2019年9月30日月曜日

「南京大虐殺」の前史としての「東京(関東)大虐殺」木野村間一郎 要旨・抜粋・感想


「南京大虐殺」の前史としての「東京(関東)大虐殺」木野村間一郎 ノーモア南京の会、関東大震災中国人受難者を追悼する会
これは2018年11月27日、南京で行われた「『歴史・平和・発展』‐多元的な視野から見た日本の中国侵略及び南京の研究」学術シンポジウム資料である。

(1)はじめに
055 2018年9月8日、東京荒川河川敷で行われた追悼式に、韓国から2名の遺族が参加し、中国から参加した遺族5名と固く握手を交わした。

(2)日本の対外戦争と差別意識
056 日本は明治維新以後関東大震災までの間に、日清(甲午・乙未)戦争に始まり、日露戦争、第一次大戦、シベリア出兵など、殆ど10年毎に侵略戦争を体験してきた。その侵略戦争には日本全国の部隊が総力戦として動員され、国民=臣民意識が形成されてきた。
 明治維新以後最初に行われた日本の日清戦争は、勝利続きの戦争でも、国際法を守った戦争でも、武士道に基づく礼儀を重んずる道徳的な戦争(『武士道』新渡戸稲造、1899年英文版)でもなかった宣戦布告なき奇襲に始まり、手当たり次第に村々を焼き払い、圧倒的な軍事力をもって、抵抗する住民の大虐殺を繰り返した。また、現地調達という名の略奪は、すでに帝国陸軍の基本方針であった
 日清戦争には32万5千人が従軍した(当時の人口は4100万人)。日本国内では、第1軍(司令官山県有朋大将)の戦勝で日清戦争が語られるが、実は、遼東半島制圧にむけた第2軍(大山巌大将)が、後の南京大虐殺を彷彿とさせる旅順大虐殺を行ったことは語られない。この部隊は第1師団(山地中将)配下の歩兵第1旅団(乃木希典少将)以下関東の部隊を中心に構成され、他に小倉・福岡など九州の部隊も参加した。
 日本は、8月1日の清国に対する宣戦布告前の7月23日、朝鮮王宮を襲撃し、朝鮮政府に清国軍駆逐依頼と兵站確保の公文を強要したが、拒否され、合意のないまま、兵站線に関わる各地で朝鮮民衆の執拗な抵抗に直面した。東学農民革命運動は1894年2月の全羅道古阜蜂起以来、朝鮮政府を追い詰め、6月には、全州和約を勝ち取っていた。日本軍は農民軍に対して鎮圧軍を出し、北は平壌から、また首都漢城(現ソウル)から南は、東、中、西路3方面に分けて攻撃し、釜山、珍島*、済州島まで追撃し、1895年2月まで虐殺を続けた。3万人から5万人といわれる大量虐殺を強行した。これに従事したのは、四国を中心とする後備兵歩兵独立第19大隊(大隊長南小四郎)などであった。
*珍島とは、韓国南西部の島で、韓国で三番目に大きな島。
 1895年4月、馬関条約*で台湾、澎湖諸島等が日本に割譲されると、そのまま5月に始まった台湾侵略戦争では、1896年にかけて、北から南に全土で村々を焼き尽くし、2万民衆の大虐殺を行った。
*馬関とは下関の旧称である赤間関の俗称。赤馬関とも書かれたところからこう呼ばれた。
057 これには近衛師団、第2師団(仙台、師団長乃木希典)を中心に7万6千人が参加した。戦死者276人と少ないものの、病死者4642人、病院に収容された者2万7千人と困難な戦いであった。この戦争は1902年の帰順式におけるだまし討ちの大虐殺まで続いた
 しかし、日本国内では、こうした朝鮮、中国における住民虐殺の事実はほとんど伝えられず日清戦争は勝利に継ぐ勝利と思い込み、国民は沸きあがり、総力戦を牽引した天皇の権威は高まった。戦争が始まると共に、義捐金献納運動が起き、戦場に大勢の従軍記者が参加し、新聞社は号外合戦で、戦場の様子を伝えた。忠勇美談が作り上げられ、芝居に、本に、錦絵になった。そして盛大な凱旋式典が行われ、各地に記念碑が建てられた。
 こうして、明治維新以後最初の戦争で、国民は自らが一兵卒として戦争に参加し国内ではそれを全国民が支え、戦場意識を共有し、朝鮮、中国に対する差別意識を拡大し、大量虐殺を当然視した。その結果、「勝利」という経験を通して、「無知で野蛮な朝鮮人、中国人と勇敢で崇高な日本兵」「遅れた朝鮮、中国とアジアの優等国日本」の「日本国民」として一体化し、天皇制国家の一員(臣民)としての帰属意識を強めていった。歴史的に畏怖を抱いてきた中国に対する感情は逆転したこの日本人の意識転換、この時の国民感情がその後の歴史の基礎を作ったといってもよい
 日清戦争の大本営は1896年4月1日の解散まで続いた。日清戦争は、甲午・乙未(丙申)戦争であり、朝鮮半島、遼東半島、台湾を蹂躙しつくし占領した戦争だった。日本は1894年11月21日旅順陥落をもって「清国恐るるに足りず」として、翌年1895年1月14日、釣魚台略奪*を閣議決定した。これは戦時体制下の決定であり、略奪というほかない
*釣魚台とは、尖閣諸島の台湾名

 日清戦争後師団が増設され、それまでの平時7個師団から1896年に平時13個師団(平時16万人、戦時54万人)にまで拡大した。第7(旭川)、第8(弘前)、第9(金沢)、第10(姫路)、第11(善通寺*)、第12(久留米)を増設。歩兵連隊は48となり、いわゆる「郷土部隊」となった。地域末端からの戦争動員体制の基礎ができたのである。
*善通寺は香川県
 1899年、義和団が蜂起し、1901年、清国と諸列強11カ国との間で辛丑条約*が調印され、日本軍による中国駐留が開始されたが、このことはその後重要な意味をもった。
*北京議定書
058 日露戦争で日本軍戦死者8万4千人、戦傷者14万3千人(ロシア軍戦死者5万人、戦傷者22万人)を出した。東京歩兵第1連隊は第2軍として金州南山*の激戦で戦死者が相次ぎ、その後第3軍(司令官・乃木希典)に編入され、旅順攻略で7ヶ月に渡る大苦戦し、大量の戦死者を出した。日本国内では勝利と言われたものの、兵士の実感はそうではなかった。
*金州南山とは遼東半島・金州城の南近郊の南山というところ。ここで1904年に日露戦争が行われ、日本側は、総兵力の10%を超える兵員を失った。
 日露戦争の鬱積した不満は、講和条約に対する日比谷焼き討ち事件として爆発した。
 朝鮮では、日露戦争の最中に、1904年第一次日韓協約、1905年第二次日韓協約(韓国保護条約)、1907年第三次日韓協約が締結され、ついに1910年韓国併合となった。
 日本は1905年1月、ロシアバルチック艦隊との日本海海戦のために、独島の日本編入を閣議決定した。
 1911年辛亥革命が起き、1915年、第一次大戦を横目に、対華21か条要求を押し付けた。
 台湾も理蕃事業5ヵ年計画*に対する抵抗闘争が激化し、1915年、西来庵事件*が起きた。

*理蕃事業5ヵ年計画 山岳先住民族=「蕃地に住む蕃人」に対する政策。第4代総督・児玉源太郎は「野生禽獣に斉しい蕃人は、誘導などの緩慢な手段でなく、いきおい絶滅させる」という政策を構想したが、第5代総督佐久間左馬太は五ヵ年理蕃計画を立て、蕃人を帰順させ、利用しようとする方策を取った。
*西来庵事件 1915年、台南庁の噍吧タパニー、現・玉井)で起こった武装蜂起に対してジェノサイド的弾圧が行われたが、その後も地下運動が日本の敗戦まで続いた。

 第一世界大戦では、1914年9月、山東半島上陸、11月、青島陥落、日本国内では提灯行列が行われたが、「工業のために犠牲になった女工の数は、日露戦争の死傷者数に匹敵するほど多い」と言われるほど、貧困と都市問題が発生し、農村の疲弊も進んだ。
 1917年ロシア革命に対して、1918年シベリア出兵(1922年までに7万3千人を派兵)を起こすが、3500名の死者を出す。1920年の尼港事件*では700人の死亡者と120人余の捕虜を出した。

*尼港事件 1920年3月から5月にかけてアムール川河口ニコラエフスク(尼港)で発生。2月、尼港を占領中の日本軍は、ソ連軍の攻撃を受け降伏し、将兵と居留民は捕虜となった。5月25日、日本側が反撃すると、ソ連側は351名の将兵、副領事を含む383名の日本居留民を殺害し、市内を焼き払って逃亡した。ソ連は事件責任者を死刑にした。日本はソ連が責任を認めないので、交渉相手国不在を理由に、北樺太サガレン州の主要地点を保障占領したが、1925年、日ソ基本条約付属公文で、ソ連が遺憾の意を表明したため、日本側は保障占領を解除した。(コトバンク)

 かくして日本社会は、常に臨戦態勢の下に、10年毎に朝鮮人、中国人を虐殺し続け、10歳ごとに侵略戦争を体験・記憶し、朝鮮人・中国人に対する差別意識・排外意識と虐殺の経験を蓄積してきた。

