「北支に於ける教育の現状及び問題」 国立北京師範大学教授 飯田晁三 1943
感想
坦々とした記述で、神がかり的な表現は感じられなかった。戦後筆者は文部省の調査機関に勤務したとのことだが適任ではなかったか。「中共の対民衆思想工作」「文化工作」など「工作」という語が気になった。またもちろん大東戦争完遂が大前提なのだが。
メモ
・1937年の事変以後日本は中国北部を制圧し、その政治組織に介入した。本論は教育に関するものだが、日本から日本人顧問が中国の教育制度の中に関与した。授業内容でも事変後小学校初級3年から日本語を教え始めた。264
・事変後学校数・生徒数共に事変前の3割くらいに減少した。267
・社会教育施設の中には抗日思想や中共の思想工作に利用されていたものもあった。269
・1937年事変後の中国北部(河北省、山東省、山西省、河南省の四省と北京、天津、青島の三特別市)の教育行政に関する政治的主権は三つの時期に分類されるとしている。260
一、北平市治安維持会文化組1937年S12.8--
二、中華民国臨時政府教育部1937年S12.12.14--
三、華北政務委員会教育総署1940年S15.3.30—1945.8.15(S15.3.30汪兆銘の南京傀儡政権に編入された)
・教員の質は低く、小学校を卒業した者でも師範学校に入ることができた。ただし、同じ師範学校と言っても、中学を卒業してから入る者と区別され、小学校卒の者が入る師範学校は「簡易師範学校」と言い、中学卒の者が入るものはそのまま「師範学校」とされ、他の教育課程でも細分化された亜流があった。
・教員の待遇は悪く、月給20円くらいだった。雇用が設立主体(特別市や県区坊郷鎮と、省や私人)であったため、待遇にバラツキがあった。263, 274
吉川弘文館『世界史年表』によれば、
1931.9.18盧溝橋事件。奉天占領。11チチハル(黒竜江省西部の都市)入城。
1931.11.7毛沢東が江西省瑞金に中華ソヴィエト臨時政府を樹立。
1932.1上海事変5停戦協定
1932.2リットン調査団が来る。
1932.3.1満州国建国宣言
1932.6—33.2国民党軍による第4次赤軍大包囲戦
1932.6国民政府がソ連と国交回復。四川戦争。
1932.9.15日満議定書調印
1932.10リットン報告書
1933.1—3日本軍が熱河(現在の内モンゴル自治区、遼寧省、河北省に分割編入された)に侵入。
1933.5馮玉祥・吉鴻昌らが抗日同盟軍を結成。(蒋介石がこれを破る)日中塘沽停戦協定
1933.8廬山会議 11十九路軍の福建人民政府成立 12蒋介石が福建を討伐。
1934.5宋慶齢らが中国人民対日作戦基本要綱を発表。ソ連が中東鉄道(北満鉄道)を満州国に譲渡。(35.3)
1934.9国民党軍が中共の首都瑞金を猛攻し、瑞金が陥落。
1935.1広田外相が対中三原則を発表。
1935.1日満軍がチャハル(省都は張家口。1952年、内モンゴル自治区と河北・山西両省とに編入された。)侵入(~6) 6宋哲元が満州を攻撃。
1935.8中共が抗日八・一宣言。11冀東防共自治委員会組織 12冀東政務委員会成立。北京に華北自治反対の学生運動。
1936.1内蒙古自治政府成立。3中共抗日救国宣言 3長嶺子事件 5中華民国憲法草案公布 6抗日人民政府成る。11綏(スイ)東事件(日本軍と内蒙古徳王軍が綏遠省に侵入、溥作義の反撃)12西安事件(—37.2)
1937.1汪兆銘帰国 6日ソ乾岔子事件
1937.7.28北京攻略
1937.8—11第二次上海事件
1937.9日本海軍が中国沿岸を封鎖
1937.11日本軍が杭州湾上陸。蒙疆連合(察南・晉北・蒙古)委員会成立
1937.11国民政府が重慶へ遷都。12南京陥落。北京に中華民国臨時政府成立。済南陥落。
1938.3南京に中華民国維新政府成立。5日本軍が徐州を攻略。7—8日ソが張鼓峰事件
1938.10日本軍がバイアス湾上陸。広東占領。武漢三鎮陥落。
1938.12汪兆銘が重慶脱出。
1939.9張家口に蒙古連合自治政府成立。
1940.3汪兆銘が南京に新政府を樹立。
