「国民学校教育とその用語」奈良女子高等師範学校附属国民学校主事 武田一郎 1943
感想
・国民学校教育の狙いは、教科を「錬成」・実践・「行」とみなすことであり、教科指導を教室内のものとせず、教室外のものと考える。236この考え方は絶対におかしい。教科指導の全てを実践と関連づけることには無理がある。
・上から決められた法に忠実で、国民学校の教師である自らを「実際家」と称す。つまり上から言われた通りのことを忠実に行うという意味である。229
・筆者の根柢には主知主義、個人主義的人格論などに対する批判があり、生徒の興味や個性、自発性、自律性に反対し、それらの言葉を国民学校教育の精神に合うように再定義せよと提案する。238
・本論はWikiにおける著者生年1899年からすれば、筆者が43歳のころのものである。また筆者は1973年に74歳で亡くなっている。
Wikiによれば、
武田 一郎(たけだ いちろう、1899年9月21日 - 1973年12月23日)は、日本の教育学者、教育行政家。
来歴
北海道出身。東京文理科大学卒。奈良女子高等師範学校教授。戦後は文部省視学官となり教育行政に携わる。後、お茶の水女子大学附属小学校長。1964年定年退官。お茶の水女子大学名誉教授。北海道学芸大学学長、十文字学園女子短期大学学長。
奈良女子高等師範学校附属小学校主事 1940年 - 1941年
奈良女子高等師範学校附属国民学校主事 1941年 - 1947年
お茶の水女子大学文教育学部附属小学校長 1952年 - 1957年
北海道学芸大学長 1957年 - 1962年
十文字学園女子短期大学長 1966年 - 1973年
著書 戦前の論文は一切伏せ、アメリカの教育を紹介している。思想の一貫性や反省よりも生活者としての立ち回りが上手だと言うべきか。
『学校学級経営の基本問題』牧書店 1949
『アメリカの小・中学校はこうやつている
学校・家庭・社会』フェニックス書院 1950
『指導主事の職能 教育的助言指導』学芸図書 1952
共著・編
『小学校特別教育活動の実際 教科外活動』編
明治図書出版 1951
『学校行事の新しいあり方』重松鷹泰共編 東洋館出版社
初等教育新書 1953
『教師の教育活動と管理活動』海後勝雄共編
東洋館出版社 初等教育新書 1954
『教員必携』柴沼直共編 学陽書房 1954
『安全教育 学校は児童の安全をどのように守るか』編
東洋館出版社 1956
『改訂指導要録の記入法』岩下富蔵共著 明治図書出版 1956
『改訂小学校の家庭科 新指導要領具体化のために』共著
明治図書出版 1956
『教育技術講座』全6巻 共編 明治図書出版 1957
『教科学習と道徳教育』編 金沢書店 1957
『現代教育評価法 その理論と技術』辰見敏夫共編
明治図書出版 1958
『小学校教科学習と道徳教育』編 半沢書房 1958
『明治図書講座教科経営』宮田丈夫共編 明治図書出版 1958
『家庭百科大事典 第4 育児・教育』共著 暁教育図書 1966
『家庭教育講座 第5 子どもの健康・安全のしつけ方』共編 暁教育図書 1967
要旨
229 過去1年有余の(国民学校主事としての)経験に反省を加え、教育の実際に関係する用語を中心に考察する。
国民学校教師の第一の指針は、国民学校関連法規と国民学校の各種教科書に示される教育の精神・内容である。(教育の)実際家はこれらに示された用語を忠実に実践するように心がけている。(小学校から)国民学校になってから初めて用いられるようになった言葉や、従来の言葉に修正が加えられた言葉には異常に緊張して関心を持ち、その用語の精神を実践して国民学校教育の特質を発揮しようとしている。その用語の解釈は教育の性格を決定するから、その用語の意義を闡明することは極めて大切な仕事であると信じる。
