2022年5月15日日曜日

「教育原理としての象徴」広島文理科大学助教授 皇至道(すめらぎしどう、1899-1988)

 「教育原理としての象徴」広島文理科大学助教授 皇至道(すめらぎしどう、1899-1988) 1943

 

 

感想

 

筆者は日本的なもの(ここでは象徴主義的教育)一辺倒に対する疑念を持っているのではないかと思われるのだが、買いかぶりか。その理由は筆者が次の三点に関して西洋の智慧との関りを検討する必要性を指摘しているからである。

 

1、日本的な、学問・芸能の教授における師への尊敬の念が、学問・芸能の自由な発達を制約しないかという疑念。148

2、国民学校における生徒指導上の問答と、コメニウスやペスタロッチらが唱えた生徒中心主義の「開発教授」の問答や、教師中心主義だがヘルバルトとその弟子ラインが唱えた「五段階教授」の問答との性格的相違について反省する必要があるという指摘。155

3、日本的教授上の原理である象徴と、西洋的教授上の原理である直観との統一の必要性の指摘。156

 

感想

 

日本の学問・芸能を西洋と比較し、西洋では学問・芸能と道(道徳)とが分離し、科学的・分析的であり、そのために学問・芸能が著しく発達したが、他面道徳的には退廃したかもしれないとし、一方日本の学問・芸能は情意的・全体的であり、道であり、象徴であるとし、禅を例にその教授法を例示する。

 

この論文それ自体が論文というよりも禅問答であり、一見全く意味不明である。真偽のほどは分からないが、筆者は敢えて意味不明の論文を発表したのかもしれない。Wikiによれば、筆者の専門は禅とか武士道とか茶道ではなく、教育行財政学であり、古代、中世、近世の大学や、イギリス、ドイツ、アメリカ、日本の教育行政学を研究したとある。全く禅宗とは関係ない。

 また筆者は最後の方で日本の伝統的な教授法が現代に通用するかどうか吟味する必要があるとも言っている。155

 Wikiの年譜によれば、筆者が小学校の教員をするなどして苦学しながら学位を取得した様子が分かる。そして一旦就職後に30歳で広島大学に入学し、33歳で卒業している。

 

Wikiによれば、

 

 至道(すめらぎ しどう、1899年(明治32年)619 - 1988年(昭和63年)927日)は滋賀県出身の教育学者。1973年(昭和48年)に勲二等瑞宝章を受章。

 

来歴・人物

 

滋賀県愛知郡湖東町(現・東近江市)出身。広島高等師範学校、広島文理科大学卒業。専門は教育行財政学。広島高等師範学校講師、広島文理科大学教授、広島大学教育学部教授、同教育学部長(連続5期)を経て、1963年(昭和38年)、森戸辰男の後を継ぎ、第2代学長に就任した。行政経験豊かで、大学研究の第一人者でもあった皇は、大学整備計画を推進し、歯学部等の設置を行なったが、1966年に不正入試事件(入試問題漏洩事件)が発生し事務官3人が懲戒免職される事態になると、皇は道義的責任をとって同年6月に任期途中で辞任した[1]。また文部省の教育職員養成審議会委員、学術奨励審議会委員を歴任するとともに日本教育学会理事、教育史学会理事、中国四国教育学会会長、日本教育行政学会理事および代表理事などを務めた。

 

古代、中世、近世の大学や、イギリス、ドイツ、アメリカ、日本の教育行政学を研究、独自の理論体系を作った。[要出典]「皇至道著作集」(全五巻)などの著書がある。1988年(昭和63年)死去、享年90(満89歳没)。 

 

年譜

 

滋賀県愛知郡湖東町(現・東近江市)に、父順諒、母高千代の長男として出生

1914年(大正3年)4月滋賀県師範学校本科第一部入学

1920年(大正9年)

3月滋賀県師範学校卒業(この間病気療養のため、1ヵ年休学)(21歳)

331日、滋賀県犬上郡東甲良尋常高等小学校訓導

1921年(大正10年)4月、広島高等師範学校第二部(英語科)入学(22歳)

1925年(大正14年)

37日、広島高等師範学校卒業

331日、兵庫県姫路師範学校教諭兼訓導

1929年(昭和4年)422日、広島文理科大学(教育学専攻)入学(30

1932年(昭和7年)