1940.7第二次近衛内閣が大東亜共栄圏建設の声明。
Wikiでは飯田晁三に関する項目が見当たらないが、
埼玉大学社会科教育研究会『埼玉社会科教育研究』No.27(2021.3)の中の、放送大学大学院文化科学研究科 埼玉県越谷市立城ノ上小学校 中山 正則「戦前の郷土教育から,戦後の新教科「社会科」の成立への変遷―埼玉県師範学校郷土館創設と師範学校関係者の活躍,高石幸三郎市長誕生と川口プランの成立へ―」によれば、
3.埼玉県郷土教育の中心,埼玉師範学校郷土館
海後宗臣・飯田晁三・伏見猛彌共著『我国に於ける郷土教育と其施設』(昭和
7(1932)年,目黒書店刊)に,郷土室を有した主な学校の一覧表があり,昭和8(1933)年埼玉県師範学校郷土室の記載がある。
とある。
また特別コレクション詳細(Detail of special collection data)
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=pro_view&id=4110014
国立教育政策研究所教育図書館
飯田晁三旧蔵資料(文部省調査局調査課資料)
イイダチョウゾウキュウゾウシリョウ(モンブショウチョウサキョクチョウサカシリョウ)
によれば、
昭和22年からの文部省調査局調査課の資料。「参考資料」「資料月報」「外国教育調査協議会」関係資料、「文部時報」関係資料、「調査課関係書類」、「迷信調査関係資料」、「教育長[等]講習関係書類」など飯田晁三が調査課で携わった業務に関連する資料である。
【旧蔵者】飯田晁三
大正10年1921年4月旧制第一高等学校文科丙類(仏語)に入学、昭和2年1927年3月東京帝国大学文学部教育学科卒業、大学院に進学し、フランスの教育史研究を進め、昭和3年1928年12月に同文学部助手に就任。
昭和13年1938年9月、陸軍省と文部省の要請で中国の軍特務部に督学官として赴任し、翌年1939年1月青島特別公署教育局副局長、昭和16年1941年8月には北京師範大学教育学院教授に就任した。
戦後、中国から帰国し、昭和22年1947年1月に文部省調査局調査課に勤務し、その後昭和25年1950年11月に国立教育研究所に転出、昭和30年1955年には東京都立大学人文学部教授となり、その後、明星大学人文学心理・教育学科主任教授となった。
平成5年度1993年度文部省科学研究費一般研究(C)「戦後改革期における「学校五日制」実施の経緯とその帰結」でまとめられたものが教育図書館に寄贈された。
とある。
またhttps://ci.nii.ac.jp/author/DA01024999によれば、飯田晁三の著書を紹介し、
『新教育のあゆみ』海後宗臣, 飯田晁三編 小学館 1958.7 新教育の実践体系 1
『師範學校生徒の家庭状況,學業成績及びその性行に關する調査』阿部重孝, 飯田晁三共著 [出版者不明] [1934]
『ドゥクロリー教育法』 飯田晁三著 目黒書店 1931.4 現代教育問題精選
とある。
要旨
260 支那事変勃発1937以後現在1942までの北支での教育建設の経過と現状、及び現在教育上主要と考えられる二、三の問題について述べる。
北支とは華北政務委員会の統治下にある地域のことであり、河北省、山東省、山西省、河南省の四省と北京、天津、青島の三特別市を包含し、人口は約1億である。
中央行政官庁は華北政務委員会であり、地方行政の区域は前述の四省三特別市に分かれ、各省市に行政官庁として省公署と特別市公署をおき、更に各省を道県市に分け、それぞれ公署を置いている。
私が話す北支の教育とは北支での支那側の教育であり、かつ華北政務委員会教育総署が所管する教育についてであり、他の管轄の教育は除く。
北支における教育の現状
昭和12年1937年7月7日の支那事変勃発から現在までの北支における教育行政機関から見た場合次の三つの時期に分けられる。
一、北平市治安維持会文化組の時代1937年S12.8--
二、中華民国臨時政府教育部の時代1937年S12.12.14--
