2025年10月28日火曜日

守島守人『陰謀・暗殺・軍刀』岩波新書1950

 

守島守人『陰謀・暗殺・軍刀』岩波新書1950

 

 

感想 20251023()

 

戦前といえど各人各様。全く軍国主義的ステレオタイプの人たちばかりではなかったようだ。

その中でも関東軍は突出していた。関東軍は若手「右翼」思想と結託していた。関東軍参謀長・板垣征四郎(1885-19481931年当時46歳)は1931年当時大人だったはずだが、若手(石原莞爾1889-19491931年当時42歳。板垣とさほどの年齢差はないか。)「右翼」と迎合していた。

「右翼」とは何か。他人の意に介さない自己中でしかも暴力的だから、全く手に負えない人たち。

一方著者は官僚だった。外交官である。著者も戦前的思考という大枠の中で育ったという制約があっただろう。しかし関東軍の連中程自己中ではなかったようだ。本書が戦後の著述だからそうなのかもしれないが、著者は物事を客観的に見る人だったようだ。戦後1950だから言える自己保身的自慢話かもしれないが。

 

 

要旨

 

 

はしがき

 

001 私は終戦当時リスボンにいたが、昭和2119464月、マッカーサーの命に基づいて帰朝して外務省を去った。

私の外務省生活はワシントン会議1922の随員を振り出しに、30年間続いた(24年間では)。この20年間、東京とベルリンでの短期間勤務を除いては、奉天を振り出しに、ハルビン、北京、上海と続き、昭和141929年、ワシントンとニューヨークへ、そして戦争中の3年半をリスボンで過ごした。その間、満州事変、華北事変*、太平洋戦争など重要な場面に際会し、対外的折衝に当たった。

昭和21年の夏、検事の召喚により極東軍事裁判で証人台に立った。

 

002 この20年間は日本の興隆から没落に至る過程だった。日本の針路は平和的な通商的発展に向かわず、帝国主義的で政治的・領土的発展に向かった。また総じて軍部の支配下に、本当の意味の外交は姿をひそめ、日本の外交なるものは、要するに、事務的外交の域を出なかった。時には対米・対ソ国交の調整の試みはあったが、大体その時々の外相の個人的思いつきに出たもので、政府の全体としての確定的方針かどうかは疑問であり、外交方針としての統一性と継続性に欠けていた。

 

 チャーチルは「近代生活に対する民衆の影響」と題して、

 

「偶然が人生や国民の歴史を変える。偶然の命令、攻撃、馬の転倒、列車との遭遇などが運命を変える。またそれによって他の人達の運命も変える。だからより剛い人たち、例えば大思想家や大発明家、軍司令官の周辺に起る偶然の出来事は、大きな影響を与えるに違いない。」(昭和2419493月号「心」)

 

003 日本政府の取った無造作な決定や、出先(軍隊)の専断的行為が、日本の運命に至大な影響を与えた。私ら外務省に勤めたものは、より強く、より正しかるべきだったと、過去を顧みて自責の念に堪えない。

 

 私自身のメモ等すべて処分済みだが、記述した事実は事件が事件だけに、今なお私の脳裏に深刻な印象を印しているので、その正鵠なことは確信している。

 

昭和2519501月 森島守人

 

 

 

一 田中外交の全貌

 

001 当時の国民は幣原外交を軟弱・追随だと批判し、南京事件*や満洲での排日事件に刺激されていた。国民は国際事情に疎く、(政府が)強がりさえ言えば(政府を)礼賛していた

 

*南京事件1927.3.24 蒋介石の国民革命軍が日米英の施設を攻撃した。

 

首相となった田中は「東方会議」を開催した。世人は積極的強硬外交に転ずるだろうと、田中の自主政策を謳歌していた。田中首相や森恪(かく)政務次官の経歴や人となりから、大陸政策推進だと人々は了解した。

 

田中は満蒙での静謐=治安の維持を目指し、満蒙を中国本部から切り離そうとした。

二度の山東(済南)出兵19271928権益擁護を目的としたものであった。政友会内では出兵論が強硬で、強気な森次官が陸軍と呼応し、内外の反対を押し切って出兵した。しかしその結果は中国全土に抗日風潮を激成した。

 

田中の満蒙での治安維持政策 田中だけでなく、日露戦争後の「日清善後会議」でも小村は「満洲における施設の改善、治安の確保に関する保障」を議事録の中に確保した。ウイルソンもメキシコに出兵した。この措置は国際法上「干渉」として認められているが、田中の方針はそれから外れていた。出兵は臨機的措置であるべきだが、田中は最初からそれを外交の原則とし、初めから内政干渉を前提としていた。満蒙の治安は中国の内政事情に左右されないと田中は考え、その恐れがある時は何時でも出兵すると予め宣言した

 

田中義一は、満蒙(東三省)を中国本部とは異なる政体と看做した。張作霖は東三省の独立を唱えていたが、張学良は中国本部との結合を唱えていたのだから、張学良の時代になっても田中が満蒙を独立したものとみなし、それと条約を結ぼうとするのは間違っていた。

 

井上弘貴『トランプを生み出した思想家たち』新潮選書1705円、柳沢田実(たみ、1973- キリスト教思想) 

 

TBSラジオ 20251027月 午後7:00-7:50

 

井上弘貴『トランプを生み出した思想家たち』新潮選書1705円、『アメリカ保守主義の思想史』青土社2020円 神戸大

 

柳沢田実(たみ、1973- キリスト教思想) 

 

米の「ニューライト」 今まで脇に置き去りにされてきた右翼が台頭してきた。反リベラルでしかも反ネオコン。

2010年代(オバマ時代2009.1-2017.1)に反発し、反多様性を唱える。

2000年代(ブッシュ時代2001.1-2009.1

 

自由・民主主義、専制攻撃に反対。反グローバリズム。反ネオ・リベ(ラリズム)

文化・政治に口を出す。政府は分配に関与しない。⇒政府は経済に介入すべきだ。

 

オレンキャスト

給付型減税策など「改革保守」、移民排斥

第一次ニューライト

第二次大戦後

1930年代、ニューディール政策に税金泥棒だと反対。

 

戦後ライト 反共 レーガン政権1981.1-1989.1まで キリスト教の世俗化

 

1960年代、70年代 マイノリティーに反対する 第二のニューライト

 

 

第三のニューライト キリスト教に基づく 反リベラル

 

1 パトリック・デニー『なぜリベラルは失敗したのか』自由を捨てなければならない。格差を作りだした。文化を軽視した。バンスに近い。

2 タッカー・カールソン かつてFOXのアンカー(ニュース解説者) MAGA トランプ支持

 

世界に介入しない。移民を追い出せ。製造業を取り戻す。

 

