「師範教育精神の発展」 東京工業大学助教授、東京府青山師範学校講師 山本晴雄 1943
感想
・師範学校が皇民化教育に向かった歴史と今後の展望を述べる。
・徹底的に教育勅語に基づいた師範学校教育の実体が分かる。師範学校の生徒に教育勅語を暗誦するだけでなく、書き取りもさせた。「暗誦暗写せしむべし」222
・西洋のテキストに基づく修身教育を否定することから生まれた「忠孝彝倫」(イリン、人の常に守るべき道)を唱える道徳教育は実質的に儒教教育であったが、イギリスをはじめとする西洋を視察してきた森有礼は師範学校のやぼったさを批判し、右翼に刺されて死んだ1889。215森が死んでからは森の方針は途絶え、教育勅語渙発(明治23年1890.10.30)の翌日1890.10.31、芳川顕正1842-1920文部大臣1890-1891が訓令を発し 220てから、教育勅語を中心とする皇民化教育が始まり、それが現在までの間に強化発展されてきた。
・米英などの西洋やソ連共産主義の文化を批判228し、日本の伝統に基づいた教育を唱える。
・皇国の道を基礎にし、大東亜どころか全世界の制覇を目指す。北一輝が「国家改造法案大綱」1919(1923年に「日本改造法案大綱」と改題)の中で世界制覇を目論んでいるのも決して特殊な考え方ではなかったことが推測される。
Webで調べてみると、山本晴雄は「立教大学教育学科年表」に出てきて、
1960年4月1日、山本晴雄教授着任
1964年1月、山本晴雄「立教と初等教育課程」を発表。
1968年3月31日、山本晴雄教授退職。
とある。
1960年に立教大学に教授として着任とあるから、同年に国立大学(東工大)を70歳で退職したとすれば、生年は1890年になり、1943年時点では53歳となる。
要旨
序言
211 師範学校は今その教育精神、教育制度、教育施設など万般に渡って転換期にあるようだが、この転換は明治初年以来徐々に発展してきた結果と思われる。以下、師範教育精神の発展について私見を述べる。
現行「師範教育令」第一条の但し書きに(師範学校生徒の)「順良、信愛、威重」に師範学校の教育精神が示されている。各学校の使命の根本精神は各学校令の第一条に示されている。大学では「大学令」第一条に、高等学校では「高等学校令」第一条にその目的が示され、それはそれぞれの学校の精神を示している。「師範教育令」第一条には、師範学校では「順良信愛威重の徳性を涵養することを務むべし」とある。これが現行の法令である。この法令は明治19年1886年に森文部大臣によって制定された「師範学校令」以降ずっと記されている。明治19年の「師範学校令」は「気質」と表現し、明治30年1897年の「師範学校令」以降は「徳性」という言葉で表現している。(順良信愛威重は)師範学校令や高等師範学校令を長年規定した。ただしその後明治20年代1887--1896以後に発達した工業教員養成所、農業教員養成所、商業教員養成所、青年学校教員養成所、その他の教員養成機関にはこの種の目標がない。それはともかくとして、この(順良信愛威重という)徳目に関する限り、個人的な人格涵養や個人主義的色彩が強く、いろいろ批評される。
それでは師範学校の根本精神はどうあるべきか。師範学校の改革は他の学校の改革の先駆となる。(重要性をもつ。)その沿革(歴史)から示唆を得たい。
212 師範建学精神
明治5年1872年4月、文部省から正院に「小学教師(養成のための)教導場を建立するの伺」の但し書きに、師範学校の建学精神が示されている。師範学校創立の理由として
「海外と相並び馳せんとす…教育の道をして大に世に普及ならしめずんばあるべからず…教育の道は其の本必ず小学に成る…宜しく先ず急に師表(師範)学校を建立すべし」
とあり、師範学校の建学精神は、世界に遅れて開国した我が国を世界に劣らない国にする教育興国を師範学校に期待した。どんな道義に立脚して教育興国をすべきかは後で触れるが、明治初期の師範学校建学精神は単なる授業師の養成ではなく興国であった。明治16年1883年、熊本師範学校の某生徒が軍人に転向しようとしたとき、校長が次のように諭した。
