2022年5月30日月曜日

「師範教育精神の発展」 東京工業大学助教授、東京府青山師範学校講師 山本晴雄 1943

「師範教育精神の発展」 東京工業大学助教授、東京府青山師範学校講師 山本晴雄 1943

 

 

感想

 

・師範学校が皇民化教育に向かった歴史と今後の展望を述べる。

・徹底的に教育勅語に基づいた師範学校教育の実体が分かる。師範学校の生徒に教育勅語を暗誦するだけでなく、書き取りもさせた。「暗誦暗写せしむべし」222

・西洋のテキストに基づく修身教育を否定することから生まれた「忠孝彝倫」(イリン、人の常に守るべき道)を唱える道徳教育は実質的に儒教教育であったが、イギリスをはじめとする西洋を視察してきた森有礼は師範学校のやぼったさを批判し、右翼に刺されて死んだ1889215森が死んでからは森の方針は途絶え、教育勅語渙発(明治231890.10.30)の翌日1890.10.31、芳川顕正1842-1920文部大臣1890-1891が訓令を発し 220てから、教育勅語を中心とする皇民化教育が始まり、それが現在までの間に強化発展されてきた。

・米英などの西洋やソ連共産主義の文化を批判228し、日本の伝統に基づいた教育を唱える。

・皇国の道を基礎にし、大東亜どころか全世界の制覇を目指す。北一輝が「国家改造法案大綱」19191923年に「日本改造法案大綱」と改題)の中で世界制覇を目論んでいるのも決して特殊な考え方ではなかったことが推測される。

 

Webで調べてみると、山本晴雄は「立教大学教育学科年表」に出てきて、

 

196041日、山本晴雄教授着任

19641月、山本晴雄「立教と初等教育課程」を発表。

1968331日、山本晴雄教授退職。

 

とある。

1960年に立教大学に教授として着任とあるから、同年に国立大学(東工大)を70歳で退職したとすれば、生年は1890年になり、1943年時点では53歳となる。

 

 

要旨

 

序言

 

211 師範学校は今その教育精神、教育制度、教育施設など万般に渡って転換期にあるようだが、この転換は明治初年以来徐々に発展してきた結果と思われる。以下、師範教育精神の発展について私見を述べる。

 

 現行「師範教育令」第一条の但し書きに(師範学校生徒の)「順良、信愛、威重」に師範学校の教育精神が示されている。各学校の使命の根本精神は各学校令の第一条に示されている。大学では「大学令」第一条に、高等学校では「高等学校令」第一条にその目的が示され、それはそれぞれの学校の精神を示している。「師範教育令」第一条には、師範学校では「順良信愛威重の徳性を涵養することを務むべし」とある。これが現行の法令である。この法令は明治191886年に森文部大臣によって制定された「師範学校令」以降ずっと記されている。明治19年の「師範学校令」は「気質」と表現し、明治301897年の「師範学校令」以降は「徳性」という言葉で表現している。(順良信愛威重は)師範学校令や高等師範学校令を長年規定した。ただしその後明治20年代1887--1896以後に発達した工業教員養成所、農業教員養成所、商業教員養成所、青年学校教員養成所、その他の教員養成機関にはこの種の目標がない。それはともかくとして、この(順良信愛威重という)徳目に関する限り、個人的な人格涵養や個人主義的色彩が強く、いろいろ批評される。

 

 それでは師範学校の根本精神はどうあるべきか。師範学校の改革は他の学校の改革の先駆となる。(重要性をもつ。)その沿革(歴史)から示唆を得たい。

 

212 師範建学精神

 

 明治518724月、文部省から正院に「小学教師(養成のための)教導場を建立するの伺」の但し書きに、師範学校の建学精神が示されている。師範学校創立の理由として

 

「海外と相並び馳せんとす…教育の道をして大に世に普及ならしめずんばあるべからず…教育の道は其の本必ず小学に成る…宜しく先ず急に師表(師範)学校を建立すべし」

 

とあり、師範学校の建学精神は、世界に遅れて開国した我が国を世界に劣らない国にする教育興国を師範学校に期待した。どんな道義に立脚して教育興国をすべきかは後で触れるが、明治初期の師範学校建学精神は単なる授業師の養成ではなく興国であった。明治161883年、熊本師範学校の某生徒が軍人に転向しようとしたとき、校長が次のように諭した。

 

「方今世界列国は駸々(速く)として文化に赴くが、虎視眈々として(我が)帝国を窺う。その危険は今日より甚だしきはなし。国民全体の智識を増進しなければ、富国強兵の実が挙がらない。やはり我が国は東洋の貧弱国として終わるのか。須く死力を尽くして初等教育を完備し、普天率土(全世界)悉く皇恩に浴せしめ、津々浦々に至る迄国家観念をあまねく及ぼさせ、帝国の興隆を謀ることは男子の天職ではないか」

 

213 明治初期の師範教育者たちのこのような烈々たる意気は他の文献にも多く見られる。

 

 しかしその教育精神には批判の余地があった。国を興す根本道義に関する反省が十分でなかった。明治71874年、明治天皇が現在の高等師範学校に行幸した時、同校の外人教師スコットは「その人民をして普く開化に進み国家の富強に赴くは、これ学校を以て嚆矢となすべし」と天皇に答えた。文明開化が教育興国の根基と考えられていたのである。地方でも同様であり、神奈川県師範学校開設に際しての神奈川県知事の演説も同趣旨であった。その他各地の師範学校でも同様であった。当時の師範教育興国は国民一人一人を文明開化人に赴かせることによって国を興そうと考えていたようである。教育の根本精神である修身教育の特徴は文明開化主義に陥っていた。修身の教科書もウェーランドの「修身論」やビシャリンの「性方略」を用いていた。

 

 以上が師範学校教育精神の第一期である。

 

幼学綱要と師範教育精神(第二期 明治131880年~161883年)

 

 この第二期に師範教育精神の革新が行われた。明治111878年、明治天皇が地方を巡幸した感想「教学大旨」が改革の導火線となった。文部省は明治131880年に通牒を発し、問題のある修身教科書を禁止・抑制した。その中に前述のウェーランドの「修身論」やビシャリンの「性方略」も含まれていた。そして明治141881年、福岡文部卿は聖旨に即応して「小学校教員心得」を通達し、普通教育の道義的内容として「道徳の教育に力を用い、生徒をして皇室に忠にして国家を愛し、父母に孝にして…等、すべて人倫の大道に通暁せしめ、」「教育に関する我国古来の定論」に鑑みた道義的な項目を掲げた。この「小学校教員心得」は師範学校にも影響を与えた。明治15188212月、明治天皇は自ら「幼学綱要」を勅撰し、地方長官を召して「彝倫(イリン、人の常に守るべき道)道徳は教育の主本…忠孝を本とし、仁義を先にすべし」と勅諭し、それとともにこれを頒布した。

 この聖旨を奉戴して師範学校に新たな教育精神が興った。文部省は明治161883年、師範学校の根本精神に関する新しい指導方針を示した。それは明治161883年の「府県立師範学校通則」における規定「府県立師範学校は…忠孝彝倫の道を本として管内小学校の教員たるべき者を養成すべきものとす」に現れている。これは従来の文明開化主義から忠孝彝倫主義への転換である。この当時に制定された各地師範学校の綱領には「忠孝彝倫」が頻繁に盛られている。

 

 しかし実際は修身教科書は従来のものに儒教的なものを加えるとか、全くの儒教主義であった。

 

森文相の師範教育精神(第三期)

 

215 森文部大臣は師範学校の教育精神を改革した。明治191886年、森文部大臣は師範学校令を制定した。その第一条但書は「生徒をして順良信愛威重の三気質を備えしむることに注目すべきものとす」と規定した。ここに問題の三気質が現れた。

 この三気質が出現した理由は次のようである。森文部大臣は文部大臣になる前に文部省御用係をしていたが、そのころ東京師範学校を視察したところ、師範生の寄宿舎生活が乱雑で、万年床で、一升徳利が投げ放されていた状況を見て、矛盾を感じ、風紀の刷新の必要を感じた。森はこれまでにイギリスやその他で西洋的紳士的態度を見てきた。当時の日本の師範教育は知的教授に終始し、生活指導や性格陶冶を軽んじていた。そこで単に知的なものでなく、実践生活を規定する指針の必要を感じた。森文相は明治201887年の師範学校長会議で「徳川の末世より西洋の窮理が我国に入り来たり、技芸上皆日本人の胆を奪い去りてより、吾人早くこれに倣はざるべからずとて、爾来凡そ二十四五年専らそのことにのみ従い、遂にその間人物養成のことを顧みるに遑(いとま)あらざりき」と述べている。

 もう一つの理由は(第二期の)明治131880年以来、文部省の師範教育主義が西洋主義を是正する効果はあったが、儒教主義に堕してしまったことである。森文相はこれから世界に伍し否世界に雄飛するために、従来の儒教主義に疑問を感じた。森は「自他併立」を考えていたようだ。森が(不敬を理由に右翼に刺され)暗殺(1889年明治22年)され、その倫理学は沙汰止になった。森は古臭い儒教主義を捨てて新しい精神を盛り込もうとした。森は空疎な精神主義ではなく、実践生活指導の目標として三気質に到達したようだ。

216 順良信愛威重の意義 森文相は明治181885年に埼玉県師範学校で講演したとき「順良」ではなく「従順」と表現し、「青年子弟にありてはその識見未だ確定せざるを以て、唯命これ従う態度でなければならない。青年は血気に逸って脱線するから、すべて校長先生の命令に絶対服従の習慣をつけなければならない。これが師範教育において為すべき第一の要件である」と言った。また「信愛」ではなく「友情」と表現し、「友情の深浅に依って文明の度を表するものであり、それは善良なる事業の要件である」と述べている。また「威重」ではなく「威儀」と表現し、「威儀がなければ善く人の命令を奉すること能わず、況や人に命令するおや」と言っている。

 

 順良信愛威重の出所 当時森文相の秘書官であり後に文部次官となり現在は貴族院議員の木場貞永氏に順良信愛威重の出所を尋ねたところ、「森さんはその出所を言わなかった。しかし私がロンドン大学付属職業学校長に会ってその学校の教育精神を尋ねたところ、その校長に『本校は古くから三つの徳目に基いて教育している。上級生は威厳Dignityを以て下級生を導かねばならない。下級生は上級生に服従Obedienceを以て従わねばならない。そして威厳と服従とによって和気藹々とした友愛Friendshipを作らねばならない』と言われたので、その時森さんの順良信愛威重と思い較べて思い当るところがあった」と言われた。

 

217 この三気質には元田永孚先生*の意見も入っているようだ。これは東京帝大助教授の海後氏が発見した元田家文書に基づく想像であるが、森文相は「これから師範学校の教育精神を従順友愛威重(順良ではなく従順、信愛ではなく友愛)に基づかせること関し、明治天皇にその趣旨の「師範学校令」第一条の条文を捧呈したところ、明治天皇は元田永孚先生に諮問したらしく、元田先生は次のように奉答したようだ。「従順は専ら妾婦(しょうふ、婦人)の道であり、男子の道とすべきでない。そこでこれを順良に改め、理に順い…易直という意味で使用したらどうだろう。また友愛の語は兄弟朋友間の親睦に用い、これを気質に用いることは較狭きに似たるを以て、信愛としたらどうか。」また威重に関しては、(森文相は最初埼玉師範で威儀と述べたが、師範学校令では威重に改めている。)「この威重という語は剛正という意味で考えられるべきで、形式的な威厳ではなく、内にしっかりしたものを持ち、それが外面に現れるような威重でなければならない」これが元田先生の意見であり、明治天皇への奉答書の内容である。明治19年の「師範学校令」に順良信愛威重という言葉が明示され、師範学校と高等師範学校の教育精神を規定した。

