追悼 石川一雄さんに再審無罪を!市民の集い 2025年4月5日(土) 市民プラザかぞ
「北埼玉地区狭山裁判を支援する市民の会」会長生方 3月13日、石川一雄さん逝去の2日後、東京高裁前に自然発生的に全国各地から人々が集まり、抗議集会が開催された。差別が冤罪を生んだ。黒川みどりさんのはからいで、徳田靖之弁護士を遠路九州から招くことができた。
黒川みどり 静岡大学名誉教授
去年2024年4月6日の加須集会に、石川早智子さんと私が参加した。
2023年6月の石川一雄さんの歌「吾が黄泉は 遠方にあらず 冤罪晴れず 天に逝けずや」
私は石川一雄さんから聞きり、それを岩波書店から『被差別部落に生きて』として刊行した。また2025年4月8日発売の岩波書店『世界』5月号に、追悼文「「見えない手錠」を今から外す」を載せた。
久留米事件 2024年7月31日、久留米市教委の教員向け夏期講座で私は講演した。午前の部で、私が用意した資料が配布されていない(資料持参禁止)ことに気づき、私は午後の講演をボイコットした。配布されなかった理由は、私が資料の中で、狭山事件や(部落の)地名、「穢多らしい特色」、「新平民」ということについて触れたからであった。市教委は「(私の資料を配布しないことは)故意ではない」と嘘をついた。
また久留米市内の某小学校の教頭が、部落問題に関する授業後の子どものノートに「穢多」という言葉が書かれていることを発見し、その後、児童のノートを集めて教員らがそれを消去した。理由は「穢多」が賤称(せんしょう)語であるということであった。しかし「穢多」は歴史用語である。
また市教委は「中立の立場」だから、狭山事件は冤罪ではないとする。
2025年3月27日28日、私は沖縄県読谷村在住の彫刻家金城実氏を訪問した。金城実氏が1976年or1977年頃、大阪の住吉でつくった狭山差別裁判闘争のレリーフ(おがりや像)の中の「狭山差別裁判」の文字を削れと、沖縄某市の隣保館から言われた。
徳田靖之弁護士 1944年生。別府在。
狭山闘争の市民の力から学びたい。
2024年6月17日、私は立教大学で石川夫妻と面会したが、石川一雄さんとは再会であった。というのは、私は1967年に司法試験合格後の研修期間中に、石川裁判を傍聴していたからである。それは筆跡を問題にしていたと記憶する。
石川一雄再審請求審で18年間も裁判所は放置した。(動きがなかった。)真面目さが感じられない。また、石川さんが亡くなったことに接しても、裁判所からはお詫びの言葉もなかった。
明治40年、ハンセン病の隔離政策が始まった。「無ライ県運動」が市民を巻き込んだ。つまり人々に(ハンセン病罹患)容疑者を保健所等に通報させ、役人がライ収容所への入所を勧告し、当該家族は村八分にされた。その家族は修学旅行では押し入れに寝させられ、学校での配布物の配布の仕方も、接触を避けるやり方だった。そして戦後特効薬ができてからも、それが継続された。
ハンセン病の人がFさんを含めて4人いるとされ、役人がFさんの家にやって来た。殺されたAさんも、そのうちの役人の一人だった。そしてAは県に報告した。Fには病気の自覚がなかったが、様々な病院で診察してもらい、熊本大学では「病気ではない」とする診断書をもらった。家族は祝賀会を開き、県に抗議した。すると県は「菊池恵楓園の医者にも見せろ」と言った。その結果は「軽いハンセン病」だという。
Aはダイナマイト爆破で脅された。Fは殺人未遂の罪を着せられた。Fがアリバイがあると無実を主張したが、懲役10年の判決となった。無実でも有罪でも、ハンセン病患者とされたFは菊池清風園に収容された。
ところがFさんは20日後に逃亡した。Aが刺されて死亡した。それは警察の大失態だった。警察の失態は大きい意味をもつ。何が何でも犯人を捜し出そうとする。