「方今世界列国は駸々(速く)として文化に赴くが、虎視眈々として(我が)帝国を窺う。その危険は今日より甚だしきはなし。国民全体の智識を増進しなければ、富国強兵の実が挙がらない。やはり我が国は東洋の貧弱国として終わるのか。須く死力を尽くして初等教育を完備し、普天率土(全世界)悉く皇恩に浴せしめ、津々浦々に至る迄国家観念をあまねく及ぼさせ、帝国の興隆を謀ることは男子の天職ではないか」
213 明治初期の師範教育者たちのこのような烈々たる意気は他の文献にも多く見られる。
しかしその教育精神には批判の余地があった。国を興す根本道義に関する反省が十分でなかった。明治7年1874年、明治天皇が現在の高等師範学校に行幸した時、同校の外人教師スコットは「その人民をして普く開化に進み国家の富強に赴くは、これ学校を以て嚆矢となすべし」と天皇に答えた。文明開化が教育興国の根基と考えられていたのである。地方でも同様であり、神奈川県師範学校開設に際しての神奈川県知事の演説も同趣旨であった。その他各地の師範学校でも同様であった。当時の師範教育興国は国民一人一人を文明開化人に赴かせることによって国を興そうと考えていたようである。教育の根本精神である修身教育の特徴は文明開化主義に陥っていた。修身の教科書もウェーランドの「修身論」やビシャリンの「性方略」を用いていた。
以上が師範学校教育精神の第一期である。
幼学綱要と師範教育精神(第二期 明治13年1880年~16年1883年)
この第二期に師範教育精神の革新が行われた。明治11年1878年、明治天皇が地方を巡幸した感想「教学大旨」が改革の導火線となった。文部省は明治13年1880年に通牒を発し、問題のある修身教科書を禁止・抑制した。その中に前述のウェーランドの「修身論」やビシャリンの「性方略」も含まれていた。そして明治14年1881年、福岡文部卿は聖旨に即応して「小学校教員心得」を通達し、普通教育の道義的内容として「道徳の教育に力を用い、生徒をして皇室に忠にして国家を愛し、父母に孝にして…等、すべて人倫の大道に通暁せしめ、」「教育に関する我国古来の定論」に鑑みた道義的な項目を掲げた。この「小学校教員心得」は師範学校にも影響を与えた。明治15年1882年12月、明治天皇は自ら「幼学綱要」を勅撰し、地方長官を召して「彝倫(イリン、人の常に守るべき道)道徳は教育の主本…忠孝を本とし、仁義を先にすべし」と勅諭し、それとともにこれを頒布した。
この聖旨を奉戴して師範学校に新たな教育精神が興った。文部省は明治16年1883年、師範学校の根本精神に関する新しい指導方針を示した。それは明治16年1883年の「府県立師範学校通則」における規定「府県立師範学校は…忠孝彝倫の道を本として管内小学校の教員たるべき者を養成すべきものとす」に現れている。これは従来の文明開化主義から忠孝彝倫主義への転換である。この当時に制定された各地師範学校の綱領には「忠孝彝倫」が頻繁に盛られている。
しかし実際は修身教科書は従来のものに儒教的なものを加えるとか、全くの儒教主義であった。
森文相の師範教育精神(第三期)
215 森文部大臣は師範学校の教育精神を改革した。明治19年1886年、森文部大臣は師範学校令を制定した。その第一条但書は「生徒をして順良信愛威重の三気質を備えしむることに注目すべきものとす」と規定した。ここに問題の三気質が現れた。
この三気質が出現した理由は次のようである。森文部大臣は文部大臣になる前に文部省御用係をしていたが、そのころ東京師範学校を視察したところ、師範生の寄宿舎生活が乱雑で、万年床で、一升徳利が投げ放されていた状況を見て、矛盾を感じ、風紀の刷新の必要を感じた。森はこれまでにイギリスやその他で西洋的紳士的態度を見てきた。当時の日本の師範教育は知的教授に終始し、生活指導や性格陶冶を軽んじていた。そこで単に知的なものでなく、実践生活を規定する指針の必要を感じた。森文相は明治20年1887年の師範学校長会議で「徳川の末世より西洋の窮理が我国に入り来たり、技芸上皆日本人の胆を奪い去りてより、吾人早くこれに倣はざるべからずとて、爾来凡そ二十四五年専らそのことにのみ従い、遂にその間人物養成のことを顧みるに遑(いとま)あらざりき」と述べている。
