2022年5月15日日曜日

「フィリピン教育史について」 東京帝国大学助手 周郷博

 「フィリピン教育史について」 東京帝国大学助手 周郷博 1943

 

 

感想

 

フィリピンは400年間外国の支配下にあった。最初はスペイン、次はアメリカである。スペイン統治時代にはスペイン語教育を強制され、アメリカ支配下では英語教育を強制された。そしてアジア独自の教育を復権すべきだという結論。この結論がないと本会議の趣旨「大東亜新秩序の建設と教育及び教育学」に副わないから、この結論によってその趣旨に副う論理展開にしたのだろう。

外国支配以前のフィリピンの歴史については何も語らない。

 

Wikiによれば、著者周郷博は、

 

周郷 博(すごう ひろし、1907614 - 1980228日)は、日本の教育学者。お茶の水女子大学名誉教授。

 

来歴

 

千葉県八千代市生まれ。第一高等学校を経て、1933年東京帝国大学文学部教育学科卒。東京大学助手の後、いくつかの大学の非常勤講師を経て、1947年東京女子高等師範学校講師。その後、新制のお茶の水女子大学教育学部教授。晩年は、付属幼稚園園長も兼務。

 

人物

 

「教育の詩人」と呼ばれ、青年期から詩作をし、『母と子の詩集』がある。テイヤール・ド・シャルダンの著作を座右の書とした。戦後、日本の教育界に影響のあったハーバート・リードの『平和のための教育』、レスター・スミスの『教育入門』を岩波書店から翻訳刊行している。平和教育、芸術教育に関心が深かったが、後年は、育児、子育てについての文章も多い。

 

宮原誠一、矢川徳光、梅根悟ら戦前・戦中期に活躍した教育学者の中には、戦後になると戦時中の戦争協力を煽った自身の論文や文書、業績を省略・削除・隠蔽する者がいたが[1][2][3]、「進歩的文化人」と言われる人が戦時中は「戦争は人類進歩の原動力」と極言して体制迎合し、戦後になると平和主義者・民主主義者に豹変したという暴露本『進歩的文化人――学者先生戦前戦後言質集』全貌社全貌編集部編 全貌社、1957年*[4]には周郷について、つぎの副題が付けられている。

 

周郷博(お茶の水大学教授)日教組お抱え講師で論旨一変

 

児童文学の関係で懇意にしていた巽聖歌の義弟に当たる(巽聖歌夫人である野村千春の妹である武居百代と結婚)。

 

ビブリオグラフィ

 

単著

 

『教育社会学』光文社 1951

『幼児の芸術』博文社 1958

『教師の良心と責任』明治図書出版 1960

『母ありてこそ 最初の人間形成』国土社 1963

『人間讃歌』講談社現代新書、講談社 1965

『母と子の詩集』国土新書 1966

わたしのおかあさんは日本一 16ねん 婦人生活社 1970 

『失われた季節をもとめて 詩集』国土社 1973

はちあわせ こばやしのりこえ 国土社 1974

『教育の風向きをかえよう』文化書房博文社 1978

『幼な子の如くならずば あるヒューマニストの教育随想集』フレーベル館 1979

『教育の詩人 周郷博著作集』全6巻、別巻柏樹社 1980-1981

 

編著

 

