2022年5月15日日曜日

「大東亜共栄圏の一環としての朝鮮に於ける皇民化運動について――教育者としての立場より体験を語る―― 清州師範学校長 鎌塚扶(かまつかたすく)

 「大東亜共栄圏の一環としての朝鮮に於ける皇民化運動について――教育者としての立場より体験を語る―― 清州師範学校長 鎌塚扶(かまつかたすく) 1943

 

http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jpによれば、

鎌塚扶(かまつかたすく)1896—1985 広島大学史紀要第52003年 

 

http://shinyaoffice.seesaa.net>articleによれば、

『新教育の原理と方法』太洋図書 昭和24

『教育学』昭和31

北海道教育長後成城大学教授。このサイトによると、戦後転向しなかったとのこと。この時代の人は表面的にはともあれ、内心ではそう簡単に転向できないだろう。

 

清州チョンジュは大韓民国忠清北道西部の市。道庁所在地。忠清北道は京幾道の南。

 

 

感想

 

敬語は差別そのものである。以下の表現を見よ。天皇を利用して、併合後不満を抱く朝鮮人を恫喝している。

 

「併合によって我々は大君の限りない御恵沢を受けているのに、官公吏の任用問題や待遇上の差によって、一視同仁の聖慮を曲解するなどもっての外である。」114

 

感想

 

当時の(国民学校)教育は純粋な学問の追及ではなく、国体推進、皇民化のための運動であった。

 

筆者の朝鮮支配の論拠は力の論理であり、一見説得力がありそうだが、本質的には弱い者は強い者に従えという論理であり、対等の価値観は無視される。

 

本文の最後で他者の利害に対する思いやりを説く引用があるが、それは朝鮮にだけ当てはまり、欧米には当てはまらず、大東亜共栄圏を主張する。121「欧米」というのだから同盟国のドイツはどうなるのか。

 

日韓併合の歴史について、根拠のないことに基づく自賛。朝鮮人(一進会)の方から日韓併合が提案され、桂首相は当初意外に思い、また大問題だったので、決めかねていたが、日韓世論におされて結局日韓併合が行われたというのだが、どういう根拠に基づいているのか、朝鮮の人が聞いたら面白くないと思うだろう。これについては章末のWikiからの引用を参照されたい。113

 

 

要旨

 

第一、朝鮮の開発啓導は国民一般の共同責任

 

095 朝鮮は我が皇土として、その住民は等しく陛下の赤子と遇せられ、今や陛下の股肱としてのお恃みを拝する徴兵制の実施さえ発表され、極めて安定しているが、仮に不幸にも今治安上危機に曝され、民心の動揺が起これば、我が国現下の総力戦態勢はそれだけ鈍らされ、皇国の世界史的使命の達成に遺憾を免れないだろう。(幽霊におののいている。)

朝鮮歴代の為政者は、明治天皇の一視同仁の聖旨を深く奉体し、2400万(朝鮮)民衆の皇国臣民化に全力を尽くしてきたが、内地官民一般の朝鮮に対する理解と同感と協力が少なく、始政33年になる今でも、渡鮮内地人の総数は僅か70余万であり、国語の普及は総人口の16分に過ぎない。資源の開発、産業貿易額の増加など物的施設では刮目すべきものがあるが、国語化、生活様式の内地化、魂の皇民化はまだ徹底できていない。

 

第二、朝鮮統治における教育の役割

 

096 匪賊跳梁、秕政(ひせい、悪政)百出、山河枯渇、産業萎靡、民度衰頽などの極にあった朝鮮の面目は、総督政治によってほとんど一新されたが、民心の啓発指導や魂の改変は跛行状態にある。この魂の改変ができず、逆用の危険が伴う限り、安んずることはできない。朝鮮の皇民化運動はすべての施策に先んじて行われなければならない。朝鮮の教育運動は教育上だけでなく統治上からも重大である。満州、蒙疆(内モンゴル中央部と山西省北部)、西南太平洋では、東亜共栄圏の確立に賛同する限り、それぞれの地理的・歴史的習俗伝統が認められているが、朝鮮では言語や生活様式そして魂までも悉く皇民化しなければならないという重責を負わされている。このような民族同化政策という歴史の創造を実行できるのは日本だけである。表に正義人道を翳(かざ)し、裏に搾取を恣にする米英にはできないことだ。国土民族をしておのおのその所を得させ(意味不明)、皇沢を八紘に普くすることを使命とする我が皇国だけがよくするところである。

098 政治とさえ一体化した広義の教育的体験は重要である。朝鮮での教育は読み書き算盤に止まらない。子弟の生活全体を支配し、その魂を最も深い所から揺り動かし、変改し、それを通してさらに校下の父兄に働きかけ、朝鮮統治の分担者となるような教育者が求められる。

 

第三、一鮮人教員を真の国民教育者にするまで

 

 私は19年前の1924年に渡鮮し、1927年昭和2年、講習期間半年の教員講習施設を開始した。これは現在の教学研修所に相当する。優良教員を各道から選抜し、これを再教育して地方に送り出した。その中に要注意人物B(文鳳效、後吉田と創氏)がいた。知人の視学が送ったのである。Bは某高普(内地の中学に相当)を首席で卒業した。温厚であるが、思想上の要注意人物であった。教室で見ると30歳くらいに見えた。満足しているようには見えなかった。

 

一、国旗問題並びに差別扱いの問題

 

099 B12月末のある晩拙宅を訪れて来た。それは知人視学の指示だったが、少し遅れていた。

100 Bは同情的な私の態度に応えて自らの意見を語り始めた。「今度普通学校(今の国民学校)に入学する予定の自分の子供が、絵本に朝鮮の旗がないと言った。寂しかった。また一視同仁というのに官公吏の待遇が内鮮人で異なる。そして学校長に事務取扱という特称がつくのもおかしい」と言った。