 

*元田永孚(もとだながざね1818—1891、儒学者)は明治天皇1852-1912に進講する侍講であり、教育勅語を起草したと考えられる。1890年当時、明治天皇は38歳で、元田は72歳であった。(島薗進『国家神道と日本人』130

 

 この明治19年の森文相の師範教育精神に関して「いろいろと感想」(クレーム)が生じる。第一に、順良信愛威重は個人主義的であり、「消極的」な人物の養成に陥りやすいことである。(もっと軍人みたいに勇ましくなれ)そしてこの法令が昭和171942年の現在でも存在することは奇異である。第二は、木場216氏の推測が正しいとすれば、この三気質は西洋的道義精神から来たものであり、我が国古来の日本的道義から発したものではないことである。日本国民の指導者を養成すべき指導精神としては一考を要す。この三気質が現在空文化しているとしても、この三気質から飛躍すべきである。

 

218 ただし一言森文相のために弁明したい。森文相の教育思想が全く英国式であったとはいえない。森さんは埼玉師範学校で次のように語って教育興国を師範学校の根本精神としている。

 

「もし日本国が…世界列国の…末班にあれば可であると断念すれば、…実際は国と言われぬまでに衰弱するようになるだろう。これがどうして日本男児の志であろうか。日本男児たらんものは、我が日本国がこれまで三等国の地位にあれば二等に進め、二等にあれば、一等の地位に進め、遂には万国に冠たらんことを勉めざるべからず。しかしこれをなす際に…ただ恃(たの)むところは普通教育の本源たる師範学校でよくその職を尽くすことにある。…この他にも国運を進める方法が許多(きょた)なるべしと雖も、十中八九はこの師範学校の力に依らずんばあらず」

 

このように森は教育興国の期待を師範学校に寄せていた。また森は国体に関して「我が国は比類なき有難き国柄なり。教育の主眼は良き臣民を養成するにあり」と述べている。森が根本的に西洋式考え方をしていたとは速断できない。

 

219 それでは森がなぜ教育興国や臣民養成を師範学校令第一条に盛り込まなかったのか。私見では、明治初期の指導者において興国は当然なことであり、呶呶(どど)を要しなかった。森の手紙や講演の中にもそのことが示されている。伊藤博文公が森に教育を担当するように勧める手紙が届いたとき、森は「教育の基礎を定め、国家の将来の治安を図るという大主意は、僕も固より左袒する(左の肩を肌脱ぎにする)ところである。故に別にこれに対して返事をする必要はない」と伊藤に返事をした。また先述の埼玉県師範学校での講演でも、「普通教育が国家にとって重要であることは今ことさら蝶々することでもない」と説いている。

 

 ただし森文相の精神の中では、今日考えられるような日本的道義、日本的世界観に基いて師範学校を運営することは十分に認識されていなかったようだ。日本的道義の優秀性を教育の根基にすることについての森の認識は不十分であった。その点その後明治261893年から271894年にかけて文部大臣になった井上毅の方が十分認識していた。その点で森は遺憾であった。

 

三気質の師範学校教育への影響 この三気質は明治20年代1887—1896の初めには相当有力な影響を与えた。明治191886年の師範学校令制定から数年間の師範卒業生の一致した回想は、三気質と兵式体操と厳格な寄宿舎であったようだ。文部省は生徒の学力と人物とを同等に評価して尋常と優等の二種に査定し、卒業証書を授与すべきことを訓令した。「とりわけ尋常師範学校の生徒が卒業の上、高等小学校長に任官したり、あるいは高等師範学校の生徒として撰挙する者の場合は、先ず人物の優等なる者からこれを撰抜すべき」と訓令した。そこで全国の師範学校では生徒の人物評定の資料として三気質が問題となった。熊本師範は校是を順良信愛威重とし、福島師範はその生徒組合規則の中で「本校生徒は…順良信愛威重の三徳は殊にこれを具備するを要すゆえに、日常の行為につき、実践を以て三徳を兼有することに務むべし」とし、宮崎師範は試験規則で「人物の制定は、順良信愛威重の美徳を備え難きに堪え、事をなすに足れりと認める者を以て優等とし、その他を以て尋常とする」と定めた。

220 また道徳教育では従来の東洋的修身よりも倫理学がいよいよ重んぜられるようになり、ジャネーの倫理学フリッケの倫理学、その他の西洋人の倫理学書が幅を利かせてきたようだ。

 

教育勅語と師範教育精神

 

 明治191886年に師範学校令が制定されて4年後の明治2318901030日、「教育に関する勅語」が渙発され、これによって日本の全教育機関は教育の「淵源」をはっきりと教示され、明確に認識する好機を与えられた。天皇陛下から「教育の淵源」と明示された。その翌日の1031日に芳川文部大臣が訓令を発した。

 

「凡そ教育の職に在る者は須く常に聖旨を奉体して研磨薫陶(自分の徳で他人を感化すること)の務めを怠らざるべく…淳淳誨告(かいこく)し、生徒をして夙夜佩服(身におびる)する所あらしむべし」

 

221 今や漸く国民学校や師範学校を始めとして皇国の道に則る教育精神が具現しようとしているが、これはその先駆的な訓令であった。

 

 明治271894年、井上毅文部大臣が「実業教育費国庫負担法」のために病床に倒れ、東京高等師範学校の卒業式に列することができないので、卒業生を病床に招いて教育道に精進すべきことを説かれた。

 

「至尊陛下には教育のことについて深く叡慮を注がれ給いましますことは人皆知るところである。諸君地方に赴任して教育の事を担当さるるが、とりもなおさず(諸君は)教育勅語の先鋒者である。教育勅語の錦旗の下に御馬前(ばぜん、主君の前)で働く人である」

 

井上大臣のこの訓示は次に国家教育、興亜教育、実業教育に及び、冒頭に国体教育を述べ、皇国の道に則るべきことを諭した。

 

 これより先、教育勅語中心の教育が師範学校の学科課程改正となって具現していた。明治24189111月、「小学校長及教育職務及服務規則を定むる事」に関する文部省令が公布され、その第一条では「小学校長及教員は教育に関する勅語の旨趣を奉体し、法律命令の指定に従い、その職務に服すべし」とした。そして翌明治251892年、「尋常師範学校の学科及其程度改正の事」が省令として公布され、その第九条に「尋常師範学校教育の要旨」を添付し、師範学校令の旨趣に基いて三気質を養うことのほかに、「尊王愛国の志気に富む(こと)は教員たる者にありては殊に重要とす。故に生徒をして平素忠孝の大義を明らかにし、国民たる志操を振起せしめんことを要す」など、(尋常師範学校)生徒の教養上の注意事項を列挙した。尊王愛国が明記されたのは「小学校教員心得」(明治141881214)の延長であるが、森文相時代の三気質主義より「前進」したと言える。

222 この改正で学科目の名称が「倫理」から「修身」に改められ、「教育に関する勅語の旨趣に基づきて」人倫道徳その他が教えられるようになった。その後、明治401907年の「師範学校規定制定」は「修身は教育に関する勅語の旨趣に基づき道徳上の思想及情操を養成し、実践躬行を勧奨し、師表(師範)たるの威儀を具えしめ」(第八条)と強化した。明治431910年、「師範学校教授要目」が制定され、(師範学校の)予備科と第一、第二、第三学年では「勅語の全文に就きて叮嚀慎重に述義し、かつこれを暗誦暗写せしむべし」とし、第四学年には「我が国道徳の由来、教育に関する勅語発布の由来」を配当している。明治441911年には「師範学校の教科用図書は文部大臣の検定を経たるもの」を使わなければならないとされ、ここに師範学校の修身教育は全く整備され、師範学校の道徳教育の皇道化が確立された。師範学校の教育精神つまり師範学校生徒の訓育精神とその綱領も「教育に関する勅語」を中心にして転換された。しかし明治231890年から301897年ころまでは、それが十分に徹底せず、明治261893年の千葉師範卒業生の回想によれば、「修身は…教育勅語を修身書の中枢として教育上に織り込むまでに進歩せず、下級生には論語中庸などを、上級生には岡田良平訳仏国ジャネーの倫理書によって…与えられた」とあり、その他の師範学校の卒業生の回想も同様である。

 ところが明治261893年ころから漸次に勅語重視の記録が現れてくる。秋田師範の明治261893年制定の「校則」は、「本校の生徒は左の要旨を遵守すべし。一、教育に関する勅語の聖慮を奉体し、師範学校令の趣旨に基き、平素その身を修練すべし」とし、また京都師範では明治27年ごろから生徒訓育の一つとして毎週一回全校生徒を講堂に集め、教育に関する勅語に基づき、先哲の嘉言善行について訓話をすることとし、卒業式の際には卒業生各自に、(教員)自らが齋戒沐浴して揮毫した教育に関する勅語を、小さな巻物に表装(紙や布で軸物に仕立てる)して頒布した。そしてその効果が現れ、明治31年、熊本師範の一卒業生は「校長…先生が『諸子は勅語に生き、勅語に斃るるの覚悟が必要だ』とたびたび御教訓され、その語気は強く、熱心が溢れていて、今でもそれが耳朶(耳たぶ)を去らない」と回想している。

 

223 こうして順良信愛威重は漸次その光を失い、ただわずかに修身教科書の隅に残滓を留めるにすぎず、師範教育の本体は幸いにも「教育に関する勅語」が中心になったようだ。明治441911年の師範学校教科書検定制度222の実施以降は、少なくとも修身教育は、「教育に関する勅語」を中心にして説かれるようになった。明治19年制定の師範学校令第一条但書で述べられた三気質という師範教育精神は、明治23189010月に(教育勅語によって)「教育の淵源」が明示された直後に、これを改正して皇国の道に基く師範教育精神の確立を銘記すべきであったのだが、明治19年師範学校令の三気質は、明治30年制定の師範教育令に残り、昨年1941年の師範教育令改正の際にもそのまま残った。しかし今でも三徳性に基いて現在の師範教育精神を批判する人は師範教育の実際を知らないと言える。昨年1941年の師範教育令改正は小学校を国民学校に改める程度で、根本的改正がなされなかったが、それは師範制度改正に伴う改正が予想され、その時に譲られたものと思われる。

 

224 師範教育精神と師範タイプ(教員の人柄) 師範タイプは陰鬱で消極的、面従背反などと言われる。それは師範教育の結果ではなく、国民学校教育行政や財政制度が「虐げられた」せいである。(後述の性格(固く融通が利かない)形成要因は師範教育のせいだとしている。)また教員は固く融通が利かないと言われるが、私はそのことを光栄に思う。それはそう言う批判者の立場が個人主義で自由主義、享楽主義だからである。大正時代に固く融通の利かない人物として軍人と小学校の先生が挙げられた。物質主義、功利主義、自由主義、個人主義の濁世では、固くて融通の利かない人物こそ国家の根基であった。固くて融通の利かない人物ができた原因は、教育勅語奉戴の師範教育である。師範教育精神と師範タイプを光栄に思う。

 

今後の師範教育精神

 