三、華北政務委員会教育総署設置以来現在までの時代1940年S15.3.30—1942(この委員会は1940年S15.3.30汪兆銘の南京傀儡政権に編入され、1945.8.15まで続いた。)
事変勃発後、軍は治安の回復したところに直ちに治安維持会を組織させ、治安維持と行政を行わせた。昭和12年1937年8月には早くも北京と天津地方に北平市治安維持会が成立し、その文化組は学校の恢復や教育の革新に努力したが、北支で教育建設が本格的に行われるようになったのは、昭和12年1937年12月14日に北京に中華民国臨時政府が成立してからである。翌昭和13年1938年1月4日教育部が設けられ、教育部総長に湯爾和が任命された。
261 教育部は従来の抗日教育を徹底的に是正する方針で、同年昭和13年1938年4月15日に訓令を発して13か条を示した。これを臨時政府教育部の教育方針と称する。その主要な点は以下の通りである。
一、党化(ママ)排日教育を厳重に取り締まること、
二、学校恢復は小学校より着手し、次に中等学校に及ぶこと、
三、学制は暫く旧制度によること、
四、外国人経営の教会学校等は厳重に監督指導し、新政府の教育方針に順応させること、
五、教科書は教育部が編纂または審査したものを使用すること、
六、中、小学校教員を再訓練し、特に思想の是正に力めること、
なお従来の教育法令中で臨時政府の教育方針に抵触しないものは暫く適用して現在に至っている。
事変前の排日教育に鑑み、教育革新の根本は中、小学校教科書の改編であり、昭和13年1938年3月1日、教育部の中に直轄編審会を設置し、我が国の文部省から専門家二人を招聘し、新教科書の編纂に着手し、同年昭和13年1938年9月の新学年から新教科書を使用させた。さらに同年昭和13年1938年8月24日、小学校、中学校、師範学校の教科課程を改訂し、新たに日本語を加え、従来の公民科を修身科と改めた。さらに教育部と北京、天津、青島の各特別市公署に日本人教育行政職員を、また主要な大学や中、小学校に日本人教員を招聘させた。
262 昭和15年1940年3月30日、国民政府の南京還都に伴って臨時政府は解消し、華北政務委員会が設置されて教育総署が北支の教育を掌ることとなって現在に至っている。
我が国の対支文化指導に関して、(傀儡)国民政府が満州国を正式に承認したことと、大東亜戦争の勃発によって米英の勢力が東亜から一掃されたこととは画期的な変化である。
一、教育行政
中央教育行政官庁は華北政務委員会教育総署である。この教育総署に総務局、文化局、教育局、秘書室を置き、長官を督辨といい、現在は周作人が督辨である。督辨の下に次官に相当する署長がある。各局に局長、秘書室に秘書主任を置く。他に日本人の学務専員が二名いる。また教科用図書の編審のために教育総署直轄の編審会が設置され、我が国の文部省から専門家二名を招聘し、総編纂と副総編纂としている。
地方教育行政機関は、省では省公署教育庁、特別市では特別市公署教育局であり、道、県、市の各公署にそれぞれ教育科が置かれている。
現在、日本人の教育行政職員として、省の教育庁と特別市教育局に顧問補佐官と学務専員等が置かれ、教育行政の指導・監督と日本側機関との連絡等を担当している。
また道、県、市の各公署に日本人参事が置かれている。ただし青島特別市公署だけは行政系統の中に日本人が入り、副局長、科長、督学等の地位についている。
263 教育費は設立主体が負担するが、これは支那の教育の発達を阻む一つの理由となっている。教職員の任免は学校長に権限がある。監督官庁の許可を必要とするが、校長は毎学年の始めに教員に対して一年契約の聘書(辞令)を出す。ここに教職員の採用に関して情実の入る余地があり、また教職員の地位が不安定である原因となっている。これは教育の発達を阻む一つの理由である。
教職員の資格については、各職務に対する任用資格が規定され、教員免許状はない。ただし、現在地方によっては小学校教員の検定試験を行っているところもある。教員の俸給は職務の質と程度によって規定されるのが普通で、教員の経験や学力等はほとんど考慮されていない。