37日、広島文理科大学卒業、卒業論文「ソクラテスとプラトンの教育的関係

331日、広島文理科大学(教育学科)助手

1934年(昭和9年)331日、広島文理科大学講師(35歳)

1935年(昭和10年)331日、広島高等師範学校講師を兼職(193848日解任)(36歳)

1938年(昭和13年)29日、広島文理科大学助教授39歳)

1944年(昭和19年)1120日、広島高等師範学校および広島臨時教員養成所講師を兼職(45歳)

 

1948年(昭和23年)

21日、広島文理科大学教育学教室主任(49歳)

220日、広島文理科大学教授

81日、広島文理科大学より文学博士の学位取得。学位論文「大学制度の研究」、副論文「シュタインの教育行政学」

1951年(昭和26年)131日、広島大学教育学部教授を兼職(52歳)

1953年(昭和28年)

41日、広島大学教授に配置換、広島文理科大学教授併任(54歳)

61日、広島大学教育学部長、広島大学大学院教育学研究科長。

1957年(昭和32年)1022日、ビルマ政府の招聘により教育顧問として同国へ出張(19581月まで)

1958年(昭和33年)1110日、文部省視学委員

1963年(昭和38年)41日、広島大学学長(64歳)

1964年(昭和39年)

316日、学術奨励審議会委員(65歳)

818日、イギリス国政府の招聘により同国へ出張(923日まで)

1966年(昭和41年)

61日、広島大学学長を辞職(67歳)

913日、広島大学名誉教授の称号を受ける

127日、青少年育成広島県民会議会長

1967年(昭和42年)1012日、広島県後期中等教育検討委員会委員長(68歳)

1970年(昭和45年)718日、広島県医療機関整備審議会会長

1973年(昭和48年)429日、勲二等瑞宝章を受章(74歳)

1977年(昭和52年)

421日、広島県コミュニティづくり推進協議会会長(78歳)

526日、広島県教育問題懇談会座長

1988年(昭和63年)927日、脳梗塞のため死去(89歳)[2]

 

学会での役職

 

日本教育学会理事 (1947.9

日本教育学会中国四国支部会長(1949.10

教育史学会理事(1956.5.3

日本教育学会中国四国支部会長(1958.10

日本教育行政学会

代表委員(1962.5

代表理事 (第1期~第2期 196771年)

理事 (第3期~第8期 197188年)

 

著書

 

国民教育体制の構想』柳原書店 1942

『獨逸教育制度史』柳原書店 1943

 

『西洋教育史』柳原書店 1952

『市町村教育委員会の実態』明治図書 1953

『現代教師の性格』光風出版 1954

『シュタイン』牧書店 1957 

『西洋教育通史』(玉川大学出版部 1962

『寮生活の教育的意義』日生学園高等学校 1966

『個性の本質と個別学習』日生学園高等学校 1967

『現代教育学―幸福への道しるべ』明治図書 1968

『明日を創造する人間形成論』日生学園高等学校 1968

『人間関係の危機における教育』日生学園高等学校 1969

『日本教育制度の性格』玉川大学出版部 1970

『大学の歴史と改革』講談社 1970

『教育行政学原論』第一法規 1974

人類の教師と国民の教師』玉川大学出版部 1975

『徳は教えられるか』(お茶の水書房 1976

『皇至道著作集』全5 皇至道著作集刊行会編 第一法規 1977

『現代教育学』明治図書出版 1990 

 

 

メモ 禅問答的文体の中から理解できる部分だけを抜粋する。

 

146 教育は文化の伝達・創造と不可分の関係にあるから、日本教育学の性格は日本文化の性格と相表裏する。悠久2600年の伝統を背景とする日本文化が情意的・全体的文化であるの対して、西洋文化は科学的・分析的である。日本の伝統では学問・芸能が道徳と密接に結合していて、道と考えられている。一方西洋文化では学問・芸能は道徳と全く無関係とはいえないまでも、道徳と分離できると考えられていて、そこに近代西洋文化の特色がある。西洋文化はそのため著しい進歩を遂げた。西洋の科学と文芸の進歩が人類の習俗を堕落させたかそれとも改善したのか。西洋の文化の進歩は知識・技術と道徳・情意との間に対立を生じたが、西洋の科学・技術が没落したのではなく、道徳的情意が没落したというべきである。