230 国民学校令第一条に「錬成」という語が使われているが、その「錬成」は「教育の方法を示すもの」と解釈された。錬成は練磨育成と解釈され、鍛練的・徹底的教育という語感を持つ。錬成が国民学校教育の基本的方法原理として示されたことにより、国民学校教育が強さや逞しさを持つようになった。「錬成」は従来の教育を矯正し、歴史の大転換期において世界史的重大使命をもつ大国民を育成する上で極めて適切な方法原理である。(軍人の育成に好都合ということか)
現状では錬成の内容・程度は区々であるが、錬成は心身一体の錬成であり、国民的資質・国家的人物の錬成でなければならない。錬成の意義の解釈とその実践の方法・程度は今後の大きな研究課題である。
錬成されるべき国民的資質の中身が国民学校制によって明瞭にされたが、その錬成教育の内容を分節したものが国民学校の教科である。国家は児童に教科の内容を修練体得させ、皇国民としての資質を錬成しようと期待している。教科科目の内容は教室内で観念的に注入されたのでは果たされない。「学習は同時に行である」ことが強調される。
231 国民的性格の形成は教科学習を通して形成されるが、その際、客観的財が受容されて体験が拡大深化される場合と、体験内容が客観的に表現される場合とがある。前者は客観の主観化であり、後者は主観の客観化である。そしてこれらは時間的に継起するのではなく、一つの形成作用の両面である。この形成のはたらきは具体的な「行」として不断に進行する。「行」としての学修を通して、具体的・実践的・創造的な国民的性格を陶冶することができる。これは国民学校の教科指導の最大の使命である。このような行的修練を徹底するために、国民学校の教育では、教育の方法的機能としての教授・訓練・養護の一体化が叫ばれ、儀式や学校行事も教科と併せて一体として行うことが必然的に要求される。
これと関連して国民学校令施行規則第三十一条に「各教科及科目の毎週授業時数外に於いて、毎週凡そ三時を限り、行事や団体訓練等に充てることを得」とある。この条文は国民学校になって新しく規定されたので、非常な緊張と関心が向けられている。この条文の中の「行事」は施行規則第一条の「儀式、学校行事等を重んじ云々」の中に含まれるべき「行事」であるが、原則的には、教科・科目のように毎日行われるべき性質の行事である。それは毎朝の朝礼や宮城遥拝のようなものである。これらが教科外施設である。全国の国民学校はその実施に非常な工夫・努力をしている。国民学校教育の特色がこの教科外施設であると誤解する人もいるほどで、教科外施設の内容として専ら実践的・修練的のものが計画され、国民的訓練上価値ある施設が行われている。例えば宮城遥拝は国民精神の昂揚上意義あることであり、団体訓練は従来の個人本位の教育の弊害を是正し、今日の世界史的転換期に億兆一心の性格を形成する上で極めて重要な意味を持つ教育施設と考えられる。
232 教科外施設は一見普通の教科・科目の授業形態をしていないため、行事や団体訓練は教科ではなく、教科外教育施設とみなされている。国民学校になってから儀式や学校行事などが重視されるようになった。行事や団体訓練を教科課程の時数外に行えることになったことから、これらの施設に国民学校の一大特色を見出そうとする心理が生じ、行事や団体訓練などの教科外施設が増加したと言われる。
しかし教科外施設が増加するのはいいが、反面教科指導が低調になるのは警戒すべきである。児童が団体訓練時には緊張し、動作も逞しく、瞳も輝いているのに、教科の時間になると活動が鈍ることが多いと見たり聞いたりするが、これは警戒すべきことである。
国民学校の教科は皇国民を形成する教育内容の大分節であるから、国民学校ではひたすら教科を徹底的に指導すればいい、皇国民として必須の資質の錬成を内容とする教科の学修が、行的修養として児童によって体得され、実践されれば、他に何もすることはないのではないか。
