「大東亜教育政策に関して」 国民精神文化研究所員 伏見猛彌 1943
メモ・感想
・植民地における初等教育就学者の全人口に対する割合や就学率を日本と英蘭とで比較し、日本の植民地教育政策が差別的でなく、「本質的に」英蘭の植民地教育政策と異なることを証明しようとするのだが、その相違だけが「本質的な」違いまでを説明できるのだろうか。またその根拠を天皇の言葉に求めるのだが、それは信仰としか言いようがない。天皇親政ではないのだから根拠は薄弱である。また天皇が外国に対して「安堵せしめる」などと命令することは国際関係上問題ではないか。
・アジアの植民地はこれまで欧米の方式で支配されてきた。今後日本文化を植民地に伝達するためには、書物によるのではなく、日本人の行動で示すのがよいとするのだが、これも日本が歴史的に儒教や仏教、西洋近代文化などに関する書物を持たなかったことに対する言い訳の感がする。そして日本書記の神話を持ち出し、日本人は儒教の書物を輸入する以前からその徳目を行動で示していたからとして、書物がないことをカバーできるなどと言う。実際日本人は儒教の書物から学ぶことが多かったのではないのか。
・米英の植民地教育政策は技術教育をほとんど行わず、植民地を本国産業のための原料供給地、本国製品の市場植民地とするものであったが、日本は植民地で技術を教育する方針である。しかし実際はその政策が台湾や朝鮮でさほど進んでいなかったと本人自身も認めていたり、米英も今後の日本も植民地で低レベルの技術教育を施す点で相違がなかったりして、論拠が薄弱である。
・その際中等学校卒や実業学校卒を挺身隊にして植民地に派遣し、文化・産業に関する植民地現地教育に当たらせたらと提案する。それは当時はやりの、知育「偏重」だとして教室内での知育を批判するための造語「錬成」と称して学生を戦場に送るための政策ではなかったか。錬成とは戦争遂行のために学生を教室から戦場に送り出すために無理を承知で作り出した用語ではなかったか。
コトバンクによれば、伏見猛彌は戦後公職追放された経歴を持つ。
伏見 猛弥 フシミ タケヤ 昭和期の教育学者、英才教育研究所所長、元・玉川大学教授。
生年 明治37(1904)年1月2日 没年 昭和47(1972)年3月15日
出生地 福島県
学歴〔年〕 東京帝国大学文学部教育学科〔昭和3年〕卒,東京帝国大学大学院修了
経歴 東大助手兼日大講師を経て、昭和11年1936年文部省国民精神文化研究所員、昭和18年1943年教学錬成所錬成官(本論で言っていることと符合する)。戦後公職追放、昭和26年学校図書顧問、昭和27年追放解除で玉川大講師、38年教授。40年英才教育研究所を設立、所長となり英才教室を開いた。44年聖徳学園小学校教育顧問、45年玉川大を退職。
著書 「教育現象学」「教育維新」「英才教育のすすめ」「頭のよい子に育てるしかた」など。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)
伏見猛弥 ふしみ-たけや 1904-1972 昭和時代の教育学者。
明治37年1月2日生まれ。昭和11年文部省国民精神文化研究所員,18年教学錬成所の錬成官となる。戦後は公職追放になったが,38年玉川大教授。40年英才教育研究所を設立し,英才教室をひらいた。昭和47年3月15日死去。68歳。福島県出身。東京帝大卒。著作に「英才教育のすすめ」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus
要旨
251 従来の英蘭の植民地教育政策は、日本が従来外地や満洲国、支那等で行ってきた教育政策と全くその性格が異なる。英蘭の植民地教育政策は徹底的な文盲政策である。初等教育は国によって実情が異なるが、初等教育を受けている人口の総人口に対する割合は、文明国と言われている国々では1割から1割5分である。日本では15.7%である。アメリカは初等教育が8年であるが、17.3%、イギリスは11.9%、ドイツは12%である。ところが英蘭等の植民地で国民教育(初等教育)を受けている人口の総人口に対する割合は、1%から3%くらいしかない。蘭印(インドネシア)(の植民地支配)は300年の歴史をもち(植民地支配が)一番長いが、3%、インドは2.8%、仏印(ベトナム)は1.4%である。しかも事実はこの数字より低いと思われる事情もある。これは彼らの本国での割合と比較にならないほどの低率である。またこれから教育が普及する傾向すら認められていない。これに対して日本の外地として最も古い台湾は50年、朝鮮は40年、満洲は10年しか(植民地支配になってから)経っていないが、満州国は昭和15年1940年の統計で4.5%、朝鮮は6.7%、台湾は11.2%であり、植民地支配の期間が長くなればなるほど、国民教育の率が高まっている。このことから日本の異民族に対する政策が、英「米」(蘭からいきなり米に変更)の植民地教育政策とその性格に於いて「根本的に」異なっていると言える。
