2020年8月30日日曜日

ゴー・ストップ問題 末弘厳太郎(いずたろう) 1933年、昭和8年9月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988 要旨・感想

ゴー・ストップ問題 末弘厳太郎(いずたろう) 1933年、昭和8年9月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988

 

 

メモ 2020830()

 

 ウイキペディア「ゴーストップ事件」によると、

 

・事件後、兵隊のからむ事件(行政行為)は警察が担当できなくなり、憲兵隊の管轄となり、軍の横暴が強まった。

・事件は天皇の鶴の一声が出るまで解決がつかなかった。

・和解の内容は秘密にされているが、警察側が譲歩(謝罪)したようだ。

・兵隊は、「信号無視していない、最初に殴ったのは警官だ(自分から手を出した覚えはない)」と主張した。

 

感想 2020829()

 

 要旨をまとめながら再々度読んでみると、著者の意図が分かってきた。これまでは断片的にしかとらえていなかった。これは法律家の立場から見た、軍による提訴に異議を唱える、裁判否定論である。

しかし、著者が軍の面子を認めていることに、時代の雰囲気が伝わってくる思いがする。五・一五事件の当事者が警察など全く小ばかにしていたことから考えると、さもありなんである。

 

感想

 

交差点での警官の手振り信号を無視した人(陸軍軍人)を警官が殴ったら、陸軍がクレームをつけ、結局警察側(内務大臣)が陸軍側(陸軍大臣)に謝罪して問題が決着したという事件なのだが、軍側の主張の根拠は、警官が暴力を振るい、信号無視した人が軍人で、制服を着ていて、公衆の面前でというものである。

著者は双方に公平な討論形式で論を展開するのだが、どうも若干軍に軍配を上げるかのような論調である。編集部の注「軍が次第に政治力を誇示し始めた時代の象徴的な出来事だった」とあるように、この事件は、軍部の発言権が益々高まろうとする時代に起ったようだ。

 

本文中の各所で、軍部に肩入れするような気になる表現がある。

「吾々国民は御国のために軍務に服してくれている兵隊さんに対して心から敬意を表さねばならない」「巡査(なぜ「巡査さん」と言わないのか)も兵隊さんのすること(信号無視)はなるべく大目に見てやるくらいの雅量はもって欲しい。」

「それ(信号無視を咎めないという警官の好意に報いるだけの心がけを兵隊が持つこと)でこそ兵隊さん兵隊さんといって一般国民から敬愛される。」202

「軍当局から(警察に)厳重な抗議が提出されることを、僕は少しもおかしいと思わない。その抗議を警察の側も率直に認めて適当に善処(信号無視を咎めない)しさえすれば、現在のような「悪い」事態は絶対に発生しなかったのだと思う。」204

そして最後は方法の問題に転嫁される。

「軍当局の抗議の仕方が気に入らないというようなことは確かにあるらしい。」「事実交渉の局に当たった当事者「双方」に落ち度があるということになるな。」204

そして最後は円満解決だ。

「平和な(警察と軍との)関係を回復することを念として事を処理すべきであると思う。」204

また警察に注文をつける。

「警察の方ではまた兵の素行を調査して交通規則違反の前科何犯とかを発見したとかいう話だが、(兵隊が頻繁に交通規則を無視していたようだ)こういう「抹消」に走って争われては困るな。」

 

 

要旨

 

編集部注

 

 1933年、昭和8年6月17日午前11時40分頃、大阪市天神橋の交差点(天六交差点、天神橋筋6丁目交差点)で、信号を無視して横断しようとした歩兵第八連隊の中村一等兵を、交通整理の曽根崎署の戸田巡査が殴るという事件が起きた。「皇軍の威信にかかわる重大問題」として軍が硬化し、陸軍大臣対内務大臣の対立にまで発展したが、結局、警察側が折れて事件は解決した。軍が次第に政治力を誇示し始めた時代の、あまりにも象徴的な出来事であった。

 

本文

 

 A 大阪のゴー・ストップ事件をどう思うか。

B 意地の張り合いから問題がこじれ、非常に遺憾だ。

A 交通違反したとはいえ、白昼公衆の面前で巡査が制服の兵を殴るとあっては、事はなかなか容易でない。

B 巡査がやたらと人を殴ってならないことは、相手が兵であれ、普通人であれ、異ならない。普通人だと多く泣き寝入りをするが、軍は断然抗議をする点が異なる。

A 警察官を懲戒処分にしていたら、問題は簡単に片付いていたかもしれない。

B 警察があの通り頑張るにも理由がある。巡査の中には没常識で乱暴する男もたまにいるが、相手が無茶をしない限り、どんな巡査もむやみに乱暴をするわけがない。

A 巡査は相手の出方次第では殴っていいのか。

B むやみに殴ってはいけないが、場合によっては止むを得ない。司法警察職務規範の中に「現行犯人を逮捕するには、務めて穏当の方法を用い、過酷に渉らざることに注意すべし」とある。しかし、同時に事情によっては、相当手荒なことをしても差し支えないという趣旨も認めている。

A 相手が乱暴をする以上、こちらも多少手荒なことをしなければ、逮捕や訊問もできないに違いない。

B 巡査が相手の弱みにつけこんで乱暴をしやすいことは認めるが、今回の事件で兵がどんな態度で巡査に対したかを問題にしないわけにいかない。交通規則を犯しておきながら、ゆえなく巡査の制止や訊問に対して反抗的な態度を示す以上、巡査が相当強力な態度に出るのは止むを得ない。軍当局は「いやしくも兵に対して…」と言って非常に強いことを言っているらしいが、戦時やその他の特殊な場合なら格別だが、今回の兵の場合は、普通の一歩行者と何の変わりもない。それが交通規則に違反する以上、巡査がこれを制止するのは当然であり、その制止に対して反抗する以上、強力的手段をもってこれに臨むのも当然である。

A 吾々国民は御国のために軍務に服してくれている兵隊さんに対して心から敬意を表さねばならない。しかし敬意を受ける側も心がけと態度が必要である。巡査兵隊さんのすることはなるべく大目に見てやるくらいの雅量はもって欲しいが、兵の側でも好意をうけるだけの心がけを持たねばならない。それでこそ兵隊さん兵隊さんといって一般国民から敬愛される。平素兵の教育上十分注意されているとは思うが、今回の事件でこのことを指摘しておきたい。

203 B 兵であるとしても、とうてい大目に見逃し難い程度の違反行為をする以上、巡査がそれを咎めるのは当然で、ことに交通規則違反のように、一人の違反行為が直ちに多数の生命身体の安全にまで影響を及ぼすような事柄にあっては、誰彼の区別をつけて取り締まりに手加減を加えることは望ましくない。今度の事件で巡査が兵の行為を制止したのは当然であり、またその制止に関連してなされた強力的手段も、必要止むを得ない程度を超えない限り、適法と見るべきである。これに反して、もしも巡査の行為がその許されるべき程度を超えるならば、刑法第95条「裁判検察警察の職務を行い、またはこれを補助する者、その職務を行うに当たり、刑事被告人その他の者に対し、暴行または陵辱の行為をなしたる」ものとして罰せられるのが当然であり、それも相手が兵であるか否かで区別する理由はない。ただ、巡査が実際に行った行為が、この規定に違反し、処罰に値するかどうかが問題になるだけだ。

204 A 軍は正規の軍装をした兵が白昼公衆の面前で警官のために陵辱されたとあっては、法律上の理屈はともかくとして軍の威信上軽々に看過することはできないのかな。

B それは尤もだ。軍当局から厳重な抗議が出されることはおかしいと思わない。警察はその抗議を率直に認めるべきだった。

A 警察が謝罪すべきだったのか。

B そうだ。しかし、警察にも言い分があるに違いない。警察は軍当局の抗議の仕方が気に入らない。

A 法律問題は別として、交渉の局に当たった当事者に落ち度があるということになるな。

B そう思う。両者にある程度の落ち度はあったのだから、互いにその点について遺憾の意を表し合い、将来の戒めとしていれば簡単に問題は解決していたことだろう。それを両者が細かい点にまでこだわり、軍と警察との対立になったことは遺憾だ。勝ちさえすれば後はどうなっても構わないという態度で争うべきではなく、一日も速やかに平和な関係を回復することを念として事を処理すべきだ。後に悪い感情を残すようでは何にもならない。

A 新聞が伝えるところでは、軍が告訴をすると、警察の方では交通違反をした兵の前科を探しだしたとのことだが、こういう抹消的問題に走って争われては困るな。

B 実際困る。一日も早く大臣なり上の方で問題を取り上げ、平和的に将来を考えて事を処理すべきだ。裁判では解決せず、事態は悪化するばかりだ。同じく大事な国家の機関である軍と警察との間にそうした事態が永く続くことは国家のため非常に悲しむべきことだ。

 

 

1933年、昭和8年9月号

 

以上 2020829()

 

ウイキペディア

 

末広厳太郎 1888.11.30—1951.9.11

 

東大卒の法学者。民法、労働法、法社会学。

大審院判事の長男。1912年、東京帝国大学法科大学独法科を優等で卒業。同大大学院へ進学。1914年、東京帝国大学法科大学助教授。1917年、民法研究のためシカゴへ留学。1921年、東京帝国大学法学部教授。1942年から1945年3月まで東京帝大法学部長。

アメリカで学んだ社会学の影響を受け、ドイツ民法学のような概念と論理の法学ではなく、判例を重視した。穂積重遠と共に民法判例研究会を設立した。

また日本独自の法の現実を知るために、日本古来の農村の慣習を調べ、法社会学を提起した。

1946年3月、東大を辞職。戦後GHQにより教職追放を受けた。GHQの下で労働三法の制定に関与した。1946年東京都地方労働委員会会長、船員中央労働委員会会長。1947年、三宅正太郎のあとを継ぎ、中央労働委員会二代目会長となり、二・一ストの折衝にあたった。

 

以上 2020829()

 

ゴーストップ事件

 