(3)戒厳令及び軍隊の動きと民衆動員
 軍・警察がまず流言を流し、あるいは意図的に流言を利用・拡大し、次には虐殺の模範を示し、虐殺をそそのかし、そして今度は9月4日に、自警団取締令を出し、自警団を取り締まるそぶりを見せて、自らの責任を回避しようとした。
大虐殺は戒厳令の下で行われ、家族、地域、国家挙げてのものとなり、将来の国民総動員への転換点となった。
 戒厳令は、軍事独裁である。戒厳令は、擬似戦時体制を作り出し、憲法を停止し、議会を破壊し、国民の権利を大幅に制限する。
 日本の戒厳令は、1882年、軍人勅諭、徴発令とともに制定され、1889年、憲法第4条で「天皇が戒厳を宣告す」とされた。
 戒厳令には二種あり、軍事戒厳の宣告と行政戒厳とがあるようだ。
 前者は日清戦争中に1件、日露戦争中に6件行われ、これは臨戦地境(戦時もしくは事変に際し警戒すべき地方を区画)としての戒厳宣言であり、後者は、その後行われたもので、国内の特定地域における緊急の軍事的制圧を目的としたもので、これは3度宣告された。第1回は1905年9月6日で、講和条約反対・日比谷焼討事件、即ち9・5民衆暴動である。第2回は、関東大震災、第3回は2・26事件である。
 日比谷焼討事件を契機として、軍隊は、対外的なものではなく、国民民衆に対する治安部隊としての性格を露骨にし始めた。また1918年、米騒動の時には戒厳令は宣告されなかったが、軍隊は各地で治安活動に当たり、民衆に発砲し、殺傷事件を起こした
 関東大震災時の戒厳宣言は、山本内閣成立直前に、枢密院の諮詢を経ることなく緊急勅令によってなされ、手続き上違法性がある。これまでに戒厳令がなくても弾圧を担ってきた官僚と軍隊は、すでに動いていた
 9月1日、災害が起こると、東京衛戍(じゅ)司令官代理・陸軍中将・石光真臣(まおみ)第1師団長は、直ちに近衛師団(師団長・騎兵陸軍中将・森岡守成(もりしげ)・東京)と、第1師団に、全都の警備に当たらせた。在京部隊だけでは処理できなかったので、陸軍当局は、憲兵隊(憲兵司令官・陸軍少将小泉六一)に補助憲兵を増加し、当面、東京以外に駐屯していた部隊を招致し、森岡の指揮下に編入した。
 9月2日、戒厳宣言がなされ、東京市とその周辺の5郡に戒厳令第9条と第14条が布告された。
060 3日、東京府と神奈川県に戒厳地境を拡大し、関東戒厳司令部を特設し、軍事参事官・陸軍大将・福田雅太郎を戒厳司令官に任用した。
 4日、埼玉・千葉両県に布告を拡大した。
 2日、治安当局中枢部の内務省警保局長が、「朝鮮人が暴動を起こした」と認定した
 さらに軍隊が増派された。第13師団(井戸川辰三・仙台)、第14師団(長坂研介・仙台)、第8師団(小野寺重太郎・弘前)、第9師団(星野庄三郎・金沢)、第13師団と第14師団の工兵大隊である。
 大江志乃夫『戒厳令』岩波新書1978によれば、この「戦時特命の軍司令官要員である軍事参事官(福田雅太郎)を戒厳司令官に任用したことは、隷下の軍隊に戦時気分を高揚させた。」
 福田は第14条による人権制限を決定し、その「第4項、各要所に検問所を設け、通行人の、時勢に妨害ありと認める者の出入禁止、又は時機により水陸の通路停止」を拡大解釈し、告諭を発し、「この際、地方諸団体及び一般人士もまた極力自衛協同の実を発して、災害の防止に努められんことを望む」とし、軍隊・警察の下に自警団を取り込み、朝鮮人・中国人・社会主義者に対する検問・拘留の根拠とした。
 内務省は米騒動のときにすでに暴動対策として、各市町村に、在郷軍人分会と青年会を中心に自警組織をつくるよう行政指導していたが、関東大震災時には、自然発生的なものも含め、自警団が膨大に組織された。
 9月3日、関東戒厳司令官の福田は、戒厳地域を、東京北部(近衛師団など)、東京南部(第1師団など)、神奈川、小田原の4警備地区に分けて軍隊を配置し、結局、9月10日までに配置された部隊は、東京憲兵隊、歩兵59大隊、騎兵6連隊、砲兵6連隊、騎砲兵1大隊で、計人員5万2000人、馬9700頭であった。
 軍隊による兵器使用が解禁され、軍隊による検問、令状なしの検察、自警団への指導がなされ、軍による虐殺もあった。
 第1師団騎兵第16連隊の見習士官越中谷利一は、所属する習志野騎兵連隊が出動したとき、「戦時気分で無差別に列車を検察し、朝鮮人を拘引し、兵器で大量の虐殺をした」と回想している。(『現代史資料6』)
 日本政府・安倍晋三政権は「記録が見当たらない」としているが、軍隊による武器の使用があったとする資料が残されている。関東戒厳司令部詳報第三巻第四章第三節付録付表「震災後警備のため兵器を使用せる事件調査表」によれば、「第1師団の野戦重砲第1連隊と近衛師団騎兵第14連隊」(野重1の岩波清貞少尉以下69名と騎14の三浦孝三少尉以下11名)は、群衆及び警官4、50名が連行した朝鮮人200名を全部殺害した。ただし、この朝鮮人は中国人だった可能性があるが、軍隊側は「朝鮮人と確信している」と、中国人であることを知りつつ、国際問題になることを恐れて、事実を隠蔽しようとした。
061 このように軍隊の出動は、民衆を、不安や恐怖から朝鮮人・中国人虐殺へと向かわせる役割を果たした。戒厳令布告は、市民を悉く敵前勤務の心理状態にし、「天下晴れての人殺し」の意味を持った。巡査は「朝鮮人と見れば打ち殺してもよい」と告げ、民衆は「朝鮮人を捕らえれば、金鵄勲章をもらえる」と思い込んでいた。
 つまり、戦場心理と、国家(天皇)の名による敵殲滅と、報償とが一体化していたのだ。さらに朝鮮民衆の3・1独立運動に対する弾圧を思い出し、それが虐殺に転化し、「正義としての敵殲滅=虐殺」を引き起こした。戒厳令による「今回の震災による戒厳を、事変による戒厳と看做し、かつその戒厳区域を臨戦地境と看做し、敵国が国内に乱入したような」(津野田少将(藤井忠俊『在郷軍人会』岩波書店2009))状況が生じた。
 この戒厳令を推進したのが、警視総監赤池濃と内務大臣水野錬太郎のコンビであった。水野は1918年の米騒動時の内相で、1919年には朝鮮総督府政務総監であり、このとき赤家は朝鮮総督府警務局長であり、二人そろって3・1独立運動を弾圧していた。
 関東大震災時の第1師団長で衛戍司令官代行の石光真臣は、米騒動時の憲兵司令官であり、1919年には朝鮮憲兵司令官であった。
062 1919年9月2日、斉藤実は朝鮮総督として着任したが、南大門駅(現ソウル駅)で独立運動家姜宇奎に爆弾を投げつけられ、水野もこのとき現場にいた。現在、姜宇奎の銅像がソウル駅前にある。一方東京駅丸の内駅前広場には、巣鴨拘置所の教誨師であった田嶋高純らによる、BC級戦犯を追悼する「愛(アガペー)の像」がある。

(4)在郷軍人会並びに自警団、青年団
 日本の古くからの五人組は、相互扶助が謳われていたが、実は領主の命令で組織された隣保制度であり、連帯責任、相互監視を本質とする。戦時体制は、人権を制限するから、治安当局の補助機関として下から支える組織が必要とされる。それが、国防婦人会、在郷軍人会、町内会である。
 山田昭次は『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後』創史社、2011の中で、自警団の発生経緯を次の四つに分類した。第一に夜警団から生じた自警団、第二に、最初から朝鮮人対策の自警団としてスタートした自警団。第三に、官憲の命令でつくられた自警団。第四に、警察署が下請けの治安組織として有力者を介して町会を組織してつくった自警団である。
 いずれも地域の有力者を中心とするものであり、自然発生的ではなく、愛国精神=臣民意識を中心とした治安補助機関である。
 在郷軍人会は1910年に作られた。帝国在郷軍人会は、退役軍人の共済会ではない。満20歳になると徴兵される。3年間の現役を退役後、4年4ヶ月の予備役、10年の後備役が義務づけられ、その間、勤務演習簡閲点呼等軍事的義務を課され、一方で、連隊区司令部=市町村役場兵事掛、在郷軍人会等を通じて、日常的な監視・監督の下に置かれ、戦時は召集されることがある。補充兵現役選抜にもれた者)は、現役に欠員が生じたとき、および戦時に召集される。服役年限は、12年4ヶ月。
在郷軍人とは、この予備役・後備役・補充兵役にある者と、40歳までの国民兵役の者のことである。(藤井忠俊「関東大震災と在郷軍人会」季刊『現代史』9号1978
 田中義一は、総力戦体制構築を常に念頭に置き、日露戦争の教訓から、予備役、後備役の役目に目をつけ、在郷軍人を重視していた。
063 在郷軍人会は、平時に常時組織され、軍の統制下にあり、訓練されなければならない。そのために全国市町村に分会をつくり、青年会との関係も重視し、青年団と在郷軍人会とが直結した。
 米騒動や20年代の社会運動のとき、在郷軍人会に動揺が起こったが、このとき、関東大震災が起こり、それ以前に青年団、現役、在郷軍人会として40歳までの男が、日常的に軍の支配下に置かれていたことの意味は大きい
 関東大震災時に、在郷軍人会は、警察の次の、軍を支える組織となり、自警団が総力戦体制を地域から支えるための中核組織となった。
 清浦内閣から、加藤内閣、若槻内閣を通して陸相を勤めた宇垣一成は、関東大震災から教訓を得て、20余万の現役軍人、300余万の在郷軍人、5、60万人の中上級学生、千余万の青少年を軍部が掌握するという組織化を考えた。(『宇垣一成日記』1925
 地域の監視体制のもと、男は自警団に駆り出され、女は銃後を守り、子供は目の前で虐殺を目にして育った。こうして地域防衛、生活防衛、国防意識が一体化し差別排外意識が根を張った。

