2022年5月15日日曜日

「教育者としての国家」―近世ヨーロッパ教育史研究の一視点― 東北帝国大学助教授 細谷恒夫

 「教育者としての国家」―近世ヨーロッパ教育史研究の一視点― 東北帝国大学助教授 細谷恒夫 1943

 

 

Wikiによれば、

 

細谷恒夫(ほそや つねお、190476 - 1970817日)は、日本の教育哲学者、東北大学名誉教授。ディルタイやフッサールを研究。

 

来歴

 

山形県出身。1929年東京帝国大学文学部教育学科卒。広島高等学校(旧制)教授、東北帝国大学助教授、1943年教授。東北大学教授、67年定年退官、名誉教授、山形大学長。

 

著書

 

『ディルタイ ナートルプ 大教育家文庫』岩波書店 1936 

『認識現象学序説』岩波書店 1936 

 

『世論と教育』民主教育協会 1956 IDE教育選書

『教育の哲学 人間形成の基礎理論』創文社 1962

 

編著

 

『教師の社会的地位』有斐閣 1956。復刻大空社 1998

『哲学史要説』文理図書出版社 1958-60

 

翻訳

 

ナトルプ『フッセルの「純粋現象学考案」』岩波書店 1932 

フッサール『ヨーロッパの学問の危機と先験的現象学』 中央公論社「世界の名著」1973、新版中公バックス

『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』 木田元共訳、中央公論社 1974、中公文庫 1995

 

 

感想 本論は国家教育権の始まりを、イタリアから始まる西洋近世ヒューマニズム(ルネサンス)を吸収したドイツの宗教改革だとし、その後しばらく時代をおいて、啓蒙思想のフリードリヒ大王が国家教育権を推し進めたとする。(国家教育権を西欧ヒューマニズムに結び付けることによってそれにお墨付きを与えたいという下心もあるのだろうか。)

筆者は西欧的国家教育権の種々の段階論や日本の天皇教育権の自覚論を提唱するのだが、日本の国家教育権はアプリオリに天皇による教育だとし、西欧のような国家教育権と近世ヒューマニズムとの軋轢問題は存在しないと開き直り、日本における国家教育権にまつわる軋轢については何ら語ろうとしない。西欧は国家教育権とヒューマニズムとの力関係に苦慮するが、日本ではその必要がない、それが日本の「独自性」だと言って平然としている。

 

西欧の場合、国家教育権はイタリアのヒューマニズムからではなく、ドイツのヒューマニズムとそれを吸収した宗教改革から始まり、宗教改革は男女平等の義務教育を主張した。その後フリードリヒ二世が知性を国力の源泉だとして国家による教育を推進した。

 

本論文は筆者が38歳ころの論文である。

 

要旨

 

 

037 近世的なものの克服が最近よく語られているが、教育の場合はどうだろうか。「近世的なもの」とは何か。

038 近世を世界史的に考えると、その主体はヨーロッパ的なものである。我が国の教育的現実の近世化は、その大部分がヨーロッパ化を意味していた。

1415世紀のルネサンスを過渡期として始まる近世の教育史で、その近世的なものとは何か。近世的教育的現実を動かして来たものの一つは、中世の精神界を支配していたカトリック教会の教育原理、即ち人間を外的権威によって外から形成するやり方に対して、人間は自らの力によって内から発展することができ、また発展すべきであるという、内的な自己展開としての教育原理を徐々に実現してきた点に認められる。そこに教育の課題と使命があるという確信が徐々に自己主張して来た。これは教育上のヒューマニズム(フマニスムス)の核心的根本信念である。ヒューマニズム思潮は多義であり、時代によりまたその主張者により異なるが、ここではヒューマニズムの核心的なもの、最も源流的なものについて述べる。

039 第二の近世的な特質は、教育に対する封建的身分的制限を打破し、教育を全ての者が関与できる普遍的なものにしようとしたことである。制度上のその現れは義務教育制度である。

 

この二つの傾向は互いに助け合った。教育の封建的身分的制限を打破するためには、人間は人間として、その属する社会階級による差別なしに完成され得るというヒューマニズム的な考え方が大きな力となって働いている。

 

 しかしこれらの傾向は結局一つの現実を動かす二つの契機として働いてきた。これらの傾向は近世ヨーロッパにおける民族国家の成立と結びつき、それを強めた。これら二つの傾向は国民教育の理念の実現のための衝動力となった。近世的なヨーロッパの民族国家は、上述の教育上の思想潮流を、自らを養う栄養として使用しながら国民教育を育んできた。これらの思想は国家が教育者としての機能を獲得する統一的な過程の契機となった。(国家教育権へのリップサービスか)