『リアルメイキング…』 テック(技術)右派 反民主党 反規制 親イノベーション 加速主義 キリスト教と合体。

 

3 ピーター・テール テック・ビジネスを信奉 反多様性 キリスト教 AfDのアリス・ワイデル『ゼロトウワン』ゼロから一を生み出す。

 

以上

 

2025年10月26日日曜日

治安維持法100年群馬集会

 

治安維持法100年群馬集会 20251026 前橋総合福祉会館 81人参加

 

司会・開会 大川正治

主催者 治安維持法100年群馬集会実行委員長 吉村駿一

日本共産党群馬県委員長 渋沢哲男

 

 

JNN報道特集『暴走した悪法100年 弾圧された女性たち』 YouTubeで見られる。

 

高知の反戦運動 「草の家」

小松とき 1929年、入党。1932年、反戦ビラをまき、50人検挙。大きく報道された。

槇村○○ 26歳で死亡。映画「人間の〇」1978 夫・益吉、子・仲哉

 

米沢市戦争資料館

 

菱谷さん 北海道の人。

 

 

原田完75 『レジスタントの京都 治安維持法の青春』日本機関紙出版センター2025.7 1980円(1003人の被害者名簿CD付)

 

1969年、桐生工業高校卒業後、京都の染物会社に就職。18歳で入党。労働争議により12か月で解雇。退職金100万円もらった。民商へ。1970年代中頃。商店街関連の活動。府会議員。議員を辞めてから京都の「ノーサイor NOSAI」部長、国民救援会会長などを勤める。

 

4 or 9/22、毎日新聞の取材を受けた。『前衛』に寄稿。

 

高市早苗は村山談話に関して「教育勅語のどこが悪いか」と問い詰めたらしい。

 

母・山田寿子(としこ、1911.1-1998.2)は1929年、19歳の時、芝浦製作所田町工場に就職し、関東金属労組に参加。1930年入党。4回拘留。7年の実刑。

1回目 19293月、山宣葬儀デモ

2回目 山田隆(後の夫、193711月、結婚)が捕まってしゃべり、捕まったが、逃げられた。

3回目 特高から性加害。くるぶしに鉄球を打たれたのが耐えられなかったという。

4回目 7年の実刑。

 

193210月、検挙、市ヶ谷刑務所。

1933年、転向上申書・保釈。

1936年、栃木刑務所に収監。(5年とは1932-37のことか)

193711月、仮保釈。山田隆と結婚。

 

山田寿子さんの著書『長い旅路』

 

 

思想は自白しか証拠がない。

 

拷問の種類

 

1 肉体的

2 精神的 第三者に拷問するのを見せる

3 性的

 

戦前は女性には相続権がなかった。

 

 

 

スパイ防止法 神谷「共産党は最後は暴力だ」

 

農業予算は嘗ては4兆円だったが、今は2兆円に、防衛予算は嘗ては2兆円が10兆円に。

 

以上

質疑・感想

 

『群馬県警察史』

 

おとといの上毛新聞に共産党の大沢綾子県議の収支報告書に多額の金額が書かれていたが、それは大沢個人のものではなく、西毛地区委員会のものである。誤解を招きやすい報道であった。

 

以上

 

2025年10月20日月曜日

講演 小沢隆一「日本を本当の「平和憲法」の国にするために―憲法九条の価値をもう一度考える―」20251019

 

講演 小沢隆一「日本を本当の「平和憲法」の国にするために―憲法九条の価値をもう一度考える―」20251019

 

 

小沢隆一さんは安倍晋三・菅義偉内閣によって日本学術会議から除外された6人のうちの1人です。

 

小沢さんは講演の締めくくりとして、今後の日本人が日本国憲法をどう育てていくべきかについて語り、その中で保阪正康さんの、今年2025716日の「世田谷区戦後80年記念シンポジウム」での提言を引用しました。

 

「憲法9条は未だ「平和憲法」ではなく、「非軍事憲法」でしかない。それが本来の「平和憲法」に成長するためには、日本人一人一人が「平和の思想」を持たねばならない。今の憲法9条にはそれが欠けているから、今後この思想を創り上げていくべきである。」

 

と提言されたとのことです。なおこれに関連して、保阪さんには『憲法を百年生かす』という著書もあるとのことです。

 

 

蛇足

 

なお保阪正康さんは、(はっきり聞き取れなかったのですが、「保阪・保阪コンビ」と言っておられたから、おそらく奥様の)保阪さんとともに、本講演者の小沢隆一さんと同様、「世田谷・九条の会」で活動されておられるとのことです。

 

私は保阪正康さんは学者ではなく、単なるストリーテラー、ノンフィクション歴史作家であり、話し方はうまいが、その都度のテーマに合わせて都合よく話しをまとめ、全体的な歴史的視点に欠けているのではないかと思っていましたが、お見それしました。

 

 

メモ

 

 

小沢隆一 66

 

上毛新聞社が出版した前橋空襲に関する著書の中で、奥野とめ子は、前橋空襲後(翌日の86日)、天皇に戦争終結を求めて直訴した。

 

参政党の表と裏。薄っぺらな政策。参院選は衆院選に比べて一般的に投票率が低いが、今回の参院選では投票率が従来よりも7%上昇した。これは今まで投票しなかった人が投票したものと思われる。

 

日本人は戦後80年の歴史を知るべきだ。

 

維新は「議員数を減らすべきだ」と言うが、少なくすると有権者の声が議員に届きにくくなる。そのことを市長や知事しかやったことのない吉村洋文には分からない。維新にはその橋渡しをやる気がない。維新はトップダウンの政治をしてきた。

 

 

1 九条と国連憲章 九条は丸腰論と言われるが、

 

国連憲章の精神は、国際間で何かもめ事がおこれば、武力ではなくて平和的に解決しようという精神である。それは二度の大戦で1億人(第一次大戦で2千万人、第二次大戦で5千万人から8千万)もの人命が失われたという反省に基づいている。

それまでは軍事同盟だった。それは失敗した。そこで国連憲章は、諸国家は敵ではなく、みな仲間だとしている。国連憲章も武力に言及しているが、それは伝家の宝刀であり、使わないことが前提である。実際、今のウロ戦争でも、ロシアに対して第三国は武力を使っていない(北朝鮮は別だが)。国連の5大国の仕組みは、武力を使わないという精神を反映している。

 

日本国憲法の解釈は、戦後すぐの時点では、武器を持たないという吉田首相の解釈1946/6/26から、23年後には、武器を持ってもいいに変化して行った。その原因は朝鮮戦争である。

