2022年5月15日日曜日

「同和問題と教育」京都市崇仁国民学校長 伊東茂光

 「同和問題と教育」京都市崇仁国民学校長 伊東茂光 1943

 

 

コトバンク(デジタル版 日本人名大辞典+Plusおよび20世紀日本人名事典2004)によれば、

 

伊東茂光(いとう-しげみつ、18861966) 明治19727日生まれ。昭和411210日死去。80歳。鹿児島県出身。大正-昭和時代の教育者、弁護士。京都帝国大学法科大学〔大正6年〕卒

 

経歴1916年大正5年、京大在学中に宇治小学校の代表教員(代用教員の間違いでは)を務め、部落問題に関心を持つ。卒業後も京大附属図書館に勤めながら部落の青年らと交流した。1920年大正9年、京都市の崇仁小学校長に迎えられ、昭和212月までの約25年間在任し、部落解放教育を実践した。勤労教育、共同作業による学校園(学校農園)、職業指導のための印刷部の創設、また障害児との統合教育の試み、さらに京都市に初の学校給食を実施させるなど、部落問題が提起する教育上の課題に真っ向から取り組み、京都の「同和教育の父」といわれた。退職後の昭和22年、京都で弁護士を開業、部落差別事件を手がけ、家庭裁判所調停委員などを務めた。

 

 

感想 戦後筆者は教員を辞め1947年弁護士に転身したが、何か考えるところがあったに違いない。しかしその時筆者が何を考えていたのか、推量するしかない。

部落民や朝鮮人・満州国人に対する差別に反対していながら、皇国肯定発言の際は何ら疑いを持たないかのようだ。理解に苦しむ。

以下彼の皇国肯定発言を何か所から抜粋する。

 

御勅語の中に「億兆心ヲ一ニシテ」といふ御言葉がありますが、それにも拘らず我が日本の同胞の中に、約百五十万ばかりの非常に差別を受ける人間がある。061

 

 …例へば一年生が入学すると、その日天気が好いと大空を仰がせて

 

あさみどり澄みわたりたる大空の

廣きをおのが心ともがな

 

の御製を拝唱して、お前達もこの御製にあるような大きな人間にならなければならぬ。又大きくなって死ぬべき時には今直ちに死ななくてはいかんといふので、切腹の方法を教へます。068

 

それから競技であります。私の学校の競技の成績は、十五年前と今日とは非常な違ひがあって、以前には負けてばかり居た。今日では恐らく日本中何處へ行っても負けません。私はお前たちは日本人だぞ。しっかりやれと大いに勵まして居ります。二、三年前或る子供が京都府下大運動会で豫選の時足を挫いて泣いて帰って来た。私は石清水八幡の御守を與へてお前は兵隊さんと同じだ。跛でも宜いからやれと言ふと又スタートに着きました。ピストルが鳴ると跛どころか、猛烈に走って一等になりました。全く精神の力だと思ひます。併し家へ帰るときは跛を曳いて帰りました。070

 

…蒋介石は僅かの間にあの抗日意識を吹込んだのでありますが、私にはそれは出来ない。お前達の先祖は非常な目に遭うたぞと言って之を鞭撻したならば、まだまだ進歩すると思ひますがさういふことは國民の対立を導く因になるので、又天皇に帰一することにならぬので、子供にはさういふことは絶対に言はない。唯皇國民として立派な人間になり、大きくなったら 陛下に今すぐ命を差出せといって教へて居ります。070

 

私の学校出身者は戰死の率が非常に多いのであります。又勲章を戴く率も多い。この間も学校で競争の選手であった者が、戦地で敵に包囲された時連絡兵となって、誰がやっても巧く連絡出来なかったのを遂に成功して、金鵄勲章を師団司令部から戴いた。「貰って来ましたよ」と走って帰って来たことがあります。これでこそ吾々教育家は有難いのだと泌々感じたのであります。

 つい先日戦死した者もあります。私は此処に二、三日前に来た葉書を持って居ります。これは海軍航空隊に行って居る者でありますが、この葉書の要旨は「この前の土曜日から一人の飛行を許されました。実に嬉しい。赤ん坊がよちよち歩き出した時のやうなもので、一歩間違へば命懸けだ。併し私は愉快に、崇仁校の校歌を歌ひながらやって居ります。万一の時は私は軍人最後の名誉の死を選びます。それはあなたに誓って決して二言はありません。」私は之を見て非常に嬉しいと思って居ります。073

 

 

大意 

 

部落問題は依然として解決されていない。それは勅語「億兆心を一にして」の精神にも反する。崇仁国民学校では差別に負けない教育をしている。教育者は同和問題に真剣に取り組んでもらいたい。本校を卒業した子供は戦死する者が多い。

 

 

要旨 

 

061 明治4年に解放令が布かれたが、今部落民が150万人いる。昔部落民は中等・高等教育を受けることがほとんどできなかった。一般の人は部落民に対して優越感を持っていたが、今でもそれが残っている。日本人は朝鮮人や満州国人に対しても非常な優越感を持っているが、これは毒である。日本人が大なる犠牲を払って築く大東亜共栄圏の指導者となるには、どうしてもこの優越感を捨てなければいかんと考えます。それについて今の教育者はあまりに冷淡だ。

 先ず一番大事なことは国民全部が国体の本義に徹することである。第二は地区の産業・文化の向上、第三は優越感の絶滅。この三つに帰すると思う。今日の教育界はそれを無視している。

062 国法が発動されれば国内の大抵のことは一度に改まる。例えば去年あたりから暦に干支や九星を書くことがなくなった。厳寒暑中の見舞状にもこの頃ほとんど見かけなくなった。強力な国権を発動し、これに全教育者が協力し、前記の三つの事項を完成してもらいたい。

