「放送文化の本質と放送教育」―国民的場の形成を中心として― 大阪中央放送局教養課員 布留武郎 1943
感想
本論文は米社会心理学の知見を利用している。当時すでに米では社会心理学が発達していたようだ。英語は敵性語と言われ、使用が禁止されていたとのことだが、英語も出て来る。
本論文の要旨は、ラジオ放送の民衆への影響に関して、民衆間の相互作用がある群集とそれがない公衆とを分け、公衆でも群集と同様の群集心理をラジオによってもたらすことができるとし、二・二六事件での投降を求めたラジオ放送をその一例として提示する。
論理的な文章であることに驚いた。この時代の多くの人が天皇制に感情的な思い入れをした表現をするのに対して、筆者にはそれが見られず、クールな印象を受けた。筆者は戦後も活躍していたらしいのだが、Wikiに筆者の名は見られず、ただ筆者の書籍の販売が出ている。筆者に興味がありまた安かったので買ってみることにした。1970年出版の『情報化社会とマス・コミュニケーション』である。またネットcie.nii.ac.jpの中に、Takeo Furu, 国際基督教大学という項目が見える。
要旨
074 序言
放送文化の基本的性格を三つの主要な問題、第一に国民的場の形成、第二に放送聴取の受動性、第三に聴取指導の新展開に分け、ここではその中の第一の国民的場の形成に関して述べる。
放送文化に内在する基本的性格は政治性、文化性、教育性、慰安性の四つに分類できる。政治性は時局の認識、国策の徹底、国論の統一などを目標とし、文化性は国民音楽・国民演劇等の確立を目指し、教育性は教育放送であり、慰安性は娯楽放送である。しかし最も広義には凡てが政治性の中に包含され、八紘為宇の国民的世界観の形成に帰着するが、また(放送文化は)価値実現に参与し、歴史人を形成することで教育的性格も帯びる。文化性についても同様のことがいえる。
本論はこのような広義の政治性という見地に立ち、大東亜建設に呼応する文教政策の一翼としての放送文化のあり方を追求する。しかし放送文化の分野は学問的には未だ全く未知の領域であり、社会学や心理学、教育学の対象として本格的にはほとんど取り上げられていないのが我が国の現状である。
米国の社会心理学はこの方面で約十年の歴史を持っており、学ぶべき資料を提供しているが、理論はまだ組織的に展開されていない。
放送文化は放送機能論と聴取環境論とに分けられるが、本論は放送機能論の一部である。
ラジオの公衆と群衆
076 ラジオの声は同時に隈なく行き渡るから、直ちに一つの声を中心とする連帯の意識が形成されると説く人が多いが、これはラジオの機能的側面にのみ着眼し、ラジオを聞く主体の立場を無視している。受容する主体は公衆(Public、タルド*)であり、群集ではない。公衆の成員相互の間には、(群集の)集合形態に於けるような直接的接触はなく、それぞれの家庭に分散して聞き、個人の場の境界は心理的に強固で閉鎖的である。また伝達者と公衆成員との接触も一方的で部分人格的であり、また認知作用で最も優位を占める視覚性を欠く。
*Wikiによれば、ガブリエル・タルド、ないし、ジャン=ガブリエル・タルドなどとして言及される[1]、ジャン=ガブリエル・ド・タルド[2](Jean‐Gabriel de Tarde、1843年3月12日 - 1904年5月13日)は、フランスの社会学者、社会心理学者。
人物