金日成による朝鮮戦争開戦の提案に対して、中国では周恩来は反対したが、毛沢東は援助した。ソ連は国連に欠席し、ソ連抜きの国連軍ができた。

吉田茂も考えを変えて九条では危ないとなり、日本が独立しても米軍は日本にいてくれと変わった。

当初マッカーサーは米軍基地は沖縄だけで十分としていたが、朝鮮戦争勃発で、日本全土の基地を求めるようになった。

日本国民も、再軍備は駄目だが、米軍にはいて欲しいと思った。

 

20256月、EUGDP3.5%(インフラを含むと5%)の軍事費出費に突き進んだ。それはウロ戦争のせいである。それに対して日本は1.5%である。

 

9条のお蔭で日本は国家も民衆も武器を持たない。この意味は大きい。

緊急事態条項は、軍と自身災害とを同一に考えている。

憲法の思想の自由に関して、

自由民権運動のときの弾圧は、どの思想が悪いと指定していないが、治安維持法はこういう思想はいけないと思想を特定した。統一教会に関しても、その考え方が悪いからとは言ってはいない。迷惑をかけたから解散命令を出すのだ。

学問の自由は明治憲法には書かれていなかった。だから滝川事件が起こった。

戦前は教育の権利はなかった。教育勅語(天皇の教えを学ぶ義務があった。)

「教育の義務」は子ども義務ではなく、国家や親が子どもに教育を与える義務である。

維新や自民は「国家のための教育」を言っている。「優秀な子どもを育てる」といい、劣った子どもはほっとけという考え方である。

 

2 防衛費が従来の5兆円から、(25年度予算では)9兆円に膨らんだ。

「防衛財源確保法」2023は軍事費のプール金「防衛力強化資金」である。年度を超えて貯めることができる。「5年間で43兆円」がそれである。不明朗である。

会計年度で完結するというきまりがあった。「会計年度独立の原則」「予算単年度主義」である。それがしばりとなっていた。

「総計予算主義」「予算単一の原則」もあった。どんぶり(全体の容量)が決まっていて、予算執行後に予算が余れば、その余りをいったんどんぶりにもどすことになっていた。それをどんぶりに戻さないで軍事費にまわしている。

「赤字国債禁止の原則」があり、(赤字国債を発行する際には)毎年「特例法」を作っている。その特例法の例外が、「建設国債」であり、2年前から軍艦を作るのに建設国債を適用し始めた。

政府は国民の「軍事費に所得税は使わせないぞ」という声に配慮し、まだそれに手を付けていない。煙草税と法人税には手を付けて軍事費にまわしているが。

 

3 保阪正康は、「今の憲法9条には「平和の思想」が欠けている」と指摘する。

被団協の「受忍しない」という考え方が大事だ。それは他の戦争被害者(空襲被害者や慰安婦など)にも通じる。「平和的生存権」

核兵器と人間は共存できない。

日本が米に対して「拡大抑止論」を求めることは、米による核の先制使用を容認することになる。日本の外務省は「核の先制使用をやめないでほしい」とオバマに要請した。

 

以上

 

2025年10月16日木曜日

保阪正康講演会「救国の宰相・鈴木貫太郎」20251015

 

保阪正康講演会「救国の宰相・鈴木貫太郎」20251015

 

 

感想

 

 

保阪正康は「歴史的事実だけでなく、心情を理解せよ」、「歴史学者は心情を理解していない」というが、それは言い過ぎではないか。歴史学者も民衆の心情を念頭に歴史を見ていると私は思う。また保阪には政治を動かす民衆という視点、それを治安維持法で弾圧するという権力批判の視点がない。上層部で取り仕切る政治のレベルしか見ていない。

 

保阪は現状の体制の肯定に基づき、現状の枠組みを与えられたものとして肯定する。より広い人権理念の枠組みが欠けている、ように感じた。現実的ではあるが。だから本会のような地域の名士鈴木貫太郎を顕彰することを目的とする商工会議所主催の郷土史的な集会(大河ドラマ「鈴木貫太郎」を実現する会発会式)の講師として選ばれたのだろう。

 

 

講演 司会 横倉 講師 保阪正康

 

鈴木貫太郎は慶応318671224日(新暦1868118日)から昭和231948417日まで、80歳まで生きた。

 

本講演のテーマを3点に絞る。

 

1 なぜ鈴木貫太郎のような海軍軍人が天皇の側近(宮廷の官僚)になったのか。

2 鈴木貫太郎は天皇側近として終戦が一番の出来事であった。その悩みと歴史。

3 鈴木は本心を隠していた、芝居をしていた、ということを理解すべきである。つまり鈴木は現実的に対応した。自分の考えだけではやっていけない、軍をどう抑えるかに腐心した。鈴木の二枚舌を理解することが、歴史を知ることだ。

 

 

人間の心理を見ず、自分の政治的野心のために歴史を利用とする悪者がいる。それは歴史の冒涜だ。歴史を馬鹿にしている。皇国史観ではだめだ。教訓・知見を歴史から学ぶ必要がある。

 

 

1 昭和天皇の側近には海軍出身者が多い。斎藤実(まこと)、…。陸軍軍人はほとんどいない。その理由は海軍が国際的な目を持っていたからだ。

昭和51930年のロンドン軍縮条約で、日本の海軍は英米の7割を要求した。しかし海軍出身の天皇側近は、「それは日本の国力からして無理だ」と言った。「6.91でも高い数字である。」しかし軍令部の強硬派はごねて、それを天皇に上奏しようとした。軍令部の加藤寛治(かくじ)がごねて、天皇に帷幄上奏しようとした。それに対して鈴木貫太郎はそれをやめさせた。(加藤は)それを統帥権干犯だといった。当時鈴木貫太郎は侍従長だった。日本は英米を仮想敵国としていた。

 

この昭和51930年から111936年の226事件までの6年間に、浜口雄幸襲撃事件1930.11.14から始まり、既遂・未遂を含めて15件の暴力事件が起こった。鈴木貫太郎はそれに抵抗した。鈴木は天皇の側に立った。しかしこの事件以来海軍は人事で和平派を追放した。山本五十六は例外である。山本五十六は軍縮に賛成したが、残った。

鈴木貫太郎は口を挟めない立場にいた。鈴木は「侍従長とは男(おとこ)女中である」と言った。天皇の日常の世話をする仕事である。鈴木は昭和11年まで侍従長を勤めた。

鈴木は226事件で撃たれたが、命拾いした。「君側(くんそく)の肝(かん)を殺せ」と言われていた。妻の鈴木たか(1915年、鈴木は足立たかと再婚)が貫太郎の体に覆いかぶさり、軍人がとどめを刺すのをやめさせた。たかは東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大)付属幼稚園の先生で、昭和天皇の教育係だった。足立たかは天皇にとって母親同然だった。