 この事件は満州事変後の大陸での戦争中に起り、軍部が法律を超えて動き、政軍関係(シビリアンコントロール)がきかなくなるきっかけの一つとなった。

 

 1933年6月17日、慰労休日に映画を見に外出した陸軍第4師団歩兵第8連隊の中村政一一等兵22が、市電を目がけて赤信号を無視して交差点を横断した。交通整理中だった大阪府警察部曽根崎警察署交通係の戸田忠夫巡査25は、中村をメガホンで注意し、天六派出所まで連行した。その際中村は、「軍人は憲兵に従うが、警察官の命令に服する義務はない」と抗弁し、派出所内で殴り合いの喧嘩となり、中村は鼓膜損傷全治3週間、戸田は下唇に全治1週間の怪我を負った。

 野次馬が大手前憲兵分隊に通報し、駆けつけた憲兵隊伍長が中村を連れ出した。その2時間後、憲兵隊は「公衆の面前で軍服姿の帝国軍人を侮辱したのは断じて許せぬ」と曽根崎署に抗議した。この後の事情聴取で戸田は「信号無視をし、先に手を出したのは中村だ」と証言し、逆に中村は「信号無視はしていないし、自分から手を出した覚えはない」と述べた。

 

 警察側は穏便に事態の収拾を図ろうとしたが、21日、事件の概要が憲兵司令室陸軍省に伝わり、最終的に昭和天皇に達した。

 

 6月22日、第4師団参謀長井関隆昌大佐が「この事件は一兵卒と一巡査との事件ではなく、皇軍の威信にかかわる重大な問題である」と声明し、警察に謝罪を要求した。これに対して粟屋仙吉大阪府警察部長は「軍隊が陛下の軍隊なら、警察官も陛下の警察官である。陳謝の必要はない」とした。6月24日の第4師団長寺内寿一中将と縣忍大阪府知事の会見も決裂した。

 

 荒木貞夫陸軍大臣は「陸軍の名誉にかけ、大阪府警察部を謝らせる」と息巻き、山本達雄内務大臣と松本学内務省警保局長(現在の警察庁長官)は「謝罪など論外、その兵士こそ逮捕起訴すべき」との意見で一致した。内務省は「官庁の中の官庁」といわれ、強大な権力を誇り、警保局中堅幹部ら内務省官僚は東京帝国大学法学科を上位の成績で卒業した「新官僚」と呼ばれる新たな政治勢力とされるエリートであった。

 7月18日、中村は、戸田を相手取り、刑法第195条(特別公務員暴行陵虐)、同第196条(特別公務員職権濫用等致死傷)、同第204条(傷害罪)、同第206条(名誉毀損罪)で大阪地方裁判所検事局に告訴した。

 

 私服の憲兵や私服の刑事を動員して戸田と中村をそれぞれ尾行し、憲兵隊が戸田の本名が中西であると暴くと、警察は中村が過去に7回の交通違反を犯していることを発表した。大阪の寄席の漫才の題材にもなった。市民は当初警察に批判的だったが、事情が分かるにつれ、軍の横暴を非難するようになった。

 

 高柳署長は過労で入院し、7月28日、腎臓結石で急死した。8月24日、事件の目撃者の高田善兵衛が事情聴取に耐え切れず、国鉄吹田操車場で自殺した。(拷問か)

 

 大阪地方裁判所検事局の和田良平検事正は「兵士が私用で出た場合には交通法規を守るべきである」としながらも、起訴すればどちらが負けても国家の威信が傷つくと仲裁を勧めた。

 事態を憂慮した昭和天皇の特命により、寺内中将の友人の白根竹介兵庫県知事が調停した。天皇が心配していると知った陸軍は恐懼し、11月18日、井関参謀長と粟屋大阪府警察部長が共同声明を発表し、11月20日、戸田と中村が、和田良平検事正の官舎で会い、互いに詫び、握手して幕を引いた。和解の内容は公表されていないが、警察側が譲歩したというのが定説となっている。

 

 陸海軍軍法会議法によれば、一般警察官が、現役軍人の犯罪行為を告発する義務があり(296条)、司法警察官が調書を作成することができた(299条)が、明治以来、軍兵の犯罪は勤務時・非番時を問わず、本来は憲兵が行うものと解釈されていた。(どうなってんの。慣例優先か)

 

 この事件を契機に現役軍人に対する行政行為は、警察でなく憲兵が行うものと意識され、満州事変後の世情に軍部組織の統帥権国体の問題を「印象付けた。」

 

以上 2020830()

 

2020年8月28日金曜日

近親に送る手紙 滝川幸辰(ゆきとき) 1933年、昭和8年9月号 「文芸春秋」にみる昭和史第一巻1988 要旨・感想

 近親に送る手紙 滝川幸辰(ゆきとき) 1933年、昭和8年9月号 「文芸春秋」にみる昭和史第一巻1988

 

 

感想 2020827()

 

 滝川さんは法律論だけで問題を処理しようとしているように見受けられるが、自分の何が当局に問題視されたのかについて、彼は理解していたのだろうか。それと関連して、滝川氏に対する右翼の暴力を恐れることはないという手紙をもらってほっとしたとのことだが、戦いに敗れてもう用無しになった人を右翼が追及するはずがないということを理解できないのだろうか。政治感覚が鈍いのではないか。

 

メモ

 

・国家権力は国民の意識を操作しようとした。満州事変が軍による国民意識の操作を目論んだデマだとすれば、滝川事件は、文部省による同種のデマである。文部省による、滝川の自主的辞職ないし総長による休職命令という作戦は、文部省と小西京大総長とのその件に関する会見以前に、マスコミにその件についてのデマを流すことから始まった。リークである。そのリークの一翼を担ったのが、右翼思想団体(蓑田胸喜の原理日本社)である。188

同様に、小西総長は文部当局との会見で、滝川への辞職勧告や休職命令を諒解したのではなく、逆に反対したのに、新聞には、一致したというデマが流された。190

・右翼系議員(宮澤裕)が滝川の「刑法読本」を危険思想だとして議会で追及し、滝川の罷免を要求した。188これがこの事件の決定的原因なのではないか。

・滝川の「刑法読本」と「刑法講義」が発禁処分にされた。189

・「国家」による言論統制・操作は、出版での伏字や発禁処分、講演会での演説中止など、明治以来の新聞紙法1909(新聞紙条例1873)、出版条例1869、集会条例1880などの規制がこの時も続いていた。

 

要旨 

 

編集部注

 

 1933年、昭和8年4月、(内務省は、滝川の『刑法講義』と『刑法読本』を発売禁止処分にし、)滝川幸辰京大教授の講演や著書が危険な内容を含み大学教授として適格でないとして、「国家意思の統一」を目指す文部省は、(5月、)小西重直総長に、(滝川の)辞職を要求した。これに対して法学部教授会は、大学の自治、学問の自由を侵すと反対した。

 

 

本文

 

186 パンフレット「京大問題の真相」、「先輩の見た京大問題」や、日出新聞社「滝川教授事件――京大自治闘争史――」に経過が書かれているが、その後の経過については、7月11日、佐々木、宮本(脩)、宮本(雄)、森口、末川、滝川の6教授の免官と、7月25日、田村、恒藤両教授の免官となり、末広、中島、山田、鳥賀陽、牧、渡辺、田中の7教授は留任を声明した。残る人事問題は、9人の助教授と、9人の講師・助手・副手の進退であるが、その多数は、総長に、辞表の進達、解職願・辞職願の受理を要求している。

 

187 4月21日午後2時ごろ、大毎、京都の日出、日日などの新聞社から「辞表を出したのか」と電話があったが、私には訳がわからなかった。大朝記者のTが、「文部省は滝川を罷免にすることを決定し、小西総長の上京を促した。『思想と行動に関して種々の批判がある』という理由である。」と説明してくれた。大毎記者のMも同内容のことを話してくれた。

夕刊に「滝川教授を処分、突然京大に嵐」(大毎)と載ったが、大朝は夕刊に載せることを控えた。

 

 その後、宮本(法学部)部長は「数日前に小西総長から概要を聞き、22日午前中に総長が文部当局と会見する予定になっている」と私に語った。

 

文部当局は総長と公式の交渉を始める前に、問題を外部に漏らした。各新聞社の夕刊記事は電通社から受け取った。電通社は原理日本社という右翼の思想団体からニュースを受けたことが後日大毎の調査で判明した。

 

 昨年1932年12月初旬、文部省は、同年10月の中央大学法学会での私の講演「トルストイの復活と刑罰思想」が不穏当であると当時の新城総長に告げた。宮本部長と文部当局との話では、議会の質問に備えるための答弁を出して欲しいという要求に過ぎなかったとのことだ。そして、議会ではその後、質問が出ずに済んだ。

 1933年3月上旬、司法省の某氏から宮本部長に、「滝川教授に高等試験委員になるのを遠慮してもらいたい」とあった。「滝川が中央大学の講演で、裁判官を罵倒し、そういう人が司法科の試験委員では困る」という理由とのことだ。私は試験委員を断ることにした。

 1933年3月中旬、東京のKから手紙があり、それには、Kが政府委員として予算委員会に出席している時、某代議士(宮沢)が「京大教授の刑法読本…のごとき危険思想を大学で講ずるのはけしからぬ。文相はそれらの教授を罷免せよ」と質問したとあった。

189 1933年4月10日、私の「刑法読本」と「刑法講義」を発禁処分に付した。「刑法読本」は10ヶ月前に出たもので、「刑法講義」は一昨年1931年に絶版に付していた。

 

 1933年4月22日、小西総長は文相官邸で文部当局と会見した。文部当局は小西総長に「刑法読本、刑法講義に書いてあることが、学生や社会一般に悪影響を及ぼすと認定したから、滝川教授に辞職するように、もし辞職しないならば、休職を命ずるように、取り計らわれたい」と要求した。

 

 戻って3月10日ころ、宮本部長が文部省の伊東学生部長と会見したとき、伊東は私の客観主義刑法論が問題で、唯物論とかマルクシズムではないと言明していたが、これは私への批判根拠の変遷を暴露するものだ。

