「海軍の教育」海軍兵学校教授嘱託 林友春 1943
Wikiによれば、
林 博太郎(はやし ひろたろう、1874年(明治7年)2月4日 - 1968年(昭和43年)4月28日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本の教育学者、実業家、政治家。伯爵、文学博士。
来歴
東京生まれ。祖父は伯爵林友幸。東京府尋常中学校から旧制山口高等学校を経て、1899年7月、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業後、1903年までドイツ留学。翌1904年(明治37年)に学習院教授に就任した。
1907年襲爵し、1914年2月[1]から1947年まで貴族院議員に選出される。1908年、東京高商(現・一橋大学)教授兼宮内省式部官。1919年(大正8年)に東京帝大教授(文博)。1932年7月から1935年8月まで南満州鉄道総裁。他に母校・東京府立一中同窓会如蘭会長、戦後は、霞会館監事、高千穂商科大学理事長などを務めた。
妻子
最初の妻 園田峰子 1884年 - 1907年 園田孝吉次女。結婚後5年で病死[2]
後妻 林富貴子 1885年-1944年 貴族院議員田嶋竹之助長女、女子学習院*卒。日本女子補導団初代総裁[3][4]
3人目の妻 (Kaneko) 金子[要出典]
二男 鹿園博仲 1909年-1929年 男爵鹿園実博の養子[5]
三男 林友春 1915年-2004年 学習院大学名誉教授、東洋教育史 / 妻: 林貞子 牧野伸顕の孫。東海大学名誉教授、松濤幼稚園の創設者[6][7][3]
孫・林友春 長女・三井富美子 1940年三井家11代当主三井高公の四男、三井之乗に嫁す。若葉会幼稚園園長(1986-2009)、学校法人北泉学園理事長
孫・林友春 次女・小林絢子 小林中の長男小林喬(元フコク生命社長)に嫁す。その長女に堀内詔子(政治家、富士急行社長堀内光一郎の妻)がいる。
林友春1915--2004は林博太郎の三男。林友春の孫が堀内詔子。
林友春は東洋教育史を専攻し、学習院大学の名誉教授。
*女子学習院 Wikiによれば、
1847年(弘化4年)、仁孝天皇によって設けられた学習所の女子教科が起源である。
明治政府はそれまでの大名・公家を華族と呼び、その教育に力を入れた。華族のための学校として1877年(明治10年)に設立されたのが学習院である。
女子教科は1885年(明治18年)に華族女学校に改組されたのち、1906年(明治39年)に学習院に吸収され、その女学部となった。
女学部は1918年(大正7年)、女子学習院として分離・独立した。女子学習院は初め永田町の御料地に設置されたが火災にあい、青山練兵場の跡地を借り入れて、そこに1918年(大正7年)、新校舎を竣工し[1]、同年8月12日に移転[2]。同年11月14日、貞明皇后が臨席して開院式を挙行した[3]。
太平洋戦争(大東亜戦争)末期の1945年(昭和20年)5月、アメリカ軍による東京大空襲(山の手大空襲)によって校舎が焼失した[1]。
日本敗戦後の1947年(昭和22年)、根拠法である学習院・女子学習院学制の廃止に伴い、学習院と再度合併して財団法人学習院となり、宮内省管轄下の官立学校から私立学校に改められることとなった。空襲によって焼失した旧・女子学習院の校地は、現在の秩父宮ラグビー場の場所にあった[1]。
メモ 海軍教育の概要。これを「東洋教育史」というのか。
要旨
第一 教育組織
一 軍隊内教育
(一)基礎教育 精神教育、技能教育、体育
(二)綜合教育 部署教練、戦闘作業
(三)その他 競技、査閲、研究・経験報告
二 海軍学校教育
(一)下士官兵教育 準備教育、新兵、二等兵、普通科練習生、一等兵、高等科練習生、飛行予科練習生
(二)選修学生教育 下士官や准士官が高等科練習生卒業後に特務士官となるための教育らしい。
(三)士官教育
・戦闘員 兵科、機関科、主計、軍医
・非戦闘員 造船、造機、造兵、法務
二年現役制、予備士官制、依託学生制度
兵学校卒業後、少尉候補生から少尉になる。
少尉や中尉のときに普通科学生になる。
大尉のとき高等科学生になり「対策」という課題を与えられたり、講演をさせられたりする。
大尉や少佐の時に海軍大学校甲種学生になる。海軍大学校機関学生から機関科将校になる。
こうして海軍士官が生まれる。
第二 海軍兵学校での教育の実際とその精神および特色
海軍兵学校は兵科将校と特務士官を養成する。
一 教育の実際―兵学校の日課 起床、洗面、体操、礼拝、朝食、定時点検、学術教育、自選時間、夕食、夜間の自習、五省、就寝、巡検
二 兵学校教育の精神および特色 学術教育(軍事学・普通学)、訓育、精神教育、訓練、体育、卒業式
結論
感想 海軍の教育は組織的で几帳面だが、形式主義的で精神主義的すぎる印象を受ける。その精神主義は朝食前の聖諭五か条*の黙誦と、就寝前の代表によるその奉誦、また以下に示す五省の奉唱に見られる。海軍はイギリスの影響があるとのことだが、そのことについては触れていない。
*聖諭五か条とは軍人勅諭の中で述べられている次の五か条を指すものと思われる。
一、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし。
一、軍人は礼儀を正しくすべし。
一、軍人は武勇を尚(とうと)ぶべし。
一、軍人は信義を重んずべし。
一、軍人は質素を旨とすべし。
右の五か条は軍人たらんもの暫(しばし)も忽(ゆるがせ)にすべからず
五省
至誠にもとるなかりしか
言行に恥づるなかりしか
気力に欠くるなかりしか
無精に亘るなかりしか
努力に憾(うら)みなかりしか
生徒館(生徒の宿舎か)で上級生が下級生に「待て」と呼び止めて厳しく次のように言う。
「今にしてこの弊を改めずんば帝国海軍の将来を如何にするか」056
自発的研鑽を重視する本校の方針の下に生徒が工夫して特殊潜航艇甲標的を作り真珠湾の偉業が行われたとし、死んだとは言わず「軍神」と美化するとともに死の事実をあいまいにする。Wikiによれば、実際は米軍に発見されて10名中9人が死に、1人が捕虜になったとのことである。
「大東亜戦争劈頭ハワイ海戦に不朽の名を止めた彼の軍神自ら特殊潜航艇を工夫考案せる如きは、斯かる教育方針の一つの現われと申して宜しいと思います」054
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