 我が国の師範教育精神は崇高な我が国体に基づいて陛下の赤子を皇道化する点で、他の学校の教育精神と本質的な相違はない。我が国の全ての教育は崇高な国体教育であり、深遠な政治教育である。今後の師範教育精神は、従来漸次に建設されてきた教育勅語奉戴教育を確立することである。師範教育の根本精神を規定する師範教育令第一条は、国民学校令第一条が初等教育の淵源を明確にしたように、「師範学校は皇道の道に則りて…」と、師範教育の淵源を明確にすべきだろう。往々にして誇張して叫ばれるように、師範教育の180度の転換を行う必要はない。

225 師範教育精神(の目的)は他の学校と同様に、ただ知識人を養成することではなく、知行一体、学徳一体の国民的実践的人格を養成することである。国民学校令第一条と同様に、師範教育令第一条も、「錬成するを以て目的とす」ると明示すべきだろう。これは教育法令の形式から考えると大改革のようだが、師範教育(の目的)は森文相時代には三気質の涵養であり、その目的の一つは知的教育の欠陥を補うことであった。また教育勅語渙発以後の師範教育における修身教育の目標は聖旨奉戴であり、その修身教育は実践を伴うべきであると通牒されたことなどを考え合わせると、今後の師範教育精神に「錬成」という文字を用いても、画期的な大改革とは言えない。それは従来三徳性という消極的方向に傾いていたことを深化することであり、聖旨奉戴が不十分であったことを強化することに過ぎない。

 以上は我が国の学校である限り他の学校も必ず持つべき教育精神であるが、この他に師範教育は師範学校の特質に鑑み、「国民学校教員たるに須要なる教育」と、率先垂範挺身的な師表たる人物の錬成が必然的に要請される。国民教育に必要な師表として、徳操識見が高邁であり、溌剌剛健闊達な先達的人物の錬成が、今後特に強化されるべきである。

 今後の師範教育精神に何も特筆すべき改革はないし、180度の改革などはあるはずがない。従来の師範教育精神を「師範教育令」第一条で明確にし、それを強化することにすぎない。この明確化と強化だけでも従来の師範教育を大発展させる革新を行うことができる。

 

226 第一、師範教育の伝統には空虚な人格修養や偏狭な精神養成があったが、今後は皇国の道を「闊達具体的に」解釈して道義国家・道義アジヤ・道義世界の建設と関連させ、その意味での識見が高邁な「皇国士」の錬成を旨とするように飛躍すべきである。これだけでも偉大な改革である。日本的人生観、国家観、世界観に燃えて国を興し大東亜並びに世界を創造するにふさわしい国士の錬成は、師範教育精神の大向上である。

 第二、以上のことは従来萎微沈滞し陰鬱な師範タイプを払拭し、溌剌剛健闊達なタイプを成就するだろう。また是非そうしなければならない。師範学校は今まで確かに意気が上がらない学校であった。高等学校と比較した場合、その意気には雲泥の差があった。他の専門学校と比較しても同様だった。その原因の一つは我が国の風潮米英的ロシア的物質主義や地方自治主義になったことであり、また我が国従来の支那的立身出世主義も一因である。私は、師範タイプの原因は師範教育だけでなく、前述の世間の風潮によるものと考える。(それなら他の学校もその風潮の影響を受けるはずではないか。)師範学校が「それら(世間の風潮)に敗れた」ことも一因であった。今後の師範学校は興国的世界維新的な皇国の道に則り、世俗の風潮(米英露的物質主義や地方自治主義)にとらわれず、「栄華の巷を低く見て」「乃公(だいこう、俺)が起たずんば国民を如何せん、皇国の将来を如何せん」という誇りに燃えて熱進すべきであり、このような興国性世界性を持つ皇国の道は、このような熱進の原動力となる。

 第三、現在の師範学校の修身教育は皇国の道に近づいているがまだ完全ではない。また教育学を始めとする他の学科目は西洋の「数学」(「教学」の間違いではないか。)に基づき、「学問のための学問という空虚が学的体系に偏し、各科目が分離乱立し、皇国の道に統合されていない。」それらの教科・科目が皇国の道に有機的に統合されれば、具体的な師範教育が生々と躍動して参るでありませう。

227 第四、錬成 前述のように師範教育は人物養成を担当した。このころ流行の全寮生活は明治初年以来実行してきたのだが、実際の効果は挙がらず、学科課程は主知的教育となり、性格陶冶人物養成は付け足しのように扱われている。ここで師範教育に錬成を明記することは、従来の欠陥を是正する原動力となる。

 第五、国民学校の側から見れば、錬成とは「青年の全能力を練磨し、体力・思想・感情・意志等の青年の精神や身体を全一的に育成する」ことである。錬成は「育て成す」ことであり、青年の溌剌独創的活動を助成する。(自己矛盾。人は強制されて溌剌にはならない。)従来師範教育は詰込教育、抑制的、消極的であると批判されたが、錬成の本義に立脚し、過去の消極的詰込主義を清算し、青年学徒の溌剌独創的な企画や活動を重視すべきである。

 

 以上の諸項の実現に際して、従来の師範教育の苦い経験に基づいて自戒すべき点が回想される。第一に、皇国の道を狭く解釈して従来のように空虚な精神家を養成しないようにすべきである。第二に、師範学校は国民学校教員の養成を目的としているが、これにとらわれて授業師を養成しないようにすべきであり、また師範学校卒業生が実際は青年学校に勤務する現状に鑑み、青年学校教員や青年団指導者として必要な教育も施すべきである。第三に、師表を狭く解釈して情味豊かで人間味に溢れる性情の育成を欠いてはいけない。このことは特に女子師範教育において重要である。第四に、錬成を誤解して性格訓練に陥り、知的教養の充実を軽視し、強迫(「脅迫」の間違いではないか。)教育に陥り、青年学徒の溌剌独創的な研究や企画を委縮してはならない。

 

228 今や我が宏遠なる肇国神話に基づく、万邦が得る処、億兆が安堵する樹徳深厚なる皇道精神は、大東亜に崇高な道義圏、強力な国防圏、雄大な共栄圏を建設することを、世界維新の先駆としようとしている。まことに光栄な時代である。我々はこの崇高な天業恢弘(かいこう、広めること)つまり中外に施してまがらない道義宣布の天業恢弘に際して、億兆一心家族的団結・道義的団結を以て奉仕し、大東亜否全世界の米英的または共産主義文化を清算しなければならない。新しい師範学校はこのような大事業に猛進する皇国民の先達(指導者)の錬成道場たるべく、新しい師範教育精神はこのような見地から雄大に顕現具体化されるべきである。皇国の道に則る師範教育精神の本義はここにある。この意味での皇道師範教育精神の強化こそ、新しい時代の師範教育精神の本義である。

 

以上

 

2022年5月24日火曜日

「高校教育をかへりみて」 姫路高等学校長 浅野孝之 1943

「高校教育をかへりみて」 姫路高等学校長 浅野孝之 1943

 

 

感想

 

・皇室(天皇)礼賛・心酔

・宗教を科学的に対象化せず、信仰そのもの。神がかり的教師観

 

感想

 

・この時代なのに高校生の自主性を好意的に評価している。

・この時代の多くの人は神がかり的な気負った表現をしがちで、筆者の場合も文末でそれが現れるが、一方で気負わず素直に表現している箇所もかなり見受けられ、その点は好感が持てる。

・政府の意向も紹介するが、平板で眠くなる。あまり重視していないからなのだろうか。

・昭和天皇に対する感情的思い入れにはびっくりする。

・太平洋戦争勃発が高校生を危険思想から国家主義に変えたようだ。今のウクライナ戦争勃発によって自衛のためを口実に戦争行為を肯定する日本人が多くなっているのと同じ構図だ。

 

・コトバンクによればこの講演時の筆者は55歳であり、戦後すぐの昭和23年に61歳で亡くなっている。病弱だったのだろうか。また筆者は仏教者207とのことだが、本文のあちこちに散見される優しさはそこから来ているのだろうか。

 

 

Wikiには筆者に関する該当項目がなく、コトバンクによれば、

 

浅野 孝之 アサノ タカユキ

大正・昭和期の教育者 第七高等学校長;山口経済専門学校長。

生年 明治21(1888)23日 没年 昭和23(1948)725

出生地 愛媛県 学歴〔年〕東京帝国大学宗教哲学科〔大正3年〕卒

 

経歴 大正3年文部省嘱託となり、後、布哇(ハワイ)中学兼同高等女学校長、私立成蹊高等学校長、東京府教育調査会委員、成蹊学園理事、本願寺審議会委員、特選会衆猿江重隣館理事、日米布協会理事を歴任。昭和16年姫路高等学校長18年第七高等学校長、22年山口経済専門学校長となった。専攻は仏教哲学、仏教を通じて社会教育に寄与した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)

 

浅野孝之 あさの-たかゆき

18881948 大正-昭和時代の教育者。

 

明治2123日生まれ。大正3年文部省嘱託となる。のち布哇(ハワイ)中学兼高女,成蹊高,七高などの校長をへて,昭和22年山口経専(現山口大)校長。仏教を通じて社会教育につくした。昭和23725日死去。61歳。愛媛県出身。東京帝大卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus

 

要旨

 

196 10余年間の高校教育の体験に基づいた所感を述べる。

 

先ずは文部省への配慮

 

 戦争の勝敗は国民の精神力によって決定される。日本の教育はその精神力の涵養という重要な使命をもっている。第一次大戦に敗れたドイツの大統領ヒンデンブルグ元帥は、ドイツの復興を国民精神の作興体位の向上に期待した。さらにヒトラー総統は教育立国を叫び、時代を背負う若き国民の錬成や自己の使命に目覚めた女性の養成を考え、目前の産業・経済問題よりも、推進力としての人間の教育に重点を置き、その指導者の育成を重視した。今日の独逸の勝利はこの卓抜な教育国策の当然の結果である。

 

197 目前の戦争処理、共栄圏の建設、戦後反動期に予想される難問に備え、これを乗り切れる国民を今錬成しておくことは緊要の事業である。政府が教育刷新を基本国策としたことは尤もなことである。

 戦後のドイツは財政窮乏の中でも「教育は人にある」という信念から、先ず教師の資質向上のために、小学校教師に大卒の資格を求めた。今日本が指導者の教養を刷新しようとする国策は当然である。

 

 高等学校教育の目的は将来の国民の指導者を養成することである。しかし従来その方針が不明確で具体的指導法がなかった。担当者は高等学校令に従ったが、自由的気持ちがあり、主観に基づき、自分の好むところに従い、各教師間に一貫した方針がなく、訓育は第二義的であり、縦にも横にも連絡がなく、分裂的分科的に教えた。綜合的・統一的な教育でなかった。無駄だった。

 

 生徒も真摯着実な一部の者を除いては、漫然と偉い人になりたい、立身出世したいという自己本位の英雄主義、出世主義の気持が多かった。修養訓練も個人主義的な自己訓練であり、風貌容姿は顰蹙を買うだらしなく粗暴なものであり、それを生徒は質実剛健と称し、さも特権階級ででもあるが如き傍若無人な態度を取った。一方学校はこれを指導しないであるがままに放任し、しつけに考慮を払わなかった。彼らの態度は時習に合わず、社会に逆行し、憎まれっ子として非難を受け、高等教育の価値を問われるまでになり、(高校)廃止問題の口実となった。