もう一つの理由は(第二期の)明治13年1880年以来、文部省の師範教育主義が西洋主義を是正する効果はあったが、儒教主義に堕してしまったことである。森文相はこれから世界に伍し否世界に雄飛するために、従来の儒教主義に疑問を感じた。森は「自他併立」を考えていたようだ。森が(不敬を理由に右翼に刺され)暗殺(1889年明治22年)され、その倫理学は沙汰止になった。森は古臭い儒教主義を捨てて新しい精神を盛り込もうとした。森は空疎な精神主義ではなく、実践生活指導の目標として三気質に到達したようだ。
216 順良信愛威重の意義 森文相は明治18年1885年に埼玉県師範学校で講演したとき「順良」ではなく「従順」と表現し、「青年子弟にありてはその識見未だ確定せざるを以て、唯命これ従う態度でなければならない。青年は血気に逸って脱線するから、すべて校長先生の命令に絶対服従の習慣をつけなければならない。これが師範教育において為すべき第一の要件である」と言った。また「信愛」ではなく「友情」と表現し、「友情の深浅に依って文明の度を表するものであり、それは善良なる事業の要件である」と述べている。また「威重」ではなく「威儀」と表現し、「威儀がなければ善く人の命令を奉すること能わず、況や人に命令するおや」と言っている。
順良信愛威重の出所 当時森文相の秘書官であり後に文部次官となり現在は貴族院議員の木場貞永氏に順良信愛威重の出所を尋ねたところ、「森さんはその出所を言わなかった。しかし私がロンドン大学付属職業学校長に会ってその学校の教育精神を尋ねたところ、その校長に『本校は古くから三つの徳目に基いて教育している。上級生は威厳Dignityを以て下級生を導かねばならない。下級生は上級生に服従Obedienceを以て従わねばならない。そして威厳と服従とによって和気藹々とした友愛Friendshipを作らねばならない』と言われたので、その時森さんの順良信愛威重と思い較べて思い当るところがあった」と言われた。
217 この三気質には元田永孚先生*の意見も入っているようだ。これは東京帝大助教授の海後氏が発見した元田家文書に基づく想像であるが、森文相は「これから師範学校の教育精神を従順友愛威重(順良ではなく従順、信愛ではなく友愛)に基づかせること関し、明治天皇にその趣旨の「師範学校令」第一条の条文を捧呈したところ、明治天皇は元田永孚先生に諮問したらしく、元田先生は次のように奉答したようだ。「従順は専ら妾婦(しょうふ、婦人)の道であり、男子の道とすべきでない。そこでこれを順良に改め、理に順い…易直という意味で使用したらどうだろう。また友愛の語は兄弟朋友間の親睦に用い、これを気質に用いることは較狭きに似たるを以て、信愛としたらどうか。」また威重に関しては、(森文相は最初埼玉師範で威儀と述べたが、師範学校令では威重に改めている。)「この威重という語は剛正という意味で考えられるべきで、形式的な威厳ではなく、内にしっかりしたものを持ち、それが外面に現れるような威重でなければならない」これが元田先生の意見であり、明治天皇への奉答書の内容である。明治19年の「師範学校令」に順良信愛威重という言葉が明示され、師範学校と高等師範学校の教育精神を規定した。
*元田永孚(もとだながざね1818—1891、儒学者)は明治天皇1852-1912に進講する侍講であり、教育勅語を起草したと考えられる。1890年当時、明治天皇は38歳で、元田は72歳であった。(島薗進『国家神道と日本人』130)
この明治19年の森文相の師範教育精神に関して「いろいろと感想」(クレーム)が生じる。第一に、順良信愛威重は個人主義的であり、「消極的」な人物の養成に陥りやすいことである。(もっと軍人みたいに勇ましくなれ)そしてこの法令が昭和17年1942年の現在でも存在することは奇異である。第二は、木場216氏の推測が正しいとすれば、この三気質は西洋的道義精神から来たものであり、我が国古来の日本的道義から発したものではないことである。日本国民の指導者を養成すべき指導精神としては一考を要す。この三気質が現在空文化しているとしても、この三気質から飛躍すべきである。