ドルドーニュ県サルラ(現・サルラ=ラ=カネダ)生まれ。地方貴族の子として少年時代をすごし、最初エコール・ポリテクニックで数学を学ぼうとするも眼病を患いかなわず、トゥールーズ大学、パリ大学で法律を学ぶこととなった。しかしそれぞれ眼病を再発させ大学を中退し、故郷で独学を続けた。このとき、クールノーに多大な影響を受けた。その後、早世した父と同じく裁判官の道を選び、1867年にサルラ裁判所に奉職。1880年頃から、リボーの創刊した『哲学雑誌』に論文を投稿するようになる。犯罪は遺伝的なものであると考えるイタリアのロンブローゾの犯罪学に対し関心をもって研究し、犯罪は伝播や伝染といった観点から模倣的な事実であるという視点で厳しい批判も行っている。その後、社会的な影響関係を重視した独自の研究を進め、犯罪学の著作『比較犯罪学』(1886)『模倣の法則』(1890)などを刊行し、その後も、裁判官の勤務のかたわら多くの著作や論文を発表した。1894年には司法省統計局長に就任し、母の死去もともないパリへ移住する。1895年、パリ社会学会会長、レジョン・ドヌール勲章を受ける。1900年、コレージュ・ド・フランスの近代哲学教授に就任する[3]。1904年、パリにて逝去。
研究と思想
1890年に『模倣の法則――社会学的研究』を発表し、社会学を一般に受容させた人物の一人である。後に社会学の父と称されることとなるデュルケムに対して、分業が道徳的な事実であるか否か、犯罪が正常であるか否か、社会が実在するのか否か(社会実在論)といった多岐にわたる論点をめぐって論争を繰り広げた。
1901年には『世論と群集』を刊行。ル・ボンの群集心理学を批判し、直接対面的な関係によって結合する群集に対して、メディアを介した遠隔作用によって結合する公衆概念を提示した。
今日の評価
1960年代以降、ドゥルーズによって肯定的に引用されていることから哲学者からも注目されるようになる(『千のプラトー』では「ガブリエル・タルドへのオマージュ」を書いている)。1999年以降、フランスではアリエズを中心にドゥルーズの弟子や友人たちがタルド著作集を刊行されている(現在も刊行中)。なかでもネグリの弟子でもあるラッツァラートは、タルドの「窓のある」モナド論(ネオ・モナドロジー)と『経済心理学』を資本主義分析に応用し、注目されている。
また、ブルーノ・ラトゥールは自身のANT理論が社会学をタルドの系統にあるとして1999年以降、多くの著作で引用している。
従ってラジオの聴衆は、集合形態の成員相互の力動関係によって形成される群集心理の支配を直接受けず、群集の中の個人に比べて社会性が稀薄であり、より個性的・批判的である。
直接関係と円環関係
米国の社会心理学者は、集合形態(凝集集団)における、伝達者を中心に聴衆相互の間に発生する心理的交通関係を円環関係(Circular relationship)と名づけ、これに対してラジオを聞く場合のように、伝達者と聴衆との一方的交通関係を直線関係(Linear relationship)と名づけた。この直線関係を集合形態(凝集集団)のような円環関係に転化させることができるだろうか。もしそれが可能ならばどんな条件の下に成立するのか。本論の課題はそれである。
077 円環関係に二つの段階がある。第一の段階を同時性の段階と呼び、第二の段階を時間が経過した後の段階と呼ぶ。先ず第二の、時間が経過した後の段階について述べる。
松本潤一郎*は社会集団の成立に関する現代社会学説を検討し(それを止揚し)て、集団形成の根本原理として、第一に相互的接触の原理を、第二にゲマインシャフト(仲良し関係)の原理をあげている。松本によれば、前者(相互的接触)は第一の(最初に力動関係を触発する)原理で、ゲマインシャフトは(第一のつまり最初の)相互的接触を前提として成立する第二の(次に起こる)原理である。相互的接触とは直接的面接的接触だけを意味するのではなく、通信や交通機関を媒介とする間接的接触も含む。
*Wikiによれば、松本 潤一郎(まつもと じゅんいちろう、1893年7月22日 - 1947年6月12日)は、日本の社会学者。理論社会学を専門とした。
千葉県銚子市出身。裕福な地主の旧家に生まれる。旧制銚子中学校に入学するが、肋膜炎にかかり旧制佐原中学校に転校。第一高等学校、東京帝国大学文科大学哲学科社会学専攻卒。建部遯吾に師事。大学院を中退後、大阪毎日新聞の外国通信部記者として、英文和訳や海外事情調査などに従事。1年ほどで退社し、外遊を経て日本大学講師、法政大学教授、東京女子大学講師、東京帝国大学講師を歴任。1938年、東京高等師範学校教授。
