「南京大虐殺」の前史としての「東京(関東)大虐殺」木野村間一郎 ノーモア南京の会、関東大震災中国人受難者を追悼する会
これは2018年11月27日、南京で行われた「『歴史・平和・発展』‐多元的な視野から見た日本の中国侵略及び南京の研究」学術シンポジウム資料である。
(1)はじめに
055 2018年9月8日、東京荒川河川敷で行われた追悼式に、韓国から2名の遺族が参加し、中国から参加した遺族5名と固く握手を交わした。
(2)日本の対外戦争と差別意識
056 日本は明治維新以後関東大震災までの間に、日清(甲午・乙未)戦争に始まり、日露戦争、第一次大戦、シベリア出兵など、殆ど10年毎に侵略戦争を体験してきた。その侵略戦争には日本全国の部隊が総力戦として動員され、国民=臣民意識が形成されてきた。
明治維新以後最初に行われた日本の日清戦争は、勝利続きの戦争でも、国際法を守った戦争でも、武士道に基づく礼儀を重んずる道徳的な戦争(『武士道』新渡戸稲造、1899年英文版)でもなかった。宣戦布告なき奇襲に始まり、手当たり次第に村々を焼き払い、圧倒的な軍事力をもって、抵抗する住民の大虐殺を繰り返した。また、現地調達という名の略奪は、すでに帝国陸軍の基本方針であった。
日清戦争には32万5千人が従軍した(当時の人口は4100万人)。日本国内では、第1軍(司令官山県有朋大将)の戦勝で日清戦争が語られるが、実は、遼東半島制圧にむけた第2軍(大山巌大将)が、後の南京大虐殺を彷彿とさせる旅順大虐殺を行ったことは語られない。この部隊は第1師団(山地中将)配下の歩兵第1旅団(乃木希典少将)以下関東の部隊を中心に構成され、他に小倉・福岡など九州の部隊も参加した。
日本は、8月1日の清国に対する宣戦布告前の7月23日、朝鮮王宮を襲撃し、朝鮮政府に清国軍駆逐依頼と兵站確保の公文を強要したが、拒否され、合意のないまま、兵站線に関わる各地で朝鮮民衆の執拗な抵抗に直面した。東学農民革命運動は1894年2月の全羅道古阜蜂起以来、朝鮮政府を追い詰め、6月には、全州和約を勝ち取っていた。日本軍は農民軍に対して鎮圧軍を出し、北は平壌から、また首都漢城(現ソウル)から南は、東、中、西路3方面に分けて攻撃し、釜山、珍島*、済州島まで追撃し、1895年2月まで虐殺を続けた。3万人から5万人といわれる大量虐殺を強行した。これに従事したのは、四国を中心とする後備兵歩兵独立第19大隊(大隊長南小四郎)などであった。
*珍島とは、韓国南西部の島で、韓国で三番目に大きな島。
1895年4月、馬関条約*で台湾、澎湖諸島等が日本に割譲されると、そのまま5月に始まった台湾侵略戦争では、1896年にかけて、北から南に全土で村々を焼き尽くし、2万民衆の大虐殺を行った。
*馬関とは下関の旧称である赤間関の俗称。赤馬関とも書かれたところからこう呼ばれた。
057 これには近衛師団、第2師団(仙台、師団長乃木希典)を中心に7万6千人が参加した。戦死者276人と少ないものの、病死者4642人、病院に収容された者2万7千人と困難な戦いであった。この戦争は1902年の帰順式におけるだまし討ちの大虐殺まで続いた。
しかし、日本国内では、こうした朝鮮、中国における住民虐殺の事実はほとんど伝えられず、日清戦争は勝利に継ぐ勝利と思い込み、国民は沸きあがり、総力戦を牽引した天皇の権威は高まった。戦争が始まると共に、義捐金献納運動が起き、戦場に大勢の従軍記者が参加し、新聞社は号外合戦で、戦場の様子を伝えた。忠勇美談が作り上げられ、芝居に、本に、錦絵になった。そして盛大な凱旋式典が行われ、各地に記念碑が建てられた。
