幣原喜重郎『外交五十年』中央公論新社1987、読売新聞社1951
幣原喜重郎1872明治5-1951 東京帝大英法科卒業。
感想 2026年9月2日(水)
009 序 本書は幣原喜重郎が1951年ころ読売新聞社の要望に応じて半生を回想して語ったものであるが、ちょこちょこと日本帝国主義のお先棒を担いで喜んでいるようにも見える。
二つの事件を紹介する。いずれも幣原が組織に独断でやったことである。自慢したいのかもしれない。
016 一つは日露戦争の開戦を遅らせるために独断で朝鮮所有の電話線を切ったという事件である。開戦を遅らせるという意味では平和主義者的とも言えるが。幣原が釜山で領事だったころ、海軍の某艦長が幣原に「戦争が始まったら、朝鮮所有の釜山・京城間の電線を奪えという命令を受けている」と語ったという話のあと、釜山港でロシアの商船マンチュリーを日本の軍艦が拿捕したみたいで、その直後ロシア領事から強い抗議文が届いた。幣原は直接出向いて受け取りを拒否した。さらにロシア領事が本国に電報を打たないように、警官を郵便局に出向かせて実力で阻止し、さらに、警察の一隊に電話線を切断させたというものである。*
*幣原が1904年ころ、朝鮮の主権を侵害して朝鮮所有の電話線を切断するという帝国市議的暴挙に出たとのことだが、日本は日清戦争後1895/4/17に既に閔妃を殺害1895/10/8してロシアと朝鮮との関係を断とうと画策し、日清戦争どころか、日露戦争の緒戦がすでに始まっていたのですね。
028 もう一つは、ポーツマス条約締結寸前の話である。当時幣原は外務省の電信課長だった。石井菊次郎通商局長が、駐日英大使マクドナルドから、ロシア皇帝が「もともとサハリン南部は日本軍が占領したことがあり、その後千島樺太交換条約でロシアのものになったのだから、サハリンの南半分なら割譲を考えてみる余地がないでもない」と中露英大使に語ったという話を聞き、日本側はその時までに小村に対して「割譲要求も賠償金要求も撤回しろ」と回訓していたのを、手続きを踏んでいたのでは間に合わないので、幣原独断で、小村に「前の電信の執行は、次の電信が着くまで延期せられたい」という電信を打った。それによって小村は腹痛を口実に会議の延期をロシア側に申込、結局、樺太南部を割譲することができたというものであり。幣原が32、33歳ころの話である。
感想 2026年9月5日(土)
022 日露戦争講和の件で、日本の民衆右翼・国家主義者が勢いづいたことがわかる。日露戦争終結時のポーツマスでの講和会議で、政府は弱腰だったようだ。賠償金は要求しないが樺太全土だけは要求しようという当初の山本権兵衛海軍大臣の提案について、その後の御前・元老会議では長時間の審議後、償金要求も割地要求も撤回することになった。025 その後の幣原の「機敏な」対応があるのだが、この間の情報は民衆にも伝わっていたらしく、講和会議後、政府高官(桂太郎首相と山本権兵衛)は民衆による銃撃を恐れて、帰国時の外務大臣・小村寿太郎を両脇で抱きかかえて、新橋駅を下車したという。そしてその後日比谷暴動が起こっている。
日露戦争直前には、本書にもあるように、幣原自身も朝鮮国所有の電線を切断するような事件を堂々と起こすなど、他国に対して傍若無人に振舞う行動が、当時の日本人の常識だったようだ。これは右翼的自愛行動の原型ではないか。右翼的・国家主義的な徳富蘇峰『近世日本国民史』1918-52も生まれた。
056 1921年のワシントン会議
083, 085, 088 山東省問題は日華の二国間交渉とされた。ここで幣原は定説とは異なる見解をしているように見える。パリ講和会議で金を払って買収すると決まっているのだから、山東の鉄道その他を正当にいただけるという論理である。