 

次に高校生弁護を挿入

 

198 しかしここで私は高校生のために一言弁じてやりたい。以上のことを高校の全貌と考え、外見上の高校生の姿からその全価値を批判することは早計であり、当を失する。そればかりか高校教育が持つ特殊的価値や高校で最も養われる長所や美点まで葬り去ることは邦家教育のために私は採らない。

 高校生活を体験した者は、その学問、人物、識見、志操がこの高校時代に最も飛躍的に発展成長し、殊に青年にとって最も望ましい自覚と自発・独創の精神が発芽・生育することを認めている。彼らの底力と妙味はこの高校時代を通じて涵養獲得されると信じる。

 高校生が扱い難いことは事実だろうが、それは彼らが自覚的、自発的、自律的であって、他の干渉を好まず、「可し」「可からず」という命令や禁令によって進退することを厭う性格が頓に発達するからである。世間の教権でもってこれを面従させることはできるだろうが、真に心服を得ることは必ずしも期待できない。麥の穂は鋏でその先を剪み揃えることはできるが、見る眼に美しい穂先の揃いは必ずしも麥の稔りの豊かさを保証するものではない。

199 人間についても同様のことが言える。麥本来の自然の発育を害うことは決して良き農夫のとらぬ所である。三年間の高校生活を事無く送らせること、目前の厄介を逃れるために事なかれ主義を取ることは、取り扱いは楽で苦労がなくてよいかもしれないが、より良い収穫だけを念願する農夫は、その培養の労苦を厭うてはなりません。しかしこう言うことによって彼らのわがままを許し、あるがままの姿、自然の伸び放題に任せておくことを意味するものではない。果樹は枝打ちをしすぎても、また伸びるに任せても、良き収穫が得られず、「程合い」が大切である。その心を殺さぬように適切な指導がなされねばなりません。誤解なきよう申し添えます。(意味深長)

 高校は高校生の切磋琢磨の道場であり、特に学寮や報国団などの部生活においてそう言える。行き過ぎはあるかもしれないが、これらの生活に浸ることによって個性の陶冶を受け、集団生活での訓練によってわがままを抑え、功利心を摘み取り、共同一致の精神と共に、責任感や滅私没我の精神や、終生を貫く友情が育まれ、人間として一種の旨味が盛られてくる。「人間を作ってもらった」という感慨は、こうした生活を真剣に味わった者が斉しく抱く所である。利己的、個人主義的な功利心は、高校生の最も唾棄する所であり、三年間の高校生活はこの方面の陶冶にある程度成功している。完成教育や仕上教育ではないから、確かに余裕と呑気さがあるが、そこに自然にこうした陶冶も可能になる。この呑気さはこの御時世にと非難されるかもしれないが、その呑気さの余裕の間に、一種の落ち着きと鷹揚さ、物にこだわらぬ純情さ、人間として望ましい一種の持ち味、指導者として是非ともあってほしい風格(現指導者の批判か)が養われる。直接接してみて感じる高校生は、外見上の高校生ではなく、実に美点長所を多分に持っている。彼らを誤解させるものは「伝統の高校型」であり、彼らの本質ではない。

 

200 もちろん彼らは青年であるから、身体の発達が未完成であるように心も未完成であり、経験も浅く思慮も十分でなく、考えることがとかく一方的で、自分の立場に執着して他の立場を理解せず、理智的理論的であるために勢い批判的になり、空想に近い理想論を振り翳して他を量り、他に望み、遂には他を排する傾向がある。しかも自らを省み、自らを量ることが極めて少なく、実行を忘れて徒に観念論に堕する。これは高校生だけでなく青年全般の通弊であるが、諸種の事情で高校生に特に目立ってみられる。

 

思想問題とそれに対する国家の対策

 

 高校生の以上の性格や、彼らを風靡した「高校型生活」のために、高校は社会から指弾を受けた。その上一時我が国を席巻した恐るべき思想魔の来襲によって高校思想陣営の一角が脆くも潰えたことは、高校の社会からの信頼を薄弱ならしめた。(筆者は自由主義者だが、反共か)

 

 悪化の一途をたどる学生の思想善導を目指して、昭和419297月、専門学務局学生課に代わって学生部が現れ、昭和719328月、国民精神文化研究所が生まれて国民精神文化の研究、指導、普及が計られ、昭和919346月、学生部は思想局に発展し、昭和1219377月、現在の教学局が外局として設置された。これは、「現下の時勢に鑑み、国体の本義に基づき、教学上の諸弊を芟除(さんじょ)し、教学の根本精神の維持発展を図る中心機関として、文部大臣管轄下で、教学の刷新振興に関する企画、調査、指導普及に当たる」ことになった。

 

 これより先、昭和121937327日、文部省訓令第七号高等学校高等科教授要目が公布された。これは「我が国の教学があくまでも国体に基づき、日本精神に則り、国民精神の涵養と人格の陶冶に重点を置き、古い伝統の教育精神に帰り入る我が国民の歴史的使命とともに、東西文化の融合発展という世界的使命に鑑みて、徒に偏狭固陋な排外的独善に陥ることなく、東西の学問文化を皇国の道によって摂取して世局の進展に役立て、国体に対する信念を強固にしつつ日本文化の創造に寄与して皇運扶翼の大任を担うことのできる指導的人材の養成に努めるべきこと」を述べ、高校教育の方向を明示した。これと同時に将来日本国民の指導者となるべき者の資格として、信念、気魄、識見、徳行、情操、健康の六項を掲げて指導目標を明らかにし、陶冶錬成に努めるとした。

 

201 爾来高等学校の教育は「飛躍的に」進んだ。当局の指導と国際情勢の急激な変化(戦争)は、高校生の思想動向に一大転換を促し、特に支那事変以後一段と飛躍した。昭和141939522日、「青少年学徒に賜りたる勅語」を奉戴(お受け)し、親しく我らに賜りたる御信倚(しんい、信頼)の大御心として恐懼感激し、聖旨に応えまつらんことを期した。

 爾来その風は著しく刷新され、高校生の思想行動も「堅実味」を加えた。高校生の意気・感激は画期的であり、対米英宣戦の大詔を感激の涙で拝し、彌(いよいよ)皇国学徒としての自覚と時局の認識を深め、生活態度も一変した。今までの自己本位の出世主義は国家本位の考え方に変わり、東亜における日本の地位と使命・責任を考え、国家における自らの地位と責任を顧みて、指導者としての意味も、国内から広く外地の共栄圏の民族を含むようになり、指導者としての自覚、気宇、識見、熱意が増大した。(戦争やれやれか)

 

202 昭和1719423月、文部省は(高等学校に対して)訓令を出し、次のような高遠雄渾な指導精神を力強く昭示し、その徹底を要望した。

 

一、皇国の道を修め、世界における皇国の使命を体得し、克(よ)く国家の重きに任じ、大東亜新秩序建設の大業を翼賛し奉るべき材幹を錬成すべし

二、至誠純忠にして敬神崇祖の念篤く、気節を尊び廉恥を重んじ、剛毅果断にして進取の気象に富む指導的人物たらしむべし

三、心身一体の鍛錬を重んじ、質実剛健の気風を振励し、高邁闊達の気宇を涵養すべし(無内容)

四、知行一如の学風、自発的、共同的、実践的なる学習を重んじ、思索を精にし識見を長じて文化創造の根源力に培うべし。(無内容。あくびが出る)

 

この「お示し」は「教育勅語」や「青少年学徒に賜りたる勅語」の聖旨を体して、大東亜共栄圏の指導者たる自覚の下に、服膺(戒めを忘れない)実践すべき臣民道を示したもので、具体的であり、昭和124月公布の教授要目200から飛躍的に発展した。(つまらないくせに、おべっか)

 

 今回の要目改正では大東亜新秩序建設大業翼賛という具体的使命が明示され、その大業完遂のために挺身邁往(まいおう、邁進)する実践力を啓培するために、従来の資質陶冶の上に、一段の強化がなされた。

修身科が道義科に、国語漢文科が古典科になり、法制経済科が経国科になって政治、経済、地理を含むようになり、体操科が体錬科になった。また従来は各科の相互的連絡がなかったが、高校教育の目的を把握しつつ他教科と一体的に学修させるようになった。時間数も大体の目安が与えられているだけで、教材も定められた範囲内で自由に選択でき、生きた教材の活用を狙い、教授法でも煩瑣な注釈や単なる知識の注入に堕せず、輪講討議、思索味解を行わせ、また全学級画一的な指導を行わず、時には数班に分けて特殊な課題を研究・調査・報告させ、課題の自発的解決能力や識見を養い、現実の問題に興味を抱かせて反省を与え、その精神内容を「全体的」具体的に把握させるように組み立てるなど、従来より多彩でかつ修学心をそそる(おべっか)興味深い指導法となっている。そして学校の授業が教室内に限られることなく、社会で自由に見学実修させ、一時間単位の週配当でなく、二時間連続あるいは半時間分割し、特殊研究調査では長時間を当てることができる。外部から指導者を頼むこともでき、校長訓話も可能である。合宿訓練、生活訓練、しつけも行える。このように心身を錬成し、地方の特色を生かし、生徒の興味を喚起し、実践的学風を振起するなど、教授者の手腕工夫によって授業の成果を挙げることができる。

 本改正で特に興味あることは、従来久しく要望されていた演習制度が生まれたことである。例えば古典講読、特殊研究、芸術鑑賞、見学、実習、調査などである。また従来知識注入に止まりがちであった修身科が道義科に変わって時間が倍加され、学級訓練、生活指導、しつけなどを強化し、体錬科と一体となり、知に偏せず体に堕せず、心身一如の錬成をするようになった。

 

204 今次の改正は学行一如の建前から行的教育が強化され、諸学科で修得される知識も綜合的に活用し、知識を一体化・実際化し、生徒は自発的・共同的・実践的学風を振起し、教師は師弟同行・倶学倶進の精神で身をもって導き、徳を以て化し、教育目的を完遂する。かくて皇国の道に徹し、皇国の世界的使命を自覚体認し、大東亜新秩序建設の大業を翼賛すべき材幹を錬成する。一切がこの目的に叶うように組み立てられていて、そこに画期的な刷新改善の狙いどころがある。実施半年でまだ十分の効果を上げていないが、明確に我々の往くべき方向が定められ、師弟共に興味と関心と熱意をもって鋭意その実行を期している。いずれ必ずや高校教育の成果が挙げられると確信している。(眠い)

 

教員論

 

 制度を活かすのは人であり、教育については特にそう言える。教育問題は校長を含めての教師の問題である。

 

 教師の第一の心構えは、

 

一、陛下の赤子をお預かりしているとの観念

二、「人尤(はなは)だ悪なるはなし。よく教えればこれに従う」(聖徳太子御制十七条憲法)という教育愛と教育者の反省である。

 

 陛下の赤子をお預かり申すことは確たる事実である。彼らは皇国隆替(盛衰)の鍵を握る重大な責任者である。教師はその指導者として「導いて誤りなかりしや」の反省と責任感がなければならない。古来事をなした人を見て感銘することは、必ず自己一人の責任で事に当たり、責任を他に転嫁しないこと、そしてその責任が永遠であったことである。我々はとかく書類の上での責任、当座の責任、任にある間だけの責任、在任中にぼろを出さなければよい、つじつまが合えばよいと考えがちである。教育のことは目に見えず、功罪を今すぐ判断できない。知らないうちに大きな過失をしているかもしれない。だから日々の反省と永遠の責任感を必要とする。七生(親・子・孫と七代続くこと)報国、七生滅賊、「靖国神社で会おうぞ」とは、責任を死後まで取ろうとする永遠の責任感を言ったもので、口頭や文字の上での儀礼的責任ではない。国家百年の責任を青年学徒に求める以上、これを指導する教師は、永遠の責任を覚悟すべきである。