 私が「君は内に反逆の心を懐き、外に従順を装い、国家の俸禄を食んでいたのか。そして知事の目まで欺き、優良教員になりすましてここに来ていたとは心外だ」と言うと、さすがのBも頭が膝頭についていた。

110 私は続けた。「一部の朝鮮人は韓国併合が人為の策謀によってのみなされたかの如く考えているらしいが、併合には目に見えぬ多くの原因が働いている。国家の併合は少数の人の力や策謀ではできない。日韓関係は時代とともに密になり、韓国の更生は日本なくしてあり得なくなった。東亜の情勢が両国の併合を促した。(それは日本の勝手な考え方)両国が永遠に生きる道は、大同団結して一国になるより外にないことが明らかになった。」

「併合後わずか20年で治安、産業、交通、教育等あらゆる方面で朝鮮は全く面目を一新した。この著しい進歩は、少しばかりの待遇上の特典によって内地人指導者をこの地に招いたお蔭である。朝鮮は内地と生活程度がはなはだしく違い(尊大)、老幼婦女子を内地に遺して渡鮮した内地人は、仕送りしなければならない。荒涼として非衛生なこの地で伝染病と戦う内地人を遇するには不足の手当だ。」

 「学校長事務取扱の件では、朝鮮一般民衆の教養水準は低く、併合の実はまだ上がっていない。一切の責任を一挙に朝鮮人に許すことは不親切である。」

102 「一部民間の心無い内地人婦女子や小人腹が見せる空虚な優越感や態度仕打を見て、これを内地人一般の態度とするのは誤解であり、不平の原因となる。」

 「君らのような優秀な朝鮮人(おだて)が普通の朝鮮人が懐く境地を超越し、併合の真意を思い、風俗、習慣、制度、生活様式の矛盾を解決しなければ、内鮮問題は解決されない。」(全体に尊大な態度)

 

二、転向精励

 

 Bはその後明るくなった。Bは同年3月の卒業期に「私の三十年生活」を綴り、幼少の頃の家庭の非教育や懐疑と反感に満ちた学生時代を追憶・懺悔した。

 しかし出身道の校長はBの心境の変化に気づかず、誰も彼を部下とするのを好まなかった。私は知人の視学にBを学校長に抜擢するように勧めた。彼は新設の二学級の校長になった。辞令には事務取扱という特称がついていた。そのことについてBは「愉快な気はしない」と私宛に手紙を書いた。

Bはその後「真に意義ある生活を発見した。先生に叱られたことが感慨無量である」と私に手紙を送ってきた。

 

三、努力は酬わる、魂の更生期

 

B2年後、郡教育会主催の職業科研究会で体験発表をして注意を惹いた。そして3年目の昭和41929年、五学級の学校に栄転し、事務取扱の特称も除かれた。その年の夏、私の某道での夏期講習に彼が出席し、それまでの経過を私に報告した。

「私は5年前1924年、先生の諭をうけ、初任校へ赴任する時、国旗を買った。勅語謄本の御下付にも預かった。国民教育への信念が生まれ、卒業生指導や部落指導、民心作興に乗り出した。国旗を紙製では尊厳を傷つけるので布製にし、職員や面事務所の婦人に裁ったり縫ったりしてもらい、全校300余名の児童の家に国旗を配った。」

 「今春、私財80円を投じて材料を買い、職員児童の工作で、豚舎、鶏舎、蚕室を作った。郡面から見に来て感心され、補助金を受けた。君国のために働くことが無上の楽しみになった。」

104 その後彼は回想録を送ってくれた。そこには「断じて不平を言うな。感謝の生活を生きよ」とあった。

 昭和8193310月、道当局が彼に3週間の内地出張をさせ、北九州の模範部落や模範学校を視察させた。帰任後彼は22項の報告書を書き、それを私に送ってくれた。その主なものを挙げると、

 

二、内地人は親切だ

三、内地人は勤勉だ

五、内地人は愛樹思想が豊かだ

六、内地人は公徳心が高い

八、内地人は敬神崇祖の念が強い

九、内地人は義勇奉公の念に富む

十五、内地には記念物が多い

二十、内地における小学校教員は堅実だ

二十二、日本人は大丈夫だ

 

 「内地人は義勇奉公の念に富む」の項で彼は「平日に日の丸の旗を翻している家がある。出生軍人の家であった。君国のために尽くす人を出した家の誇りの表徴である。出生軍人の家に対して隣近所ばかりでなく村全体が親切に世話をする。かく、国民が一丸となればこそ、出生軍人も後顧の憂いなく、吾こそは死して護国の神になろうとの決心がつくのだ。東亜における一小国日本が僅か数十年にして今日のごとき世界に冠たる隆運を見たこと、蓋し故なきに非ずだ

 「日本人は大丈夫だ」の項では「内地人は短気で島国根性であるかのように聞いていたが、否よく道理が分かり、腹が坐って沈着である。もし国難が来れば挙国一致で外敵を斥け、三千年来万世一系と続いた国体を擁護する用意ができている。皇室を中心にして国民精神が統一せられ祖国愛に燃える精神文明において日本の右に出る国は絶対にない。亜細亜の盟主大和民族よ、日本の将来は多望だ」と語っている。

 

106 彼こそ古い朝鮮の殻を破って新しく皇民と生まれ代わった赤子であり、新日本を共に背負うべき我らの協力者である。この一人の更生者は、2400万同胞の覚醒の因となり、到達可能の目標を実践で示した。

 昭和9193419日に私にくれた手紙には「去年の1230日から本年1月元旦迄三晩続けて部落興風会に臨み、講演をしました。九州旅行の慰労会を職員、学務委員、卒業生、官庁有志と地主らから5回受けた。そして某氏が水田1100坪の耕作権を学校に寄付してくれた。また叺(かます)織機を卒業生が在住する部落に供給し、卒業生と在校生で共同作業をやらせるつもりである」とあった。

 

四、徳大寺侍従の御引見を忝(かたじけな)くし、皇民化指導者としての信念愈々固まる

 