この時、幣原は権謀術数を弄して英米や中国側を抱き込み、最後は黙らせたように思える。そして中国側の一部は、その後日本を「理解」するようになり、幣原の自宅を訪問して交歓するまでになったというおまけつきだ。
093 対華21箇条の要求問題に関しても、幣原は議長の米を抱き込んで、問題を素通りさせてしまった。
078 暗号電信が米側に筒抜けだったことはどこかで聞いたことがあるが(第二次大戦時の話だったか)、ここでもそれが述べられている。ヤードレーという米人が、各国の暗号電信を盗んで、後に『ブラック・チェーンバー』という著書を出したとある。
104 1929年11月29日、佐分利貞夫・北京公使が怪死した。中国に友好的な外務省の役人は某筋からは憎まれる時代になっていたと思われる。
1921年11月4日、原敬・内閣総理大臣が暗殺された。
1932年2月9日、前大蔵大臣・井上準之助が暗殺された。
1932年3月5日、三井合名理事長財閥総帥・團琢磨が暗殺された。
自殺とされることはおかしい。中国ではこういう噂があった。「中国のために有利な解決をしようと思って日本に帰った。ところが東京でぐずぐず言う者があって目的を達しなかった。空しく帰任できない。それを苦慮して自殺した」という。
拳銃自殺とするにはおかしなことがある。左利きWikiなのに右手で拳銃を持っていた。右手でもっていたのに、銃弾は左のこめかみから右へ抜けていた。もう一点は、その拳銃は佐分利がいつも持っていたものではなかった。自分のものは鞄の中にあった。
下山国鉄総裁のむごい横死も、今なお自殺か他殺か判らないそうだ。
当時の佐分利の働きは非常なもので、ことに中国のためにはよほど面倒な仕事をうまくやっていた。これは中国人に大いに感謝されていいと思う。
108 奉直戦争と日本
116 南京事件
123 東支鉄道の紛争
129 ロンドン海軍条約
135 首相代理
153 満州を売る話
159 在野外交
173 満州事変
感想 2026年9月8日(火)
幣原喜重郎は外交官としての経験があるせいか、バランス感覚がよく、まとまった意見を表明できる。しかし、日本が帝国主義的に中国に臨んでいることに気づかず、それを「侮日」ととらえているように思われる。
1929年7月、ソ連も中国の抵抗にあって満洲から軍隊を退却させている。東支鉄道の領有権をめぐって中国はソ連を追い払った。中国がそうせざるを得ない理由が、日本の日露戦争後の満州での鉄道その他の利権ともつながっていることに気づかなかったようだ。123, 126
メモ
1930年代の日本の危険性 軍国主義的傾向への傾斜という危険性の原因は、
・国会で意思疎通がなかったこと。
・政治家に対して暴力が頻発していたこと。
前者の件で言えば、幣原喜三郎ら政権側がロンドン軍縮条約を強引に批准したこともこれに含まれる。
129 そもそもロンドン軍縮会議に全権として進んで行こうという人がいなかったという。その雰囲気を解釈すれば、「軍縮はしたくない、軍備を増強したい」という軍部などの要望が強かったと言える。若槻禮次郎前首相はいやいやながら全権を引き受けた。
133 幣原ら政権側は、枢密院で、ロンドン軍縮条約の批准を強引に行い、反対者との意思の疎通をあまり重視していなかったように思われる。
135 1930年11月、浜口首相が東京駅で狙撃された。私もその時たまたま東京駅に向かい、駅長から浜口の来る貴賓室に案内されたが、私は広田弘毅がロシア大使として赴任するのを見送りにホームに行ったので、難を逃れた。と言うのは、私も狙撃者・凶漢のブラックリストに載っていたからである。狙撃者はロンドン海軍軍縮条約に不満であるとその斬奸状の中で述べている。
