2022年5月15日日曜日

「アメリカの対支教育活動に就いて」広島高等師範学校教授 平塚益徳(ますのり)

 「アメリカの対支教育活動に就いて」広島高等師範学校教授 平塚益徳(ますのり) 1943

 

 

メモ

 

これはアメリカのプロテスタント宣教師が1920世紀の中国の教育や政治に及ぼした影響について概説したものである。

 

アメリカは支那と結んだ望厦条約1844の交渉で、租借地に学校と教会堂を建設できるようにした。この点イギリスは無関心で、経済面ばかりに関心を持っていた。

フランスの陰謀的「努力」によって宣教師が中国大陸内部で活動できるようになると、アメリカも最恵国条項を利用してそれに倣った。

アメリカのプロテスタントは中国で学校を開設したが、当初は反対勢力に妨害された。(戊戌の政変1898、義和団事件1899-1901)また中国民衆の関心は薄く、学生も貧乏な人が多く、高等教育の程度は低かった。

しかし近代化の進展とともに宗教学校の学生も多くなり、レベルも上がった。「南方派要人」でキリスト教徒になった人が多く、孫文もその一人である。彼らは「若き支那人」Young Chinaと呼ばれた。

しかし第一次大戦がキリスト教徒相互の戦いであったため信用を失い、理性主義や批判主義に基づく5・4運動や共産主義の影響もあり、宗教教育は否定され沈滞傾向となった。

ところが蒋介石が、アメリカで教育を受けた宋美齢に要求された蒋介石の入信を条件に結婚し、自身の信仰の告白をアメリカのプロテスタントの集会で表明すると、アメリカのキリスト教徒は勢いを盛り返した。その一年後に日中戦争が始まったのだが、アメリカの教会学校は我が皇軍に妨害した。

 

感想 まとまりのある整然とした文章である。ただし、アメリカナイズされた蒋介石とその妻・宋美齢の秋波に勢いづいた米教会学校の我が皇軍に対する陰謀に言及するのはこの時代の常識か。また中国に対する優越感をあちこちで表明している。

 

 

Wikiによれば、

 

平塚 益徳(ひらつか ますのり、1907619 - 1981310日)は、日本の教育学者、キリスト教学者。九州大学名誉教授。日本比較教育学会会長を長く努めた。

 

来歴

 

上富坂教会牧師・平塚勇之助(18731953の次男として東京に生まれる。聖学院中学校、水戸高等学校卒、昭和6年、東京帝国大学文学部教育学科卒。昭和10年東京帝大大学院教育学修了。

 

広島高等師範学校教授、九州帝国大学教授、1953年、九州大学教育学部長。1960年、日本人初のユネスコ本部教育局長。1963年、国立教育研究所長に学者として就任し、大学に比肩する研究体制の構築を図った。『日本近代教育百年史』全10巻を完成させた。

 

1962年、文学博士(九州大学)。論文の題は「旧約智恵文学に現われたイスラエルの教育・倫理思想の研究 [1]

 

著書

 

『旧約聖書の教育思想 知慧文学を中心として』目黒書店、1935

『イスラエル民族の女性観と女子教育』基督教モノグラフ叢書 日独書院、1935

『日本基督教主義教育文化史』基督教教程叢書 日独書院、1937

『近代支那に於ける基督教々育の概況』興亜院、1940

『近代支那教育文化史 第三国対支教育活動を中心として』目黒書店、1942

 

『日本のゆくえ ハドソン河畔の旅窓から』洋々社、1956

『旧約聖書の教育思想 智慧文学の研究』日本基督教団出版部、1957

『ヨーロッパの道徳教育』民主教育協会 IDE教育選書、1958

日本のゆくえ道徳教育』福村書店、1959

『教育の民主主義 バランスの原理』民主教育協会 IDE教育選書、1960

『こども・家庭・社会 教育の民主主義 その2』民主教育協会 IDE教育選書 1961

『日本教育の進路 道徳教育の根本問題』広池学園出版部、1964

『民主主義社会の青年 その特色とあり方』広池学園出版部 れいろうブックス、1967

『お茶の間の教育学 つみ重ねられた人間の智慧』広池学園事業部、1969

『価値ある人生 かく信じかく訴える』広池学園事業部、1976

日本の運命と教育』広池学園事業部、1976

『序文 人生の真実を求めて』教育開発研究所、1978

日本教育の大勝利 日本の教育史から観た現状と将来』カルティヴェイト211981

『平塚益徳講演集』平塚博士記念事業会編、教育開発研究所、1985

『平塚益徳著作集』全5巻、教育開発研究所、1985

1 (日本教育史)

