2022年5月15日日曜日

「二重言語の問題と朝鮮教育」京城帝国大学教授 田花為雄

 「二重言語の問題と朝鮮教育」京城帝国大学教授 田花為雄 1943

 

 

感想

 

 朝鮮はその独自の言語ばかりでなく民族性をも捨てて日本人(優秀な皇国民)に成り切れと筆者は言う。朝鮮人蔑視に基づく朝鮮民族性の絶滅を唱える、優越的で人種差別的で極端な論文である。

 戦後は西洋教育史に逃げ場を求めたようだが、朝鮮教育史を扱ったもの(『朝鮮郷約教化史の研究(歴史編)』昭和471972年 鳴鳳社)がわずかながらある。

 

感想

 

・国(文部省)は二重言語の弊害を無視していた。166

・本推論は統計(テスト)に基かず、朝鮮教育経験者の話と筆者の内鮮生徒の調査に基づく。158

 

 

Wikiには田花為雄の項目がないが、田花為雄に関するサイトがいくつかある。

 

「日本の古本屋」によれば、

 

『哲学論集 京城大国大学法文学会編』昭和51930年 刀江書店 解説 島本愛之助、秋葉隆、黒田亮、金子光介、赤松智城、田花為雄、福富一郎、速水滉、宮本和吉、松月秀雄、安倍能成

 

『西洋教育史研究 廿世紀初期の独逸』昭和31年 新思潮社 

『大阪大学文学部創立十周年記念論叢』昭和341959年 三池書房

『ガウデイヒ派教育学』昭和371962年 新思潮社

朝鮮郷約教化史の研究(歴史編)』昭和47年 鳴鳳社

『西洋教育史ノート』全4冊 昭和49年 所書店(書房)、昭和53

『西洋教育史ノート 3中世後期教育学他』昭和53

『言詠観帖』昭和54

『巡礼感想抄』昭和541979年 大協

『西洋教育史ノート 4ルネサンスの帝王学他』昭和55

 

PayPayフリマによれば、

 

『教育原論』昭和421967年 所書店

 

上智大学によれば、

 

『ギリシャ・ローマの教育思想』(教育思想史Ⅰ)昭和591984年 上智大学中世思想研究所編集 東洋館出版社 共著 田花為雄は「クインティリアヌス」担当

 

大分大学の鈴木篤によれば、

 

田花為雄(18968月山形県生,1983  7  19 日没)東京帝国大学文学部 1922 年に卒業し,同年,千葉県女子師範学校に勤務した後(退職年不明)熊本県女子師範学校での勤務を経て,京城帝国大学の助教授(1927  7  6 日から 1929 *まで)および教授(1930 *から 1945 年まで)埼玉大学教育学部の教授(1949  6 月から 1952  4 月まで)ならびに弘前大学教育学部の教授(期間不明,1950 *の在職を確認)を経て,大阪大学文学部の教授(1952  4  1 日から 1960  3 月まで)に着任した。定年後,青山学院大学文学部(1963 *から 1965 *まで)ならびに芦屋大学教育学部(1966*から1976 *) において教授を務めている。

1962  2  1 日には学位論文「ガウデイヒ派教育学の研究」により大阪大学から文学博士の学位を授与されている。

著作には『西洋教育史研究:廿世紀初期 独逸』(新思潮社,1956)や『ガウデイヒ派教育學』(新思潮社,1962)などドイツの教育史や教育思想に関するもの,論文「兒童福祉運動に対する学校の協力」(『教育学研究』,1950)など 福祉と教育の関係に関するもの,論文「教師苦悩と学級規模」(甲南大学文学会論集』,1960) など具体的な教育問題に関するもの,論文「李朝仁祖王代の郷約教化(『朝鮮学報』,1968)や『朝鮮郷約教化史の研究』(鳴鳳社,1972)など朝鮮教育史に関するものなどがある。

 

 

要旨

 

155 朝鮮の教育について何か発表するようにという話があった。朝鮮における朝鮮人の教育は国語(日本語)で行われているが、彼らには母語としての朝鮮語があり、彼らは二重言語の下に置かれている。西洋の言語教育研究や学説の中に二重言語に関するものがある。その角度から見ると、朝鮮教育についてどんなことが言えるかについて述べるが、その前に二重言語の問題に関する研究や学説から必要な点だけを述べておく。