 大正7年の米騒動に参加した者は主に地区の人であったとして、社会課がこの問題を取り上げ、教育が必要であると議論するようになったが、私は教育家が同和教育をやってもらいたいと考えている。

 

064 私は義憤をもってこの学校の校長になった。崇仁国民学校は京都駅の東にあり、人口1万の大部落である。京都市民から最も嫌われ、最も嫌がられ、最も怖れられている。児童数は1600人で、朝鮮の子供や支那の子供もいる。私は子供が差別されるとよく喧嘩をしに行く。私を破落戸(ならずもの)とけなす馬鹿者が京都にいる。私はつかみ合いをするのではなく、議論をする。最近ある女学校で地区の学校の卒業生が非常な圧迫を受けた。「ここに臭い人が居るが誰やろ」などと言う。それは立派な坊さんの娘であった。私はその坊さんに会った。仏教、キリスト教など宗門関係の学校で差別事件が多い。

065 この戦争が始まってから一層この差別問題が多くなり、しかもだんだん悪質になってきた。

066 地区の人には他では見られない義理堅い人情味がある。小さいことでもすぐ皆団結して当たる。この間地区の者が賭博事件で警察に留置されたことがあった。これが裁判所に送られる日に、友達連中がたくさん見送りに行ったので、警察の周辺がいっぱいになった。警察は隊を組んで威しに来たと非常に憤慨した。その中の一人は私に「たとい一日の日当を棒にふっても行かねば友人同志の義理が立たぬ」と言った。

 婦人会の一人が地区の団体に紛れ込んで一緒に行列していて、知らない間は黙っていたが、その団旗を見て「これは崇仁だったのかそれで臭い」と言った。

 国民学校の成績統計を見ると他と比べて地区の成績は劣っているが、本校で1年生のときにやっている知能テストでは少しも差がない。成績が悪いのは教育環境が原因する。また教育者が敬遠しているからだ。

 地区では犯罪が多いという。なるほど数の上では多いが、地区内に木賃宿があり、そこに犯罪者などいろいろな者が流れ込んでくる。これも地区の統計に入ってしまう。万引きしていた子供を捕らえてどこの学校かと問うと「崇仁校です」と言う。「お前の顔は見たことがない。私は崇仁校の教員だが」というと逃げ出した。悪いことは全て崇仁校にしてしまう。

 

 世間の人たちは改善策として地区民を分散したらどうかというがそれは困る。ある東京の大学の先生は地区の人たちをどこかの島に移したらどうかと言われたが、これは地区民を癩病扱いするものだと非常に憤慨した。

 

068 日本の一般の人が捨てて顧みない宝、人的資源を、これを立派なものにして国家にお返しするのだ、と私どもの学校では考えている。子供は貧乏と差別の二つの難関を突破しなければならないので非常な勇猛心を必要とする。正しく強くをモットーとしている。積極的に強いのもいいが、辛抱強さも消極的に強いのだ。清水の次郎長のように、人の難儀を見たらじっとしていられない涙のある人間になれと教えている。

大空のような大きな人間になれ、大きくなったら死ぬべき時には今すぐ死ななくてはならないので、切腹の方法も教えている。本校では零下67度の寒い日にもストーブを焚かない。校庭を走り回って寒さをしのいでいる。

069 練磨第一でやっている。

 剣道では叩いて叩いて叩き潰して泣かせる。それを起こしてまた叩く。ついに子供は憤然としてかかってくる。それを何べんも繰り返すうちに必ず強い精神ができます。しかし倒れたものを打つな、自分が打ち込んだ場合には面で受けよ、と教えている。一方精神面では静座をやらせている。禅宗の公案(こうあん、禅の問答)を解くように、万一の時に迷わないように「詮議」(評議)がけをやっている。これは鹿児島の教育に倣ったものである。

子供が運動会の予選で足を挫いたとき、「お前は兵隊さんと同じだ、跛でもいいからやれ」というと、猛烈に走って一等を取った。

 

070 「お前たちの祖先は非常に悲惨な目に遭った」と言って鞭撻すればまだ伸びるかもしれないが、国民の対立を招き、天皇に帰一することにならないので、それは避けている。ただ皇国民として立派な人間になり、大きくなったら陛下に今すぐ命を差し出せと言って教えております。

 

 私の学校では「教権」を確実に護っている。どんな親が来ても絶対に負けない。中等学校以上の先生はご承知ないと思いますが、国民学校の教員を有力者や金持というような者は、まるで自分らの小使のように思っている者がいる。私はそんな者に頭を下げない。乱暴者が来ても負けない。教員が殴られたら同じくらい殴り返せ。ある時若い者があの校長生意気だ。一つ酒でいじめてやれといじめに来た。お前ら束になって来いとぐんぐん飲んだら、四升五合飲んだ。至誠にして剛直は私の生命である。

 

071 吉田熊治郎先生の教育方法論をいう本を見たが、これから殺人しようとする人を止めるとか、下駄ばき禁止の植物園に下駄を履いて来た下駄屋組合の運動会をなんとかまとめてやったが、そういう問題処理のコツは書いてなかった。

 

072 私の学校出身者は戦死の率が非常に高い。勲章を戴く率も高い。

073 先日戦死した者から手紙をもらった。「一歩間違えば命懸けだ。しかし私は愉快に崇仁校の校歌を歌いながらやっています。万一の時は私は軍人最後の名誉の死を選びます。」とあった。

 

 私がやり始めて二十三年。一年半に一人宛の割合で職員が肺病で死んで居ります。教育家は位階のことや月給の多寡など言ってはいけないと話し合っている。私どもは吉田松陰の松下村塾にも負けない意気だけは持っています。三十年後を期して差別がなくなるように皇国民として命のある限りやります。

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