋葬する作業を引き受けた。共和国の大統領職が賞金なのだ。

The president and the Assembly co-operated in the passage of the Loi Falloux* of 15 March 1850, which again placed the teaching of the university under the direction of the Roman Catholic Church.

A conservative electoral law was passed on 31 May. It required as a proof of Electors three years' domicile the entries in the record of direct taxes, thus cutting down universal suffrage by taking away the vote from the industrial population, which was not as a rule stationary. 一八五〇年五月三十一日の法律は、保守的な選挙法で、概して定住していない工業労働者階級を排除するものであった。 *ファルー法。ファルーは教育相の名。 (From Wikipedia, the free encyclopedia  French Second Republic  This page was last modified on 3 May 2014 at 03:57.)

 しかし諺にも言われるように政治家が提案し革命が決定する。革命はそれまですでに三回も否認されていたように普通選挙が革命を否認した後でも、革命はまだ引退しないだろう。革命はジャン・マスタイ(Jean Mastaï)の呪いをほとんど気にかけないように、普通選挙の決定もほとんど気にかけない。アンリ五世*が再び王位につくことができるとしたら、一八一四年に彼の大叔父がそうしたように革命を結局は擁護するだろう。革命はそれ自体で必然的なものである。それに対して諸君の憲法、政治活動、普通選挙そのものなどは単なるサーカスの安ぴかの金銀糸にすぎない。一八五二年は、一八五一年、一八四九年、一八四八年と同様に革命にとって重要ではない。放水路の水門を閉める時間が諸君にあったかどうかに関わりなく、革命は急流のようにどっと決壊し潮のように満ちてくる。

*アンリ・ダルトワ(Henri d'Artois, 一八二〇年九月二九日 一八八三年八月二四日)はブルボン家最後の王位継承候補者。一八三〇年八月二日にシャルル十世は長男アングレーム公ルイ・アントワーヌの甥のアンリに譲位したが、シャルル十世の傍系オルレアン家のルイ・フィリップは議会でアンリを王位継承者とするというシャルル十世の宣言書の部分を読まず、議会は王位継承者としてルイ・フィリップを指名し、「アンリ五世」の即位は立ち消えとなった。(ウィキペディア フリー百科事典 アンリ・ダルトワ 最終更新 二〇一三年七月九日 () 一一:二〇 (日時は個人設定で未設定ならばUTC))

 状況の力を弄ぶことがどんな役に立つというのか。われわれが事実を予測しなかったからという理由で、事実が変更されたり修正されたりするだろうか。我々が目を閉じたいと思ったからといって、我々の安全性はそれだけ増すだろうか。そんなことは将来の人々が厳しく評価し、また将来上流階級の人たちがその代価を支払わねばならなくなるだろうような浅はかな者たちの政策である。

289 私自身に関して言えば、全ての野心的な争いから身を引き利己主義に走ろうとも思わないが、ただ将来を見通すことに関しては明晰であるため、一八四八年に提案したように全ての分野の人々の利益になるように私には最善と思われる道筋を提案し、諸君には私の発言の証人になってもらいたい。一七八九年は全ての人々が革命的でそのことを誇らしく思っていた。一八五二年でも皆が再び革命的になりそのことをうれしく思うべきである。それでもなお私は私の書き記す革命像がより真実であるのと同じくらいに革命がより恐ろしいものに思われて残念がるだろうか。

 過去六千年間投げ込まれてきた神学的・政治的空間に生きる人類は次のような社会のようなものである。つまり固体の惑星の外表に配置されているのではなくウェルギリウスの地下世界のように、周りを湾曲しながら取り巻く社会の明らかに頂点でしかも中心に位置する動かない太陽によって照らされ暖められる空洞の惑星の中に閉じ込められた社会のようなものである。世界の無限な多様性の中にそのような配置状況がないと誰が知ろうか。土星の輪の方がそれ以上に常軌を逸している。