自らの社会学体系を「総社会学」と称し、あらゆる学派を包括する社会学の形成を唱えた。1942年、日本文学報国会理事。戦災により蔵書1万冊を焼失してからは諦観の人となり、戦後間もなく糖尿病で死去した。
ラジオを聞いている瞬間は放送者と聴き手の接触関係は直線的・部分人格的であって聴き手相互の直接の接触はないが、時間的に延長すれば相互接触が成立する可能性があるから、放送者あるいは放送内容を中心にして、聴き手相互のゲマインシャフト(仲良し集団の井戸端会議)が発生し、その限りで特殊な共鳴集団が形成される。それは一般の集団形成の場合と同様である。こうしてラジオの影響によって雲月や虎造(キャラクターか)を中心とする共鳴集団があちこちにうまれ、また新聞の連載小説を中心として共鳴集団が形成される。そしてこのような円環関係が成立するためには、放送の与える感銘度の強さや印象の永続性が要請される。
ラジオの場合も、円環関係が次第に成立し、強化され、広がっていく過程は、一般集団の場合と同様である。
078 準円環関係
次に円環関係における第一の段階である同時性の段階について述べる。一(アナウンサー)対多数(聴き手)の直線関係は、同時的円環関係に転化しうる。そこに円環関係が成立するには、公衆成員が相互に接触関係にあることを前提としている。その関係が一方的・部分人格的だとしても、放送者と公衆成員との間に「接触関係」が存在するのだが、公衆成員相互の間には接触媒体がない。模倣や暗示を感染する手段もない。もし円環関係が成立するならば、それは個人の内面で存在する。
このような内面的交通関係は成立するのか。個人は直接・間接に種々な社会集団の成員である。個々に散在するラジオの公衆も、内にゲマインシャフトを持っている。それが適当な条件に触発されれば、共属の意識に転化する。このような人間的素地の下に内面的交通関係は成立しうる。
このような内面的交通関係は直接的・面接的接触による交通関係とは心理的属性が異なる。後者の関係は知覚的場面で成立し、前者の関係は表象あるいは概念の場面で成立する。表象的場面は知覚的場面に比べて直観性が不明瞭で不安定であり、概念的場面は直観性が失われやすい。しかし、表象的・概念的場面、つまり想像的場面は、知覚的場面に比べて流動性が活発で、場の境界が稀薄で、人は自由に他と交流できる。
079 ラジオを聞くときに生じる円環関係は想像的場面で成立して交通は自由活発だが、不安定で消失しやすい。これを知覚的場面での円環関係と区別するために準円環関係と呼ぶ。
この準円環関係はどのように、そしてどんな契機で成立するのか。
準円環関係発生の前提条件として、先の相互的接触の概念に準じて「多数の聴取」を、その決定条件としてゲマインシャフト的「感情的結合」を挙げる。
興味のない講演放送や、音楽をぼんやりと意識の背景において聞き流す場合などでは円環関係が成立しない。また時には聴き手の反発を受ける場合もある。そしてラジオ体操の場合などでは、一つの声に合わせて全国の人々が同時に同じ行動をしても、連帯意識は発生しない。連帯意識が発生するためにはゲマインシャフト的感情的結合が条件となる。
「感情的結合」とは放送主体(アナウンサー)に対する公衆の同類意識であり、また同時に、公衆成員間の、共に同じことを聞き同じ感情に結ばれるという共感意識である。
松本はゲマインシャフトの成立条件として、「類似性」と「利害の一致」を想定する。類似性は接触当事者間の精神・社会・生物的類似であり、利害の一致は物質的・経済的利害だけでなく、感情的調和を招く精神的利害も包含する。