2 (中国近代教育史)

3 (西洋教育史)

4 (宗教・道徳・家庭教育)

5 (教育時論)

 

共編著

 

『人物を中心とした女子教育史』編著、帝国地方行政学会、1965

『教育事典』沢田慶輔,吉田昇共編、小学館、1966

平塚勇之助『慈川余香』平塚道雄共編、広池学園出版部、1967

『世界の教師 養成・地位・生活』編、帝国地方行政学会、1967

『現代の教師に訴える』上田薫ほか共著、明治図書出版 明治図書新書、1968

『進路指導実践講座』第1-2 沢田慶輔共編、文教書院、1968-69

『日本の家庭と子ども 今日における家庭の教育機能を探る』編、金子書房、1973

 

翻訳

 

J.A.ラワリーズ『科学・道徳・モラロジー』監訳、モラロジー研究所、1976

 

 

コトバンクによれば、

 

出生地 東京市小石川区(現・東京都文京区)

学歴〔年〕東京帝大文学部教育学科〔昭和6年〕卒、東京帝大大学院教育学〔昭和10年〕修了

学位〔年〕文学博士

経歴 昭和11年、国民精神文化研究所嘱託となり、「日本教育史資料書」編集に従事。15年、広島高師教授、19年、九州帝大法文学部教授、24年、九州大学教育学部教授、28年、教育学部長、31年、同学部附属比較教育文化研究施設長を歴任。35年、日本人として初のユネスコ本部教育局長就任など海外でも活躍。38年、国立教育研究所長に就任、「日本近代教育百年史」(10)を完成させた。53年辞任、名誉所長となる。中央教育審議会委員、日本ユネスコ国内委員会委員長なども歴任。主著に「日本基督教主義教育文化史」「近代支那教育文化史」「日本の進路」など。

 

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)

 

 

要旨

 

要項

 

132 近代支那の教育発達の過程で米英は極めて活発に教育活動を行ったが、特にアメリカは決定的な影響を与えた。大東亜の教育の建設に邁進すべき大任を負荷する我が国の教育界はこの点を真剣に検討すべきである。

 

 アメリカの対支教育活動は四つの面に大別できる。

(一)「教会学校」を中心とした宗教団体によってなされたもの

(二)「庚款*」つまり団匪(義和団事件)賠償金免除に基づくもの

(三)ロックフェラーなど篤志の富豪の寄付によるもの

(四)オペリンなど大学の教授・学生や、デューイ、モンローなど一般知識人の渡支によるもの

 

*庚款 庚子(こうし、かのえね)賠款(ばいかん、賠償金)

 

これら四つは相互に密接な関係を持っているが、独自の歴史も持っている。以下(一)を中心に述べる。

 

133 アメリカの支那に対する教育活動は百年に渡る。前述の(一)はアメリカの支那における教育活動の67割を占める。

 (一)の宗教団はキリスト教関係の団体であるが、アメリカではプロテスタントが絶対多数を占め、絶対的勢力を持っている。以下プロテスタントに限定して話す。

 

 アメリカの宣教師の中で初めて支那に渡ったのは、ブリッジマンアビールの二人であり、それは道光10年、天保元年1830年のことであり、イギリス人ロバート・モリソンが支那に渡ってから23年後にあたる。ところが支那在住の宣教師数は1845年、英人10人、米人20人、1848年では英人19人、米人44人、1855年では英人24人、米人46人と、各時期とも米人が英人の2倍であった。このことは対支条約にも現れている。1842年にアヘン戦争後英支間で締結された南京条約は、キリスト教に関する規定が何もないのに対して、1844年に米支間で締結された望厦条約ではその第17条で、「広東、厦門、福州、寧波、上海の五港の土地を租借し、病院、養育院、墓地、学校教会堂を設立できる」という規定がある。矢野仁一は、イギリスが南京条約でキリスト教布教に関する規定を何も設けなかったのは、イギリスが経済上のことに汲々としていて、布教はどうでもいいと考えていたと指摘しているが、(英の)インド(支配)の初期における東インド会社や、英本国と宣教師との関係を考えても、この矢野の考えは当を得ていると考えられる。