139 統帥権干犯問題 私は首相代理のときに、ロンドン軍縮会議で条約を結んだことは天皇の統帥権の干犯だとして追及された。森恪が主導し、中島知久平が反対討論をし、政友会議員らは、私が話そうとするとワーワー言っていて聞く耳を持たなかった。私は天皇の誰何を得ている「軍事参議官会議」の議決を経ているから、統帥権の干犯にはならない、と説明しようとしたが、政友会の議員らはワーワー言って私に話させなかった。
144 私と浜口は大阪中学、京都の高校で同級だった。
169 日中戦争時、大山事件8/9後の第二次上海事変8/13の頃、和平案を中国側から提案されたが、日本の陸軍大臣は、「上海クリーク事変はまだ序の口で、南京を攻略してからでないと和平はできない」と蹴った。しかし、戦後に分かったことだが、当時和平を望む松井石根大将(上海総司令官)もいた。これはドイツの新聞記者を通じて、呉鉄城・上海市長やトラウトマン駐中大使から私への提案であった。
173 幣原喜重郎は満州事変の原因を次のような要因だとするが、私は賛成できない。
井上準之助の緊縮財政は官僚の給料を減額し、兵隊の首を斬った。
中国側が侮日政策を展開した。つまり、
・小畑酉吉の中国への公使赴任に関する内諾を中国側が拒否した。その理由は、対支21箇条要求のとき小畑が北京公使館の参事官だったことである。
・中村震太郎大尉が虐殺された。(Wikiでは、軍人の身分を偽って満洲北部へ「旅行」(幣原)=視察・スパイ活動していた。)
・万宝山事件 朝鮮人の借地水田を中国官憲が差し押さえた(幣原)、Wikiでは、中国人農民が用水路を破壊した。
179 日本政府の満州事変に関する当時の事実認識 「初め中国の兵隊が満鉄の付属地内に進入して来て、線路の破壊を試みた。日本の守備隊がそれを追い払おうとして鉄砲の撃ちあいになった。それがだんだん双方人数を繰り出し、今でも対峙している。これ以上事態を拡大せしめない見込である。」と日本側の謀略であることに気づいていない。しかし幣原は、満洲の商工会議所の人から聞いた話から、軍が軍需品を買い集めていたのを知り、おかしいと思い、陸軍大臣南次郎に問い合わせている。
中国側は日中の直接交渉を経ずにすぐに連盟に提訴した。
184 朝鮮軍の満洲への派兵は陛下の裁可を必要とするのに、その手続きを取らなかった。しかしもうできたことはしょうがないとしてそのままになった。
185 関東軍の錦州出兵は、金谷範三参謀総長の進言に基づいて、陛下が奉勅命令を出し、奉天に戻させたが、関東軍は不満だった。
186 それをアメリカのスチムソン国務長官が、幣原の力によるものだと『ファー・イースタン・クライシス』という本に出し、それが日本に出回り、私は脅迫状を届けられたり、ある大学生の刺客に狙われたりした。
191 当時の軍隊は部下に対して統率がきかなかった。鎮圧したら軍事革命が起きただろう。支出を拒めばという意見もあるが、動乱の爆発を早めるだけだったろう。
192 宇垣一成陸軍大将大臣は三月事件にかかわりがない。宇垣は当時国府津にいた。
195 二・二六、逃避行
204 憲兵隊の脅迫
209 近衛公との会談
215 組閣と憲法起草
感想 2026年9月8日(火)
九条に関する記述はそれまでの幣原の明快な論調に比べてやや見劣りがする印象を受けた。歯切れが悪い。平野文書に比較すればなおさらだが、それは当然のことである。幣原の談話はそこでプッツリ終わっている。
幣原は第一部の最後で「余りにも生々しいので、それは後の機会に譲る」と、これ以上は語れないとしている。224
これは1951年、まだ占領時代の話であるから、方々に気兼ねをしているのかもしれない。幣原は日本の独立を見ずに死んだ。
223 「ある規定(戦争の放棄)の如きは少し進み過ぎて、世の非難を受けるだろうという多少の心配もあった。」