 

 総長はこれに対して、「大学教授の学問的見解を問題にして地位を動かすことは大問題だ。辞職勧告や休職手続を取ることは、今の大学の情勢ではとてもできない。文部省のこのような処置が適当であるか疑わしい。私も大学の情勢について考慮してみるが、文部省も慎重に考慮願いたい」と返答し、文部省の要求を婉曲に拒絶した。

 

 4月22日の夕刊は、「滝川をして教授の椅子を去らしむることに両者(文部当局と総長)の意見が一致し云々」と報道した。これはデマの始まりである。

 小西総長は新聞記者の質問に何も答えなかった。(何か密約でもしていたのではないか。なぜ新聞報道を否定しないのか。)

 

 4月24日、法学部が教授会を開き、部長が経過を報告した。私は私に関することなので、会議室から退場した。

 

 5月上旬、東京のKから手紙が数通届いた。その内容は、文部省は、教授が総辞職する前に、私に辞職させようとしている。Kが文部省の菊沢秘書課長に事情を聞いたとき、「辞職は滝川にとっても、大学にとっても得策だ。なにしろ○○○○がやかましい時代だから、あまり頑張るとご本人にとって非常に不幸な結果になるかもしれない」と言ったというものだった。

Kが私を訪ねてきたとき、ラジオのニュースは、「滝川教授の親戚K商工書記官が辞職勧告のため京都に行きました」と伝えた。(何かしら仕組まれているに違いない。)

 

 文部省が私に辞職を勧める理由は、官制違反の責任を避けたいということもあった。官立大学の官制には、教授の進退に関して総長が文部大臣に具状すべきと定めている。学問研究のために学問に無理解な外部の干渉や圧迫により教授の地位が動かされてはならない、学問に理解のある大学当局が適当に教授の進退を決定する必要があるという理由で、大学の統率者としての総長に教授の進退について具状権を認めた。文部大臣は総長の具状に基づいてのみ、教授の進退を決定すべきであり、総長の具状に反して教授の進退を行うことや、具状がないのに教授の進退を行うことは大学官制の違反である。

 

 新聞紙には斎藤首相や鳩山文相の意見として、文部大臣は学校関係の人事についての最高官庁であるから、総長の具状に関わりなく教授の進退を行えるとあるが、それは俗論で、行政官庁の権限の分配に関する行政法上の原則を知らない。文部大臣は、制度上総長を監督するという意味では上級官庁であるが、そのために総長の職権を無視することはできない。官制違反の点は、美濃部さんや佐々木さんが突っ込んでいた。

 

 休職に関する分限委員会がある。分限委員会の某委員が官制違反について問いただすと、文部当局は、「法制局が差し支えないという。具状がないのは、消極的な具状である」と答えた。これは子供だましの答弁であり、法制局に相談しなかったに違いない。これもデマだろう。

 

192 分限委員会が全会一致で(私の)休職を可決したと新聞は言うが、委員が官制違反を鵜呑みにするはずがない。委員中には、大審院長、行政裁判所長官がいる。司法裁判や行政裁判の首脳が、官制違反を是認するはずがない。私は新聞報道を信じたくない。

 

 京大の他学部の人たちの中には、私が辞任すべきだと考えていた人が多い。それらは以下の通りさまざまだ。事を大きくしたくない、私一個の損得問題、時勢が時勢だから長いものには巻かれろ、研究の自由、大学の自治は破壊されたが、いつかはきっと回復する、総辞職では本も子もない、何の自由も何の自治もないが、形骸だけでもないよりましだ、法学部が閉鎖になれば総合大学の一角が崩れる、小西総長のようなりっぱな人がこの問題でやめると、総長になり手がいなくなる、法学部の教授は大学令の保障する職責を無視し、大学の使命の遂行を阻害する、それでは講義も研究もできないなどである。理論はとにかくまあまあというのでは話にならない。

193 大学教授が生命線を守って戦っているところへ、親戚のような無関係の人の出る幕ではない。(排外主義的では)

 私は辞職を勧告されても、辞めるべきでないと思った。

194 私が辞めても、多数の同僚が戦うだろうと思った。私が最初に辞めれば、私は、最初に文部省の弾圧に屈した裏切者になるだろう。教員が大学を去り、学生が大学を去ろうとし、1600人の学生が迷っている。私が屈服しても同僚は大学を去っただろう。

 

 大学に復帰しないという硬派と、法学部存続のため妥協後に復帰するという軟派とがある。また、宮本英脩は理由のいかんに関わらず残るという。硬派は、法学部の声明通りに行動するという意味で正論派でもある。

 早くから免官となった人や、免官洩れは心外として追っかけて辞表を進達し目的を達した田村、恒藤などは正論派だ。

 6月末訪れたKによれば、文部当局は、佐々木、宮本英雄、末川の三人に先ず辞めてもらいたいという意向を持っているとのことだ。東京の出版業Oの手紙によれば、佐々木がいると京大が「おさまらぬ」という官吏もいる、なお、「おさまらぬ」とは、文部省の命令どおりにならないという意味とのことだ。

 20年前の1913年、私の学生時代に沢柳事件*が起った。大正2年1913年夏、教授側は沢柳総長と大学の自治樹立の交渉を続けていた。この年の暮れから学生が教授側を支持し始めた。1914年2月、教授一同が声明を発表して事件が落着した。しかし佐々木先生だけは、4月になっても講義をしなかった。それは佐々木先生の良心的潔癖から出た行動だった。佐々木先生は最年少の教授だった。今回の問題でも佐々木先生は「独楽の心棒」と新聞紙に評されている。

 宮本部長は正論派だ。末川も正論(強硬)派だ。田村・恒藤両君は、松井総長の解決案を批判した共同声明書によって正論派と言える。誰が何派かは学生や新聞記者が一番よく知っている。

 

 5月7日の東朝、大毎の夕刊は、「文部当局は法学部教授の総辞職も止むを得ない、その時は、法学部を閉鎖する覚悟である」と報じた。その背景には法学部の結束が危ういという事情があった。文部当局はその欲しないことをその方針であるかのように放送することがよくある。法学部閉鎖の覚悟など嘘だ。それが本当なら、こんなに問題が長引くはずがないし、7教授の留任によって法学部の命脈を保つなどという醜態を暴露するはずもない。鳩山首相自身がそれ(総辞職容認)を否定している。

 

 5月18日までは文部当局と法学部との声明戦の期間だ。文部省曰く、「学問研究の自由には、研究の自由、教授の自由、発表の自由があり、大学教授の自由は、研究の自由だけ」で、研究の結果を教えることも、書くこともできないというのだ。そしてこのことは「頭の中で思索するだけの自由なら、大学教授でなくても、およそ頭を持つ者は皆持つ」と言論界で批判された。

 

 5月18日、小西総長は、滝川教授に辞表提出を勧告するとか、休職手続をとるとかはできない、と文部省に提出することに決定し、そのことを宮本部長に通告してきた。

 京大の内規では、総長が文部省による教授罷免の要求を不当として拒絶する場合は誰にも相談する必要はないが、文部省の要求に応ずる場合には、その教授の所属学部教授会の承認を得ることが必要になる。

 これで大学の態度が決まったから、私は18日から休職発令まで教授会に出席した。

197 しかし、文部省は、総長の回答は最後的のものと認めがたいと称して再考を促してきた。24日、総長は文部当局と会見し、文部省の要求を拒絶し、最終的回答だと念を押した。

25日、分限委員会による休職決定、26日の休職発令、同日の法学部職員一同の総辞職となった。

 

 私の休職理由は、6月7日の伊東学生部長の非公式の発表――新聞紙掲載を制止した――によると、私の基本思想が、マルクシズムだという点である。「悪影響」から「マルクシズム」へのこの重点の変化は、分限委員会が(私の書籍の)内容の調査をやらないことに基づくのだろう。(「マルクシズム」の方が斬り捨て易いということか。)

 岸書記官が持参した京大の最後回答を、文部省が最後的なものと認めず、再考を促してから、小西総長が上京するまでの3、4日間に、策動教授や陰謀教授が活躍した。この期間に、私に辞職勧告をするように某教授が「あなた」に頼んだり、鳩山文相が大阪に来たりした。

 そして「文部省が総長を処分(休職命令)するかもしれない、そうすると全学に問題が波及し、全学教授の総辞職になりかねない」という人達も現れた。

198 20日、評議会が開かれ、その決議によって問題を解決しようとした。法学部の評議員は、宮本部長と田村、末川である。京大の内規では、教授の進退は所属学部の教授会が決定することになっており、評議会の関与する問題ではないと法学部評議員は述べて、大学自治の破壊を食い止めた。

この間に、評議会のお膳立てをするために、法学部長を抜きにした学部長会議が開かれたり、さまざまな工作が行われたりした。

 某教授は、宮本部長の手にまとめてある法学部教授の辞表の中から、宮本部長と私の辞表を抜き出して総長に提出するように宮本部長に懇願した。

 

 法学部教授は学部の助教授に自由行動を求め、学生には自重を求めた。しかし、助教授は独自の見識から、学生は制止にも拘わらず、(私たちと)ともに立ち上がった。しかし、他学部の(教授の)態度は、法学部の邪魔者でしかなかった。

 経済学部のS教授は、私の友人だが、5月末の学生大会で、某学生がSを策動教授と批難したが、その学生は経済学部長や学生主事に「𠮟られた。」(意味不明)

 

199 5月26日午後5時過ぎ、宮本部長は田村、末川両評議員とともに総長室に赴き、法学部職員一同の辞表を提出した。法学部教授は会議室で休職発令の公報の到着を待った。暫くして宮本部長が総長室に行くと、休職発令*が来ていた。なぜ早く伝えてくれなかったのか不可解だ。(*誰のか。全員のか、それとも滝川だけのか。恐らく滝川だけの休職発令なのだろう。)

 