(5)ファシズムへの転換点としての関東大震災(国民=臣民意識の動揺と再統合)
 日清戦争の「勝利」に日本国民は興奮したが、日露戦争、シベリア出兵で、兵士は疲弊し、軍人に対する畏敬の念は衰退し、「国民=皇国臣民意識」は揺らぎ始めた。
 明治政府は危機のたびに天皇制イデオロギーを国民統合の手段に用いた。大日本帝国憲法発布の翌年、1890年、教育勅語を出し、日露戦争後の1908年、戊申詔書*を出し、「社会主義のような危険思想」への接近を戒め、天皇主義の下での「国民の精神生活」を指導した。また関東大震災後、19223年11月10日、「国民精神作興に関する詔書」*を出し、思想統制を強めた。

*戊申詔書は国民道徳の標準を示し、その後、地方改良運動が始まった。「上下心を一にし、忠実業に服し、勤倹産を治め、惟れ信惟れ義、醇厚俗を成し、華を去り、実に就き、荒怠相戒め、自彊息まざるべし」

*「国民精神作興に関する詔書」は個人主義、民主主義、社会主義の台頭に対処するために出された。
「朕惟うに国家興隆の本は国民の精神の剛健に在り、之を涵養し之を振作して、以て国本を固くせざるべからず。是を以て先帝、意を教育に留めせられ、国体に基づき淵源に遡り皇祖皇宗の遺訓を掲げて、その大綱を昭示したまい、後また臣民に詔して、忠実勤倹を勤め、信義の訓を申ねて、荒怠の誠を垂れたまえり。…」

 1918年、米騒動が起き、普選運動、労働運動、農民運動、共産主義運動、部落解放運動が展開され、1923年の春、三悪法(過激社会運動取締法案労働組合法案小作争議調停法案)反対運動となった。
 1919年、朝鮮では3・1独立蜂起、中国では、5・4運動や日貨排斥運動が起こった。
064 1920年代、朝鮮での産米増産計画のため、朝鮮人の日本への渡航者が増え、戦後恐慌で失業者も増えた。日本人労働者は朝鮮人や中国人に仕事を奪われるのではないかと畏れ、それが震災時の虐殺につながった。
 東京の亀戸・大島に多くの虐殺が集中したのは、この地域に多くの朝鮮人・中国人が住み、社会主義的労働運動の拠点と当局に目をつけられていたからだった。
 1920年、日本で最初のメーデーが行われ、1921年、神戸市にある川崎造船所3工場と三菱3社の労働者3万人による大争議*に発展したが、資本・権力が弾圧した。
*川崎・三菱神戸造船所大争議は、第二次大戦前の日本最大のストライキ。
 1921年10月、日本農民組合が成立し、1922年、全国水平社が創立され、また日本共産党が秘密裏に結成された。
 メーデーでは日朝労働者の団結が始まり、コミンテルンの影響もあった。
 植民地支配を必須と考えていた支配階級は、日朝、日中の労働者の団結は脅威であり、「国民=天皇の軍隊」よりも「労働者の国際連帯」が意識されるようになることを恐れていた。このような状況の中で発生した関東大震災時に、朝鮮人や中国人の大虐殺と、社会主義者の虐殺が行われ、日朝・日中労働者の連携をつぶした。関東大震災は支配層にとって、戦争へ向けた統治体制への転換点となった。
 9月1日前後は内務省と警察にとって警戒を要する状況にあった。
第一に、8月23日、加藤友三郎首相が病死し、26日、内閣総辞職、28日、山本権兵衛に組閣の大命降下という政情不安があった。
第二に、日本共産青年同盟が、9月第一日曜日(9月2日)の国際青年デーを準備しており、さらに8月29日が日韓併合の屈辱の日にあたり、内務省は「一派の者が二百十日(9月1日)前後に不穏計画を実行せんとする」と警戒していた。
第三に、9月1日に山本が組閣を完了し、親任式を行う予定で、赤坂離宮にいた摂政裕仁は、宮城に向かい、親任式後、箱根に避暑に行く予定であった。そのため摂政の行還啓に伴う沿道の警備のため、要視察人の予防検束が予定されていた。
 関東大震災のあった、1923年のメーデーでは「植民地の解放」を取り上げることが決定されていたが、当日、官憲の弾圧でつぶされ、日本人社会主義者70名、朝鮮人労働者50名、日本人労働者150名が検束された。当局にとって朝鮮における抗日独立運動、中国の反日運動、日本の労働運動の高揚と連帯は、破壊しなければならない対象となっていた。
065 日本の民衆運動は、関東大震災で大虐殺に動員され、民族排外主義に屈してしまった。

(6)関東大震災大虐殺から南京大虐殺へ
 1924年5月、当時の清浦内閣は関東大震災時の中国人虐殺に関する賠償を決定し、1925年6月、中国との交渉に入ったが、「時局のため」中断した。
 1925年、社会運動取締のために、治安維持法が成立した。 
 1926年、日本国内の内政が混乱し、年末に天皇が代替わりし、1927年、若槻礼次郎内閣が倒れ、1927年4月、陸軍大将だった田中義一内閣が誕生した。
 田中義一は、一貫して国民総動員体制の構築を考え、「国民を国家の政策に動員し、強固な国家への支持を取り付け」「この難局を打開するためには、国家の総動員をなして、生産の増加を計り、内は生活の安定を得、外は国運の発展を求め」、「この意味を国民がよく了解し、初めて経済、産業、教育、その他、あらゆる事項に努力し、国家観念・皇室観念が王制となる」と考えていた。
 田中は外相を兼任し、外務政務次官は、幣原外交を批判してきた、徹底的な帝国主義者の森恪(つとむ)であり、内務大臣は、大日本国粋会顧問の鈴木喜三郎であった。
 1927年5月、第一次三東出兵、
1928年4月、第二次三東出兵、斉南事件、
1928年5月、第三次山東出兵、
1928年6月、張作爆殺事件、
1931年9月、9・18事件、
以後、昭和の天皇制ファシズムの時代へ進んだ。
 関東大震災の朝鮮人・中国人虐殺に関する現日本政府の答弁書は、一貫して「資料がない」と事実を覆い隠そうとしている。資料は沢山あるし、政府の防災会議のホームページには、大虐殺を調査している研究者の資料を紹介している。日本政府は「あって欲しくないことは、なかったことにする」という態度である。
 かつての政府は隠蔽工作をしていた。中国人虐殺に関して、1923年11月7日、五大臣会議(総理山本権兵衛、内務後藤新平、外務伊集院彦吉、司法平沼騏一郎、陸軍田中義一)によって隠蔽された政府資料(11月8日亜細亜局長口述『王希天問題及び大島町事件善後策決定の顛末』)に示されている。
066 現在、東京都都知事小池百合子は、右翼の排外主義的な言動と呼応し、昨年2017から関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式への追悼文送付を取りやめ、関東大震災時の朝鮮人虐殺の歴史を曖昧にし、否定しようとしている。日本では、アパホテルのように南京大虐殺を否定する動きは止まず、2018年10月の安倍改造内閣の柴山昌彦文科相のように、教育勅語を賛美する政治家が絶えない。

以上  2019930()



2019年9月28日土曜日

2018年南京大虐殺81ヵ年 証言を聞く東京集会報告集 全水道会館 2018.12.12 読後の感想


2018年南京大虐殺81ヵ年 証言を聞く東京集会報告集 全水道会館 2018.12.12

本報告集を読んで感じたこと

一つは、日本軍が関与した何らかのスキャンダルが報じられた場合、そのスキャンダルは、一件だけで尽きるものではないとうことだ。つまり、他にもその種の事例がいくらでも見つかるということだ。たとえば「郵便袋事件」、中国ではこれを「殺人遊戯」と呼んでいて、そのほうが事の真相をよく物語っているのだが、これは、郵便袋の中に中国人を詰め込み、袋にガソリンをかけてから火をつけ、しばらく苦しみもがかせた後で、今度は、袋に手榴弾をくくりつけ、沼に放り込んで殺すという、まさに殺人遊戯なのだ。この郵便袋事件について記述している『東史郎日記と私』には、この他にも、弁髪を馬の尻尾に結びつけ、馬に引っ張らせ、苦しめたあげく刺殺するとか、下半身を裸にさせて、二本の並んだ木に縛りつけ、両足の間に火をつけ生殖器を焼くとか、他にも様々な記述がある。076光文社『三光』の中にもこの種の猟奇的な殺人様式がふんだんに現れる。
こういうやりかたは一時的な一事例で尽きるものではなく、日本軍にとっては日清戦争以後一般的だったようだ。木野村間一郎氏によれば、この種の殺戮は、早くも、日清戦争での東学農民戦争で農民を虐殺したころから始まったとのことだ。これが日清戦争以降の日本軍の一般的な戦いぶりだったとは、残念なことだ。