 全ての配置が我々のとは逆であるようなそのような世界を想像してみられよ。遠く離れているためにそこの住民には彼等のおかれた状況の境界を見ることができないだろうが、一方では野蛮、戦争、コミュニケーションの欠如などのために彼等はそれぞれの境界の中に閉じ込められているだろう。上空の太陽の上は神々の住居であり遠く離れた地獄の住人どもの住処を彼等の足下の大地が覆っていると長い間彼等は想像するだろう。彼等の詩人たちの想像力はこの上にどんな話を付け足すのだろうか。どういう宇宙起源論を、どういう啓示を彼等の秘儀伝授者たちは彼等の宗教、道徳、法律に基づいて提示するのだろうか。

 それでも文明の進歩はそして征服の進展でさえもこの地獄のような地域に多大な混乱をもたらすだろうし、また世界一周航海も行われるだろう。そして地球はあらゆる方面に探検され、次のような数学的・実験的な確実性が得られるだろう。つまり想像力が有限性を設定することのできなかったこのすばらしい宇宙が実は内部の直径が数千マイルの空洞の球体でしかなかったということ、またそこで住民たちは地表のどの地点でも中心に向かって直立していると考えられるから、実は頭と頭を向かい合わせて立っていなければならないという確実性である。このような奇妙な情報は古代宗教の博士たちに恐ろしい物議を巻き起こしたに違いない。ガリレオとかいう男が世界は丸く反転頭人種(anticephales)が存在するということを発見したという栄光を手に入れるために自らの血を流さなければならなかったのは確かなことである。

anticephales  i.e.,  people with their heads upside down;  cf. "antipodes"   (DC=Dan Clore.  ::: Anarchy & The Hollow Earth :::  An interesting early use of the Hollow Earth idea appears in the works of anarchist philosopher Pierre Proudhon).

290 しかしこの不安を倍増するために発生した出来事があった。古代の信仰が崩壊しつつあるのと時を同じくして、居住できる空間の広さが中に閉じ込められた人々の活動や生産性に比例しないということが気づかれるようになったことだ。世界はそれを利用する人類にとって小さすぎるし空気も不足していて数世代後に我々は餓死してしまうだろう!

 はじめのうちは自分たちの地球を謳歌していたこれらの人々は今や土くれの中のカブトムシの巣のように自分たちが閉じ込められていることに気づき、神や自然の女神を罵り始めた。彼等は自分たちを騙したとして至高の創造者を咎めた。絶望と混乱は恐ろしいものであった。比較的勇敢な者たちは恐ろしい呪いをこめながらもうここにとどまるつもりはないと誓ったのだ。天をにらみつけこぶしを振り上げて脅しつけ、彼等は大胆不敵にも地面を掘り始めたのだ。しかしあまりにも深く掘ったためにある日その掘削は空虚な空洞にしか行きつかなくなり、彼等は彼等の地域の凹面の地表が、彼等がたどり着こうとして向かった外部世界の凸面の地表と対応しているという結論に達した。

 貫通できない球面によるかのように我々の知性が閉じ込められている我々の政治的・宗教的観念の観点から考えてみると、我々もこのような人たちと全く同じ立場にいて同じ結論に達したのだった。

 この世で社会というものが始まったころから神学的・政治的システムによって幽閉され包囲された人間の精神は、つまり政府が土台であり宗教が天井であるような密閉された箱の中に閉じ込められた人間の精神は、この狭い地平の限界を理性的社会の限界だと勘違いした。あらゆる点でもたれあい無限に調査し尽くされた神と王すなわち教会と国家はずっと人間の宇宙であり続けた。長い間人間は何も知らなかったしそれ以上のことは何も想像しなかった。しかしついにこの囲いが探査された。このことによって示唆されるシステムがもたらす興奮が人間の頭をすっかり空っぽにしてしまった。哲学、歴史、経済学などがこの内部の世界の測量を完成した。そしてこの世界の地図が作成された。そして人間の地平であり人間の限界であると人間が考える超自然的体系が、実は人間そのものにすぎないということが知られるようになった。さらにどんなに人間がその意識の深遠を覗き込もうとしても人間は自らの姿を見るだけであること、また人間が太陽に祭りあげるあらゆる力の源でありあらゆるものの因果関係の始原であるこの神が洞穴の中のランプであり、神の姿に似せて作ったこれらの全ての政府がかすかな光を反射する砂粒にすぎないということなどが知られるようになった。