新しい道徳教育 幼児期から少年少女期までの指導 牧書店 1951

教育詩集 牧書店 1952

児童問題講座 2 家庭篇 清水慶子共編 新評論社 1954

幼児教育講座 木田文夫,三木安正共編 国土社 1955

たのしい劇あそび 落合聡三郎共編 フレーベル館 1955.4

美術教育入門 湯川尚文,井手則雄共編 河出新書、河出書房(河出書房新社) 1956

幼年の文学 幼年教育のために 与田準一共編 国民図書刊行会 1956

幼年の美術 幼年教育のために 藤沢典明共編 国民図書刊行会 1956

明治図書講座学校教育 9 図工・音楽 明治図書出版 1957

音楽とリズム 幼年教育のために 酒田富治共編 国民図書刊行会 1957

幼年の社会性 幼年教育のために 井坂行男共編 国民図書刊行会 1957

社会科の指導計画 歴史・地理教育の系統的展開 徳武敏夫共編 国土社 1957

中学校美術科の新教育課程 国土社 1958

小学校図画工作科の新教育課程 国土社 1958

現代教育用語辞典 大日本出版 1959

子どものしつけ21 牧書店 1959

小学一~六年生、中学一~三年生の学級改造 宮原誠一,宮坂哲文共編 国土社 1961

母と子のうた 東都書房 1969

きびしい道へいけ 十五歳の少年少女がみつけた人生の道 国土社 1970

矢沢宰詩集『光る砂漠』増補改訂版 少年 株式会社サンリオ 1974 

 

翻訳

 

乳児及び幼児の教育 人間理解のための基礎知識 A.トーリス 大日本図書 1950

子供たちはどのように発達するか オハイオ州立大学附属学校編 新教育協会 1951

平和のための教育 ハーバート・リード 岩波書店 1952

児童心理学 ポール・セザリ 白水社 1954 文庫クセジュ

学童の心理学 五歳から一〇歳まで アーノルド・ゲゼル 共訳 新教育協会 1954

美術と社会 ハーバード・リード 牧書店 1955

思春期の美術 子どもの美術から大人の美術へ W.ジョンストン 熊谷泰子共訳 黎明書房 1958

教育入門 W.O.レスター・スミス 岩波新書 1958

ソ連の教育 ディアナ・レヴィン 岩波新書 1959

〇どうしたら幸福になれるか B.W.ウルフ 岩波新書 1960-61 (私は学生時代にこの本を買った。)

人間の発見と創造 21世紀への教育の提言 ブロノフスキー 講談社現代新書 1966

新しい児童心理学 ジャン・ピアジェ,ベルベル・イネルデ共著 波多野完治,須賀哲夫共訳 白水社 1969 文庫クセジュ

ある未来の座標 テイヤール・ド・シャルダン C.キュエノ 伊藤晃共訳 春秋社 1970

人間らしき進化のための教育 モンテッソーリをどう理解するか マリオ・M.モンテッソーリ ナツメ社 1978.12

 

脚注

 

1^ 長浜功『教育の戦争責任』明石書店、1984

2^ 小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』新曜社、2002

3^ 〇竹内洋「革新幻想の戦後史」『諸君!20089月号(竹内は京大教授だった。)

4^ 内閣調査室主幹であった志垣民郎は回想録『内閣調査室秘録 ――戦後思想を動かした男』(文藝春秋、2019年)で、志垣が執筆したと記している。

 

*『内閣調査室秘録 ――戦後思想を動かした男』(文藝春秋、2019年)によれば、この書『進歩的文化人――学者先生戦前戦後言質集』全貌社は、内閣調査室の志垣民郎が書いたが024、その目的は、戦後になってからは平和を唱える「進歩的文化人」の、戦前・戦中における国体・戦争賛美の文章を探し出し、それをばらすことによってその名誉を傷つけ、平和主義、社会主義、共産主義を唱える人を貶めることのようだ。そしてなぜ平和主義が不可なのかと言うことについては正面切っては言わない。討論の場から逃げている。ずるい。

 

 

要旨

 

122 植民地教育は第一次世界大戦前後に起り、1914年ころからこの種の書物が現れ始めた。そして1931年ころから急にその数が増加し、現在も多くの文献が現れている。

 

123 フィリピンは東亜で最初に欧化された国である。1521年、マジェランがセブ島に上陸し、1565年、レガスピがレイテ島に上陸して1569年、第一回の総督となり、1571年、首府をマニラに定めた。

それから340年後の1896年にフィリピンの国民的英雄ホセ・リサールが革命を起こして*3年間外部の強権からフィリピンを守ったが、1899年(Wikiによれば1902年が正しい)から後はアメリカが支配し、フィリピンは今日まで400年間他民族・他国家の支配下に置かれた。その間スペインとアメリカは自信満々に同化主義政策を行い、伝道と教育に力を注いだ。