どうしてこのように他者をなぶりものにするような殺人行為を日本軍はずっとやってきたのか。二つ目の問題はこれだ。その原因は、民族差別意識、つまり、朝鮮人や中国人を蔑視する風潮が日本人の心の中に生まれ、増幅され、習慣化していったためと思われる。そしてその傾向は、日清戦争に勝利すると、それまで中国に対して抱いていた畏怖の心性から解放されて高揚し、自らが優秀で選ばれた天皇の臣民だと自負する優越感に繋がっていったようだ。そして、日清戦争から10年毎に対外侵略戦争を繰り返す中で、その体験が10年毎に、世代から世代に受け継がれ、それを家族全体が支え、全民族的な心性にまで高まり、定着・増殖していったようだ。木野村間一郎氏は、1927年4月、陸軍大将から首相になった田中義一が意識的にこれを押し進めたと語っている。065さらに木野村間一郎氏が指摘していることだが、この日本人の民族的な差別意識は、関東大震災時に、軍部・警察が指導し、在郷軍人会、青年団、町内会などの活動を通して国民全体の中に拡散・定着していったとのことだ。つまり、関東大震災時の戦時体制的雰囲気の中で、民衆は、異民族=朝鮮人・中国人の集団大虐殺を体験・学習したのだ。

 最後の問題は、南京大虐殺は、なかったと言う人たちが何故そう言うのかという問題である。おそらく彼らは日本人だけが優れているという考え方に浸り続けていたいのだろう。同窓の某氏は、私が、彼の考え方は間違っている、右派の考え方に影響されている、元「慰安婦」の証言を読んでみるようにと勧めても、忙しいから読まないと言う。彼はたとえ自分の考え方が間違っていると分かっていても、朝鮮人や中国人なんかに頭を下げたくないと考えているのだろう。朝鮮人や中国人との共存・共生などまっぴらだという気持ちが腹の底にあるのだろう。たとえ自分の考え方が間違っていても、自分だけが、自民族だけが優れているという気分に浸っていたいのだろう。自分は特別だというエリート意識だ。こういう考え方が世の中の大勢を占めないことを望む。同じ過ちを繰り返してはならない。

 最後に、余談になるが、そうならないための提言を一つ述べさせてもらいたい。それは、英語ばかりでなく、韓国語や中国語も学習し、韓国や中国を旅行する、それも、パック旅行でなく、個人旅行で、現地の人と現地の人の言語でコミュニケーションすることだ。そうすると他者を、自分の観念の中だけの他者としてではなく、現実に血の通った生身の人として実感できるようになる。また、その国の言語を学んでいると、自ずとその国の政治・社会・生活・思考様式など様々なことに関心を持つようになり、自国を他国の眼から相対的に見ることができるようになるはずだ。
私自身の体験を話せば、私は韓国語を学び始めてからもう7年になるのになかなか上達しないのだが、今夏40年ぶりにソウルを訪れ、平和の少女像周辺に居合わせた男女や、ナヌムの家のハルモニなどに片言ながら話しかけ、その他の機会にも韓国の人々と生身で接することにより、今までの観念の中だけの韓国人像から脱出し、韓国が今までよりも身近に感じられ、新聞を読んでいても内容がより現実的になったような気がする。一方、中国語学習は1年で止めてしまったのだが、この報告集を読み、中国語学習も、ある程度韓国語の目鼻がつくようになったら、また始めて、南京をはじめ中国の各地を訪れ、中国の人たちと話してみたいと思うようになった。また外国語を学ぶことは、ボケ防止にもなるし、学ぶ過程で人との交わりもでき、社会が広くなり、人生の楽しみも増えるのではないだろうか。

以上 2019927()


2019年9月27日金曜日

「南京大虐殺‐私記:その遠景と近景」 田中宏 要旨・抜粋・感想


2018年南京大虐殺81ヵ年 証言を聞く東京集会報告集 全水道会館2018.12.12

「南京大虐殺‐私記:その遠景と近景」 田中宏 

1937年生まれ、東外大中国語科卒、一橋大学大学院修士進学、アジア文化会館、名古屋県立大学1972、一橋大学名誉教授、翻訳家

1931年から敗戦までの日本側の言い分は、日中の武力衝突が、「戦争」ではなく、「事変」であるというものだ。つまり、対中国武力行使は、戦争ではなく、膺懲である。中国は日本より劣っている、中国は日本に対して友好的でない、だから中国を膺懲する、懲らしめるというのだ。戦争ではない。戦争ではないから、国際法を守らなくてもよい。捕虜を殺す、生体実験をする、毒ガスを用いる、細菌をばらまく等々の国際法違反も構わないというものだ。045
また宣戦布告すると、中立国から軍需品が手に入らなくなるという理由で、1937年、山本五十六海軍次官と梅津美治郎陸軍次官が、内閣書記官長(現在の官房長官)のところに来て、対中「宣戦布告」をしないようにと要請した。043

太平洋戦争で宣戦布告する際、「国際法を遵守する」の文言が入っていないのはどうしてかと天皇が問い正すと、東条英機が敢えて入れないように天皇に要請したとのこと。(徳川義寛・前侍従長の証言、朝日新聞1995.8.11)それは、マレー半島に上陸するために、国際法違反であるが、事前に独立国のタイに軍隊を侵入させる必要があるからだった。042

感想 日清戦争時には「国際法を遵守する」という文言を開戦の詔勅に入れて宣戦布告したというが、旅順での虐殺は、国際法を遵守したと言えるのか。日本には西洋人は重く見るが、東洋人は蔑視するという「国際法」無視を合理化するための、民族差別観があったのではないか。2019926()

藤岡勝信は『教科書が教えない歴史』の中で、第一次大戦のとき、日本がドイツ人捕虜を厚遇したおかげで、日本で初めてベートーベンの『英雄』を演奏したのは、徳島の板東捕虜収容所に収容されていたドイツ人だったと言うが、その後の戦争で日本が捕虜をどう扱ったかについては触れない。藤岡の巧妙なトリックに騙されてはいけない。
しかも藤岡以前に、富田弘が『板東俘虜収容所-日独戦争と在日ドイツ俘虜』のなかで、ドイツ人捕虜による、ベートーベンの『英雄』演奏の件について書いていた。
ちなみに、日露戦争時のロシア兵捕虜も、道後温泉で手厚く扱われたらしい。042
044 鈴木明が『南京大虐殺のまぼろし』(文春、73)を出版した。(これは南京虐殺がなかったという説か。)
045 15年戦争時には意図的に国際法を無視するという政策がとられた。南京大虐殺、重慶爆撃、細菌戦、強制連行、「慰安婦」等すべてが国際法違反である。
東京裁判時における、武藤章陸軍省軍務局長の法廷での証言「中国との戦争は公には『事変』として知られていますので、中国人の捕らえられた者は俘虜として取り扱われない…。だから捕虜虐待はない。」045
東京裁判判決文「この戦争は膺懲戦であり、中国人民が日本人民の優越性と指導的地位を認めること、日本と協力すること、それを拒否したから、これを懲らしめるために戦われているのであると日本軍当局は考えている。この戦争から起こる全ての結果を甚だしく残酷で野蛮なものにして、中国人民の抵抗の志を挫こうと、これらの軍指導者は意図したのである。」
049 1964.8、「北京シンポジウム」で訪中し、南京を訪問したとき、「一人で町を歩かないように」と注意された。
051 1987年12月、東史郎が、自分が南京虐殺時の日本軍人だったと南京に行って謝罪した
鈴木明が『南京大虐殺のまぼろし』(文春、1973)を出版し044石原慎太郎が「あれは中国人の作り話だ」と米誌「プレイボーイ」1990.10のインタビューで述べた。
052 東史郎が『わが南京プラトーン』を出版してから6年後の、1993年4月、戦友の西本が東を相手取り名誉毀損で東京地裁に提訴し、2000年1月、東の敗訴が最高裁で確定した。つまり、東が、南京で虐殺を行った上司西本の名誉を傷つけたと日本の最高裁判所が認めたのである。(「郵便袋事件」中国では「殺人遊戯」と言う。*)

*上司の西本は、中国人を袋に詰め、ガソリンをかけ火をつけ、苦しみもがくと、今度は、手榴弾をつけた袋を沼の中に投げ入れ、爆発させた。(ノーモア南京の会『東史郎日記と私』任世淦著、田中宏監訳075

053 吉田裕は『日本軍兵士-アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書2017)の中で、『支那事変の経験に基づく経理勤務の参考(第二輯)1939.3』の中の「住民の物資隠匿法とこれが利用法」を紹介しているが、これは軍の指示による、中国での略奪の仕方の手ほどきである。

