2022年5月24日火曜日

「高校教育をかへりみて」 姫路高等学校長 浅野孝之 1943

「高校教育をかへりみて」 姫路高等学校長 浅野孝之 1943

 

 

感想

 

・皇室(天皇)礼賛・心酔

・宗教を科学的に対象化せず、信仰そのもの。神がかり的教師観

 

感想

 

・この時代なのに高校生の自主性を好意的に評価している。

・この時代の多くの人は神がかり的な気負った表現をしがちで、筆者の場合も文末でそれが現れるが、一方で気負わず素直に表現している箇所もかなり見受けられ、その点は好感が持てる。

・政府の意向も紹介するが、平板で眠くなる。あまり重視していないからなのだろうか。

・昭和天皇に対する感情的思い入れにはびっくりする。

・太平洋戦争勃発が高校生を危険思想から国家主義に変えたようだ。今のウクライナ戦争勃発によって自衛のためを口実に戦争行為を肯定する日本人が多くなっているのと同じ構図だ。

 

・コトバンクによればこの講演時の筆者は55歳であり、戦後すぐの昭和23年に61歳で亡くなっている。病弱だったのだろうか。また筆者は仏教者207とのことだが、本文のあちこちに散見される優しさはそこから来ているのだろうか。

 

 

Wikiには筆者に関する該当項目がなく、コトバンクによれば、

 

浅野 孝之 アサノ タカユキ

大正・昭和期の教育者 第七高等学校長;山口経済専門学校長。

生年 明治21(1888)23日 没年 昭和23(1948)725

出生地 愛媛県 学歴〔年〕東京帝国大学宗教哲学科〔大正3年〕卒

 

経歴 大正3年文部省嘱託となり、後、布哇(ハワイ)中学兼同高等女学校長、私立成蹊高等学校長、東京府教育調査会委員、成蹊学園理事、本願寺審議会委員、特選会衆猿江重隣館理事、日米布協会理事を歴任。昭和16年姫路高等学校長18年第七高等学校長、22年山口経済専門学校長となった。専攻は仏教哲学、仏教を通じて社会教育に寄与した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)

 

浅野孝之 あさの-たかゆき

18881948 大正-昭和時代の教育者。

 

明治2123日生まれ。大正3年文部省嘱託となる。のち布哇(ハワイ)中学兼高女,成蹊高,七高などの校長をへて,昭和22年山口経専(現山口大)校長。仏教を通じて社会教育につくした。昭和23725日死去。61歳。愛媛県出身。東京帝大卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus

 

要旨

 

196 10余年間の高校教育の体験に基づいた所感を述べる。

 

先ずは文部省への配慮

 

 戦争の勝敗は国民の精神力によって決定される。日本の教育はその精神力の涵養という重要な使命をもっている。第一次大戦に敗れたドイツの大統領ヒンデンブルグ元帥は、ドイツの復興を国民精神の作興体位の向上に期待した。さらにヒトラー総統は教育立国を叫び、時代を背負う若き国民の錬成や自己の使命に目覚めた女性の養成を考え、目前の産業・経済問題よりも、推進力としての人間の教育に重点を置き、その指導者の育成を重視した。今日の独逸の勝利はこの卓抜な教育国策の当然の結果である。

 

197 目前の戦争処理、共栄圏の建設、戦後反動期に予想される難問に備え、これを乗り切れる国民を今錬成しておくことは緊要の事業である。政府が教育刷新を基本国策としたことは尤もなことである。

 戦後のドイツは財政窮乏の中でも「教育は人にある」という信念から、先ず教師の資質向上のために、小学校教師に大卒の資格を求めた。今日本が指導者の教養を刷新しようとする国策は当然である。

 

 高等学校教育の目的は将来の国民の指導者を養成することである。しかし従来その方針が不明確で具体的指導法がなかった。担当者は高等学校令に従ったが、自由的気持ちがあり、主観に基づき、自分の好むところに従い、各教師間に一貫した方針がなく、訓育は第二義的であり、縦にも横にも連絡がなく、分裂的分科的に教えた。綜合的・統一的な教育でなかった。無駄だった。

 

