2022年5月15日日曜日

「二重言語の問題と朝鮮教育」京城帝国大学教授 田花為雄

 「二重言語の問題と朝鮮教育」京城帝国大学教授 田花為雄 1943

 

 

感想

 

 朝鮮はその独自の言語ばかりでなく民族性をも捨てて日本人(優秀な皇国民)に成り切れと筆者は言う。朝鮮人蔑視に基づく朝鮮民族性の絶滅を唱える、優越的で人種差別的で極端な論文である。

 戦後は西洋教育史に逃げ場を求めたようだが、朝鮮教育史を扱ったもの(『朝鮮郷約教化史の研究(歴史編)』昭和471972年 鳴鳳社)がわずかながらある。

 

感想

 

・国(文部省)は二重言語の弊害を無視していた。166

・本推論は統計(テスト)に基かず、朝鮮教育経験者の話と筆者の内鮮生徒の調査に基づく。158

 

 

Wikiには田花為雄の項目がないが、田花為雄に関するサイトがいくつかある。

 

「日本の古本屋」によれば、

 

『哲学論集 京城大国大学法文学会編』昭和51930年 刀江書店 解説 島本愛之助、秋葉隆、黒田亮、金子光介、赤松智城、田花為雄、福富一郎、速水滉、宮本和吉、松月秀雄、安倍能成

 

『西洋教育史研究 廿世紀初期の独逸』昭和31年 新思潮社 

『大阪大学文学部創立十周年記念論叢』昭和341959年 三池書房

『ガウデイヒ派教育学』昭和371962年 新思潮社

朝鮮郷約教化史の研究(歴史編)』昭和47年 鳴鳳社

『西洋教育史ノート』全4冊 昭和49年 所書店(書房)、昭和53

『西洋教育史ノート 3中世後期教育学他』昭和53

『言詠観帖』昭和54

『巡礼感想抄』昭和541979年 大協

『西洋教育史ノート 4ルネサンスの帝王学他』昭和55

 

PayPayフリマによれば、

 

『教育原論』昭和421967年 所書店

 

上智大学によれば、

 

『ギリシャ・ローマの教育思想』(教育思想史Ⅰ)昭和591984年 上智大学中世思想研究所編集 東洋館出版社 共著 田花為雄は「クインティリアヌス」担当

 

大分大学の鈴木篤によれば、

 

田花為雄(18968月山形県生,1983  7  19 日没)東京帝国大学文学部 1922 年に卒業し,同年,千葉県女子師範学校に勤務した後(退職年不明)熊本県女子師範学校での勤務を経て,京城帝国大学の助教授(1927  7  6 日から 1929 *まで)および教授(1930 *から 1945 年まで)埼玉大学教育学部の教授(1949  6 月から 1952  4 月まで)ならびに弘前大学教育学部の教授(期間不明,1950 *の在職を確認)を経て,大阪大学文学部の教授(1952  4  1 日から 1960  3 月まで)に着任した。定年後,青山学院大学文学部(1963 *から 1965 *まで)ならびに芦屋大学教育学部(1966*から1976 *) において教授を務めている。

1962  2  1 日には学位論文「ガウデイヒ派教育学の研究」により大阪大学から文学博士の学位を授与されている。

著作には『西洋教育史研究:廿世紀初期 独逸』(新思潮社,1956)や『ガウデイヒ派教育學』(新思潮社,1962)などドイツの教育史や教育思想に関するもの,論文「兒童福祉運動に対する学校の協力」(『教育学研究』,1950)など 福祉と教育の関係に関するもの,論文「教師苦悩と学級規模」(甲南大学文学会論集』,1960) など具体的な教育問題に関するもの,論文「李朝仁祖王代の郷約教化(『朝鮮学報』,1968)や『朝鮮郷約教化史の研究』(鳴鳳社,1972)など朝鮮教育史に関するものなどがある。

 

 

要旨

 

155 朝鮮の教育について何か発表するようにという話があった。朝鮮における朝鮮人の教育は国語(日本語)で行われているが、彼らには母語としての朝鮮語があり、彼らは二重言語の下に置かれている。西洋の言語教育研究や学説の中に二重言語に関するものがある。その角度から見ると、朝鮮教育についてどんなことが言えるかについて述べるが、その前に二重言語の問題に関する研究や学説から必要な点だけを述べておく。

 

 二重言語の影響は二方面に見られる。第一は客観の側への影響、則ち言語の形式的方面に対する影響であり、第二は主観の側への影響、即ち被教育者の心意の発達に及ぼす影響である。

この第二の影響は発達が阻害される影響であり、その度合いには多くの段階があり、軽微な影響から深刻な影響(荒廃的影響)まである。また二重言語は多くの原因の中の一つである。

 

 第一の形式的方面の影響は言語の不醇(純)化である。日本人にとっては国語(日本語)が不純化するという問題、被教育者(朝鮮人)にとっては「ほとんど無害である。」(これは事実誤認ではないか。)これについての詳細はここでは省略する。

 第二の心意の発達に及ぼす影響は、「人間財」あるいは「人的資源」の粗悪化である。

158 ただしこの点に関して明らかでないことが二つある。第一は心意発達に及ぼす阻害的影響が一時的かそれとも永続的かが明らかでないことである。私は一時的と思うが、論者によっては永続的と考える人もいる。この問題は軽微な影響か深刻な影響かという問題と同根だろう。第二の不明な点は、二重言語が問題の原因の一つであるとされるが、他の原因と二重言語の原因との比重はどうかが明らかでない。(明らかでないとここでは言っているが、後で筆者は自説を断言している。)

 

 私は代表的な学校で調査し、一言語者としての内地人児童生徒と、二重言語者としての朝鮮人児童生徒とを比較した。テストはしていない。それは計数が種々の誤解を導く恐れがあるからである。また朝鮮の教育に経験のある人々の所見を集めた。本日の報告はその経験者の所見を根幹とし、それに私の所見を加えたものである。

 

159 一、朝鮮人の児童生徒が内地人の児童生徒と比較して知的発達が遅れるかどうかという問題であるが、国民学校の児童については遅れるとする人が多く、中等学校では遅れないとする人が多かった。そして国民学校で遅れるのは初期に著しい。

 少数意見の中に、知識の広さと知力や知能の発達度とを区別すべきだが、(朝鮮人児童生徒の)知識の量は劣るが、知能は劣らないとする意見があった。また知能の低さと知的発達の遅滞とを混同してはいけないとする人もいたが、それは尤もな意見である。

 二重言語が知的発達が遅れる原因だとする人が国民学校では多いが、中等学校では無関係と言う人が多いし、無関係とまで言えないまでも微々たるものとする人もいる。また国民学校では影響が後まで残らないとする人がいるが、これは中等学校では発達が遅れないという意見と相符合する。

 知的発達が遅れる原因を二重言語以外に求めたものの中で、文化的社会的環境を指摘する人がいた。

160 結論として、(二重言語による)知的発達の遅滞は国民学校の初期に多いが、二重言語による知能の発達は阻害されず、知的水準が低いのは(朝鮮の)文化水準の低さによる。(威張り腐っている)

 

二、中学校側の所見の中に、国語学習が知的発達を促進するとするものもあった。このことを道具としての言語(日本語)が完備したことや、形式(言語のことか)が陶冶されたことなどから考察することができる。(意味不明)私の調査では、国民学校6年生では全科目が優秀な者は国語も優秀で、中等学校では全科目優秀な者は国語も概して良いが、必ずしも相関しない。逆に国語が優秀な者は、国民学校6年生では全科目優秀であるが、中等学校では全科目優秀な者が少ない。従って国語習得の程度が他の学業に促進的であるとは言えない。

国語の優秀な者は国民学校6年生でも文科的科目では多くが優秀だが、理科系科目や芸能科では相関しなかった。高等女学校ではその傾向がさらに強い。中学校でもほぼ同様である。国語の能力は文科的能力のうちの一つである。国語学習が文科的分野の能力に促進的かどうかはまだ調査していない。