こうして、明治維新以後最初の戦争で、国民は自らが一兵卒として戦争に参加し、国内ではそれを全国民が支え、戦場意識を共有し、朝鮮、中国に対する差別意識を拡大し、大量虐殺を当然視した。その結果、「勝利」という経験を通して、「無知で野蛮な朝鮮人、中国人と勇敢で崇高な日本兵」「遅れた朝鮮、中国とアジアの優等国日本」の「日本国民」として一体化し、天皇制国家の一員(臣民)としての帰属意識を強めていった。歴史的に畏怖を抱いてきた中国に対する感情は逆転した。この日本人の意識転換、この時の国民感情がその後の歴史の基礎を作ったといってもよい。
日清戦争の大本営は1896年4月1日の解散まで続いた。日清戦争は、甲午・乙未(丙申)戦争であり、朝鮮半島、遼東半島、台湾を蹂躙しつくし占領した戦争だった。日本は1894年11月21日旅順陥落をもって「清国恐るるに足りず」として、翌年1895年1月14日、釣魚台略奪*を閣議決定した。これは戦時体制下の決定であり、略奪というほかない。
*釣魚台とは、尖閣諸島の台湾名
日清戦争後師団が増設され、それまでの平時7個師団から1896年に平時13個師団(平時16万人、戦時54万人)にまで拡大した。第7(旭川)、第8(弘前)、第9(金沢)、第10(姫路)、第11(善通寺*)、第12(久留米)を増設。歩兵連隊は48となり、いわゆる「郷土部隊」となった。地域末端からの戦争動員体制の基礎ができたのである。
*善通寺は香川県
1899年、義和団が蜂起し、1901年、清国と諸列強11カ国との間で辛丑条約*が調印され、日本軍による中国駐留が開始されたが、このことはその後重要な意味をもった。
*北京議定書
058 日露戦争で日本軍戦死者8万4千人、戦傷者14万3千人(ロシア軍戦死者5万人、戦傷者22万人)を出した。東京歩兵第1連隊は第2軍として金州南山*の激戦で戦死者が相次ぎ、その後第3軍(司令官・乃木希典)に編入され、旅順攻略で7ヶ月に渡る大苦戦し、大量の戦死者を出した。日本国内では勝利と言われたものの、兵士の実感はそうではなかった。
*金州南山とは遼東半島・金州城の南近郊の南山というところ。ここで1904年に日露戦争が行われ、日本側は、総兵力の10%を超える兵員を失った。
日露戦争の鬱積した不満は、講和条約に対する日比谷焼き討ち事件として爆発した。
朝鮮では、日露戦争の最中に、1904年第一次日韓協約、1905年第二次日韓協約(韓国保護条約)、1907年第三次日韓協約が締結され、ついに1910年韓国併合となった。
日本は1905年1月、ロシアバルチック艦隊との日本海海戦のために、独島の日本編入を閣議決定した。
1911年辛亥革命が起き、1915年、第一次大戦を横目に、対華21か条要求を押し付けた。
台湾も理蕃事業5ヵ年計画*に対する抵抗闘争が激化し、1915年、西来庵事件*が起きた。
*理蕃事業5ヵ年計画 山岳先住民族=「蕃地に住む蕃人」に対する政策。第4代総督・児玉源太郎は「野生禽獣に斉しい蕃人は、誘導などの緩慢な手段でなく、いきおい絶滅させる」という政策を構想したが、第5代総督佐久間左馬太は五ヵ年理蕃計画を立て、蕃人を帰順させ、利用しようとする方策を取った。
*西来庵事件 1915年、台南庁の噍吧哖(タパニー、現・玉井)で起こった武装蜂起に対してジェノサイド的弾圧が行われたが、その後も地下運動が日本の敗戦まで続いた。
第一世界大戦では、1914年9月、山東半島上陸、11月、青島陥落、日本国内では提灯行列が行われたが、「工業のために犠牲になった女工の数は、日露戦争の死傷者数に匹敵するほど多い」と言われるほど、貧困と都市問題が発生し、農村の疲弊も進んだ。
1917年ロシア革命に対して、1918年シベリア出兵(1922年までに7万3千人を派兵)を起こすが、3500名の死者を出す。1920年の尼港事件*では700人の死亡者と120人余の捕虜を出した。