 昭和1019359月、天皇陛下には朝鮮の民情・産業・文化の情況を審らかにし給わんがため、徳大寺侍従を朝鮮に送った。その時Bは同侍従の御引見を賜る光栄に浴した。

107 Bは私にその時の感激と決意を手紙で送って来た。「感激措く能わず。愈々発憤努力を以て教育報国の念を固む」と。

それに対する私の返信は「大御心を奉体しての私心なき奉公は、このような意想外の感激を齎す。君は既に万乗(天子)の大君より咫尺(しせき、距離の短いこと)の間において拝謁を賜りしも同然。余は君を通してその余栄に預かる」

 

五、大抜擢、惜しくも永逝

 

 その後彼は満洲視察の恩典にも浴し、昭和121937年春、八学級の学校長に抜擢され、皇国臣民としての実践に、他を皇国臣民たらしめんが為に粉骨砕身したが、昨昭和1619412月、チフスのため43歳で惜しくも逝いた。(これは1943年ではなく、1942年に書かれたものらしい。)

 

第四、体験の中に発見された解決のための一般的鍵鑰(けんやく)

 

 私はこれまで朝鮮問題解決のために努力してきたが、朝鮮問題解決のためには朝鮮人の啓蒙や内地人の反省が必要であり、最後の解決策が皇室の広大無辺な大御恵にあると知った。

108 私はこれまでに450人の朝鮮青少年を指導して「真の皇国民」にし、彼らを第二国民(朝鮮人)だけでなく大東亜諸民族の指導者にする師範教育に関与した。その経験を踏まえ、以下に朝鮮問題解決と東亜共栄圏建設に関する参考意見を述べる。

 

一、史実に対する考え方の転換

 

 新同胞(朝鮮人)の中には「神功皇后の三韓征伐」や「秀吉の朝鮮征伐」という史実を非常に不快に思う者がいる。他方でそれを誇らしげに感じる内地人がいる。前者は「執着」(あきらめろということか)であり、後者は「狭量」である。日本歴史の真精神を曲解してはならない。離反の歴史があっても、東亜の前途と世界の赴くところを洞見し、大同団結・融化一体すべきである。史実の真相は朝鮮攻略ではなく、支那の非礼を膺懲することであった。誤解・曲解して秀吉や清正を憎み、小西一派の敗走を悦び、水軍の将李舜臣を痛快がり、他方内地人はその逆の気持ちを抱くことは、内鮮問題解決の熱意に欠けている。内鮮間には協力親和の歴史もある。任那史・百済史は内地から見れば支援であり、朝鮮から見れば朝貢の歴史である。

 内鮮はもと陸続きだったとする地理学者もいる。内鮮間に出土する装身具、古鏡、古代人の使用した道具、器物などは製作手法や形態が似ている。某言語学者は古語になるほど内鮮間で共通するものが多いという。骨相・血液(学者)からは(内鮮が)本来同根・同種の民族であったとするが、根拠がないとはいえない。

 

二、民族と国家に関する考え方の転換

 

 新同胞だけでなく一部内地人の間にも、内鮮一体はいいが民族は異なるとして内鮮を区別する者がいる。欧州大戦後米国大統領ウイルソンは民族自決主義なるものを提唱し、そのため欧州では幾多の小国が分立した。これに刺激されて、朝鮮は独立騒擾の不幸を見た。民族と国家についてもっと広い目で見る必要がある。歴史上大国から小国に分裂した場合もあるが、民族が相寄り隣邦が相合して鞏固な大国になった例もある。アメリカ合衆国は多種多様な民族から成った連邦国である。イタリアは80余年前にナポリ、ポスカナ、パルマ等の6小国が団結してイタリア王国を建てた。ドイツは70余年前にプロシャ、バワリヤ、バーデンなど11の小王侯国が併合して今の強大国となった。併合によって強さが増し、価値を発揮する。(アメリカは対等に合併した「合衆国」であり、日韓は「併合」であって対等とは言えないのではないか。)

 

三、物的施設は増しても果たして心の幸福は得られざるか

 

 一部の反感をもつ者の中には施政30余年の間に物的施設は増加したが、一般民衆の心の幸福は招来されていない、とかこつ者がいる。このような人は韓国の以前の民心の荒みを一瞥せよ。併合の16年前に渡鮮した英国の女宣教師バード・ビショップの遺録は、首都京城に関して「穢きと臭きこと世界一なる京城は、二階建の家を造ることを絶対に許さない。25万の府民は地面に瓦や藁を並べ、その下に潜り込んで生活しているかのようだ」と言う。(ここで指摘されていることは生活水準であり、朝鮮人にとっての問題点は朝鮮人差別であるから、論旨がかみ合っていないのではないか。)

 これには誇張もあるようだが、衰微し果てた当時の京城や朝鮮一般の疲弊が目に見える。20年前に刊行された丁若鏞*の「牧民心書」は当時の苛歛(かれん)誅求(ちゅうきゅう、税金の取り立て)が激しかったことを記している。同書巻二十六兵典六条簽(せん、標題)丁によれば、「嬰孩(えいがい、赤ん坊)が地に落ち、呱声(こせい)一度発すれば、紅帖(税金の帳簿か)已に到る。陰陽の理は天の賦する所、交わりなき能わず。交われば即ち生むあり。生めば即ち簽(せん、名前を付け)し、城中の父母たるものをして、天地生々の理を恨み、家毎に嗷(ゴウ、かまびすしい)び、戸毎に啜(テツ、すすり泣く)かしむ。国の法なき、何ぞここに至るや。甚だしきは即ち腹を指して名を造り、女を換えて男となす」と。

 壮丁の徴兵免除の代わりに税を取り立て、壮丁者が尽きると若者に遡り、甚だしい場合は腹の中の子を指し、女を男に換えてまでして徴兵代わりに徴税する。官紀は極度に紊乱し、地方官の多くは権門の走狗となり、行政と司法とが混淆し、政府の威令は行われず、匪徒が各所に出没し、民衆の生命・財産が不安に曝された。

