2022年5月15日日曜日

「政治的教育学の立場」 東京文理科大学講師 篠原陽二

 「政治的教育学の立場」 東京文理科大学講師 篠原陽二 1943

 

 

感想 読者に何を言おうとするでもない、意味の通じない自己完結した文章を書いても飯を食っていけたのが、戦前の学閥特権階級だったのかもしれない。

 

感想 本論の論旨は、従来の自由な理性的人格の教育を説く観念論的教育学ではなく、民族の歴史や方向性に根ざし民族と国家に奉仕する民族的・政治的教育学でなければならないとする。時代の要請を受け入れてドイツの教育学を紹介したようだが、推論上無理な展開があるように感じた部分もあった。

 

感想 ヘーゲルの精神現象学や交響曲の作曲法のような印象を受ける。論旨はちょびっと新語を挿入しそれに乗っかって変化していくようだ。そして終わっても終わった感じがしない。当時はヘーゲルがよく読まれていたようだし、その影響は本当にあるのかもしれない。

 

感想 「民族に根ざす教育」は出て来るが、さすが肇国神話そのものは出てこない。これまでの教育学を観念的教育学として批判し、行動的・政治的教育学を提示する。観念ではなく行動だ、目標は観念的に定まったものではなく、行動するなかで生まれるということか。観念的ではいけないと言いつつ、文体が観念的で分かりにくい。

 

メモ

 

005 近年まで支配的であった教育学は、教育とは自由な理性的人格の教育であると考えてきた。個人的教養に教育の中心的地位を与える教育学を陶冶教育学と名付ける。陶冶教育学は教育の対象としての人間を自然対理性、存在対当為の緊張対立として思考し、その当為または理性を必然的・合理的認識に置き換えることによって規範的教育学を生んだ。

006 陶冶教育学と規範的教育学とは、人間を理性的・理論的存在であるとする観念論的・合理主義的な人間観の所産である。

007 合理主義の立場では行為が認識に基けられるばかりでなく、社会も合理的認識の統一性に基けられる。

008 この意味の社会では人は自己の法則に従う自律的な存在として、自己以外のどんな他者にも従属しない社会の主とならざるを得ない。

 

 一方政治的教育学では現実的な人間は理論的・普遍的な存在ではなく、常に歴史的秩序における種族または民族としての人間である。人間生活を根柢で制約するものは、形式的悟性と合理的意志ではなく、人間の生活と運命は、民族の運命と生を根柢としてこれに規定されている。合理的理性の自律の思想は、人が常に民族の一員として民族の中に生き、民族に奉仕しなければならない責任を負うことを忘れている、と政治的教育学は考える。その意味は、民族の本質と発展とは、民族から離れて一定の距離から好意を以て観察することではなく、民族の使命の展開に行動的・実質的に参与しなければならないということである。人間が民族的・政治的な存在であるという立場に立つ政治的教育学は、現実に形成的に働きかけ、それに秩序を付与する政治的行為に基けられた政治的現実の上に立つと主張する。

009 政治的教育学では、民族的存在が本来政治的であると考える。人間とは、価値を実現するものではなく価値を創造するものである。(どう違うのか)人間は価値を構想し、企画し、制作し、支配する行為的な存在である。それが「政治的」の意味である。

 生や行為は必ず傾向的である。

行為は決断でなければならない。観念論的哲学は精神の世界を観照し思慮することこそ人間の本質であると考えるが、人間の生活はそのように安易なものではないだろう。

010 認識は行為に保障を与えることはできない。行為は合理的な思慮によって保障し尽くされない。(反知性主義)未だ決定されないものには理論的認識の力が及ばない。人間は未来に向かって課せられたものであり、このことは単に認識に基づいてこれに随順することではなく、行為によって決定すべきことを要求する。観照的・考察的な理論の力は未来には及ばない。そういう理論は具体的現実としての運命を避け、合理的な当為の仮象的世界に逃れることを意味する。未来は企画し決定する行為によってのみ開かれる。真の行為はあらかじめ与えられた価値または原理の実現ではなく、新しい秩序の措定である。(両者はどう違うのか)理論的認識は固定的・不動的なものに向けられるが、実践的な活動は世界の変化を目指す。運命の下に立つ運命の自覚は可能の思想によってではなく、現実の決断において実践することになる。