218 ただし一言森文相のために弁明したい。森文相の教育思想が全く英国式であったとはいえない。森さんは埼玉師範学校で次のように語って教育興国を師範学校の根本精神としている。
「もし日本国が…世界列国の…末班にあれば可であると断念すれば、…実際は国と言われぬまでに衰弱するようになるだろう。これがどうして日本男児の志であろうか。日本男児たらんものは、我が日本国がこれまで三等国の地位にあれば二等に進め、二等にあれば、一等の地位に進め、遂には万国に冠たらんことを勉めざるべからず。しかしこれをなす際に…ただ恃(たの)むところは普通教育の本源たる師範学校でよくその職を尽くすことにある。…この他にも国運を進める方法が許多(きょた)なるべしと雖も、十中八九はこの師範学校の力に依らずんばあらず」
このように森は教育興国の期待を師範学校に寄せていた。また森は国体に関して「我が国は比類なき有難き国柄なり。教育の主眼は良き臣民を養成するにあり」と述べている。森が根本的に西洋式考え方をしていたとは速断できない。
219 それでは森がなぜ教育興国や臣民養成を師範学校令第一条に盛り込まなかったのか。私見では、明治初期の指導者において興国は当然なことであり、呶呶(どど)を要しなかった。森の手紙や講演の中にもそのことが示されている。伊藤博文公が森に教育を担当するように勧める手紙が届いたとき、森は「教育の基礎を定め、国家の将来の治安を図るという大主意は、僕も固より左袒する(左の肩を肌脱ぎにする)ところである。故に別にこれに対して返事をする必要はない」と伊藤に返事をした。また先述の埼玉県師範学校での講演でも、「普通教育が国家にとって重要であることは今ことさら蝶々することでもない」と説いている。
ただし森文相の精神の中では、今日考えられるような日本的道義、日本的世界観に基いて師範学校を運営することは十分に認識されていなかったようだ。日本的道義の優秀性を教育の根基にすることについての森の認識は不十分であった。その点その後明治26年1893年から27年1894年にかけて文部大臣になった井上毅の方が十分認識していた。その点で森は遺憾であった。
三気質の師範学校教育への影響 この三気質は明治20年代1887—1896の初めには相当有力な影響を与えた。明治19年1886年の師範学校令制定から数年間の師範卒業生の一致した回想は、三気質と兵式体操と厳格な寄宿舎であったようだ。文部省は生徒の学力と人物とを同等に評価して尋常と優等の二種に査定し、卒業証書を授与すべきことを訓令した。「とりわけ尋常師範学校の生徒が卒業の上、高等小学校長に任官したり、あるいは高等師範学校の生徒として撰挙する者の場合は、先ず人物の優等なる者からこれを撰抜すべき」と訓令した。そこで全国の師範学校では生徒の人物評定の資料として三気質が問題となった。熊本師範は校是を順良信愛威重とし、福島師範はその生徒組合規則の中で「本校生徒は…順良信愛威重の三徳は殊にこれを具備するを要すゆえに、日常の行為につき、実践を以て三徳を兼有することに務むべし」とし、宮崎師範は試験規則で「人物の制定は、順良信愛威重の美徳を備え難きに堪え、事をなすに足れりと認める者を以て優等とし、その他を以て尋常とする」と定めた。
220 また道徳教育では従来の東洋的修身よりも倫理学がいよいよ重んぜられるようになり、ジャネーの倫理学やフリッケの倫理学、その他の西洋人の倫理学書が幅を利かせてきたようだ。
教育勅語と師範教育精神
明治19年1886年に師範学校令が制定されて4年後の明治23年1890年10月30日、「教育に関する勅語」が渙発され、これによって日本の全教育機関は教育の「淵源」をはっきりと教示され、明確に認識する好機を与えられた。天皇陛下から「教育の淵源」と明示された。その翌日の10月31日に芳川文部大臣が訓令を発した。
「凡そ教育の職に在る者は須く常に聖旨を奉体して研磨薫陶(自分の徳で他人を感化すること)の務めを怠らざるべく…淳淳誨告(かいこく)し、生徒をして夙夜佩服(身におびる)する所あらしむべし」