 

 指導者に不可欠なものは責任感と共に熱意である。責任と熱意のないところに事は成就せず、熱意の下に人が動かないことはない。芸術家が作品に対して精魂を打ち込むことによって魂の籠った芸術が生まれる。人間をつくることほど偉大な芸術はない。教育者は最大の芸術家であり、一筆一刀をもおろそかに下してはなりません。

 

 真の芸術家においては朽ち木も用途を得て立派な芸術品として活かされる。そして材料は芸術家自身のものになり、芸術家と材料とが一体となる。良い芸術家は材料をよく理解していて、材料の性質に従って親切に導き、その特色を発揮させ、価値を発揚させることができる。教師は他を成らす前に自ら成ることが大切である。(宗教者としての厳しさか)

 

206 最近よく「実践躬行」とか「率先垂範」とか言われるが、それは「身を以て導け」という意味である。徒に口頭の説法ではなく、挺身垂範する所に自ずから「化」が行われ、「化」の所に初めて「教」が成り立つという意味である。教育は教えることではなく化することであり、教師が実践する所に自ずから行われる。私も「最上の監督は率先垂範だ」とばかりにやってみたが、やって見せるという功利的な気持ちが先に立ってぴったりしない。この方便は目的達成のための貴い手段であるが、私はただ「已むに已まれぬ心から出る実践でありたい、自然であるところに化があるのだ」という気持ちでやったにすぎない。ところが今夏私の学校の教官錬成講習会で、宮内省の星野輝典先生から聖上皇后両陛下の御敬神の御聖徳について講和があり、「陛下は已むに已まれぬ大御心から(敬神の行事を)行っているのであって、国民に範を垂れようなどと思ってやっているのではない。御聖徳から自然に現れるので、何ら作意はない。畏いことに陛下は何事にも真剣で、宮中の祭祀では、寒中でも汗をかくほど全霊を注いで奉仕し、その真剣さに自ずから襟を正し、頭の下がるのを禁じ得ない。この真剣さに動かされて民の我らは自ずから靡くのである。これは自然垂範であるが、叡慮の中にそのような考えはない」と言った。これは誠に畏い極みであり、我々の「してみせる」という不純なこころから出たものは恥ずかしい限りだ。已むに已まれぬ親心から出たものでなければ真の教育はできないと痛感した。星野先生は「真剣のところに垂範はない」と言われた。(皇室美化)

 

207 教師は教えることを知ることによって、自ら学ぶことや道を求めることをゆるがせにしがちである。宗教家も教育家も指導者を自認し、自らが学ぶ者であり、道を求める者であるという自覚と反省が足りない。良く導くためには、よく導かれる者でなければならない。真の教育者は、真の学者であり、永遠の求道者である。学者とは物知りではなく、常に学ぶ者であり、求道者とは師としての位置から引き下がり、師を求めて道を尋ねる者をいう。師弟同行、倶学倶進とはこのことである。教育者が、

学びにおいて生徒の欲求を満たしているだろうか、

徳と識見において生徒を指導教化するに足りるだろうか

と反省するとき、教育者は学者となり、求道者とならざるを得なくなる。生徒は正しく導かれ、温かく抱かれることを願っている。生徒に軽侮の念を起こさせることに警戒しなければならない。生徒は学問上の知識だけでなく、道においても正しい指導を求めている。淡白率直に是非を明らかにし、優しく導くべきである。教師の生徒への迎合を正しさを愛する生徒は喜ばず、却って低劣な心情を看破され、侮蔑不信の種となる。純情で感激性に富む生徒は、駆け引きなく腹を割って真実を語る人格について来る。生徒は真実の𠮟責を感謝する。「教」とは「可し」「可からず」という命令ではなく、生徒自らが「可し」「可からず」を自覚するように導いてやることであり、そのとき生徒は満足する。病人には自ら治る力があり、医師が患者をこの自覚に導いてやることが治療の秘訣であるように、生徒を自覚に誘導することが教育の要訣である。

 

208 生徒は正しく導かれることを喜ぶとともに、温かく抱かれることも望む。それが教育愛である。「育」とは愛で温めてやることである。これまで教育上の失敗の原因がこの教育愛の欠如とされ、師弟の情誼がしばしば論ぜられた。親の愛は片務的である。親は子供を愛することができることに満足し、子供から愛の返報を要求しない。それは絶対愛に近く、神仏の愛に譬えられる。その慈悲心は病弱な子を捨てない、成績不良な子でも捨てない、性格がよくなくても憎まない。それは憐憫(れんびん)の情を注ぎ、擁護救済の手を差し伸べる、仏教で言う摂取(しょうしゅ、仏の慈悲で衆生を救う事)不捨の宗教愛に近い。それは日本の教育愛である。これは1300年前の聖徳太子が国民教化の根本態度として十七条憲法第二章で示したものである。「人鮮尤(はなはだ)悪、能教従之」204とは教育者・指導者の態度である。箸にも棒にもかからない者はあまりおらず、能く導けば必ずついてくる。聖徳太子は「能く教えれば之に従う」と教育者としての確信を与えた。「之に従う」ためには「能く教えれば」の条件がある。ここに教師の反省が要求される。生徒を咎めず、教師にも誤りがなかったか、愛して悔いがなかったかを反省すべきである。教育の責任から自分を擁護してはならない。

 

また信仰的皇室礼賛・心酔

 

この1942夏我が校の教官錬成講習会で、帝室会計審査局長官木下道雄閣下が次のような感銘深い今上陛下の御聖徳を謹話されました。

209 長官がまだ侍従であった時、司法大臣が某大官検挙の勅許を仰いだ。侍従は上奏文を闕下に捧呈する。陛下はこれを見て顔を曇らせ、深い憂鬱に沈んだ。侍従は「御軫念」「叡慮を悩ます」「宸襟を悩ます」といった言葉をかつて聞いたことがあったが、眼前で悩む姿を見て、恐懼に堪えず、涙を抑えて勅許を待った。容易にお下げ渡しの気配がない。しばらくして漸く勅許があり、退去しようとしたところ、陛下が急に侍従を留め、申すも畏き極まりながら、いと沈痛なお声で「朕が悪いのだ」と仰せられました。木下侍従は余りにも勿体ないこの御言葉に唯々恐懼し奉り、御前を下がるや思う存分泣いた」と話された。嘗ては輔弼の重臣として信任していたこの大官は、今は囚われの身となって、叡慮を悩ます。その罪正に死に当たるべきものであるにも関わらず、陛下はいささかも憎まず、却って勅許によって彼が囚われの身になることを憐れみ、御軫念あらせられたことさえ、誠に畏き極みであるのに、今退下する侍従を召還され、「朕が悪いのだ」と仰せ出された広大無辺の御仁慈を拝し、誰か聖恩の辱(かたじけな)さに感涙し奉らざるものがありましょうか。遠く亀山上皇は宸筆の願文を伊勢神宮に献げ、

 朕が身を以て国難にかへん

と宣(の)らせ給い、宇田天皇は、

 百姓の悪を作れる皆我に帰す、今仏子と成り一身に善を修して普く他を利す

と宣う。明治天皇が国民に代わってその罪を天津神にお詫び遊ばされた御仁徳は、国民の斉しく感佩(かんはい、心にとどめる)し奉るところ、そして今上陛下のこの御聖徳を仰いで、ここに真の日本人が育つのだ。大君の御為には一切を捧げ尽くして惜しまない、至誠純忠の皇国民が育つのだと、その勿体なさ忝さに自ずから涙こぼれるを禁じ得ない。

 

210 赤子を慈しみ、捨て給わず、罪人をすら憐れみまします大御心こそ、我々教育者が深く体して国民教育の大任に当たるべき根本的心構えでなければならない。大御心を体するとは、大御心を我々醜の身に実践することである。そこに皇国日本教育者の真面目があり、こうして教育の成果を挙げることができる。教育問題は教師の問題である。

 

 高等学校の教育は本省が示したところによって目標がはっきりし、生徒も時勢(対米英戦開戦)の影響によって自覚しそれを受け容れる心の準備ができている。これを扱う私たち教員の覚悟一つでこの教育が完成する。我々教育者の責任は重大で、誠に空恐ろしくさへ思ふのであります。(ひょっとして疑問に思っているのか)

 

以上

 

 

2022年5月21日土曜日

「学校経営の基本問題とその実際」 岡山工芸学校長 浦上時次郎 1943

「学校経営の基本問題とその実際」 岡山工芸学校長 浦上時次郎 1943

 

 

感想

 

 「大東亜共栄圏」に関する教育研究発表会をやるから何か発表せよと言われた某実業高校の校長は「俺は20年以上も前から皇国の道の教育を実践して成果を上げてきた」と嬉々として語る。

 

「忠良」とは自分の意見を言わないことである。

「国家主義」とは自己愛である。

 

感想

 

 教育勅語に基づく国家主義的教育を他に先んじて実践してきたことを自慢している。自由主義的教育を否定*し、現場の教育実践を重視し、教育研究を軽視しているかのようである。教育行政の末端の教員(実業学校の校長)は国家の忠実な犬である。また筆者自身がそれに甘んじ、自認している。

 筆者の名はWikiにも他のサイトにも見当たらない。

 

*「個人主義、自由主義、功利主義、唯物主義、仮面を被れる人道主義、偽装せる平和主義」などを列挙している。193

 

 

要旨

 

180 一、緒言

 教育学の理論については他の諸先生が話すから、私は学校教育の実際問題つまり学校経営の基本問題に関する所見と実際の一部を、今回の主題(大東亜新秩序の建設)の趣旨に沿って述べる。

 

二、校運消長の梗概

 元来岡山市は消費都市であったから、産業興隆のための教育機関の設置が求められてきた。我が岡山工芸学校は大正31914年、御大礼(大正天皇の即位礼)記念事業として創立された。入学資格は国民学校初等科修了程度で、修業年限は3年、木工、金工、塗工の39学級であった。

181 開校当初は入学志願者が少なく、中途退学者も多く、多額の経費を要したので問題視された。大正81919年、2万円の経費に対して卒業生が8名で、大問題となって廃校の議が起こったが、辛くも存続した。

 

 その後、生徒は著しく増加し、卒業生が好成績を出し、世評が良好となった。大正151926年、現在の位置に新築移転した。昭和51930年、文部大臣から選奨され、同じく昭和511月、岡山県で行われた陸軍特別大演習御統監のために天皇陛下が御駐輦(チュウレン、駐車)された際に、畏くも御使御差し遣えの光栄に浴した。この光栄と感激は永遠に新たなるものありと感涙致して居る次第であります。

 

 来年昭和181943年から新たに機械科を設置すべく今認可申請中である。修業年限は全部5年制に昇格される予定である。

 

 私が本校に赴任した当時は校地が狭く、腐朽荒廃し、雨漏りと危険を防ぐための応急措置をした。その間私は経営計画を立案した。以下にそれを示す。

 