 生徒も真摯着実な一部の者を除いては、漫然と偉い人になりたい、立身出世したいという自己本位の英雄主義、出世主義の気持が多かった。修養訓練も個人主義的な自己訓練であり、風貌容姿は顰蹙を買うだらしなく粗暴なものであり、それを生徒は質実剛健と称し、さも特権階級ででもあるが如き傍若無人な態度を取った。一方学校はこれを指導しないであるがままに放任し、しつけに考慮を払わなかった。彼らの態度は時習に合わず、社会に逆行し、憎まれっ子として非難を受け、高等教育の価値を問われるまでになり、(高校)廃止問題の口実となった。

 

次に高校生弁護を挿入

 

198 しかしここで私は高校生のために一言弁じてやりたい。以上のことを高校の全貌と考え、外見上の高校生の姿からその全価値を批判することは早計であり、当を失する。そればかりか高校教育が持つ特殊的価値や高校で最も養われる長所や美点まで葬り去ることは邦家教育のために私は採らない。

 高校生活を体験した者は、その学問、人物、識見、志操がこの高校時代に最も飛躍的に発展成長し、殊に青年にとって最も望ましい自覚と自発・独創の精神が発芽・生育することを認めている。彼らの底力と妙味はこの高校時代を通じて涵養獲得されると信じる。

 高校生が扱い難いことは事実だろうが、それは彼らが自覚的、自発的、自律的であって、他の干渉を好まず、「可し」「可からず」という命令や禁令によって進退することを厭う性格が頓に発達するからである。世間の教権でもってこれを面従させることはできるだろうが、真に心服を得ることは必ずしも期待できない。麥の穂は鋏でその先を剪み揃えることはできるが、見る眼に美しい穂先の揃いは必ずしも麥の稔りの豊かさを保証するものではない。

199 人間についても同様のことが言える。麥本来の自然の発育を害うことは決して良き農夫のとらぬ所である。三年間の高校生活を事無く送らせること、目前の厄介を逃れるために事なかれ主義を取ることは、取り扱いは楽で苦労がなくてよいかもしれないが、より良い収穫だけを念願する農夫は、その培養の労苦を厭うてはなりません。しかしこう言うことによって彼らのわがままを許し、あるがままの姿、自然の伸び放題に任せておくことを意味するものではない。果樹は枝打ちをしすぎても、また伸びるに任せても、良き収穫が得られず、「程合い」が大切である。その心を殺さぬように適切な指導がなされねばなりません。誤解なきよう申し添えます。(意味深長)

 高校は高校生の切磋琢磨の道場であり、特に学寮や報国団などの部生活においてそう言える。行き過ぎはあるかもしれないが、これらの生活に浸ることによって個性の陶冶を受け、集団生活での訓練によってわがままを抑え、功利心を摘み取り、共同一致の精神と共に、責任感や滅私没我の精神や、終生を貫く友情が育まれ、人間として一種の旨味が盛られてくる。「人間を作ってもらった」という感慨は、こうした生活を真剣に味わった者が斉しく抱く所である。利己的、個人主義的な功利心は、高校生の最も唾棄する所であり、三年間の高校生活はこの方面の陶冶にある程度成功している。完成教育や仕上教育ではないから、確かに余裕と呑気さがあるが、そこに自然にこうした陶冶も可能になる。この呑気さはこの御時世にと非難されるかもしれないが、その呑気さの余裕の間に、一種の落ち着きと鷹揚さ、物にこだわらぬ純情さ、人間として望ましい一種の持ち味、指導者として是非ともあってほしい風格(現指導者の批判か)が養われる。直接接してみて感じる高校生は、外見上の高校生ではなく、実に美点長所を多分に持っている。彼らを誤解させるものは「伝統の高校型」であり、彼らの本質ではない。

 

200 もちろん彼らは青年であるから、身体の発達が未完成であるように心も未完成であり、経験も浅く思慮も十分でなく、考えることがとかく一方的で、自分の立場に執着して他の立場を理解せず、理智的理論的であるために勢い批判的になり、空想に近い理想論を振り翳して他を量り、他に望み、遂には他を排する傾向がある。しかも自らを省み、自らを量ることが極めて少なく、実行を忘れて徒に観念論に堕する。これは高校生だけでなく青年全般の通弊であるが、諸種の事情で高校生に特に目立ってみられる。