 学生大会に臨み、決別の言葉を述べた。1600人の学生は拍手で迎えてくれた。学生大会の議長は渡辺貞之助である。宮本部長が法学部教授一同の発した声明書を読み上げ、学生諸君の最善の処置を切望した。

 学生は、子弟の情宜という純真な動機で結ばれ、思想的傾向を超越して行動した。20年前の沢柳事件当時の学生運動は、感激性に富み、農民の武装蜂起のようなもので、演壇に駆け上がってお山の大将のように幼稚だったが、このたびの学生運動は統制が取れ、すべて平等に一平卒として働いた。

200 休職発令後、私は研究の自由陣営から離脱した。これは致し方のない運命だ。宮本部長から必要な連絡がある。官立大学を追放された学者は、私が大学に奉職してから10名以上いる。

 

 研究室の書物は、私の復職要求を掲げていた学生の反対で、しばらくそのままにしておいたが、天気のいい日に引き揚げた。学生から小言を受けた。

 

 私の身辺に危害が加わる恐れがあるという噂があったが、それはデマに過ぎなかった。5月20日ごろ、数名の警官が私の家を警戒しているとラジオが放送した。脅迫めいた郵便物が日に4、5通来たが、6月になると来なくなった。

201 見知らぬ人からおもしろい(励ましの)手紙を貰った。「右翼団といえど、利害関係のないところでやたらに暴力は振るわない。ストライキのリーダーに右翼団が暴力を加えた例を調べると、裏切者が暴力団を買収してやっている。(滝川が運動に敗れたのだから、もはや滝川には用はない。従って)暴力問題の起る余地はないから安心せよ」という内容だった。

 

1933年、昭和8年9月号

 

以上 2020827()

 

ウイキペディアより

 

京大事件(滝川事件) 思想弾圧事件

 

1932年10月、中央大学法学部で京都帝国大学法学部の瀧川幸辰教授が行った講演「『復活』を通して見たるトルストイの刑罰思想」の内容が無政府主義的だとして、文部省司法省内で問題化したが、この時は、宮本英雄法学部長が、文部省に「釈明」し、問題にならなかった。

 1933年3月共産党員とその同調者とされた裁判官・裁判所職員が検挙される「司法赤化事件」が起り、蓑田胸喜(後述)ら原理日本社の右翼、および菊池武夫(貴族院)や宮澤裕(衆議院・政友会)ら国会議員は、司法官赤化の元凶として帝国大学法学部の「赤化教授」の追放を主張し、司法試験委員であった瀧川を非難した。

 

 1933年4月内務省は瀧川の著書『刑法講義』と『刑法読本』に対し、その中の内乱罪や姦通罪に関する見解などを理由として、出版法第19条により、発禁処分を下した。翌5月、齋藤内閣の鳩山一郎文相が、小西重直京大総長に、瀧川の罷免を要求した。京大法学部教授会と小西総長は、文相の要求を拒絶したが、同月5月25日、(鳩山文相は)文官高等分限委員会に(瀧川を)休職に付する件を諮問し、その決定に基づき、翌5月26日、文部省は文官分限令により、瀧川の休職処分を強行した。

 

 瀧川の休職処分と同時に、京大法学部は、教授31名から副手に至る全教官が辞表を提出したが、大学当局と他学部は法学部教授会の立場を支持しなかった。小西総長は辞職に追い込まれ、7月松井元興総長が就任し、事件は急速に終息に向った。

 松井総長は、辞表を提出した教官のうち、瀧川佐々木惣一(後に立命館大学学長)、宮本英雄森口繁治末川博(後に立命館名誉総長)、宮本英脩の6教授だけを免官とし、それ以外の辞表を却下し、さらに鳩山文相との間で、「瀧川の処分は、非常特別のものであり、教授の進退は、文部省に対する総長の具状によるものとする」という解決案を提示した。

 この結果、法学部教官は、解決案により要求が達成されたとして辞表を撤回した中島玉吉、末広重雄、牧健二などの残留組と、辞表を撤回せず、解決案を拒否した辞職組に分裂し、前記6教授以外に、恒藤恭田村徳治の教授2名と、大隅憲一郎、大岩誠ら助教授5名加古裕二郎ら専任講師以下8名が辞職して事件は決着した。

 

 京大法学部の学生は教授会を支持し、全員が退学届けを提出し、他学部の学生もこれに続いた。6月、学生集会で、浪曲師酒井雲が招かれ、『駕籠幽霊』を演じた。東京帝大など他大学の学生も呼応し、7月、16大学の参加による「大学自由擁護連盟」、さらに文化人200名が参加する「学芸自由同盟」が結成された。

 『中央公論』『改造』などの総合雑誌、『大阪朝日』などの新聞は京大を支援し、文部省を批判する論説を多く掲載した。しかし、大学の夏季休暇で学内の抗議運動は終息し、大学自由擁護連盟も弾圧されて解体した。学芸自由同盟も翌年1934年には活動を停止したが、中井、久野などこの運動に参加した学生の中から、『学生評論』『世界文化』『土曜日』など反ファシズムを標榜する雑誌メディアが生まれた。

 

 瀧川事件に関連して京都帝大を辞職した教官のうち、18名が立命館大学に教授・助教授などとして移籍し、瀧川自身も立命館で講義をした。立命館への受け入れは、立命館総長・中川小十郎が西園寺公望の意向を踏まえ、元京大法学部長で立命館名誉総長だった織田萬と相談して行われた。

 京大の残留教官が説得し、黒田覚、佐伯千仭ら6名が京大に復帰した。

 戦後GHQの方針により瀧川は京大に戻ったが、他の辞職組は戻らなかった。瀧川を法学部長にする密約が交わされ、黒田法学部長が解任され、佐伯ら復帰組教官らも辞職した。

 

立命館が戦後GHQににらまれた時、末川博を総長に据えて大学の民主化を図って切り抜けた。

 

リベラル派の河田嗣郎が学長の大阪商科大学に講師として再就職した末川恒藤は、教授人事の承認権を握る文部省の拒否に遭い、講師採用後7年を経過した1940年まで教授への昇任が許されなかった。1942年に河田が急逝すると、後任学長として末川の名も上がっていたが、文部省に対する遠慮から、右派的な本庄栄治郎が学長に就任した。1946年、恒藤が、新制大阪市立大学の初代学長に移行した。

 

蓑田胸喜(むねき)1894.1.26—1946.1.30  首吊り自殺

 

1917年、東京帝国大学法科大学入学。同文科大学に転学。同法学部に学士入学。東京帝大在学中、上杉慎吉(穂積八束(ほづみやつか)に師事。憲法学者。君権学派神権学派。天皇機関説を批判。)指導の国粋主義学生団体興国同志会に入会。三井甲之(こうし、歌人。右翼思想家。)を私淑。

1922年4月、慶応義塾大学予科教授。

1925年11月、三井とともに原理日本社を創立し、雑誌『原理日本』を刊行。国粋主義の観点から、マルクス主義的・自由主義的な学者・知識人を批判した。

1932年、国士舘専門学校教授。

美濃部達吉、瀧川幸辰、大内兵衛らを大学から追放する大学粛清運動の理論的指導者であり、津田左右吉の古代史著作発禁事件も蓑田の批判論文が元となった。

1937年4月、平沼騏一郎、近衛文麿らが顧問を務める国際反共連盟が結成され、その評議員となり、『反共情報』に寄稿した。

 

以上 2020828()

 

2020年8月25日火曜日

ジュネーブの機密室 相馬 仁 1935年、昭和10年4月号 「文芸春秋」にみる昭和史1988 メモ・感想

ジュネーブの機密室 相馬 仁 1935年、昭和10年4月号 「文芸春秋」にみる昭和史1988

 

 

感想

 

満州事変は張学良による破壊工作だと国家によって嘘をつかれ、小学生や中学生が(日本)頑張れと出航する松岡を応援し、本文の新聞記者が日本愛国主義的な論調で語り、イギリスがアメリカ重視の態度を見せるなど、こういう一連の出来事を私自身が当時見聞きしていたならば、私が日本の当時の行動に異議を唱えることができただろうかと不安になるほど、日本愛国的ムードが当時の日本人を取り巻いていたようだ。そして、国際連盟の表決を待っていたかのように、日本軍は熱河に侵攻したという。

 

 国際連盟での日本と諸外国との決裂の原因は、内田外相の方針だったようだ。内田は、イギリスがアメリカを会議に引き入れようとすることに反対した。

 

 相馬仁に関するウイキペディアの記述はない。相馬は日本人的立場にしか立てず、その意味で、日本人を煽る役割もしている。

 

 

メモ

 

編集部注

 

 スイス・ジュネーブのレマン湖畔の平和宮(国連本会議場)で演ぜられた国際外交戦は、まさに日本が主役だった。(文芸春秋編集部1988も愛国主義的論調)これは当時の新聞特派員が報ずるその内幕である。1932年、昭和7年11月の松岡全権が乗り込んでから以降の部分を掲載する。

 

本文

 

179 敦賀で小学生、女学生、中学生が、ウラジオ行きの天草丸甲板上の松岡全権に向って「全権しっかりやって下さい!」

それに対して松岡は泣きながら、「皆さん――どうぞ勉強して――えらいものに――なって下さい!」

僕は全権と一緒に日本を発った。

180 僕の東京への新聞電報「(ジュネーブ11月20日発)帝国の国運を賭して闘う連盟理事会はいよいよ明日の11月21日午前11時(日本時間午後7時)より、日支両当事国に14理事国代表の出席の下に開かれる。松岡全権の根本方針は、昨年1931年9月18日以来の我が行動(満州事変)が、まったくやむを得ざる自衛権の発動に基づくものなることを説明し、連盟をして満洲の現状を承認せしめるにあり。我が牢固たる決意は一寸の譲歩も許さぬ背水の陣だ。」