*尼港事件 1920年3月から5月にかけてアムール川河口ニコラエフスク(尼港)で発生。2月、尼港を占領中の日本軍は、ソ連軍の攻撃を受け降伏し、将兵と居留民は捕虜となった。5月25日、日本側が反撃すると、ソ連側は351名の将兵、副領事を含む383名の日本居留民を殺害し、市内を焼き払って逃亡した。ソ連は事件責任者を死刑にした。日本はソ連が責任を認めないので、交渉相手国不在を理由に、北樺太サガレン州の主要地点を保障占領したが、1925年、日ソ基本条約付属公文で、ソ連が遺憾の意を表明したため、日本側は保障占領を解除した。(コトバンク)
かくして日本社会は、常に臨戦態勢の下に、10年毎に朝鮮人、中国人を虐殺し続け、10歳ごとに侵略戦争を体験・記憶し、朝鮮人・中国人に対する差別意識・排外意識と虐殺の経験を蓄積してきた。
(3)戒厳令及び軍隊の動きと民衆動員
軍・警察がまず流言を流し、あるいは意図的に流言を利用・拡大し、次には虐殺の模範を示し、虐殺をそそのかし、そして今度は9月4日に、自警団取締令を出し、自警団を取り締まるそぶりを見せて、自らの責任を回避しようとした。
大虐殺は戒厳令の下で行われ、家族、地域、国家挙げてのものとなり、将来の国民総動員への転換点となった。
戒厳令は、軍事独裁である。戒厳令は、擬似戦時体制を作り出し、憲法を停止し、議会を破壊し、国民の権利を大幅に制限する。
日本の戒厳令は、1882年、軍人勅諭、徴発令とともに制定され、1889年、憲法第4条で「天皇が戒厳を宣告す」とされた。
戒厳令には二種あり、軍事戒厳の宣告と行政戒厳とがあるようだ。
前者は日清戦争中に1件、日露戦争中に6件行われ、これは臨戦地境(戦時もしくは事変に際し警戒すべき地方を区画)としての戒厳宣言であり、後者は、その後行われたもので、国内の特定地域における緊急の軍事的制圧を目的としたもので、これは3度宣告された。第1回は1905年9月6日で、講和条約反対・日比谷焼討事件、即ち9・5民衆暴動である。第2回は、関東大震災、第3回は2・26事件である。
日比谷焼討事件を契機として、軍隊は、対外的なものではなく、国民民衆に対する治安部隊としての性格を露骨にし始めた。また1918年、米騒動の時には戒厳令は宣告されなかったが、軍隊は各地で治安活動に当たり、民衆に発砲し、殺傷事件を起こした。
関東大震災時の戒厳宣言は、山本内閣成立直前に、枢密院の諮詢を経ることなく緊急勅令によってなされ、手続き上違法性がある。これまでに戒厳令がなくても弾圧を担ってきた官僚と軍隊は、すでに動いていた。
9月1日、災害が起こると、東京衛戍(じゅ)司令官代理・陸軍中将・石光真臣(まおみ)第1師団長は、直ちに近衛師団(師団長・騎兵陸軍中将・森岡守成(もりしげ)・東京)と、第1師団に、全都の警備に当たらせた。在京部隊だけでは処理できなかったので、陸軍当局は、憲兵隊(憲兵司令官・陸軍少将小泉六一)に補助憲兵を増加し、当面、東京以外に駐屯していた部隊を招致し、森岡の指揮下に編入した。
9月2日、戒厳宣言がなされ、東京市とその周辺の5郡に戒厳令第9条と第14条が布告された。
060 3日、東京府と神奈川県に戒厳地境を拡大し、関東戒厳司令部を特設し、軍事参事官・陸軍大将・福田雅太郎を戒厳司令官に任用した。
4日、埼玉・千葉両県に布告を拡大した。
2日、治安当局中枢部の内務省警保局長が、「朝鮮人が暴動を起こした」と認定した。
さらに軍隊が増派された。第13師団(井戸川辰三・仙台)、第14師団(長坂研介・仙台)、第8師団(小野寺重太郎・弘前)、第9師団(星野庄三郎・金沢)、第13師団と第14師団の工兵大隊である。
大江志乃夫『戒厳令』岩波新書1978によれば、この「戦時特命の軍司令官要員である軍事参事官(福田雅太郎)を戒厳司令官に任用したことは、隷下の軍隊に戦時気分を高揚させた。」
福田は第14条による人権制限を決定し、その「第4項、各要所に検問所を設け、通行人の、時勢に妨害ありと認める者の出入禁止、又は時機により水陸の通路停止」を拡大解釈し、告諭を発し、「この際、地方諸団体及び一般人士もまた極力自衛協同の実を発して、災害の防止に努められんことを望む」とし、軍隊・警察の下に自警団を取り込み、朝鮮人・中国人・社会主義者に対する検問・拘留の根拠とした。