080 触発される感情の深さを「現実度」で現わすことができる。レヴィン*によれば、現実とは場における個人に効果のあるものである。幽霊のような観念的存在も現実的である。従って想像的場面で成立する感情的結合でも現実性が稀薄とは限らない。原則的に言えば、(幽霊の場合は、ラジオがもたらす)想像的場面に比べて現実度は低いから、(幽霊のような)純粋に想像的場面で生じる、聴き手相互間の感情的結合は、聴覚的接触において成立する、放送主体と聴き手との間の感情的結合より、現実度が低い。放送の現実度を高める要因は、放送時間の短いこと、事件の進行に対する未解決の関心が存在すること、芸術的触感、身振り動作に訴えることなどがある。
*Wikiによれば、クルト・レヴィン(Kurt Zadek Lewin, 1890年9月9日 - 1947年2月12日)は、心理学者。専門は社会心理学、産業・組織心理学、応用心理学。ドイツ領だったポーゼン州モギルノ(ポーランド語版)出身でユダヤ系。 「ツァイガルニク効果」の研究や「境界人」の概念の提唱で知られる。
概要
ゲシュタルト心理学を社会心理学に応用しトポロジー心理学を提唱した。ベルリン大学の哲学と心理学の教授を務めていたが、ナチ党の権力掌握で、ユダヤ人の学者は大学から追放された。海外に出ていた彼は、1933年8月にアメリカに亡命し、1940年にアメリカの市民権を取得した。コーネル大学教授をつとめ、マサチューセッツ工科大学(MIT)にグループダイナミクス(集団力学)研究所を創設した。「社会心理学の父」と呼ばれ、アイオワ大学の博士課程でレオン・フェスティンガーなどを指導した。リーダーシップスタイル(専制型、民主型、放任型)とその影響の研究、集団での意思決定の研究、場の理論や変革マネジメントの「解凍―変化―再凍結」モデルの考案、「アクション・リサーチ」という研究方式、グループダイナミクスによる訓練方法(特にTグループ)など、その業績は多方面にわたる。1947年、マサチューセッツ州ニュートンビルで死去。
生涯
1890年、プロイセン王国ポーゼン州(英語版)モギルノ(英語版)でユダヤ系の中流家庭に4番目の子として生まれる。当時人口5,000人ほどの小さな村であったが、ユダヤ人は約150人ほどだった[1]。クルトの父・レオポルドは雑貨店を経営しており、家族はその店の上階に住んでいた。1905年、家族はベルリンに移住した。クルトは1908年にかけてベルリンのシャルロッテンブルク(英語版)にあるギムナジウム・en:Kaiserin Augusta Gymnasiumで学んだ[1]。
1909年、アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク(フライブルク大学)に入学し、医学を専攻したものの、生物学を学ぶためルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン(ミュンヘン大学)に転学し、社会主義運動と女性の権利運動に関わるようになる[2]。1910年4月にはフンボルト大学ベルリン(ベルリン大学)に転学した。当時は医学生だったものの、興味は哲学と心理学に移っており、講義はほとんど心理学のコースを受講していた。ベルリンではカール・シュトゥンプの講義も受講していた[1]。第一次世界大戦に従軍したのち、ベルリンに戻り、シュトゥンプの元で博士論文を完成させた。
ベルリン時代にはフランクフルト学派との関わりが強く、マックス・ヴェルトハイマー、ヴォルフガング・ケーラーらと共に研究を行った。1926年から1933年にかけてベルリン大学教授として緊張、欲求、動機づけ、学習について実験を行った[3]。1933年に国家社会主義ドイツ労働者党が政権を獲得し、アドルフ・ヒトラー内閣が成立するとホロコーストから逃れるためにイギリス経由でアメリカに移住した。ロンドンではタビストック・クリニックの創設者のひとりであるエリック・トリスト(英語版)と会っている。 レヴィンは1933年8月にアメリカに移住し、1940年にアメリカ国籍を取得。移住後はコーネル大学、アイオワ大学で研究をつづけた後、マサチューセッツ工科大学の集団力学センターのトップに就任した。