 

感想 言葉の錬金術師。自己保身のためか。戦後筆者は戦前の自分のこの論文をどう思ったのか。

 

行為が決断的・方向的であるということはまだ抽象的な規定に過ぎない。具体的・政治的行為であるためにはさらにその意欲と行動との方向の意味または内容が問題になってくる。政治的存在であることは民族的制約の自覚に生きることである。政治的行為とは民族の歴史と現在、運命と将来とを顧みて、民族と国家との使命の達成に献身することである。

011 人間はその出生によって既に運命共同態としての民族同胞の一員である点からも、また国家の行為体系における行為者であるところからも、人間は政治的存在である。(既存のものに対する忍従、あきらめ)人間はこのように現実的に制約されている。政治的とは各自がその立つ秩序ないし地位に相応して固有の任務を果たすべきであることを意味する。

 観念論は自由な人格の理念に対する責任を説くが、その責任は人間存在を自然と精神との対立によって考え、精神の自然に対する自由が人間を人間たらしめると考えるが、その立場では十分に(事の本質を)理解できない。責任は何者かに対する責任であって、本来的自己に対する責任ではない。

 人間が民族に対する存在であることが正しいとすれば、責任は民族との関係に基かねばならない。

012 責任とは自己が他者に委属することを知ることである。人間は民族に対して責任がある。それを自覚する時人間は真の自己となり、それが真の自由である。人間は民族に奉仕するときはじめて人格となる。それは犠牲ではなく、献身する時人間は真に生きるのである。

 人間が民族的秩序の中にあることは有機体の器官のようになることではなく、世界に対する態度で、責任を負うことである。

013 財の享受は受動的体験としての文化であるが、それは真の文化ではない。文化は消費ではなく何かを創造することである。

 文化の根源は生産的・実存的な力であり、そこに理念が現れる。観念論的世界観は、自己がそれから生まれた力を否定し、地盤を失った精神の文化を説き「それ自身において存在する一般的価値」の観照に人間の意義を認めた。しかし生産する力から遊離した理念は枯死する。民族の力を離れた精神文化はあり得ない。(なぜ)価値は民族的に限定された産出力に制約される。活動的で現実的な人間生活から離れた価値を説くことは誤りである。

 

 以上の通り、人間が民族的・行為的・政治的存在であるとするならば、教育も政治的でなければならない。観念論的哲学のように、客観的・精神的文化財を享受することに人間生活が成り立つという立場は、教育または陶冶が一種の栄養作用であるという想定に立つことになるだろう。文化財は人間に栄養を与えて、その発展を促し、陶冶は精神的な財の段階的提供と収得であるということになるだろう。そして陶冶は文化の繁殖または伝達であることになる。固より教育にはこのような側面が存在するが、問題は教育が成長に対する栄養過程か、それとも生活における成長そのものであるかというところにある。

014 人間が活動性を本態とし、秩序における社会生活によって呼びかけられ、規定されるというとき、教育はこのような具体的・実践的な社会生活での力の展開・形成であることになる。文化が文化財にではなく、社会の秩序に向けられた能動的な働きかけに求められるべきであるという立場は、陶冶は文化財の収得ではなく、社会における活動的な能力の展開であるという意味の教育を可能にする。文化とは生きた伝統の力であり、文化はその意味で教育である。生は生によってのみ点火され、陶冶は生に由来する。陶冶は結果や個人的所得ではなく、社会における根源的な生起としての力の展開であり、一定の方向を持った能力を展開し、強力にし、鞏固にし、練磨することである。そしてこの能力の方向は民族の素質に予め具わる方向に根ざす。

 主知主義的教育学では、人間は知性であり、人間は凡ての可能性を包む無限定的な素質として生まれてくるとし、教育はこの素質を欲するままの形に形成することができ、知性への働きかけによって人間を支配することができるという無制約的陶冶性概念が想定されている。人間の認識の上に立つ教育学は、教育の目的を知性から導き、「人間そのもの」を教育の目的に掲げるのだが、このような考え方は根源的素質による一定の方向への規定を無視した、一般的人間性の立場でのみ可能である。