291 これらの宗教、立法、帝国、政府そしてこの国家の知恵やローマ教皇の美徳などの全ては、互いに寄りかかりあいそれ自身実体のない中央の一点に向かって収束するような夢や嘘にすぎない。もし我々が物事のより正しい考えを得たいと思うならばこの仮面を打ち砕き、人間の理性が失われ人間が馬鹿になってしまうだろうようなこの地獄から逃げ出さなければならない。

 今日我々は次のようなことを知るに至った。何世紀にもわたって人間の思考をとらえてきた古い思考の世界は、我々が横断するために与えられたものの一側面に過ぎないということだ。哲学のドリルがこの世界のあちこちに穴を貫通させ、間もなく我々は自由の身となり、われわれを生み育ててきた殻に煩わされなくなるだろう。われわれは今まさに新たな空を見つめようとしており、無限なるものをまるで面と向かっているかのように(Sicuti est facie ad faciem=As it were face to face)相対してその本質において理解しようとしている。

 社会が内面から外面に向きを変えた暁には全ての関係がひっくり返る。昨日まで我々はうつむいて歩いていたが今日では我々自らの生活をなんら妨害されることもなくすくっと正している。我々は人間性を変えることなく自らの存在のあり方を変える。それが十九世紀の革命である。

292 この革命の根本的で決定的な理念とは教会においても、国家においても、土地においても、お金においてももはや権威がないということではないだろうか。

 もはや権威がないということだ!それは我々が今までに見た事のなかったもの、我々が今までに理解したことのなかったもの、一人の利益と全ての人々の利益とが調和すること、集団的主権と各人の主権とが一致することを意味する。

 もはや権威がないということだ!それは次のようなことを意味する。借金は返済され、隷属状態は廃止され、抵当はなくなり、賃借料は返済され、礼拝や裁判や国家などの費用は抑制され、無利子の信用貸し、平等な交換、自由な組合、調整された価値、教育、労働、財産、住居、低価格などが保証され、もはや反目することはなくなり、戦争も中央集権化も政府もなくなり、僧侶もいなくなる。そういうのが殻から外に出て背筋を伸ばして歩く社会ではないか。

 もう権威がないということだ!さらに付け加えるならば自由な契約が恣意的な法に取って代わり、自由意志に基づく取引が国家統制に取って代わり、公平で相互的な正義が絶対的で分配的な正義に取って代わり、理性的な道徳が啓示に基づく道徳に、影響力の平衡が権力の平衡に、経済的結合が政治的中央集権化に取って代わることを意味する。くりかえすならば、このようなことは我々が敢えて完全な逆転つまり革命と呼ぶところのものではなかろうか。

 この二つのシステムが区別される隔たりは表現方法の違いによって判断できるかもしれない。

 権威の原則の進展における最も厳粛な瞬間の一つは十戒の公布であった。天使の声はシナイ山の麓でひれ伏す人々に命令を下す。

 汝、永遠なる者(神)を敬愛すべし、そして永遠なるものだけを敬愛せよと十戒は言った。

 汝、神にかけてのみ誓うべし。

 汝、神の祝宴を張るべし、そして神に十分の一税を払うべし。

汝、汝の両親を敬うべし。

汝、殺すなかれ。

汝、盗むなかれ。

汝、姦淫するなかれ。

汝、偽造するなかれ。

汝、むやみに他人のものを欲しがったり、他人を中傷したりする事なかれ。

293 というのは神がこのように命令するからだ。そして汝を今の汝にしたもうたのは神である。神だけが至高で、賢く、価値があるのだ。神は罰し、報奨する。神は汝を幸福にも不幸にもすることができる。

 全ての立法家たちはこのような文体を採用した。全ての立法家たちは人に向かって話すとき支配者の言葉を用いた。ヘブライ語は未来時制を用いて命令する。そしてラテン語は命令法を用いて、ギリシャ語は不定形を用いて命令する。現代人も同様である。デュパン氏(Dupin)の法廷はモーゼの法廷同様に絶対に誤ることがなく恐ろしい限りだ。どんな法律であれまたどの人の口から公言されようとも法律は神聖なのである。我々にとって多数者の声である運命を決するトランペットから公言されるときでさえも、法律は神聖なのである。