 

161 (分析力や総合力などの)形式陶冶について、ゲシュタルト心理学の影響でこの問題の考え方に変化がもたらされたと言われるが、外国語の形式陶冶性能は認められている。(意味不明)日本語の形式陶冶性能についても、思考における分析力や綜合力は二重言語に関して問題とされているが、(二重言語によって)分析力が向上したと見えるのは、実は二重言語の知性に及ぼす阻害的影響の一つとされている。(意味不明)

 朝鮮人児童生徒は、国民学校と中等学校のいずれでも、内地人児童生徒に比べて分析力に長じているが綜合力では劣っている。その原因は、国民学校では、二重言語ではないとする人が多く、また中等学校でも、二重言語との関係は認められないと指摘する人が多い。

 

 三、朝鮮人児童生徒の感情生活と二重言語との関係について述べる。朝鮮人児童生徒は内地人児童生徒に比べて感情が「分裂」しやすく、気分の動揺する度合いが大きいと言える。(偏見)その原因と二重言語との相関関係を信ずる人はほとんどいない。

 朝鮮人教育の経験者の所見が二重言語原因説に傾かない理由は、(感情分裂や気分動揺の)原因だと信じさせられる理由を他に見せつけられているからである。それは(朝鮮人の)民族性や、家庭教育の欠如、家庭の雰囲気の不良、修養の欠如などである。(偏見)

162 四、感情への影響が身体にも拡大し、運動生活が「特色的な」変化を受け、運動・動作が抑止され、不正確になる。この傾向は中等学校の朝鮮人生徒ではさほど認められないが、国民学校の朝鮮人児童では大体認められる。従って一時的な影響はあると言える。しかしこのことは二重言語とは無関係である。ただし、国民学校の鮮人児童の律動運動が拙劣である原因を二重言語であるとする人もいたが、これは西洋の研究者と一致する。

 その原因が二重言語でないとすると、民族性や生活様式、習慣、風習によるとするのが、朝鮮人教育の経験者の衆口一致の見解である。(蔑視)これを教育的に表現する人は、幼少の時からの体育の不徹底が原因だとする。

 朝鮮人教育経験者の中には、国語が巧みな者は動作も円滑になり、朝鮮人らしさが少ないと言う人がいるが、私の調査でも高等女学校の生徒では、国語の優秀さと運動の優秀さとが相関する。(偏見)

 

 五、朝鮮人児童生徒は内地人児童生徒と比べて評価や態度に一貫性がなく、その時々の社会的情勢によってその態度が左右されるが、それは国民学校・中等学校を通して例外なく認められる。

163 その原因は二重言語ではなく、歴史的民族性であるとするのが(朝鮮人教育経験者の)一致した見解である。

 

 六、評価や態度の一貫性のなさが宗教生活に及ぶとしても、朝鮮には「正しい意味」での宗教はなかったとする人が多かった。

 朝鮮人教育経験者は、国語を習得した者が不信仰であることを否定し、却って敬虔であり、信仰的であり、信仰を増しているとする。

 

 七、国民学校・中等学校を通じて、鮮人児童生徒は内地人児童生徒と比べてより多くの性格的な動揺や欠陥があるが、その原因は二重言語ではないとする見解がほとんどである。ただし宿命的でなく将来に光明を望んでいる見解が多かった。朝鮮人の「生活」が全ての点で過渡期にあるからである。(程度が低いと言いたいのだろう)

 

164 八、ドイツではラテン語を学習すると生徒は学年が進むにつれて生新・溌剌・闊達の気象・気風を欠くようになり、これは二重言語の影響とされている。私はこれは負担過重のせいではないかと思った。鮮人児童生徒の場合も、二重言語の影響はないとする意見も少数あったが、影響があるとする者が多かった。

 

 以上の通り、二重言語とは無関係とするものがほとんどあり、その原因は民族性、早熟・早婚の結果、社会環境、伝統的風潮と見るものが多い。また中には小乗的民族意識によるという者もいた。

 

 九、鮮人で国語を習得した者(二重言語者)とこれを習得しない者(一言語者)との差異についての資料は入手できなかった。

 

 結論として、知情意の発達や身体運動と二重言語との関係と、それ以外のものに関して述べる。後者は本問題の範囲外であるが、重大なので述べる。

 

165 結論第一 知的発達では(国民学校の)初期には影響が認められるが、それは一時的で、永続的ではない。全体に知的水準が低いのは一般の文化水準が低いからである。感情生活や身体運動に対する影響も初期には認められるが、前述の場合よりも軽微であり、一時的である。その他の点では二重言語に起因する影響は全く認められない。

 朝鮮に於いては二重言語の阻害的影響はほとんどない。何が原因でこの程度に食い止められているのだろうか。それは仮定を含むから断定しないが、様々な原因があるのだろう。鮮人の素質、特に言語の才能、性質の淡白さ、気さくさ、国語学習の意欲旺盛、教育意欲の旺盛などが考えられる。また朝鮮人児童生徒の並々ならぬ努力とともに、その努力や意欲を害せずに育て上げる雰囲気、その雰囲気を醸成する社会情勢、教育者の教育力などが挙げられる。国語と朝鮮語との言語上の近似性を根拠にして国語学習が比較的に容易であることが、阻害的影響が皆無である理由であるという意見もあった。私は国語学習の開始時期が原因であると思ったが、それを裏付ける手掛かりは朝鮮人教育経験者の意見や私自身の調査からも得られなかった。

166 この結論から言えることを三点指摘する。

 

 一、二重言語の影響が軽微だから現状のままに放置しておいて構わないというのも一つの考え方である。この考え方は我が国のこの問題に対する態度と関連している。国は本問題を問題視していない。(朝鮮併合の翌年の)明治441911年に朝鮮人教育のために朝鮮教育令が制定された。その時の(朝鮮の)学校の程度は時勢と民度とに適合することを旨とし、普通教育の程度は甚だ低かった。ところが大正9192011月、朝鮮人の中学である高等普通学校に修業年限2年以内の補習科を設けることができるようになった。内地の文部省はこの補習科の卒業生に対して専門学校入学無試験検定受験の資格を認めた。普通学校から高等普通学校補習科卒業までの10年間の修業で、内地人が中学校を卒業したものと同等の教育効果を認めたのである。

 大正111922年には内地延長主義により、朝鮮教育制度に大改革を加えられ、普通教育の修業年限は内地・朝鮮共に同じものとなり、入学年齢も同一となった。文部省は大正11年の朝鮮教育令によって設置した諸種の学校の在学者と卒業者の、他の学校への入学転学に関して、同種の学校の在学者や卒業者と同一の取り扱いをすることになり、今日に及んでいる。このように国は二重言語の阻害的影響を全然問題としていない。このことがあり、また二重言語の影響が軽微であることから、現在のままに放置することも可と考えられる。

 

167 二、二重言語の阻害的影響は軽微であるが、それが存在する限り、この影響を排除するためにはそれを緩和するか絶滅するかのいずれかしかない。緩和のためには国語学習の始期を学校以前に置くことである165。そのためには幼稚園を普及し、幼稚園と一般家庭を国語生活化することである。その際社会情勢は有力な協力者となる。

 また影響を絶滅するためには、国語一言語化しかない。(朝鮮語禁止、ひどい)朝鮮は国語専用になるべきだ。現在では「国語常用」と言うが、私は「国語専用」とすべきだと考える。順序として先ず学校での専用、次に社会での専用、最後に家庭での専用である。京城では今日すでに社会での専用の後期のはずだったが、現在はまだ学校での専用を通過していない。

 

 三、教師に皇国の道の宣布者としての熱情・熱意がなければ、児童生徒の国語学習の健全な発達は期待できない。また教師は方法技術上の練達者であるべきである。以上のことは朝鮮人教師だけの問題ではない。