 

Wikiによれば、ホセ・リサールは1896年、スペイン政府によって処刑された。スペインと戦うアメリカに助けられて革命を継続したのはエミリオ・アギナルドであり、1898612日、アギナルドは独立を宣言し、1899123日、今度はアメリカと戦う中で、アギナルドは憲法を制定した。しかし1900年、革命軍は米に敗れて地下に潜ったが、1901年、アギナルドは捕らえられて敗北を認め、1902年、主要部を米に占領され、フィリピンはアメリカの植民地になった。

 

 1493年、法王アレキサンダー六世の裁定によって法皇区画線が定められ、スペインは植民地獲得競争の敵手ポルトガルと協定したが、偶々スペインが発見したフィリピンはこの範囲外にあり、スペインがフィリピンを領有することはバチカンの指令を無視することであった。そこでスペインは法王の意を迎えるためにフィリピン統治でカトリシズム伝道を中心とし、教化事業に専念し、政教一致の政策を行った。政庁の官吏はスペイン王の代表者であるだけでなく教会の保護者でもあり、また聖職者も福音の伝道者であるばかりでなく王の代表者でもあった。当時のスペイン王フィリップ二世は「ただ(フィリピン人)一人の改宗者のためにも喜んで植民地の全財宝を投げ出す」と言った。

 

124 レガスピ123と共にレイテ島に上陸したオーガスチアン派に続き、1577年にフランシスカン派が、1581年にゼスイット派が、1587年にドミニカン派が、1606年にリコレクト派がフィリピンに上陸した。1586年にはセブ島人口の半分がカトリックに改宗しており、1918年ではフィリピン人口の75.5%がカトリックである。

 

 1899年、アメリカによるフィリピン領有が始まったが、事情は同様だった。アメリカは日清戦争1894,1895前後から支那大陸に「着眼していた」と言われるが、1896年のフィリピン革命の前後数年間で、ハワイ島、ウエーキ島、グアム島、フィリピン群島を占領した。アメリカはこれらの地域に直接利害関係はなく、東亜におけるアメリカの発言権を確保することが主目的であり、これらの島々は根拠地と考えられていた。アメリカ本国自身も、雑多な民族の統一であるため、豊富な財力を用いて学校教育組織を築き上げていたため、植民地フィリピンにもその教育制度を適用し、初等教育から高等教育までアメリカの教科書を用い、教育思想も施設も米本国のものを移植した。アメリカはガバルドン法を制定してフィリピンに膨大な教育費を投入した。

 

125 以下フィリピン教育史の概略を述べる。スペインはアメリカ大陸での実験に基づき、1570年から封建制度エンコミエンダをフィリピンに適用した。これは日本の中世荘園制度に類するもので、人民から税を取り立て、それを政府の財政とミッションに利用した。その後バランガイ、バリオ、プエブロなどの行政・伝道組織を作った。バリオにはチャペル(礼拝堂)が、プエブロには教会が建てられ、ここで伝道と初等教育(読み書きや音楽)を始めた。スペインは最初からスペイン語をフィリピン原住民に強制した。1837年、マドリッドのインド委員会は、布教のために地方語を使用することを禁じた。1837まではインド委員会から、その後は新設の植民省から、教育上の指令が発せられ、スペイン語の普及と伝道に意を用いた。教義の教育はスペイン語で行い、教師は聖器監守人(サタリ)でなければならなかった。

 

1686年の指令は、読み書きや教義、スペイン語の知識は、「フィリピン人の幸福のため、スペインの栄光のために不可欠」とし、17921222日の指令は、フィリピン全土でのローカルダイアレクツの使用を禁止し、修道院と法廷ではスペイン語だけを使用すべきだとした。

 

メモ 年代が昔に遡っている。アメリカの独立を1776年でなく1786年としていた125が、大丈夫か。

 

 このように教育はミッションの手中にあった。伝道者は農夫、教師、建築家、行政官、医者、音楽指導者、懺悔聴聞僧を兼ねていた。スペイン語と教義、教義を教材とする読み書き、そしてまれに算数が教えられた。音楽は教会の合唱隊を組織するために重視された。以上が1768ころスペインでゼスイット派が追放されるころまでのフィリピンの初等教育の状況である。