この教職員の任免と待遇等について、現在すでに各地方で改善されつつある。
視学制度 各省、特別市、道、県、市に督学が置かれている。教育総署には督学が置かれていないが、将来置くべきである。
学制 以下に示す学制は民国11年大正11年1922年と民国17年昭和3年1928年の改正によって定められたものである。これはアメリカの制度に倣ったものである。学年は8月1日に始まり、7月31日に終わる。1学年を二学期に分けている。
北支現行学校系統図
年齢 学年
初等教育
幼稚園
6 1 小学校(初級) 簡易小学
7 2
8 3
9 4
10 5 小学校(高級) 補習学級 短期小学
11 6
中等教育
12 7 中学校(初級) 簡易師範学校 高級職業学校 初級職業学校 補習学校
13 8
14 9
15 10 中学校(高級) 簡易師範学校 師範学校 幼稚師範科 簡易師範科
16 11 中学校(高級) 師範学校 幼稚師範科
17 12 中学校(高級) 師範学校 幼稚師範科(一部)
高等教育
18 13 大学・独立学院 特別師範科 専科学校
19 14 大学・独立学院 専科学校
20 15 大学・独立学院 専科学校(一部)
21 16 大学・独立学院
22 17 研究院 大学・独立学院(一部)
23 18 研究院
24 19 研究院
二、初等教育
小学校教育は、民国21年昭和7年1932年12月24日国民政府公布の「小学法」と、翌年1933年3月教育部公布の「小学規程」による。小学校は修業年限6年で、これを初級小学4年、高級小学2年の二段階に分け、土地の状況によっては初級小学だけを設置できるとしている。入学年齢は満6歳である。この他に初等教育普及のために簡易小学と短期小学が設けられている。簡易小学は初級小学に入学することができない学齢児童を収容し、その授業時数は最小限2800時間であり、短期小学は満10歳以上満16歳以下の年長失学児童を収容するもので、修業年限は2年である。
小学校は市、県、区、坊と郷、鎮が設立することになっているが、省や私人が設立することも認めている。教科目と教授時数は、民国27年昭和13年1938年8月24日臨時政府教育部修正公布が実施されている。事変前と比較して著しい差異は、公民科を廃して修身科を設けたことと、日本語を初級3年以上に課したことである。教科書は教育総署直轄編審会が編纂したものを使用している。(前述)
265 事変前から小学校教育を義務修学とする方針の下に、種々の実施と奨励に関する規定を公布して普及に努めたが、まだ十分でない。「民国二十一年度1932年度全国初等教育統計」によると、支那全国の就学率は24.79%であり、北支では31.16%に過ぎない。
三、中等教育
中等教育の機関は中学校、師範学校、職業学校である。
中学校は初級中学と高級中学とに分かれ、修業年限はそれぞれ3年である。両者を合併設置できる。設立の主体は省または特別市であるが、県、市、私人も設立できる。初級中学の入学資格は高級小学卒業者であり、男女によって学校を分けることを原則とする。学科課程は民国27年1938年8月24日臨時政府教育部が修正公布したものによっている。事変前のものと比較し、公民科を修身科とし、英語5時間を2時間とし、新たに日本語3時間を必修科目とした。教科書も事変前のものを禁じ、編審会編纂のものを使用している。
中学校の学科課程と教科書は男女同一である。ただし女子には家事、裁縫等を加え、教科書も一、二女子用のものが編纂されている。女子教育の問題は今後研究されなければならない。
266 師範学校は初級中学卒業者を入学させ、修業年限3年のものを本体とするが、他に簡易師範学校、簡易師範科、幼稚師範科または特別師範科を設置できる。簡易師範学校は高級小学校卒業者を入学させ、修業年限は4年で、簡易師範科は初級中学校卒業者を入学させ、修業年限は1年で、共に初級小学と、簡易小学教員や短期小学教員を養成する。幼稚師範科は幼稚園や初級小学教員を養成し、初級中学卒業者を入学させ、修業年限は2年または3年である。特別師範科は高級中学卒業者を入学させ、修業年限は1年である。