「国際連盟理事会の陣容は、議長アイルランド首相デ・ヴァレラ、大国側は、英国外相サイモン、ドイツ外相フォン・ノイラート、イタリアはムッソリーニ外相の副大臣アロイジ男爵、フランスはボンクール陸相であり、小国側は、スペインはズルエタ、チェコスロバキアはベネシュ、ノルウエーはブランドランド、ポーランドはベックで、4人とも外相である。」

 松岡代表の秘書は鈴木崧(たかし)と朴錫胤(ぼくしゃくいん)である。

 

 

 総会二日目の12月8日(の)、ケイ・ウイルソンのカバレ・キュルザールで、日本代表部主催により、満洲映画が上映された。フランスのボンクールやスイス大統領のモッタなども鑑賞した。

 の公開会議では、松岡代表が、満州国否認の四小国決議案(スペイン、スエーデン、アイルランド、チェコ提案)撤回の動議を出した。

 映画会の後は舞踏会で、スイス国旗と日本国旗が交叉された下で、各国の随員や記者たちが踊った。

 

181 その晩(12月8日)、近所の英国代表部で、重大提案が審議されていた。

英国は連盟に70%の勢力をもっていた。英国は当初から「実際的」解決を図ってきたが、このころ対日硬化し始めた。その原因は対米関係だった。英国は満洲問題の解決に米国の参加を希望していた。

 

(これより2日前の)12月6日夜9時、ホテル・メトポールに、フランス首相エリオーが、松岡に帰国の挨拶にやって来た。エリオーは英国首相マクドナルドと共にパリへ発った。対米債務問題をパリで交渉するためだった。それは満洲問題と関係していた。

 前年1931年フーバー・モラトリアムによって延期されていたアメリカへの戦債支払期限がその年1932年12月15日に差し迫っていた。ドイツがパニックで賠償を支払えなくなったので、フランスにとっては大問題だった。英首相のマクドナルドは、英国は支払うと決めており、フランスにも米に払うように勧め、対米支払の共同を促した。英米協調は不変の鉄則だったから、英国は米仏協調とともに、日本にも対米協調を勧めた。

 

 東京では(12月)13日、英国大使リンドレーが内田外相に、「満洲問題の和協的解決の為、和協委員会に米国を招請することを承諾されたい」と申し入れた。内田外相は、(11月の連盟理事会での)13対1(の採決)以来の(日本の)国民的感情を述べて、米国の参加を拒絶した。

英国の目論見は、①米国を入れた(和協)委員会に満洲問題を移せば、連盟のような多数の国からなる会議でやるより円満に解決できるという日本への好意と、②その頃噂されていた、将来日本軍が熱河経略からさらに北支に進出することが起る場合、英米協調が必要だという功利的策略と、③世界市場における日本品の跋扈に対する報復などであり、さまざまな意味が込められていた。しかし、内田がそれを蹴ったので、日米協調は不調になり、また、日本と連盟との衝突はこの時不可避になった。

 

 英仏の対米協調に同意したフランスのエリオー首相は、12月15日、ケー・ドルセーの信任投票に敗れ、エリオー内閣は総辞職し、結局、英仏協調は破れた。また日英協調も難しくなり、英国は米国に接近した。

その同じ12月15日、ジュネーブでは、イーマンス議長が、日本の反対にもかかわらず、英国案の非連盟国米国招請をいれた決議案と、日本の反対にもかかわらず、四小国案を取り入れた満州国不承認の理由書草案を可決した。(これは後述の十九人委員会らしい。)

 

182 その夜(12月15日の夜)、メトロポールの会議室で、十九人委員会の決議草案について(日本の)代表部会が開かれていた。午前2時、松岡代表が出てきた。

 

 日本代表部は連盟案に対してすぐに修正案を出した。両者対立の形勢は緩和されず、クリスマス休会となった。

 

 英米は共同戦線を張った。連盟50余カ国はそれを後援している。

二つの勢力が満州事変以来抗争してきた。米国招請と満州国否認が問題の焦点だ。

 

「『満洲の事態が進行中であるから、今すぐ不承認決議をすることを避け、非連盟国(米国)の招請は明文上から削除し、追って必要な場合は、日支直接交渉を援助する意味で、干渉を排除するように権限を定めておくならば、考慮してもよい』という外交工作による外はない。それは理事会に(米国を)オブザーバーとして参加させるのとは全く違うから、さしつかえない」と松岡代表は考えた。

 

1月になってからの杉村・ドラモンド交渉も同様の趣旨で進められた。つまり、松岡や杉村は、連盟の空気を察知し、「脱退するつもりがないならば、この程度で和解するのが最後だ。これ以上要求すれば、満州国不承認と手強くやってくるから、日本にはこの方が痛いし、そうなると、どうしても脱退する外なくなる。和解するなら今だ」と見限りをつけたのだ。その案は1月13日に請訓*された。(*政府に訓令を要求すること。)

 

 ところが本国の内田外相からは、「大体よいが、米国の招請はどんな意味でもいけない。まだ脱退の肚が決まったわけではないが、米国の参加は無害であっても、とにかく米国の参加というだけでもう受諾できぬ。だから連盟には、(米国の)全面削除まであくまで押してみよ」という訓令が来た。

 

 1月16日十九人委員会が再開した。委員たちは杉村・ドラモンド交渉に関して、「我々の留守中、ジュネーブで交渉するとはけしからぬ、事務総長(ドラモンドらしい)の越権である」と主張し、クリスマス休暇前に十九人委員会が、議長と事務総長と日本側との連絡を保つことと決定していたことを忘れ、杉村・ドラモンド交渉試案を否認した。

 

 さらに、日本本国からは米国招請をあくまで削除せよというのだから、その趣旨に従って修正案を十九人委員会に提出すると、委員会は、「日本は満州国否認より、米国招請の方を重大視して、削除を要求するのか。それなら日本の(米国排除の)要求をいれる代わりに、12月15日の草案の他の(残りの)部分、つまり、満州国不承認を受諾せよ」とした。これで(日本の)ジュネーブ代表部が作り上げた空気は打ち壊しになった。

 

1月18日、十九人委員会は、和協の道は閉じないとしつつ、第15条第4項による、日本の諾否に拘わらず押し付ける勧告の起草に取り掛かった。

 

183 松岡全権が脱退の他なしと見極めたのはこのころではないか。内田外相が欲を出しすぎたため、脱退しないで済ませられるように代表部が仕上げてきたものを、脱退の方向に向けてしまった。そのころ東京の肚はまだ脱退とは決まっていなかった。脱退の動機を作ったのは内田外相で、松岡は和協したかった。

 

 その後、熱河進撃の報に英国の態度は硬化し、和協工作はますます困難になり、2月21日採用(表決)のための総会が開かれることになった。代表引き揚げの訓令はこのころようやく到着した。

 

 2月24日脱退(退場)の日の総会で、午後1時25分、リスアニア、ベネズエラ、カナダ三国代表の演説が終わり、カナダ代表が降壇すると、イーマンス議長が、「これより日支紛争に関する規約第15条第4項による報告並びに勧告案の表決を行う」と宣言し、「出席者は当事国を入れて44カ国」と付け加え、報告した。

 正面一段高い壇上に議長イーマンス、その隣にドラモンドその後ろに杉村次長が見える。(一緒に退場したのか。おそらくしなかったのではないか。)

 各国代表席のモッタ、マダリアガ、ノイラートらは「それ見たか日本」というような顔をしている。

184 ボンクールの顔も見える。松岡、長岡、佐藤の三代表と代表部の人達も見える。

 壇上で書記官が、ABC順にロールコールをする。各国代表は「イエス」「ウイ」の連発だ。

 「ジャポン」に対して、「ノー」と松岡が叫んだ。議場に振り上げた松岡の剣のきらめきが光った。午後1時25分だ。

 「イエス」「ウイ」が続く。当たり前のことを当たり前のように片づけたという感じがしたので、一種の悲しみを僕に感じさせた。

突然「アブスタンシオン(棄権)!」という声がした。隣のデルソーに訊くと「シャムだよ」とのこと。後で訊くと、パドラデアジという若い書記官が、本国の訓令で答えたのだ。

 日本の反対宣言よりもこの方が一般にショックを与えたらしい。

 「評決の結果、賛成42、反対1を以て報告並びに勧告案を可決します。」と議長が宣言した。

 それに続けて「日本代表ムッシュ松岡!」と議長が松岡代表の発言を許した。午後1時半だった。

 「…日本政府は日支紛争に関し、国際連盟と協力せんとするその努力の限界に達したことを感ぜざるを得ない!」荘重な言辞だった。

185 議場は松岡に呑まれてしまった。松岡は報告書反対の宣言の朗読演説を終え、壇上から議場内を見下ろし、一言日本語で「さようなら」と付け加えた。

 

 日本の全権席から松岡全権を初め、三代表が立ち上がった。三人は一列になって議場の間を抜けて廊下に出た。僕は松岡らを追いかけた。

 議場に戻ると、ひときわ目立って元気そうに見える支那代表の顔恵慶の一行が出てきた。皆無理に賑やかにしているように、僕には感じられた。

 

 その翌日の2月25日、10万の満州軍が三路に分かれて堂々と熱河に進撃を開始した。

 

1935年、昭和10年4月号 (1932年の出来事なのに、その3年後に発表している。なぜか。)

 

以上 2020825()

 

2020年8月23日日曜日

松岡洋右縦横談 1933年、昭和8年9月号 「文芸春秋」にみる昭和史1988 要旨・感想

 松岡洋右縦横談 1933年、昭和8年9月号 「文芸春秋」にみる昭和史1988

 

 

感想 2020823()

 

 松岡は饒舌でアイデアマンで面白いのだが、日ソ中立条約を結んだ直後に対ソ戦を主張するなど、独ソ戦が始まり、自らが構想していた四国連合案が潰えたからといっても、思想的に無節操ではないか。しかしそういう無節操な松岡でも、若い頃アメリカで10年も生活しただけあり、ライバル視はするものの、アメリカを特別に考え、対米戦だけは避けたかったのではないかと思われる。

 

感想 2020822()