 

 

明治天皇は「日清戦争は私の戦争ではない」と主張したが、伊藤博文が説得し、表向きは「天皇の戦争」にした。日露戦争の開戦でも明治天皇は泣いたという。また大正天皇は漢詩が好きで、「渡り鳥は自由だ」と歌った。つまり自分は自由でないと言いたかったのだ。大隈重信内閣は「天皇名において」ではなく、日英同盟を口実に第一次大戦に参戦した1914.8.23。そして昭和天皇も平和を望んでいた。

 

 

2 昭和20194547日、小磯國昭が首相をやめた。当時は重臣が首相を決めていた。鈴木は「もう77歳だからできない」と言った。鈴木は「軍人は政治に関与しない」と書かれた軍人勅諭1882に忠実だった。それは政治家の中に軍人強硬派が出て来る恐れがあるからだ。それで鈴木は断った。しかし天皇から「もう他にいない。頼む」と言われ、鈴木は引き受けた。軍は戦争を継続したがっていた。天皇は鈴木に首相を押しつけた。

 

昭和205月、ルーズベルトが死んだ。鈴木は米にメッセージを送った。「偉大な指導者だった」と。

 

726日、ポツダム宣言が公布された。軍はそれに反発した。鈴木は「ポツダム宣言を黙殺する」と連合軍に答えたが、それは本音ではなかった。しかしその「黙殺する」が「拒否する」と英訳された。「一考する」としたら軍が黙ってはいなかっただろう。そうなったら殺されるかもしれない。「拒否する」と訳されたことが原爆投下の原因と結びつけられる説もあるが、原爆投下は米の規定の方針だった。

89日、第一回御前会議。軍は断乎戦うというが、平沼らはポツダム宣言を受け入れるという。鈴木はそれに賛成するとは言えなかった。賛成すれば43になるのに、言わずに33とし、天皇に裁可を求めた。鈴木は天皇に「東郷外相の意見に賛成だ」と言わせた。もし、鈴木自分がポツダム宣言受け入れに賛成だとして43にすれば、クーデターになっていただろうからだ。

昭和204月からこれまでの間、天皇と鈴木との間には視線による関係―黙契があったと私は思う。それは活字にはなっていないが。

810日、国体護持について問い合わせた。

812日、それに対するバーンズ回答。「天皇と日本国政府の国家統治の権限は、降伏の瞬間から、連合国最高司令官の制限下subject to(従属するor制約される)に置かれる」

 

814日、御前会議を天皇が開いた。異例である。天皇はポツダム宣言を受け入れるべきだと言った。天皇は国体護持に自信があった。その根拠はないが。

815日、鈴木貫太郎は玉音放送が行われた後、天皇に内閣総辞職を奏上した。鈴木の長男の鈴木一(はじめ)によると、天皇の「鈴木ありがとう」の言葉に、79歳の鈴木は泣いたという。鈴木は一番の忠臣だった。

 

 

平成天皇にまつわる話

 

私はジャーナリスト半藤一利とともに雑談をしに皇太子(平成天皇)の所に行った。雑談は午前(or午後)7時から1130まで続いた。天皇には雑談する相手がいないのだということが分かった。

 

天皇は私に質問した「満州事変の時に「戦線を拡大するな」と軍に言ったのに、なぜ軍は戦争を拡大したのか」と。

 

学者は資料しか見ない。鈴木貫太郎をドラマにして欲しい。

 

 

私は85歳だ。

調べるとどんな人でも好きになるものだが、東条英機は違う。軍には合理的な面と、生死しかない面とがあるが、東條には後者しかなかった。それに東条英機は他者を懲罰した。1941年、東條首相のために高齢の40歳にもなるのに、東條を批判した松前重義(しげよし1901-91)とともに2000人が召集されて戦死した。松前に懲罰したいがために2000人を道連れにした。松前は二等兵として召集された。軍人は天皇に嘘の報告をしていた。

 

ルーズバルトが「この(日本に対する)戦争に講和はない、この戦争で独日を民主主義に変える」と言ったところ、某米軍人は「政治で話がつかないときには軍が出るが、日本の潰滅は軍の仕事ではない。軍は政治に従属する」とルーズベルトに言った。

 

東條英樹「負けたと思ったときが負けだ」とは、絶対負けないという意味である。つまり死ねということだ。

 

以上

 

2025年10月9日木曜日

平野雄吾『パレスチナ占領』TBS荻上チキより

 

平野雄吾『パレスチナ占領』筑摩新書1056円 TBS荻上チキより

 

 

平野雄吾1981- 一橋大学大学院経済学研究科修士卒

 

 

感想

 

イスラエル国民の問題点は自己中心的であること。自分だけが被害者だという過去の思いから抜け出せないでいる。

 

 

パレスチナ人に対して差別的な司法制度

 

西岸では

 

・恣意的にパレスチナ人を逮捕・拘禁する。

・家屋の所有権をパレスチナ人には与えず、家屋を恣意的に破壊している。

・毎日イスラエル人による暴力が起き、一軒一軒と家が壊されている。(しかしそれは報道されない。)

・司法の弱体化 入植地での裁判でパレスチナ側に有利な判決が出たこともあって、ネタニヤフは「司法改革」を行い、司法判断を国会が覆せるようにした。

 

 

ハマスによるイスラエル民間人への無差別発砲・拉致とその後のイスラエル国内の反応

 

2023107日、ハマスは無差別に発砲した。

107日直後、イスラエル国内の報道で(ハマス打倒・開戦への)異論はなく、異論があっても声が上げられなかった。

 

イスラエル国民は10/7直後はヒステリックで、反戦デモは禁止されていたが、やがて反戦デモが始まった。しかしデモ参加者は、「裏切者」と呼ばれ、「ガザでのジェノサイドは止めろ」というプラカードを持った男性に対して、50代の某女性が「ジェノサイドはホロコーストしかない」と言った。これは自己中ではないか。イスラエル国内のアンケでは「ガザの窮状を考えるべきだ」は2%にすぎない。

 

イスラエル国内ではガザの被害状況はほどんど報道されていない。西岸での占領についても報道されていない。西岸ツアーに参加したことがあったが、イスラエルの報道機関は左派系のハーレツの記者一人しかいなかった。

 

イスラエル人は皆が軍に入っているので、軍がガザのジェノサイドに関わっているとは認めたがらない。メディアもそれを報じたくないし、イスラエル国民も見たがらない。「ハマスの方が仕掛けてきた、私らは被害者なのだ」と思っている。

 

ガザ=ハマスと考え、ガザを破壊すべきだという人がいるが、それは教育などの影響である。

 

 

イスラエルにも国際協調派が存在する

 