 

 二重言語の影響は二方面に見られる。第一は客観の側への影響、則ち言語の形式的方面に対する影響であり、第二は主観の側への影響、即ち被教育者の心意の発達に及ぼす影響である。

この第二の影響は発達が阻害される影響であり、その度合いには多くの段階があり、軽微な影響から深刻な影響(荒廃的影響)まである。また二重言語は多くの原因の中の一つである。

 

 第一の形式的方面の影響は言語の不醇(純)化である。日本人にとっては国語(日本語)が不純化するという問題、被教育者(朝鮮人)にとっては「ほとんど無害である。」(これは事実誤認ではないか。)これについての詳細はここでは省略する。

 第二の心意の発達に及ぼす影響は、「人間財」あるいは「人的資源」の粗悪化である。

158 ただしこの点に関して明らかでないことが二つある。第一は心意発達に及ぼす阻害的影響が一時的かそれとも永続的かが明らかでないことである。私は一時的と思うが、論者によっては永続的と考える人もいる。この問題は軽微な影響か深刻な影響かという問題と同根だろう。第二の不明な点は、二重言語が問題の原因の一つであるとされるが、他の原因と二重言語の原因との比重はどうかが明らかでない。(明らかでないとここでは言っているが、後で筆者は自説を断言している。)

 

 私は代表的な学校で調査し、一言語者としての内地人児童生徒と、二重言語者としての朝鮮人児童生徒とを比較した。テストはしていない。それは計数が種々の誤解を導く恐れがあるからである。また朝鮮の教育に経験のある人々の所見を集めた。本日の報告はその経験者の所見を根幹とし、それに私の所見を加えたものである。

 

159 一、朝鮮人の児童生徒が内地人の児童生徒と比較して知的発達が遅れるかどうかという問題であるが、国民学校の児童については遅れるとする人が多く、中等学校では遅れないとする人が多かった。そして国民学校で遅れるのは初期に著しい。

 少数意見の中に、知識の広さと知力や知能の発達度とを区別すべきだが、(朝鮮人児童生徒の)知識の量は劣るが、知能は劣らないとする意見があった。また知能の低さと知的発達の遅滞とを混同してはいけないとする人もいたが、それは尤もな意見である。

 二重言語が知的発達が遅れる原因だとする人が国民学校では多いが、中等学校では無関係と言う人が多いし、無関係とまで言えないまでも微々たるものとする人もいる。また国民学校では影響が後まで残らないとする人がいるが、これは中等学校では発達が遅れないという意見と相符合する。

 知的発達が遅れる原因を二重言語以外に求めたものの中で、文化的社会的環境を指摘する人がいた。

160 結論として、(二重言語による)知的発達の遅滞は国民学校の初期に多いが、二重言語による知能の発達は阻害されず、知的水準が低いのは(朝鮮の)文化水準の低さによる。(威張り腐っている)

 

二、中学校側の所見の中に、国語学習が知的発達を促進するとするものもあった。このことを道具としての言語(日本語)が完備したことや、形式(言語のことか)が陶冶されたことなどから考察することができる。(意味不明)私の調査では、国民学校6年生では全科目が優秀な者は国語も優秀で、中等学校では全科目優秀な者は国語も概して良いが、必ずしも相関しない。逆に国語が優秀な者は、国民学校6年生では全科目優秀であるが、中等学校では全科目優秀な者が少ない。従って国語習得の程度が他の学業に促進的であるとは言えない。

国語の優秀な者は国民学校6年生でも文科的科目では多くが優秀だが、理科系科目や芸能科では相関しなかった。高等女学校ではその傾向がさらに強い。中学校でもほぼ同様である。国語の能力は文科的能力のうちの一つである。国語学習が文科的分野の能力に促進的かどうかはまだ調査していない。

 

161 (分析力や総合力などの)形式陶冶について、ゲシュタルト心理学の影響でこの問題の考え方に変化がもたらされたと言われるが、外国語の形式陶冶性能は認められている。(意味不明)日本語の形式陶冶性能についても、思考における分析力や綜合力は二重言語に関して問題とされているが、(二重言語によって)分析力が向上したと見えるのは、実は二重言語の知性に及ぼす阻害的影響の一つとされている。(意味不明)