2019926()

2019年9月24日火曜日

関東大震災時の中国人虐殺追悼集会での中国人代表団の挨拶 2019.9.8 要旨


関東大震災時の中国人虐殺追悼集会での中国人代表団の挨拶 2019.9.8

「歴史を忘れず、鑑としよう」 周江法

私の祖父周端楷は、兄弟の周端興、周端方、周端勲、母方の祖父林永潘、親戚(祖母の妹の夫)の麻銀宝の計六人で、1922年、出稼ぎで、東京の大島町で合法的に働いていた。9月3日夜明け前から、日本は軍隊を出動させ、計画的に組織された警察、青年団を中心とする自警団は、あちこちで中国人労働者を包囲し、惨殺した。私の村の出身者は20名いたが、当日山林に逃げた周賢者、周慶飛の父子以外の18名は、大島町七丁目、八丁目あたりで惨殺された。一家六名が惨殺されたニュースは、全中国、全世界を震撼させた。
中国に残された私の父は当時3歳だった。曾祖母、祖母は、数ヵ月後に6人の死を知り、子供の周端田、孫の周錫昌を養育した。祖母(氏)は、夫の周端楷など6人が虐殺されたことを知ると、病気になり、1924年8月に死去した。私の父は、父母を失い、父の祖母、私の曾祖母によって育てられた。1997年に77歳で亡くなった父は、死ぬとき、日本の地に赴き線香をあげてくれと私に遺言した。
私は日本政府から賠償を求めるために、2013年9月から今までの6年間、妻や娘、孫娘とともに6回も来日し、先祖追悼行事にも参加し続けた。2014年、私は、700余名の受難者の遺族を代表して、日本外務省に請願状を提出し、2015年9月以降、催促状を届けた。日本政府は、死難した700余名の人たち、数万人に及ぶ死難者の遺族に対して、公正かつ明確な答えを出してもらいたい。
我々は700余名の遺族の代表者として、日本政府に歴史を直視し、96年前に犯した卑劣な罪を認めることを要求する。
日本政府は、歴史の真相を究明し、その惨劇が日本の国家行為だと認め、1924年に日本政府が予定した賠償案を切実に実現し、無残に虐殺されたわが先祖や遺族たちに明晰な結論を出してほしい。
私たちは「歴史を忘れず、歴史を鑑に」という基本を決して忘れてはなりません。
中日両国の関係者に対して、この悲惨な歴史に注意を払い、両国の次の世代のために、美しい平和な環境を築き、両国の人民の幸福のために努力していただくよう、これからも呼びかけていきたい。

王旗
真実を保存し、記憶を守り抜く、常に尊敬することを忘れない。
祖父王希天や温州旅日華工の追悼活動にこのたび参加した。
王希天は1914年来日した。1918年周恩来とともに「拒約運動」を起こした。
王希天の陵園が吉林省長春に建設された。
日本人研究者が「東瀛(よう)惨案」*の研究を深め、関東大震災時の虐殺の歴史の真相を明らかにした。
日中二つの社会価値観の相互の衝突と交流を実現すれば、歴史研究が推進するだろう。
中日両国人民が後の世代まで友好でありますように。
 *「東瀛(よう)惨案」とは、関東大震災時の中国人虐殺事件のこと。瀛は海の義。
王思迪(テキ、ジャク、みち)
青山は老いることなく、忠義な魂は永遠にとどまる。
今年は曽祖父王希天烈士が殉難してから96周年目になる。
私の年長者たちは私に、民族の大義と民族の気概を知らなければならないと教え諭した。
私は英国に留学後、中国に戻り、一流教育ブランドを創造するために努力している。私は最高素質の中国人になれることを心から願っている。
私たちは平和な時代に、髪を振り乱し、熱血を注いで、私心を捨て革命千烈となった人々を決して忘れてはなりません。
中日両国人民の世々代々の友好を!

張令威

今年は、曽祖父王希天烈士が殉難してから96年になる。
1970年代に、周恩来や鄧穎(エイ、ヨウ、ほさき)超等の配慮の下に、私の母王旗と家族は、王希天烈士の資料の調査・収集活動を行った。
中国社会科学院近代史研究所、吉林省社会科学院、吉林省党史事務室、吉林省档(とう)案局、吉林省革命博物館等も王希天に関する資料の収集を行った。
1990年代に中日両国の研究者の努力で、関東大震災時の殺傷事件が、(事件発生以来)70余年をかけて、世界に公開された
1994年、長春に王希天研究会が成立した。
1996年、吉林省革命博物館は、『王希天生涯業績展』を、長春、北京、遼寧、黒竜江等で開き、王希天烈士陵園が長春石碑嶺に落成した。また、この期間に10余部の専門書と図録が編集出版された。
1922年、王希天は、旅日華工を貧困から助け出し、困難から救い出し、その権益の合法化のために、東京地方裁判所に申請し、中国僑日労働同胞共済会を創建し、会長に推挙された。
1923年、793人の旅日華工が日本人によって理由もなく殺戮され、数千人の華工が習志野の収容所に押送された。王希天はその真相を調査し、被災した中国人を慰問したが、日本の軍警によって逆井橋のたもとで殺害された。
今日王希天烈士の奮闘献身した祖国は繁栄しており、世界の東方に巨人としてそびえている。
中日両国人民の世々代々の友好のために、私たちは神聖な責任を負いましょう。

周松権

私は、中国浙江省温州市甌(オウ、わん、はち)海区澤雅鎮の桂川村*の出身である。
*桂川村は、前述の周江法さんと同郷。
今年は中国浙江省の温州、青田両地方の在日労働者や商売人700数名が虐殺されて96年目である。96年前、温州、青田両地方の山地の農民や職人は、合法的に日本に渡来し、生計を立てようとした。1923年9月1日の地震時には中国政府や民間各業界は、たくさんの支援物資を日本に送った
ところが、日本政府は戒厳令を下し、治安維持の名目で、渡日華工と行商人、そして中国人留学生のリーダーで「共済会」会長の王希天を残忍かつ卑劣にも惨殺した。
我が桂川村だけで、祖父周可洪を始め、周可其、周端楷*など18名が惨殺され、2人だけが生き残った。
*周端楷は、前述の周江法さんの祖父。
中国に残された家族は、病死、餓死、衰弱死、家族の離散などの悲劇に苦しめられた。
日本政府は、悲劇の被害者とその遺族に謝罪して欲しい。私たちは2014年に請願書、2015年から毎年督促状を日本政府に提出したが、日本政府は未だに回答していない。
私たちは日本政府が1924年に内閣決議した賠償方針に従い、相応の賠償をするように求める。また受難した700数名の中国人労働者や行商人のために、記念館や記念碑を建てることを求める。

蘇秀栄

 私は中国浙江省温州市甌(オウ、わん、はち)海区澤雅鎮の黄降村の出身である。私の父、蘇上三、蘇上四を含む同郷の6名の祖先が、被害にあった。
1920年から1923年の間、私の祖父、蘇上三と蘇上四ら6名は東京大島の七丁目や八丁目一帯に住み仕事をしていた。
1923年9月3日、軍隊と自警団は、至るところから中国人労働者を取り囲んで虐殺した。当日私の村の6名の村人は皆八丁目で虐殺された。
祖父蘇上三と蘇上四が殺されたという知らせは1923年の冬に伝えられ、全村は悲痛の声で覆われた。家族は離散し、一家は没落し四散した。
日本政府は歴史的犯罪を調査し、歴史の公道と正義を回復し、国家的責任をもって95年前に政府決定した賠償を誠実に実行し、公道を取り戻すよう誓約する(してほしい)。

以上 2019924()