015 どのような外からの働きかけも、人々の根柢に本来具わる傾向を改めることはできない。人間がなし得ることは自己の素質に発する。人間は種族的・民族的存在であり、民族的な素質を受けて生まれ、民族的な社会、民族的な秩序の中に生きる。人間は欲するところのどんなものにもなれるのではなく、既に与えられている素質の方向と相容れないものにはなり得ない。教育は素質を否定することができない。教育は人の素質に具わる方向に合致したとき初めて行われる。否寧ろ教育は素質に方向が具わるときに初めて可能である。(民族的な素質の枠からはみ出せない)

 素質とは陶冶性の方向の限定である。陶冶性を、素質の方向性を抽象して考えることができるとしたところに主知主義の誤りがある。陶冶性は、素質が無方向ではなく方向的であるところに成り立つ。区別し、選択し、固執する方向性がなければ陶冶は行われない。素質の方向性は陶冶を不可能にするのではなく、寧ろ陶冶の前提である。習得されたものは多様なものに過ぎず、統一と首尾一貫した行為は素質的性格から現れるだろう。決断や決定、統一を与えるものは性格であり、性格の方向は生得的であり、その統一は習得できない。性格の展開は「民族の根柢から民族の規範に従って」のみ可能であり、民族的な展開を承認して肯定することによってのみ人間は発展する。

016 素質によって方向が決定されているということは、人間が不変であり陶冶され得ないということではない。素質は可能性である。素質の方向的な統一は固定し静止したものではなく、動的で、方向的運動における統一である。それは固定した不動の統一ではなく、無限定的な統一である。そこに教育の必要性が発生する。教育はこの流動的で方向的な運動に形態を与える。生きたものの完全な形態への形成は自ずから成るのではなく、実践的社会での教育が必要である。人間が鞏固な性格と不動の態度に到達するためには、内的衝動だけでは不可能であり、常に固い統一的な生活秩序に織り込まれることが不可欠である。民族社会の教育的な働きかけによってのみ、民族に固有の陶冶性が完成される。そして未だ十分に限定されていなかった方向が明確な形態を備える。このような民族的人間、訓練された性格こそ、真の人間であり、高貴な人間である。

 

 以上の通り、教育の課題、形式、方法、内容、可能性は、人間の民族的・政治的な存在に基づく。教育は何よりも先ず民族と国家に奉仕し、民族の課題に実践的に献身する人格の教育でなければならない。(決定打)教育の意義は、民族共同態に本質的な生の法則を表現し実現する人格を形成することである。政治的・民族的な人間の形成は、民族的・政治的教育方法と教育内容によって、民族に本来具わっている固有の陶冶性に働きかけることによって可能となる。

017 強靭な政治力に基けられた政治的・民族的社会での生活によって、奉仕に生きる行為の心構えと能力が涵養され練磨され、具体的な政治的情勢に即して政治的な思考能力が覚醒され展開される。生死を賭して守られ追及されるべき課題や目的のないところに真の教育はない。科学としての教育学が教育の目的や方法を設定するのではなく、政治的な意志と秩序が教育の課題と方法を規定する。政治力と政治的秩序こそ政治的教育の前提であり目標である。

 

 人間が政治的存在であることは、科学もその研究者も政治的であるべきことになる。科学は民族的現実に対する責任を果たすべきである。科学が現実的な科学であるためには、その研究の動機や問題を民族的現実から取らねばならない。

 しかしこのことは政治の実践と科学の研究との差をなくすことではない。実践も理論も現実を超える点では共通しているが、両者は二つの異なる次元である。実践的行為が現実を超え、現実を変化させ、新しい秩序を建設するのに対して、理論的認識も現実を超える働きであるが、現実から離れず、現実に(科学に)呼びかけさせ、現実に順応する。(意味不明)「在る者を何であるか、如何にあるかのままにあらしめる」ものである。そしてこのように現実に問題を仰ぎ存在に即するところに、科学は真摯な研究となる。これを教育学について言えば、教育学は新しい教育を自己の中から生み出すことはできないが、現在の教育を弁護するだけでなく、それを概念において展開し、その真相を明らかにし、解釈し、鮮明にする役割を負う。

 

018 以上は現在のドイツの民族的・政治的教育学の立場の梗概である。

 

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