汝、寄り集まることなかれ。

汝、印刷することなかれ。

汝、本を読む事なかれ。

汝、選挙の幸運や国家の立派な光栄が汝に授けた代議士や官吏を尊敬すべし。

汝、彼等の知恵が汝に授けた法律に従うべし。

汝、忠実に税金を払うべし。

 そして汝、知情意全ての面から全身全霊政府と君主と神を愛すべし。なぜならば政府は汝が何者であるかを、汝がいかほどの価値がある人物であるかを、汝にとって何が望ましいかを汝以上によく知っているからだ。そして政府には政府に対して愛想のいい者たちを今後四世代にわたって報いる力があるのと同じように政府の命令に背くものたちを懲らしめる力もあるのだ。

294 おお人間の人間たる所以よ!いったいお前が六千年間もこれほど卑屈にひれ伏してきたということがありうるのだろうか。お前は自らのことを清められ神聖であると言うが、実はお前は役人や僧侶や軍人などの売春婦にすぎない、疲れを知らぬ無給の売春婦にすぎない。お前はそのことを承知の上でそれを許している。統治されるということは次のようなことをする権利も、知恵も、徳もない者どもに監視され、検閲され、スパイされ、指示され、法律によって駆り立てられ、数のうちに入れられ、登録され、教え込まれ、説教され、管理され、評価され、値段をつけられ、酷評され、命令されることである。・・・統治されるということはあらゆる活動であらゆる取引で記録され、登録され、入会させられ、課税され、刻印を押され、測定され、数えられ、評価され、認証を受け、権威づけをしてもらい、勧告され、禁じられ、矯正され、更正され、罰せられることである。また統治されるということは公益を口実に、また一般の利益の名の下に献金することを強いられ、訓練され、身代金を要求され、搾取され、独占され、ゆすり取られ、搾り取られ、煙に巻かれ、強奪されることであり、また少しでも抵抗しようものなら不平の最初の一言で抑圧され、罰金を課され、軽蔑され、いじめられ、跡をつけられ、虐待され、棍棒で殴られ、武器を取り上げられ、首を絞められ、投獄され、裁判され、有罪と判決され、銃殺され、国外へ追放され、生贄にされ、売られ、裏切られることであるし、また挙句の果てに馬鹿にされ、憤慨させられ、不名誉な思いをさせられることである。それが政府なのだ。それが政府の正義なのだ。それが政府の徳なのだ。そして政府的統治の中に何かしら良いことがあると主張する民主主義者たちが我々の中にいるということを考えて見られよ。そして自由、平等、友愛の名の下にこの不名誉を支持する社会主義者たちがいるということを考えて見られよ。そして共和国の大統領職への立候補資格があると公言するプロレタリアートがいるということを考えて見られよ。偽善である!

 しかし革命においては事情が異なる。

第一原因や究極の原因を追究することは自然科学からと同様に経済学からも排除される。

 進歩の観念が哲学における絶対者の観念に取って代わる。

 革命が啓示に取って代わる。

 理性が経験の助けを借りて自然と社会の法則を人間に示し、次のように人間に語る。

 これが必然性そのものの法則である。この法則は人間が作ったものではない。誰もこの法則を君に強制したりしない。この法則は少しずつ発見されてきたのであり、私(理性)はこの法則を証言するためにだけ存在する。

君がこの法則を守れば、君は公正であり、有徳である。

君がこの法則を破れば、君は不正であり、不徳である。

私はこの法則のために、他のどんな制裁も提案しない。

295 諸君の仲間の中で多くの人たちが不公平よりも公平の方が全ての人たちにとって望ましいことであったとすでに気づいている。そして彼等は約束を守り正しいことを行うことに仲間うちで賛同したのである。つまり彼等は彼等に最高の安楽と安全と平和を保証することが唯一できると物事の本質によって指摘される取引のための決まりを尊重することに賛同したのである。