山河慟哭 東瀛(エイ、ヨウ、うみ)惨案 史料が語る1923年関東大震災中国人虐殺事件 要旨・抜粋・感想 


山河慟哭 東瀛(エイ、ヨウ、うみ)惨案 史料が語る1923年関東大震災中国人虐殺事件

感想
韓国には被害者名簿がなかった。*中国にはあった。そのため補償の請求ができた。中国本土に逃げられた留学生等が被害の実情を中国にもたらした。

*6)で、留学生の調査により、朝鮮人被害者数6661人、しかし詳細な氏名は殆ど不明。2017.8.3、韓国の遺族5人が、釜山で遺族会を発足とある。

王希天殺害に関して、日本はだんまりを決め込んでいた。しかし、加害者の日記が発見されて、明るみに出た。

1)中国人虐殺事件 仁木ふみ子作成による大島町の地図

大虐殺は戒厳令下で発生した。
9月2日、東京市とその周辺5郡に戒厳宣告がなされ、内務省警保局長が、朝鮮人が暴動を起こしたと認定した。
3日、戒厳宣告が東京府と神奈川県に拡大し、戦時特命の軍事参議官福田雅太郎が、戒厳司令官に任用され、戦時気分を高揚させた。
4日、戒厳宣告が埼玉・千葉両県に拡大した。
 東北や金沢の部隊にも東京への出動を命じた。
 福田は、各地に検問所を設け、「この際地方諸団体及び一般人士もまた極力自衛共同の実を発して、災害の防止に努められんことを望む」と告諭し、軍隊、警察の下に、自警団を取り込み、それが、朝鮮人、中国人、社会主義者を検問・抑留・拘留する根拠となった。
 米騒動1918のときにすでに内務省は、暴動対策として、各市町村に在郷軍人会と青年会を中核とする自警組織を作らせる行政指導をしていた。関東大震災時には、これが自然発生的なものも含めて膨大に組織された。また軍による虐殺の記録もある。
 9月10日までに配置された軍隊は、東京憲兵隊、歩兵59大隊、騎兵6連隊、砲兵6連隊、騎砲兵1大隊ほかで、人員5万2000人、馬9700頭であった。
 軍事的制圧の形態をとり、軍隊による兵器の使用が解禁され、軍隊による検問、令状なしの捜査、自警団への指導がなされた。軍隊の出動は、民衆を、混乱・不安・恐怖から、朝鮮人や中国人の虐殺へと踏み込ませた。
 戒厳令布告は、市民を敵前勤務の心理状態にさせ、「天下晴れての人殺し」を意味した。「朝鮮人を見れば打ち殺してよろしい」と巡査が告げれば、人々は「朝鮮人を捕らえれば金鵄勲章をもらえると思いこんだ
 警視総監の赤池濃と内務大臣の水野錬太郎が戒厳令を推進した。水野は米騒動のときの内務大臣で、1919年には朝鮮総督府政務総監となり、朝鮮総督府警務局長赤池とともに3・1独立運動を弾圧した。
 関東大震災時東京南部を担当した第1師団長衛戍(ジュ)司令官代行石光真臣は、米騒動時の憲兵司令官で、1919年には朝鮮憲兵司令官であった。

中国人被害者の名簿はある。
留学生王兆澄等が、被害にあった中国人一人ひとりについて、生死、被害状況、加害者、目撃者、財産被害状況を調査し、帰国してその名簿を中国にもたらした

2)大島事件
 大島事件はまず、帰国した唯一の幸存者・黄子蓮によって明らかにされた。また日本の外務省の記録もある。
 資料① 日本外務省資料「支那人に関する報道 9月6日警視庁広瀬外事課長直話」は、「軍隊及び自警団」の関与の下に「9月3日…支那人及び朝鮮人三百名乃至四百名三回に亘り銃殺又は撲殺せられたり」とある。
 資料② 9月21日、外務省亜細亜局長「支那人王希天行衛不明の件」(「不明」とうそぶいているが、実は秘密にしておこうと取り決めていた(後述))で、「本所大島町付近に於いて、約三百名の支那労働者殺害せられたる事実は、9月16日、警視総監の出渕局長に言明(正力(松太郎)官房主事熱心にこれを裏書せり)せる」「同問題と王希天行衛不明問題とは、多分早晩支那側の疑惑を惹起するに至るが如き」と記している。
 資料③ 『支那人虐殺事件』(防衛省防衛研究所所蔵、陸軍省-密大日記 上海陸軍歩兵少佐小林角太郎作成)には、「惨殺せられたるもの170余名」「その大部分は(中国浙江省)温州付近のもの」とある。
 資料④ 古森(繁高)亀戸警察署長の白上官房主事宛『木戸四郎が新聞記者に説明した報告』には、「9月3日正午より軍隊約7名が5名の鮮支人を現場において撲殺せるを手始めに続々二三丁目方面より支那人を三々五々連行し撲殺し、午後6時までに約250名を、軍隊、自警団警官にて惨殺せる」とある。(これによって、中国人を間違って殺したというのは嘘だということが分かる。)
 資料⑤ 関東戒厳軍司令部詳報第三巻「震災後警備のため兵器を使用せる事件調査表」には、戒厳部隊の動きとともに「大島町事件」虐殺の事実が記されている。「支那労働者なりとの説あるも、軍隊側は鮮人と確信殺害したるものなり」とあるが、生存者証言があり、これまでの資料から、むしろ中国人と認識した上で、国際問題になることを恐れ、隠蔽する意図が明白である。

感想 この資料の表題には「鮮人保護」とあり、その内容部分には、「大島町付近住民が鮮人から危害を受けようとしていたとき、軍隊が救援隊を出し、鮮人を包囲しようとした。群衆と警官四五十名が、約二百名の鮮人団を引っ張ってきて、それをどう始末するか話し合っているとき、騎兵卒三名が鮮人の首領二名を銃把(取っ手)で殴打したことから、鮮人と群衆及び警官とが争闘となり、軍隊はこれを防ごうとしたが、鮮人は全部殺された」とあるが、これは嘘っぽい話だ。連れて来られた朝鮮人が、どうして警官・群衆と闘うことができるだろうか。原文は下記の通りである。

大島町付近人民が鮮人より危害を受けんとせる際、救援隊として野重(野戦重砲兵)一、二岩波少尉来着し、騎十四の三浦少尉と偶々会合し、共に鮮人を包囲せんとするに、群衆及び警官四五十名、約二百名の鮮人団を率い来たり、その始末協議中、騎兵卒三名が鮮人首領二名を銃把を以て殴打せるを動機とし、鮮人は群衆及び警官と争闘を起こし、軍隊はこれを防止せんとせしが、鮮人は全部殺害られたり。

一、野重一、二将校以下六十九名は兵器を携行せず(明らかな嘘、デマ)
二、鮮人約二百名は暴行強姦略奪せりと称せられ棍棒鉈等の凶器を携行せり(自分たちが普段やっていることではないか)
三、本鮮人団は支那労働者なりとの説あるも軍隊側は鮮人と確信殺害したるものなり

大島町事件の背景
 9月3日、大島町付近で300名から400名の中国人が、戒厳軍、警察、自警団によって虐殺された。
 大島町には中国人労働者が集中して生活・就労していた。大島町は、第一次大戦後、水運を利用した工場地帯として発展した。大島町の北には、鐘淵紡績、東洋モスリン、日清紡績、東京キャラコなど『女工哀史』で有名な紡績工場ができ、亀戸町には、日立製作所亀戸工場、汽車会社、精工舎ができ、大島町には、東京スプリング、大島製鋼、日本鋳鋼、東京鋼材、高砂鉄工大島工場、日東化学などができ、小名木川周辺には、東京人造肥料工業、浅野セメント工場、日本精製糖などができた。
 中国人労働者は日本人労働者より大幅に安い賃金で、石炭運びなどの荷揚げ作業を担った。日本人労働者の労働・生活条件も劣悪だった。この地域は労働運動の中心地となり、労働争議が不断に発生した。中国人労働者は東京市内での在住を禁じられ、大島町を中心に、同郷人が開設した小さな宿屋にまとめて住んでいた。大島町三丁目に「僑日共済会」ができ、中国人労働者の権利擁護のために闘っていた。
 ロシア革命1917、米騒動1918、3・1民衆蜂起1919、5・4運動1919が起きた。「万国の労働者団結せよ」のスローガンが世界に広がり、全世界の労働者と被抑圧民衆との連帯が広がりつつあった。 中国に権益拡大を求める日本政府・資本にとって、朝鮮・中国の労働者を弾圧し、日本の労働者・民衆から分断するのは必須と考えられた。

3)王希天事件
 吉林省出身の留学生王希天は、1918年、「中日共同防敵軍事協定」反対運動を周恩来とともに推進し、1919年、五・四運動において、東京で支援運動を起こし、日本官憲から「反日の巨頭」と目された。
 さらに日本に出稼ぎに来ていた中国人労働者の生活と権利擁護のために、1922年9月21日、労働者の拠点である大島町3丁目に「僑日共済会」を作った。設立大会には公使館から江秘書官も出席した。僑日共済会には、名古屋、大阪、京都にも支部があった。1923年5月には、会員3000人にまでなった。僑日共済会は、未払い賃金の労働相談や、労働者を国外退去攻撃から守り、身分安定を求める行政交渉にあたった。
 1923年9月9日、王希天は大島町の労働者の様子を見に行ったところで、亀戸警察署に逮捕され、9月12日夜、亀戸署から軍隊に引き渡され、その未明、逆井橋のたもとで、野重(野戦重砲兵)第3旅団第1連隊の垣内八洲中尉、佐々木兵吉大尉等によって虐殺され、切り刻まれ、中川に投げ込まれた。
 軍隊によるこの虐殺は、日本政府によって隠蔽され続けたが、関係した軍人の日記などによって事実が明らかになった。(『関東大震災と中国人-王希天事件を追跡する』田原洋、2014年、岩波現代文庫

4)当時の中国、日本の新聞は虐殺事件をどう伝えたか (仁木ふみ子・青木書店「震災下の中国人虐殺 中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか」より引用)