 朝鮮人児童生徒は、国民学校と中等学校のいずれでも、内地人児童生徒に比べて分析力に長じているが綜合力では劣っている。その原因は、国民学校では、二重言語ではないとする人が多く、また中等学校でも、二重言語との関係は認められないと指摘する人が多い。

 

 三、朝鮮人児童生徒の感情生活と二重言語との関係について述べる。朝鮮人児童生徒は内地人児童生徒に比べて感情が「分裂」しやすく、気分の動揺する度合いが大きいと言える。(偏見)その原因と二重言語との相関関係を信ずる人はほとんどいない。

 朝鮮人教育の経験者の所見が二重言語原因説に傾かない理由は、(感情分裂や気分動揺の)原因だと信じさせられる理由を他に見せつけられているからである。それは(朝鮮人の)民族性や、家庭教育の欠如、家庭の雰囲気の不良、修養の欠如などである。(偏見)

162 四、感情への影響が身体にも拡大し、運動生活が「特色的な」変化を受け、運動・動作が抑止され、不正確になる。この傾向は中等学校の朝鮮人生徒ではさほど認められないが、国民学校の朝鮮人児童では大体認められる。従って一時的な影響はあると言える。しかしこのことは二重言語とは無関係である。ただし、国民学校の鮮人児童の律動運動が拙劣である原因を二重言語であるとする人もいたが、これは西洋の研究者と一致する。

 その原因が二重言語でないとすると、民族性や生活様式、習慣、風習によるとするのが、朝鮮人教育の経験者の衆口一致の見解である。(蔑視)これを教育的に表現する人は、幼少の時からの体育の不徹底が原因だとする。

 朝鮮人教育経験者の中には、国語が巧みな者は動作も円滑になり、朝鮮人らしさが少ないと言う人がいるが、私の調査でも高等女学校の生徒では、国語の優秀さと運動の優秀さとが相関する。(偏見)

 

 五、朝鮮人児童生徒は内地人児童生徒と比べて評価や態度に一貫性がなく、その時々の社会的情勢によってその態度が左右されるが、それは国民学校・中等学校を通して例外なく認められる。

163 その原因は二重言語ではなく、歴史的民族性であるとするのが(朝鮮人教育経験者の)一致した見解である。

 

 六、評価や態度の一貫性のなさが宗教生活に及ぶとしても、朝鮮には「正しい意味」での宗教はなかったとする人が多かった。

 朝鮮人教育経験者は、国語を習得した者が不信仰であることを否定し、却って敬虔であり、信仰的であり、信仰を増しているとする。

 

 七、国民学校・中等学校を通じて、鮮人児童生徒は内地人児童生徒と比べてより多くの性格的な動揺や欠陥があるが、その原因は二重言語ではないとする見解がほとんどである。ただし宿命的でなく将来に光明を望んでいる見解が多かった。朝鮮人の「生活」が全ての点で過渡期にあるからである。(程度が低いと言いたいのだろう)

 

164 八、ドイツではラテン語を学習すると生徒は学年が進むにつれて生新・溌剌・闊達の気象・気風を欠くようになり、これは二重言語の影響とされている。私はこれは負担過重のせいではないかと思った。鮮人児童生徒の場合も、二重言語の影響はないとする意見も少数あったが、影響があるとする者が多かった。

 

 以上の通り、二重言語とは無関係とするものがほとんどあり、その原因は民族性、早熟・早婚の結果、社会環境、伝統的風潮と見るものが多い。また中には小乗的民族意識によるという者もいた。

 

 九、鮮人で国語を習得した者(二重言語者)とこれを習得しない者(一言語者)との差異についての資料は入手できなかった。

 

 結論として、知情意の発達や身体運動と二重言語との関係と、それ以外のものに関して述べる。後者は本問題の範囲外であるが、重大なので述べる。

 

165 結論第一 知的発達では(国民学校の)初期には影響が認められるが、それは一時的で、永続的ではない。全体に知的水準が低いのは一般の文化水準が低いからである。感情生活や身体運動に対する影響も初期には認められるが、前述の場合よりも軽微であり、一時的である。その他の点では二重言語に起因する影響は全く認められない。