221 今や漸く国民学校や師範学校を始めとして皇国の道に則る教育精神が具現しようとしているが、これはその先駆的な訓令であった。
明治27年1894年、井上毅文部大臣が「実業教育費国庫負担法」のために病床に倒れ、東京高等師範学校の卒業式に列することができないので、卒業生を病床に招いて教育道に精進すべきことを説かれた。
「至尊陛下には教育のことについて深く叡慮を注がれ給いましますことは人皆知るところである。諸君地方に赴任して教育の事を担当さるるが、とりもなおさず(諸君は)教育勅語の先鋒者である。教育勅語の錦旗の下に御馬前(ばぜん、主君の前)で働く人である」
井上大臣のこの訓示は次に国家教育、興亜教育、実業教育に及び、冒頭に国体教育を述べ、皇国の道に則るべきことを諭した。
これより先、教育勅語中心の教育が師範学校の学科課程改正となって具現していた。明治24年1891年11月、「小学校長及教育職務及服務規則を定むる事」に関する文部省令が公布され、その第一条では「小学校長及教員は教育に関する勅語の旨趣を奉体し、法律命令の指定に従い、その職務に服すべし」とした。そして翌明治25年1892年、「尋常師範学校の学科及其程度改正の事」が省令として公布され、その第九条に「尋常師範学校教育の要旨」を添付し、師範学校令の旨趣に基いて三気質を養うことのほかに、「尊王愛国の志気に富む(こと)は教員たる者にありては殊に重要とす。故に生徒をして平素忠孝の大義を明らかにし、国民たる志操を振起せしめんことを要す」など、(尋常師範学校)生徒の教養上の注意事項を列挙した。尊王愛国が明記されたのは「小学校教員心得」(明治14年1881年214)の延長であるが、森文相時代の三気質主義より「前進」したと言える。
222 この改正で学科目の名称が「倫理」から「修身」に改められ、「教育に関する勅語の旨趣に基づきて」人倫道徳その他が教えられるようになった。その後、明治40年1907年の「師範学校規定制定」は「修身は教育に関する勅語の旨趣に基づき道徳上の思想及情操を養成し、実践躬行を勧奨し、師表(師範)たるの威儀を具えしめ」(第八条)と強化した。明治43年1910年、「師範学校教授要目」が制定され、(師範学校の)予備科と第一、第二、第三学年では「勅語の全文に就きて叮嚀慎重に述義し、かつこれを暗誦暗写せしむべし」とし、第四学年には「我が国道徳の由来、教育に関する勅語発布の由来」を配当している。明治44年1911年には「師範学校の教科用図書は文部大臣の検定を経たるもの」を使わなければならないとされ、ここに師範学校の修身教育は全く整備され、師範学校の道徳教育の皇道化が確立された。師範学校の教育精神つまり師範学校生徒の訓育精神とその綱領も「教育に関する勅語」を中心にして転換された。しかし明治23年1890年から30年1897年ころまでは、それが十分に徹底せず、明治26年1893年の千葉師範卒業生の回想によれば、「修身は…教育勅語を修身書の中枢として教育上に織り込むまでに進歩せず、下級生には論語中庸などを、上級生には岡田良平訳仏国ジャネーの倫理書によって…与えられた」とあり、その他の師範学校の卒業生の回想も同様である。
ところが明治26年1893年ころから漸次に勅語重視の記録が現れてくる。秋田師範の明治26年1893年制定の「校則」は、「本校の生徒は左の要旨を遵守すべし。一、教育に関する勅語の聖慮を奉体し、師範学校令の趣旨に基き、平素その身を修練すべし」とし、また京都師範では明治27年ごろから生徒訓育の一つとして毎週一回全校生徒を講堂に集め、教育に関する勅語に基づき、先哲の嘉言善行について訓話をすることとし、卒業式の際には卒業生各自に、(教員)自らが齋戒沐浴して揮毫した教育に関する勅語を、小さな巻物に表装(紙や布で軸物に仕立てる)して頒布した。そしてその効果が現れ、明治31年、熊本師範の一卒業生は「校長…先生が『諸子は勅語に生き、勅語に斃るるの覚悟が必要だ』とたびたび御教訓され、その語気は強く、熱心が溢れていて、今でもそれが耳朶(耳たぶ)を去らない」と回想している。