メモ
195 1932年2月の血盟団事件では、私も付け狙われた一人であったが、アダムス・ストークス症候群という奇病で病臥中であったので、幸か不幸か、その難を逃れた。
196 1936年の二・二六事件でも標的にされていた。
201 赤穂四十七義士や会津飯盛山での白虎隊の少年の切腹を美しいと幣原は言うが私は賛成できない。「見事で感嘆に堪えない」とか「少年は雄々しい死を遂げた」と言う。
204 大政翼賛会が組織され、議会は翼賛政治会になった。貴族院事務局から「翼賛会に入会していないが、賛否の返事を貰いたい」とのこと、すぐ不賛成の返事を出した。するとその二日ばかり後に、憲兵が憲兵隊長の名をもってやって来て撤回を勧めたが、私はアメリカの対日宣戦に反対した女性議員の話を出し、真の投票の意味を話した。「全員一致が決まり切っているドイツのような方式がいいのか、それともアメリカ議会のように自由意思による投票の方がいいのか。米方式の方が投票の真の価値が発揮されると思う」というと、その憲兵は「その通りだ。隊長から譴責されてもあなたの考えのほうがいいと思う」と言った。
219 聞け野人の声
「再びこのような自らの意思でもない戦争の悲惨事を味わしめぬよう、政治の組み立てから改めなければならぬということを、私はその時深く感じたのであった。」
「日露戦争の時は日夜提灯行列とか旗行列とかいうものが、何千人も外務省へやって来て、万歳万歳と言って騒いだものだ。夜になると私らの任務の一つは、玄関のところまで出て、その一行に応答することであった。その人たちの顔を見ると、みな満面に感動と喜悦とを湛えて、そのことが自分らの已むに已まれぬ仕事のように見えた。ところが今度は違う。みな黙っている。今度の戦争では、そんな行列が外務省へやってこなかったと思う。」(そうかな、出征兵士壮行会などあったのでは。対米戦争開始初期には国民も燃えていたようだが。)
230 「戦争を放棄し軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならないということは、他の人は知らないが、私だけに関する限り、前に述べた信念からであった。それは一種の魔力とでもいうか、見えざる力が私の頭を支配したのであった。決して誰からも強いられたのではないのである。」
231 「中途半端な役にも立たない軍備をもつよりも、むしろ積極的に軍備を全廃し、戦争を放棄してしまうのが、一番確実な方法だと思うのである。」
メモ
第二部 回想の人物・時代
227 外務省に入るまで
230 ロンドン赤毛布(あかげっと)
246 1901年ころ、ロンドンの下層労働者階級のための教育施設「トインビー記念館」は反共産主義あるいは反暴力革命的な教育機関のようである。
248 デニソンを憶う
256 サー・エドワード・グレーのこと
265 外交調査会の前後
279 西園寺公の思い出
284 米内光政と山本五十六
288 「米内光政など優秀な人物だ」と私がでまかせにダレスに言ったことが、米内の戦犯逃れの原因となったようだ。
291 鈴木貫太郎夫妻
292 二・二六事件当時、鈴木の奥さんが旦那に覆いかぶさって命を懇願したという話を以前どこかで読んだことがあるが、本書では、奥さんは近くで座って見ていただけで、鈴木貫太郎の命を助けた、つまりとどめを刺させなかったのは、襲撃した中隊長の鈴木に対する敬意であった。
299 オランダ女皇大いに笑う
302 汪栄宝との友情
307 国際連合と朝鮮
310 感激 2026年9月10日(木) 幣原喜重郎『外交五十年』中央公論新社1987、読売新聞社1951
当時の日本人の中にもこういう人がいた。幣原喜重郎である。