台湾、朝鮮に於ける就学率も増加している。台湾では大正11年1922年に29.18%だったものが、昭和9年1934年に39.28%になり、昭和14年1939年には53.15%となった。このような急激な増加はインドや仏印では見られない現象である。朝鮮では昭和6年1931年の就学率が18.7%だったが、昭和16年1941年には50.8%と驚くほど増加した。日本の異民族教育政策が「その本質において」英蘭の植民地政策と異なっていることは明瞭である。
日本は従来異民族も国民として扱ってきた。段階的に(政策を実行するから)経済その他の領域で多少の差別的待遇はあったに違いないが、少なくとも教育の点では日本内地の国民と本質的に何らの差別は設けていない。日本は「一視同仁」の政策を行ってきた。台湾や朝鮮ではこの政策は「皇民化政策」と呼ばれている。このことは日本の「国体」の反映であり、万民をその堵(と、居所)に安んぜ(安堵)しめる大御心が日本の政策の上に反映したものと我々は考える。昭和15年1940年9月、日独伊三国条約締結の際に下した詔書の中の「惟(おも)うに万邦をして各々その所を得しめ、兆民をして悉くその堵に安んぜしむる」という大御心は今日だけでなく、明治天皇が台湾総督の乃木大将に下した勅語でも「新附の民未だあるいはその堵に安んぜざる者あらん」と言い、また韓国併合に際しての詔書では「韓国の現制は尚(なお)未だ治安の保持を完するに足らず。疑懼(ぎく、疑い恐れる)の念(が)毎(つね)に国内に充溢し、民その堵に安んぜず」と言い、何とかして民をその堵に安んぜしめようという有難き大御心が拝察される。この大御心の反映が、日本の従来の外地や、日本人が指導者として建設した満州国で、不知不識(のうちに)政策を決定していた。日本の対外教育政策は既に昔から英蘭などの外国とは根本的に異なった方向で行われていた。この方向は今後の大東亜圏内でも堅持されなければならない。日本の教育政策の方向は非常に正しい方向を向いていた。
ただその根本方針を実践する方法で従来反省すべき問題があったし、今後も考えなければならない問題がある。
254 その第一は文化の問題である。このことについては第二回の教育学会で述べた。現在大東亜と言われている地域の文化のほとんどは従来欧米によって編纂された。このことは教育の面では学校の教科目にまで反映していた。この大東亜圏に新しいアジアの文化、とりわけ日本の文化を「光被(君徳が広く行き渡る)」し、新しくそれを建設してゆくことが教育政策として考慮されなければならない。(なぜ?)
日本の文化とは何かについて述べる。従来の日本の歴史(教育)は日本の文化に関してほとんどその本質に触れていない。国史では仏教はインドから、儒教は支那から、近代文明はヨーロッパから来たと教えられ、日本の文化は貧弱であるという考えを植え付けられてきた。これでは大東亜における新しい「ルネサンス運動」はできない。(なぜ?)吾々は皇国文化=日本の本来の文化を深く自覚し、それを大東亜圏内に光被させるよう今後努めなければならない。
日本の文化はどんな形で現れているか。儒教は支那文化と考えられているが、支那文化としての儒教は書物に書かれた儒教である。支那の田舎に孝子(孝行な子)節婦(貞節な女性)の碑をよく見かけるが、支那では孝子節婦は実際生活では珍しい。(その根拠は)現実生活で珍しいからそれを儒教という理念として作り出したと考えられる。一方日本では儒教が入って来る以前から、儒教が教える道徳が生活の中にあった。日本書記は、君臣の大義をはじめとして、親子兄弟夫婦間の道が明瞭に存在したことを示している。儒教が日本に入ってきてから日本に君臣の大義や親子兄弟夫婦間の道が生まれたのではない。(どうかな)肇国の始めから我々の祖先の生活の中にそれは存在していた。生活の中に普通に存在していたから、それを書物に書いたり碑に刻んだりする必要がなかった。日本においては何でも生活の裡に実践するという点に日本文化の特色がある。書物に書く形式では、ギリシャや支那よりも優れていなかったかもしれないが、生活の裡に実践していた形では非常に優れた文化を持っていた。(自己中の自画自賛)