 『中華新報』(上海)1923年10月17日の社説
…日本の震災の初めは大変な混乱で、警察力も不足し、青年団の暴行も烈しかった。中国の学生も非常な辱めを受けた者がいる。しかし、中国人一般は、空前の変災中の事として深く理解し、これを責めるつもりはない。だが、200余人の華工が殺され、共済会長王希天が警察に捕らえられたまま行方不明であるとするならば、ことは重大で不問に付するわけにはいかない。…日本の官庁は検挙しないわけにはいかないだろう。日本で未だにこの事が伝わらないのは、故意の隠蔽によるのである。共済会長がすでに殺されたとするなら何の咎によるのか。日本政府は即刻発表すべきである。
…たとえ、ことごとく自警団の暴行であったとしても、日本当局は責任を負わなければならない。しかし王(兆澄)氏の報告によれば、軍隊、警察の手によったものがかなりある。もし被害華工たちが、殺人、放火をしたということがなければ、軍禁を犯したことにはならないはずである。何故これを殺したのか。
…日本の新聞の最近の記事では、震災中の無数の暴行がだんだん暴露されてきた。その中、日本官吏の最も不名誉なものは往々にして殺人の後、これを隠蔽している。憲兵甘粕がほしいままに大杉栄夫妻及びその7歳の甥を殺してその死体を隠したように。…また、亀戸地方で、労働党14人を殺して軍警また死体を隠し、その家人に告げなかったのも同様である。青年団の種々の残虐、軍警の合法非法の種々の拷問をみると、華僑の被害もあり得ることだと思われる。しかも日本軍警の度重なる隠蔽を見れば、華僑事件の隠蔽もうなずけるのである。
吾人は誠意を以て日本国民に訴える。日本文明の名誉のために、中国国民の感情のために、人道と法規のために、世論の力を以て、東京当局を鞭撻し、速やかにこの事件を発表し、法によって責任者を追及し、以て冤魂を慰め、公道を明らかにされんことを。

感想 こんなにバランス感覚のある文章を書ける人が中国にいたということはいいことだ。

削除された「読売新聞」1923年11月7日の社説(復元。筆者小村俊三郎は中国通だった。)
支那人惨害事件 
一 朝鮮人虐殺、及びこれに伴い我が日本人まで殺傷を被るものがあった事件は、大杉その他の暴殺事件と共に、日本民族の歴史に一大汚点を印すべきものであることは、繰り返してこれを言うまでもない。…多数の支那人が惨害を被り、事件発生の二ヶ月を経つ今も、我が政府は何ら事実も、それに対する態度をも明らかにしていない。
二 京浜地方で被害を被った支那人は300人くらいにのぼるであろうとのことである。その中で最も著大で最も残虐な事実は、9月3日、大島町の支那人労働者合宿所で、多数の支那人が何者かに鏖殺(おうさつ、皆殺し)され、また同月9日、僑日共済会元会長王希天氏も亀戸署に留置された以後生死不明となった事実である。これらの事実は主として支那人側、とりわけ我が政府の保護を受けて上海に送還された被害者中の生存者から漏泄されたものである。
三 大島町の惨事から既に2ヶ月経過している。この事実は、人道上、国際上から、とりわけ善隣の誼みある支那との関係であるだけ、重大な外交問題である。また国内の司法警察の眼からみてもこれは重大な内政問題でもある。この問題が相手国の支那で問題とされるまで、我が内務及び司法の官憲は果たしてその知識を有していたか否かをも疑われ、そして支那において問題とされる今日まで、なおその真相をも態度をも明らかにしていないということは、実に一大失態である。
四 本事件は、内政関係は、鮮人事件、甘粕事件と同一の原則により、厳正な司法権の発動を待ち、わが国内の法律秩序を維持回復する意味において重大である。同時にその外交関係は、その事実を事実と認めて男らしくこれに面して立ち、出来るだけ自ら進んで真相を明らかにし、その犯行に対してはあくまで法の厳正なる適用を行い、以て内自らその罪責を糾正し、それによって対支那政府と国民とに謝するの外はない。幸いに支那政府国民は今回の惨害が天変地異と相伴うて起こった不幸の出来事であるに対し、多少の寛仮と諒恕とをば有し、とりわけ心ある者は、これによって震災以後せっかく湧起した両国の好感を根本から破壊することのないようにと考えていてくれるものすらあるようである。
五 吾人は内務・司法並びに外務の当局に対し、十分にその苦心を諒とする。しかし、政府当局者は当面の責任を免れぬ。本事件に対する政府の責任は、他の朝鮮事件、甘粕事件同様、我が陸軍においてその大部分を負担すべきはずである。なぜならば、これらの事件は、すべて戒厳令下で起こった事柄であるからだ。もし陸軍が司法・内務並びに外務の当局者と協調し、共同の事件調査と共同の責任分担を行わないならば、司法・内務並びに外務は、行き詰まるだろう。そして最後は国民自身が全責任を負うことになるだろうから、吾人は、我が国民の名において、最後にこれを陸軍に忠言する。

感想 この時代にもこういうことをはっきり言える人がいたのだ。軍部の独走・弾圧がすでに始まっていたとも言える。削除されたとあるが、どんな経緯だったのだろうか。

5)当初日本政府は中国人虐殺を隠蔽しようとした
 1923年11月7日、五大臣会議(総理山本権兵衛、内務後藤新平、外務伊集院彦吉、司法平沼騏一郎、陸軍田中義一)によって、「徹底的に隠蔽」が決定され、政府方針となった。「王希天問題及び大島町事件善後策決定の顛末」と題する、11月8日出渕亜細亜局長の口述が残されている。そしてそこには「(追て焼捨てる事)」と書いてある。
「10月29日、岡田警保局長、出渕亜細亜局長を来訪し、王希天問題及び大島町事件は、結局之を隠蔽せんこと得策なる可し、と思考する処、事件は頗る重大問題なるにつき、閣議又は総理及び本件に最も関係深き内務・外務…」

6)朝鮮人虐殺事件

1894、東学農民運動大虐殺
1895.10、韓国国王妃(閔氏)虐殺
1904、日韓議定書締結
1905、第二次日韓協定締結、保護国化
1909.10、韓国の義士安重根が初代韓国統監伊藤博文を暗殺
1910.6、大韓帝国を併合
1919.3.1、朝鮮全土で民衆蜂起。
1919.4.15、京畿道提岩里事件。村人を教会に閉じ込め、射撃後、放火。(これだけではない。)
1919.9.2、独立運動家姜宇奎が南大門駅(現ソウル駅)で朝鮮総督に着任した斉藤実らに爆弾を投げつけた。関東大震災時の弾圧責任者水野錬太郎も同伴。
1920年代、多くの困窮した朝鮮人が渡日。
1923.9.1、旧四ツ木橋で軍隊が機関銃で韓国・朝鮮人を射殺、(日本人)民衆も殺害。中国人を含めて千人から数千人の朝鮮人を殺害。(内閣府中央防災会議『災害教訓の継承に関する専門調査会報告』2008.3における、(朝鮮人被害者数が)「震災の死者数の1%から数%」により、死者10万名として計算)
しかし、上海の大韓民国臨時政府機関紙『独立新聞』1923.12.5では、留学生の調査により、朝鮮人被害者数6661人。(山田昭次が再計算すると6644人)そして詳細な氏名は殆ど不明
2017.8.3、韓国の遺族5人が、釜山で遺族会を発足。

7)亀戸事件、甘粕事件

亀戸事件

 1923.9.3日午後11時頃、亀戸町の南葛労働会本部において、川合義虎、山岸実司、北島吉蔵、加藤高寿、近藤広蔵、鈴木直一の6人が、亀戸署に検束された。同じ頃、南葛労働会吾嬬支部長吉村光治佐藤欣司も検束された。さらに、純労働組合平沢計七は僑日共済会近くの自宅で検束された。
 以上10名(9名ではないのか)は、亀戸警察署の中庭で、4日夜から5日未明(一説には、3日夜から4日)にかけて、田村春吉少尉率いる習志野騎兵隊第13連隊によって殺害された。
1923年10月12日付けの朝日新聞の報道によると、「復も社会主義者九名 軍隊の手に刺殺さる 亀戸署管内に於ける怪事件 死体は石油を注いで直ちに焼却す … 意外な事実が … 帝都は真に殺気漲り渡るものがあった。 … 一大異変事さえ起こったのである。 … 警官が抜刀して乗り込んできた 文句なしに検束 … 」

江東区浄心寺境内に「亀戸事件犠牲者之碑」がある。

これ以外にも、4人の砂町の自警団員や多くの朝鮮人と何人かの中国人が、亀戸警察署内で虐殺された。またさらに、南葛労働会と純労働者組合に対する検挙は続いた。

南葛労働会は、王希天による僑日共済会設立の1ヶ月後、1922年10月に結成され、大島製鋼争議などを激しく闘った。1923年9月1日は、亀戸の広瀬自転車製作所の争議を行っていた。
亀戸警察署、特高の蜂須賀等が、南葛労働会に張り付き、王希天も監視対象にしていた。
平沢の純労働者組合も大島製作所の争議などを激しく闘っていた。
亀戸警察署長の古森は、警視庁特高課労務係長から、亀戸地区の革命的労働者取締りの特命を受けて就任していた。

近衛師団文書によると、戒厳軍は出動に際して、以下のように指示されていた。

「都市内部における騒擾、不逞分子所在地域破壊の結果、騒擾混乱を惹起せる地域に兵力を配置し、不良分子を威圧掃蕩し、騒擾を予防、鎮圧するを要す。」「特に兵力を以て占領警備すべき要点…労働者の集合する地点、工場、並びに不良分子及び動揺しやすき住民群衆せる箇所