師範学校は省または特別市が設立するが、必要な場合は県や市も設立できる。簡易師範学校は県または市が設立する。いずれも私人が設立することを認めない。
学科課程は小、中学校と同様、事変後修正公布したものにより、日本語はいずれも必修科目である。教科書も編審会編纂のものを使用している。
職業学校には初級職業学校と高級職業学校とがある。初級職業学校は高級小学卒業者を入学させ、修業年限は1年、2年、3年である。高級職業学校は初級中学卒業者を入学させ、修業年限を3年とするものが原則だが、高級小学卒業者を入学させ、修業年限5年または6年のものも設立できる。農、工、商、家事等によって学校を分け、学科課程は示された要綱によって定め、主管教育行政官庁の許可を要する。
北支の中等教育では現状と将来から考えて、師範教育と職業教育の振興が緊要である。
四、高等教育
267 高等教育の機関には大学、独立学院、専科学校がある。大学とは(日本の)総合大学の意味であり、文、理、法、教育、農、工、商、医の各学院(日本の学部に相当)の中の三学院以上もつものをいう。一または二の学院からなるものを独立学院という。修業年限はいずれも4年(医学院は5年)である。専科学校は工業、農業、商業、医学、薬学、芸術、音楽、体育等に関する専門の知識技能を授ける学校で、修業年限は2年と3年がある。現在、大学は国立北京大学、国立北京師範大学、私立輔仁大学の三校であり、独立学院は二校、専科学校は六校ある。次の表は民国29年度昭和15年度16年度1940年度1941年度のもので、昨年1941年11月、従来の男女師範学院が合併改組され師範大学となり、又1941年12月8日、大東亜戦争の勃発により、米国系の燕京大学と北京協和医学院の二校が廃校となり、大学と独立学院の数は公立2、私立3の計5校となった。
北支教育統計-事変前後比較
事変前 |
事変後(民国29年度) |
事変後/事変前 |
||||
学校数 |
学生数 |
学校数 |
学生数 |
学校数 |
学生数 |
|
総計 |
104,983 |
4,260,026 |
31,776 |
1,664,642 |
0.30 |
0.39 |
初等教育計 |
103,661 |
4,066,101 |
31,467 |
1,586,162 |
0.30 |
0.39 |
小学校 |
103,661 |
4,066,101 |
31,467 |
1,586,162 |
0.30 |
0.39 |
公立 |
92,803 |
3,660,906 |
30,336 |
1,447,271 |
0.33 |
0.40 |
私立 |
10,858 |
405,195 |
1,131 |
138,891 |
0.10 |
0.34 |
中等教育 |
843 |
134,600 |
218 |
59,319 |
0.26 |
0.44 |
中学校 |
398 |
90,955 |
141 |
47,713 |
0.35 |
0.52 |
公立 |
184 |
39,859 |
46 |
13,984 |
0.25 |
0.35 |
私立 |
214 |
51,096 |
95 |
33,729 |
0.44 |
0.66 |
師範学校 |
377 |
36,720 |
51 |
6,004 |
0.14 |
0.16 |
職業学校 |
67 |
6,925 |
26 |
5,604 |
0.39 |
0.81 |
公立 |
52 |
4,646 |
15 |
2,035 |
0.29 |
0.44 |
私立 |
15 |
2,279 |
11 |
3,569 |
0.73 |
1.57 |
高等教育 |
35 |
15,680 |
14 |
7,553 |
0.40 |
0.48 |
大学・学院 |
25 |
14,823 |
8 |
6,761 |
0.32 |
0.46 |
公立 |
14 |
8,697 |
3 |
2,208 |
0.21 |
0.25 |
私立 |
11 |
6,126 |
5 |
4,553 |
0.45 |