 

147 一方日本の伝統的文化では、学問・芸能が「教」と結合している。そしてそのことによって「道」を作り、学道・芸道と呼ばれる。芸能の名人は技能に秀でているだけでなく、道の体現者であることも要求される。技能の巧拙だけでなく、風格や気品も尊ばれる。芸能は道に「悟入」することが期待されている。そして各種の芸能に所属する「直覚」は相互に無関係ではなく、共通な「道」に通じる「一つの根本的な直覚」から生じる。

 芭蕉は俳諧の風雅の本質を西行の和歌、宗祇の連歌、雪舟の絵、利休の茶と同じところに求めた。「笈の小文」冒頭で芭蕉は「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、その貫通するものは一なり」と述べ、俳諧の風雅の本質をここに求めている。各種芸能の師匠たちが体得した「直覚」は一つの大きな体験の特殊な部分にすぎない。芸能を通して道に「悟入」するというよりも、芸能それ自体が道である。小堀遠州の茶道観を示す「書捨ての文」の冒頭に、「茶道とて外にはなく、君父に忠孝を尽くし、家々の業を懈怠(かいたい)なく、ことさらに旧友の交をうしなう事なかれ云々」とあるように、彼において茶道は道徳である。

148 宮本武蔵もその五輪書の結尾で「その心を知って、直なるところを本とし、実の心を道として、兵法を広くおこない、正しく明らかに大きなる所をおもいとって、空を道とし、道を空と見るところなり」と述べ、実の心を道として兵法を行うべきことを明らかにしている。

 

 しかし学問・芸能が「教」と離れがたく結合していることは、一面では学問・芸能やその師に尊敬の念を生じるが、他面では学問・芸能の自由な発達が制約される。しかしここではその詳細は述べない。

 

 このように日本の伝統的な学問・芸能は「教」と結合して学道・芸道を創造したが、その学道・芸道がどのように授受されたかが教育学の問題である。全体としての道と離れることのできない学問・芸能では、その奥義の伝達に困難が予想される。合理的・分析的文化の伝達を目的とする西洋近代の教育は、直観を中心原理として直感から概念に至った。西洋教育学における労作は直観のための労作である。西洋近代の教育学は児童の自発性に基づく直観を中核とし、教師の職能は児童の直観を助成することである。従って興味が教育原理とされる。分析的に説明し、絵画や模型を示し、実物を示すなどは、直観を重視するからである。実験・実測・製作などを尊ぶのは、より良い直観を導くためである。直観から概念に至る西洋教育学は、さらに概念から実践へ向かったから、道徳教育を軽視しているわけではない。しかし道徳教育を標榜するヘルバルトの教育学が、興味から知識へ、知識から実践へ努力したが、知識から実践への課題を解くことができず、主知主義だと批判された。西洋教育学は知育であり、徳育も知育を通じての徳育であり、それは西洋教育学の越えがたい限界である。

149 一方日本の伝統的な教育は道の伝達であり、情意的で全体的な道の文化が合理化され分析されると、本質から逸脱する恐れがある。日本の伝統的な学問・芸能の本質は、象徴的に開示されるしかない。道の伝統は道の体現者である師匠の象徴を唯一の手掛かりとして、弟子の努力によって体得・悟得されてきた。ただし、西洋教育学の中でもフレーベルのように象徴主義教育を説く者もある。

 

 象徴について説明する。カッシーラー「象徴的形式の哲学」(E. Cassirer, Philosophie der symbolischen Formen 3 Bde.(Bände)1923-29)や、高山岩男「象徴的形式の構造」(思想昭和1278月号)などは、広義の象徴的形式である言語、習俗、芸術、神話などの構造を哲学的に解明した。言語、習俗、芸術、神話などはいずれも象徴的形式であるが、芸術には象徴主義と写実主義とがあり、写実主義的芸術でも象徴性を持ち、言語の中でも象徴性の豊かなものとそうでないものとがあり、また同一言語でも時処位によって象徴性が異なる。このように象徴の本質の解明は難しい。