 

 上述の諸々の思想をそれ自体で考察すると、それらの間に必ずしも調和的な関係があったとは思われないので一見奇妙である。例えば民族国家は国家としての権威をもち、個々の人間に対して外的なものとして対立する以上、人間それ自体を内的に発展させるというヒューマニズム的理念と必ずしも完全に一致しない。現在ほどこのような対立関係が際立った時代はない。

 

040 しかし歴史においては思想も一つの現実的な力であり、現実的状況との力動的関連の中で思想を捕らえないと歴史を見ることができない。近世ヨーロッパの国民教育の理念とヒューマニズムとの連関を、それらが相互に交渉し合った歴史的力動的関連の中で見なければならない。内的人間の完成という考えと人間を国民として完成するという考えとが、ある歴史的段階では相互に提携していたのである。

 

 

イタリアにルネサンスが現れたとき、それは新しい生活感情であった。中世の生活感情では、現実の肉体的生命は彼岸的・霊的生命の桎梏であり、克服されるべきものであったが、ルネッサンス時代は、現世的・地上的生命を大胆に肯定する生活感情を生み、個人は個人として完成され得るという信念が生まれた。人間が尊いのは彼岸に霊化されるからではなく、現実世界で完全になり強く動くからだと考えた。その人間像は L’uomo universale と言われる。

当時のイタリアでは国家さえも伝統や国民の忠誠などによって維持される歴史的な生成物ではなく、単に権力者の利害の打算と意図によってつくられたものに過ぎなかった。これらの権力者にとって、国家の具体的な力を客観的に調査し、その上に合理的な政策を打ち立てることが重大な関心事だった。近代的な統計学はこの関心から当時のヴェネチアで生まれたと言われる。(よく勇気を出して言った。)

 しかしこのような国策の合理化・企画化は教育までには及ばなかった。イタリアのヒューマニズムは教育的現実を動かす力になるにはあまりに個人主義的で主観主義的であった。確かに教育史的にはイタリア・ヒューマニズムはその最大の功績として、個人の教養としての古代文化的知識を生んだのだが、ヒューマニズムが教育的な客観的な力となるには、ゲルマン民族の組織的才能や客観主義的・団体主義的心情を必要とした。

エラスムスによって古代文化の教養が組織的に高等教育の陶冶材となったが、ヒューマニズムは民衆の生活感情から変質して学者仲間の教養となり、民衆から遊離して高等教育機関の中だけで存在するようになった。イタリアでは古典時代(キケロ時代のローマ)は自分たちの父祖の生活であり、自分たちと血によってつながっていた。(本当か)ヒューマニズムは学問的教養に止まらず、生々しい思い出に満ちていて、民衆もある程度その生活感情に預かった。

042 これに対して北方的ヒューマニストにとって、古典は全く文化や教養として驚嘆すべきものであり、生活とのつながりはなかった。

 

またヒューマニズムはカトリック教会の精神主義に対して地上のものに関心を呼び起こし、カトリック的な普遍に対して地方的なもの、ローマ的・外国的普遍性に対してゲルマン的・自国的特殊性を覚醒した。確かにエラスムスは国際的な自由人を自認していたようだが、ヒューマニストの中には例えば、WimpfelingHuttenのように、愛国的な人たちも多かった。しかしヒューマニズムの根本性格は国民教育に転身できなかった。

 

 この時宗教改革運動が起こった。それはカトリック教会の外的権威主義に対して聖書自身の言葉と個人の内的信仰にだけ救いが存在すると主張する内面的人間の覚醒であった。

 

 ヒューマニズムと宗教改革との関係は人によって異なる。エラスムスは宗教改革運動から離れてカトリック教会に還ったが、上述のフッテンやメランヒトンは宗教改革運動に参加した。しかし教育史的に見れば、北方的なヒューマニズムは宗教改革運動への橋渡しとなり、後者に吸収された。

 