 契約に加わり彼等の社会の一員になりませんか。

 同胞の名誉と自由と財産を尊重すると約束しますか。

 自分自身のためだけに暴力、詐欺、高利貸、利息などの手段で他人の生産物や所有物を決して盗んだりしないと約束しますか。

 通商やいかなる取引においても決して嘘をついたり騙したりしないと約束しますか。

 これらの約束を受け入れるのも拒否するのも諸君の自由である。

 もし拒否するならば諸君は野蛮人の社会の一員となる。人類との交流から除外されて諸君は疑念の対象となる。諸君を守ってくれるものは何もない。ごくわずかな侮辱に対しても諸君のところに最初にやってくる人は、まさに動物に対するような残忍な咎め立てを受けたと考えて諸君を殴るかもしれない。

 それに反してこの契約に賛同するならば、諸君は自由な人間の社会の一員となる。諸君の全ての同胞は諸君と密接なつながりを持ち、諸君に対して忠誠、友愛、援助、奉仕、交易を約束する。怠慢、怒り、悪意などの理由で彼等または諸君の側に違反があった場合、諸君は諸君が原因で生じたスキャンダルや危険と同様に損害に対しても互いに責任を持つ。この責任はその犯罪の重篤度や累犯度に応じて破門や死刑にまで至るかもしれない。

 この法律は明白であり制裁はなおさら明白である。本質的には一箇条にすぎないこの三箇条が社会契約の全体をなす。神や君主に忠誠を誓うのではなく、市民は同胞と人類を前にして自らの良心に基づいて誓いを立てる。この二種類の誓いの間には隷従と自由との間、信仰と科学、法廷と正義、高利貸と労働、政府的統治と経済、非存在と存在、神と人間との間と同じ違いがある。

296 古い社会、宗教、政治、事業などの全ての構成要素が次のような結果になるということをこれから諸君に思い起こさせましょうか。

 「私の詩の中で理性が人々を信仰に導く」と若い方のラシーヌ(Racine)は語っている。しかしまさにその反対が真実である。神学が人々を一歩一歩と理性に導くのである。神学はそれ以外のどんなことも今までに行ったことがないのだ。その探求の全ては哲学における実験である。神学的物理学、聖書に基づく政治学、戒律に基づく法律、スコラ哲学などがある。これらのものは全て何だろうか。啓示における合理主義である。神学はその当初から自らの外で真実を追究してきたのだ。神学が我々を取り囲んでいた空間の外へ我々を必ずや導くことになる研究を神学自身が始めたのだ。神学が教義を確立するのと同じ速さで神学自らが解釈と解説を用いてその教義を無効にしたのだ。今日では神学はその神秘の数々を否定し、黙示録が語るように獣の言葉を語るまでになったのだ。誰もがシブール(Sibour)大司教閣下*の最近の訓令を読むとすぐにこのことを感じ取った。さあ賽は投げられたのだ。逆戻りするにはすでに遅すぎる。底にまで達しないことは馬鹿げているだろう。ゴルゴタ(Golgotha)の墓を覆っていた石は取り除かれている。キリストは夜明けに姿を現した。ペテロ、ジョン、トマス自らが、そして女たちも、キリストの姿を見たことがある。扉が世界に向かって開かれ、空虚な場しか残っていない。堅物のカイアファ(Caiaphas)*よ、その扉を閉めようとしてはいけない。君にとってエトナ火山の火口を閉じることの方がずっと簡単だろう。

Marie-Dominique-Auguste Sibour (Saint-Paul-Trois-Châteaux, Drôme, France, 4 August 1792 Paris, 3 January 1857) was a French Catholic Archbishop of Paris. Archbishop Sibour may be the only cleric murdered in modern times due to his assassin's (an interdicted priest named Jean-Louis Verger) views on papal doctrine. Verger was an opponent of the newly created doctrine of immaculate conception as well as celibacy for the clergy.  聖母マリアの無原罪壊胎論や僧侶の独身主義などの教義に関する意見の相違で暗殺された。(From Wikipedia, the free encyclopedia  Marie-Dominique-Auguste Sibour  This page was last modified on 3 March 2014 at 02:33.)