教科外施設が教科とは別の大系だと考えられ、いくつかの教科外施設が教科と併さり一体となって経営されると解釈すると問題が生ずる。教科外施設が教科指導とは別の独立した体系をもつとすると、二つの難問に遭遇する。
233 第一の難問 国民学校制の特徴は国民の統一的教育である。国民学校制が施かれてから私立の国民学校は認められなくなった。小学校時代には体操・裁縫・手工・唱歌(尋常小学校第四学年以下)では、児童用図書を採定できなかった。国語・書き方・算術・理科・家事・図画の教科用図書や小学地理付図などは、学校長の意志で児童に使用させなくともよかった。しかし、国民学校になってからは児童用と教師用の教科書が編纂されるようになった。施行規則第三十九条は「教科用図書を解釈したる図書(自習書か)、もしくはこれに類似したる図書は、児童に使用させてはいけない」とし、国民教育の統一に細心の注意を払っていることがうかがえる。
教科外教育施設が、国民教育の統合体系としての教科とは別の独立した体系であるとし、教科外施設の内容的基準がなく学校長の意志で決定されるならば、国民の統一教育が歪曲される恐れがある。さらに教科外教育が国民学校教育の特質であると誤解するなら、一層警戒反省を必要とする。
234 第二の難問 教科外教育施設が教科とは別系統に考えられるならば、実践的修練を主な内容とする教科外施設としての行事や団体訓練が充実増加すれば、教科は軽視され、偏知的注入的教授で満足せねばならなくなるだろう。警戒すべきである。
以上、教科外施設が教科とは別体系であると考える場合に生ずる理論的難点と警戒すべき実情について反省した。私は教科外教育施設である行事や団体訓練等は、教科指導の実践的修練機会であると解釈するのが妥当だと考える。施行規則第三十一条は「各教科及科目の毎週授業時数外に於いて」とし、「教科外」とはしていない。毎日の行事である朝礼や宮城遥拝は、国民科修身等で指導した事柄の実地修練であり、また団体訓練に関しては、施行規則第十一条の体錬科体操の指導要旨の中で「体錬科体操は体操、教練、遊戯競技及衛生を課し、心身の健全なる発達を図ると共に、団体訓練を行い、規律を守り、協同を尚ぶの習慣を養うものとす」としている。体錬科体操での団体訓練と、毎日教科課程の時数外で行う団体訓練とでは、方法や内容が異なるところがあるが、団体訓練の目的・価値は異ならない。平日の行事として行われる団体訓練は、教科外ではなく、体錬科体操が別な時と場所と形態で発展的・拡充的に修練されるものと解すべきである。その他の修練行事についても同様に考えられる。
235 教科の課程時数外に行う教育施設は、教科と外部的に連絡するのではなく、教科指導の内面的発展の修練施設として理会すべきである。現時、教科指導は征戦目的の完遂や大東亜建設の国民的性格の錬成に焦点を当てるべきであり、学校行事もこの点に集中すべきである。毎日行う行事・修練や団体訓練だけでなく、すべての学校行事が、教科と併せて一体と考えるよりは、教科学習の綜合的修練の機会として考えるべきである。運動会、学芸会、奉仕作業、慰問文発送などは、教科学修の修練の機会である。実践的修練が教科指導の機会であると考えることによって、教科は単なる学問的分科ではなく、皇民資質の錬成内容を正当にも分担するものとなる。儀式についても同様である。初等科一年と二年の国民科修身に「天長節」の教材があるが、児童は学校での儀式を体験することによって、この国民的行事に関する教材を理会できる。天長節に関する指導は、学年が進むにつれて高次になる必要がある。儀式の仕方や学校行事は、教科指導の観点から再吟味・再組織されるべきである。国民的性格の内面的統一を成就しなければならない。今日行事について一般人が理会する態度を考えてみる時、そのことを痛感する。(どういうことか)