0.74 |
専科学校 |
10 |
857 |
6 |
792 |
0.60 |
0.92 |
公立 |
9 |
661 |
6 |
792 |
0.67 |
1.20 |
私立 |
1 |
196 |
- |
- |
- |
- |
備考 事変前統計で、初等教育は民国21年度1932年度、中等教育は22年度1933年度、高等教育は23年度1934年度の各教育部統計による。事変後の統計は教育総署「二十九年度華北教育統計」による。
五、社会教育
社会教育施設の主なものは、新民教育館、新民学校、図書館、補習学校、新民茶社、体育場、問字処、問事処、閲報処などである。
新民教育館とは事変前は民衆教育館といい、民衆教育の有力な中心機関であったが、事変後これを新民教育館と改称して復活した。これは社会教育区の中心機関であり、その規模に応じて、新民学校、読書会、問字処、問事処、代筆処、映画、講演、図書室、巡回文庫、診療所、託児所などを開設している。
269 新民学校は事変前の民衆学校に相当し、男女年長の無学者の補習教育機関である。学科目は読、書、算、常識を中心とし、土地の状況に応じて、昼間または夜間に二、三時間くらいの授業を行い、多くは小学校に付設されている。
教育総署の民国29年度1940年度の統計によれば、社会教育施設数は3118か所であり、そのうち新民学校が767、新民教育館196、図書館70、補習学校227、体育場92である。
そのほかに新民会、宗教団体、社会事業団体もあり、特に農村や前線では新民会が中心的な活動場所となっている。
これらの社会教育施設は事変前に抗日思想の宣伝に大きな役割を果たした。現在における敵側の、特に中国共産軍の対民衆思想工作の状況から見て、今後北支で社会教育に一層重点を置くと共に、その方法について研究する必要がある。
六、日本語普及状況
北支における文化工作上、日本語の普及は極めて重要でかつ必要である。
(1)学校における日本語教育
小学校、中学校、師範学校を対象に、教育部は民国27年1938年8月24日、教育課程を修正公布し、日本語を正科として課した。小学校では初級3年から課し、授業時数は初級3、4年が毎週60分、高級1、2年が90分である。ただし、地方の情況によっては主管教育行政機関の許可を得て免ずることができる。小学校では都市農村の主要な地点ではほとんど正科として課している。
270 中学校では各学年とも毎週3時間、師範学校では各学年とも毎週2時間(外に選修科目として3時間課すことができる)課すことになっている。現在中学校ではほとんどすべてに日本人教員が配属され、日本語を教授している。
大学と専科学校ではそれぞれ規定を定めて日本語を必修科として大抵毎週6時間以上課している。
以上の外に日本語と日本文学を専門に教授する学校として北京師範大学文学院日文系、北京大学文学院日文系、外国語専科学校、中央日本語学院、済南に日本語専科学校等がある。中等学校程度の日語学校は各地に設置されている。
現在北支の支那側学校に派遣されている日本人教員は400名以上いて、小学校と中学校で大多数が日本語教授を担当している。
また日本語奨励のため、各地で日本語作文の募集、日本語による学芸会、雄弁大会の開催等を行っている。
(2)一般に対する日本語教育及び普及施設
一般民衆に対する日本語教育施設として、補習学校式の日語学校、日本語の講習会、ラジオや新聞の日本語講座等がある。
また日本語の奨励、普及のために教育総署は毎年一回北支全般に日本語文検定試験を実施している。その他官庁や会社で日本語検定試験を実施し、合格者に等級に応じて手当を支給している。
北支における教育問題
271 一、義務教育の問題
民国9年1920年、義務教育規程が公布されたが、事変前の民国21年度1932年昭和7年の統計によると、支那全国の義務教育就学率は24.79%で、北支では31.16%であった。前国民政府は民国21年1932年6月25日に教育訓令「短期義務教育実施辨法大綱」と「第一期実施義務教育辨法大綱」を公布し、年長失学者のために短期小学を設置すべきことと、同年8月から3か年計画で各市町村に義務教育実験区を設け、未就学児童の少なくも10%を収容・教育すべきことを規定したが、十分な成果が得られなかったようだ。