内務省は米騒動のときにすでに暴動対策として、各市町村に、在郷軍人分会と青年会を中心に自警組織をつくるよう行政指導していたが、関東大震災時には、自然発生的なものも含め、自警団が膨大に組織された。
9月3日、関東戒厳司令官の福田は、戒厳地域を、東京北部(近衛師団など)、東京南部(第1師団など)、神奈川、小田原の4警備地区に分けて軍隊を配置し、結局、9月10日までに配置された部隊は、東京憲兵隊、歩兵59大隊、騎兵6連隊、砲兵6連隊、騎砲兵1大隊で、計人員5万2000人、馬9700頭であった。
軍隊による兵器使用が解禁され、軍隊による検問、令状なしの検察、自警団への指導がなされ、軍による虐殺もあった。
第1師団騎兵第16連隊の見習士官越中谷利一は、所属する習志野騎兵連隊が出動したとき、「戦時気分で無差別に列車を検察し、朝鮮人を拘引し、兵器で大量の虐殺をした」と回想している。(『現代史資料6』)
日本政府・安倍晋三政権は「記録が見当たらない」としているが、軍隊による武器の使用があったとする資料が残されている。関東戒厳司令部詳報第三巻第四章第三節付録付表「震災後警備のため兵器を使用せる事件調査表」によれば、「第1師団の野戦重砲第1連隊と近衛師団騎兵第14連隊」(野重1の岩波清貞少尉以下69名と騎14の三浦孝三少尉以下11名)は、群衆及び警官4、50名が連行した朝鮮人200名を全部殺害した。ただし、この朝鮮人は中国人だった可能性があるが、軍隊側は「朝鮮人と確信している」と、中国人であることを知りつつ、国際問題になることを恐れて、事実を隠蔽しようとした。
061 このように軍隊の出動は、民衆を、不安や恐怖から朝鮮人・中国人虐殺へと向かわせる役割を果たした。戒厳令布告は、市民を悉く敵前勤務の心理状態にし、「天下晴れての人殺し」の意味を持った。巡査は「朝鮮人と見れば打ち殺してもよい」と告げ、民衆は「朝鮮人を捕らえれば、金鵄勲章をもらえる」と思い込んでいた。
つまり、戦場心理と、国家(天皇)の名による敵殲滅と、報償とが一体化していたのだ。さらに朝鮮民衆の3・1独立運動に対する弾圧を思い出し、それが虐殺に転化し、「正義としての敵殲滅=虐殺」を引き起こした。戒厳令による「今回の震災による戒厳を、事変による戒厳と看做し、かつその戒厳区域を臨戦地境と看做し、敵国が国内に乱入したような」(津野田少将(藤井忠俊『在郷軍人会』岩波書店2009))状況が生じた。
この戒厳令を推進したのが、警視総監赤池濃と内務大臣水野錬太郎のコンビであった。水野は1918年の米騒動時の内相で、1919年には朝鮮総督府政務総監であり、このとき赤家は朝鮮総督府警務局長であり、二人そろって3・1独立運動を弾圧していた。
関東大震災時の第1師団長で衛戍司令官代行の石光真臣は、米騒動時の憲兵司令官であり、1919年には朝鮮憲兵司令官であった。
062 1919年9月2日、斉藤実は朝鮮総督として着任したが、南大門駅(現ソウル駅)で独立運動家姜宇奎に爆弾を投げつけられ、水野もこのとき現場にいた。現在、姜宇奎の銅像がソウル駅前にある。一方東京駅丸の内駅前広場には、巣鴨拘置所の教誨師であった田嶋高純らによる、BC級戦犯を追悼する「愛(アガペー)の像」がある。
(4)在郷軍人会並びに自警団、青年団
日本の古くからの五人組は、相互扶助が謳われていたが、実は領主の命令で組織された隣保制度であり、連帯責任、相互監視を本質とする。戦時体制は、人権を制限するから、治安当局の補助機関として下から支える組織が必要とされる。それが、国防婦人会、在郷軍人会、町内会である。
