買春観光反対から日本軍「慰安婦」問題解決をめざす運動まで
朝鮮(韓国)女性の闘いとの連帯から学んだもの
山口明子 2019.7.7
当初から女性解放運動に積極的に取り組んでいたのではなく、たまたま日本キリスト教協議会の事務局で働いていた時、韓国教会女性連合会から日韓のキリスト教会の指導者に宛てた一通の要請文に接したことが、運動の始まりだった。その要請文とは、「韓国教会女性連合会の訴え」1973.7.2であった。それは、韓国における日本人男性による買春旅行を即刻中止するように、日韓のキリスト教会指導者に要請していた。私が上司のN牧師の指示で、その要請文を日本の婦人委員会に送付した。
1973年7月、日韓キリスト教(教会)協議会が共催する、日韓キリスト教協会代表者会議がソウルで開かれたが、その時、韓国婦人会(韓国教会女性連合会のことか)のメンバーが、会の出席者にこの要請文を手渡してはじめて、この代表者会議は、観光客による買春問題を課題の一つにするようになった。
この代表者会議の韓国側参加者は男ばかりで、日本側の参加者も、14人中1人を除いて男ばかりだったので、代表者会議は、当初、(この一人の女性が提起した)買春観光中止の要請を取り入れなかった。052
この建物に在日韓国協会の事務局がおかれ、私も韓国語の勉強をするようになった。
1973年11月、ソウルに一週間、高橋さんと一緒に出かけ、キーセン旅行の現状を視察した。高橋さんはキリスト教婦人矯風会で買春問題を担当していた。戒厳令下で夜は通行禁止だったが、早朝、ホテルの裏口からキーセンたちが恥ずかしそうに出てくるところや、日本人男性たちが土産袋をぶら下げてわいわいとホテルの前で観光バスに乗りこむところを目撃した。そこで「キーセン観光に反対する女たちの会」を結成した。
・キーセン観光に反対する女たちの会(山口さんが「『キーセン観光』反対の歩み」を『新日本文学』に投稿したとき1976.3にも、この会は存続していた。)
1973年のクリスマスの朝、羽田で、キーセン旅行反対デモを初めて行い、一人の女性が拘束された。これは、この少し前に金浦空港で梨花女子大生がデモを行っていて、それに呼応するものだった。
この日本のデモは、T・K生の『韓国からの通信』岩波新書で取り上げられた。国外線出発ロビーで乗客にビラを手渡し始めたのだが、すぐに空港管理則違反だとして一人が空港警察に連行された。ビラの内容は「かつてその地で我々は何をしたか」というIさんのガリ版刷りのビラだった。
Tさんは、空港管理事務所と何度も交渉し、黙認で1974年5月に二度目のビラまきをした。
その間国際婦人年集会3.8や、韓国教会女性代表を囲む集会、東京湯島のキーセン・ハウス「秘苑」へのデモなどを行った。
1973年頃、日本男性によるキーセン旅行の目的地が、台湾から韓国へ移動していた。そして1974年、75年頃になると、タイやフィリピンにも出かける日本人男性が出始め、また逆に、タイやフィリピンの女性が日本に来るようになった。
・侵略差別に反対するアジア婦人会議(松井耶依(やより)、飯島愛子)
松井耶依さんはジャーナリストで、教会の運動と一般の運動とをつなげる働きをした。
60年代や70年代にウーマンリブ運動が高まり、女性差別や、アジアとの連帯を考えるようになった。そしてキーセン観光反対をテーマに、両者つまり、キリスト教関係者の運動とウーマンリブ運動とが会合を開いたことから、二つの運動が合流した。そのまとめ役をしたのが松井耶依さんだった。「アジアの女たちの会」を結成した。1977
1977年3月1日から、それまでの女性解放運動の主体が「アジア女たちの会」に移行した。金一勉氏や山谷哲夫氏の講演会を開催した。
1977.3.1 日本のキリスト教関係者も女性解放運動を支援するようになり、アジア問題に目を向け、アジアを勉強するようになり、「アジア女大学」が開設された。韓国の政治犯の妻に支援品を贈ったり、アンケートを実施したり、金イルミョン氏の講演会を開催したりした。
90年代の運動
韓国の教会女性連合会の代表二人が日本に来て、広島の韓国人犠牲者の碑を見て、今は南北が分かれているが、いつかはきっと統一できると語った。