236 私は教科指導が教室(学校)外に始まって教室(学校)外に終わるべきだと考える。学校を中心に家庭・社会を一聯とした児童の全生活環境が教科学修の場を構成し、教授・訓練・養護の三つが一体となって修練させることが、国民学校経営の方法技術である。従来主知的教授学に基づく教授段階論*の影響に煩わされて、授業は教室内で行うものと考えられ、皮相的知識を授けることで満足した。性格形成の原理から言えば、実地に行い表現することは、単なる知識の応用ではない。実地に行い生活することによって具体的な知識が得られるのである。国民学校教育はこの点を重視する。従前の小学校令施行規則第二条は修身科の授業要目を規定し、「修身は教育に関する勅語の旨趣に基きて児童の徳性を涵養し、道徳の実践を指導するを以て要旨とす」としたが、国民学校令施行規則第三条は「国民科修身は教育に関する勅語の旨趣に基きて国民道徳の実践を指導し、児童の徳性を養い、皇国の道義的使命を自覚せしむるものとす」とし、徳性の涵養から道徳の実践へ進むのではなく、道徳の実践から徳性の涵養に進むべきだとしている。このように行的修練を重視する傾向は修身だけでなく、各教科科目でも強調されている。理数科理科の教科書はこの点で進歩している。実践的な行動を重視する教科の指導は、教室内の教授だけでは果たせない。学校を挙げて修練の場・道場とすべきである。「道場」という言葉も国民学校の性格を示す力強い用語である。世間はともすると「道場」を特殊的・一方的に解釈する傾向があるが、国民学校が道場と言われるための条件は、皇民錬成の教育内容を分担する教科学習が、行的に修練体得される場かどうかである。
237 以上、国民学校教育では教科を第一にして全一的な行動的・実践的教育をすべきであるとする意図から述べた。
*教師中心主義だが、ヘルバルトとその弟子ラインは四(五)段階教授法を唱えた。
国民学校の道場的性格から学校経営が厳粛性を帯びてきて、学校長を中心とした全校教育精神が確立され、師弟道が昂揚された。我が国教学の本義に基き、随順帰一の人格修養が叫ばれているが、ここに教育法論上の新たな問題が生じた。
従来の教育学上の第一原理として「自発性」の原理がある。嘗ての誤った個人主義的人格論を背景とする自発・自律の原理が教育理論の核心や前景に立つものが多かった。またこれと一聯の関係の下に解釈された教育学上の用語で従来から使用されている「興味」や「個性」がある。これらの用語は新しい教育ではどんな意義が付与され、教育学上どのように位置づけられるべきかという問題が生じた。
238 この問題が単に名目上の観念的抽象論に過ぎないという考え方は間違っている。国民学校になってから従来の「教授案」や「教案」が「授業案」に改められた。このことは教育実際家が、国民学校教育における用語の中で特に国民学校になってから初めて造られた言葉や、従前の用語に修正を加えられた用語に関心を持つ場合の一例である。
教育実際家の一部には教師中心の教育となった今日、「自発・自律」や「指導案」のような児童中心教育時代の用語は抹殺すべきだと言う人もいて、その結果、授業が注入的になる傾向が生じた。「注入か啓発か」の問題は過去の教育史上で既に清算されたようだが、今日また以前とは異なる観点から新たな問題として台頭した。
近時「国民的人格」と言われるが、これは誤った個人主義的人格と区別して、皇国民としての主体性を表そうとするものである。「自発・自律」という用語も、その意義の修正や教育理論上の位置づけを新たに考えるべきである。「個性」や「興味」も正しく理解される必要がある。(尻切れトンボ)
239 教育用語の解釈は、正しい世界観に立つ教育観が確立され、それに基づく教育理論が構成されることによって可能となる。国民錬成の教育哲学が確立し、重要な用語が正しく解明され、それが教育実際家に正しく理会されて国民学校教育が本道を進むことを念願する。(無内容)
以上
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