・オルメルト前首相2006.5.4-2009.3.31「戦争をやめるべきだ、世界と共存すべきだ」とネタニヤフを批判している。

・左派系のマスコミ「ハーレツ」が存在する。

・反戦デモは続いているし、徴兵拒否やPTSDもある。

 

イスラエル軍への従軍取材の状況

 

10/7直後はガザに入れなくなったが、3週間後にまず米CNNFOXや、BBCが入った。次に仏独の記者が入り、その後で私に従軍記者のオッファーがあった。

ガザでは砂利道ばかりで、民間の建物全てが破壊されていた。3台の車で行った。兵士に案内され、民間の住宅の隣にあるハマスの地下トンネルの穴を見せられた。取材はイスラエル政府に制御された。パレスチナ人はいなかった。

ガザ北部ベイトヒラ(10kmほど入ったところ)へ行った。

兵士A「ハマスは許せない。」兵士B「ハマスと民間人とは違う。」と一色ではない。

 

 

 

 

ガザの状況

 

ガザへの物資の支給について共同通信の某記者が手記を書いた。一日一食…

 

 

ハマスの状況

 

・ハマスにとって人質を全員解放したら、交渉材料がなくなり、すべてが終わりになる。

・ハマスによるロケット攻撃は1年間しかもたなかった。今ではスナイパーか路肩爆弾。

 

以上

 

2025年10月7日火曜日

高橋真樹『もし君の町がガザだったら』

 

高橋真樹『もし君の町がガザだったら』ジャーナリスト 20250917 TBSラジオ

 

 

1948年、国連がトルーマンの主導で、イスラエル・パレスチナを分割し、これまで2%しかなかったイスラエルが50%の領土を持つことになった。これは不当な分割案だった。宗主国イギリスは解決策を放棄していた。このため600万人の難民が発生し、ヨルダンやレバノンにも逃れた。それまでの難民は75万人だった。

 

 

しかし重要なことは、それ以前にヨーロッパから入って来ていたユダヤ系によるパレスチナ人に対する暴力が横行していたことだ。その性格は植民地主義であった。ユダヤ人はパレスチナ人に対して植民地支配者の如く振舞っていた。

 

 

シオニズム運動はユダヤ人が自発的に行っていた。その動機は宗教的ではなく世俗的だった。

 

シオニズム運動には、ヨーロッパ諸国にもユダヤ人を自国で受け入れたくないという事情があった。

 

 

 

1967年、第三次中東戦争 それまでにイスラエルは国土の8割を所有していたが、この戦争で、残りの2割も占領しつくし、その状態が今まで60年間続いている。つまりイスラエルは全土を占領してもう60年も経過し、その間植民地主義者としてふるまい続けているということだ。

 

それに関連して注目すべきことは、イスラエルはパレスチナの青年層のほとんど全てを逮捕し、拷問を加えているということだ。その目的は飼いならしである。抵抗しないように。手錠をかけて拷問している。

 

 

米民主党はもともと親イスラエルだった。

共和党も親イスラエルの原理主義キリスト教徒を支持母体としている。

ユダヤ系米人は今のイスラエルを批判している。親イスラエルのユダヤ人は一部の富豪ユダヤ人にすぎない。

 

1993年のオスロ合意は「いずれ」二国家にしようというもので、イスラエルによる占領状態は続いた。

 

2007年、ガザが完全に封鎖され、コンクリートも入らなくなった。水の浄化もできない。停電ばかりで、14時間しか通電しない。ローソクで火事がよく発生した。ゆっくり殺される状態が継続している。

 

西岸は完全に制圧された。

 

 

ピースボートでガザにホームステイした。

イチゴの輸出でもメイドインガザをメイドインイスラエルに変えられてしまう。

 

DVがある。占領により男のストレスが多い。収容所で暴力を受けたからだ。

 

パレスチナには子どもが多い。

8、9割は非○○

利用して○○だけ

 

 

 

 

高橋真樹『もし君の町がガザだったら』ポプラ社202507

 

 

感想

 

 

著者の生年月日は不明だが、「学生時代から30年経った」とあるから50代くらいか。

 

ガザはハマスが選挙で勝利したことを受けて、ハマスに資金や物資が渡らないようにという目的で2007年からイスラエルによって封鎖され、今年で16年になる。そのため、人々はイスラエルで出稼ぎできなくなり、支援物資に依存することしかできなくなった。またイスラエルは塀の上や空や海から銃撃を続け、多くの死傷者が出ていた。それがこの16年間のガザの日常であった。だからハマスが2023107日にイスラエルに攻撃を仕掛けたのは何等不思議なことではない。

 

039 「テロ」という言葉は使わない。ハマスの側には「テロ」という言葉を用い、イスラエルの側にはそれを用いないのはおかしい。「テロ」ではなく「戦争犯罪」や「攻撃」という言葉を用いる。前者は非武装の民間人への暴力・攻撃を、後者は兵士や軍隊への暴力・攻撃を意味するものとする。

 

 

054 イスラエルが最初の4か月間2023.10-24.1にガザに落とした爆弾の量は、ロシアが2022年から2年間にウクライナに落とした爆弾の量の2倍以上だという。いかにアメリカがイスラエルに応援しているかが分かる。しかもガザの面積はウクライナの面積の1/1600しかないのだ。

 

063 イスラエル植民地主義者の暴言集

 

「人質解放のためなら、ガザの200万人の住民を飢えさせることなど正当かつ道徳的である。」(スモトリッチ財務相2024/8/5

「ガザを完全に包囲しているので、電気も食料も水も燃料もなくなるだろう。我々は人間動物と戦っている。」(ガラント国防相2023/10

 

「あの民族全体が有罪だ。民間人は知らなかったとか、関与していないというのは、全くでたらめだ。」(ヘルツォグ大統領2023/10

「パレスチナ、もしくハマスの旗を掲げるものは、誰一人として地上に生存し続けるべきでない。ガザへの原爆投下は選択肢にある。(エリヤフ エルサレム問題・遺産相2023/11

「我々は怪物と戦っている。これは文明の蛮人に対する戦いなのだ。」(ネタニヤフ首相2023/12

 

 

感想 2025101()

 

 

 ひどい。これまでひどい、ひどいと聞いていたが、この本*を読んでいて本当にひどいということが分かった。正に21世紀における南アのアパルトヘイト、かつてのアメリカでの黒人への虐待、日本の朝鮮(堤岩里教会焼却虐殺事件)や台湾(霧社事件)そして満洲(平頂山事件、南京事件)での虐殺事件など、優越的地位に立って下等な植民地人を蔑視するという「文明人」による蛮行が、今現在でも行われているということだ。

 