 

126 フィリピンの中等教育はゼスイット派が起こした。ゼスイット派はヨーロッパで中等教育建設に成功していた。1585年、サン・イグナチオ大学がマニラで建てられた。1599年、セブにサン・イデルフォンゾ大学が、1601年、マニラにサン・ホセ大学が建てられた。ここではヨーロッパの中等教育と同様に修辞学、ラテン語、哲学が主として教えられた。ゼスイット派の競争相手であるドミニクス派も少し遅れて1611年にマニラにロサリヨ大学を建てた。この大学はゼスイット派をフィリピンから追放し、後にサン・トマス大学と改称して現在も続いている。

127 1605年、サンジャン・ドレトラン大学が建てられた。ここでもヨーロッパの中等学校と同様にラテン語、ギリシャ文法、哲学、雄弁術などが教えられた。これらの大学はローマ法王の許可を得て、1621年、先ずサン・イグナチオ大学がユニバーシティとして認められ、続いてドミニクス派のサン・トマス大学が1645年にユニバーシティとして認められた。

 

 1768年、ゼスイット派が教団間の争いで追放され、その後1863教育改革が行われるまで実業教育が興った。1781年に成立したフィリピン経済連盟がこの実業教育を指導した。この団体はこれまでの教団に取って代わった。この団体はベル・ランカスター法(助教法*)をフィリピンに採用した。また博物館を建設し、出版を奨励し、発明研究費を補助し、海外留学生の派遣等を行い、農業学校、商業学校、航海学校等を建設し指導した。これによって教育が世俗化された。このころ初等教育から高等教育まで世俗的な公教育制度を設置する機運が盛り上がり、1855年、総督クレスポManuel Crespoは公教育問題の研究のための委員会を設置した。この委員会はスペイン語教育を強制すべきか否かを研究したが、ドミニクス派はフィリピンに共通言語ができることによるプロテスタントの侵入を恐れ、他のカトリック教団と連合して、委員会によるスペイン語普及案に反対した。

 

*ベル・ランカスター法(助教法)生徒の中から優秀な者を選び、教師の下に助手の役割をさせる教育法。Bell-Lancaster method、又はMonitorial System

 

128 この委員会は1861年に報告書を提出し、それに基づいて1863、教育上の大変革が行われた。1863年の勅令は、スペイン語を教室用語とする期間3年の男子師範学校1校をマニラに設け、人口5千毎に男女それぞれに別学の初等教育を設け、6歳以上の児童を収容して3年間教育することにした。初等教育での教室用語はすべてスペイン語とし、教室の正面に十字架を掲げ、祈祷を中心にして厳格な教育を行った。この時期にフィリピンでは教育を国家の手で行わなければならないという思想の萌芽が芽生えた。

 

 1863年の教育計画はほとんど成功を収めなかったと言われるが、1867年、スペイン語奨励のための特典を考えている。1868年の法律は、スペイン語を話せない者は政府の官吏になれないとした。1889年、6歳から12歳までの児童に対する義務教育が決定されたが、これは実質を伴わなかった。1897年の統計によれば、小学校数は2167校で、生徒数は20万となっている。

 

 以上のように初等教育では多少世俗化が進められたが、中等高等教育では、当時の本国の植民大臣モレットFerdinand Moretが改革案を提出して教育の主体を教会から国家に移そうとしたが、フィリピン現地の反対で、スペイン統治時代の終わりまで何ら改変がなされなかった。

 

129 1700年代からスペイン政庁の重税に反対してしばしば反乱が起った。18968月、反乱が全フィリピンに伝播し、リサール・アギナルド(エミリオ・アギナルドの間違いと思われる。)を主班とする革命が成功した。革命政府は1897年(1899年ではないか。)の憲法でフィリピン教育再建の方策を立て、キリスト教教団による教育の独占を否定し、あらゆる学校教育からキリスト教の教義を排除した。そして初等・中等教育を通してフィリピンの歴史・地理を重視した。