223 こうして順良信愛威重は漸次その光を失い、ただわずかに修身教科書の隅に残滓を留めるにすぎず、師範教育の本体は幸いにも「教育に関する勅語」が中心になったようだ。明治44年1911年の師範学校教科書検定制度222の実施以降は、少なくとも修身教育は、「教育に関する勅語」を中心にして説かれるようになった。明治19年制定の師範学校令第一条但書で述べられた三気質という師範教育精神は、明治23年1890年10月に(教育勅語によって)「教育の淵源」が明示された直後に、これを改正して皇国の道に基く師範教育精神の確立を銘記すべきであったのだが、明治19年師範学校令の三気質は、明治30年制定の師範教育令に残り、昨年1941年の師範教育令改正の際にもそのまま残った。しかし今でも三徳性に基いて現在の師範教育精神を批判する人は師範教育の実際を知らないと言える。昨年1941年の師範教育令改正は小学校を国民学校に改める程度で、根本的改正がなされなかったが、それは師範制度改正に伴う改正が予想され、その時に譲られたものと思われる。
224 師範教育精神と師範タイプ(教員の人柄) 師範タイプは陰鬱で消極的、面従背反などと言われる。それは師範教育の結果ではなく、国民学校教育行政や財政制度が「虐げられた」せいである。(後述の性格(固く融通が利かない)形成要因は師範教育のせいだとしている。)また教員は固く融通が利かないと言われるが、私はそのことを光栄に思う。それはそう言う批判者の立場が個人主義で自由主義、享楽主義だからである。大正時代に固く融通の利かない人物として軍人と小学校の先生が挙げられた。物質主義、功利主義、自由主義、個人主義の濁世では、固くて融通の利かない人物こそ国家の根基であった。固くて融通の利かない人物ができた原因は、教育勅語奉戴の師範教育である。師範教育精神と師範タイプを光栄に思う。
今後の師範教育精神
我が国の師範教育精神は崇高な我が国体に基づいて陛下の赤子を皇道化する点で、他の学校の教育精神と本質的な相違はない。我が国の全ての教育は崇高な国体教育であり、深遠な政治教育である。今後の師範教育精神は、従来漸次に建設されてきた教育勅語奉戴教育を確立することである。師範教育の根本精神を規定する師範教育令第一条は、国民学校令第一条が初等教育の淵源を明確にしたように、「師範学校は皇道の道に則りて…」と、師範教育の淵源を明確にすべきだろう。往々にして誇張して叫ばれるように、師範教育の180度の転換を行う必要はない。
225 師範教育精神(の目的)は他の学校と同様に、ただ知識人を養成することではなく、知行一体、学徳一体の国民的実践的人格を養成することである。国民学校令第一条と同様に、師範教育令第一条も、「錬成するを以て目的とす」ると明示すべきだろう。これは教育法令の形式から考えると大改革のようだが、師範教育(の目的)は森文相時代には三気質の涵養であり、その目的の一つは知的教育の欠陥を補うことであった。また教育勅語渙発以後の師範教育における修身教育の目標は聖旨奉戴であり、その修身教育は実践を伴うべきであると通牒されたことなどを考え合わせると、今後の師範教育精神に「錬成」という文字を用いても、画期的な大改革とは言えない。それは従来三徳性という消極的方向に傾いていたことを深化することであり、聖旨奉戴が不十分であったことを強化することに過ぎない。
以上は我が国の学校である限り他の学校も必ず持つべき教育精神であるが、この他に師範教育は師範学校の特質に鑑み、「国民学校教員たるに須要なる教育」と、率先垂範挺身的な師表たる人物の錬成が必然的に要請される。国民教育に必要な師表として、徳操識見が高邁であり、溌剌剛健闊達な先達的人物の錬成が、今後特に強化されるべきである。
今後の師範教育精神に何も特筆すべき改革はないし、180度の改革などはあるはずがない。従来の師範教育精神を「師範教育令」第一条で明確にし、それを強化することにすぎない。この明確化と強化だけでも従来の師範教育を大発展させる革新を行うことができる。
226 第一、師範教育の伝統には空虚な人格修養や偏狭な精神養成があったが、今後は皇国の道を「闊達具体的に」解釈して道義国家・道義アジヤ・道義世界の建設と関連させ、その意味での識見が高邁な「皇国士」の錬成を旨とするように飛躍すべきである。これだけでも偉大な改革である。日本的人生観、国家観、世界観に燃えて国を興し大東亜並びに世界を創造するにふさわしい国士の錬成は、師範教育精神の大向上である。