義務教育が十分に実施されない理由として次のことが考えられる。
1 家庭の貧困と学校教育に対する無理解
不就学児童と中途退学者(小学校の中途退学者は極めて多い)の多くは家庭の貧困による。それと同時に小学校教育の内容が実際生活にほとんど役立たないと考えている父兄が相当いる。
272 2 政治の不安定
内乱による政権の異動、教育行政当局者の異動等がしばしば行われたために、一貫した教育政策や企画がなく、また教育に対する理解と熱意がない者もいた。ただし山西省は義務教育が最も普及していて、就学率が60%であったが、これは閻(エン)錫山が山西モンロー主義のもとに長年統治し、内乱がなく、財政が豊かで、教育政策が一貫していたためと言われている。
3 教育費負担方法の不適
小学校の経費を各設立者が負担するため、貧弱な町村は必要な施設を施せない。事変前に義務教育奨励のために省や国庫から補助できると規定を定めたが、その実施状況は明らかでない。民国21年度1932年の統計によれば、児童一人当たりの教育費は省、市によって非常に差がある。経費を国庫や省から一定の基準で補助する必要がある。
そのほかの理由として、学校の地理的分布の適否や教育行政担当局や教員の熱意・努力不足もある。
事変後の初等教育の恢復状況で、就学率は事変前の半分にも達していないが、現に軍の作戦地帯である北支でこれだけ恢復したのは著しい実績と言える。これは各方面の異常で不断の努力の結果である。民国30年度1941年と今年度1942年の初等教育は、飛躍的に増大したと推定される。
273 心からの親日意識の涵養は小学校時代からなされなければならない。初等教育の普及は人心に大きな安定を与える。特に北支では、重慶側と共産軍側の文化的・思想的工作に対抗し、それを撲滅するためにも初等教育は重要である。
義務教育制を励行し成績を上げなければならない。義務教育普及の方策として、一、義務教育費国庫補助や省補助の制度を確立し、教育費負担の均衡・適正を図る必要がある。本年度から教育総署は各省に国庫補助をする計画であり、父兄に初等教育の必要性を理解させ、有効な就学奨励法を講ずる必要がある。特に農村では校長の人選に留意し、小学校が社会教化の中心となれるようにすべきである。今でも各地に多数存在する私塾は、この役割をかなり果たしているようだ。この私塾の存在理由は、特に農村での初等教育の形式や内容を考える上で参考になる。
二、小学校教員の待遇及び養成の問題
初等教育の普及と発達には小学校教員の資質向上とその計画的養成が不可欠である。民国21年度1932年の統計によると、支那全体の小学校教員中、師範学校卒業生が36.39%で、しかもこの中には簡易師範学校の卒業生も含まれていると思われる。現在でも農村では小学校卒業者で教員をしている者がいる。待遇を改善して教員の資質を向上させる必要がある。
274 待遇改善に関して考慮されるべき点
(1)任免制度を改め、県公署または省公署にその任免権を移し、一年契約制度を廃止すること。これはすでに実施している所もある。
(2)教員検定制度を実施し、学力、学歴、人物を基準にした数種の資格を定め、その資格に応じて待遇を定めること
(3)俸給表を制定し、資格、経歴や地方の情況に応じて、最低限度の俸給を規定すること。また昇給と転任の制度を認めること。
教員の俸給についての全般的な調査がないが、教員一人当たりの教育経費は、民国29年度1940年では294円強であり、月額24.50円に過ぎない。このことから教員の平均俸給は20円くらいと言えるだろう。その後多少の増俸や物価手当があっただろうが、教員の生活は決して安定しているとは言えない。現在、教員の俸給が地方により区々であるのは、教育費の負担方法が適切でないからであるが、義務教育費の国庫または省補助制度を確立し、俸給の少なくとも半額は国庫や省から支給するように改めるべきである。