 

168 結論第二 二重言語研究者によって指摘されたことで朝鮮教育に認められるものは知的方面ばかりではない。またその原因は二重言語ではなく、もっと広くて深い。在来の朝鮮的なものの中では人間の向上は望みがたい。(ひどい蔑視)真によく皇国臣民化されてこそ初めて真に人間らしくなる。(朝鮮の民族性を捨てろ)そのことは実証済みである。

 朝鮮に於ける教育は全体的に日本的性格を持つべきである。全体的とは学校教育が全面的にというだけでなく、社会も家庭も一切が日本的性格をもつ教育の場とならなければならないということである。学校以外の一切がこういう教育力にならない限り、学校教育自体もその教育力を完全に発達させることができない。内地人は模範的皇国民であらねばならない。内地人教育は朝鮮教育上の重大問題である。

 

169 国は非常に困難な重大責任を極めて大胆に朝鮮教育に課したが、朝鮮教育はこの重大な責務を遂行してきた。朝鮮人の努力と、朝鮮教育従事者の熱意と努力と技量に対して世間の人々は同情してもらいたい。朝鮮教育の半面に困難が現存するが、日本政治と日本教育と朝鮮人の努力とが近い将来にこの困難を克服するだろうと確信している。

以上

 

「教育原理としての象徴」広島文理科大学助教授 皇至道(すめらぎしどう、1899-1988)

 「教育原理としての象徴」広島文理科大学助教授 皇至道(すめらぎしどう、1899-1988) 1943

 

 

感想

 

筆者は日本的なもの(ここでは象徴主義的教育)一辺倒に対する疑念を持っているのではないかと思われるのだが、買いかぶりか。その理由は筆者が次の三点に関して西洋の智慧との関りを検討する必要性を指摘しているからである。

 

1、日本的な、学問・芸能の教授における師への尊敬の念が、学問・芸能の自由な発達を制約しないかという疑念。148

2、国民学校における生徒指導上の問答と、コメニウスやペスタロッチらが唱えた生徒中心主義の「開発教授」の問答や、教師中心主義だがヘルバルトとその弟子ラインが唱えた「五段階教授」の問答との性格的相違について反省する必要があるという指摘。155

3、日本的教授上の原理である象徴と、西洋的教授上の原理である直観との統一の必要性の指摘。156

 

感想

 

日本の学問・芸能を西洋と比較し、西洋では学問・芸能と道(道徳)とが分離し、科学的・分析的であり、そのために学問・芸能が著しく発達したが、他面道徳的には退廃したかもしれないとし、一方日本の学問・芸能は情意的・全体的であり、道であり、象徴であるとし、禅を例にその教授法を例示する。

 

この論文それ自体が論文というよりも禅問答であり、一見全く意味不明である。真偽のほどは分からないが、筆者は敢えて意味不明の論文を発表したのかもしれない。Wikiによれば、筆者の専門は禅とか武士道とか茶道ではなく、教育行財政学であり、古代、中世、近世の大学や、イギリス、ドイツ、アメリカ、日本の教育行政学を研究したとある。全く禅宗とは関係ない。

 また筆者は最後の方で日本の伝統的な教授法が現代に通用するかどうか吟味する必要があるとも言っている。155

 Wikiの年譜によれば、筆者が小学校の教員をするなどして苦学しながら学位を取得した様子が分かる。そして一旦就職後に30歳で広島大学に入学し、33歳で卒業している。

 

Wikiによれば、

 

 至道(すめらぎ しどう、1899年(明治32年)619 - 1988年(昭和63年)927日)は滋賀県出身の教育学者。1973年(昭和48年)に勲二等瑞宝章を受章。

 

来歴・人物

 

滋賀県愛知郡湖東町(現・東近江市)出身。広島高等師範学校、広島文理科大学卒業。専門は教育行財政学。広島高等師範学校講師、広島文理科大学教授、広島大学教育学部教授、同教育学部長(連続5期)を経て、1963年(昭和38年)、森戸辰男の後を継ぎ、第2代学長に就任した。行政経験豊かで、大学研究の第一人者でもあった皇は、大学整備計画を推進し、歯学部等の設置を行なったが、1966年に不正入試事件(入試問題漏洩事件)が発生し事務官3人が懲戒免職される事態になると、皇は道義的責任をとって同年6月に任期途中で辞任した[1]。また文部省の教育職員養成審議会委員、学術奨励審議会委員を歴任するとともに日本教育学会理事、教育史学会理事、中国四国教育学会会長、日本教育行政学会理事および代表理事などを務めた。

 

古代、中世、近世の大学や、イギリス、ドイツ、アメリカ、日本の教育行政学を研究、独自の理論体系を作った。[要出典]「皇至道著作集」(全五巻)などの著書がある。1988年(昭和63年)死去、享年90(満89歳没)。 

 

年譜

 

滋賀県愛知郡湖東町(現・東近江市)に、父順諒、母高千代の長男として出生

1914年(大正3年)4月滋賀県師範学校本科第一部入学

1920年(大正9年)

3月滋賀県師範学校卒業(この間病気療養のため、1ヵ年休学)(21歳)

331日、滋賀県犬上郡東甲良尋常高等小学校訓導

1921年(大正10年)4月、広島高等師範学校第二部(英語科)入学(22歳)

1925年(大正14年)

37日、広島高等師範学校卒業

331日、兵庫県姫路師範学校教諭兼訓導

1929年(昭和4年)422日、広島文理科大学(教育学専攻)入学(30

1932年(昭和7年)

37日、広島文理科大学卒業、卒業論文「ソクラテスとプラトンの教育的関係

331日、広島文理科大学(教育学科)助手

1934年(昭和9年)331日、広島文理科大学講師(35歳)

1935年(昭和10年)331日、広島高等師範学校講師を兼職(193848日解任)(36歳)

1938年(昭和13年)29日、広島文理科大学助教授39歳)

1944年(昭和19年)1120日、広島高等師範学校および広島臨時教員養成所講師を兼職(45歳)

 

1948年(昭和23年)

21日、広島文理科大学教育学教室主任(49歳)

220日、広島文理科大学教授

81日、広島文理科大学より文学博士の学位取得。学位論文「大学制度の研究」、副論文「シュタインの教育行政学」

1951年(昭和26年)131日、広島大学教育学部教授を兼職(52歳)

1953年(昭和28年)

41日、広島大学教授に配置換、広島文理科大学教授併任(54歳)

61日、広島大学教育学部長、広島大学大学院教育学研究科長。

1957年(昭和32年)1022日、ビルマ政府の招聘により教育顧問として同国へ出張(19581月まで)

1958年(昭和33年)1110日、文部省視学委員

1963年(昭和38年)41日、広島大学学長(64歳)

1964年(昭和39年)

316日、学術奨励審議会委員(65歳)

818日、イギリス国政府の招聘により同国へ出張(923日まで)

1966年(昭和41年)

61日、広島大学学長を辞職(67歳)

913日、広島大学名誉教授の称号を受ける

127日、青少年育成広島県民会議会長

1967年(昭和42年)1012日、広島県後期中等教育検討委員会委員長(68歳)

1970年(昭和45年)718日、広島県医療機関整備審議会会長

1973年(昭和48年)429日、勲二等瑞宝章を受章(74歳)

1977年(昭和52年)

421日、広島県コミュニティづくり推進協議会会長(78歳)

526日、広島県教育問題懇談会座長

1988年(昭和63年)927日、脳梗塞のため死去(89歳)[2]

 

学会での役職

 

日本教育学会理事 (1947.9

日本教育学会中国四国支部会長(1949.10

教育史学会理事(1956.5.3

日本教育学会中国四国支部会長(1958.10

日本教育行政学会

代表委員(1962.5

代表理事 (第1期~第2期 196771年)