1947年2月、マサチューセッツ州ニュートンビルで心臓発作によって死去。
準円環関係が発生したと認められる二、三の実例を示し、この関係を具体的に考えてみよう。
081 二・二六事件での「兵に告ぐ」の放送は、ラジオが国家的利害と結びつき、その利用が国家の危急を救うことを教えた。「今からでも遅くはない」と悲痛に震える放送員の声は、直ちに兵士や兵士の家族に対する吾々の思いやり(類似性)となり、事件の経過に対する緊張感(利害の一致)は国家存亡の危機と結びついて、高度の現実性をもって吾々に迫り、全国民を真に一体感の中に呼吸せしめた一瞬であった。またベルリン・オリンピックの中継放送についても同様のことが言える。ただし、共通の利害が、前者は民族生存の危機に結び付くのに対して、後者は遊戯的である点で、現実度の違いが著しい。
紀元二千六百年奉祝会の中継放送において、畏くも高松宮殿下の御声を中心に一億国民が聖寿万歳を唱和し奉った聖なる一瞬、全国民は一体の意識に結晶したが、この際吾々は高度の現実性において同胞の意識(類似性)と民族の歓喜(利害の一致)とを体感した。
このような電波の超時空的性質に即応するラジオ独自の一体感現象を、大東亜戦争の勃発とともに吾々は幾度か経験した。ここに挙げた二、三の例は凡て国民的場が形成された場面であるが、円環関係の成立が直ちに国民的場の形成のための必要十分条件ではない。嘗て国民の血を沸かした全国中等学校野球大会や相撲の中継放送や、いつも90%近くの聴取率を持つ雲月や虎造の放送は、円環関係を成立させても国民的場の形成とは言えない。国民的場の形成は円環関係の成立を前提条件とし、聴取者個々の自我の重心が自己中心の領域から国家中心の領域に移動することが求められる。そして放送主体の側から言えば、円環関係の成立が主として内容の構成法や表現技術に依存するのに対して、自我領域の拡大は内容自体に依存する。また逆に内容自体に国民的自覚に訴える意図があっても、円環関係が成立しなければ国民的場の形成はできない。
082 以上のようにラジオの公衆は準円環関係の成立によって群集的性格を帯びるが、社会から遊離した抽象的な人間がラジオの声によって突然群衆化することはない。公衆は互いに何らかの程度において社会情勢を内部にはらみ、その地盤の上で初めて準円環関係が成立する。ラジオは公衆を群集化するというよりむしろ公衆の群集化に拍車をかける。
ラジオの声が、公衆の個々の内面に蓄積されつつある社会的情勢に火をつける契機となる。危機的局面では公衆の内部圧力は上昇しているから、通常の状態では現実度の低い放送でも容易に準円環関係を成立させる契機となる。あの12月8日以来の数日間、全国民は電波管制下の聞き取りにくいラジオの前に吸いつかれるようにして大本営発表の臨時ニュースを待っていた。偉大な戦果の発表は、その前後に演奏される軍艦マーチや分列行進曲まで、高度の現実性を以て吾々に迫ってきた。
反面ラジオは、群集心理に支配され乱発的行動情勢を潜在化しつつある公衆の一人一人の合理的意識に訴え、これを説得して平常の自己に復帰させることも可能である。二・二六事件の際、凡ての報道機関は停止され、ラジオだけが次々に重要報道を伝え、全国民に情勢の推移を告げた。あの時ラジオがなかったならどうだったか。米騒動や大震災の当時を偲ぶと慄然とする。
083 ラジオの場合、聴取する場が多数の影響を直接受けず、準円環関係が成立しても不安定で消滅しやすく、人々が群集の中におけるよりも個性的・批判的であることによって、人々を平常の自己に復帰させることができる。
準円環関係は不安定だから時間的経過の段階で現実的・永続的な直接の円環関係に転移させる必要がある。この二つの段階(同時性の段階と時間経過後の段階)を混淆する考え方は、ラジオの同時的特色を過大視するものである。