 

 ところが米西戦争に際して当初は独立を支持していたアメリカ軍は敗色濃厚なスペインからフィリピン領有権を買い取ってフィリピンを植民地化しようとした。それに反発した革命軍は米と戦端を開いたが、結局革命軍が敗れ、アメリカの支配下に立った。アメリカは占領するごとにアメリカ式の学校をたてて英語を教えた。1900316日、第二次フィリピン委員会は公教育機関における宗教教育を禁止し、初等教育を無月謝とした。1907年、第一次フィリピン議会が召集され、宗教大学に代わるものとして国立フィリピン大学の設置が決定された。そしてスペイン治下の3年の初等教育を4年に延長した。1908年、決議に基づいてフィリピン大学が設置された。1908年、地方の実情に適した産業を初等教育の必須科目にした。1912年、英語教育教化のために発音教育が加えられ、また同化政策のための作法教育が加えられた。また1940年から修業年限3年の中間学校がつくられた。

130 中等教育は米国同様にハイスクールと呼ばれるようになり、1902年、それは公立とされ、中間学校卒業者を受け入れ、4年の課程とされた。第一次大戦中に軍事教練、時事問題、フィリピン史、フィリピン経済事情などの科目が、米本国の科目以外に付け加えられた。このようにフィリピンの普通教育は三年・四年あるいは七年・四年という七・四案をアメリカ同様に成立させた。(意味不明)

 初等教育、中等教育とも、スペイン治下では禁止されていた男女共学が本筋とされ、教科書は米国の教科書を使っている。音楽や体操を加え、様々な学生クラブを作り、アメリカ式の運動競技を奨励し、民衆はこれを盛んに拍手喝采している。アメリカ本国では経済上の余裕から教育の一切の点が異常に発達したが、それをそのままフィリピンに移植している。

 1924年、フィリピン教育局はコロンビア大学のモンロー教授にフィリピン教育の調査を委嘱している。1925年に出されたモンロー報告書によれば、フィリピンの教育がフィリピンの現実から遊離していると指摘しているのに、英語教育を力説し、アメリカ流の教育を唯一で最高のものとして押し通す態度を取っている。

 

 以上の通りフィリピンは過去400年間スペインとアメリカの教育を受けさせられてきた。フィリピンは支配者の教育を受け入れるために大部分の精力を使い、自らの教育を成長させる余裕がなかった。教育は一応整っている観があるが、実際は低調軽薄な点が多い。長い間他国の教育文化の支配下に置かれ、フィリピン人の教育に関する見方あるいは人間観が極度に歪められて来た。教育のことを考え、教育に費用を費やせば費やすほど、教育のことが分からなくなるというのがフィリピンの現状である。このことは僅か3年間続いたフィリピン革命における憲法や、その時に出されたリサール123(リサールではなくアギナルドではないか。)の「近代学校案」でも明らかである。この革命政府もスペイン語やラテン語を唯一の教材としている。こういう教育によってアジア本来の生活感覚が次第に影を潜め、アジア本来の生活感覚がすり減らされてきている。吾々はアジア本来の人間観や教育観を取り戻す必要がある。

 

131 以上述べたフィリピンのことは、その他のアジア各地でもほぼ同様に考えられる。アジア本来の教育観を取り戻すことは、吾々現代の時代に処する上で必要である。この長い400年間の強制的な同化政策、非常な民族的圧迫(朝鮮はどうか)によって、多くの民族に分裂していたフィリピンが実は一つであるという意識が、フィリピンの全民族の間に広がってきている。共通の理想を明らかにするための地盤はこの400年間につくられてきている。

 

 私は日本の教育学が現在進もうとしている傾向は日本教育史の研究だと思う。従来のように外国の書物から借りてきて日本の教育問題を解決する方向とは別に、日本教育史の上に吾々が現在直面している教育問題の解決策を探す方向は注目すべきである。アジアに共通するものを明らかにすることは、教育学者の使命であると考える。

 

以上

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