理事 (第3期~第8期 197188年)

 

著書

 

国民教育体制の構想』柳原書店 1942

『獨逸教育制度史』柳原書店 1943

 

『西洋教育史』柳原書店 1952

『市町村教育委員会の実態』明治図書 1953

『現代教師の性格』光風出版 1954

『シュタイン』牧書店 1957 

『西洋教育通史』(玉川大学出版部 1962

『寮生活の教育的意義』日生学園高等学校 1966

『個性の本質と個別学習』日生学園高等学校 1967

『現代教育学―幸福への道しるべ』明治図書 1968

『明日を創造する人間形成論』日生学園高等学校 1968

『人間関係の危機における教育』日生学園高等学校 1969

『日本教育制度の性格』玉川大学出版部 1970

『大学の歴史と改革』講談社 1970

『教育行政学原論』第一法規 1974

人類の教師と国民の教師』玉川大学出版部 1975

『徳は教えられるか』(お茶の水書房 1976

『皇至道著作集』全5 皇至道著作集刊行会編 第一法規 1977

『現代教育学』明治図書出版 1990 

 

 

メモ 禅問答的文体の中から理解できる部分だけを抜粋する。

 

146 教育は文化の伝達・創造と不可分の関係にあるから、日本教育学の性格は日本文化の性格と相表裏する。悠久2600年の伝統を背景とする日本文化が情意的・全体的文化であるの対して、西洋文化は科学的・分析的である。日本の伝統では学問・芸能が道徳と密接に結合していて、道と考えられている。一方西洋文化では学問・芸能は道徳と全く無関係とはいえないまでも、道徳と分離できると考えられていて、そこに近代西洋文化の特色がある。西洋文化はそのため著しい進歩を遂げた。西洋の科学と文芸の進歩が人類の習俗を堕落させたかそれとも改善したのか。西洋の文化の進歩は知識・技術と道徳・情意との間に対立を生じたが、西洋の科学・技術が没落したのではなく、道徳的情意が没落したというべきである。

 

147 一方日本の伝統的文化では、学問・芸能が「教」と結合している。そしてそのことによって「道」を作り、学道・芸道と呼ばれる。芸能の名人は技能に秀でているだけでなく、道の体現者であることも要求される。技能の巧拙だけでなく、風格や気品も尊ばれる。芸能は道に「悟入」することが期待されている。そして各種の芸能に所属する「直覚」は相互に無関係ではなく、共通な「道」に通じる「一つの根本的な直覚」から生じる。

 芭蕉は俳諧の風雅の本質を西行の和歌、宗祇の連歌、雪舟の絵、利休の茶と同じところに求めた。「笈の小文」冒頭で芭蕉は「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、その貫通するものは一なり」と述べ、俳諧の風雅の本質をここに求めている。各種芸能の師匠たちが体得した「直覚」は一つの大きな体験の特殊な部分にすぎない。芸能を通して道に「悟入」するというよりも、芸能それ自体が道である。小堀遠州の茶道観を示す「書捨ての文」の冒頭に、「茶道とて外にはなく、君父に忠孝を尽くし、家々の業を懈怠(かいたい)なく、ことさらに旧友の交をうしなう事なかれ云々」とあるように、彼において茶道は道徳である。

148 宮本武蔵もその五輪書の結尾で「その心を知って、直なるところを本とし、実の心を道として、兵法を広くおこない、正しく明らかに大きなる所をおもいとって、空を道とし、道を空と見るところなり」と述べ、実の心を道として兵法を行うべきことを明らかにしている。

 

 しかし学問・芸能が「教」と離れがたく結合していることは、一面では学問・芸能やその師に尊敬の念を生じるが、他面では学問・芸能の自由な発達が制約される。しかしここではその詳細は述べない。

 

 このように日本の伝統的な学問・芸能は「教」と結合して学道・芸道を創造したが、その学道・芸道がどのように授受されたかが教育学の問題である。全体としての道と離れることのできない学問・芸能では、その奥義の伝達に困難が予想される。合理的・分析的文化の伝達を目的とする西洋近代の教育は、直観を中心原理として直感から概念に至った。西洋教育学における労作は直観のための労作である。西洋近代の教育学は児童の自発性に基づく直観を中核とし、教師の職能は児童の直観を助成することである。従って興味が教育原理とされる。分析的に説明し、絵画や模型を示し、実物を示すなどは、直観を重視するからである。実験・実測・製作などを尊ぶのは、より良い直観を導くためである。直観から概念に至る西洋教育学は、さらに概念から実践へ向かったから、道徳教育を軽視しているわけではない。しかし道徳教育を標榜するヘルバルトの教育学が、興味から知識へ、知識から実践へ努力したが、知識から実践への課題を解くことができず、主知主義だと批判された。西洋教育学は知育であり、徳育も知育を通じての徳育であり、それは西洋教育学の越えがたい限界である。

149 一方日本の伝統的な教育は道の伝達であり、情意的で全体的な道の文化が合理化され分析されると、本質から逸脱する恐れがある。日本の伝統的な学問・芸能の本質は、象徴的に開示されるしかない。道の伝統は道の体現者である師匠の象徴を唯一の手掛かりとして、弟子の努力によって体得・悟得されてきた。ただし、西洋教育学の中でもフレーベルのように象徴主義教育を説く者もある。

 

 象徴について説明する。カッシーラー「象徴的形式の哲学」(E. Cassirer, Philosophie der symbolischen Formen 3 Bde.(Bände)1923-29)や、高山岩男「象徴的形式の構造」(思想昭和1278月号)などは、広義の象徴的形式である言語、習俗、芸術、神話などの構造を哲学的に解明した。言語、習俗、芸術、神話などはいずれも象徴的形式であるが、芸術には象徴主義と写実主義とがあり、写実主義的芸術でも象徴性を持ち、言語の中でも象徴性の豊かなものとそうでないものとがあり、また同一言語でも時処位によって象徴性が異なる。このように象徴の本質の解明は難しい。

150 象徴symbolという語はギリシャ語のσυμβολ’ηから来たもので、「結合」の意味である。これと語根が同じσυμβολνは「一つのものの分かれた断片」の意味であり、それは他の断片と結合して全体を形成する、言わば一個の割符であり、全体を認識するための徴表である。即ち象徴とは隠れた全体の徴表としての部分の意味である。哲学でも現象に対する本体を考え、現象によって本体を認識する場合、現象は本体に対して象徴となる。身体的表現が精神を象徴するとも言える。象徴は直観的形象によってそれを超越した全体の意味を表出するものである。象徴的なものは、超越的で内在的なものである。

 

 日本の伝統的な学問・芸能の本質は、象徴的に開示されてきた。能楽に関する世阿弥の芸術論「花伝書」は、能楽の芸術的境地を「花」の語で象徴的に表現した。「この物数を極むる心、則ち花の種なるべし。されば、花を知らんと思はば、先ず種を知るべし。花は心、種は態なるべし」と述べている。宮本武蔵が「五輪書」の中で剣道の極意を地水火風空の五巻に分けて述べているのも、それぞれに象徴的意味がある。利休は「茶道伝書」の中で、数奇道について「枯れ木の雪に折れたる如く、すねすねしき手前の中に、又しほらしきこうをなす事なり云々」と述べている。また芭蕉の俳諧における「軽み」の理念について、子珊は「別座鋪」の序の中で、「翁今思う体は、浅き砂川を見る如く、句の形附心ともに軽きなり」と言っている。また心敬は「心敬僧都庭訓」(続群書類従)の中で連歌の道について「余情面かげひえやせたることは上手のくらい(位)にいたり(至り)、をのづから(自ずから)しらる(知らる)べき物なり。習伝(習い伝え)がたきものなり」と言っている。