 

思想問題とそれに対する国家の対策

 

 高校生の以上の性格や、彼らを風靡した「高校型生活」のために、高校は社会から指弾を受けた。その上一時我が国を席巻した恐るべき思想魔の来襲によって高校思想陣営の一角が脆くも潰えたことは、高校の社会からの信頼を薄弱ならしめた。(筆者は自由主義者だが、反共か)

 

 悪化の一途をたどる学生の思想善導を目指して、昭和419297月、専門学務局学生課に代わって学生部が現れ、昭和719328月、国民精神文化研究所が生まれて国民精神文化の研究、指導、普及が計られ、昭和919346月、学生部は思想局に発展し、昭和1219377月、現在の教学局が外局として設置された。これは、「現下の時勢に鑑み、国体の本義に基づき、教学上の諸弊を芟除(さんじょ)し、教学の根本精神の維持発展を図る中心機関として、文部大臣管轄下で、教学の刷新振興に関する企画、調査、指導普及に当たる」ことになった。

 

 これより先、昭和121937327日、文部省訓令第七号高等学校高等科教授要目が公布された。これは「我が国の教学があくまでも国体に基づき、日本精神に則り、国民精神の涵養と人格の陶冶に重点を置き、古い伝統の教育精神に帰り入る我が国民の歴史的使命とともに、東西文化の融合発展という世界的使命に鑑みて、徒に偏狭固陋な排外的独善に陥ることなく、東西の学問文化を皇国の道によって摂取して世局の進展に役立て、国体に対する信念を強固にしつつ日本文化の創造に寄与して皇運扶翼の大任を担うことのできる指導的人材の養成に努めるべきこと」を述べ、高校教育の方向を明示した。これと同時に将来日本国民の指導者となるべき者の資格として、信念、気魄、識見、徳行、情操、健康の六項を掲げて指導目標を明らかにし、陶冶錬成に努めるとした。

 

201 爾来高等学校の教育は「飛躍的に」進んだ。当局の指導と国際情勢の急激な変化(戦争)は、高校生の思想動向に一大転換を促し、特に支那事変以後一段と飛躍した。昭和141939522日、「青少年学徒に賜りたる勅語」を奉戴(お受け)し、親しく我らに賜りたる御信倚(しんい、信頼)の大御心として恐懼感激し、聖旨に応えまつらんことを期した。

 爾来その風は著しく刷新され、高校生の思想行動も「堅実味」を加えた。高校生の意気・感激は画期的であり、対米英宣戦の大詔を感激の涙で拝し、彌(いよいよ)皇国学徒としての自覚と時局の認識を深め、生活態度も一変した。今までの自己本位の出世主義は国家本位の考え方に変わり、東亜における日本の地位と使命・責任を考え、国家における自らの地位と責任を顧みて、指導者としての意味も、国内から広く外地の共栄圏の民族を含むようになり、指導者としての自覚、気宇、識見、熱意が増大した。(戦争やれやれか)

 

202 昭和1719423月、文部省は(高等学校に対して)訓令を出し、次のような高遠雄渾な指導精神を力強く昭示し、その徹底を要望した。

 

一、皇国の道を修め、世界における皇国の使命を体得し、克(よ)く国家の重きに任じ、大東亜新秩序建設の大業を翼賛し奉るべき材幹を錬成すべし

二、至誠純忠にして敬神崇祖の念篤く、気節を尊び廉恥を重んじ、剛毅果断にして進取の気象に富む指導的人物たらしむべし

三、心身一体の鍛錬を重んじ、質実剛健の気風を振励し、高邁闊達の気宇を涵養すべし(無内容)

四、知行一如の学風、自発的、共同的、実践的なる学習を重んじ、思索を精にし識見を長じて文化創造の根源力に培うべし。(無内容。あくびが出る)

 

この「お示し」は「教育勅語」や「青少年学徒に賜りたる勅語」の聖旨を体して、大東亜共栄圏の指導者たる自覚の下に、服膺(戒めを忘れない)実践すべき臣民道を示したもので、具体的であり、昭和124月公布の教授要目200から飛躍的に発展した。(つまらないくせに、おべっか)

 