以上の通りラジオは高度の政治的性格を持つ。次に「政治性と背反する側面において内在する国民教育上の問題」を明らかにしたい。(教育が政治性のネックだということか。)
感想
「我が国の放送主体はその誕生の当初から公共的性格を担って登場した。初期には当時の世潮を反映して自由主義的色彩が濃厚であったが、満州事変、支那事変を経て、国防国家的体制が愈々堅固となるとともに、放送文化に対する国家の統制も次第に強化され、大東亜戦争を契機として放送文化も国家的使命を帯びるに至り、政党の対立時代に潜在していた政治性が鮮やかに前景に現れるようになった。『ラジオは国家の意志を運ぶ』とよく言われるが、これは現在の放送文化の本質を実によく穿った言葉である。」
これはいつ書かれた文章だと思われますか。現代の歴史家が書きそうな表現であるが、実は1943年に大阪中央放送局の布留武郎が書いた文章です。この時代にしてはクールな印象を受けます。そしてこの文章が指摘する変化と映画『教育と愛国』が物語る最近の変化とはオーバーラップしないか。いつの間にか政治が変えられている。民衆はいつの時代でも無力なのでしょうか。
以下先日二回にわたって東京新聞に掲載された『教育と愛国』に関する記事を紹介します。
映画「教育と愛国」斉加尚代監督 5/13-公開
2012年、日本教育再生機構の大阪での会合で安倍晋三「教科書採択に政治家がタッチしてはいけないのかといえば、そんなことはないですよ。当たり前じゃないですか。」
育鵬社の教科書執筆代表伊藤隆「育鵬社の教科書が目指すのはちゃんとした日本人をつくること」
「ちゃんとしたとは?」
「左翼ではない…」
前川喜平は教科書への政府見解記載を求める検定基準を作成し、教育への首長の発言力を強めることに局長として関与したと反省。
斉加尚代(さいかひさよ)映画「教育と愛国」4/13—公開
・2016、教育基本法に愛国心が入る。「理想の実現は根本において教育の力にまつべきもの」を削除し、「公共の精神」や「伝統の継承」が入る。
・2012、安倍晋三「教育に政治家がタッチしてはいけないものではない」「日本人のアイデンティティーを備えた国民をつくる」
・政府の統一見解に基づく記述をするように教科書検定基準を変更
・教育行政で首長の権限を強化
・「教育勅語」の教材利用を承認
・従軍慰安婦から「従軍」を削除し、強制連行を「動員」に
・検定に係る教科書調査官の経験者は斉加の取材を拒否。
・慰安婦の記述をめぐり右翼に攻撃された教科書会社が倒産。
・吉村洋文・大阪市長が慰安婦に関する中学教諭の授業を非難。
・杉田水脈が大学教授を「反日」呼ばわり。
・斉加自身が橋下徹大阪市長らの教育改革を批判する報道をすると、激しく非難された。
追記
布留武郎は戦後も、放送を通して人をいかに動かせるか、ということに関心があり、大衆に教養番組を聞かせたいという上から目線を持ち続けていたようだ。大衆支配のクールな意志は戦前・戦後と一貫しているようだ。
『情報化社会とマス・コミュニケーション』1970の編集の中心となり、その「マス・コミュニケーションと大衆の趣味」183の中で、欧米の社会心理学者ラザースフェルドとマートン1968を引用し、「数世紀前の唯一の芸術愛好家であったエリート貴族は、芸術家にレベルの高い作品を要求したため、芸術のレベルが高く維持されていたが、現代のようなマスメディアの時代には、大衆がレベルの高い番組を求めないため、番組のレベルが下降してばかりいる」という。またガイガーを引用し、音楽番組が同じ内容でも、番組名に「大衆」という表題がついた方が、「クラシック」という表題がつくよりも聴取者が多いとのことだ。(ガイガー1950、デンマーク)
布留は国際基督教大学に所属しながら、ずっとNHKに関与し続けていたようだ。書籍の出版元がほとんどNHKである。
京大哲学科心理学専攻卒。現住所武蔵野市吉祥寺北町3-6-25
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