150 象徴symbolという語はギリシャ語のσυμβολ’ηから来たもので、「結合」の意味である。これと語根が同じσυμβολνは「一つのものの分かれた断片」の意味であり、それは他の断片と結合して全体を形成する、言わば一個の割符であり、全体を認識するための徴表である。即ち象徴とは隠れた全体の徴表としての部分の意味である。哲学でも現象に対する本体を考え、現象によって本体を認識する場合、現象は本体に対して象徴となる。身体的表現が精神を象徴するとも言える。象徴は直観的形象によってそれを超越した全体の意味を表出するものである。象徴的なものは、超越的で内在的なものである。

 

 日本の伝統的な学問・芸能の本質は、象徴的に開示されてきた。能楽に関する世阿弥の芸術論「花伝書」は、能楽の芸術的境地を「花」の語で象徴的に表現した。「この物数を極むる心、則ち花の種なるべし。されば、花を知らんと思はば、先ず種を知るべし。花は心、種は態なるべし」と述べている。宮本武蔵が「五輪書」の中で剣道の極意を地水火風空の五巻に分けて述べているのも、それぞれに象徴的意味がある。利休は「茶道伝書」の中で、数奇道について「枯れ木の雪に折れたる如く、すねすねしき手前の中に、又しほらしきこうをなす事なり云々」と述べている。また芭蕉の俳諧における「軽み」の理念について、子珊は「別座鋪」の序の中で、「翁今思う体は、浅き砂川を見る如く、句の形附心ともに軽きなり」と言っている。また心敬は「心敬僧都庭訓」(続群書類従)の中で連歌の道について「余情面かげひえやせたることは上手のくらい(位)にいたり(至り)、をのづから(自ずから)しらる(知らる)べき物なり。習伝(習い伝え)がたきものなり」と言っている。

151 このように芸道の奥義は「花」と「種」とか、「地水火風空」とか、「枯れ木の雪にをれたる如く」とか、「浅き砂川を見る如く」とか、「ひえやせたる」とか表現されている。

本来象徴的傾向の強い宗教で象徴的表現を見出すことが多い。天台宗の一念三千、真言宗の三密、浄土門の念仏、日蓮宗の題目、禅宗の座禅と公案などは象徴的である。次に座禅の問答と行の象徴性について教育学的に吟味する。

 

 禅宗は「以心伝心」、「不立(ふりゅう)文字」(禅の悟りの内容は文字では表現できない)*を標榜する。

 

*そのほかに「教外別伝」(きょうげべつでん、教えを心から心に伝える)がある。禅宗は学問より実践を重視する。

 

理論的説明はその本質を解明しない。禅宗では芸術的形式の「偈頌」(げじゅ、韻文形式で仏徳を讃嘆して教理を述べたもの)や「道歌」(どうか、道徳的な教えを詠み込んだ和歌)などによる象徴的表現が多い。禅を彷彿とさせるには象徴的表現の方が概念的分析に優る。看話禅の中核をなす問答はギリシャのディアゴロスのような概念的・論理的対話ではなく、概念を超え、論理を絶したものである。それは真っ裸の法機と法機とが相闘う無分別の対話である。そこに禅問答の実践的性格が現れている。禅問答を学問的・論理的に見れば荒唐無稽である。「狗(く、犬)子仏性」について、惟寛は「狗子仏性有」と言うが、趙州は「狗子仏性無」と答える。また「諸法無常」とも「諸法常住」とも言う。「諸法皆是虚妄」に対して「諸法実相」と言う。「如何是仏」という問に雲門は「乾屎(し、糞)橛(けつ、くい)と答え、同じ問いに洞山は「麻三片」と答える。「祖師西来意」は如何と問われると、趙州は「庭前栢(かしわ)樹子」と答える。これらの問答の論理的分析からは何も生まれない。それは内的自証である体験の告白である。断言的な体験の事実を語るから推理はない。禅の問答は体験に取り組む対話である。維摩詰は文殊の「何等是入不二法門」の問いに対して沈黙で応答した。沈黙も偉大な象徴である。