 今回の要目改正では大東亜新秩序建設大業翼賛という具体的使命が明示され、その大業完遂のために挺身邁往(まいおう、邁進)する実践力を啓培するために、従来の資質陶冶の上に、一段の強化がなされた。

修身科が道義科に、国語漢文科が古典科になり、法制経済科が経国科になって政治、経済、地理を含むようになり、体操科が体錬科になった。また従来は各科の相互的連絡がなかったが、高校教育の目的を把握しつつ他教科と一体的に学修させるようになった。時間数も大体の目安が与えられているだけで、教材も定められた範囲内で自由に選択でき、生きた教材の活用を狙い、教授法でも煩瑣な注釈や単なる知識の注入に堕せず、輪講討議、思索味解を行わせ、また全学級画一的な指導を行わず、時には数班に分けて特殊な課題を研究・調査・報告させ、課題の自発的解決能力や識見を養い、現実の問題に興味を抱かせて反省を与え、その精神内容を「全体的」具体的に把握させるように組み立てるなど、従来より多彩でかつ修学心をそそる(おべっか)興味深い指導法となっている。そして学校の授業が教室内に限られることなく、社会で自由に見学実修させ、一時間単位の週配当でなく、二時間連続あるいは半時間分割し、特殊研究調査では長時間を当てることができる。外部から指導者を頼むこともでき、校長訓話も可能である。合宿訓練、生活訓練、しつけも行える。このように心身を錬成し、地方の特色を生かし、生徒の興味を喚起し、実践的学風を振起するなど、教授者の手腕工夫によって授業の成果を挙げることができる。

 本改正で特に興味あることは、従来久しく要望されていた演習制度が生まれたことである。例えば古典講読、特殊研究、芸術鑑賞、見学、実習、調査などである。また従来知識注入に止まりがちであった修身科が道義科に変わって時間が倍加され、学級訓練、生活指導、しつけなどを強化し、体錬科と一体となり、知に偏せず体に堕せず、心身一如の錬成をするようになった。

 

204 今次の改正は学行一如の建前から行的教育が強化され、諸学科で修得される知識も綜合的に活用し、知識を一体化・実際化し、生徒は自発的・共同的・実践的学風を振起し、教師は師弟同行・倶学倶進の精神で身をもって導き、徳を以て化し、教育目的を完遂する。かくて皇国の道に徹し、皇国の世界的使命を自覚体認し、大東亜新秩序建設の大業を翼賛すべき材幹を錬成する。一切がこの目的に叶うように組み立てられていて、そこに画期的な刷新改善の狙いどころがある。実施半年でまだ十分の効果を上げていないが、明確に我々の往くべき方向が定められ、師弟共に興味と関心と熱意をもって鋭意その実行を期している。いずれ必ずや高校教育の成果が挙げられると確信している。(眠い)

 

教員論

 

 制度を活かすのは人であり、教育については特にそう言える。教育問題は校長を含めての教師の問題である。

 

 教師の第一の心構えは、

 

一、陛下の赤子をお預かりしているとの観念

二、「人尤(はなは)だ悪なるはなし。よく教えればこれに従う」(聖徳太子御制十七条憲法)という教育愛と教育者の反省である。

 

 陛下の赤子をお預かり申すことは確たる事実である。彼らは皇国隆替(盛衰)の鍵を握る重大な責任者である。教師はその指導者として「導いて誤りなかりしや」の反省と責任感がなければならない。古来事をなした人を見て感銘することは、必ず自己一人の責任で事に当たり、責任を他に転嫁しないこと、そしてその責任が永遠であったことである。我々はとかく書類の上での責任、当座の責任、任にある間だけの責任、在任中にぼろを出さなければよい、つじつまが合えばよいと考えがちである。教育のことは目に見えず、功罪を今すぐ判断できない。知らないうちに大きな過失をしているかもしれない。だから日々の反省と永遠の責任感を必要とする。七生(親・子・孫と七代続くこと)報国、七生滅賊、「靖国神社で会おうぞ」とは、責任を死後まで取ろうとする永遠の責任感を言ったもので、口頭や文字の上での儀礼的責任ではない。国家百年の責任を青年学徒に求める以上、これを指導する教師は、永遠の責任を覚悟すべきである。