 

本文とは直接関係がないが、五・一五事件に関する新書版*を読んでいて、藤井斉が北一輝の思想に傾倒していたらしいと分かり、愕然とした。なんであんなファナティクな思想に傾倒するのだろうか。そしてそれを実行に移すために、時の首相まで殺害するのか、信じられない。

 すごく思い上がっている。自己中もいいところだ。それを本文の松岡は、方法はともかく、支持しているのだ。支持する民衆も信じられない。

 

*小山俊樹『五・一五事件』中公新書

 

感想 2020820()

 

巧みな文章だ。言葉に裏があり、額面どおりに信用できない曲者、政治家、扇動家である。

情緒的。その情緒のもとを日本人、皇室、神話に求める。欧米世界の中で孤立していた当時の情況を反映しているのかもしれない。

吉田松陰、藤田東湖の水戸学、霧島山などに精神的支柱を求める。173

血盟団事件や五・一五事件を、その方法では非難するが、心情では擁護している。174

戦略的には満洲一点に焦点を絞る。「満蒙は日本の生命線」を主張する。175

 

感想 2020820()

 

ウイキペディア「松岡洋右」を読んで、再考。私は、松岡は東大卒かと思っていたが、東大を目指して準備した時期もあったが、東大の教育内容を見て飽き足らず、独学で外交官試験を目指し、トップで合格したとのこと。

また苦学し、1893年、親戚が既に渡米して成功していたことなどから米国に渡り、東洋人だと差別され過酷な労働を強いられながら、1900年、アメリカのオレゴン大学法学部を卒業した。松岡は英語が非常に上手になった。アメリカで松岡が得た教訓は、「力に力で対抗することによって初めて真の親友になれる。」ということとのこと。またアメリカ時代に、キリスト教に入信1893したように、松岡は最初から日本主義者ではなかった。1902年、母の病気もあり、9年ぶりに帰国した。

 日本に帰ってから明治法律学校(現・明治大学)に籍を置きながら東京帝国大学を目指したが、授業内容が物足りず、独学で外交官試験をめざし、1904年、外交官及領事館試験に首席で合格し、外務省に入省する。

領事館補として中華民国上海、関東都督府に赴任。このころ満鉄総裁の後藤新平や三井物産の山本条太郎の知遇を得る。1919年のパリ講和会議に随員(報道係主任)として派遣され、日本政府のスポークスマンとして活躍した。その後中華民国総領事を経て、1921年、外務省退官。…以下、松岡に関するウイキペディアの記述は延々と続く。それだけ松岡が外交を中心とする政治の舞台で活躍したということだ。本文を執筆した時期、つまり国際連盟の席を蹴って退場した時期の松岡は、次第に日本主義に転身したようだ。また、彼は饒舌で自信過剰であったため、周囲の者からだけでなく昭和天皇からも嫌われ、松岡を外相から外すために、内閣が総辞職するということまで行われた。戦後松岡はA級戦犯に指定されたが、判決が出る前に結核で死んでしまった。さらなるウイキペディアの要約は、後に回す。

 

要旨

 

編集部注

 

171 1933年、昭和8年2月24日、外交努力もやったが、満州国不承認が、国際連盟の特別総会で、賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム)で可決された。このとき松岡洋右は日本全権を務めた。松岡は、「もはや連盟に協力できない」と述べ、席を蹴って退席した。3月27日、日本は正式に国際連盟から脱退した。国民は、帰国した松岡は英雄として迎えた。

 

本文

 

 私は今誰にも会いたくない。(嘘)私のやった仕事を偉大だとするのは、世間の人々の感傷である。私は私に与えられた役割を果たしたに過ぎない。日本人としての私が当然なすべき仕事をしたに過ぎない。(宣伝文句)私は世間の人々の記憶から忘れられたい。(これも嘘)

172 鹿児島の駅頭は、私を出迎える人々で溢れた。(宣伝文句)私のまぶたには熱い涙が湧いた。人々は純情素朴だ。私は鹿児島での歓迎会を辞退しきれなくて出席したが、私は盛大な歓迎を受ける資格などないと述べた。

 私が故郷の三田尻に帰ったとき、そこでも歓迎会を開く準備をしていたが、私は応諾する勇気がなかった。私は申し訳ないとは思うが、誰とも面会しない。東京や満洲から訪れる人とも面会しない。会えば朝から晩まで私の時間の全部がそのために塞がれてしまい、(饒舌家)何のために田舎に引き込んでいるのか分からなくなる。

 

 私は毎日沖へ釣りに出かけた。しかし私は適当な時が来れば口を開くつもりだし筆も取ろう。

 新聞が私の鹿児島への旅程を事前に報道したため、至る所の歓迎で実に迷惑した。私の南九州への旅の目的は、霧島山を訪れ、皇祖発祥の地を親しく拝観することだった。そして薩州勤王の史蹟を訪ね、南洲西郷隆盛翁を偲ぶためだった。

173 薩摩では南洲翁の遺愛の品々、遺墨の数々を親しく目の当りに見て、感慨にうたれた。皇祖発祥の地霧島山を登攀した。ここは一生に一度は訪れねばならないところだ。それは日本人として当然のことだ。

 皇祖発祥の地という高千穂峰は、日向に三ヶ所あるそうで、宮崎県知事は、皇祖発祥の地は霧島ではなく高千穂峰だと私に勧めた。しかし、私は皇祖発祥の地が日向に三ヶ所あることを知らず、すでに霧島に決めていたし、(日向は)旅程にも組んでいなかったので、断ってやめた。(頑固)

 

松陰神社にも最近参拝した。時が時であるから、いっそう印象深かった。松下村塾を訪れ、松陰先生の教訓を思い起こし、感慨深かった。

 ジュネーブに向って出発する際、徳冨蘇峰先生から、松陰先生が書かれた碑文の石摺りを戴いたが、その石摺りの村碑の、先生の御筆跡にも目の当りに接し、新しい感銘を受けた。(このあたり、日本主義の宣伝)

 私は今水戸を訪れたいと思っている。水戸学を研究したい。

174 明治維新の勤王の根元は水戸ではないか。理論的基礎は水戸であり、その実行的運動を薩長がやった。防長の勤王は水戸に淵源するのではないか。松陰先生も水戸学の影響を受けておられる。藤田東湖等の傑物の出た水戸を是非訪れてみたい。

徳川家の一門、御三家の上席、天下の副将軍をもって任じた水戸の徳川家が、その本家の徳川幕府を倒し、天皇親政の明治維新の根元・導火線をなした。

 

 血盟団事件、五・一五事件等々の最近の大事件を考えてみても、水戸学がその根底に流れていると思われる。

 最近のこれらの大事件の関係者の動機において、日本人として誰しも異議のないところだろう。私も充分その心情を是とする。けれどもその実行の方法は、厳重に非難されねばならぬ。いざ実行となると、なかなか正しい路を行くことは難しいものだ。*

 

*松岡は1930年、満鉄を退職し、2月、山口2区から立候補(政友会所属)して初当選。議会で幣原外交を批判して、国民から喝采を受けていた。

 

 日本は今澆季(ぎょうき、末世)ではない、非常時ではない。私はジュネーブで感傷的ではなかった。 私は最初に日本の地を踏んだ時、涙が自から双頬につたわるのを禁じえなかった。それは、この松岡に対して、路傍の労働者たち、その妻子たちが、帽子を取り、働く手を休めて敬礼してくれたからだ。敬礼されたからうれしかったのではない。私がその人々の偽りのない純情と素朴さに心打たれたからだ。この純情がある限り日本は非常時ではない、澆季ではない、決して滅ぶべきではないと私は思った。

 こうした中流以下の人々の純情に、その後あらゆる機会にぶつかった。特に田舎に入るにつれ、一層深く感じた。

 日本の中流以下の人々の中には、この国を思う純情が失われていない。中流以上の人々の中には、功利的、実利的になり、これを失っている者があるようだ。田舎よりも都会で失われている。とはいえ都会の人々は経済的圧迫を直接に受け、脅威にさらされているから、あながち責めるわけにいかないだろうが。

175 私は感傷から立ち直り、沈思し、南洲先生、松陰先生の旧蹟を弔い、修養につとめることにした。世間の人々は感傷的になっている。私は世間の人々が理性を取り戻す日を待つ。

 

 幣原さんが外務大臣のとき、幣原さんは忠誠であった。忠誠ならずして国家の仕事に当たれない。しかし幣原さんと私とは方針が異なり、立場が異なる。幣原さんは支那を知らない、実際に支那を見てきた人ではない。支那問題に関係している日本の人々の考え方は一方に偏している。全体の支那を見透かした対支政策を立てていない。

 私は最初上海に入った。それから満洲に入った。私は支那全土を歩いた。ただし福州まで行ったが、遺憾ながら広州に行かなかった。

 幣原さんは満蒙問題も、中支の揚子江沿岸の対支貿易も両方とも上手くやっていこうとした。国家から見れば満蒙は実に生命線であり、また主にこれは大阪方面であるが、対支貿易も国家的見地から見れば重要だ。幣原さんはこの二つを共に調和して上手くやろうとした。しかし、二兎を追うものは一兎をも得ずの道理で、支那問題は行き詰まった。私は満蒙問題だけに没頭して、一意専心努力し、南支、中支貿易は、止むを得なければ犠牲にしてもよいと考えている。10年間満蒙問題にわき目も振らず努力すれば、支那に関するあらゆる問題は解決する。

 ロシアと満蒙とは数千里境を接しており、その境界線ははっきりしておらず、どこからでも入ってこられるようだが、入り口は三ヶ所しかない。東支鉄道の口からと、外蒙古から張家口に抜ける道からと、天山北路伊犂(いり)からの途である。満蒙に強固な独立国ができれば、ロシア問題は解決する。

176 北支の匪賊が騒ぐ時だけ止むを得ず実力行使に出ればよい。しかし喜んでなすべきものでなく、深入りを避けねばならない。(自信過剰)