第二、以上のことは従来萎微沈滞し陰鬱な師範タイプを払拭し、溌剌剛健闊達なタイプを成就するだろう。また是非そうしなければならない。師範学校は今まで確かに意気が上がらない学校であった。高等学校と比較した場合、その意気には雲泥の差があった。他の専門学校と比較しても同様だった。その原因の一つは我が国の風潮が米英的ロシア的物質主義や地方自治主義になったことであり、また我が国従来の支那的立身出世主義も一因である。私は、師範タイプの原因は師範教育だけでなく、前述の世間の風潮によるものと考える。(それなら他の学校もその風潮の影響を受けるはずではないか。)師範学校が「それら(世間の風潮)に敗れた」ことも一因であった。今後の師範学校は興国的世界維新的な皇国の道に則り、世俗の風潮(米英露的物質主義や地方自治主義)にとらわれず、「栄華の巷を低く見て」「乃公(だいこう、俺)が起たずんば国民を如何せん、皇国の将来を如何せん」という誇りに燃えて熱進すべきであり、このような興国性世界性を持つ皇国の道は、このような熱進の原動力となる。
第三、現在の師範学校の修身教育は皇国の道に近づいているがまだ完全ではない。また教育学を始めとする他の学科目は西洋の「数学」(「教学」の間違いではないか。)に基づき、「学問のための学問という空虚が学的体系に偏し、各科目が分離乱立し、皇国の道に統合されていない。」それらの教科・科目が皇国の道に有機的に統合されれば、具体的な師範教育が生々と躍動して参るでありませう。
227 第四、錬成 前述のように師範教育は人物養成を担当した。このころ流行の全寮生活は明治初年以来実行してきたのだが、実際の効果は挙がらず、学科課程は主知的教育となり、性格陶冶人物養成は付け足しのように扱われている。ここで師範教育に錬成を明記することは、従来の欠陥を是正する原動力となる。
第五、国民学校の側から見れば、錬成とは「青年の全能力を練磨し、体力・思想・感情・意志等の青年の精神や身体を全一的に育成する」ことである。錬成は「育て成す」ことであり、青年の溌剌独創的活動を助成する。(自己矛盾。人は強制されて溌剌にはならない。)従来師範教育は詰込教育、抑制的、消極的であると批判されたが、錬成の本義に立脚し、過去の消極的詰込主義を清算し、青年学徒の溌剌独創的な企画や活動を重視すべきである。
以上の諸項の実現に際して、従来の師範教育の苦い経験に基づいて自戒すべき点が回想される。第一に、皇国の道を狭く解釈して従来のように空虚な精神家を養成しないようにすべきである。第二に、師範学校は国民学校教員の養成を目的としているが、これにとらわれて授業師を養成しないようにすべきであり、また師範学校卒業生が実際は青年学校に勤務する現状に鑑み、青年学校教員や青年団指導者として必要な教育も施すべきである。第三に、師表を狭く解釈して情味豊かで人間味に溢れる性情の育成を欠いてはいけない。このことは特に女子師範教育において重要である。第四に、錬成を誤解して性格訓練に陥り、知的教養の充実を軽視し、強迫(「脅迫」の間違いではないか。)教育に陥り、青年学徒の溌剌独創的な研究や企画を委縮してはならない。
228 今や我が宏遠なる肇国神話に基づく、万邦が得る処、億兆が安堵する樹徳深厚なる皇道精神は、大東亜に崇高な道義圏、強力な国防圏、雄大な共栄圏を建設することを、世界維新の先駆としようとしている。まことに光栄な時代である。我々はこの崇高な天業恢弘(かいこう、広めること)つまり中外に施してまがらない道義宣布の天業恢弘に際して、億兆一心家族的団結・道義的団結を以て奉仕し、大東亜否全世界の米英的または共産主義文化を清算しなければならない。新しい師範学校はこのような大事業に猛進する皇国民の先達(指導者)の錬成道場たるべく、新しい師範教育精神はこのような見地から雄大に顕現具体化されるべきである。皇国の道に則る師範教育精神の本義はここにある。この意味での皇道師範教育精神の強化こそ、新しい時代の師範教育精神の本義である。
以上