 併合が成ると大君の綏撫(すいぶ、人々をなぐさめいたわる)は、鰥寡(かんか、おとこやもめとおんなやもめ)、孤独、孤児、廃疾にも及び給い、聖慮奉体の為政者によって不逞の匪徒は忽ち姿を消し、整然とした司法制度と公正な裁判によって民衆の生命財産が保護され、産業や文化の開発に驚くべき効果を示した。交通・通信機関が整備され、かつて畦畔同然だった悪路が坦坦とした大道となり、人肩馬背によって長時日要した旅行・運輸は、易々として安全に行われるようになった。嘗て長い間京城に在り、帝国の施政に必ずしも賛意を表しなかった米人宣教師バンカーでさえ「朝鮮人は貧困に死滅しつつあった。それを日本人が来て復活させた」と言った。開発された総督治下の朝鮮が民に心の幸福をもたらさないというのは全くの歪みである。今や地方自治も拡張され、民度民情に即する政治の結果、疲弊していた農村は著しく更生し、皇民化運動は時局とともに飛躍的効果を見せ、遂に徴兵制度実施の発表を見るに至り、義務教育の実施も近い将来にある。民心の不幸は全く当たらない。

 

四、制度慣習の錯雑から来る煩瑣に失望するな

 

 国語の普及、資源の開発、民族の向上が今後の課題であるが、とりわけ風俗や習慣制度が民衆を支配・困惑させている。我々は過去30年間驚くべき融合一体へ向けて実践してきた。内鮮一体が成ることを信じて将来に邁進すれば、成り難いものも成る。

 

五、形における一体か心における理解か

 

 ある論者は内鮮の一体は結婚からとか、生活様式を一つにすることからと言うが、根本は心の理解である。相互の特性を発揮して全体社会の健全さを増強すべきである。異なる風俗習慣制度を持ったままでも心の理解は得られる。(たった今風俗習慣制度の桎梏を語っていたのではないのか)好意の感情が溢れれば、言葉が通じなくても誠意は以心伝心する。羽織と周衣(うるまき)、畳と温突(オンドル)のままでも心情は通じる。心情が通じれば、言語や生活様式などの改変は自然にそして積極的に行われる。

 

六、併合に対する正しき認識へ

 

113 併合の事実に接すると朝鮮の人々は熱意を失い、不満を感じ、一視同仁の聖慮さえ曲解し奉る者がいる。一部の者は併合が日本や伊藤という一人の為政者の政略によったものと解し、「自然の醸成」によるものでないと思っている。私はここで啓蒙したい。一粒の大豆の発芽には豆を播く行為だけでなく、太陽の温熱、空気、土中の湿度、肥料など多くの条件が綜合的に働いている。長い歴史と政治経済等多様な内容を持つ国家を併合して一国とする大事が、一部政治家同士の人為的政略によってのみ成ったとは言えない。(政治は政治家がいなくても成るのか、そんなはずはない。)

 両国の間の一切の動きが併合の方向を取り、遂に成るの日に成ったと知るべきである。(屁理屈)

 韓国の内治外交は直ちに日本の内治外交に響き、韓国は日本の支援・保護がなければ更生できないと悟った。(強引)併合の動きも事実は韓国の識者から提案された。一進会*はその代表である。一進会は当時「百万の会員」を擁し、韓国皇帝と日本政府に「併合」を建白した。「餘りの意外さ」に当時の桂総理は、ローマ史を顧み、民族融合の難易をはかり、容易に去就を決しかねたそうだ。(これは全くのウソ)半島朝野の心あるものは愈々「併合」を願い、帝国の輿論もここに集まったので、両国政府が折衝し、韓国皇帝も御洞見の下に併合を望んだので、明治天皇は最後の御聖断を与えた。それが明治43829日のことである。そこには「天理自然」に反する所はない。

114 この大業の裏にはこうならないではいられない多くの見えない理由が働いていた。反感と曲解で見れば、表面的・人為的に見えるが、誠意をもって冷静に探究的に見れば、何の不合理も不自然もない。

 併合によって我々は大君の限りない御恵沢を受けているのに、官公吏の任用問題や待遇上の差によって、一視同仁の聖慮を曲解するなどもっての外である。朝鮮が併合後わずか30余年で今日の開明を見た所以は、わずかな加俸舎宅料制によって内地から有為の人材を招いたお蔭である。今朝鮮の開発や民度の向上が著しいが、内地に比較すると遥かに及ばない。その施設・経営を緩くすることは朝鮮のためばかりでなく、皇国日本のためにもならない。

 

感想 嘘を平気でついている。平気で嘘つくくらいの度胸がなければ、この時代は生きていけないということか。章末のWikiにもあるように、一進会の「合邦」(「併合」とは異なる概念)提案に対して朝鮮人が反発した事実を無視し、一言も触れない。「一部の例外はあるにしても119」がそれか。

 

七、広大無辺なる皇沢の感得へ

 

 畏くも大御恵に対し奉ってさえ歪みを持つ者があるのは遺憾極まりない。内地人にとっては大宗家であらせられるから親しみは格別であるが、我々(朝鮮人)の場合は養子関係であり、継子扱いを免れ難いと、自ら歪む。しかし養子関係でも互いに心を捧げ合うことによって、生みの親子に優る心情を醸し合う事例が少なくない。況(ま)して我が皇室が民草に臨ませ給うや、決してこのような狭隘な御心情を以て望ませ給う処は毫もあらせられぬ。一度衆庶とした以上、新旧によって区別することは絶対にない。一度帝国の所領となった以上、率土(国土の果て)の浜も皇土であり、奥地無識の農奴も等しく陛下の赤子である。昔朝鮮から文化を携えて帰化した人が大勢いたが、その時我が皇室は土地を与えて住まわせ、地位を与え、志を遂げさせた。東西(やまとかわち)の史部(ふひとべ)として彼らに文筆の要職を与えた。