幣原は関東大震災の時に大阪方面にいて、早く東京に帰ろうとしたが、東海道線が不通で船も出ない。そこで名古屋から長野県を通って信越線で東京に帰ろうとした。以下は、信越線のある駅のホームでの出来事である。
「ある駅に汽車が停まっていると、私の目の前のプラットホームで喧嘩が始まっている。数名の若衆が一人の男を捉まえて、「こん畜生、こいつが東京で石油缶を持って歩いて、火をつけて焼いたのだ。ふとい野郎だ!」と怒鳴って、その男を小突いている。そうすると大勢集まって来て、口々に罵り騒ぐ。私は汽車から降りてそこへ行き、「この人が何をしたんですか」と聞くと、「こいつが東京を焼いたんです」という。「それは何か証拠があるのですか」「証拠なんかありませんけれども、話してご覧なさい、こいつは日本語をろくに話せない。朝鮮人に違いありません。東京はこいつら朝鮮人が焼いたんです」と、わけのわからぬ暴論を吐く。
そこで私は講釈を始めた。「そういう気持ちはいけません。とにかく今はこの人もわれわれの同胞で、日本国民です。たとえこの人が悪いことをしたとしても、あなた方はそれを懲罰する役目じゃない。それには警察とか、裁判所とかがあります。あなた方が乱暴するのはよろしくありません。ましてこの人がやったという何の証拠もないのに、あなた方が自分の同胞を虐め、それを見物して愉快そうにわあわあいうとは何ごとですか。それは日本の面汚しです」と、厳しくたしなめた。すると、「何が面汚しか」と抗弁する者もいたが、とにかくそれで大いに納まって、「貴様今日は許してやるが、もう一度あんなことをやると承知しないぞ」などと捨てぜりふを言って、みな散り散りに立ち去った。するとその朝鮮人が私をつかまえて、「おかげで生命が助かりました。何とお礼を言っていいか判りません」といって、わあわあ泣き出したのであった。」
38度線分割は非なり 幣原喜重郎『外交五十年』中央公論新社1987、読売新聞社1951
幣原喜重郎は、戦後進駐軍の顧問として来日したシカゴ大学教授のコールグローヴにも抗弁(「突飛なこと」)している。宴席で幣原は彼に「外国人は存外歴史の教訓を利用していないように思う」と言った。一つは国際連合が役に立たないこと。もう一つは朝鮮分割の非である。後者について幣原はこう述べている。
308 「それからもう一つ、あなた方のやることで僕に判らないのは、北緯38度線を境界線として、朝鮮を二つに割ったことです。これが果たして朝鮮の平和と幸福を保障する所以だとあなた方は考えているのですか。彼らは経済的にも政治的にも、実に情けない、あわれな国民に終わるの虞(おそれ)がないでしょうか。僕は前に朝鮮にいたことがあるから、朝鮮国民の前途に多くの関心と同情を持っているから、この朝鮮分割の機構には不安の念を禁ぜられない。」
312 アメリカ雑話
323 日本に行ったこともないのに日本ひいきの人が米国にいるのは、ラフカディオ・ハーンの『こころ』によるらしい。
326 幣原はラフカディオ・ハーン記念館を設立した。
328 アメリカ兵と理髪師
朝霞のゴルフ場が米兵の兵営になった。付近の人は米兵が家に入ってきたら、鐘を叩いて近所に知らせ、棒や鍬を持って来て打ちのめそうと申し合わせていた。
333 慈悲に関する、シェークスピアの「ベニスの商人」第四幕、人肉裁判の場でポーシャがシャイロックに申し聞かせる一節「慈悲ということは、強いらるべき性質のものではない。ちょうど柔らかな雨が天からしとしとと降って、地を潤すと同じようなものである。それが慈悲の本質だ。慈悲というものは、二重に人に恩恵を施す。すなわち与えた者も受けた者も、どちらも天の恵沢に浴するのだ。」
The quality of mercy is not strain'd.