三、教育の根本理念とその実際

182 如何に深遠なる理論も、精細なる研究も、如何に周到なる計画も、完備せる設備も、如何に熱心なる指導も、昼夜を分かたぬ活動も、もしその根本方針が妥当適正でないならば、国家に役立つ国民を育成するという真の教育目的を達成できないどころか、「恐るべき結果」さえ生ずることもある。

 由来我が国の教育の根本義は、天皇の御神勅、列聖の御詔勅、特に教育勅語を奉体して実践躬行するところに存在する。とかく枝葉末節の論議にとらわれる傾向があったが、私は我が国の教育目的は国家目的に帰一すべきであると信じた。即ち忠良有為の日本国民を育成することであり、今日の言葉で表現すれば、国体の本義に透徹し、肇国の大精神を体得云々である。

 今では我が国の教育目的は既に完全に一元的に決定され、更に議論の余地はないが、その昔諸説紛々としていたころ、私は時流になずまず敢然としてこの根本精神を堅持し、それを学校経営の基本とした。広く種々の学説、主義主張、思想傾向等も研究したが、それはこの根本理念をますます鞏固にするだけだった。私は千万人と雖も我往かんの気概を持っていた。そして全職員が私のこの考えを深く理解し、熱誠な協力をしてくれた。参照その一は大正141925年に上司に提出したものである。今日唱えられる皇国民の錬成である。参照その二は青少年学徒に賜る勅語を拝して謹解し、職員に示したものである。新旧一貫して(意味不明)この精神が現れている。

 

四、学園の神聖とその実際

183 日本の各地にあって荘重で神聖な所といえば神社と学園である。これは本質上当然なことである。学校は清浄・無垢であり、学校や教師がかれこれ指弾されたり貶められたりすることはない。卒業生にとっても学校が懐かしく思慕や追憶の対象となるようにしたいものだ。

 

 学園の神聖を汚濁するものは人と物つまり、教師と金銭・物品である。教師については後述する。学校はみだりに父兄などから金銭や物品などの寄付を要請しないことが重要である。

 我が校は父兄の学資負担の軽減に努め、父兄団や後援会を作らず、寄付を要請したことがないから、何の気遣いもなく、独往自在の経営ができた。神聖な奉安殿や学校精神の象徴である校旗は公費で造り、校庭の樹木は苗木や稚木を求め、昭和131938年が創立25年に当たり、その記念式典の経費は全職員が自発的に昭和8年から5年間、毎月の俸給の百分の一を積み立てる契約書を作り、私もそれに賛成した。(自分が言い出したくせに、人のせいにする)しかしたまたま(日中戦争)勃発の時局を遠慮して、挙式を控えてそのまま預金している。

 

五、師道の昂揚とその実際

184 東洋は西洋に比べて教師を尊敬する気風が厚く、殊に我が国では今なおその気風があり、大変喜ばしいことである。しかし明治以来日本は西洋流に倣って次第に西洋化が増すにつれ、日本的美風が稀薄となったことは止めることのできない事実である。彼の長所を取りながら、昔の日本の美風を発揮してこれを昂揚させねばならない。このことについて従来様々な会合や雑誌で所説を見聞するが、その多くは父兄や社会、国家に対する要求である。目標を誤ってはならない。私が師道の昂揚を強調するのは、教師のためではなく教育振興のためである。

185 教権の確立、教育の尊重、教師の優遇などの源を教師自身に求めるべきであって他に求めるべきではない。それは他から自然に盛り上がって来るべきものであり、その気運の醸成源は教師にある。教師は良き教師である前に、良き日本人たるべきであり、高尚な品性や人格、円満で豊富な常識、該博な識見、殉職の決意を持つことなどが先決問題である。教師は自己の本分を自覚し、人格の向上、学問や技術の研磨、身体の健全などに努め、伝達、指導、啓培の方法を工夫・研究して熱心に当たるべきである。学校教育は教育内容と教育設備、被教育者、教師の三者からなる。前二者が受動的であるのに対して、教師は発動的で学校運営の中心であるから、その使命の重大性を認識し、日本教育者としての矜(ほこ)りを感じ、恭倹(人には恭しく、自分は慎み深い)、自戒、自奮、自励して生徒を垂範徳化し、他と円満な協調を保つこと、そして全校全職員が渾然一体となり、滑らかに潤いのある教育活動を提供することが重要である。そうすれば師道は自ら昂揚し、教育成果も上がり、教育報国を達成できる。ところが教師は不治不識のうちに反省を失って尊大独善に陥りやすい。殊に実業方面の教師は修養が十分でなく、特に技術教師には天狗がいる。戒心を要する。私は今から24年前に本校に赴任した直後に参照その三の「教職員心得」を定め、全職員にその趣旨の領得と具現を要望してきた。(ワンマン校長)

 

六、生徒の指導啓培

186 これは教育の根本理念に基づく。その根本は生徒が目先の事象にとらわれず、皇国民としての高い理想を持ち、国家の有用の材となり、生きがいのある生活を送るという人生観を養い、研鑽修養に励まさせるために参照その四の校訓を定めた。当時は自由主義思想が盛んであった時代であったが、私は学校の教養指導に絶対服従を要求し、善美の校風を培養し、和気藹々のうちに薫染感化しようとした。(校長だけの思い込み)

 

1 人生観の確立

 当局は他校の例を引いて公費による校旗作成予算を計上してくれなかったので、モスの布を買い、学校で独自に徽章を描き、国旗用の竿を買って手製の校旗を作った。私は生徒に、他に依存せず、実力相応の生活をせよと語り、自主独立、自重自尊、正義操守の信念の涵養に努めた。

 

2 訓育の重視

 生徒に関する規定第八条に「生徒(の)席次は操行(が)甲なるものにつき合計点の順による、同点なる時は、前期の成績または学校長の認定による。次に操行乙なるものにつき、次に丙なるものにつき同様の順にこれを定む」とある。教師の指導啓培にも、生徒の修養にも、操行を重視し、処罰よりも訓戒を旨とし、生徒の反省と自奮を重視した。20幾年間で退学を命じたものは一人もいない。

 

3 体育の重視

 校庭に健康十則を掲示し、消極的衛生と積極的運動に関する注意を喚起し、校庭を芝生にし、植樹して緑陰を作り、正課の体操以外に、実習作業後の矯正体操、毎日のランニング、毎月の登山を行う。見せるための体育という観念を排除し、自分のための体育を強調し、見せるための運動会を行わず、選手を偏重しない。

 

4 学習訓練

 従来の得点主義や進級主義の弊害を排して自己玉成を推奨し、自発的に楽しく学習させ、卒業後の研鑽の基礎を養う。このためには定期試験を全廃するのが効果的であるが、同地域の他の学校が歩調をそろえないと難しい。

 

5 実習訓練

188 各種展覧会や博覧会に作品を出品して好評を博しているが、先年は文部省の指定で米国シカゴ市開催の万国博覧会に出品した。売上も多額になった。帝国発明協会岡山県支部主催の発明品展覧会では6回中の4回、恩賜発明奨励金による優勝旗を授与された。

 

6 教科書の活用

 私が本校赴任当時の修身教科書に、河村瑞軒*が江戸の大火に際して我が家の類焼脱れ難きを知りつつ、木曽に行って材木を買い占めて巨利を得たことが美談として記されていた。私は将来はこういう自我功利の行為は許されなくなるだろうと訂正したが、その後関東大震災では暴利取締令が出された。また公民教科書は国際連盟に関して「我が国は国際関係上連盟に加盟せざるを得ない事情がある」としていたが、私は国際連盟に依存しそれに立て籠もることは許されないだろうという所信を生徒に披瀝した。その通りその後遂に連盟脱退となり、今日の時局(太平洋戦争)となった。私には悔いがない。

 現今は世界情勢と社会状況が急変するから、特に注意して教科書を活用する必要がある。

 

7 機会の把握

189 これは国体明徴に関することであるが、昭和1219375月の英国皇帝戴冠式の際の順序や模様を委しく説明した後で、「我が国の御即位御大礼で御自ら高御座に登らせ給うことと英国皇帝の戴冠式との相違は何によるか」と私が質問すると、生徒は一斉に「国体が違います」と答えた。まことに活きた適切な教育であったと今でも嬉しく思い出し、たびたびこれを引用している。

 

8 生徒及び卒業生

 当初入学志願者が定員に達しなかったが、その後非常に増加して数倍になった。入学試験がもたらす弊害が甚大であるため、大正91920年以来20余年間にわたり、新(選抜)方法と従来同様の選抜方法の両方を実施してきた。(このあたり不正確)国家教育のため安堵慶祝に堪えない。参照其の五は入学考査内規の一節である。

 事変(日中戦争)前の就職困難時に実業学校長は卒業生の就職斡旋のため東奔西走したが、我が校ではその心配はなく、他から来て求められた。工業界に進出した卒業生が多く、中には相当大規模に活躍している者もいる。また工芸界に進み、商工省工芸品展覧会や帝展・文展の入選・入賞者もいる。

 

七、工芸教育の本質とその実際

190 工業品は作品への技巧や修飾を考慮せず、実用価値に重点を置いたものであり、工芸品は作品の実用価値を重んずるとともに美術的技巧装飾を施した物である。この両面の特質は近年交錯する傾向があり、厳密に区別することは難しい。また工芸品と美術品との違いは、教養の高い作者が作品の実用的価値や価額よりも自己の美的欲求や美的理想を表現したものが美術品であり、それに対して美的表現もあるが用途や実用価値を主眼として、社会の要求、需要、価額などを考慮しながら作った物が応用美術とも言うべき工芸品である。

191 従って工芸は工業と美術との中間にあり、実用価値と美術的要素とを併せ持つ物である。

 美術を志す者はその方面の優れた天稟を必要とし、工芸を志す者も、ある程度の美術的天稟を要する。一方工業は普通の能力を持つ者なら工業者になれる。

 創立当時は入学生の性能検査もせず、入学時から一律に工芸教育を施したため、これに適さない者は中途で退学した。そこで途中で方針を変え、一般に工業的教育を施し、その中の工芸的天稟を持つ者だけをその方面に伸ばすようにした。これによって落伍者もなくなり、卒業生は工業と工芸の両方に進出した。

 

八、結論

 皇軍の赫々たる大戦果によって我が国勢は急激に躍進し、弥栄に栄えます御陵威の下に、内には道義国家の体制を確立し、外には大東亜の共栄圏と道義に基づく新秩序を建設し、全世界に八紘一宇の大理想を顕現し、厥(そ)のを済(な)すために、政治、経済、産業等で大英断を下し、目覚ましい革新が行われつつある今、この基礎をなす教育においては、大東亜の盟主として各民族を指導する重大使命を完遂することができる有徳・雄大・強靭な大国民を錬成するために、挙国一斉に在来の学校経営に痛烈な省察・検討を加え、虚心坦懐、全くの白紙に帰り、明朗闊達に粛正・刷新して国策即応の(学校)経営が要望されることが差し迫っている。昭和の教育者はその重大な使命と最大の栄誉を痛感し、大任を全うするために夙夜(一日中)淬(さい)礦(れい)(鍛え磨く、学問・修養に励む)しなければならない。(美文調の空語な作文)

 

 

参照其の一

 

大正14192510月上司に提出せし意見書の一節

 

(前略)その根本問題は教育目的の神髄を念頭深く刻み、その精神の発揚に精進すべきにあると信ずる。その目的とは

 

・忠良有為な日本国民の育成

 