Caiaphas : ユダヤの大祭司で、彼の助言・指示によって議会はイエス・キリストに死刑の判決を下した。John 18:12---24 (ランダムハウス英和大辞典)

 宗教が革命的観念を生んだという有罪判決を受けるとき、政治が敢えてより保守的であろうとするのをそのままにさせておいていいものだろうか。譲歩に次ぐ譲歩をして、また制度を次々に変えて、結局は政治自身の原則つまり政府を絶対的・決定的に否定するように我々を導いたのは政治ではないか。昔々次のような啓発的な定式が突如として生じたのは政治的討議によるものではなかったか。

自由、平等、友愛!

297 神学は毎日哲学の分野を蚕食しながら原始社会に向かう道をたどってきた。そして政治学がその原始社会を探検しその社会の地図を作成してきた。あらゆるところを探検しあらゆるものを記述した後で、政治学はそのヘラクレスの柱を打ち立てたのだ。つまり普通選挙制度が政治学の極致(ne plus ultra)であると。*私は諸君にこれ以上のものは与えられないと政治学は言う。諸君に教えられるものはこれ以上はない。もし諸君がこれ以上のものを欲しいのなら諸君は表面を見る必要はない。諸君はその下を見なければならない。私の友人の経済学者に話しかけてみられよ。経済学者は鉱夫を生業としている。おそらく経済学者が諸君を満足させてくれるだろう。

*ジブラルタル海峡のヘラクレスの記念碑(Pillars of Hercules)に、ne plus ultraという記述があったとされる。ne plus ultraとは(let there) not (be) more (sailing) beyond, 「これを越えて航海してはならない」の意。(研究社新英和大辞典)

 経済学は実際現代の女王であり支配者である。とはいえ経済学の傭兵たちはそのことを進んで認めたがらないけれども。外見とは異なりあらゆるものに指示を下すのは経済学である。ルイ・ボナパルトが議会閉会の彼の要求に失敗するとすれば、財界が原因である。憲法が改正されないとすれば、それを禁ずるのは株式市場である。五月三十一日の法律が無効にされるとすれば、あるいは少なくとも大幅に修正されるとすれば、それを要求したのは商業である。共和国が無敵であるとすれば、利子が共和国を守るからだ。昔からの土地を耕す小農が革命を擁護するとすれば、小農の最愛の女である土地が小農を奮い立たせるからだ。我々が日曜日に休息を取らないとすれば、それは商工業の影響力がそれに反対しているからである。

 社会経済の神的性格はほとんど知られていないが、明らかに社会経済は世界を導いている。社会経済にその真の姿を大胆に明らかにさせ、その秘密を語らせ、その命令を下させれば、全ての国民、全ての階級がその足下にひれ伏すだろう。

 小農はたった一つの兆候を待ち望んでいるだけだ。小農は土地を欲しがっている。小農は気をもみながら土地を注意深く見守っている。土地が小農の熱愛の対象でなくなることはない。土地を取得するために小農は借金し抵当を設定した。小農は何億ドルか私は知らないが、資本家や国家にお金を支払う。ところが今までのところ小農は何も獲得できなかった。今までの全ての政府が小農に低価格、信用貸し、裕福を約束してきたが、全ての政府はその約束を果たさないうちに消え去った。共和国が現れて小農の滅亡を完成させた。だから小農は政府に対して深い疑いの念を抱いている。政治に関して小農は一片の原則も、分別も、意見も持っていない。一八四八年に小農はルイ・ボナパルトを皇帝にしていただろう。一八五二年に小農はおそらくルドリュ・ロラン(Ledru-Rollin)を君主にするだろう。諸君はなぜだかお分かりだろうか。それは小農が何はさておき革命的であるからだ。小農の考え方や利害が小農に革命的であるように求めているのだ。

298 工員も小農によく似ている。工員は仕事や教育、入会それに低価格の賃借料や食料などを求めている。憲法に賛成する工員の表明をあまり真に受けてはいけない。工員は小農同様、政治理論を軽蔑している。工員は徹底的に革命的であり、すぐにもルイ十六世からミラボーへ鞍替えし、ジロンドからマラー(Marat)へ、ロベスピエールからナポレオンへ、カベ(Cabet)からラマルティン(Lamartine)へ鞍替えするのだ。工員の周知の歴史は彼等の情念によく合致している。