152 教育学的に興味深い禅問答の一つは法眼玄則との「丙丁童子来求火」という問答である。法眼会下(えげ、えか、禅宗や浄土宗で師の僧の下で修業するところ)の玄則は、かつて志円に「如何なるか是学人の自己」と問うたところ、「丙丁童子来求火」と答えられて自らが悟道の域にいると自信を持った。「丙丁童子来求火」とは火の神が来て火を求めること、つまり自己が自己を求めることであり、本来の自己即ち仏に他ならないと理解した。しかし彼の理解は言葉の上の概念的理解であって、真の悟道の境には至っていなかった。玄則はたまたま法眼から「仏法もし是の如くならば今日に到らじ」と言われその了得を否認された。玄則は一度は憤然として法眼の会下を去ったが、やがて心を取り直し、礼拝懺悔して(法眼に)教えを乞い、「如何なるか是学人の自己」と以前の問いを繰り返した。法眼はこれに「丙丁童子来求火」と答え、玄則は言下に大悟したとのことである。玄則は同じ問いを二度問い、同じ答えを二度得て、終に大悟徹底できた。法眼と玄則との間の石火のごとき「機」の把握は、「啐啄同時」の法眼の家風を示す。*この話は禅門における間髪を入れない機の把握を示している。

 

*啐啄(そったく) 「啐」は卵の中の雛が殻から出たいと殻をつつくこと。「啄」は親鳥が殻をつついて壊し、雛の出るのを助けてやること。絶好の機会。

 

古来名僧大徳が大悟した機縁については様々な物語がある。倶胝(ぐち)は天竜が示した一指頭(しとう、指先)によって豁然(かつぜん、急に)大悟した。霊祐は百丈の挟み上げた(箸などで挟んで持ち上げる)わずかな埋もれ火の光を見て感得した。霊雲は微風に散る桃の花を見て本来の面目を徹見し、霊祐の印可(いんか、師僧が弟子の修行者が悟りを得たことを証明すること)を受けた。徳山龍山が暗夜に燈火を吹き消した瞬間に感激の法悦に浸った。香厳は庵の周りを掃除中に小石が飛びそれがそばの竹に当たったカチッという音を聞き、霊祐が与えた「父母未生己前の一句」を道破(言い尽くす)した。雪潭(たん)は山門の楼上から飛び降りようとした一瞬に、暁の鶏声を聞き大悟した。禅では一語一句、一挙手一投足、神羅万象悉く悟道の機縁にならないものはない。臨済の喝(かつ)、徳山の棒もこの機縁を提供する。この機縁の把握は偶然に起るように見えるが、実は不断の工夫と修練の結果である。無窓国師の「夢中問答」にあるように、禅の公案(禅宗で参禅者に出す課題)は「鉄饅頭」に比すべきものであり、「ただ情識の舌をつくる事あたわざる処に向かって、咬み(かみ)来たり噛み去らば、かならず咬み破る時分あるべし」と述べている。しかも一個の話頭(わとう、古則・公案の一節。話の糸口)に徹底的に参ずることによって、千の話頭は一時に透過できる。全心身を挙げてただこの一話頭に参ずるのである。多方に興味を喚起するのではなく、徹底的に唯一句の道得(どうとく、どうて、仏法を身につけてよく言い表す事)を重んじる。一指頭禅の体得も「一生受用不尽」である。

 禅では日常生活が工夫修練の場である。公案の透過を主とする看話禅と、ひたすら打座を重んじる黙照禅とで強調する点は異なるが、真の禅には二つとも必要である。程明道はかつて定林寺を過ぎ、偶々齋堂(食堂)の威儀整然たるのを見て、「三代の礼楽悉く是にあり」と嘆じた。清規(しんぎ、禅宗で道場での起居動作などの作法を決めた規則。しょうぎ)は禅門の生命である。今道元禅師清規は座禅礼拝の作法や、洗面、食事、就眠など日常生活の一挙手一投足を禅門の伝統によって規定している。清規は戒律とは異なる。戒律は消極的であるが、清規は積極的である。道元が「作法これ宗旨」と言っているように、行住坐臥の日常四威儀の中に仏法の真義が顕現する。威儀即仏法である。道元は特に食事の作法、食事を司る典座(てんぞ)の役目を重んじ、それぞれ「赴粥飯法」と「典座教訓」を定めた。「法若し菩提なれば、食もまた菩提なり」とあるように、著衣喫飯(ちゃくいきっぱん)は法性三昧の著衣喫飯である。衣鉢(袈裟と鉢)を継ぐとは仏祖の精神を継ぐことである。五観の第五に「成道のための故に今此の食を受く」とある。道元にとって食は真如法性の顕現であり、食事をすること自身に意味がある。食事の世話をする典座の役は「絆をもって道心とす」と教えられている。

