2026年10月14日水曜日

『上毛新聞』に見る敗戦後の群馬県 大沼久夫

 

共愛学園前橋国際大学ブックレットⅢ 『上毛新聞』に見る敗戦後の群馬県 大沼久夫 上毛新聞社 平成23年2011

 

 

020 不思議 上毛新聞アンケでは社会、共産が上位にいたのに、実際の選挙結果は進歩がトップになった。

 

群馬県での支持政党アンケ1946.3.5 1646人中

 

社会326人

共産128

自由 94

進歩 83

未定・興味なし534

 

本来ならこうなるはず

 

社会5.1人

共産2.0

自由1.5

進歩1.3

 

032 ところが戦後第一回総選挙1946.4.10結果は 定員10人

 

進歩 5

社会 3

自由 1

無所属1

計  10

 

033 上毛新聞もそれを「予定の戦果、人民戦線未だし、旧勢力が依然圧倒的」とした。

 

023 天皇の地方巡行は、衆院選で保守に有利であった。

031 天皇制廃止・人民共和国を唱えるのは共産党だけで、他は社会党を含めて、天皇制維持、国体維持であった。

 

 

1か月という短時日のうちに、これほど民意が変化することがあり得るのだろうか。しかもこの選挙は全県1区で、2名連記、当選者10名という投票方法だから、全県比例区選挙032であり、現在の小選挙区のような死票がない。考えられることは何らかの不正があったということである。買収などのあくどい方法とか、選管による意図的な結果捏造とかがあったに違いない。

 

感想 この後038, 039を読んでみると、軍政部による反共宣伝工作が1947年ころから始まっていたことが分かる。日本国民は占領軍によって反共意識を植え付けられていたのである。マッカーサーが離日するとき、大勢の日本人が涙の別れを告げたというから、日本人は完全に米軍のとりこになっていたのである。*008「日本人は在任中の元帥宛に50万通の手紙を書き、解任された元帥を20数万人の日本人が羽田空港までの沿道に並び、別れを惜しんだ。」

 

メモ

 

034 その中でも1946年4月10日の朝日新聞は、選挙を「民主革命の出発点」とし、保守政党の戦争責任を追及し、革新政党への投票を呼びかけていた。ところが選挙結果は保守政党の大勝となり、社会党と共産党の議席は100議席に及ばなかった。

 

自由140

進歩 94

社会 92

協同 14

共産  5

諸派 38

無所属81

計 464(再選挙区2選挙区)

 

037 吉田茂宛マッカーサー書簡が勧めた、1947年の第二回衆院議院総選挙は、選挙法を改正し、中選挙区単記制になった。

 

038 第一回統一地方選挙1947/4/5を前にして、1947年3月20日、高級軍政官ブレア・A・フォードが布告を出した。それと同時に3月25日、GHQ民政局のステートメント「民主的選挙とは」が発表され、その見出しは、「民主主義確立へ第五列(共産主義)と戦え」「侵略的共産主義と戦え」「戦うべきものは侵略的共産主義」と反共を露わにし、選挙で共産党に投票しないように日本国民に促した。

 

040 1947年4月20日、第一回参議院議員選挙

4月25日、戦後第二回衆院議員総選挙

4月30日、地方議会選挙

 

4月27日、マッカーサーが選挙結果に関する声明を出した。

4月28日、「朝日新聞」の見出し「共産主義を排除し、民意は中道を選ぶ」

 

041 1949年1月23日、戦後3回目の衆院議員総選挙

1月24日、GHQ渉外局の声明「自由世界の各国民衆は、熱意と秩序ある日本の総選挙が、アジアの歴史における危急な時期において、政府の穏健な考え方に対し、明確かつ決定的な委託(信託)を与えたことに満足するであろう」

1月26日、マッカーサー「この選挙は満足すべき結果である」との声明を出した。

 

感想 この1949年の総選挙では社会党が大敗し、共産党が躍進したのではなかったか。

 

民主自由264

民主69

社会48

共産35

国民協同14

労働者農民7

農民新6

社会革新5

 