135 この点でフランスが最初から布教に熱心であったことは注目に値する。米支間で締結された望厦条約と同年の1844年、仏支が黄埔条約を締結したが、五港内での布教については米同様であったが、さらに1844年と1846年の二回に渡り、仏は清にカトリック奉教強化の勅令を発布させ、1860年の北京条約では、フランス人が支那本土の内部に居住することを予想する一文を条約内に挿入した。それは一方の国が承服しないことを隠密の間に挿入するという陰謀的手法によるものであった。そしてフランスは1865年のベルトミイ協定1895年の同補遺によって、カトリックの宣教師を支那の内地に堂々と送り込んだ。この条約は東亜に色々の問題を引き起こす原因となった。英米は共にフランスの得たこの特権を、自分たちが支那と結んでいる条約内の最恵国約款の建前から主張し、自国の宣教師を支那の内地に送り込むことに成功した。

また宣教師の教育活動に有利に働いた条件が支那社会内部に起りつつあった。支那社会は好むと好まざるとにかかわらず、南京条約や北京条約1860を経て近代化の傾向をたどり始めた。1862年、支那最初の近代的学校である京師同文館が創設され、1869年、同館の主宰として米人宣教師ピー・エー・マーチンが招聘された。また外国の物質文明を取り入れようとする洋務運動と、特に文化的に国内改革をしようとする維新運動が展開された。維新運動は日清戦役後に盛んになった。

しかし支那社会が全体としてそれらの運動にひた走ったわけではなかった。保守的固陋の徒輩が牢固たる勢力を持っていて、京師同文館での天文学や数学の教授に反対する声が囂々と生じ、戊戌の政変1898団匪事件義和団事件1899-1901)が起った。次に宣教師の教育活動について述べる。

 

*戊戌の政変 西太后など保守派が、光緒帝や康有為らの変法自強運動百日改革)を弾圧し、反動政治を復活した。

 

 アメリカの宣教師は1830年から支那で布教に従事したが、西洋の宗教を含めた文化一般に対する支那の反応は弱かった。この点は日本と対照的である。日本では明治維新の前後、困難を克服して宣教師などを通じて新しい西洋の知識を獲得しようとした者が多かった。

137 支那での宣教師の活動は制約を受けた。第一に活動場所が北京や山東省の一部を除いて五つの港に限定された。第二は、学校の程度が1864年に創設された文会館や1867年に誕生した通州の大学堂などを例外として、現在の日本の教育標準の初等程度のものが大多数で、中等教育機関はあまり多くなかった。(しかし1830年は日本より早いのではないのか)

 補足すると、神学校教育では1860年以降、支那人宣教師をつくる必要が切実になり、神学校が一、二開設された。そして1870年代には、名門神学校が開設され始めた。しかし神学教育のほとんどが初等教育や中等教育であり、また数少ない高等教育の程度は低かった。

第三の制約は学生や生徒の募集で困難を伴ったことである。学校数は増えてもその質は低かった。この点で日本のキリスト教学校は、支那のそれと性格が異なり、それと似ている点も多いのだが、大きな違いがある。同志社や青山学院はミッションスクールではなかったが、初めから優秀な人材が集まった。元良勇次郎、大西祝博士、徳富兄弟など知名の士が輩出した。

138 ところが支那の学校は貧弱である。入学生は貧民の子弟であった。このことは女子の学校において特に顕著で、入学者の第一日目の行事は、生徒の虱を取り、お湯にいれてやり、服を着替えさせることで、学校給食、衣服、学用品などの給与が一般に行われた。また中途退学者が多かった。そのため女学校では盛大な卒業式を行い、生徒を卒業するまで引き留めようとした。中途退学者の中には英語が話せるものがいた。支那の内地で勢力が台頭しつつあった外人や外人向けの商館に彼らは雇われた。1860年、ドゥー・リットルの主唱を始めとして、教会学校側から英語を教えてはいけないという英語教授反対論が起った。ここに支那人の実利的性格が現れている。この英語教授可否論は1910年のエディンバラで開かれた世界宣教師大会まで討議された。