最高学府特有の目的

高等諸学校特有の目的

中等学校特有の目的

小学校特有の目的

 

小学校、中等学校、高等諸学校等、各種各様その種類と程度によって、その本来の性質に応じて各自特有の目的があるが、それと共に、その種類や程度を問わず、その根本を流れる精神は、忠良有為な日本国民を育成することであり、この根本精神は上下一貫して一つあるだけである。

ところが過去の教育では上下左右の密接な連携を欠き、表面に現れた部面、つまり各学校特有の目的の達成に力を偏傾し、根柢をなすべきもの、つまり忠良有為なる日本国民の育成という大眼目を軽視したというか、むしろ忘れたようであることは、憂うべき大欠陥であり、現代国民精神の動揺・混乱や思想悪化など重要問題の素因は、この点に胚胎したと言ってもうそではあるまい。

この点に深く意を用い、研鑽奮励し(中略)(学校の)成績は自ずから向上し、過去の教育の通弊を一掃し、健実な新面目を発揮することだろう。(後略)

 

参照其の二

 

青少年学徒に賜りたる勅語を拝し奉りて 昭和14193961

 

第一 教職員各位に告ぐ

 

畏くも天皇陛下は夙に教育に大御心を垂れさせ給い、その振興に関して深く御軫念(しんねん)あらせられ、今回特に青少年学徒に優渥なる(手厚い)勅語を下し賜ったが、その向かうべき方向を示した聖慮が深遠であることに対してまことに恐懼感激の至りに堪えない。(分かった分かった。無内容)

顧みるに我が校は個人主義、自由主義、功利主義、唯物主義、仮面を被った人道主義、偽装した平和主義などが盛んに唱導されていた時代に、徒(いたずら)にそれらの時流になじまず、古今の史実と、中外の時勢を基礎とし、徐(おもむろ)に世界の動向東亜の情勢を考え、皇国の大使命に鑑み、当時の世界の状態は永続しないという世界観に立って、将来なんらかの形で容易でない事態が発生することは必然であり、しかもそれは阻止できないと考え、常に職員生徒に警告し、敢然と国家主義を強調し、専ら忠良有為な青年の育成を目指し、国体に関する信念の透徹とその具現、日本精神の昂揚、心身練磨、質実剛健、堅忍持久、生産拡充、資源愛護、勤労報国など、当時の世相としては頑固とみなされる教育方針を樹立したところ、幸いに各位の共鳴と協力の下にこれを堅持することができた。

ところが今次(支那)事変(日中戦争)が勃発したのを契機に、我が校の教育の実績を糾明し、過去と現在を検討し、時局の重大性と職責の甚大なことを思い、翻然蹶起し己を捨てて興国の大業に殉ずる覚悟を決め、実践垂範して生徒を率い、雄大で強靭な日本人の錬成を目標とし、その顕現に邁進してきた。ここに優詔を拝して以上の点をさらに強調して生徒の志気を鼓舞し、文武を修めさせて大国民としての襟度(きんど、気前)と大東亜の盟主たるの資質を養い、尽忠報国の信念を振起し、身命を賭して皇運を扶翼する決意を固めさせ、欣然(よろこんで)勇躍挺身して聖業に参与することはもちろん、皇国隆昌の気運を永遠に維持して負荷された大任を全うできる皇国民を錬成し、御聖旨に副い奉ることは、正しく各位の職域奉公・臣道実践の唯一の道である。この確固不動の信念によって全員が一致協力して精細な注意の下に懸命の御奮励御健闘あらんことを希望してやまない。

 

第二 解題(省略)

 

参照其の三 教職員心得(大正819199月)

 

194 教職員の平素の言行や勤務状況は陰に陽に生徒に薫染感化を及ぼす。本校生徒の善悪や学校の成績の良否は、諸氏の知徳技能の修養と人格高卑の反影である。本校職員はそのことに深く思いをいたし、責任の重大性を自覚して夙夜勉励することを望む。

 

要款

一、忠君愛国の気魄に満ち、人倫の大道に通暁し、その実現に努めること

一、常に世界の動向に注意を払い、これに対する帝国の使命を自覚し、教育者の責務の重大性を認識すること

一、常に学識を広め、技能を磨き、生きた経験を積み、教育の実績を挙げるように努めること

一、常に円満豊富な常識と高尚優雅な趣味の修養に留意し、人格の向上に努めること

一、常に衛生に注意して健康の保持増進に努め、快活な気宇と質実剛健・敢為敢行の気力をもつこと

一、真実誠意に職分を尽くし、勤労して生徒を率い、親切丁寧に指導して学校教養の精神を発揮すること

一、同僚の人格を尊重してその長所を敬い、信義を重んじ、互いに提携して歩調を合わせること

 

参照其の四

 

校訓(大正819199月)

 

大綱

 

聖旨を服膺(ふくよう、命令を忘れない)して大御心に副い奉ることを目標とせよ

 

要目

 

一、校規厳守

一、心身練磨

一、勤労報国

 

参照其の五

 

入学考査に関する内規(昭和1519402月)

 

緒言

 

 小学校教育の本来の使命は、知徳心身一体の教育によって児童を忠良有為な皇国臣民を育成することである。つまり小学校教育は国民全体に対する普遍的な基礎教育であり、国家の要求する最小限度の完成教育である。中等学校進学のための階段教育や準備教育ではない。準備教育は間接的目的であって、直接的な目的ではない。それにも拘らず従来中等学校では国家全体の教育成果を考慮せず、中等学校自体の便宜を主体とした入学者選抜方法を行ってきた。そのためついに主客本末が転倒し、小学校教育の完成を破壊することになった。このことは国家教育のため遺憾である。私は夙にこの憂うべき通弊を痛感し、大正91920年、学校長として初めて入学者を選定するにあたり、小学校長の報告、学校における口問口答と身体検査の三つを綜合して採否を決定する方法を定めた。他人からの批判や毀誉などは顧慮せず敢然実行したことを職員各位が皆知っていて、その真意も了解している。

 文部省はこの憂うべき通弊を匡救するために、昭和2192711月、昭和4192911月、昭和1019352月、昭和1219377月など数次にわたって改正案を示したが、前述の通弊を正すことができなかった。そして今回大改正が断行され、全国一斉に私の年来の宿願が実施された。国家のために欣快慶祝の極みである。

 ただしこの考査方法は筆答採点方式に比べて容易でない。本校の職員がこれを国家の将来を思う教育者の責務として煩瑣を忍び、教育報国に寄与することを期待する。

 光輝ある紀元2600年と教育勅語渙発50周年記念の佳き年にこの大改正が行われ、私は国家のために安堵喜悦している。過去20数年間にわたり私の主張に共鳴された職員各位に感謝する。

 

以上

 

2022年5月17日火曜日

「付属国民学校の新経営」兵庫県師範学校附属国民学校主事 渡邊唯雄 1943

「付属国民学校の新経営」兵庫県師範学校附属国民学校主事 渡邊唯雄 1943

 

 

感想

 

 当時(戦中)の人も「皇国の道」がどんなものなのか、分かっていなかったようだ。それを権威づけるためにしきりに「正しい」や「真の」などの形容詞や漢籍からの引用、敬語などを多用する。それは「皇国の道」に中身がないからではないか。育鵬社版歴史教科書の執筆者の一人である東大名誉教授の伊藤隆が、教育の目的は「ちゃんとした日本人をつくることだ」と言い、それに対して毎日放送記者の斉加尚代が「ちゃんとしたとはどういうことか」と問うと、「左翼ではない…」と言ったのと同根ではないか。「正しい」や「真の」や「ちゃんとした」という修飾語でしか中身を言い表せないのだ。

 

感想

 

師範学校の教員はお上から言われたことを忠実に実行する官憲であり、その点警官と変わりがない。この時代(戦中)だから一層その傾向が強い。仮に何か思うところがあったとしても、それを言わず、忖度し、自己規制するだろう。皇国の道の運動を推進することが唯一の目的なのである。

 

「新教師は国民生活の基礎的地位に足を確乎として、国家の歴史的使命に身を体して、政治、経済、文化等の現実を把握して、所謂高度国防国家の、従って又教育国家の強力なる推進力とならねばならぬと思ふのであります。」171

「文化は御陵威の光のまにまに、国土荘厳のため、渾心身を挙げて帰一奉公するその行において真実のものが現はれるものであります。」171

「正しき国民学校の建設といふ事が究極の問題であります。…そしてその核心は、…皇国の道の履践に念々精進する徳化の学校、知徳相即の学校たらしめる所にあります。」…「所が…この最も根本的なる所を、却って脅かされる危険が多い…。…所謂知的なるものが優位を占めること、更にこの知的なるものへの高き評価に伴って個人主義的雰囲気を醸成し易い傾向等がそれであります。」179

 

感想

 

 付属国民学校が果たすべき機能は教生の養成や指導法の研究、他校の指導など多々あるが、児童の教育を中心に考えるべきだというのは教師の基本であり、その点は賛成できる。目指す方向には賛成できないが。

 

 

Wikiに渡邊唯雄に関する項は見当たらない。

 

国立国会図書館ホームでは渡邊唯雄に関する情報提供を求めていて、以下の三論文を挙げている。

 

『低学年全体学習の新研究』著・緒言 大同館書店 1934

『実践十六年低学年の全体学習』著 三友社 1937

『国民学校初三以上の教科経営』著・序 東洋図書 1941

 

日本の古本屋によれば、

 

『低学年全体学習の新研究』大同館書店 昭和8年 1933

 

 

要旨

 

169 国民学校制が実施されてから付属国民学校はその教育内容と教育方法を根本的に漸次改革している。今また師範学校の画期的大改正も控えていて、さらなる刷新を断行すべき転換期にある。以下私の体験を踏まえて国民学校改新の方向について述べる。

170 付属国民学校は児童教育を営みながら、本校(師範学校)生徒の教育実習場としての本来的使命を持つとともに、研究学校や指導学校としての使命もある。以下それぞれについて述べる。

 

第一に教育実習機能の振興方法について述べる。従来の教育実習は教育学科の一部とされ、その内容は教授法の練習であった。ところが今の新制度は従来の伝統を一擲し、(教育実習は)本校(本師範学校)教育成果の総練習場として、師道を体得し、挺身奉公の教育的信念を涵養し、また教育方法も習得することを目的としなければならない。これは正に画期的大刷新である。

 

この新教育実習では新教師観を確立し、文化観を更新する必要がある。先ず新時代が要望する教師とは、単に巧妙な教授技術者や、教室内や学校内での良い教師であるだけでなく、地域社会での先覚者、国民生活の指導者でなければならない。師範学校昇格*の意義を、義務年限延長に伴う教授内容の増加や複雑化に由来するものとだけ解釈するのではなく、以上述べた新教師への要望に基づくものと解すべきである。即ち新教師は国民生活の基盤的地位にあって、国家の歴史的使命を身に体し、政治、経済、文化等の現実を把握し、高度国防国家の、従って教育国家の、強力な推進者とならねばならない。このような新教師の養成を目指す限り、教授法を主要課題とする従来の教育実習は清算され、もっと広い立場に立たねばならない。