151 このように芸道の奥義は「花」と「種」とか、「地水火風空」とか、「枯れ木の雪にをれたる如く」とか、「浅き砂川を見る如く」とか、「ひえやせたる」とか表現されている。

本来象徴的傾向の強い宗教で象徴的表現を見出すことが多い。天台宗の一念三千、真言宗の三密、浄土門の念仏、日蓮宗の題目、禅宗の座禅と公案などは象徴的である。次に座禅の問答と行の象徴性について教育学的に吟味する。

 

 禅宗は「以心伝心」、「不立(ふりゅう)文字」(禅の悟りの内容は文字では表現できない)*を標榜する。

 

*そのほかに「教外別伝」(きょうげべつでん、教えを心から心に伝える)がある。禅宗は学問より実践を重視する。

 

理論的説明はその本質を解明しない。禅宗では芸術的形式の「偈頌」(げじゅ、韻文形式で仏徳を讃嘆して教理を述べたもの)や「道歌」(どうか、道徳的な教えを詠み込んだ和歌)などによる象徴的表現が多い。禅を彷彿とさせるには象徴的表現の方が概念的分析に優る。看話禅の中核をなす問答はギリシャのディアゴロスのような概念的・論理的対話ではなく、概念を超え、論理を絶したものである。それは真っ裸の法機と法機とが相闘う無分別の対話である。そこに禅問答の実践的性格が現れている。禅問答を学問的・論理的に見れば荒唐無稽である。「狗(く、犬)子仏性」について、惟寛は「狗子仏性有」と言うが、趙州は「狗子仏性無」と答える。また「諸法無常」とも「諸法常住」とも言う。「諸法皆是虚妄」に対して「諸法実相」と言う。「如何是仏」という問に雲門は「乾屎(し、糞)橛(けつ、くい)と答え、同じ問いに洞山は「麻三片」と答える。「祖師西来意」は如何と問われると、趙州は「庭前栢(かしわ)樹子」と答える。これらの問答の論理的分析からは何も生まれない。それは内的自証である体験の告白である。断言的な体験の事実を語るから推理はない。禅の問答は体験に取り組む対話である。維摩詰は文殊の「何等是入不二法門」の問いに対して沈黙で応答した。沈黙も偉大な象徴である。

152 教育学的に興味深い禅問答の一つは法眼玄則との「丙丁童子来求火」という問答である。法眼会下(えげ、えか、禅宗や浄土宗で師の僧の下で修業するところ)の玄則は、かつて志円に「如何なるか是学人の自己」と問うたところ、「丙丁童子来求火」と答えられて自らが悟道の域にいると自信を持った。「丙丁童子来求火」とは火の神が来て火を求めること、つまり自己が自己を求めることであり、本来の自己即ち仏に他ならないと理解した。しかし彼の理解は言葉の上の概念的理解であって、真の悟道の境には至っていなかった。玄則はたまたま法眼から「仏法もし是の如くならば今日に到らじ」と言われその了得を否認された。玄則は一度は憤然として法眼の会下を去ったが、やがて心を取り直し、礼拝懺悔して(法眼に)教えを乞い、「如何なるか是学人の自己」と以前の問いを繰り返した。法眼はこれに「丙丁童子来求火」と答え、玄則は言下に大悟したとのことである。玄則は同じ問いを二度問い、同じ答えを二度得て、終に大悟徹底できた。法眼と玄則との間の石火のごとき「機」の把握は、「啐啄同時」の法眼の家風を示す。*この話は禅門における間髪を入れない機の把握を示している。

 

*啐啄(そったく) 「啐」は卵の中の雛が殻から出たいと殻をつつくこと。「啄」は親鳥が殻をつついて壊し、雛の出るのを助けてやること。絶好の機会。

 

古来名僧大徳が大悟した機縁については様々な物語がある。倶胝(ぐち)は天竜が示した一指頭(しとう、指先)によって豁然(かつぜん、急に)大悟した。霊祐は百丈の挟み上げた(箸などで挟んで持ち上げる)わずかな埋もれ火の光を見て感得した。霊雲は微風に散る桃の花を見て本来の面目を徹見し、霊祐の印可(いんか、師僧が弟子の修行者が悟りを得たことを証明すること)を受けた。徳山龍山が暗夜に燈火を吹き消した瞬間に感激の法悦に浸った。香厳は庵の周りを掃除中に小石が飛びそれがそばの竹に当たったカチッという音を聞き、霊祐が与えた「父母未生己前の一句」を道破(言い尽くす)した。雪潭(たん)は山門の楼上から飛び降りようとした一瞬に、暁の鶏声を聞き大悟した。禅では一語一句、一挙手一投足、神羅万象悉く悟道の機縁にならないものはない。臨済の喝(かつ)、徳山の棒もこの機縁を提供する。この機縁の把握は偶然に起るように見えるが、実は不断の工夫と修練の結果である。無窓国師の「夢中問答」にあるように、禅の公案(禅宗で参禅者に出す課題)は「鉄饅頭」に比すべきものであり、「ただ情識の舌をつくる事あたわざる処に向かって、咬み(かみ)来たり噛み去らば、かならず咬み破る時分あるべし」と述べている。しかも一個の話頭(わとう、古則・公案の一節。話の糸口)に徹底的に参ずることによって、千の話頭は一時に透過できる。全心身を挙げてただこの一話頭に参ずるのである。多方に興味を喚起するのではなく、徹底的に唯一句の道得(どうとく、どうて、仏法を身につけてよく言い表す事)を重んじる。一指頭禅の体得も「一生受用不尽」である。

 禅では日常生活が工夫修練の場である。公案の透過を主とする看話禅と、ひたすら打座を重んじる黙照禅とで強調する点は異なるが、真の禅には二つとも必要である。程明道はかつて定林寺を過ぎ、偶々齋堂(食堂)の威儀整然たるのを見て、「三代の礼楽悉く是にあり」と嘆じた。清規(しんぎ、禅宗で道場での起居動作などの作法を決めた規則。しょうぎ)は禅門の生命である。今道元禅師清規は座禅礼拝の作法や、洗面、食事、就眠など日常生活の一挙手一投足を禅門の伝統によって規定している。清規は戒律とは異なる。戒律は消極的であるが、清規は積極的である。道元が「作法これ宗旨」と言っているように、行住坐臥の日常四威儀の中に仏法の真義が顕現する。威儀即仏法である。道元は特に食事の作法、食事を司る典座(てんぞ)の役目を重んじ、それぞれ「赴粥飯法」と「典座教訓」を定めた。「法若し菩提なれば、食もまた菩提なり」とあるように、著衣喫飯(ちゃくいきっぱん)は法性三昧の著衣喫飯である。衣鉢(袈裟と鉢)を継ぐとは仏祖の精神を継ぐことである。五観の第五に「成道のための故に今此の食を受く」とある。道元にとって食は真如法性の顕現であり、食事をすること自身に意味がある。食事の世話をする典座の役は「絆をもって道心とす」と教えられている。

154 このように本来の面目である仏性は日常生活の中に象徴的に顕現している。「一日の行持これ諸仏の種子なり」という。行によって仏性を見ることがやがて成仏であり、座禅はこの行の基本的形態である。しかし道元にとって座禅はそれ自体が目的であって悟りのための手段ではなく、「只管打座」が強調される。「只管打座即心身脱落」である。禅門の行は打座を中心とする日常生活を象徴的形式として実践するところにあるが、道元においては象徴が本体と不二のものとなり、食事は食事そのこと、打座は打座そのことを目的として行ずることを要求する。「正法眼蔵隋聞記」は「何人も行ずることによって道心を得る」とし、「学問の人も、初めより道心なくとも、只しひて仏道を好み学せば、終に実の道心も起こるべきなり。初心学道の人は、只衆に随ふて行道すべきなり」とし、「善知識に随って衆と共に行じて私しなければ、自然に道人となるなり」としている。

 