115 併合に当たり明治天皇はその詔書の中で「民衆は直接朕の綏撫(すいぶ、安んじいたわる)の下に立ち、その康福を増進すべく」とした。上述の総督政治の功績は、官民が御陵威の下に一視同仁の聖旨を奉体して努力した成果である。

 世界のどの国にこのように本国と全く異ならない待遇を受けている新附の民があるか。聖旨を奉体する官民が、新附の民をかりそめにも侮辱し、優越感をもってこれに臨むなどのことがあっては、八紘為宇の皇道を翼賛し奉る所以でない。

 

感想 なぜ皇室が出て来るのか、非常に奇異。論理の世界ではなく宗教の世界。為政者は、「差別を認めろ、つべこべ言うな、頭が高い」と、皇室を権威づけて、それを支配に利用したいのである。

 

第五、総督政治は教育によって始めて成果を見る

 

 第二次斎藤総督*の政務総監であった湯浅倉平は朝鮮を去るときこう言った。「朝鮮併合がなかったら、帝国の国勢、東亜の形勢、半島に関する国際事情、半島の政治や社会状態などはどうなっていただろう。血が伴う党争は終わったか、貪欲な地方官憲の略奪はなくなったか、制度は整ったか、鉄道・道路・橋梁・堤防・用水・港湾などの施設はどうなったか、露出した山骨は立ち木に覆われたか、衛生状態は改善したか、山村・水郭などいたるところに現代教育施設ができたか。理想を述べ、批判することは容易だが、実行し建設することは難しい。僅々20年間でこれだけの建設を成し遂げた功績は総督政治にある。」

 

116 宇垣総督は農山漁村の振興を教育によって行おうとした。南総督はその後を承けて皇民化運動に努め、徴兵制度の発表を行った。現総督*は国体の本義の究明を強調し、「道義朝鮮」の建設を希求している。これらは皆教育の基礎に立つ。今(朝鮮の)民心は希望に燃え、大東亜の完遂、共栄圏の確立の聖業に協力するようになった。これまで国家の施策に反感を持っていた日本に遊学中の鮮人学生の考え方も変わってきた。

 

117 私は昭和151940年の春、大阪北区南錦町で大阪在住朝鮮同胞の生活状況を踏査したが、私の案内役を務めた関西大学二年の李海煥は別れ際にこう言った。「これまで私は前途に悲観的だったが、最近の統治を見ると、朝鮮人の前途に考察がめぐらされており、将来に希望が持てるようになりつつある。以前は内鮮同化や融和という言葉に不快感を持ったが、今や統治の真意が分かった。東亜大陸において果たすべき日本の尊き使命、日本の世界史的使命を考えると、内鮮が一体となって同じ生命を生きなければならないと感じるようになった。インテリ青年層も反抗することの無意義を悟り、明るい希望に燃え出した」と。

彼は関西大学朝鮮人学友会発刊の「関朝」という会誌を私にくれた。その会誌の中の、李が指摘した経済科三年林麥秋の「朝鮮を旅して」によると、李は朝鮮で生れた後すぐに日本に来たので、朝鮮の現状を知らなかったのだが、昭和141939年の夏に朝鮮に帰り、始政後30年の間に更生した朝鮮の土地と施設に触れ、朝鮮観を一変したという。

118 それによると李は「順天という小邑の親戚を訪れた。そこの女主人は私の姉である。女学校3年の妹と中学1年の息子は出征軍人を見送りに行き不在だった。彼らが帰って来て語るところの、軍人を送るときに涙を流した時の気持ちは、内地の子供たちのそれと変わりがなかった。この中学生は招来軍人になって天皇陛下に忠義を尽くすという。私は胸を打たれた。人間は自分の血と生命を何物かに捧げることなくして生きていけるものではない。この奥深い要求が、出征軍人に接してこの少年の胸に蘇ったのである。彼が幾年かの後にそれが不可能であることを知った時、どんなに大きな苦杯を嘗めなければならないか。完全な内鮮一体の実現も遠い日のことではないだろう。帰路の車窓から見ると、各民家に日章旗が高く掲げられ、あちこちの丘や山には各部落のために建立される神社建設のために、多くの部落民が奉仕作業に励んでいた。各駅では出征軍人を見送る小学生が教師に引率されて来ていた。子供たちが旗を振って、勇壮な軍歌を歌い、万歳を叫び、しっかりやって来てください、などと激励すると、勇士の頬に涙が流れた。私の頬にも涙が流れた。」

 

 内地在住の朝鮮人インテリ学生は少年少女の純情によって気持ちが転換し始めたのである。そしてその子供たちの純情を動かしたものは、教育即政治の総督政治である。ここに一切の忌まわしさは消えた。東亜共栄圏の一環としての朝鮮にも初々しさが芽ぐみつつある。これを護り培い育てねばならぬ吾々官民、とりわけ教育者の任は重い。

 

 

第六、結論、東亜共栄圏建設に堪え得る教育者の自己修養について

 

 「一部の例外はあるにしても」大部分の朝鮮の衆庶は、教育即統治という形で行われている御陵威の御働きによって、我が八紘為宇の精神に素直に賛成し、皇民臣民化に熱意を持ち、聖戦への参加や共栄圏建設に挺身している。今は我々内地人の反省と襟度(きんど、度量)と努力が残されている。

120 日本人は皆、今の日本が明治維新前や日露大戦前における(日本)帝国ではないと承知しているが、口では大国民の襟度を提唱しても、大国民としての修練を積んでいないのではないか。今日の日本人は半島、大陸、西南太平洋上の各地域で多種多様な東亜諸民族と生活交渉を進めながら、その指導に当たり、尊敬と信頼を得なければならない。多くの日本人は朝鮮人さえ心服できず、気の弱い者は遠慮し、気の強い者は形式的に優越感を振り回している。

 

 最近では朝鮮の識者の方が大きく目覚めて我々を刺激する場合さえある。京城セブランス医専教授崔棟は「朝鮮を通じて見たる満蒙問題」を自費出版し、その中で次のように述べている。

