「付属国民学校の新経営」兵庫県師範学校附属国民学校主事 渡邊唯雄 1943
感想
当時(戦中)の人も「皇国の道」がどんなものなのか、分かっていなかったようだ。それを権威づけるためにしきりに「正しい」や「真の」などの形容詞や漢籍からの引用、敬語などを多用する。それは「皇国の道」に中身がないからではないか。育鵬社版歴史教科書の執筆者の一人である東大名誉教授の伊藤隆が、教育の目的は「ちゃんとした日本人をつくることだ」と言い、それに対して毎日放送記者の斉加尚代が「ちゃんとしたとはどういうことか」と問うと、「左翼ではない…」と言ったのと同根ではないか。「正しい」や「真の」や「ちゃんとした」という修飾語でしか中身を言い表せないのだ。
感想
師範学校の教員はお上から言われたことを忠実に実行する官憲であり、その点警官と変わりがない。この時代(戦中)だから一層その傾向が強い。仮に何か思うところがあったとしても、それを言わず、忖度し、自己規制するだろう。皇国の道の運動を推進することが唯一の目的なのである。
「新教師は国民生活の基礎的地位に足を確乎として、国家の歴史的使命に身を体して、政治、経済、文化等の現実を把握して、所謂高度国防国家の、従って又教育国家の強力なる推進力とならねばならぬと思ふのであります。」171
「文化は御陵威の光のまにまに、国土荘厳のため、渾心身を挙げて帰一奉公するその行において真実のものが現はれるものであります。」171
「正しき国民学校の建設といふ事が究極の問題であります。…そしてその核心は、…皇国の道の履践に念々精進する徳化の学校、知徳相即の学校たらしめる所にあります。」…「所が…この最も根本的なる所を、却って脅かされる危険が多い…。…所謂知的なるものが優位を占めること、更にこの知的なるものへの高き評価に伴って個人主義的雰囲気を醸成し易い傾向等がそれであります。」179
感想
付属国民学校が果たすべき機能は教生の養成や指導法の研究、他校の指導など多々あるが、児童の教育を中心に考えるべきだというのは教師の基本であり、その点は賛成できる。目指す方向には賛成できないが。
Wikiに渡邊唯雄に関する項は見当たらない。
国立国会図書館ホームでは渡邊唯雄に関する情報提供を求めていて、以下の三論文を挙げている。
『低学年全体学習の新研究』著・緒言 大同館書店 1934
『実践十六年低学年の全体学習』著 三友社 1937
『国民学校初三以上の教科経営』著・序 東洋図書 1941
日本の古本屋によれば、
『低学年全体学習の新研究』大同館書店 昭和8年 1933年
要旨
169 国民学校制が実施されてから付属国民学校はその教育内容と教育方法を根本的に漸次改革している。今また師範学校の画期的大改正も控えていて、さらなる刷新を断行すべき転換期にある。以下私の体験を踏まえて国民学校改新の方向について述べる。
170 付属国民学校は児童教育を営みながら、本校(師範学校)生徒の教育実習場としての本来的使命を持つとともに、研究学校や指導学校としての使命もある。以下それぞれについて述べる。
第一に教育実習機能の振興方法について述べる。従来の教育実習は教育学科の一部とされ、その内容は教授法の練習であった。ところが今の新制度は従来の伝統を一擲し、(教育実習は)本校(本師範学校)教育成果の総練習場として、師道を体得し、挺身奉公の教育的信念を涵養し、また教育方法も習得することを目的としなければならない。これは正に画期的大刷新である。
この新教育実習では新教師観を確立し、文化観を更新する必要がある。先ず新時代が要望する教師とは、単に巧妙な教授技術者や、教室内や学校内での良い教師であるだけでなく、地域社会での先覚者、国民生活の指導者でなければならない。師範学校昇格*の意義を、義務年限延長に伴う教授内容の増加や複雑化に由来するものとだけ解釈するのではなく、以上述べた新教師への要望に基づくものと解すべきである。即ち新教師は国民生活の基盤的地位にあって、国家の歴史的使命を身に体し、政治、経済、文化等の現実を把握し、高度国防国家の、従って教育国家の、強力な推進者とならねばならない。このような新教師の養成を目指す限り、教授法を主要課題とする従来の教育実習は清算され、もっと広い立場に立たねばならない。