 商人、工場主、小地主なども言葉遣いはより用心深いけれども、似たような考え方をしている。彼等が望むものは事業であり、取引であり、注文、あぶく銭、長期間保証された資本、十分な量の販売であり、また制約がなく税金もかからないということである。彼等は単純だからそのようなあり方が保守的であって革命的ではないと思っている。このような精神構造をしているからこそ彼等は一九四八年十二月にカベニャック将軍(General Cavaignac)に投票したのであり、現在は憲法を攻撃から守っているのであり、また彼等の組織で社会主義者を拒絶しているのだ。彼等は全く誤解しているのだ。商人、工場主、農地の所有者など、安全や抵当を確保しあるいは独立した事業を経営している全ての比較的お金持ちの中流階級の人たちにとって、胸のうちでは政治や政府の形態などはほとんどどうでもいいことなのである。こういう人たちは生活、それもよい生活を望んでいるのだ。彼等は心の中では革命家である。ただし彼等は革命を成就するために間違った方向に向かっているに過ぎないのだ。

 今までのところ彼等は政府が安全のために講じている政治秩序、街頭の秩序が、彼等が求めているものを十分与えてくれると信じ込まされてきた。彼等は権力を支える人たちを彼等自身の利益を擁護してくれる人たちであると看做してきた。そして初めのうちは騒がしく、頑迷で、排他的で、またとりわけみすぼらしい革命に彼らは加わらないでいた。ルワ・ペリー(Lois Perree)の死後活気のなくなったシエクル(Siecle)紙や、よく間違いばかりしているプレセ(Presse)紙や、いつも希望的観測ばかりしているナショナル紙など上流階級に好まれている新聞は、いつ読者に真実を悟らせようと決断するのだろうか。下層階級の観点から革命的であるそぶりをする必要性が、上流階級の間での不信感を引き起こしてきたのは明らかだ。上流階級は問題がただ下層階級を上流階級にし、上流階級を下層階級にすることに過ぎないと考えた。今日ではその問題は非常にすっきりとなくなっているので、もうそういう根拠で階級を区別し続ける必要はなくなっている。

299 それでは商人、工場主、小地主、そして自らの資本以上の価値を自分の労働によって稼ぐような全ての階級の人たちに、革命をなんら恐れることはないということを、誰が次のような理由を添えて示すのだろうか。つまり革命が信用貸しの経費を四分の一パーセントにまで減額することによって、公債と全ての抵当を全額清算することによって、家賃と地代を所有者の償還に変換することによって、また公的歳出を八分の七だけ減額することなどによって、生産原価の四十五パーセント分の生産を軽減し、労働者にその賃金の全てを返還し、その結果国内人口の中で製造業者のためのますます増大する市場を創出することなどを可能にするという理由を添えてだ。このようなことは労働者が賃金の四十ドル分を失い続け、他方では貯蓄銀行に労働者が預ける三十ドルに対する一.二〇ドル分の利息を受け取る方がいいと労働者に説得しようとすることと似ているだろう。だめ、だめ。そんな盲滅法は長続きするはずがない。そういう盲目さがすっかりなくなってしまう日、それはおそらく明日かもしれないが、その日こそ革命が成就される日となるだろう。

 革命の全ての敵を我々は知っているが、革命の敵は小農でも、工員でも、商人でも、工場主でも、小地主でもない。そしてもし彼等が信用貸しの改革によって生じる産業に対する起動力を認識し、莫大な需要が見込まれることになって、株式会社が銀行割引や抵当、国債などよりも数年長くより多くの収益を彼等にもたらすことができるということを理解するならば、彼等は資本家でさえもないはずだ。