山田昭次は『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後』創史社、2011の中で、自警団の発生経緯を次の四つに分類した。第一に夜警団から生じた自警団、第二に、最初から朝鮮人対策の自警団としてスタートした自警団。第三に、官憲の命令でつくられた自警団。第四に、警察署が下請けの治安組織として有力者を介して町会を組織してつくった自警団である。
いずれも地域の有力者を中心とするものであり、自然発生的ではなく、愛国精神=臣民意識を中心とした治安補助機関である。
在郷軍人会は1910年に作られた。帝国在郷軍人会は、退役軍人の共済会ではない。満20歳になると徴兵される。3年間の現役を退役後、4年4ヶ月の予備役、10年の後備役が義務づけられ、その間、勤務演習、簡閲点呼等軍事的義務を課され、一方で、連隊区司令部=市町村役場兵事掛、在郷軍人会等を通じて、日常的な監視・監督の下に置かれ、戦時は召集されることがある。補充兵(現役選抜にもれた者)は、現役に欠員が生じたとき、および戦時に召集される。服役年限は、12年4ヶ月。
在郷軍人とは、この予備役・後備役・補充兵役にある者と、40歳までの国民兵役の者のことである。(藤井忠俊「関東大震災と在郷軍人会」季刊『現代史』9号1978)
田中義一は、総力戦体制構築を常に念頭に置き、日露戦争の教訓から、予備役、後備役の役目に目をつけ、在郷軍人を重視していた。
063 在郷軍人会は、平時に常時組織され、軍の統制下にあり、訓練されなければならない。そのために全国市町村に分会をつくり、青年会との関係も重視し、青年団と在郷軍人会とが直結した。
米騒動や20年代の社会運動のとき、在郷軍人会に動揺が起こったが、このとき、関東大震災が起こり、それ以前に青年団、現役、在郷軍人会として40歳までの男が、日常的に軍の支配下に置かれていたことの意味は大きい。
関東大震災時に、在郷軍人会は、警察の次の、軍を支える組織となり、自警団が総力戦体制を地域から支えるための中核組織となった。
清浦内閣から、加藤内閣、若槻内閣を通して陸相を勤めた宇垣一成は、関東大震災から教訓を得て、20余万の現役軍人、300余万の在郷軍人、5、60万人の中上級学生、千余万の青少年を軍部が掌握するという組織化を考えた。(『宇垣一成日記』1925)
地域の監視体制のもと、男は自警団に駆り出され、女は銃後を守り、子供は目の前で虐殺を目にして育った。こうして地域防衛、生活防衛、国防意識が一体化し、差別排外意識が根を張った。
(5)ファシズムへの転換点としての関東大震災(国民=臣民意識の動揺と再統合)
日清戦争の「勝利」に日本国民は興奮したが、日露戦争、シベリア出兵で、兵士は疲弊し、軍人に対する畏敬の念は衰退し、「国民=皇国臣民意識」は揺らぎ始めた。
明治政府は危機のたびに天皇制イデオロギーを国民統合の手段に用いた。大日本帝国憲法発布の翌年、1890年、教育勅語を出し、日露戦争後の1908年、戊申詔書*を出し、「社会主義のような危険思想」への接近を戒め、天皇主義の下での「国民の精神生活」を指導した。また関東大震災後、19223年11月10日、「国民精神作興に関する詔書」*を出し、思想統制を強めた。
*戊申詔書は国民道徳の標準を示し、その後、地方改良運動が始まった。「上下心を一にし、忠実業に服し、勤倹産を治め、惟れ信惟れ義、醇厚俗を成し、華を去り、実に就き、荒怠相戒め、自彊息まざるべし」
*「国民精神作興に関する詔書」は個人主義、民主主義、社会主義の台頭に対処するために出された。
「朕惟うに国家興隆の本は国民の精神の剛健に在り、之を涵養し之を振作して、以て国本を固くせざるべからず。是を以て先帝、意を教育に留めせられ、国体に基づき淵源に遡り皇祖皇宗の遺訓を掲げて、その大綱を昭示したまい、後また臣民に詔して、忠実勤倹を勤め、信義の訓を申ねて、荒怠の誠を垂れたまえり。…」