171 次に文化観の更新について述べる。従来の通弊である西洋文化直輸入の(西洋の)植民地性を払拭し、皇道の道を主体とする「綜合的」で「高次」な新文化観に立たねばならないことは、今更言ふを要しない事であります。文化を固定的・体系的にのみ解すべきでなく、動的な働きとしてとらえるべきであり、成果よりも作用を重視すべきである。吾々(日本人)の「根源的」な力に発した物の見方、感じ方、考え方によって、凡てのものを「正しい」秩序に生かして行く。文化が御陵威の光のまにまに、国土荘厳のために、渾心身を挙げて帰一奉公する行において「真実」が現れる。その生成の行や働きこそ注意(注目)すべきである。文化に基づく教材を固定した体系とだけ考えると、どのようにしてそれを児童に伝達できるかという旧式の教授法研究が生じる。そうでなく、新しいものを生み出して作り出す働きに着眼すれば、その働きを修練して育成する教育方法が問題となる。教育方法の否定ではなく、新しい意義での(その)習得が問題となる。新国民文化を創造する基礎を培うべきである。
172 新教育実習の具体案について述べる。第一に、付属(国民学校)の体制を整え、教生(教育実習生)に実習の目的を理解させ、実習の場を拡大する必要がある。師道の体得や信念の確立は口舌の説明ではできず、(付属国民学校の)教師達の人格や行によってしか導くことができない。付属国民学校の体制は道場であり、そこで実習する教生達に無言裡に体得させなければならない。我が国の教学の本義を深く体して教育道を楽しみ、真に倶学倶進(学びつつ進む)の熱意に燃えている(付属国民学校の)教師たちの真剣な雰囲気に(教生達が)触発されて(その)若き生命が自らに感得するものこそ最も根本的なものである。このような機会に触れさせるためには実習の場を広くしなければならない。授業の一部に参加実習させることから始め、全教育活動に主体的に参加させるようにする必要がある。そして反省会を開いて、教生の態度を吟味し、実践的意欲を振起する必要がある。実習の場を広くするためには本校(師範学校)の教育自体が徹底されていなければならない。従来教生は授業の教材研究は熱心だったが、訓育では不用意のうちに(児童に)悪影響を与えたこともあった。教生が軍隊教育における下士官のような地位に立って児童錬成の基準を示してほしい。そうすれば付属の教育は教生を迎えることによって乱されず、教生によって大いに向上するだろう。
第二に、付属(国民学校)での教育実習を本校(師範学校)の教育体系に組織づけ、本校の教育が教育実習という職能的教育の基礎となるようにする。(師範学校)本科の教育は、付属の教育実習を中核として統合組織化されるべきである。今回の新規定*を生かした具体案を以下に示す。
173 (師範学校)第一学年では、授業参観を各教科一回実施して国民教育の実態の一部に触れさせ、将来の学習目標を認識させる。
第二学年で選修教科(専門教科)が初めて出て来るのでその授業をやらせ、当該教科を特に研究する覚悟を固めさせる。また夏季錬成期間中に臨海学校や林間学舎などの夏季施設で奉仕させる。
第三学年では正規の12週間の教育実習を行うが、実習を多面的にする。
この教育体系を生かすものは、本校と付属との緊密な連絡である。教育実習では本校職員の巡視、模範授業、付属研究会への参加、本校・付属連合の教生指導会議などを実施する。教生期間中に(教生を)教生寮に収容し、舎監と訓導が協同して(教生の)宿泊訓練を行い、教生の生活態度や心構えを修練する。
次に(第三に)教育実習の成果を挙げるための方策を述べる。各学級配属の教生の人数を少人数にすべきである。我が校(師範学校)では本付属16学級に40名を配しているが、各教生の一学期間の実習時間数は30時間から40時間くらいしかない。授業だけでもこれ以下の時数では不足である。