 

042 戦後の労働運動は共産党が主導したが、早くも社会党系で反共産主義の「日本労働組合総同盟」(総同盟、1946/8/1結成)と、共産党系の「全日本産業別労働組合会議」(産別1946/8/19)とに分かれ、その後も統一することはなかった。

1948年2月現在の組合数は3万6157、組合員数は684万9千人であった。

公務員の賃上げは吉田内閣によって拒否されていた。共産党の影響が強い官公庁労組(国鉄、全逓など)は、民間の支援を受けて1947年2月1日に全国規模のゼネストを計画したが、GHQに中止され、その後、共産党系の労働運動への規制が強化された。

 

043 1947年3月2日の朝日新聞は、マッカーサーが「日本の民主化は共産主義の防壁」と語ったと報じた。

 

1947年3月17日、マッカーサーは記者会見で「日本の貿易を許す必要がある」と発言した。

 

1948年1月1日、ロイヤル米国陸軍長官が「日本を反共の防壁にする」と発言した。

1948年4月1日、ソ連占領下の東ドイツ領内の西ベルリン(米英仏管理下)に対して、ソ連軍が陸上輸送網を封鎖した。

 

敗戦前後の日本には朝鮮人が200万人居住していた。うち百数十万人が帰郷したが、GHQによる持参金や物品の制限のために、60万人が帰郷を見合わせていた。

 

1945年10月15日、在日朝鮮人は「在日本朝鮮人連盟」(朝連)を結成し、「国語講習所」を開設し、朝鮮人学校を設立した。

 

1948年1月24日、文部省が朝鮮人学校の閉鎖を命じた。それに対して4月、反対運動が大阪、神戸を中心に起った。(阪神教育闘争)4月24日、1000人の朝鮮人が、県市等が対策会議を開いていた兵庫県庁知事室に乱入した。

第8軍司令官アイケルバーガー中将は「暴徒行為は占領政策に妨害する」として、神戸地区に非常事態宣言を発令し、350人を拘留した。(4月27日記事)

4月28日の記事では、「全関係者逮捕、首謀者7人は共産党員、その中に朝鮮共産党員も混じっている」と報じた。

共産党の神戸市議は有罪判決を受けた。

 

044 共産主義の脅威

 

1949年8月17日に起きた松川事件は、戦後初の冤罪事件である。この事件の背景に米スパイ組織G2(参謀第2部、諜報、保安、検閲などを担当)が関わっていたらしい。真犯人は未だ不明である。

 

「団体等規制令」(1949.4.4公布)により、1949年9月、「在日朝鮮人連盟」等、朝鮮人4団体が解散を命じられ、幹部が追放された。

 

1950年2月、共産主義者とその同調者が職場から追放された。

1950年6月6日、共産党幹部が追放された。

1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。軍事力では北が(南より)優位だった。

 

 

047 1950年6月26日、GHQが『アカハタ』の30日間発行停止を指令した。その理由は同紙が「朝鮮戦争が、韓国軍・米国軍の攻撃で開始された」と報道したからとされた。警察は『アカハタ』を各駅で押収した。

1950年6月27日の上毛新聞記事によれば、「高崎駅670部、桐生駅480部、渋川駅450部、富岡駅130部、倉賀野駅95部、他」とある。(『アカハタ』の発行部数は1949年9月30日現在、29万5750部であった。)

1950年6月28日付上毛新聞社説『アカハタの責任』によれば、「『アカハタ』の記事の影響は、国を治める上にどれほど困ることか想像に難くない。『アカハタ』の発行禁止処分は、言論の弾圧ではない。(韓国軍が先制攻撃したという)考え方を改めないなら、元帥の(発行停止の)指令を甘受するより仕方ない。」

 

048 警察予備隊への応募

 