It droppeth as the gentle rain from heaven
Upon the place beneath. It is twice blest:
It blesseth him that gives and him that
takes.
'Tis mightiest in the mightiest; it becomes
The thronèd monarch better than his crown.
His sceptre shows the force of temporal
power,
The attribute to awe and majesty
Wherein doth sit the dread and fear of
kings;
But mercy is above this sceptered sway.
It is enthronèd in the hearts of kings;
It is an attribute to God Himself;
And earthly power doth then show likest
God's
When mercy seasons justice. Therefore, Jew,
Though justice be thy plea, consider this:
That in the course of justice none of us
Should see salvation. We do pray for mercy,
And that same prayer doth teach us all to
render
The deeds of mercy. I have spoke thus much
To mitigate the justice of thy plea,
Which, if thou follow, this strict court of
Venice
Must needs give sentence 'gainst the merchant
there.
— Portia, in William
Shakespeare, The Merchant of Venice, act 4, scene 1
335 解説 筒井清忠
『幣原喜重郎』幣原平和財団編・刊1955
幣原喜重郎1872.8.11-1951.3.10
336 1883年、大阪中学(第三高等中学校)に入学。在学中に三国干渉があり、「決然として」外交を志願した。11歳。
1903年1月、三菱の岩崎彌太郎の娘雅子と結婚。31歳。ちなみに加藤高明の妻は、雅子の姉春路。
幣原が関与した事件
・第二次奉直戦争1924 奉天派の張作霖が直隷派を破り、北京進出に成功した軍閥戦争。
宇垣一成陸相「張(作霖)の戦勝、馮(玉祥)の寝返りが何処に原因して居るかをも知らずして得意がりて居る彼等の態度は憐れむべく且笑止の至りである」342
・日ソ基本条約1925 日本とソビエト連邦が国交を回復し、北樺太の権益や経済関係を整理した二国間条約。シベリア出兵の後始末。
・北京関税特別会議 1925年 10月 26日に始った。ワシントン条約の規定に従い,北京で開かれた中国の関税自主権回復についての国際会議。
幣原は英米と対立して、中国における日本の経済的利益を追求した。341
・郭松齢事件 1925年秋 奉天派の将軍郭松齢が張作霖に反旗を翻し、奉天(瀋陽)を攻撃しようとしたが、日本の支援を受けた張作霖軍に敗北し、郭夫妻が処刑された事件。
幣原は中国への出兵に同意している。
・南京事件1925 蒋介石の国民革命軍が南京を占領し、その暴徒が米英仏の外国人街に殴り込んだ。
・漢口事件 1927年4月3日 漢口で発生した日本人襲撃事件で、日本人居留民や商店が暴徒化した民衆に襲撃され、日本海軍が発砲する事態に至った。中国側は民族主義の高まりの中で、行政権を中国に回復しようとした。
・奉ソ戦争1929 中華民国とソビエト連邦が中東鉄道を巡って衝突した軍事紛争。
339 1941年、南部仏印からの撤兵案(乙案)は幣原の案とされている。(東郷茂徳回顧録『時代の一面 東郷茂徳外交手記』原書房2005)
1936年、日ソ漁業協定
343 「無産者日本・アジア、平等主義的革命派」対「有産者英米等、現状維持的元老・重臣・財閥等特権層」という対決的な捉え方があった一方で、次のような日米融和的な人脈もあった。
344 1945年5月、グルー国務長官代理やスチムソン陸軍長官らによる日本の「非無条件降伏」の案もあった。(五百旗頭真『日本の近代6 戦争・占領・講和』中央公論新社2001)
346 幣原はマッカーサーにも『ベニスの商人』の一節を暗唱してみせ、堅く握手したという。(村山有『終戦のころ 思い出の人々』時事通信社1968)
347 服部龍二『幣原喜重郎と二十世紀の日本――外交と民主主義』有斐閣2006
以上
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