 満蒙が日本の生命線であることは、世間の人々にはっきり認識されたようだ。

 杉村陽太郎が政友会で講演した。杉村は、「満蒙だけを生命線というのはケチだ、我々は南洋に生命線を認めねばならない」と言った。

 私も南洋の重大さは10年前から認めている。しかし私は、もっとも正確に、もっとも厳密に考えて、満蒙を日本の生命線とした。生命線とは急所を意味する。その急所に致命的一撃を受ければ、国家はその存立を全うできなくなる。

 英国の生命線はエジプトであって、インドではない。エジプトが他国に領有されれば、スエズ運河は扼され、インドは英国の手から離れ、豪州やカナダはどこかへ行ってしまうだろう。そうなれば英国は国家的存立を主張できなくなる。

 米国の生命線はカリブ海だが、今はそれがパナマまで延長されている。ハワイや東アジアではない。

 国家の生命線は、国家が大きくなるに伴って拡大する。

 南洋経営も重要だが、今後10年間は、日本は満蒙に専心努力しなければならぬ。それは一切を好転させる。支那問題も、南洋問題も自ら上手く行くはずだ。

 満蒙問題の解決は、東洋の永遠の平和の鍵である。

177 世間の人々は、このことをまだ充分に飲み込めていない。

 宗子文*や顧維均*や張学良が欧米で活躍しているが、そのことにいらぬおせっかいをしないで、満蒙を固めることに専心すべきだ。

 支那は広いから統一が完成しないため、始終ごたごたしている。そういう国が借りた金を必ずはっきり返す見込みがあるはずがない。支那人は弁舌が達者だ。宗子文等も、後で払えなくなっても、うまく欧米諸国を引っ掛けようとしている。欧米各国も、経済的苦境から脱却するために、支那市場に目をつけているが、欧米諸国が簡単に支那の話に乗ってくるとも思えない。

 支那は信用できない国であり、金を貸したら回収できない。最初に欧米諸国が、支那は亡国であるという認識を持った。欧米諸国が手を引いた後で、日本が支那に金を貸した。愚かな西原借款*が最後の幕となった。

 

*西原借款 1917年1月から1918年にかけて、寺内正毅首相の大蔵大臣勝田主計が主導し、寺内の側近西原亀三が交渉に当たり、中華民国の段祺瑞政権に対して行われた、総額1億4500万円の、西原個人によるものとして行われた借款である。(列強との協調のため、外交ルートでは行われなかった。)また、3208万円の武器供与も行われた。

段が1920年に失脚し、ほとんど償還されなかった。鉄道・鉱山・森林を名目としていたが、実際は段祺瑞派軍閥の軍費に使われた。中国を円経済圏に取り込む目論見があった。

 

 欧米諸国ははっきりとした利益追求を目的としている。米国は支那の小麦市場を開拓しようとしている。

 私はジュネーブからの帰路、米国の上院議員外交委員長のピットマンと会談した。彼は私の言に屈服して一言もなかった。彼らははっきり利益・打算を考えている。

米国が支那に放資するにしても、軍艦が横付けできる、実力行使ができるところにしか資本を投下していない。上海でも軍艦がすぐ裏口までつけられる電話局を握っている。

 支那の、欧米諸国との借款成立はなかなか容易でない。欧米諸国は、よい条件の利益や確保できる利益を交換条件とするに違いない。日本のように「国策のため」などの美しい表看板を掲げない。

 

178 ジュネーブの国際連盟で働いている日本人は、もう日本人でなくなっているようだ。あれでは日本人たるの精神を持っているはずがないし、日本人としての自信も持っていない。

 ジュネーブで私は外務省子飼いの外交官たちの無力さ、無知に驚くと共に、新聞記者たちがよく事情を知り、事理を弁えていることに驚いた。外務省育ちの外交官たちは、煙草を吸い、漫談を続けて、適当な時日を経れば、一段ずつ昇進してゆく。彼らは苦労もせず、勉強もしない。それに対して新聞記者は、毎日苦労している。欧米の有名な外交家は、外報記者や新聞記者出身の人が活躍している。私は帰朝して大毎の歓迎会の席上で、重役たちに、海外特派員をもっと活躍させるために、もっと多額の金を送るように促した。彼等に自由に知名人士と交際できるようにさせたら、もっと効果が上がるはずだ。

 

 私は沈黙を続ける。新聞も読みたくない。近頃は漢籍を読んでいる。私はひそかに来るべき日に備えている。来るべき日の計画に心を砕いている。今は沈黙する。虚名の松岡は滅びて、真実の松岡がいつか日本の表面に現れるだろう。時が来れば私も再び世間の人々の面前に出るだろう。

 

1933年、昭和8年9月号 

 

以上 2020822()

 

ウイキペディア「松岡洋右」1880.3.4—1946.6.27  外交官、政治家。「弐キ参スケ」*の一人。

 

*東條英機、星野直樹、鮎川義介、岸信介、松岡洋右。この「参スケ」は、「満洲三角同盟」とも言われ、いずれも山口県周防地方出身で、互いに姻戚関係がある。

 

廻船問屋の四男。洋右が11歳の時、父親が事業に失敗し、1893年、親戚が既に渡米して成功していたことなどから、留学のために渡米した。メソジスト監督教会の牧師メリマン・ハリスMerriman Colbert Harrisの庇護の下、日本自由メソジスト教会の指導者となる河辺貞吉から洗礼を受けた。寄宿先で仕事をしながら、学校へ通った。東洋人だと差別された。このころに松岡が得た教訓は、「力に力で対抗することによって初めて真の親友になれる。」ということだった。

ポートランド、カリフォルニア州オークランドなどで勉学した後、1900年、オレゴン大学法学部を卒業した。またオレゴン大学と併行して早稲田大学の法学講義を取り寄せて勉学した。

1902年、母の病気もあり、9年ぶりに帰国した。松岡は終生アメリカを第二の母国と呼び、英語を第二の母語と呼んでいた。

 

 日本に帰ってから明治法律学校(現・明治大学)に籍を置きながら東京帝国大学を目指したが、授業内容が物足りず、独学で外交官試験をめざし、1904年、外交官及領事館試験に首席で合格し、外務省に入省した。

領事館補として中華民国上海、関東都督府に赴任。このころ満鉄総裁の後藤新平や三井物産の山本条太郎の知遇を得る。短期間のロシア、アメリカ勤務の後、寺内内閣(外務大臣は後藤新平)の総理大臣秘書官兼外務書記官として両大臣をサポート。

1919年のパリ講和会議に随員(報道係主任)として派遣され、日本政府のスポークスマンとして活躍した。この時、同じく随員であった近衛文麿と出会った。帰国後、中華民国総領事を経て、1921年、外務省退官。

 

退官後、山本条太郎が、松岡を南満洲鉄道の理事として引き抜き、1927年、副総裁。撫順炭鉱で石炭液化プラントを指導した。

1930年、満鉄を退職。2月、衆議院議員総選挙に山口2区から立候補(政友会所属)し、初当選。議会で対米英協調路線と対支内政不干渉方針の幣原外交を批判し、国民から喝采を浴びた

但し松岡は、満州事変による武力行使には反対で、民政党との協力内閣を主張したが、民政党の若槻内閣が拒否したため、その後一転して、満州国の早期承認を主張するようになった。(変わり身が早い)

 

1931年9月21日、中華民国政府は日本の軍事行動に関して国際連盟に提訴し、連盟理事会は1931年12月10日、リットン調査団の派遣を決定した。1932年10月、リットン報告書が連盟に提出された。それは2ヵ月後に始まる連盟総会の審議の基礎データとなった。報告書は日本の満洲での特殊権益を認めたが、結果的には満洲を国際管理下におくことを提案し、満州国を認めなかった。日本国内の世論は硬化し、日本政府は、報告書提出直前の9月15日、満州国を正式承認した。

 

1932年10月、日本政府は、首席全権西園寺公望、全権牧野伸顕、全権松岡洋右を連盟総会に派遣した。派遣に当たり、日本政府と外務省は、松岡に訓令を発した。脱退を規定路線として赴いたのではなく、できるだけ脱退を避ける方針で臨んだ。

1932年11月21日、連盟理事会で日中紛争に関する審議が始まり、日本政府全権の松岡と中華民国全権の顧維均が演説した。

12月8日、総会が開かれ、松岡は1時間20分、原稿なしで大演説を行った。「十字架上の日本」とでも題すべきもので、会議場では絶賛の拍手が渦巻いた。連盟総会での対日批判の急先鋒は、中華民国、スペイン、スイス、チェコスロバキア、オランダ領東インドだった。

松岡の演説後、「リットン卿一行の満洲視察」という満鉄広報課作成の映画が上映され、600人が観覧したが、これまで日本に対して反対の立場だったチェコスロバキアの代表ベネシュは、日本の満洲開発の姿勢を絶賛した。

1933年2月20日、日本政府は閣議で、リットン報告書をベースにした勧告が連盟総会で採択された場合、連盟を脱退することを決定した。2月24日、総会で勧告案への採決がなされ、賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム)で採択された。松岡は宣言書を朗読し、退場した。

 

 2月25日、読売新聞は「我が代表席を蹴って退場」「松岡代表堂々反対宣言」と報道し、東京朝日新聞も「連盟よさらば!遂に、協力の方途尽く」「我が代表堂々退場す」などと、新聞各紙はすでに連盟脱退を支持していた。英雄として迎えられた松岡は「今こそ日本精神の発揚が必要」とインタビューに答えた。

松岡は帰路ロンドンに立ち寄った際、市民から「日本は賊の国だ」と罵られた。

3月8日、日本政府は脱退を決定し、27日、連盟に通告した。

 

松岡は「言うべきことを言ってのけた」初めての外交官として、「ジュネーブの英雄」として国民から凱旋将軍のように大歓迎された。言論界も清沢洌など一部の識者を除いて、松岡を支持した

 