 

「我々帝国の人民は満蒙に先祖を持っている。我々の祖先は昔満蒙の地にあり、太陽を崇拝した。彼らは日の出る方向へ安住の地を求めて移動し、遂に東方の半島と島に落ち着いた。これが朝鮮人と内地人である。日本も朝鮮もその語意は『日の出』を意味する。今日この二つ(の民族)は同じ日章旗の下に立ち、先祖の崇拝した太陽を拝む。またこの同じ満蒙の地から西へ進んだ民は、新月と明星を象徴する国旗を作った土耳古(トルコ)民族である。トルコ民族と我々とは同族であった。是非団結しなければならない。大民族主義に立とう。」

 

この学説の根拠には吟味の余地があるが、古い殻を破って覚醒したと言える。我々日本人は精進大悟すべきである。局地的な立場から、未だ教養に恵まれない鮮人を相手にして対峙し、反感と誤解で相互の溝を深くすれば、大東亜共栄圏の確立は口だけに終わる。“Use of Life” の著者ジョンラボック*の論文「平和と幸福」から学ぶべきである。曰く

 

「高い理想のためばかりでなく自分の心の平和のためにも、共に暮らす人々の欠点や短所を許さなければならない。彼らの言行を善意に解し、彼らの苦情を許し、欠点を小さく見て、美点を評価しなければならない。我々自身も完全無欠ではないのだから、他人にそれを要求することはできない。他人の欠点や奇癖に腹を立ててはいけない。腹を立てるとなおさら悪化する。人に害を加えることは自分が害を被るよりも自分の害になる。誤解に過ぎない被害や侮辱に復讐することは、無用の喧嘩を始めることである。周囲に住んでいる人は厄介な品物かも知れないが、また実際そうかもしれないが、それは我々の方に罪があることが多いものだ。たとえそれが吾々の罪でなくても、一つの鍛錬と思え。そこに打ち克つべき困難があり、遂げるべき成功があり、獲るべき友がある。」

 

大理想に目覚めて多くの修練を積んでも、相手の水位まで下りて相手の心と融け、相手を引き上げて協力することの中に、襟度があり、八紘為宇の精神奉体の実がある。運命を共にすべき朝鮮と朝鮮人と一体となり、東洋の盟主日本を共に生き抜くところに我々の使命がある。その真剣な体験だけが、欧米人の東洋人に対する人種的偏見と東洋搾取を除き、東亜に共栄圏を建設する力となる。

 

以上

 

Wikiによれば、

 

*丁 若鏞(チョン・ヤギョン、てい じゃくよう、176285日(旧暦616日) - 183647日(旧暦222日))は、李氏朝鮮時代後期の儒学者。いわゆる「実学」運動を集大成した人物であった[1]

 

文学・哲学・工学・科学・行政の分野で活動した。字は美庸、号は茶山・俟庵・籜翁・苔叟・紫霞道人・鉄馬山人・門巌逸人

 

来歴

 

全羅南道羅州の出身(生誕は京畿道)[1]。南人の学者の家に生まれ育ち[1]1789年に科挙に合格して官吏となった[1][2]。西学(カトリック、西洋科学)に関心を持ち、その理解者となった[1]

 

自称するところによると、最初はキリスト教の影響を受けたが、1791年に全羅道珍山のキリスト教徒が祖先崇拝を廃止したことが露見して斬首される事件が起きると(珍山事件)、キリスト教から離れたという[2][3]。兄の丁若鍾は事件後も信仰を守り、1800年に明道会が結成されるとその会長に就任し、またハングルで『主教要旨』2巻を執筆した。これは朝鮮語で書かれた最初のキリスト教教義書だった[4][5]

 

正祖は南人の蔡済恭を奎章閣の提学に任命し、李家煥丁若鏞などの南人を要職に起用した[6]

 

1792年、丁若鏞は正祖に上疏して城制改革を主張した。これに対して正祖は『古今図書集成』に収録されたヨハン・シュレック『奇器図説』を与えて研究させた[7]水原城建設のため、丁若鏞は「城説」「起重架図説」などを著した[2]。挙重器の作成によって、銭四万緡を節約したという[7][8]

 

正祖の側近であった洪国栄と比べると、野心を持たない穏健な人物であったと伝わる。

 

しかし、1800年に正祖が没すると南人に対する風当たりは再び厳しくなった。1801年にキリスト教弾圧(辛酉教難)が起き、李家煥は獄中で死亡、丁若鍾は大逆罪で刑死、丁若鏞と兄の丁若銓は流刑になった[9][10]

 

丁若鏞は全羅南道康津郡に配流され、18年もの流刑生活を余儀なくされた[1]。しかし、隣の海南郡に母の尹氏の実家があり、丁若鏞は配流中に尹氏の蔵書を利用して研究・著作に専念した[2]

 

著書

 

丁若鏞は生涯に500巻あまりの著書を残した。その経世思想は「一表二書」と呼ばれる3部の著書に表されている[2]

 

『経世遺表(朝鮮語版)』は国政改革のプランを示す。

『牧民心書(朝鮮語版)』は地方行政について記す。

『欽々新書(朝鮮語版)』は司法分野の改善について述べる。

ほかに地理に関する『我邦疆域考』・『大東水経』、医学に関する『麻科会通』、行政改革に関する『田論』・『湯論』、『茶山集』などの著書がある。

 

日本について記した「日本考」があり、また日本の古学に影響され、伊藤仁斎・荻生徂徠・太宰春台らの説を著書『論語古今注』に引用した[11]

 

 

*一進会(いっしんかい、イルチンフェ)は、1904年から1910年まで大韓帝国で活動した政治結社。

 

1904年に李容九宋秉畯らの開化派によって創設された。日清戦争、日露戦争の勝利により世界的に影響力を強めつつあった大日本帝国(日本)に注目・接近し、日本政府・日本軍の特別の庇護を受けた。日本と大韓帝国の対等な連邦である「韓日合邦(日韓併合とは異なる概念)」実現のために活動した。