174 ここにやむを得ず代用付属*の問題が生ずる。私の学校では本付属の外に代用付属を三校持ち、本付属には毎学期に一組を宛て、各代用(付属)校には年間二回の実習を委託し、本科7学級、臨教2学級*の実習に当てたが、連絡統一が問題である。理想は本付属の学級数を増加することである。
*「代用付属」とは教育実習の場として付属学校を確保できない場合に、既存の学校で代用する学校をいう。
*「本科」や「臨教」 「本科」とは師範学校の本科学生をいい、「臨教」とは師範学校の臨時教員候補学生のことか。
代用校は近隣の学校であり、それは都市型校であるので、農村教育の体験をさせるために、農村実習をさせている。(農村教育の)委託校は県が推薦するが、固定ではなく、毎学期に変えて漸次県下を回る。(師範学校)本校の担任職員と付属(国民学校の)職員とが付き添って、(教生を)寺院や社務所に宿泊させ、僧侶などの助力を求めて生活訓練もしている。食事は婦人会などの世話になる。実習内容は農村教育の実体に触れさせるために、学校での教育だけでなく、社会教化全般に渡って見学させている。教生は純朴な農村の気風に触れ、教育者としての喜びを体験し、地方教化に挺身する決意を振起するようである。
次に(第二に、p.169の第一に対応する)付属(国民学校)の新経営として、研究機能の高揚について述べる。従来訓導の研究は専門化・分科化の方向を辿り、国民教育者としては好ましくない傾向であったことを反省しなければならない。ある科目だけを研究して小さい専門家になり、自己の得意でない方面には無関心であり、さらには学級にその個性が反映して「好ましくない」影響を児童に与え、学級本位となって学級王国を形成するなどは厳に戒めなければならない。また研究が個人的に止まっていたのを協同組織化して集大成し、さらにそれを継続化して年次的発展を期すべきである。
175 また従来の研究の多くは抽象的であり、地域の現実に即さない、書物からの研究であった。研究の深化は、我が国の歴史的現実に立脚し(意味不明)、地域の実情に即した具体的な研究でなければならない。教材研究や方法的研究など狭い立場に閉じこもらず、広い視野に立って国民教育が関連する文化面にまで進むべきである。
次にこの研究機能を発揮するための具体的方法を提示する。第一に、付属(国民学校)の研究機構を整えることである。(国民)学校組織の中に複式学級、高等科、養護学級、補助学級*、実験学級、幼稚園、青年学校などを設置して研究学校や実験学校としての機構を整え、学級担任外の職員を雇用して研究に余力を持たせ、主事以外の本校職員数名を付属(国民学校)と兼務させて研究指導に当てるなど、県下教育研究の中枢たるに相応しくすることが必要である。
第二に、(師範学校)本校と付属(国民学校)とを一体化する必要がある。本校職員と付属職員とがそれぞれ独自の機能を発揮して、共通の目的に向かって協力する。その目的は相互理解である。本校職員で国民学校の未経験者は、付属(国民学校)での訓練を経験する必要がある。本校職員が国民学校の内容に関する認識が不十分だと、教育が抽象化し、現実遊離となる恐れがある。特に本校の教育学科の職員は付属国民学校と結びついた研究を遂げ、それを教材や教法に生かさなければならない。
176 本校と付属の職員は常時共同研究会を作って教科ごとに研究を進め、問題別に相互研究し、教生の研究授業に参加すべきである。
第三に、地方その他との協同研究をする必要がある。師範学校(以前は付属国民学校としていた。174)はその府県の国民教育研究の中枢として地方化・郷土化の研究をしなければならない。国民学校の新教科用図書の特色の一つは国家的統一の強化であるが、それが画一化に堕するのを救う方法は、地方化・郷土化の研究である。地方国民学校と協同してその土地に即した教育形態を研究すべきである。本校と付属とが一体となって国民教育研究所ともいうべきものを設け、県下国民教育調査研究本部を組織するつもりである。このことは官立移管*による地方との乖離を避けるために一層必要である。(*何が官立に移管するのか。国民学校か。)