155 以上教育原理としての象徴の意義を禅堂教育の事実について説明した。塾教育や芸道教育においても象徴的性格を認めることができるが、今その説明をする余裕はない。要するに日本の伝統では、道は師の提示する象徴によって体得されてきた。しかし伝統的な象徴形式の全てがそのまま現代教育に適用できるかどうかは吟味しなければならない。日本文化の将来を展望し、学校教育の性格を顧慮し、現代教育に相応しい象徴的形式を樹立する必要がある。問と答は学校教育の中心的形式である。現代の学校教育では果たして大疑に根ざした問が発せられているか。一生受用しても尽きない底の答がなされているか。国民学校の問答は開発教授五段教授の問答とどれだけ相違しているか。問と答の技巧ではなく、その性格そのものについて根本的な反省をする必要がある。

また行の教育、心身一体の教育はただ身体を動かすことを意味しない。行の教育には権威ある象徴的形式を必要とする。国民学校に新たに採用された武道は、伝統的な鍛錬形式を復興したものである。体育や実用のためなら他にももっと適当なものがあるかもしれない。教科としての武道の本質はその象徴性にある。それは基礎動作である型という象徴的形式によって、日本武士道の伝統的精神を体得させる。しかし他面では権威ある新しい象徴的形式の創造が要望されている。加藤完治*によって創始された農民教育は現代における農民道を象徴的に顕現したものである。それが農民や拓士(たくし、満洲に渡った開拓民)の教育にばかりでなく、一般教育界に及ぼした影響は大きい。また陸海軍の教育で軍人精神の顕現としての象徴的形式が創造されているが、その教育力に驚異の眼を見張る。

 

*加藤完治1884-1967は教育者、農本主義者、剣道家。

東京帝大農科大学卒1911。大学で直心影流山田次朗吉に剣道を学ぶ。

内務省勤務、水戸市の農業訓練所所長、愛知県立安城農林学校(後の愛知県立安城農林高等学校)1913、山形県立自治講習所所長1915

茨城県友部市に日本国民高等学校(後の日本農業実践学園)を創立1925

キリスト教徒から古神道に改宗。筧克彦古神道に基づく農本主義を掲げ、関東軍将校で満州国軍政部顧問の東宮鉄男と満州開拓移民を推進した。満州開拓青少年義勇軍の設立に関わり、満州開拓青少年義勇軍訓練所を開設1938し、8万人を輩出した。

第二次大戦後公職追放となり、GHQからA級戦犯として一旦召喚されたが、送り返された。1953年、日本国民高等学校校長に復帰した。

 

156 象徴的形式を真に権威あらしめるものは、道の伝統と、その体現者としての教師であるが、このことについての考察は他日に回す。なお日本教育の伝統的原理としての象徴と、西洋教育学の中心的原理としての直観との関係についても論ずべきであるが、今は両原理の統一のなかに根本的な方法原理としての錬成の意義を把握すべきであると指摘するにとどめる。

 

以上

「アメリカの対支教育活動に就いて」広島高等師範学校教授 平塚益徳(ますのり)

 「アメリカの対支教育活動に就いて」広島高等師範学校教授 平塚益徳(ますのり) 1943

 

 

メモ

 

これはアメリカのプロテスタント宣教師が1920世紀の中国の教育や政治に及ぼした影響について概説したものである。

 

アメリカは支那と結んだ望厦条約1844の交渉で、租借地に学校と教会堂を建設できるようにした。この点イギリスは無関心で、経済面ばかりに関心を持っていた。

フランスの陰謀的「努力」によって宣教師が中国大陸内部で活動できるようになると、アメリカも最恵国条項を利用してそれに倣った。

アメリカのプロテスタントは中国で学校を開設したが、当初は反対勢力に妨害された。(戊戌の政変1898、義和団事件1899-1901)また中国民衆の関心は薄く、学生も貧乏な人が多く、高等教育の程度は低かった。

しかし近代化の進展とともに宗教学校の学生も多くなり、レベルも上がった。「南方派要人」でキリスト教徒になった人が多く、孫文もその一人である。彼らは「若き支那人」Young Chinaと呼ばれた。

しかし第一次大戦がキリスト教徒相互の戦いであったため信用を失い、理性主義や批判主義に基づく5・4運動や共産主義の影響もあり、宗教教育は否定され沈滞傾向となった。

ところが蒋介石が、アメリカで教育を受けた宋美齢に要求された蒋介石の入信を条件に結婚し、自身の信仰の告白をアメリカのプロテスタントの集会で表明すると、アメリカのキリスト教徒は勢いを盛り返した。その一年後に日中戦争が始まったのだが、アメリカの教会学校は我が皇軍に妨害した。

 

感想 まとまりのある整然とした文章である。ただし、アメリカナイズされた蒋介石とその妻・宋美齢の秋波に勢いづいた米教会学校の我が皇軍に対する陰謀に言及するのはこの時代の常識か。また中国に対する優越感をあちこちで表明している。

 

 

Wikiによれば、

 

平塚 益徳(ひらつか ますのり、1907619 - 1981310日)は、日本の教育学者、キリスト教学者。九州大学名誉教授。日本比較教育学会会長を長く努めた。

 

来歴

 

上富坂教会牧師・平塚勇之助(18731953の次男として東京に生まれる。聖学院中学校、水戸高等学校卒、昭和6年、東京帝国大学文学部教育学科卒。昭和10年東京帝大大学院教育学修了。

 

広島高等師範学校教授、九州帝国大学教授、1953年、九州大学教育学部長。1960年、日本人初のユネスコ本部教育局長。1963年、国立教育研究所長に学者として就任し、大学に比肩する研究体制の構築を図った。『日本近代教育百年史』全10巻を完成させた。

 

1962年、文学博士(九州大学)。論文の題は「旧約智恵文学に現われたイスラエルの教育・倫理思想の研究 [1]

 

著書

 

『旧約聖書の教育思想 知慧文学を中心として』目黒書店、1935

『イスラエル民族の女性観と女子教育』基督教モノグラフ叢書 日独書院、1935

『日本基督教主義教育文化史』基督教教程叢書 日独書院、1937

『近代支那に於ける基督教々育の概況』興亜院、1940

『近代支那教育文化史 第三国対支教育活動を中心として』目黒書店、1942

 

『日本のゆくえ ハドソン河畔の旅窓から』洋々社、1956

『旧約聖書の教育思想 智慧文学の研究』日本基督教団出版部、1957

『ヨーロッパの道徳教育』民主教育協会 IDE教育選書、1958

日本のゆくえ道徳教育』福村書店、1959

『教育の民主主義 バランスの原理』民主教育協会 IDE教育選書、1960

『こども・家庭・社会 教育の民主主義 その2』民主教育協会 IDE教育選書 1961

『日本教育の進路 道徳教育の根本問題』広池学園出版部、1964

『民主主義社会の青年 その特色とあり方』広池学園出版部 れいろうブックス、1967

『お茶の間の教育学 つみ重ねられた人間の智慧』広池学園事業部、1969

『価値ある人生 かく信じかく訴える』広池学園事業部、1976

日本の運命と教育』広池学園事業部、1976

『序文 人生の真実を求めて』教育開発研究所、1978

日本教育の大勝利 日本の教育史から観た現状と将来』カルティヴェイト211981

『平塚益徳講演集』平塚博士記念事業会編、教育開発研究所、1985

『平塚益徳著作集』全5巻、教育開発研究所、1985

1 (日本教育史)

2 (中国近代教育史)

3 (西洋教育史)

4 (宗教・道徳・家庭教育)

5 (教育時論)

 

共編著

 