一例を示そう。東エルサレムのシルワン地区にある女性団体シルワン・アットゥーリ女性センターAWCで働き、息子3人と娘1人を育てている母親のマナールさん。家の隣には入植者が住んでいる。嫌がらせや暴力が日常のことである。(202410月末インタビュー、*高橋真樹『もし君の町がガザだったら』ポプラ社202507

 

106 「私たちの生活はずっと問題にさらされてきました。入植者から殴られたり、物を投げられたりするのはいつものことです。子どもが外で遊んだり、買い物をしたりするだけでも、入植者がからんできて、もめごとになります。そうなると、軍や警察は殴ってきた入植者ではなく、パレスチナ人を逮捕します。現在15歳の三男は、5歳の時に補導されました。理由は自転車で遊んでいるときに入植者に少しぶつかったからです。道路で遊んでいたら5000シェケル(21万円)の罰金を払わされたこともあります。遊ぶ場所が家のまわりの道路しかないので、それからは遊ぶ場所にも困りました。

 入植者は、人々が買い物に出るたびに、子どもを殴ります。私たち家族も何度も巻き込まれています。今24歳の長男が15歳の時、入植者からマシンガンで頭を殴られ、9針を縫うけがを負いましたが、警察はいっさい動きませんでした。22歳の次男が14歳だったとき、学校からの帰りに警察に逮捕されました。石を投げたという容疑でしたが、デタラメです。トラブルに巻き込まれないよう、私はほぼ毎日、学校に送り迎えしていたので。でも息子は、警察から「やったといえば出してやる」と言われ、こわくてウソの自白をさせられました。この時も5000シェケルの罰金を払わされました。警察には11日間拘束されたあと、10日間の自宅軟禁を言い渡されました。軟禁の間は、監視役として母親も家にいなければいけません。仕事や買い物にも行けずに大変でした。また遊び盛りの14歳の男の子を10日間も狭い家に閉じ込めておくのは、お互いにすごくストレスでした。私たちはただ安全に暮らしていきたいだけなのに、その安全を手に入れることさえできません。」

 

 

096 「アウトポスト」が問題。これはイスラエルでも違法とされていて、政府の許可なく勝手にパレスチナの村に入り、家を建てて住みついてしまう。過激で暴力的な人が多く、イスラエル社会の中でさえ恐れられてきた。

 

西岸ヘブロンのパレスチナ人の住む地域の道路にはネットが張ってあった。入植者が嫌がらせでうんちやおしっこをつめたペットボトルを上から投げ込むから、それが落ちてこないようにしていたのである。窓に石を投げられて割れたガラスで5歳の子どもがけがをした。入植者が梯子をかけて屋根に上り、「早くここから出て行け!」と怒鳴り散らしたり、銃撃したりすることもあった。他にもパレスチナ人の車を破壊したり、オリーブの木を倒したり、火炎瓶を家の中に投げ込んで放火したりと、違法な入植者による犯罪は後を絶たない。イスラエルの警察に訴えても、捜査も逮捕もしない。

 

 

メモ

 

129 世界人権宣言1948.12.10までは、白人や成人男性以外には基本的人権が認められていなかった。その基本的人権とは、思想や表現の自由、拷問の禁止、人間らしい生活をする権利などである。

 

135 2025324日、ノー・アザー・ランドの監督ハムダン・バラルは、入植者のグループにリンチされて大怪我をし、救急車で運ばれるときに、さらにイスラエル軍に拘束され、翌日、治療もされることなく、手錠をつけられたままの状態で軍事基地の中に放置された。

 

146 国民国家の時代になっても、キリスト教徒は長年の差別感情から、ユダヤ人を同じ民族だと認めなかった。

 

153 スローガン「土地なき民に、民なき土地を」のごまかし、「民なき土地」などあるはずがない。ましてやパレスチナは「民なき土地」などではない。

 

 

 

144 歴史

 

 パレスチナにユダヤ人が集まった理由はいくつかある。

 一つは、ヨーロッパでユダヤ人が嫌われていたことである。ヨーロッパ人は15世紀~18世紀には*ユダヤ人をゲットーの中に閉じ込め、国民国家形成時にはユダヤ人を仲間として迎え入れなかった。

 

*ナチスもユダヤ人をゲットーに閉じ込めた。164

 

ドレフュス事件1894とシオニズム運動の開始 ユダヤ人のドレフュス大尉がドイツのスパイだとして仏軍の中でいじめられた(裁判で有罪とされた)。その惨状を見ていたユダヤ人のテオドール・ヘルツルは、聖書に書かれている通り、パレスチナはユダヤ人の土地なのだから、ユダヤ人はパレスチナに移住しようというシオニズム運動を起こした。彼はユダヤ人が迫害されないためにはユダヤ人が多数派である国をつくるべきだと考えた。

 

ユダヤ人はそれ以前にアメリカにも大勢が移住していたのだが、アメリカが移民を制限する1924ようになり、シオニズム運動は盛んになった。

165 パレスチナ大反乱19361939 人口が増えたユダヤ人は、パレスチナの村を襲い、村人を追放した。パレスチナ人はユダヤ人の移民を止めないイギリスに抗議して反乱を起こしたが、イギリスはシオニストと協力してこれを鎮圧した。

 

第一次世界大戦時にイギリスはアラブ人に対しては、トルコと戦えば「中東に」アラブ人国家を認めると約束し、ユダヤ人に対しては、パレスチナに民族的「郷土」を支持するとした。(1922年、パレスチナがイギリスの委任統治領になる。)

ところが第二次世界大戦後、イギリスは上記の約束を放棄し、その後はアメリカ主導の国連が担当した。国連は1947年に2国家分割案を示したが、それは領土的にユダヤ人にとっては非常に有利な案だった。アラブ人は怒り、19485月に第一次中東戦争となり、イスラエル側は苦戦したが、結局、アラブ側が敗れ、パレスチナ人の領土はさらに狭くなった192。そして西岸はヨルダンが領有し、ガザはエジプトが領有した。イスラエルは国家として承認されたが、パレスチナは国家として認められなかった。(1948年イスラエルが建国される。パレスチナ難民が発生(ナクバ))

 

第一次中東戦争の前にも、ユダヤ人は「圧倒的にユダヤ人の比率の高い国」を求めていたため、イスラエル建国宣言以前にパレスチナ人を追い出そうと虐殺を始めた。ユダヤ人は戦争以前に戦争以後と同数のパレスチナ人を追放した。これは国連決議案に違反する。(ナクバ法2011はナクバの日5.11を追悼することを禁じている。)

 

残念ながらユダヤ人はパレスチナに来た当初から大人しくしておらず、パレスチナ人に対して排外主義的で攻撃的だったようだ。

 