某フィリピン人女性が、韓国人の軍人は日本によって戦地へやらされたのだと言った。戦時中、韓国人軍人が捕虜収容所の警備を担当していて、そのために韓国人軍人がBC級戦犯にされた。1952年には、それまで日本国籍だとして巣鴨プリズンに入れられていたが、出てくると今度は日本人ではないとして、補償されなかった。そこで補償問題が始まった。
1990年には、挺対協の前身団体が存在し、ユンドクさんという大統領夫人やユジョン先生が運動を担った。李先生が捕らえられたこともあった。
1991年、金学順さんが名乗り出た。元「慰安婦」が名乗り出てくるとは予想していなかった。
挺対協の創立者である尹貞玉(ユンギョオク)先生が日本に来られ、私も先生にお目にかかったが、そのとき性教育問題関係の人が彼女に応対し、それがきっかけとなって、「天皇制と性を考える会」が結成された。
1992、「日本行動ネットワーク」が結成された。
1993、「第2回アジア連帯会議」が埼玉で開催された。
韓国で元「慰安婦」に関する刑事訴訟が試みられたが、裁判所は告発状を受け取らなかった。その告発状を書いたのが、今のソウル市長の朴さんである。金スンドクさんも協力してくれた。
民事でも10件の訴訟が起こされた。「下関判決を生かす会」…
1994、国際仲裁裁判所へ提訴を試み、日本政府に呼びかけたが、日本側は応じなかった。
1995 戦時中、韓国から中国に連れて行かれ、戦争が終わっても韓国に戻れず、そのまま中国に残された元「慰安婦」の人たちの存在を初めて知った。中国では外国人(=韓国人)には、医療費がかかる。彼女は中国では武漢にいたが、ソウルにもどり、韓国籍を取った。親族は中国にいる。私は『中国に連行された朝鮮人慰安婦たち』をハングルから日本語に翻訳した。
1996 新宿で「国民基金」反対の集会・デモをした。
2000年の女性国際戦犯法廷では、朝鮮の南北分断が解消され、北の朝鮮人も、中国人で朝鮮籍の人も日本に入国できた。河床淑さんが来日した。オランダ人被害者とも面会した。
質疑応答
1940年から42年のころ、私は満州にいて、長春小学校に入学したが、「我等在満小国民」という歌を歌わされた。私の友達が牧師のお嬢さんだったので、その人からキリスト教を教えられた。(日本の学校を)卒業後の職場は、キリスト教関係団体の事務だった。
韓国人、フィリピン人と私の三人でホテルの一室に泊まったことがあったが、三人とも言葉が通じなかった。ところが、二人は父親が日本人に殺されていて、それが二人を結びつけた。二人は“Imperial Army killed my father.”と叫んで意気投合した。
70年代の韓国では、民間による外国との交流は、キリスト教関係者だけに許され、労働運動関係者には許されていなかったので、キリスト教関係者が女性解放運動を引き受けていた。労働運動関係者が外国と交流できるようになると、キリスト教関係者の存在価値は低下した。
日本の教会関係者は、韓国から人権を学んだと言える。
天皇の政治利用と謝罪の問題 韓国は謝罪を求めるが、日本の中の問題ではないか。(これは参会者の意見だったか。記憶が定かでない。)
キリスト教関係者が女性差別をしたことがある。西洋の女性は教会でオルガンを弾けなかった。一方日本のキリスト教は、神社信仰を強要し、加害者意識に気づくのが遅れた。(参会者の意見)
感想 山口明子さんの講演を聞いたり、その添付資料を読んだりしてみて、「慰安婦」問題解決のための運動の歴史は、三段階に分けられるようだ。
・1973年、韓国のキリスト教女性団体(韓国婦人会)の働きかけに基づき、女性の人権をテーマに、「キーセン観光に反対する女たちの会」を結成した。
・1977年3月1日、松井耶依さんらの働きかけで、キリスト教関係者の団体と、一般のそれまでのウーマンリブ運動とが合体して、「アジア女たちの会」が結成され、問題の対象が拡大し、韓国だけでなくアジア全体との連帯を考えるようになった。
・1991年8月14日、金学順さんが名乗り上げたころから現在に至るまで、歴史学者や弁護士も加わり、日本の戦争責任と戦後補償という問題の中で、女性の人権問題が考えられるようになった。
2019年9月4日(水)
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