 

139 ところが1880年以降はアメリカの教育活動が積極的になったが、このことについて付言しておく。1830年のブリッジマンやアビールを始めそれ以降のアメリカの宣教師には、アメリカという国家意識が薄弱で、宗教人世界人一般であった。ところが1890年代になるとアメリカ人的意識が強くなってきて、1880年代以降情勢が変化した。その教育上の理由は、アメリカの、教育に熱心なメソジスト派が活躍し始めたこと、また支那社会の中で改革的運動や思想が顕著となり、また貿易が活発になったことであり、こうして教育運動は活気づき、前世紀の末にはレベルの高い高等教育機関が出現し、教育内容も欧州の新知識を加味し、生徒も従来の貧乏人ばかりではなくなり、英語教授も反対はあったが、正面から教えるようになった。

 

 1900年明治33年の団匪事件から清朝末期までの10年間は教育上の一時期を画する革新時期に入った。科挙制度がこの時期に廃止され、女子の纏足が禁止され、アヘンが禁止された。「西学」が支那の読書士子の間で権威あるものとして定着した。西太后も団匪事件の惨敗や日露戦争での日本の赫々たる勝利に刺激され、従来の迷夢から覚めた。

 

140 この時代の宣教師は清朝政府から協力を求められた。政府による新たな教育機関の校長や顧問として多くのアメリカ人宣教師が迎えられた。教会学校も発展した。アメリカ自体でも1880年代ころから東洋特に支那に対する関心が高まった。それは1890年代末の門戸開放主義の宣言1899やフィリピンの領有1898とともに顕著となった。団匪事件でのアメリカ人宣教師の殉教美談に促されて宗教的情熱が燃やされ、支那に対するアメリカの関心が高まった。

 さらに日露戦争で示された日本の偉大な国力にアメリカが猜疑・嫉妬心を持ったこともアメリカが支那での教育に積極的に関与する原因になった。アメリカは団匪賠償金の一部を支那に返還し、それを教育活動に使い、アメリカ化された支那人をつくる仕組が巧妙につくられた。

141 アメリカの教会学校も異常に発展した。1876年の教会学校数は289校、生徒数4904人であったが、1906年には学校数が10倍の2585校、生徒数が57683人となった。アメリカの教会学校はこの中に含まれるが、6割はアメリカの教会学校である。

 このようなアメリカ宣教師の優勢は中華民国時代に入っても1920年代初頭まで継続した。「南方派要人」の中にはキリスト教徒が多い。孫文は1884年に洗礼を受けた。当時の政治上の指導理念であった民主主義は、アメリカ的なキリスト教と同一地盤に立っていたので、中華民国になってからの最初の10年間に教会学校が非常な発展を遂げた。ジョン・デューイが19195月から1921年にかけて支那の各地を訪問した結果、教会学校は愈々整備・強化され、合同し、独自の教育系統の下に、特別な教科書を用い、独自の督学機関を持ち、女子教育を充実し、開港都市を始め各地の大都市の支那人子弟に影響を与え、多くの「若き支那人」Young Chinaが輩出した。

142 しかし1920年代特に1926年ころを頂点として、教会学校を打倒しようとする運動が起こった。その理由の一つはヨーロッパの大戦である。英米などキリスト教の人道主義や平和主義を唱えるキリスト教国が、残虐な戦争を起こして信頼を失った。もう一つの理由は理性主義や批判主義が1919年の五・四運動をもたらし、さらに労農ロシアの共産主義の影響がこれに加わり、宗教一般延いてはキリスト教的宗教教育に猛烈な批判が加えられたことである。そしてこれが1920年代の外交上の問題と絡みついて支那全国に展開された。