ハンセン病者は1970年以前は裁判所で裁判されなかった。95件が「特別法廷」で裁かれ、それを最高裁が容認した。
Fの裁判時に、検察側が出した100点の有罪証拠が(すべて)採用された。国選弁護人はそれに異議を唱えなかった。Fさん本人は無罪だと主張したが、国選弁護人は「何も言うことはありません」とFさんの無罪主張に反することを述べた。
Fさんのおじさんやおばさんは、警察に虚偽の証言を言わされた。
第三次請求審が棄却されると、Fさんは福岡に送られ、その直後に、部屋に入れられることもなく、死刑が執行された。病人を入れる部屋がなかった。
Fは近所の小屋に隠れていた。警官がFに向けて拳銃を2発発砲した。腕に命中した。近所の内科医は手に負えないといい、遠くの外科医に回されたが、そこではレントゲンもとらず、入院もさせられず、すぐに警察で取調べが行われ、10ページ分の「私がやりました」という調書を取らされた。鎮痛薬=麻酔薬を2回注射される中でのことだった。
Fさんはその後否認に転じた。
最初凶器とされたものは草刈鎌だったが、それでは傷跡との整合性がないとされ、後で短刀に変更された。証拠が捏造されたのである。草刈り鎌では九州大学での鑑定と齟齬をきたした。
またAは大量出血したのに、短刀には血痕がついていなかった。警察はそれを「近くの池で洗った」とし、裁判官もそれを認め、「こう説明すれば矛盾がない」として済ましてしまう。
短刀は、親戚の小屋に立てかけてあったのが発見されたが、そんなことはあり得るのだろうか。
7/7、事件
7/9、短刀発見
7/12
8/26、「これはあなた(親戚の某)の短刀か」 熊本大学に見せる。
8/30
7/7、殺人事件 親戚取り調べ 親戚は当初は警察に非協力的だったが、
おじさん所有の小刀が、銃刀法違反だとして、おじさんが逮捕された。そして警察は「おじさんを犯人にするぞ」と脅した。その後親族の証言が変遷した。大叔母は「Fが訪ねて来て、『あいつAをやってきた』とFが言った」と、警察に言わされた。そして「これで殺したのだと思います」
7/9、「いままで嘘をついていた。Fは訪ね来た。『これで殺した』とFは言った。それはピカピカ光っていた」という証言が取られた。
しかも警察は念を入れて、
7/11、その証言を裁判官の前で宣誓させた。それはその証言を今後覆すと偽証罪に問われるという脅しであった。
「ピカピカ光っていた」という証言と、「白い布で覆われていたが、多分短刀ではないか」という二人の親戚による証言は明らかに矛盾している。またその後も、
7/6、小屋のなかの刀が凶器ではなくなる恐れが出てきて、さらに、おじや伯母の証言は変更させられた。
それでも裁判所の発想は、「細部がおかしくても、核心部分は揺らいでいない」と、おかしい部分を問題視しない。
Fさんも石川さん同様に獄中で文字を覚え、短歌を作った。優しさに溢れる短歌である。「澄み渡る空の青さよ 真実の再審を寄せよ 我は祈る」
裁判所の問題点は差別裁判と死刑制度にある。その闘いである。裁判所を変えて行かなければならない。「特別法廷は人権を守ったのか」という要請書を、私は最高裁に出した。すると最高裁は、間違いを認め、談話を発表し、謝罪した。私は今も熊本地裁で闘っている。
狭山裁判は、石川一雄さんが亡くなったことで、早智子さんに引き継がれず、また最初からやりなおさねばならない。そして再審請求審は非公開である。けしからん。
某出席者から
狭山事件の時、「組長署名」をやった。栃木県栃木市大平町の国道50号線沿いに、吉田石松の碑文がある。
以上
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