木村亨 横浜事件 横浜事件とは神奈川県警事件とも言える。
前段
1936年12月、小林陽之介が立命教授の大岩誠とともに逮捕された。小林陽之介は「在独中にドイツ共産党員であった」ことから治安維持法違反とされ、大岩誠も「在欧中1930.5—1933.1のフランス共産党員としての活動」が治安維持法違反とされた。小林は1936年夏「コミンテルンの新方針である人民戦線を展開する使命を以て帰国した」とされた。
その後、1930年代前半に欧州留学中に左翼運動に関係した知識人が1936年、37年ごろに取調べを受けた。
米国共産党事件
1942年9月、「米国で共産主義運動をしていた」川田寿*とその妻定子が逮捕された。川田寿は1930年に渡米してから当地で定子と結婚し、1941年1月、米国から帰国し、外務省と関係の深い世界経済調査会に就職した。川田は横浜入港時に多数の左翼関連文献を持ち込んだと言われる。当局は拷問して苛酷な取調べをしたが、日本共産党再建の事実は見つけられず、米国での共産党活動だけが犯罪とされた。
*Wikiによれば「川田寿は米国で労働運動を研究し、反戦運動に加わった」とあるが、共産主義運動をしていたとは書いてない。
ソ連事情調査会事件
次に川田寿の勤務先の世界経済調査会でソ連の研究をしていた益田直彦、高橋善雄が1943年1月と5月にそれぞれ逮捕された。世界経済調査会と満鉄東京支社を舞台に、左翼グループ「ソ連事情調査会」があるとされ、満鉄関係の平館利雄、西沢富夫が逮捕され、さらに翌1944年春、満鉄上海支所の3人が逮捕された。
泊会議 泊事件 「細川嘉六を中心とする所謂党再建準備会なる非合法グループ事件」
1942年9月、警視庁が細川嘉六を雑誌『改造』昭和17年8、9月号に掲載された細川の論文「世界史の動向と日本」が共産主義を宣伝したという容疑で検挙した。陸軍省報道部長・谷萩那華雄大佐がこれを共産主義を宣伝したと問題視した。本来は出版物だから新聞紙法違反とすべきであるが、治安維持法違反とされた。
満鉄関係の平館利雄、西沢富夫から押収した写真に写っていた人々をことごとく捕まえて拷問し、2人が亡くなったそうだ。何がなんでも検察の筋書き通りに自白させる今の冤罪警察の始まりとも言える。
この写真を契機に細川嘉六は警視庁から神奈川県警と横浜検事局に移送された。写真は細川の論文『植民史』を東洋経済新報社から出版したとき、1942年7月、細川の郷里富山県泊町に出版関係者とその他の友人を招待し、会食したときの記念写真である。これが共産党再建準備の謀議とされた。
2023年12月19日から24日までのギャラリー古藤で開かれた展示会の主人公・木村まきさんの夫の木村亨さんはその写真に写っていた人の一人で、中央公論社の人。警察は中央公論や改造をよく思っていなかったようだ。また世界に目を向けることも嫌っていたようだ。
木村亨の他に、相川博(元改造社)、小野康人(改造社)、加藤政治(東洋経済新報社)および西尾忠四郎(満鉄東京支社)が検挙され、計8名となる。
次に、細川嘉六やソ連事情調査会の取り調べの過程から、アジア協会の新井義夫が浮上し、1943年7月に逮捕された。
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