『人物を中心とした女子教育史』編著、帝国地方行政学会、1965

『教育事典』沢田慶輔,吉田昇共編、小学館、1966

平塚勇之助『慈川余香』平塚道雄共編、広池学園出版部、1967

『世界の教師 養成・地位・生活』編、帝国地方行政学会、1967

『現代の教師に訴える』上田薫ほか共著、明治図書出版 明治図書新書、1968

『進路指導実践講座』第1-2 沢田慶輔共編、文教書院、1968-69

『日本の家庭と子ども 今日における家庭の教育機能を探る』編、金子書房、1973

 

翻訳

 

J.A.ラワリーズ『科学・道徳・モラロジー』監訳、モラロジー研究所、1976

 

 

コトバンクによれば、

 

出生地 東京市小石川区(現・東京都文京区)

学歴〔年〕東京帝大文学部教育学科〔昭和6年〕卒、東京帝大大学院教育学〔昭和10年〕修了

学位〔年〕文学博士

経歴 昭和11年、国民精神文化研究所嘱託となり、「日本教育史資料書」編集に従事。15年、広島高師教授、19年、九州帝大法文学部教授、24年、九州大学教育学部教授、28年、教育学部長、31年、同学部附属比較教育文化研究施設長を歴任。35年、日本人として初のユネスコ本部教育局長就任など海外でも活躍。38年、国立教育研究所長に就任、「日本近代教育百年史」(10)を完成させた。53年辞任、名誉所長となる。中央教育審議会委員、日本ユネスコ国内委員会委員長なども歴任。主著に「日本基督教主義教育文化史」「近代支那教育文化史」「日本の進路」など。

 

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)

 

 

要旨

 

要項

 

132 近代支那の教育発達の過程で米英は極めて活発に教育活動を行ったが、特にアメリカは決定的な影響を与えた。大東亜の教育の建設に邁進すべき大任を負荷する我が国の教育界はこの点を真剣に検討すべきである。

 

 アメリカの対支教育活動は四つの面に大別できる。

(一)「教会学校」を中心とした宗教団体によってなされたもの

(二)「庚款*」つまり団匪(義和団事件)賠償金免除に基づくもの

(三)ロックフェラーなど篤志の富豪の寄付によるもの

(四)オペリンなど大学の教授・学生や、デューイ、モンローなど一般知識人の渡支によるもの

 

*庚款 庚子(こうし、かのえね)賠款(ばいかん、賠償金)

 

これら四つは相互に密接な関係を持っているが、独自の歴史も持っている。以下(一)を中心に述べる。

 

133 アメリカの支那に対する教育活動は百年に渡る。前述の(一)はアメリカの支那における教育活動の67割を占める。

 (一)の宗教団はキリスト教関係の団体であるが、アメリカではプロテスタントが絶対多数を占め、絶対的勢力を持っている。以下プロテスタントに限定して話す。

 

 アメリカの宣教師の中で初めて支那に渡ったのは、ブリッジマンアビールの二人であり、それは道光10年、天保元年1830年のことであり、イギリス人ロバート・モリソンが支那に渡ってから23年後にあたる。ところが支那在住の宣教師数は1845年、英人10人、米人20人、1848年では英人19人、米人44人、1855年では英人24人、米人46人と、各時期とも米人が英人の2倍であった。このことは対支条約にも現れている。1842年にアヘン戦争後英支間で締結された南京条約は、キリスト教に関する規定が何もないのに対して、1844年に米支間で締結された望厦条約ではその第17条で、「広東、厦門、福州、寧波、上海の五港の土地を租借し、病院、養育院、墓地、学校教会堂を設立できる」という規定がある。矢野仁一は、イギリスが南京条約でキリスト教布教に関する規定を何も設けなかったのは、イギリスが経済上のことに汲々としていて、布教はどうでもいいと考えていたと指摘しているが、(英の)インド(支配)の初期における東インド会社や、英本国と宣教師との関係を考えても、この矢野の考えは当を得ていると考えられる。

135 この点でフランスが最初から布教に熱心であったことは注目に値する。米支間で締結された望厦条約と同年の1844年、仏支が黄埔条約を締結したが、五港内での布教については米同様であったが、さらに1844年と1846年の二回に渡り、仏は清にカトリック奉教強化の勅令を発布させ、1860年の北京条約では、フランス人が支那本土の内部に居住することを予想する一文を条約内に挿入した。それは一方の国が承服しないことを隠密の間に挿入するという陰謀的手法によるものであった。そしてフランスは1865年のベルトミイ協定1895年の同補遺によって、カトリックの宣教師を支那の内地に堂々と送り込んだ。この条約は東亜に色々の問題を引き起こす原因となった。英米は共にフランスの得たこの特権を、自分たちが支那と結んでいる条約内の最恵国約款の建前から主張し、自国の宣教師を支那の内地に送り込むことに成功した。

また宣教師の教育活動に有利に働いた条件が支那社会内部に起りつつあった。支那社会は好むと好まざるとにかかわらず、南京条約や北京条約1860を経て近代化の傾向をたどり始めた。1862年、支那最初の近代的学校である京師同文館が創設され、1869年、同館の主宰として米人宣教師ピー・エー・マーチンが招聘された。また外国の物質文明を取り入れようとする洋務運動と、特に文化的に国内改革をしようとする維新運動が展開された。維新運動は日清戦役後に盛んになった。

しかし支那社会が全体としてそれらの運動にひた走ったわけではなかった。保守的固陋の徒輩が牢固たる勢力を持っていて、京師同文館での天文学や数学の教授に反対する声が囂々と生じ、戊戌の政変1898団匪事件義和団事件1899-1901)が起った。次に宣教師の教育活動について述べる。

 

*戊戌の政変 西太后など保守派が、光緒帝や康有為らの変法自強運動百日改革)を弾圧し、反動政治を復活した。

 

 アメリカの宣教師は1830年から支那で布教に従事したが、西洋の宗教を含めた文化一般に対する支那の反応は弱かった。この点は日本と対照的である。日本では明治維新の前後、困難を克服して宣教師などを通じて新しい西洋の知識を獲得しようとした者が多かった。

137 支那での宣教師の活動は制約を受けた。第一に活動場所が北京や山東省の一部を除いて五つの港に限定された。第二は、学校の程度が1864年に創設された文会館や1867年に誕生した通州の大学堂などを例外として、現在の日本の教育標準の初等程度のものが大多数で、中等教育機関はあまり多くなかった。(しかし1830年は日本より早いのではないのか)

 補足すると、神学校教育では1860年以降、支那人宣教師をつくる必要が切実になり、神学校が一、二開設された。そして1870年代には、名門神学校が開設され始めた。しかし神学教育のほとんどが初等教育や中等教育であり、また数少ない高等教育の程度は低かった。

第三の制約は学生や生徒の募集で困難を伴ったことである。学校数は増えてもその質は低かった。この点で日本のキリスト教学校は、支那のそれと性格が異なり、それと似ている点も多いのだが、大きな違いがある。同志社や青山学院はミッションスクールではなかったが、初めから優秀な人材が集まった。元良勇次郎、大西祝博士、徳富兄弟など知名の士が輩出した。

138 ところが支那の学校は貧弱である。入学生は貧民の子弟であった。このことは女子の学校において特に顕著で、入学者の第一日目の行事は、生徒の虱を取り、お湯にいれてやり、服を着替えさせることで、学校給食、衣服、学用品などの給与が一般に行われた。また中途退学者が多かった。そのため女学校では盛大な卒業式を行い、生徒を卒業するまで引き留めようとした。中途退学者の中には英語が話せるものがいた。支那の内地で勢力が台頭しつつあった外人や外人向けの商館に彼らは雇われた。1860年、ドゥー・リットルの主唱を始めとして、教会学校側から英語を教えてはいけないという英語教授反対論が起った。ここに支那人の実利的性格が現れている。この英語教授可否論は1910年のエディンバラで開かれた世界宣教師大会まで討議された。

 