171 次に文化観の更新について述べる。従来の通弊である西洋文化直輸入の(西洋の)植民地性を払拭し、皇道の道を主体とする「綜合的」で「高次」な新文化観に立たねばならないことは、今更言ふを要しない事であります。文化を固定的・体系的にのみ解すべきでなく、動的な働きとしてとらえるべきであり、成果よりも作用を重視すべきである。吾々(日本人)の「根源的」な力に発した物の見方、感じ方、考え方によって、凡てのものを「正しい」秩序に生かして行く。文化が御陵威の光のまにまに、国土荘厳のために、渾心身を挙げて帰一奉公する行において「真実」が現れる。その生成の行や働きこそ注意(注目)すべきである。文化に基づく教材を固定した体系とだけ考えると、どのようにしてそれを児童に伝達できるかという旧式の教授法研究が生じる。そうでなく、新しいものを生み出して作り出す働きに着眼すれば、その働きを修練して育成する教育方法が問題となる。教育方法の否定ではなく、新しい意義での(その)習得が問題となる。新国民文化を創造する基礎を培うべきである。

 

172 新教育実習の具体案について述べる。第一に、付属(国民学校)の体制を整え、教生(教育実習生)に実習の目的を理解させ、実習の場を拡大する必要がある。師道の体得や信念の確立は口舌の説明ではできず、(付属国民学校の)教師達の人格や行によってしか導くことができない。付属国民学校の体制は道場であり、そこで実習する教生達に無言裡に体得させなければならない。我が国の教学の本義を深く体して教育道を楽しみ、真に倶学倶進(学びつつ進む)の熱意に燃えている(付属国民学校の)教師たちの真剣な雰囲気に(教生達が)触発されて(その)若き生命が自らに感得するものこそ最も根本的なものである。このような機会に触れさせるためには実習の場を広くしなければならない。授業の一部に参加実習させることから始め、全教育活動に主体的に参加させるようにする必要がある。そして反省会を開いて、教生の態度を吟味し、実践的意欲を振起する必要がある。実習の場を広くするためには本校(師範学校)の教育自体が徹底されていなければならない。従来教生は授業の教材研究は熱心だったが、訓育では不用意のうちに(児童に)悪影響を与えたこともあった。教生が軍隊教育における下士官のような地位に立って児童錬成の基準を示してほしい。そうすれば付属の教育は教生を迎えることによって乱されず、教生によって大いに向上するだろう。

 

 第二に、付属(国民学校)での教育実習を本校(師範学校)の教育体系に組織づけ、本校の教育が教育実習という職能的教育の基礎となるようにする。(師範学校)本科の教育は、付属の教育実習を中核として統合組織化されるべきである。今回の新規定*を生かした具体案を以下に示す。

 

173 (師範学校)第一学年では、授業参観を各教科一回実施して国民教育の実態の一部に触れさせ、将来の学習目標を認識させる。

 第二学年で選修教科(専門教科)が初めて出て来るのでその授業をやらせ、当該教科を特に研究する覚悟を固めさせる。また夏季錬成期間中に臨海学校や林間学舎などの夏季施設で奉仕させる。

 第三学年では正規の12週間の教育実習を行うが、実習を多面的にする。

 

 この教育体系を生かすものは、本校と付属との緊密な連絡である。教育実習では本校職員の巡視、模範授業、付属研究会への参加、本校・付属連合の教生指導会議などを実施する。教生期間中に(教生を)教生寮に収容し、舎監と訓導が協同して(教生の)宿泊訓練を行い、教生の生活態度や心構えを修練する。

 

 次に(第三に)教育実習の成果を挙げるための方策を述べる。各学級配属の教生の人数を少人数にすべきである。我が校(師範学校)では本付属16学級に40名を配しているが、各教生の一学期間の実習時間数は30時間から40時間くらいしかない。授業だけでもこれ以下の時数では不足である。

174 ここにやむを得ず代用付属*の問題が生ずる。私の学校では本付属の外に代用付属を三校持ち、本付属には毎学期に一組を宛て、各代用(付属)校には年間二回の実習を委託し、本科7学級、臨教2学級*の実習に当てたが、連絡統一が問題である。理想は本付属の学級数を増加することである。

 

*「代用付属」とは教育実習の場として付属学校を確保できない場合に、既存の学校で代用する学校をいう。

*「本科」や「臨教」 「本科」とは師範学校の本科学生をいい、「臨教」とは師範学校の臨時教員候補学生のことか。

 

 代用校は近隣の学校であり、それは都市型校であるので、農村教育の体験をさせるために、農村実習をさせている。(農村教育の)委託校は県が推薦するが、固定ではなく、毎学期に変えて漸次県下を回る。(師範学校)本校の担任職員と付属(国民学校の)職員とが付き添って、(教生を)寺院や社務所に宿泊させ、僧侶などの助力を求めて生活訓練もしている。食事は婦人会などの世話になる。実習内容は農村教育の実体に触れさせるために、学校での教育だけでなく、社会教化全般に渡って見学させている。教生は純朴な農村の気風に触れ、教育者としての喜びを体験し、地方教化に挺身する決意を振起するようである。

 

 次に(第二に、p.169の第一に対応する)付属(国民学校)の新経営として、研究機能の高揚について述べる。従来訓導の研究は専門化・分科化の方向を辿り、国民教育者としては好ましくない傾向であったことを反省しなければならない。ある科目だけを研究して小さい専門家になり、自己の得意でない方面には無関心であり、さらには学級にその個性が反映して「好ましくない」影響を児童に与え、学級本位となって学級王国を形成するなどは厳に戒めなければならない。また研究が個人的に止まっていたのを協同組織化して集大成し、さらにそれを継続化して年次的発展を期すべきである。

175 また従来の研究の多くは抽象的であり、地域の現実に即さない、書物からの研究であった。研究の深化は、我が国の歴史的現実に立脚し(意味不明)、地域の実情に即した具体的な研究でなければならない。教材研究や方法的研究など狭い立場に閉じこもらず、広い視野に立って国民教育が関連する文化面にまで進むべきである。

 

 次にこの研究機能を発揮するための具体的方法を提示する。第一に、付属(国民学校)の研究機構を整えることである。(国民)学校組織の中に複式学級、高等科、養護学級、補助学級*、実験学級、幼稚園、青年学校などを設置して研究学校や実験学校としての機構を整え、学級担任外の職員を雇用して研究に余力を持たせ、主事以外の本校職員数名を付属(国民学校)と兼務させて研究指導に当てるなど、県下教育研究の中枢たるに相応しくすることが必要である。

 第二に、(師範学校)本校と付属(国民学校)とを一体化する必要がある。本校職員と付属職員とがそれぞれ独自の機能を発揮して、共通の目的に向かって協力する。その目的は相互理解である。本校職員で国民学校の未経験者は、付属(国民学校)での訓練を経験する必要がある。本校職員が国民学校の内容に関する認識が不十分だと、教育が抽象化し、現実遊離となる恐れがある。特に本校の教育学科の職員は付属国民学校と結びついた研究を遂げ、それを教材や教法に生かさなければならない。

176 本校と付属の職員は常時共同研究会を作って教科ごとに研究を進め、問題別に相互研究し、教生の研究授業に参加すべきである。

 第三に、地方その他との協同研究をする必要がある。師範学校(以前は付属国民学校としていた。174)はその府県の国民教育研究の中枢として地方化・郷土化の研究をしなければならない。国民学校の新教科用図書の特色の一つは国家的統一の強化であるが、それが画一化に堕するのを救う方法は、地方化・郷土化の研究である。地方国民学校と協同してその土地に即した教育形態を研究すべきである。本校と付属とが一体となって国民教育研究所ともいうべきものを設け、県下国民教育調査研究本部を組織するつもりである。このことは官立移管*による地方との乖離を避けるために一層必要である。(*何が官立に移管するのか。国民学校か。)

 地方との共同研究の一つとして私の所(国民学校)では訓導協議会を実施している。毎年ある教科を定めて、県下各郡市から代表的な研究家二名の推薦を求めて研究発表をさせ、付属と本校の職員も研究発表をして付属の実地授業を行い、講師の指導を受けている。事前に研究期間を設けて十分案を練り、発表の要点を後に印刷して県下の各国民学校に配布している。これによって県下の研究方向や内容が相互に認識されて統一され、またこれは付属と本校との一体的研究のための良い機会となっている。

 

177 次に付属の第三(p.169の第一、p.174の第二に対応する)の使命である地方の国民学校の指導について述べる。従来の地方指導は以下の通りであった。

 

 第一は会合を通じてのもので、

一、国民学校伝達講習会(一か年10回)

二、研究発表会(第一学期)

三、夏期講習会(夏季鍛錬期間)

四、訓導協議会(第二学期)

五、学年教育研究会(第三学期)

 

 第二は参観人*指導

 第三は出張指導

 第四は県当局が指名する視学委員としての指導

 第五は県教育会雑誌や同窓会雑誌の発行

 

 以上は国民学校実施第一年であったため、やや頻繁過ぎたが、その中で、実施し反省してみて有効だったものとして、奉仕出張指導がある。これは同窓会の後援で、本校と付属の職員が組になって土日曜日に地方に出張し、実地授業、講話、実技練習等を通じて指導する。辺鄙な所を先にして無報酬で行う。刺激の少ない地方の国民学校に大いに貢献し、大変喜ばれている。(有難迷惑)我々も県下の教育の実際に触れることができ、自己修練の機会となる。

178 地方指導で注意すべき点は、国家的意義への自覚である。(いきなり)付属が「偏跛」な教育学説の伝播所となったり、「新奇」な方法の宣伝所となったりすることは断じて許されない。常に我が国の教学精神のゆるぎなき具現所、忠実な実践場となって地方国民学校を国家の意図する方向に導く中心校たる覚悟がなければならない

 

 私は当事者として自己修練に基づく指導力に自信がなければならないが、あくまで謙虚に広く同志や同行者と手を携えて、共に国民学校の建設に進む態度が肝要である。教えるものは人に先んじて求める人でなければならない。常に求めて自らの生命の枯渇を救わなければならない。

 

 さて付属国民学校は教育実習、研究、指導の三つの機能を果たさねばならないが、さらに国民学校として児童教育を行わなければならない。この四つの使命を平板にやるのではなく、主副を定め、主力を中心点に集中し、他をこれに含ませる工夫が必要である。つまり、中核は児童の教育である。これをめぐってすべてを統合一体的に運営すべきである。児童教育を「真に正しい」国民教育の姿において営むことを中軸とすれば、そこに自ら真実の教育実習場が成立し、研究が真実性と具体性を持ち、真の指導的役割も果たすことができる。最も根本であり基礎であるところの児童教育が十分できずに他を教え導くことは本末転倒である。

 

179 「正しい」国民学校の建設が究極の問題である。これさえ建てば、他は自ずから成る。その核心は、師弟相携えて皇国の道の履践に念々精進する徳化の学校、知徳相即の学校とすることである。

 ややもすれば付属ではこの最も根本的なことが脅かされる危険が多い。多数の教生を頻繁に迎えて教育を実習させ、常に多数の参観人を迎え、内部組織では知的なものが優位を占める。この知的なものに高い評価を与えることは、個人主義的雰囲気を醸成しやすい。

 

 このようにともすれば自己矛盾を自己の内部に包蔵しているものを真に一体的に生かして生命あらしめ、その存在意義を確保すべきである。新制付属は、脚下を照顧し、新たな児童教育の再建設という手近で平凡なところから出発すべきである。

 

 この児童教育の振興について、付属内部の機構の改善・充実、児童組織の改編、教育分野の拡大などの重大な問題が他にあるが、今は時間がないので触れられない。

 

以上

 

 

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