 19561029日~116日、第二次中東戦争(スエズ戦争)エジプト対英仏イスラエル戦争。以英仏の軍事介入が失敗し、国連の介入で停戦。スエズ運河の国有化に反発した以がエジプト侵攻し、シナイ半島占領1031日英仏軍が介入し、スエズ運河を占領。国際世論の非難に会って、国連が停戦決議。英仏軍は12月に、以は翌年3月に撤退。

 

 1967年、第三次中東戦争ではイスラエル側が不意打ちして6日間で大勝し、シリアからゴラン高原を、エジプトからシナイ半島を領有し、西岸とガザを占領し、そこで入植活動=ジェノサイドを開始した。壁や道路封鎖などで西岸の閉鎖=ガザ化が進行した。

 

 1973年、第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争、十月戦争)では今度はエジプトとシリアが奇襲攻撃し、イスラエルは苦戦したが最終的に勝利した。1978年、米の仲介で和平したが、エジプトはイスラエルとはもう戦争しないと約束してシナイ半島の一部を返還してもらった。この時パレスチナ人のことは何も触れられなかった。*(このころイスラエルは核兵器を持った。石油輸出国機構が石油価格を釣り上げてオイルショックが起った。)

 

*キャンプ・デイビッド合意 19789月、カーター米大統領がエジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相を、米大統領の山荘であるキャンプ・デイビッドに招待し、19793月、エジプトとイスラエルは平和条約を結び、イスラエルはシナイ半島の一部を返還したが、パレスチナ自治については決裂した。アラブ諸国は猛反対し、サダトはジハード団によって暗殺された。(エジプトとイスラエルとの単独和平)

 

 

19826月、レバノン戦争第五次中東戦争) イスラエル軍はパレスチナ・ゲリラのテロ活動拠点と看做したレバノンに侵攻し、レバノン南部にとどまらずベイルートも爆撃し、多数のアラブ市民を殺害した。この時イスラエル軍はクラスター爆弾を使用した。ベイルートは瓦礫と化した。これはウサマ・ビン・ラディンが911犯行声明で示した怒りの源の一つである。民兵組織ヒズボラもこの時生まれた。またイスラエル軍とそれに協力したキリスト教マロン派の民兵組織ファランジスト(ファランヘ党)は、ベイルート郊外のパレスチナ難民キャンプの民間人を虐殺した。イスラエル軍はシリア空軍も攻撃した。同年9月、PLOはベイルートからチュニスに本拠を移し、武装闘争を放棄した。

 

 アラファト1929-2004はもともと難民であった。

 

1956、アラファトはクウェートファタハを結成し、1963年、シリアに迎えられ、1966年、ヨルダンからイスラエル軍兵士を地雷で殺害した(サム事件)。エジプトのナセルからパレスチナ問題の全権に委任され、1969年、PLO議長となった。ヨルダンから追放され、レバノンに移る。1983年、レバノンから追放され、チュニスに移る。1985年、ヨルダンと和解。1988ヨルダンがパレスチナ領有権を放棄し、アラファトは同年11月、パレスチナの独立を宣言した1989年、大統領に。20009月、(第二次)インティファーダ運動が起こり、自爆攻撃が続く。2001年、イスラエルによりアラファトのいるラマラのパレスチナ議長府が包囲された。2003319日、米以の圧力の下で、和平推進派のアッバースを初代首相に任命するも、96日、アラファト支配下の安全保障部門を譲渡されないアッバースが辞表を提出。アラファトはポロニウム210で毒殺された。

 

アラファトはヨルダンやレバノンでイスラエルに対するゲリラ活動を行った。イスラエルはそれを「テロ」だとし、その仕返しにパレスチナの村々を襲った。一部のゲリラ組織はハイジャック事件を起こし、国際社会からも「テロ」とみなされた。

 

 1987年、インティファーダ(第一次)という抵抗運動が起こった。子供までがイスラエル軍の戦車に石を投げつけた。第一次インティファーダは1993年(オスロ合意)まで続いた。イスラエル軍は子どもを銃撃し、子どものひじの骨を折り、逮捕・拷問した。この間に1000人以上が死に、逮捕者は数万人に上った。世界の人々の目はイスラエルからパレスチナに向けられた。そういう抵抗運動の中からハマスが軍事部門を創設した。当時の武器は火炎瓶だった。PLOはチュニジアにいたが、ハマスはパレスチナで頑張った。

 

1992年、ラビンはイスラエルの首相になった。

1993、ラビンはクリントン米大統領の仲介で、オスロでPLOのアラファトと和解し、一部領土(ガザと西岸のA地区)を返還したが、ベギンはその後暗殺された。

 

アラファトはチュニジアからパレスチナに戻り、自治政府を作った。1996年の選挙でアラファトは初代大統領となった。自治政府は西岸を拠点とし、「暫定」自治を始めた。

しかしこの和解は、アラファトが交渉相手と認められただけで、パレスチナ人にとって実質的な利益は何もなかった。国家承認もされず、土地の権利も認められず、占領は継続され、難民問題、入植地問題、エルサレム問題は放置された。

 西岸にABC区域割ができたのもこのころだった。A区域は西岸の18%に過ぎなかった。ガザとA区域を合わせた面積は、1948年以前のパレスチナ全体の4%にすぎない。

さらに悪いことには、自治政府はイスラエルの下請けとなってパレスチナ人の抵抗勢力を取り締まった。

またイスラエルは自治政府に対する国際社会からの運営資金を仲介し、不都合な時には自治政府の公務員給料などを止めた。

西岸では(パレスチナ人の居住区域)エリアが(高く長い壁と道路封鎖バーで)分断され、検問所や入植地が増えた。

 

194 1993年にラビン首相がガザと西岸のA地区を返還したことに対して、イスラエル人は怒り、和平に反対した。

 

第三次中東戦争1967以降、狂信的宗教右派が台頭した。彼らは「戦争の勝利は神の意志であり、ゴラン高原やシナイ半島や西岸やガザなどの占領地の獲得は、かつて神がユダヤ人に与えた土地を返してもらったのであり、それは占領地ではなく解放地であると考えた。そういう考えのもとにイスラエルは西岸での入植地を増やしていった。そしてラビンは神に対する裏切者だとして、1995年、宗教右派の青年に暗殺された。

 

196 20009月、右派政治家のシャロンがエルサレム旧市街のイスラム教聖地を訪問し、ここはすべてイスラエルのものだと宣言した。怒ったパレスチナ人の若者はイスラエル軍に投石し、それに対してイスラエル軍は発砲した。こうして第二次インティファーダ2000.9-2005が始まった。

2001年、シャロンは首相になった。

 