 

 指導者に不可欠なものは責任感と共に熱意である。責任と熱意のないところに事は成就せず、熱意の下に人が動かないことはない。芸術家が作品に対して精魂を打ち込むことによって魂の籠った芸術が生まれる。人間をつくることほど偉大な芸術はない。教育者は最大の芸術家であり、一筆一刀をもおろそかに下してはなりません。

 

 真の芸術家においては朽ち木も用途を得て立派な芸術品として活かされる。そして材料は芸術家自身のものになり、芸術家と材料とが一体となる。良い芸術家は材料をよく理解していて、材料の性質に従って親切に導き、その特色を発揮させ、価値を発揚させることができる。教師は他を成らす前に自ら成ることが大切である。(宗教者としての厳しさか)

 

206 最近よく「実践躬行」とか「率先垂範」とか言われるが、それは「身を以て導け」という意味である。徒に口頭の説法ではなく、挺身垂範する所に自ずから「化」が行われ、「化」の所に初めて「教」が成り立つという意味である。教育は教えることではなく化することであり、教師が実践する所に自ずから行われる。私も「最上の監督は率先垂範だ」とばかりにやってみたが、やって見せるという功利的な気持ちが先に立ってぴったりしない。この方便は目的達成のための貴い手段であるが、私はただ「已むに已まれぬ心から出る実践でありたい、自然であるところに化があるのだ」という気持ちでやったにすぎない。ところが今夏私の学校の教官錬成講習会で、宮内省の星野輝典先生から聖上皇后両陛下の御敬神の御聖徳について講和があり、「陛下は已むに已まれぬ大御心から(敬神の行事を)行っているのであって、国民に範を垂れようなどと思ってやっているのではない。御聖徳から自然に現れるので、何ら作意はない。畏いことに陛下は何事にも真剣で、宮中の祭祀では、寒中でも汗をかくほど全霊を注いで奉仕し、その真剣さに自ずから襟を正し、頭の下がるのを禁じ得ない。この真剣さに動かされて民の我らは自ずから靡くのである。これは自然垂範であるが、叡慮の中にそのような考えはない」と言った。これは誠に畏い極みであり、我々の「してみせる」という不純なこころから出たものは恥ずかしい限りだ。已むに已まれぬ親心から出たものでなければ真の教育はできないと痛感した。星野先生は「真剣のところに垂範はない」と言われた。(皇室美化)

 

207 教師は教えることを知ることによって、自ら学ぶことや道を求めることをゆるがせにしがちである。宗教家も教育家も指導者を自認し、自らが学ぶ者であり、道を求める者であるという自覚と反省が足りない。良く導くためには、よく導かれる者でなければならない。真の教育者は、真の学者であり、永遠の求道者である。学者とは物知りではなく、常に学ぶ者であり、求道者とは師としての位置から引き下がり、師を求めて道を尋ねる者をいう。師弟同行、倶学倶進とはこのことである。教育者が、

学びにおいて生徒の欲求を満たしているだろうか、

徳と識見において生徒を指導教化するに足りるだろうか

と反省するとき、教育者は学者となり、求道者とならざるを得なくなる。生徒は正しく導かれ、温かく抱かれることを願っている。生徒に軽侮の念を起こさせることに警戒しなければならない。生徒は学問上の知識だけでなく、道においても正しい指導を求めている。淡白率直に是非を明らかにし、優しく導くべきである。教師の生徒への迎合を正しさを愛する生徒は喜ばず、却って低劣な心情を看破され、侮蔑不信の種となる。純情で感激性に富む生徒は、駆け引きなく腹を割って真実を語る人格について来る。生徒は真実の𠮟責を感謝する。「教」とは「可し」「可からず」という命令ではなく、生徒自らが「可し」「可からず」を自覚するように導いてやることであり、そのとき生徒は満足する。病人には自ら治る力があり、医師が患者をこの自覚に導いてやることが治療の秘訣であるように、生徒を自覚に誘導することが教育の要訣である。

 