 1950年7月8日、マッカーサーは、吉田茂首相に、7万5千人の「国家警察予備隊」の創設と、海上保安庁の8千人増員を指令した。

1950年7月29日の衆院本会議で、吉田茂首相は「警察予備隊の設置の目的は治安維持以外なし」と(虚偽の)答弁をした。

それでも1950年7月29日付上毛新聞社説は「我々は余りにも軍隊や特高の横暴による被害にいためつけられている。そこで、今度はどんなことがあっても、軍隊や警察が政治に関与したり優位したりすることを排除したいのである」と抵抗した。(やはり戦争体験の苦しみは生きていたといえる。)

1950年8月10日、警察予備隊令が公布され、即日施行された。

 

県警察学校長が募集・採用試験の責任者となり、5地区の警察署で1日おきに常時試験が行われ、試験期間は8月13日から9月15日までだった。警察官採用試験より簡単な知能(国語、算術、常識)考査が行われ、入隊予定日は8月23日で、階級は13だった。

1950年8月16日の上毛新聞記事「第2日で定員1600名を突破した。3357名が応募し、高崎の予備隊受付では、志願書の印刷が間に合わない。」

 

全国の志願者数は38万人に上った。

 

 

1950年8月25日の上毛新聞社説「憲兵とも軍隊とも解釈しうるこの時代の奇形児(警察予備隊)が、どうしてこんなに人気の対象になったのか。それは青壮年失業者が多いことを物語っている。最低5千円の給与が支給され、食事・宿舎・被服など一切が官給であったから、危ない橋を渡ってようやくその日を生活しているカツギ屋などは、喜び勇んでこれに来たり投ずる。この予備隊という奇形児が再軍備の性格を持つか否かをいまさら真剣に議論するのはおかしい。再軍備と見るものは見るべし、警察の一機関と見るものは見るべし。(投げやりな思考停止)朝鮮動乱は、今度の予備隊結成を急がせる動機にはなったけれども、中共その他アジアの赤化攻勢は、日本をしてこうした措置に出でしむる必然的コースを予約せしめていたのである。(今後)予備隊警察の力強い生長が望まれると共に、その発足に当たって、国民の予備隊設置に対する理解の完全ならんことを希望するものである。」(戦前来の思想・生き様、つまり、長い者(戦前の為政者、戦後のGHQ)にはまかれろ、自分の頭で考えない思考停止。生きるためには嘘でも語れ、という節操のない言論機関・上毛新聞の姿勢がここに如実に現れている。)

 

1950年9月20日付上毛新聞記事「本県の志願者数約7800名。そのうち前科者171名がはねられた。元部隊長も志願。大部分が旧陸軍将校。元強盗も含まれていた。(大部分が元軍人上層部の将校であった。)

 

1950年9月14日付上毛新聞記事「県庁で反占領軍の反米ビラが多数まかれた。」

1950年9月15日付上毛新聞記事「富岡の工場、桐生市内、高崎機関庫でも反米反占領軍ビラがまかれた。」

 

戦争に反対する朝鮮人は、「祖国防衛隊」を組織し、共産党とともに火炎瓶放火未遂事件を起こした。

1952年6月以降、「祖国防衛隊」による警察予備隊に対する工作事件が起こった。

 

在日本朝鮮居留民団(民団)は、韓国防衛のための「在日韓僑自衛軍(韓国学徒義勇軍)」を組織し、韓国軍、国連軍に参加した。他方、北朝鮮を支持する朝連系の朝鮮人は、北朝鮮擁護、戦争反対の「祖国防衛隊」を組織した。

 

1949年春から実施された、インフレ抑制、財政金融引き締めのドッジライン政策による不況は、朝鮮特需により一時的に好況に転じた。

 

052 独立回復――占領の終わり

 

1951年に署名された日米安保条約第1条は、「外部からの教唆・干渉により日本で内乱が起きたら、日本政府の要請に基づき、米軍が鎮圧できる」とする。これを内乱条項という。これは1960年の日米安保条約では第5条となり、内乱に代わって「外部からの武力攻撃への共同対処」になった。

 

055 終わりに

 

GHQは新聞、ラジオ、雑誌を検閲し、手紙を開封し、電話を盗聴していた。そのため占領軍兵士による犯罪や事件はほとんど掲載報道されなかった。

 

以上

 

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