 

当時、大韓帝国では最大の政治結社であり、会員数は公称80万人から100万人[1]。一説には実数は4,000人未満にすぎなかったとの見解もある[2]が、日露戦争をロシア帝国(ロシア)に代表される西欧侵略勢力との決戦とみなし、日韓軍事同盟でロシアの侵略を阻止しようと考えた李容九は、日本に協力した。日本が武器弾薬を北方へ輸送するために鉄道(後の京義線)を建設した際、その工事に無償で参加した一進会員は全部で15万人であったとされ、また北鮮から満州国(満州)へ軍需品を運搬する業務に動員された会員は115000人で、あわせて約27万人が日露戦争時に一進会として活動したという話も残っている[3][要ページ番号]

 

日韓併合の目的を達成した一進会は、その後、韓国統監府が朝鮮内の政治的混乱を収拾するために朝鮮の政治結社を全面的に禁止したため、解散費用として十五万円を与えられて他の政治結社と同様に解散したが[4]一進会を率いた宋秉畯(そうへいしゅん1857.10.7-1925.2.1)らは朝鮮総督府中枢院顧問となり、合併後の朝鮮の政治にも大きく影響を与え続けた。合邦善後策として桂太郎首相に資金百五十万円を懇請したところ、千万円でも差し支えなしと答えられ、活動に猛進した。

 

 

日露戦争における日本軍への協力

 

一進会の設立当初、日本側の一進会への評価は低かった[9]が、一進会の設立後、宋秉畯は当時の日本の大佐、松石安治に書簡を送り、現状の高宗およびその官僚主導では大韓帝国の独立・維持は困難であると説明し、また京義線敷設の協力も申し出ている[11]。当時の日露戦争においては、日本軍が物資輸送のため京義線の敷設を計画するが、日本軍の人員不足で計画が暗礁に乗り上げており、一進会がこの敷設工事に無償支援し、会員14万人以上を動員した。さらに一進会は、日本軍の軍事物資輸送の支援にも乗り出し、10万人以上の会員が自費で日本軍の武器・食料を戦地まで運んだ。また、この日露戦争当時、一進会会員は、当時の伝統であった長髪や髷(まげ)をやめて、それを自主独立運動の象徴とした。朝鮮では露館播遷(高宗がロシア公使館で政治を行ったこと(逃亡した事件)1896.2.11-1897.2.20)で断髪令を廃止しており、このような断髪は一般市民には考えられなかった。

 

演説

 

独立門の西側にある独立館が、一進会の演説会場であった[8]。しかし、独立館は600 - 700人以上の聴衆を入れることができず手狭となったため、独立館の北側に新たに1,600 - 1,700人の聴衆を入れられる八角堂を建設した[8][要ページ番号]

 

統監政治

 

1905年(明治38年)10月、日本政府は韓国保護権の確立の方針を閣議決定し、翌11月には伊藤博文を特使として派遣し、1128日に第二次日韓協約の締結が強行された。これに先立ち、一進会は同年115日に「外交権を日本政府に委任し、日本の指導・保護を受け、朝鮮の独立・安定を維持せよ」という宣言書を発表している。[12]

 

韓国統治の総責任者だった伊藤は早期の韓国併合に反対していたが、1909年(明治42年)4月、伊藤は桂太郎小村壽太郎との会談において、両人が提示した併合の方針について大綱を是認している[13]1909年(明治42年)10月、伊藤が満州のハルビンで安重根に暗殺された後、1910年(明治43年)5月に韓国統監(第三代)に就任した寺内正毅は、義兵の制圧と並行して、韓国併合への準備を進めた。

 

韓日合邦の要請

 

一進会は、190912月「韓日合邦建議書(韓日合邦を要求する声明書)」を純宗と第二代韓国統監曾禰荒助そして首相李完用に送り、韓日合邦を要請している。

 

この上奏文を書いたのは内田良平が率いる国粋主義団体黒龍会の武田範之である武田によって起草された上奏文は、山縣有朋、桂太郎首相(当時)、寺内正毅陸軍大臣に内示され、事前の了解を得ていた[14]

 

この建議書の中で、李容九会員100万人の声明と称して、「日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。また日露戦争では日本の損害は甲午(農民戦争とその後の日清戦争)の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり、(日本によって)外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。第三次日韓協約(丁未条約)、ハーグ密使事件も我々が招いたのである。今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。我が国の皇帝陛下と日本の天皇陛下に懇願し、我々も一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」と主張し、韓国と日本の連邦形式の対等合邦を求めた[15]

 

声明発表後の各方面からの反発

 

〇一進会の声明に対して大韓協会、西北学会や天道教徒がただちに反対した。声明発表翌日には漢城府西大門において、李完用(首相)が大演説会を開き、併合反対決議が行われた。統監府の憲兵隊が当時の韓国統監であった曾禰荒助に送った報告によれば、この声明発表は日本人の政治活動家である内田良平が主謀したものとされる。その後一進会に対して大規模な反対運動が起こった。この事態を重くみた曽禰統監は、一進会の集会・演説を禁止し、一進会と大韓協会の日本人顧問に対して論旨退去を命じ、活動を弾圧した。併合を既定方針とした日本政府にとって、賛成・反対の議論が沸騰し、両派の衝突が起こり秩序が乱れること自体が障害と映ったからである[16]

 

併合後に設置された朝鮮総督府も、当時の韓国民衆が一進会に対して大きな反対の声を挙げ、その結果として一進会が孤立状態にあったことを指摘している[17]

 

解散

 