 これを教育思想の点で跡づけてみる。1917年、蔡元培の「美育をもって宗教に代える」という講演が反教会運動の始まりである。蔡元培は「支那人に宗教は必要ではない。元来支那には宗教がない。美育こそ支那本来のものである」と言った。当初この思想は大した影響力がなかったが、遂に1920年に北京で反宗教同盟が結成されるに至った。そして支那全国における排外運動、特に反教会学校運動が展開された。そして1920年、イギリスからバートランド・ラッセルが支那を来訪し、この反宗教教育思想、反教会学校運動に新たな理論的根拠を与えた。ラッセルは「支那にはヨーロッパ以上に優れたものがある。欧米側はほとんどこのことを知らない。支那にとって必要なものは科学だけだ」と北京で講演した。この運動の結果、教会学校の生徒はストライキに立ち上がり、退校し、入学希望者が減少し、教職員も落ち着かず、1926年には三分の一が閉校した。この運動がもう少し長く続いていたら、アメリカを主流とする支那の教会学校は今次事変(日中戦争)に対してあれほどの(日本に対する)妨害的な役割を果たさなかっただろう。ところがこの反教会学校運動を蒋介石政権が抑止した。これについて以下述べる。

143 1925年に孫文が北京で没すると、蒋介石は国民党右派の頭目として活躍し、1927年、共産党に対してクーデターを行い、北伐を始めた。蒋介石は一時山東方面で失敗し、その責任を取って一時日本に下野したが、同じ年1927年に支那に帰り、宋美齢と結婚した。宋美齢はアメリカのウエレスリイ女子大学を卒業し、その生家の全員と共にアメリカ化されていた。この結婚の際に宋美齢は蒋介石に二つの条件を出した。一つは蒋介石がキリスト教徒になること。もう一つは蒋介石の現在の妻と離縁することであった。後者の条件はキリスト教的倫理である。蒋介石は二つとも容れたと思われる。翌1928年、北伐が進展し、張作霖が同年19286月北京を退去し奉天に向かうとき爆死し、同年1928年末、張学良が蒋介石の麾下に服し、蒋介石政権が成立した。

144 蒋介石は三民主義教育と極端な排日教育を樹立し、共産党狩りを開始した。蒋介石によれば共産党狩りは国内戦線の統一のためであった。蒋介石はこれを武力だけではできないと考え、19342月に新生活運動を開始し、一定の成功を収めた。蒋介石は張学良の勢力を削ごうとして張学良に山西方面の共産党の弾圧を命じた。張学良はその真意を知っていたし、その部下に共産主義者がいたので、蒋介石の命令を実行しなかった。蒋介石は西安に赴いて張学良に督促しようとした。この時に西安事件が起きた。蒋介石監禁事件である。この事件の真相はなかなか明確にならないが、その後の歴史の進展から推測すると、国共の合作・妥協が行われたことは確かである。1936年、もう一つ綏遠(すいえん)事件*が起きた。

 

1936年、中国綏遠省(現内モンゴル)東部で関東軍指揮下の内モンゴル軍と国民政府軍とが武力衝突した。

 

この事件は蒋介石直系の軍が強いということを支那人一般に「盲信」・「過信」させた。これら二つの事件は1937年の「不幸な」日支事変と密接な関係がある。この時期に蒋介石は妻宋美齢に19375月上海で開かれた全国キリスト教連盟総会にメッセージを送らせ、新生活運動をキリスト教会が助けてくれるように申し出て教会側を喜ばせた。

145 また同年3月、蒋介石は南京で開かれた某教団の総会に手紙を送り、「自分は過去10年間キリスト教徒として生活してきた。西安の監禁生活2週間の間もキリスト教徒としての生活を送った」とし、教会側を有頂天にさせた。英米特にアメリカから大いに喝采され、蒋介石援助の声がいたるところで発せられた。

 

 以上の通り蒋介石政権は反教会学校運動に多大の障害を与え、教会学校側はその勢力を盛り返し、支那事変前には教会による教育活動が活発に展開された。支那事変このかた教会学校は我が皇軍の作戦や治安維持上で色々妨害的な役割を果たしている。

 最後に、支那の教会学校の最初はアメリカニズムだけではなかったが、1900年代に入り、特に1920年代前後からは露骨なアメリカニズムそのものになった。

 これは教会学校だけの問題ではなく、支那の一般官公立学校も色々とアメリカナイズされていた。

 

以上

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