20019月、アメリカで「同時多発テロ事件」が起き、ブッシュ大統領は「テロとの戦い」と称して、アフガニスタンやイラクを攻撃した。そのためパレスチナ人の抵抗への世界の共感は広がらなかった。

そういう中でハマスはイスラエルのバスや町中で自爆攻撃を始めた。2002年、イスラエル軍はパレスチナの町に戦車やヘリで攻撃し、多くの一般市民を逮捕・殺害した。第二次インティファーダでのパレスチナ人死者数は3000人以上で、その多くは一般市民だった。一方イスラエル側の死者は1000人だった。

 

 

2005年、ガザ地区全域でのイスラエル軍の駐留と全イスラエル人8500人による入植を止めて撤退した。ただし、ガザ地区の制空権と制海権は維持した。また西岸の小規模な入植地も解体された。

 

これはシャロン首相の決断によるものであった。シャロン首相は20042、ガザ地区の全21か所、西岸の4か所の入植地(カディム、ガニム、ホメシュ、サヌル)の解体方針を示した。シャロンはインティファーダや自爆テロに懲りていた。

しかしシャロン自らが党首を勤める右派のリクード党はそれに反対した。ネタニヤフ元首相が反対した。入植者も反対した。

200452、ガザでイスラエル人入植者の母子5人がパレスチナ人の男に殺されたが、ちょうどこの日、リクード党の党員投票が行われ、60%がシャロン案に反対した。しかしイスラエル世論はシャロンを支持し、シャロンはシャロン案を閣議決定し、国会を通過させた。入植者には補償金を出した。

ネタニヤフは閣僚を辞任した。810、テルアビブでシャロンの方針に対する大規模な反対集会が開かれたが、イスラエル国防軍IDF1週間かけて入植者を強制排除した。

 

 

イスラエル人の合計特殊出生率は2人強であるが、パレスチナ人のそれは6人から20人で、いずれパレスチナ人の人口がユダヤ人よりも上回ることになる。

ユダヤ人入植者数はガザでは8500人であり、西岸では23万人で、これに東エルサレムを加えると40万人である。シャロンはガザを捨て、西岸の6大入植地を維持したのである。シャロンは入植地の拡大ではなく再開発だとしている。

シャロンやオルメルトはリクード党を離党し、カディマという新党を作った。

 

 

20066月、ガザ侵攻。7月、レバノン侵攻。

 

 

西岸のホメシュでは入植者は排除されても戻って来た。また地主のパレスチナ人(ブルカ村)は立ち入りを禁止された。

 

 

202212月、ネタニヤフ政権は西岸ゴラン高原での入植拡大方針を打ち出し、20233月、クネセト(国会)で、シャロンの2005年の撤退計画を改め、西岸の4入植地の再建を可決した。これに対して欧米は批判し、パレスチナ大統領府も「全ての入植地を違法とする国連安保理決議2334に違反する」と非難した。

しかしネタニヤフ政権は2023518日、ホメシュ入植地の再建に着手した。は建設工事を違法としたが、ガラント国防相やスモトリッチ財務相はそれを認めた。そして軍も結局それを認め、裁判所もそれを認めた。

2024617日、「ユダヤの力」党の党首イタマル・ベン・グヴィル国家安全保障相は、ガザでの再定住推進議員連盟を結成し、「ナハラ運動」のダニエラ・ヴァイスは民族浄化の遂行を要求した。

 

 

 

200 20061月、ガザと西岸で自治政府の総選挙が行われたが、世界やハマス自身の予想に反してハマスが過半数の議席を取った。ファタハによるオスロ合意は不人気だった。ハマスは難民の多いガザでは人気があった。オスロ合意は難民問題を先送りし、パレスチナ国家の創設を優先したからである。(上述ではそれでも国家承認されなかったとあるが。)

 

ところが欧米以はハマスをテロ組織に指定し、欧米はハマスの政権への関与を認めず、パレスチナ支援を止めた。そして米はファタハに武器を供与し、ハマスと戦うよう仕向けた。

 

2007年、ファタハが西岸を支配し、ハマスがガザを支配することで住み分け、自治政府は分裂した。イスラエルはパレスチナが分裂していることを和平交渉ができない口実とした。イスラエルはガザを軍事封鎖した。軍事封鎖は集団懲罰であり国際法違反であるが、アメリカはこの封鎖を支持した。エジプトもガザの南部の封鎖に協力した。

 

202 封鎖後の2008年、2009年、2012年、2014年、2021年に、イスラエル軍はガザに対して大規模攻撃をしかけ、子どもを含む多数の犠牲者が出た。

 

2018年、ガザで「帰還の大行進」という非暴力デモが毎週行われるようになった。数千人から数万人のガザ市民がイスラエル近くの塀の近くに集まったが、この平和的なデモに対してイスラエル軍は狙撃した。2018514日のイスラエル建国記念日には50人以上が殺害され、2700人以上が負傷した。行進は2019年まで2年近く行われた。若者は絶望していた。しかし国際社会は沈黙していた。

 

 

 2023107日、ハマスは壁を乗り越えてイスラエル側を攻撃し、1200人の民間人を殺害し、251人を人質にした。

 

 

感想 

 

パレスチナの歴史を読んでいて、ウサマ・ビン・ラディンの911攻撃の犯行声明も、レバノンの民兵組織ヒズボラの結成も、ガザのハマスの結成も、皆イスラエルのアラブ人に対する攻撃が根源となっていたことが分かりました。

 

ウサマ・ビン・ラディンはその反抗声明の中で911攻撃の理由の一つとして、1982年、イスラエルがベイルートを激しく空爆して瓦礫と化し、多数のアラブ市民を殺害したことを挙げているし、民兵組織ヒズボラの結成もこれが原因であった。そしてハマスもイスラエルによるパレスチナ人の追放、閉鎖、銃撃への抵抗運動の中で生まれたものであった。

 

その根をさらにたどっていけば、それは欧州国民がユダヤ人を排斥したことであった。また日本の明治以降の周辺民族に対する侵攻だって、欧州列強の東洋侵攻に恐れをなしたことが原因であったから、本当に欧州人は罪深い人たちだ。文明や文化の発展はろくなことがない。金ずくめできらびやかな欧州の王宮は、植民地主義罪悪の結晶である。何とも情けない限りだ。

 

以上

 

岩崎正芳「石蕗(つわぶき)の花」 一人芝居「狭山事件」

  岩崎正芳「石蕗(つわぶき)の花」 一人芝居「狭山事件」  20251116  日 市民プラザかぞ     ビデオ 石川一雄さんのこれまでの再審闘争での発言や、冤罪被害者仲間との交流ビデオを公開。大学時代から狭山運動に関わっていた。     岩崎正芳 同...