帰国後松岡は「国民精神作興、昭和維新」などを唱え、1933年、政友会を離党し、「政党解消連盟」を結成して、議員辞職した。全国遊説し、政党解消連盟の会員は200万人となった。松岡は「ローマ進軍ならぬ東京進軍を」などとファシズム的論調を展開した。

1935年8月、満鉄総裁として着任。(1939年2月まで)この間、1938年3月、ハルピン陸軍特務機関長の樋口季一郎は、満鉄総裁の松岡の了承をとりつけ、独逸の抗議にもかかわらず、シベリア鉄道のオトポール駅(現ザバイカリスク駅)に逃げてきたユダヤ人を、アメリカの上海租界まで逃がしてやった。(ヒグチ・ルート)

 

 1940年、近衛文麿が大命降下(天皇が組閣を命じる行為)を受け、外務大臣として松岡を指名した。松岡は軍部に人気があった。松岡は「軍人に外交の口出しはさせない」と言ったが、陸軍大臣予定者の東條英機陸軍中将は、直後に外交案件を提案し、松岡の言を無視した。7月22日、第2次近衛内閣が成立した。

 松岡は、就任したばかりの重光葵駐英特命全権大使以外の主要な在外外交官40数名を更迭し、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命し、「革新派」外交官白鳥敏夫(日独伊三国同盟推進)を、外務省顧問に任命した。松岡は有力な外交官を外務省から退職させようとしたが、駐ソ大使を更迭された東郷茂徳らは辞表提出を拒否した。松岡は公の場で外交官を罵倒した。

 当時、日中戦争は泥沼化し、日米関係は険悪となっており、陸軍は三国同盟を主張していた。しかし、松岡は、日米両国による平和のための協力を唱えていた。

 松岡は重慶の国民政府と汪兆銘の政権との合体工作を行った。(香港工作)しかし汪兆銘政権を支援していた陸軍が反対して頓挫した。松岡は汪兆銘政権を正当な中国政府として承認した。松岡は「満州国だけを確保して中国から全面的に撤退するのが一番よいが、それが少なくとも当分実行不可能である」と嘆いた。

 松岡は世界を、それぞれ「指導国家」が指導する4つのブロック(西欧、東亜、アメリカ、ロシア)に分けるべきだと考えており、日本・中国・満州国を中核とする東亜ブロック、つまり大東亜共栄圏(この言葉は、松岡がラジオで使ったのが、公人としては初出)の完成を唱えていた。ブロック形成によりナショナリズムを回避し、やがて世界国家に至る、そのためには指導国家同志の協調が必要だと松岡は考えていた。

 松岡は、ドイツ人は信用できないと考えていたが、武藤章は、松岡に三国同盟を勧めた、というより承諾しなければ内閣を潰すと脅した。松岡は三国同盟に傾斜していった。

 松岡は、独逸の軍事力優勢の観点から、西欧ブロックが独逸の指導下に形成されると考え、1940年8月頃から三国同盟を検討するようになった。

中国問題をめぐって日米、日英関係が悪化していた。ドイツは松岡に日中和平の仲介をすると働きかけた。外務省のOB小幡酉吉、松平恒雄、吉田茂などを含む外務省の一部は、日独提携に反対した。三国同盟推進派の白鳥敏夫は、松岡に決断を迫った。松岡はこの時期暴漢に襲われた。外務省顧問の斎藤良衛は、それを陸軍や右翼の指示と考えている。

 松岡は伊藤博文の影響もあり、親ロシアを唱えていた。松岡はソ連にパキスタンやインドへの進出を認めれば、ソ連の東進は防げると考えていた。松岡は、軍部の反対を抑えながら、独逸の斡旋による日ソ関係構築を考えていた。

 1940年8月13日、松岡はドイツの使者ハインリヒ・ゲオルク・スターマーと会談した。ドイツの外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップも、ソ連を加えた日独伊ソ四カ国同盟を構想し、日ソ関係の仲介を提案した。松岡は、日独の提携で、アメリカの西欧や東亜への介入を防げると考えた。そしてアメリカの反感は楽観的に考えた。

 1940年9月27日、日独伊三国軍事同盟が成立した。しかしその後独ソ関係は悪化し、四国連合樹立や日ソ関係の橋渡しとしてのドイツに期待できなくなった。ソ連は、四国同盟への参加条件として多数の領土要求をドイツに出していた。

 1941年3月、松岡は独伊を訪問した。その時ドイツから対英軍事的圧力の確約を求められたが、「私は日本の指導者ではないから確約できない」と逃げた。往路と帰路二度モスクワに立ち寄り、帰路の4月13日日ソ中立条約を電撃的に調印し、相互不可侵を確約した。チャーチルはこの時松岡に、「ヒトラーは近い内に必ずソ連と戦争をする」というM16(英情報機関の一つである秘密情報部SIS)から仕入れた情報を渡したが、松岡はそれを無視した。

 

 松岡が外相であるのに、上述の外遊中に、松岡を抜きにして、日米交渉が進展していた。駐米大使・野村吉三郎と米国務長官コーデル・ハルとの会談で、日米諒解案が合意され、それは日本に4月18日に伝達された。同案には、日本軍の中国大陸からの段階的な撤兵と引換えに、米側の満州国の事実上の承認、日本の南方における平和的資源確保にアメリカが協力することなどが盛り込まれ、三国同盟の事実上の死文化は含まれていなかった。

 この諒解案は、日米の民間人が共同で作成し、野村・ハル会談で、交渉の前提として合意されたものであった。しかし、日本側はこれをアメリカ側の提案だと誤解し、交渉開始に賛成した。*1

 4月22日、松岡が帰国し、この案に反対し、静養と称して閣議を欠席した。松岡の自尊心が傷つけられたのだ。松岡は諒解案が本当かと疑い、野村に英文の原文の送付を求めた。諒解案はアメリカの提案ではなく、野村は松岡に前文しか送れなかった。*2

 5月3日、(松岡は)アメリカに日米中立条約の申し入れをした。

 松岡修正案を仕上げ、5月8日、それを大本営政府連絡懇談会に提出した。松岡はアメリカが参戦すれば戦争が長期化し、アメリカに参戦させないことが必要だと唱えた。陸軍参謀総長・杉山元は「外相独舞台の感あり」としており、松岡は、軍部から批判的に見られるようになった。

 松岡修正案は、陸軍に配慮し、満州国の承認と、防共のための駐兵が組み込まれた。米側の対応には暫く時間がかかった。その間、松岡はさらに提案を修正して米側に渡した。近衛や東條は、松岡がアメリカに言いがかりをつけ、交渉の決裂を期待していたと言う。しかし、顧問の斎藤良衛は、松岡がアメリカと戦うべきだなどと一度も言っていないと言う。

 6月22日、ハルは松岡修正案への回答を行った。松岡はこの回答に反発し、受け入れなかった。6月21日の米提案は、満州国承認が消え、汪兆銘政府の否認、アメリカの欧州参戦を否定せず、日米は太平洋での領土的企画を持たない(南進の否定)など、厳しい条件となった。*3

 

*1、2、3 加藤陽子『戦争まで』によれば、野村・ハルの「日米諒解案」をアメリカの正式な提案ではないと解釈するのは間違いで、れっきとした正式な提案であったとのことだ。335

その後の1回目の松岡修正案5/12における問題点は、米が汪兆銘政権を認めること、つまり日本が中国本土から撤退しないということを米に求めたことではないか。米側がそれに反対6/21し、松岡がそれを大筋で認めた2回目の修正案7/15を提出した直後、松岡は更迭され7/16、その返事を見る前に、日本側が7月に南部仏印への進駐を断行した7/23ことが、決裂の決定的な原因ではないかと私は思う。

 

 6月22日、独ソ戦が始まったため、松岡のユーラシア枢軸機構・四国連合案は潰えた。松岡は、ドイツ訪問時、リッベントロップから、独ソ衝突があり得ないとはいえないと言われ、また、ヒトラーからは、独ソ国境に150個師団を展開したことを明かされたが、松岡は閣議でこれを報告せず、独ソ開戦を否定し続けた。(本当か。個人プレーではないか。)スターリンも独ソ戦情報が信じられず、開戦時に大きな損害を被った。

 独ソ開戦により三国同盟の目的がなくなったとして三国同盟の破棄を主張する閣僚がいた。(鈴木貞一、平沼騏一郎ら)松岡は、締結したばかりの日ソ中立条約を破棄して対ソ宣戦し、ソ連をドイツとともに挟撃することを主張し、南部仏印進駐に反対した。政府首脳や世論は北進論に否定的で、独ソ戦でソ連の脅威が消滅したとして、南進論が優勢となった。

松岡は陸軍と対立し、閣内で平沼騏一郎ら反ドイツ主義者と対立し、日米交渉の継続は不可能であると主張した。昭和天皇が松岡解任を主張し、近衛文麿首相が松岡に外相辞任を迫ったが、松岡は拒否し、7月16日、近衛は内閣総辞職し、松岡を外して第3次近衛内閣を発足させた。そして南部仏印進駐が行われた。

 

 松岡は、対英戦争は不可避と考えていたが、対米戦争は望んでいなかった。松岡は、英米一体論を批判し、ドイツと提携してもアメリカとは戦争にならないと考えていた。

 

 1941年12月8日、松岡は、日米開戦の報を聞いて、「三国同盟は一生の不覚であった」と号泣したという。

 しかし、松岡は、緒戦の勝利に興奮したが、対米開戦は外交上の失敗であり、日英米の国交処理をいつかはしなくてはならないと徳冨蘇峰宛の手紙に書いた。

 その後結核に罹患して痩せ細った。1945年、旧友で終戦工作中の吉田茂から、和平工作のためのモスクワ訪問を依頼され、松岡は乗り気だったが、ソ連が拒否した。

 

 敗戦後、A級戦犯容疑者として逮捕されたが、出廷したのは一度だけで、1946年6月27日、駐留米軍病院から転院した東大病院で死去した。

 

以上 2020823()

 

斎藤幸平『人新世の「資本論」』2020

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