300 革命の敵は寄生行為よりもむしろ偏見に依拠する人たちである。そしてとりわけ革命家たち自身よりも強く革命の必然性を確信しており、投機行為やギャンブルを行い、敢えて言うならば、儲けるために旧制度の崩壊に抵抗する勢力を助長し、その抵抗が緩むたびに、また革命の進展の各段階で、新たな収穫を刈り取るような輩である。イエズス会や王党派や穏健な政府統治主義的共和主義者たち、それに社会理論のある種の空論家たちを加えなければならないが、こういう人たちの最高位に位置する人達こそ革命の真の敵である。そして彼等の信念があまりしっかりとしておらず、また彼等の敵意が虚栄心や利己主義の問題に過ぎないという理由で、なおさら罪が深い。

 しかし何と表現しようか。今日反革命という罪を犯すことのできる人がいるだろうか。そしてたまたまそういう人が見つかったとしても、反対したということがまさに反対しようと意図した運動にもたらすであろうプラスの効果のために、そういう人はたいてい申し訳が立つのではなかろうか。

 資本が貸し渋らなかったとしたら、誰が無利子の信用貸しを思いついたであろうか。資本は拒否するとティエール氏(Thiers)が一八四八年に語った。資本が拒否していたら将来さらに高くつくだろうと私は恐れる。

 ローマ戦争がなかったならば、ヨーロッパの非カトリシズム化という言い古されたテーマを誰が再び取り上げただろうか。

 ポワティエ通り(Poitiers Street)の事件がなかったならば、農民反乱について誰が知っただろうか。

 治安判事があれほど厳しくなかったならば、法廷を廃止することなど誰が思いついたであろうか。

 戒厳令の布告や国民軍(National Guard)*による人々への攻撃がなかったならば、誰が軍人の受動的服従という問題を提起し常備軍を廃止することについて語ったりしただろうか。

*一七八九年に結成され一八七一年まで断続的に存続した民兵組織の市民軍。(研究社新英和大辞典)

301 政府による間違った政治が行われなかったならば、誰が経済組織を公式化しただろうか。リティングハウゼン氏(Rittinghausen)の直接立法や、コンシデラン氏(Considérant)の直接政府や、ノーブー(Nauvoo)の独裁制などがなかったならば、誰が社会契約の理論をよみがえらせアナキズムの原則をよりしっかりと規定しただろうか。

 だから王党派諸君よ、イエズス会士諸君よ、銀行家諸君(Bancocrats)よ、ファランステール*主義者たちよ、冒険主義者たちよ、諸君の愚かな抵抗の道を突き進みたまえ。人々を啓蒙し革命の必要性を人々に示し続けたまえ。諸君が前進すればするほど諸君は人々に奉仕することになるだろう。そして私は人々が諸君を許してくれるだろうと思いたい。

*シャルル・フーリエ(Charles Fourier)の理想とする社会主義共同体。

 しかし前進したいという欲求に欠けているのではなく権威に対する敬意が唯一の行動に対する制約となっている古い党派の共和主義者諸君よ、一度でいいから諸君の本能を自由にさせてやることはできないのか。ここにカベニャック氏(Cavaignac)とルドリュ=ロラン氏(Ledru-Rollin)という二人の候補者がいる。もし彼等にやる気があれば彼等の役割は近い将来、前者は実業家階級を、後者は労働者階級を人権と経済組織を保証されたより高い世界へと導くことである。そしてすでに彼等は共和国は普通選挙に勝るという最近の民主社会主義者大会の標語を採用している。しかしカベニャック氏は憲法を擁護し自らが秩序の仲間であるという考え方をますます深め、一方ルドリュ=ロラン氏はマッツィーニによって連署された政策の中の無政府という単なる一言を前にして額や口それに胸に十字を切らずにはいられなかった。彼等は同様に党の仲間を軽蔑し、まるで底に悪魔でもいるのではないかと危惧するかのように、我々にとっては救出への道である革命の穴の中に転落することを二人とも恐れているのだ。臆病者たちよ、前進せよ!諸君の体の半分はすでに決断の縁に跨っているのだ。諸君らはこう言っている、共和国は普通選挙に勝ると。もし諸君がこの公式の意味を理解できるのなら、次のような見解を避け続けることはできないだろう。

 

革命は共和国に勝る

 


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