208 生徒は正しく導かれることを喜ぶとともに、温かく抱かれることも望む。それが教育愛である。「育」とは愛で温めてやることである。これまで教育上の失敗の原因がこの教育愛の欠如とされ、師弟の情誼がしばしば論ぜられた。親の愛は片務的である。親は子供を愛することができることに満足し、子供から愛の返報を要求しない。それは絶対愛に近く、神仏の愛に譬えられる。その慈悲心は病弱な子を捨てない、成績不良な子でも捨てない、性格がよくなくても憎まない。それは憐憫(れんびん)の情を注ぎ、擁護救済の手を差し伸べる、仏教で言う摂取(しょうしゅ、仏の慈悲で衆生を救う事)不捨の宗教愛に近い。それは日本の教育愛である。これは1300年前の聖徳太子が国民教化の根本態度として十七条憲法第二章で示したものである。「人鮮尤(はなはだ)悪、能教従之」204とは教育者・指導者の態度である。箸にも棒にもかからない者はあまりおらず、能く導けば必ずついてくる。聖徳太子は「能く教えれば之に従う」と教育者としての確信を与えた。「之に従う」ためには「能く教えれば」の条件がある。ここに教師の反省が要求される。生徒を咎めず、教師にも誤りがなかったか、愛して悔いがなかったかを反省すべきである。教育の責任から自分を擁護してはならない。

 

また信仰的皇室礼賛・心酔

 

この1942夏我が校の教官錬成講習会で、帝室会計審査局長官木下道雄閣下が次のような感銘深い今上陛下の御聖徳を謹話されました。

209 長官がまだ侍従であった時、司法大臣が某大官検挙の勅許を仰いだ。侍従は上奏文を闕下に捧呈する。陛下はこれを見て顔を曇らせ、深い憂鬱に沈んだ。侍従は「御軫念」「叡慮を悩ます」「宸襟を悩ます」といった言葉をかつて聞いたことがあったが、眼前で悩む姿を見て、恐懼に堪えず、涙を抑えて勅許を待った。容易にお下げ渡しの気配がない。しばらくして漸く勅許があり、退去しようとしたところ、陛下が急に侍従を留め、申すも畏き極まりながら、いと沈痛なお声で「朕が悪いのだ」と仰せられました。木下侍従は余りにも勿体ないこの御言葉に唯々恐懼し奉り、御前を下がるや思う存分泣いた」と話された。嘗ては輔弼の重臣として信任していたこの大官は、今は囚われの身となって、叡慮を悩ます。その罪正に死に当たるべきものであるにも関わらず、陛下はいささかも憎まず、却って勅許によって彼が囚われの身になることを憐れみ、御軫念あらせられたことさえ、誠に畏き極みであるのに、今退下する侍従を召還され、「朕が悪いのだ」と仰せ出された広大無辺の御仁慈を拝し、誰か聖恩の辱(かたじけな)さに感涙し奉らざるものがありましょうか。遠く亀山上皇は宸筆の願文を伊勢神宮に献げ、

 朕が身を以て国難にかへん

と宣(の)らせ給い、宇田天皇は、

 百姓の悪を作れる皆我に帰す、今仏子と成り一身に善を修して普く他を利す

と宣う。明治天皇が国民に代わってその罪を天津神にお詫び遊ばされた御仁徳は、国民の斉しく感佩(かんはい、心にとどめる)し奉るところ、そして今上陛下のこの御聖徳を仰いで、ここに真の日本人が育つのだ。大君の御為には一切を捧げ尽くして惜しまない、至誠純忠の皇国民が育つのだと、その勿体なさ忝さに自ずから涙こぼれるを禁じ得ない。

 

210 赤子を慈しみ、捨て給わず、罪人をすら憐れみまします大御心こそ、我々教育者が深く体して国民教育の大任に当たるべき根本的心構えでなければならない。大御心を体するとは、大御心を我々醜の身に実践することである。そこに皇国日本教育者の真面目があり、こうして教育の成果を挙げることができる。教育問題は教師の問題である。

 

 高等学校の教育は本省が示したところによって目標がはっきりし、生徒も時勢(対米英戦開戦)の影響によって自覚しそれを受け容れる心の準備ができている。これを扱う私たち教員の覚悟一つでこの教育が完成する。我々教育者の責任は重大で、誠に空恐ろしくさへ思ふのであります。(ひょっとして疑問に思っているのか)

 

以上

 

 

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