以上から、朝鮮人・中国人労働者と手を組もうとする労働運動の中心地を破壊・制圧しようとする意図を持っていたことが分かる。

甘粕事件

 1923年9月16日、無政府主義者の大杉栄と妻伊藤野枝、大杉の甥橘宗一(6歳)の3名が憲兵隊に連行され、憲兵隊司令部で憲兵大尉(分隊長)甘粕正彦等によって扼殺され、遺体が井戸に遺棄された。
 軍法会議の結果、憲兵大尉甘粕正彦と同曹長森慶次郎等5名の犯行と断定され、憲兵隊の組織的関与は否定された。甘粕は懲役10年の判決を受けたが、3年足らずの1926年、摂政裕仁成婚恩赦で仮釈放され、その後、満州に渡り、1931年9月18日の謀略に関わり、「満州国」の要人となった。

この件に関する大正12年9月20日付けの「大阪朝日新聞第二号外」によると、以下の通りである。

「…然、関東戒厳司令官以下憲兵司令官、憲兵隊長の大更迭を見るに至った、憲兵分隊長甘粕大尉の不法行為内容について本社の探索するところによれば、右は16日、無政府主義者大杉栄を逮捕したるに関わらず、赤坂憲兵隊留置所において、同大尉が独断にて刺殺したるためであると」

感想 この表現だと、社会主義者を逮捕したことは正当なことであり、悪かった点は、甘粕が独断で刺殺したため取調ができなくなったことだと読める。

8)国際基準は国家賠償

 1923年11月、外務省条約局第三課は、諸外国の11の事例を検討し、「内乱又は暴動による不法行為に対する国家の責任に関する国際法上の原則」は、「国家賠償である」と報告した。

 中国駐在の芳澤公使は、「元来該誤殺事件そのものの存在は、彼我(中日)共に之を認め居る次第なるを以て、今更之を争うに適せず、我は寧ろ機会を捕らえて本件解決を計画すること最も必要」「先方の主張を容認し、被害者の数及び金額の検討は両国調査委員の裁定に任せる」などの申し入れを松井外務大臣にした。(1924年3月4日芳澤公使の松井外務大臣宛機密文書)

感想 (朝鮮人と間違えて)「誤殺」と、ここでも嘘をついている。(労働運動をする厄介な)中国人と承知の上で虐殺しているくせに。相手が中国だと国際的な問題になり厄介だから、意図的に殺したなどと言えない。だから嘘をついているのだろう。一方、朝鮮人の場合は「国内問題」として捉えている。併合がその口実なのだろう。

9)日本政府の賠償決定

 日本政府・清浦奎吾内閣は、1924年5月27日、被害者への20万円(当時)の責任支出を政府決定した。

亜細亜局長

本年5月27日、前内閣総理、外務、内務、司法、陸軍及び大蔵各大臣決裁の上、別紙の通り支那人殺傷事件慰藉金二十万円責任支出の件決定相成り、右に基づき在支公使館に於いて支那側と商議を試み居れる処、最近在支太田代理公使より、右責任支出の件は、前内閣当時の方針と異なりなきものと心得然るべきや問合の次第ありたるにつき、右に対し、従来の方針を大し、速やかに解決方この上とも努力するよう回訓すること致し候。

10)日中交渉とその中断

 1925年6月6日、6月12日の二回、中国の沈瑞麟外交総長と日本の芳澤公使との間で交渉が開始されたが、1926年4月23日の時点では、すでに中止が決定されていた。その理由は、「日本側の内閣更迭、中国側の各種要償案件の一括商議の主張等」とされている。1926年4月23日付け芳澤公使の幣原外務大臣宛、在杭州領事代理宛、返信写送付き(機密469)によると、

「時局をもって中止せられ…その後続開をみずして今日に至る」

 また、日本政府はこの問題が「未解決案件」として残されていることを、1936年の第68回帝国議会説明資料で確認している。但し、人数と「要求額不明」は、(中日間の)決定事項を踏まえていない。

昭和十一1936年度執務報国 
帝国議会関係雑件 
説明資料関係 第三巻
作成者 東亜局
昭和11年(1936--1936
資料作成日 昭和11年12月1日(1936/12/01)
内容
(一)大正九年六月二日「マゴ」下流にて日本砲艦に撃沈せられたる支那帆船の被害、死者34名、船体及び物品の破壊 賠償要求不明(本件は事実相違を理由として我が方に於いて拒絶せるものなり)
(二)琿春事件…
(三)長沙事件(六一事件)…
(四)震災支那人誤殺事件 大正十二年九月中 関東震災の際支那人労働者等にして不逞朝鮮人と誤認殺害せられたる者174名 要求額不明
(五)田種香事件

1926年交渉「中断」の「時局」

 関東大震災時、日本は国際連盟の常任理事国、五大国の一つ、アジアの大国とされ、その中では、中国人虐殺事件について国際基準に基づく対応が求められ、ワシントン体制の下で、米英と中国権益をめぐって妥協をせざるを得なかった。
 しかし、この国際協調は、帝国主義と植民地主義の野望の下の脆弱なバランスでしかなかった。
日本は中国の軍閥の様子を見ながら、支持したり牽制したりした。
日本国内では、清浦内閣が第二次護憲運動で倒れ、護憲三派加藤高明内閣が登場した。
1925、5・30事件*が発生した。日本の大手紡績企業はすでに上海や青海に進出し、中国人を低賃金で働かせ、中国人の不満や反日運動が高まっていた。4月に青島在華紡争議が起こり、幣原外相はこれを強硬に弾圧した。

*上海でのデモに、上海共同租界警察が発砲し、13人の死者を出した労働運動弾圧事件。日本人監督が工場で中国人労働者を射殺したことが事件の発端となった。労働運動はその後も高まり、労働者の死傷者数もさらに増えた。)

1926年3月12日、大沽(こく)事件*が起こり、3・18惨案*が起こり、反日反帝運動が高まった。
加藤内閣1924.6.11--1926.1.30は、軍国主義化を強め、宇垣一成陸相は、帝国在郷軍人会、青年訓練所、学生の軍事訓練などを強化した。
1926、蒋介石が北伐を始めた。
1927.4月に登場した田名義一内閣は、第一次山東出兵5.28--9.8、第二次三東出兵1928.4.19、済南事件*を引き起こし、1928年5月8日、第三次山東出兵を行い、6月4日、張作霖を殺害した。
このような中国への「積極外交」の下で、中国人誤殺事件の賠償問題は問題外となった。

*済南事件とは、国民革命軍と日本軍が、国民革命軍の一部による日本の民間人襲撃をめぐって武力衝突した事件。1928.5.3

11)中国人被害者遺族の訴えと活動

 2016年5月14日、温州市で『1923年関東大震災旅日罹災華工遺族座談交流会』が開かれ、250名余が参加し、『遺族系列活動準備会』が結成され、302名の遺族が集団署名した。
 2017年5月21日、温州市歴史学会で、東瀛惨案史研究センターが授牌した。毎年、9月初め、東京で、遺族参加の下、追悼会が開かれている。
 温州華蓋山の『吉林義士王希天君記念碑/温処旅日蒙難華工記念碑』の前で毎年追悼会が開かれている。

 被害者遺族は、日本政府に対して、2014年9月8日に下記の要望書を提出し、その後毎年回答を求めて督促しているが、未だに何ら誠実な回答はない
 それどころか、日本政府は、2015年以来の民主党等(2018年は立憲民主党)国会議員による『関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺に関する質問趣意書』に対して、一貫して「政府内に、これらの事実関係を把握することができる記録が見当たらない」という答弁書を出している。(無視を決め込んでいる。)

要望書(要旨)

1、国家としての責任を取り、この歴史の事実を認め、1923年の関東大地震下で虐殺された中国人受難者と彼らの遺族に謝罪すること。
2、1924年の貴政府内閣の決定した賠償方針に基づき、現行の国際慣例、物価水準、及び被害者数にのっとって修正し賠償を実施すること。
3、歴史を以て鏡とし、次世代にこの歴史の真実を伝えるために、受難当地に記念碑を建立し、並びに朝鮮人虐殺を含む歴史の記念館を建設すること。
4、日本の歴史教科書に書き、日本の若い世代にこの歴史を伝えて、教訓を汲み取ること。

よびかけ

 1923年9月の関東大震災で、6000人に及ぶ朝鮮人が虐殺され、700名余の中国人労働者が虐殺された。
中国政府は「犯人の処罰、遺族への補償、在日中国人の安全確保」を日本政府に要求した。
仁木ふみ子氏(故人)は浙江省の遺族との交流事業を育ててこられた。
東京・両国にある「横綱町公園」は、関東大震災と東京大空襲の犠牲者の慰霊施設であり、中国仏教徒から贈られた「幽冥の鐘」がある。しかし「朝鮮人犠牲者追悼碑」はあるが、中国人のものはない。
京成線八広駅近くの朝鮮人虐殺現場の一つである荒川土手に、市民運動により「韓国・朝鮮人殉難者追悼碑・悼」が建てられている。横綱町公園と虐殺現場である大島町に、中国人追悼碑を建てたい。

136-0071 江東区亀戸6丁目57番19号 丸宇本社ビル6階 亀戸法律事務所気付 関東大震災中国人受難者を追悼する会 編集人 木野村間一郎

以上 2019924()

大橋昭夫『副島種臣』新人物往来社1990

  大橋昭夫『副島種臣』新人物往来社 1990       第一章 枝吉家の人々と副島種臣 第二章 倒幕活動と副島種臣 第三章 到遠館の副島種臣     19 世紀の中ごろ、佐賀藩の弘道館 026 では「国学」の研究が行われていたという。その中...