一進会の主張はあくまで日韓両国民の対等な地位に基づく日韓共栄であって(そうは思えないが)、日本の考える外地としての併合とは全く異なるものであることや、日韓併合について韓国側の要求は一切受け入れない日本側の方針であったため、日本政府は一進会の請願を拒否した[18][19]。これは、当時の大韓帝国の巨額の債務や土地インフラに膨大な予算が必要になることから、日本国民の理解を得ることは難しいとの政治判断からであった。〇一方、一進会の宋秉畯も、韓日の対等合邦は国力の差から困難であると判断し韓日併合論を展開し、1910年(明治43年)829日、第2次桂内閣により韓国併合がなされた。韓国併合後、韓国統監府は、親日派/非親日派の政治団体の対立による治安の混乱を収拾するため、朝鮮の全ての政治結社を禁止し、解散させた。これにより、一進会は併合直後の1910年(明治43年)912日に日本政府によって解散を命じられ、解散費用15万円を与えられ、同年925日に解散した[4]。一進会を率い、韓日併合論を説いた宋秉畯らは朝鮮総督府中枢院顧問となり、併合後の朝鮮の政治にも大きく影響を与え続け、その後、その功績により宋秉畯には伯爵位が与えられた。

 

〇一方日韓の対等合邦を日本側が拒否し、その後に韓国を飲み込む形で併合したことから、元一進会会員の間に失望や怒りが広がり、後の三・一運動に身を投じる者も多かった。一進会の中心人物であった李容九は日本政府から送られた華族の叙爵を断り、会の解散から1年経たないうちに憤死した。李容九は喀血して入院していた際に訪れた日本人の友人に対して一進会の活動について後悔を語った[20]

 

日本人の関与

 

一進会の活動には内田良平や日韓電報通信社長の菊池忠三郎など日本人が深く関与し、彼らは一進会が日韓合邦の要請を出すことに成功したが、最終的に伊藤暗殺を招き、一進会に対する(韓国)政府や韓国国民の反発をコントロールできなくなってしまい、 菊池忠三郎は「(対等な)日韓合邦が頓挫した今、一進会は暴徒に変ずる恐れがある」と報告した[21明治43191017日―218] 日本人顧問であった杉山茂丸は、一進会の目的「日韓合邦」が失敗して「併合」された後の1921年(大正10年)、元(一進)会員たちから自決を要求された。これを受けて杉山は、朝鮮の日本統治改革を強く訴える建白を執筆し、李容九を始め一進会の元会員たちを騙したことについても懺悔した[20]

 

評価

 

一進会に対する評価はその活動の解釈や政治的立場によって大きく異る。以下に日韓において出版された一般書籍での評価について概述する。

 

平凡社『朝鮮を知る事典』は、一進会を「親日御用団体」と呼び、表立った運動以外にスパイ活動などにも協力したとしている。また、親日団体としての働きについては、プラスの効果よりも民衆の反発を招いたマイナスの結果の部分が大きかったとしている。また、一進会の実態が「李容九や宋秉畯などの利権集団」であったとも記述している。

 

鹿鳴海馬『伊藤博文はなぜ殺されたか』(1995)は、一進会は日本が日本軍の通訳をしていた宋秉畯に作らせた親日派の政治団体であるとしている。「一進会は日本の国粋団体・黒龍会の内田良平といった有力者を顧問に日本の保護を受けて朝鮮国内の反日分子や反日運動に対するスパイ活動を行って、大衆の反感を買った。特に日露戦争後、一進会が『日本の指導保護を要請する宣言』を発表したため猛烈な反発を受けた。〇中でも「共進会」や「大韓自強会」といった民族派の団体から一斉に売国奴として非難された」としている。

 

三省堂『朝鮮の歴史 新版』は、一進会が1909年(明治42年)に出した声明について、民衆の声を代表しておらず、かつ「会員100万人」も実体のない数字だったとしている。

 

金完燮『親日派のための弁明』(2002)は、一進会の運動を、李氏朝鮮政府の圧政をはねのけようとする農民階級(東学党進歩会)と、支配階級出身で朝鮮の近代化をめざす改革派知識人グループ(維新会)、そして朝鮮近代化を支援することで「攻撃的な防御」を確保しようとする日本という三つの改革勢力が結集されたものとして高く評価している。また、大韓民国政府が一進会を「親日御用エセ団体」と歪曲して韓国民に教えていると批判している。

 

呉善花『韓国併合への道』は、「少なくとも民族の尊厳の確保に賭けて大アジア主義を掲げ、国内で最大限の努力を傾けた李容九らを売国奴と決めつけ、国内で表立った活動をすることもなく外国で抗日活動を展開した安昌浩李承晩らを愛国者・抗日の闘士と高く評価するバランス・シートは、私にはまったく不当なものである」としている。

 

山田朗は、当時の大韓帝国は政党政治ではなく、一進会が韓日合邦を望んでいたとしても、それは韓国人の民意を示したものではなく、一進会は韓国民衆から強い批判を受けていたと主張している[22]

 

木村幹は、韓国併合直前に日本に協力的だった韓国の政治勢力(すなわち親日派)には李完用を中心とする韓国の官僚達と、一進会のような民間の団体との二つの派閥があり、初代統監の伊藤は李完用を韓国側の協力者として選び、伊藤の支持を背景に李完用らは影響力を拡大する一方、一進会は日本側の、同じく民間団体(黒龍会など)と提携し、伊藤・李完用らとは対立関係にあったとする。李完用らは日本に協力することで日本側に介入の口実を与えないようにし、大韓帝国の保持を図ったのに対し、一進会はそのような王朝国家の枠組みそのものを否定し、韓日両国民が日本の天皇の下で、対等な国民(一等国民)となることを考えた点に両者の対立の根本的な原因があったとする。一進会はそのような立場から併合(合邦)に前向きな動きを見せたが、(日本による植民地化という形での)韓国併合の成立とともにその役割は終了し、切り捨てられてしまったのに対し、李完用らは日本と取引をするという強かな姿勢で臨み、併合後も朝鮮貴族の地位の獲得に成功したが、日韓の国力差の前ではそうした強かさすら大きな意味を持ち得ず、朝鮮貴族の地位も名誉的なものにすぎなかった[23]

 

以上Wikiより。

 

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