我々はその文化を南方や支那に持ってゆかねばならぬ。その日本文化を持ってゆくということは、一人一人の日本人が大御心を体して、立派な日本人として行動することに他ならない。これが日本文化の大東亜圏における光被である。出来上がった音楽や映画を持ってゆくことは第二次第三次の問題であり、根本的には立派な日本人としての生活を外地でしてゆくことが、外地の日本文化の建設に他ならない。これが大東亜における本当に正しい文化建設の問題である。
第二に技術教育 文化の場合と同様に大東亜の経済はほとんど従来米英の支配下にあった。大東亜圏内における生産配給などあらゆる機構が米英の手で行われていた。米英のアジアにおける経済政策では、アジアは米英が原料を持っていく場所であり、彼らが生産している物資を売りつける市場植民地としての役割を果たさせられていた。彼らは絶対にアジア自身を工業化する政策を取らなかった。亜細亜に工業を興させないことが、米英のアジアに対する根本政策であった。そのことは教育の面にも反映し、インドや支那での米英の教育は、ほとんど技術教育を行っていない。教育の大部分はほとんど英文学教育であり、程度の高い技術教育は全く無視されている。程度の低い技術教育はやっているが、程度の高い技術教育はやっていない。これは彼らの典型的な植民地教育政策である。(これは現在の米による対中国政策(経済安全保障政策)にも当てはまるかもしれない。)イギリスの直轄植民地であるフィージーアイランドは、太平洋の植民地の中でも最も教育の率が統計的に高く、就学率が65%であるが、技術学校がほとんどない。政府直轄の学校は、小学校が15、中学校が3、師範学校と医学校がそれぞれ1校ずつあるが、農業・工業に関する教育はほとんど行われていない。私立学校の中でもイギリス政府が直接補助を与えている学校にはほとんど技術的な学校がない。全然イギリス政府の補助を受けていない私立学校の中に、農業学校と工業学校が1校ずつある。
大東亜圏内の資源は豊富であるが、これをどう開発するか。これは労力にともなう技術の問題である。開発には技術員が必要である。満洲の五か年計画で技術員が多数必要になる。先日東亜教育大会に参加し、満洲の東辺道を視察したが、開拓のために技術員を最も必要としている。日本の高等工業卒者よりも程度の低い技術員を必要としている。大東亜建設では日本国内で技術教育を発達させるとともに、大東亜の原住民に比較的程度の低い技術教育をやる必要がある。
台湾や朝鮮にはある程度の技術学校があるが、原住民族はそれほど利用していない。これは反省すべき点である。
257 最後に文化建設や産業指導、技術指導に誰が当たるのかという問題である。満蒙開拓青少年義勇隊の組織の中に、今後の大東亜教育政策を考える上で参考とすべきことがある。満蒙開拓青少年義勇隊の組織は、従来あまり教育者の側から注意されてこなかった。その目的は綱領に書かれている。「我ら義勇軍は天祖の宏謨(こうぼ、大きなはかりごと)を奉し、心を一にして追進し、身を満洲建国の聖業に捧げ、神明に誓って天皇陛下の大御心に副い奉らんことを期す」としている。彼らは神明に誓って天皇陛下の大御心を奉体せんとして満洲建国に参加している。吾々は既に五か年の経験を経たこの組織を反省し、先ほど述べた欠陥を反省し、大東亜建設のための参考にしたい。私は南方だけでなく支那・満洲を含めて、大東亜建設のための挺身隊を組織することを提唱したい。満蒙開拓青少年義勇隊は国民学校の卒業者の中から志願者を採用し、青少年義勇隊を組織して内地で半年内原(水戸市内原郷土史義勇軍資料館や訓練所の碑が常磐線沿線にある)で訓練してから現地に送り、主に開拓民としての訓練を受けさせている。
一方で中等学校の卒業生を大東亜建設挺身隊として組織し、普通の中学校の卒業生は文化の方面を担当し、実業学校の卒業生は産業の方面を担当し、文化・産業建設挺身隊を組織したらどうか。彼らに皇軍としての組織を与えることが重要である。皇軍としての自覚の下に、神明に誓って大御心(おおみこころ)に副い奉る挺身隊を組織したい。彼らは第一に、日本による大東亜での産業指導や文化指導の挺身隊として働く。第二に、実業教育や中等教育の教育「錬成」を軍の形で半ば現地で行い、文化建設や産業開発に当たりながら、文化・産業に関する知識技術を(彼らが)教わる。第三に、文化・産業に関して原住民に教育活動を行う。それほど高い教育を与える必要はない。(米英と変わりがないのでは?)
結局「正しい日本人」の錬成に大東亜建設の成否がかかっている。
以上
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