154 このように本来の面目である仏性は日常生活の中に象徴的に顕現している。「一日の行持これ諸仏の種子なり」という。行によって仏性を見ることがやがて成仏であり、座禅はこの行の基本的形態である。しかし道元にとって座禅はそれ自体が目的であって悟りのための手段ではなく、「只管打座」が強調される。「只管打座即心身脱落」である。禅門の行は打座を中心とする日常生活を象徴的形式として実践するところにあるが、道元においては象徴が本体と不二のものとなり、食事は食事そのこと、打座は打座そのことを目的として行ずることを要求する。「正法眼蔵隋聞記」は「何人も行ずることによって道心を得る」とし、「学問の人も、初めより道心なくとも、只しひて仏道を好み学せば、終に実の道心も起こるべきなり。初心学道の人は、只衆に随ふて行道すべきなり」とし、「善知識に随って衆と共に行じて私しなければ、自然に道人となるなり」としている。

 

155 以上教育原理としての象徴の意義を禅堂教育の事実について説明した。塾教育や芸道教育においても象徴的性格を認めることができるが、今その説明をする余裕はない。要するに日本の伝統では、道は師の提示する象徴によって体得されてきた。しかし伝統的な象徴形式の全てがそのまま現代教育に適用できるかどうかは吟味しなければならない。日本文化の将来を展望し、学校教育の性格を顧慮し、現代教育に相応しい象徴的形式を樹立する必要がある。問と答は学校教育の中心的形式である。現代の学校教育では果たして大疑に根ざした問が発せられているか。一生受用しても尽きない底の答がなされているか。国民学校の問答は開発教授五段教授の問答とどれだけ相違しているか。問と答の技巧ではなく、その性格そのものについて根本的な反省をする必要がある。

また行の教育、心身一体の教育はただ身体を動かすことを意味しない。行の教育には権威ある象徴的形式を必要とする。国民学校に新たに採用された武道は、伝統的な鍛錬形式を復興したものである。体育や実用のためなら他にももっと適当なものがあるかもしれない。教科としての武道の本質はその象徴性にある。それは基礎動作である型という象徴的形式によって、日本武士道の伝統的精神を体得させる。しかし他面では権威ある新しい象徴的形式の創造が要望されている。加藤完治*によって創始された農民教育は現代における農民道を象徴的に顕現したものである。それが農民や拓士(たくし、満洲に渡った開拓民)の教育にばかりでなく、一般教育界に及ぼした影響は大きい。また陸海軍の教育で軍人精神の顕現としての象徴的形式が創造されているが、その教育力に驚異の眼を見張る。

 

*加藤完治1884-1967は教育者、農本主義者、剣道家。

東京帝大農科大学卒1911。大学で直心影流山田次朗吉に剣道を学ぶ。

内務省勤務、水戸市の農業訓練所所長、愛知県立安城農林学校(後の愛知県立安城農林高等学校)1913、山形県立自治講習所所長1915

茨城県友部市に日本国民高等学校(後の日本農業実践学園)を創立1925

キリスト教徒から古神道に改宗。筧克彦古神道に基づく農本主義を掲げ、関東軍将校で満州国軍政部顧問の東宮鉄男と満州開拓移民を推進した。満州開拓青少年義勇軍の設立に関わり、満州開拓青少年義勇軍訓練所を開設1938し、8万人を輩出した。

第二次大戦後公職追放となり、GHQからA級戦犯として一旦召喚されたが、送り返された。1953年、日本国民高等学校校長に復帰した。

 

156 象徴的形式を真に権威あらしめるものは、道の伝統と、その体現者としての教師であるが、このことについての考察は他日に回す。なお日本教育の伝統的原理としての象徴と、西洋教育学の中心的原理としての直観との関係についても論ずべきであるが、今は両原理の統一のなかに根本的な方法原理としての錬成の意義を把握すべきであると指摘するにとどめる。

 

以上

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