139 ところが1880年以降はアメリカの教育活動が積極的になったが、このことについて付言しておく。1830年のブリッジマンやアビールを始めそれ以降のアメリカの宣教師には、アメリカという国家意識が薄弱で、宗教人世界人一般であった。ところが1890年代になるとアメリカ人的意識が強くなってきて、1880年代以降情勢が変化した。その教育上の理由は、アメリカの、教育に熱心なメソジスト派が活躍し始めたこと、また支那社会の中で改革的運動や思想が顕著となり、また貿易が活発になったことであり、こうして教育運動は活気づき、前世紀の末にはレベルの高い高等教育機関が出現し、教育内容も欧州の新知識を加味し、生徒も従来の貧乏人ばかりではなくなり、英語教授も反対はあったが、正面から教えるようになった。

 

 1900年明治33年の団匪事件から清朝末期までの10年間は教育上の一時期を画する革新時期に入った。科挙制度がこの時期に廃止され、女子の纏足が禁止され、アヘンが禁止された。「西学」が支那の読書士子の間で権威あるものとして定着した。西太后も団匪事件の惨敗や日露戦争での日本の赫々たる勝利に刺激され、従来の迷夢から覚めた。

 

140 この時代の宣教師は清朝政府から協力を求められた。政府による新たな教育機関の校長や顧問として多くのアメリカ人宣教師が迎えられた。教会学校も発展した。アメリカ自体でも1880年代ころから東洋特に支那に対する関心が高まった。それは1890年代末の門戸開放主義の宣言1899やフィリピンの領有1898とともに顕著となった。団匪事件でのアメリカ人宣教師の殉教美談に促されて宗教的情熱が燃やされ、支那に対するアメリカの関心が高まった。

 さらに日露戦争で示された日本の偉大な国力にアメリカが猜疑・嫉妬心を持ったこともアメリカが支那での教育に積極的に関与する原因になった。アメリカは団匪賠償金の一部を支那に返還し、それを教育活動に使い、アメリカ化された支那人をつくる仕組が巧妙につくられた。

141 アメリカの教会学校も異常に発展した。1876年の教会学校数は289校、生徒数4904人であったが、1906年には学校数が10倍の2585校、生徒数が57683人となった。アメリカの教会学校はこの中に含まれるが、6割はアメリカの教会学校である。

 このようなアメリカ宣教師の優勢は中華民国時代に入っても1920年代初頭まで継続した。「南方派要人」の中にはキリスト教徒が多い。孫文は1884年に洗礼を受けた。当時の政治上の指導理念であった民主主義は、アメリカ的なキリスト教と同一地盤に立っていたので、中華民国になってからの最初の10年間に教会学校が非常な発展を遂げた。ジョン・デューイが19195月から1921年にかけて支那の各地を訪問した結果、教会学校は愈々整備・強化され、合同し、独自の教育系統の下に、特別な教科書を用い、独自の督学機関を持ち、女子教育を充実し、開港都市を始め各地の大都市の支那人子弟に影響を与え、多くの「若き支那人」Young Chinaが輩出した。

142 しかし1920年代特に1926年ころを頂点として、教会学校を打倒しようとする運動が起こった。その理由の一つはヨーロッパの大戦である。英米などキリスト教の人道主義や平和主義を唱えるキリスト教国が、残虐な戦争を起こして信頼を失った。もう一つの理由は理性主義や批判主義が1919年の五・四運動をもたらし、さらに労農ロシアの共産主義の影響がこれに加わり、宗教一般延いてはキリスト教的宗教教育に猛烈な批判が加えられたことである。そしてこれが1920年代の外交上の問題と絡みついて支那全国に展開された。

 これを教育思想の点で跡づけてみる。1917年、蔡元培の「美育をもって宗教に代える」という講演が反教会運動の始まりである。蔡元培は「支那人に宗教は必要ではない。元来支那には宗教がない。美育こそ支那本来のものである」と言った。当初この思想は大した影響力がなかったが、遂に1920年に北京で反宗教同盟が結成されるに至った。そして支那全国における排外運動、特に反教会学校運動が展開された。そして1920年、イギリスからバートランド・ラッセルが支那を来訪し、この反宗教教育思想、反教会学校運動に新たな理論的根拠を与えた。ラッセルは「支那にはヨーロッパ以上に優れたものがある。欧米側はほとんどこのことを知らない。支那にとって必要なものは科学だけだ」と北京で講演した。この運動の結果、教会学校の生徒はストライキに立ち上がり、退校し、入学希望者が減少し、教職員も落ち着かず、1926年には三分の一が閉校した。この運動がもう少し長く続いていたら、アメリカを主流とする支那の教会学校は今次事変(日中戦争)に対してあれほどの(日本に対する)妨害的な役割を果たさなかっただろう。ところがこの反教会学校運動を蒋介石政権が抑止した。これについて以下述べる。

143 1925年に孫文が北京で没すると、蒋介石は国民党右派の頭目として活躍し、1927年、共産党に対してクーデターを行い、北伐を始めた。蒋介石は一時山東方面で失敗し、その責任を取って一時日本に下野したが、同じ年1927年に支那に帰り、宋美齢と結婚した。宋美齢はアメリカのウエレスリイ女子大学を卒業し、その生家の全員と共にアメリカ化されていた。この結婚の際に宋美齢は蒋介石に二つの条件を出した。一つは蒋介石がキリスト教徒になること。もう一つは蒋介石の現在の妻と離縁することであった。後者の条件はキリスト教的倫理である。蒋介石は二つとも容れたと思われる。翌1928年、北伐が進展し、張作霖が同年19286月北京を退去し奉天に向かうとき爆死し、同年1928年末、張学良が蒋介石の麾下に服し、蒋介石政権が成立した。

144 蒋介石は三民主義教育と極端な排日教育を樹立し、共産党狩りを開始した。蒋介石によれば共産党狩りは国内戦線の統一のためであった。蒋介石はこれを武力だけではできないと考え、19342月に新生活運動を開始し、一定の成功を収めた。蒋介石は張学良の勢力を削ごうとして張学良に山西方面の共産党の弾圧を命じた。張学良はその真意を知っていたし、その部下に共産主義者がいたので、蒋介石の命令を実行しなかった。蒋介石は西安に赴いて張学良に督促しようとした。この時に西安事件が起きた。蒋介石監禁事件である。この事件の真相はなかなか明確にならないが、その後の歴史の進展から推測すると、国共の合作・妥協が行われたことは確かである。1936年、もう一つ綏遠(すいえん)事件*が起きた。

 

1936年、中国綏遠省(現内モンゴル)東部で関東軍指揮下の内モンゴル軍と国民政府軍とが武力衝突した。

 

この事件は蒋介石直系の軍が強いということを支那人一般に「盲信」・「過信」させた。これら二つの事件は1937年の「不幸な」日支事変と密接な関係がある。この時期に蒋介石は妻宋美齢に19375月上海で開かれた全国キリスト教連盟総会にメッセージを送らせ、新生活運動をキリスト教会が助けてくれるように申し出て教会側を喜ばせた。

145 また同年3月、蒋介石は南京で開かれた某教団の総会に手紙を送り、「自分は過去10年間キリスト教徒として生活してきた。西安の監禁生活2週間の間もキリスト教徒としての生活を送った」とし、教会側を有頂天にさせた。英米特にアメリカから大いに喝采され、蒋介石援助の声がいたるところで発せられた。

 

 以上の通り蒋介石政権は反教会学校運動に多大の障害を与え、教会学校側はその勢力を盛り返し、支那事変前には教会による教育活動が活発に展開された。支那事変このかた教会学校は我が皇軍の作戦や治安維持上で色々妨害的な役割を果たしている。

 最後に、支那の教会学校の最初はアメリカニズムだけではなかったが、1900年代に入り、特に1920年代前後からは露骨なアメリカニズムそのものになった。

 これは教会学校だけの問題ではなく、支那の一般官公立学校も色々とアメリカナイズされていた。

 

以上

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