地方との共同研究の一つとして私の所(国民学校)では訓導協議会を実施している。毎年ある教科を定めて、県下各郡市から代表的な研究家二名の推薦を求めて研究発表をさせ、付属と本校の職員も研究発表をして付属の実地授業を行い、講師の指導を受けている。事前に研究期間を設けて十分案を練り、発表の要点を後に印刷して県下の各国民学校に配布している。これによって県下の研究方向や内容が相互に認識されて統一され、またこれは付属と本校との一体的研究のための良い機会となっている。
177 次に付属の第三(p.169の第一、p.174の第二に対応する)の使命である地方の国民学校の指導について述べる。従来の地方指導は以下の通りであった。
第一は会合を通じてのもので、
一、国民学校伝達講習会(一か年10回)
二、研究発表会(第一学期)
三、夏期講習会(夏季鍛錬期間)
四、訓導協議会(第二学期)
五、学年教育研究会(第三学期)
第二は参観人*指導
第三は出張指導
第四は県当局が指名する視学委員としての指導
第五は県教育会雑誌や同窓会雑誌の発行
以上は国民学校実施第一年であったため、やや頻繁過ぎたが、その中で、実施し反省してみて有効だったものとして、奉仕出張指導がある。これは同窓会の後援で、本校と付属の職員が組になって土日曜日に地方に出張し、実地授業、講話、実技練習等を通じて指導する。辺鄙な所を先にして無報酬で行う。刺激の少ない地方の国民学校に大いに貢献し、大変喜ばれている。(有難迷惑)我々も県下の教育の実際に触れることができ、自己修練の機会となる。
178 地方指導で注意すべき点は、国家的意義への自覚である。(いきなり)付属が「偏跛」な教育学説の伝播所となったり、「新奇」な方法の宣伝所となったりすることは断じて許されない。常に我が国の教学精神のゆるぎなき具現所、忠実な実践場となって地方国民学校を国家の意図する方向に導く中心校たる覚悟がなければならない。
私は当事者として自己修練に基づく指導力に自信がなければならないが、あくまで謙虚に広く同志や同行者と手を携えて、共に国民学校の建設に進む態度が肝要である。教えるものは人に先んじて求める人でなければならない。常に求めて自らの生命の枯渇を救わなければならない。
さて付属国民学校は教育実習、研究、指導の三つの機能を果たさねばならないが、さらに国民学校として児童教育を行わなければならない。この四つの使命を平板にやるのではなく、主副を定め、主力を中心点に集中し、他をこれに含ませる工夫が必要である。つまり、中核は児童の教育である。これをめぐってすべてを統合一体的に運営すべきである。児童教育を「真に正しい」国民教育の姿において営むことを中軸とすれば、そこに自ら真実の教育実習場が成立し、研究が真実性と具体性を持ち、真の指導的役割も果たすことができる。最も根本であり基礎であるところの児童教育が十分できずに他を教え導くことは本末転倒である。
179 「正しい」国民学校の建設が究極の問題である。これさえ建てば、他は自ずから成る。その核心は、師弟相携えて皇国の道の履践に念々精進する徳化の学校、知徳相即の学校とすることである。
ややもすれば付属ではこの最も根本的なことが脅かされる危険が多い。多数の教生を頻繁に迎えて教育を実習させ、常に多数の参観人を迎え、内部組織では知的なものが優位を占める。この知的なものに高い評価を与えることは、個人主義的雰囲気を醸成しやすい。
このようにともすれば自己矛盾を自己の内部に包蔵しているものを真に一体的に生かして生命あらしめ、その存在意義を確保すべきである。新制付属は、脚下を照顧し、新たな児童教育の再建設という手近で平凡なところから出発すべきである。
この児童教育の振興について、付属内部の機構の改善・充実、児童組織の改編、教育分野の拡大などの重大な問題が他にあるが、今は時間がないので触れられない。
以上
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