275 教員養成 民国29年度1940年現在の小学校教員数は61,782名で、師範学校生徒数は6,002名である。ただしこの師範学校の中には課程の異なったものが含まれている。師範学校の卒業生を毎年2,000名とし、教員の平均勤続年数を20年とすると、この卒業生数では現状の維持ができない。小学校が事変前の状態に戻れば、教員数は186,917名(民国21年度1932年統計)で、さらに125,000名を必要とする。各省市で教員の需要数を見越して計画を立てるべきである。今後の小学校教員をすべて新しい師範学校の卒業生で補充するという目標を立てるべきである。教育の根本的な立て直しには新しい教育を受けた清新な教員の熱情を必要とする。師範学校教育の革新が不可欠である。
小学校教員の再教育 各省市とも教育総署の命令で毎年講習会を開き、合宿訓練を行い、新教育方針の徹底、時局に関する正しい認識を与えるなど、思想方面の教育を重視した講習を行っている。河北省ではこの他に常設的な教育研究所を設け、6か月間再教育を行っている。そのほかの省市でも種々の取り組みが行われている。今後、各省市ともそれぞれ同一の組織内容をもつ教員再教育機関を設ける必要がある。
三、留学生の問題
教育総署の華北教育統計によると、民国29年度1940年現在で北支から日本に留学している者の数は474名であり、その内訳は、公費83名、私費391名、男子428名、女子46名、高等教育修了者126名、中等教育修了者348名である。ただし、教育総署に登記せずに留学している者も相当数いる。留学生の数は逐年増加傾向にある。
276 留学生の大部分は7月に学校を卒業してから日本に行き、東京の東亜学校に入学して日本語を学習し、翌年の3月に入学試験を受ける。多くの学生は希望する学校に入学できず、他の入学しやすい学校に入学している。入学しても講義が理解できない者が相当数いると思われる。これは学生の学力不足や日本語未習得のせいであろう。中には日本語力不足のために試験問題の意味が分からない場合や、理解できても日本語で書いたり話したりして解答できない場合も相当数あると思われる。また入学してから英語その他の外国語が多用され、学習上二重三重の負担になっている。中にはこのことから日本文化の価値を疑う者もないとは言えない。
我が国の対支文化政策の上から見て、留学生の問題は重要で基礎的な問題ではないかと思う。米国は支那人学生の留学を奨励し、種々の便宜を図り、これらの留学生を通じて支那の政治、経済、文化に大きな影響を与えたが、それに対して従来我が国は支那人留学生に対してあまりに無関心ではなかったか。今後は制度でも実際の教育においても、考慮してもらいたい。
277 これは北支だけの問題ではなく、大東亜諸地域の問題でもある。国家として留学生教育の制度を確立してもらいたい。例えば北支について、日本政府と華北政務委員会とで協定して委員会を作り、その委員会が、我が国の諸学校の収容能力に基き、留学させる学生の専攻学科、入学学校などを凡そ予定してから選考試験を行って合格者を留学させるのが望ましい。こうして留学生の資質が向上し、日本に行ってから希望する学校に入れるかどうかという不安がなくなり、日本留学の権威を高めることができる。
また日本に来てから所定の学校に入るまでの間の予備教育の施設を充実する必要がある。現在東亜学校やその他の施設があるが、これらを国家的施設にし、内容を充実し、日本語の学習だけでなく、教育指導、生活指導も行うことが望ましい。現在でも教育総署から留学生に関する事務を行う者を東京に駐在させているが、事務だけで指導はしていないようだ。
入学後の教育は日本の学生と同様に厳重な教授と訓練をしていただきたい。彼らの学生生活に対して厳格で温かい指導をしていただきたい。それは彼らに深い感銘と喜びを与えるだろう。
この他にも問題があるだろうが、その問題は大東亜戦争完遂、大東亜共栄圏の建設という大目標を基底にして研究され解決されるべきである。
以上
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