 朝鮮に於いては二重言語の阻害的影響はほとんどない。何が原因でこの程度に食い止められているのだろうか。それは仮定を含むから断定しないが、様々な原因があるのだろう。鮮人の素質、特に言語の才能、性質の淡白さ、気さくさ、国語学習の意欲旺盛、教育意欲の旺盛などが考えられる。また朝鮮人児童生徒の並々ならぬ努力とともに、その努力や意欲を害せずに育て上げる雰囲気、その雰囲気を醸成する社会情勢、教育者の教育力などが挙げられる。国語と朝鮮語との言語上の近似性を根拠にして国語学習が比較的に容易であることが、阻害的影響が皆無である理由であるという意見もあった。私は国語学習の開始時期が原因であると思ったが、それを裏付ける手掛かりは朝鮮人教育経験者の意見や私自身の調査からも得られなかった。

166 この結論から言えることを三点指摘する。

 

 一、二重言語の影響が軽微だから現状のままに放置しておいて構わないというのも一つの考え方である。この考え方は我が国のこの問題に対する態度と関連している。国は本問題を問題視していない。(朝鮮併合の翌年の)明治441911年に朝鮮人教育のために朝鮮教育令が制定された。その時の(朝鮮の)学校の程度は時勢と民度とに適合することを旨とし、普通教育の程度は甚だ低かった。ところが大正9192011月、朝鮮人の中学である高等普通学校に修業年限2年以内の補習科を設けることができるようになった。内地の文部省はこの補習科の卒業生に対して専門学校入学無試験検定受験の資格を認めた。普通学校から高等普通学校補習科卒業までの10年間の修業で、内地人が中学校を卒業したものと同等の教育効果を認めたのである。

 大正111922年には内地延長主義により、朝鮮教育制度に大改革を加えられ、普通教育の修業年限は内地・朝鮮共に同じものとなり、入学年齢も同一となった。文部省は大正11年の朝鮮教育令によって設置した諸種の学校の在学者と卒業者の、他の学校への入学転学に関して、同種の学校の在学者や卒業者と同一の取り扱いをすることになり、今日に及んでいる。このように国は二重言語の阻害的影響を全然問題としていない。このことがあり、また二重言語の影響が軽微であることから、現在のままに放置することも可と考えられる。

 

167 二、二重言語の阻害的影響は軽微であるが、それが存在する限り、この影響を排除するためにはそれを緩和するか絶滅するかのいずれかしかない。緩和のためには国語学習の始期を学校以前に置くことである165。そのためには幼稚園を普及し、幼稚園と一般家庭を国語生活化することである。その際社会情勢は有力な協力者となる。

 また影響を絶滅するためには、国語一言語化しかない。(朝鮮語禁止、ひどい)朝鮮は国語専用になるべきだ。現在では「国語常用」と言うが、私は「国語専用」とすべきだと考える。順序として先ず学校での専用、次に社会での専用、最後に家庭での専用である。京城では今日すでに社会での専用の後期のはずだったが、現在はまだ学校での専用を通過していない。

 

 三、教師に皇国の道の宣布者としての熱情・熱意がなければ、児童生徒の国語学習の健全な発達は期待できない。また教師は方法技術上の練達者であるべきである。以上のことは朝鮮人教師だけの問題ではない。

 

168 結論第二 二重言語研究者によって指摘されたことで朝鮮教育に認められるものは知的方面ばかりではない。またその原因は二重言語ではなく、もっと広くて深い。在来の朝鮮的なものの中では人間の向上は望みがたい。(ひどい蔑視)真によく皇国臣民化されてこそ初めて真に人間らしくなる。(朝鮮の民族性を捨てろ)そのことは実証済みである。

 朝鮮に於ける教育は全体的に日本的性格を持つべきである。全体的とは学校教育が全面的にというだけでなく、社会も家庭も一切が日本的性格をもつ教育の場とならなければならないということである。学校以外の一切がこういう教育力にならない限り、学校教育自体もその教育力を完全に発達させることができない。内地人は模範的皇国民であらねばならない。内地人教育は朝鮮教育上の重大問題である。

 

169 国は非常に困難な重大責任を極めて大胆に朝鮮教育に課したが、朝鮮教育はこの重大な責務を遂行してきた。朝鮮人の努力と、朝鮮教育従事者の熱意と努力と技量に対して世間の人々は同情してもらいたい。朝鮮教育の半面に困難が現存するが、日本政治と日本教育と朝鮮人の努力とが近い将来にこの困難を克服するだろうと確信している。

以上

 

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