043 宗教改革運動は内的人間性の自覚であり、その中に国家的・民族的意味はないが、ローマ的・カトリック的なものからの離脱という点で、少なくともドイツにおいては、近世的な民族の自覚衝動力を与えた。教育史的には、ルターによって教育が教会から世俗的権力に移り、男女の別なくすべての民衆に一定の教育を与えることが権力者の義務であると力説された。このことは近世的国民教育の成立に大きな役割を担った。もちろんこの原理が教育的現実に実現されるのははるか後のことで、しかもそれは徐々に行われたが、国民教育の重要な契機であるこの原理が、政治の権力者によってではなく、民衆を宗教的に、普遍的人間性において陶冶しようとした宗教家によって樹立されたことは注目すべきだ。しかし思想的にはここに国家が自らを教育者として自覚する一歩となった。

 

 国家が自らを教育者として自覚する次の段階は、プロイセンのフリードリヒ大王の時代になされた。フリードリヒ大王は国家興隆の基礎は教育にあると考え、教育制度の整備拡充をした。大王の思想的背景は啓蒙思想である。啓蒙思想は様々な教育思想を生んだが、それ自体は国家的でも民族的でもなかった。それは人間を知性的な側面から眺め、知性を啓蒙することによって人間はより完全にかつ普遍的になるという抽象的普遍主義の上に立った。しかしフリードリヒ二世は国民の知的啓蒙の中に国力の増大の源泉を見た。ここに国家の教育者としての新たな自覚を見ることができる。

 

044 現在の世界観国家(個人の世界観までも教育が教えるということらしい)のように、国民の世界観まで国家が教育者となる段階まで、種々の段階をヨーロッパ教育史の中に認めることができる。例えば、民主主義的国家は、世界観を個人の良心にゆだねると称し、(ここに幾多の困難とともに欺瞞があるが*)専ら個人の知能と技能の育成だけを国家の任務とするが、それも国家の教育者的性格の一つのあり方である。国家が教育者として自覚する段階・類型は様々に存在する。

 

感想 *どんなことか詳述して欲しいですね。また上述の種々の段階間の違いについては述べないのか。それこそ関心事ではないか。筆者はその点を「今後の課題」と称して逃げるようだ。

「世界観国家」の表現から筆者が当時の日本国家の呪縛的なあり様を自覚していたことが分かる。

 

 

 

 我々日本国民においては、国家が国民に対して全面的な教育機能を持つことは国民としての動かない信念であり、教育の淵源は国体の精華に存する。従って国家がどんな意味で教育の主体となり得るのかとか、教育のどういう機能が国家に帰属するのかとかいう問題は、我が国に対しては無意味である。我が国では教育政策という政策的なものを超えて、国家生活それ自体が教育的意味を持ち、歴代の天皇は教育者である。

 

 一方西洋諸国では国家は他の多くの教育的な力と併存し、あるいは元来国家が持っていた教育者としての権能を次第に自己の手中に取得することによって、自己の教育者的性格を自覚して来た。従って国家の教育者的性格を構造的に見た層的関係は、教育が国家化されてゆく歴史の発展段階と相対応している。例えば教育を全く個人の手に委ね、国家はその教育の結果として生じた国民の能力や教養を国家目的のために利用するにすぎないとする段階から、国民の知的啓発や技術的陶冶の教育に国家の意志を集中し、世界観は個人の自由意志に委ねる段階、さらには国民の生活態度や世界観をも含めた全面的な人間形成を国家が意図する段階というような種々の発展段階とともに、教育現実の国家的性格の階層関係を区別できる。しかも西洋の教育的現実生成の歴史から見て、国家が教育の主体であることを自覚する仕方に限界がある。西洋では国家が教育の主体であり得たのは比較的最近のことで、他の多くの力と主権を巡っての争いを通じて初めて可能となった。ある歴史的段階が、国家の教育者であることを要求するとき、理論はそのことを理論的に基礎づけなければならない。

 

 これに対して我が国で天皇が最高の教育者であることは、国体のあり方であり、歴史上の種々の不祥事はこの本然のあり方に対する自覚の不徹底に基づくと見るべきである。従って我が国における教育現実に対する理論の関係は、基礎づけではなく、自覚でなければならない。国家の教育者としての自覚は、我が国において初めて語ることができる。

 

 従来の教育史で多く取られた諸々の視点、即ち教育者ないし教育思想家の列伝体的なもの、教育現実を文化史的関連でみるもの、社会学的な見方、教育思潮の問題史的見方などと並んで、国家が教育者としての権能を獲得する歴史的過程ないしはその自覚過程としてみる見方が成立できないか、そしてそこにヨーロッパ的近世的なものの限界と我が国家の教育者的性格の独自性をみることができはしないか。

 

その見方自身をどう具体化するかは今後の課題である。

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