1918年、米騒動が起き、普選運動、労働運動、農民運動、共産主義運動、部落解放運動が展開され、1923年の春、三悪法(過激社会運動取締法案・労働組合法案・小作争議調停法案)反対運動となった。
1919年、朝鮮では3・1独立蜂起、中国では、5・4運動や日貨排斥運動が起こった。
064 1920年代、朝鮮での産米増産計画のため、朝鮮人の日本への渡航者が増え、戦後恐慌で失業者も増えた。日本人労働者は朝鮮人や中国人に仕事を奪われるのではないかと畏れ、それが震災時の虐殺につながった。
東京の亀戸・大島に多くの虐殺が集中したのは、この地域に多くの朝鮮人・中国人が住み、社会主義的労働運動の拠点と当局に目をつけられていたからだった。
1920年、日本で最初のメーデーが行われ、1921年、神戸市にある川崎造船所3工場と三菱3社の労働者3万人による大争議*に発展したが、資本・権力が弾圧した。
*川崎・三菱神戸造船所大争議は、第二次大戦前の日本最大のストライキ。
1921年10月、日本農民組合が成立し、1922年、全国水平社が創立され、また日本共産党が秘密裏に結成された。
メーデーでは日朝労働者の団結が始まり、コミンテルンの影響もあった。
植民地支配を必須と考えていた支配階級は、日朝、日中の労働者の団結は脅威であり、「国民=天皇の軍隊」よりも「労働者の国際連帯」が意識されるようになることを恐れていた。このような状況の中で発生した関東大震災時に、朝鮮人や中国人の大虐殺と、社会主義者の虐殺が行われ、日朝・日中労働者の連携をつぶした。関東大震災は支配層にとって、戦争へ向けた統治体制への転換点となった。
9月1日前後は内務省と警察にとって警戒を要する状況にあった。
第一に、8月23日、加藤友三郎首相が病死し、26日、内閣総辞職、28日、山本権兵衛に組閣の大命降下という政情不安があった。
第二に、日本共産青年同盟が、9月第一日曜日(9月2日)の国際青年デーを準備しており、さらに8月29日が日韓併合の屈辱の日にあたり、内務省は「一派の者が二百十日(9月1日)前後に不穏計画を実行せんとする」と警戒していた。
第三に、9月1日に山本が組閣を完了し、親任式を行う予定で、赤坂離宮にいた摂政裕仁は、宮城に向かい、親任式後、箱根に避暑に行く予定であった。そのため摂政の行還啓に伴う沿道の警備のため、要視察人の予防検束が予定されていた。
関東大震災のあった、1923年のメーデーでは「植民地の解放」を取り上げることが決定されていたが、当日、官憲の弾圧でつぶされ、日本人社会主義者70名、朝鮮人労働者50名、日本人労働者150名が検束された。当局にとって朝鮮における抗日独立運動、中国の反日運動、日本の労働運動の高揚と連帯は、破壊しなければならない対象となっていた。
065 日本の民衆運動は、関東大震災で大虐殺に動員され、民族排外主義に屈してしまった。
(6)関東大震災大虐殺から南京大虐殺へ
1924年5月、当時の清浦内閣は関東大震災時の中国人虐殺に関する賠償を決定し、1925年6月、中国との交渉に入ったが、「時局のため」中断した。
1925年、社会運動取締のために、治安維持法が成立した。
1926年、日本国内の内政が混乱し、年末に天皇が代替わりし、1927年、若槻礼次郎内閣が倒れ、1927年4月、陸軍大将だった田中義一内閣が誕生した。
田中義一は、一貫して国民総動員体制の構築を考え、「国民を国家の政策に動員し、強固な国家への支持を取り付け」「この難局を打開するためには、国家の総動員をなして、生産の増加を計り、内は生活の安定を得、外は国運の発展を求め」、「この意味を国民がよく了解し、初めて経済、産業、教育、その他、あらゆる事項に努力し、国家観念・皇室観念が王制となる」と考えていた。
田中は外相を兼任し、外務政務次官は、幣原外交を批判してきた、徹底的な帝国主義者の森恪(つとむ)であり、内務大臣は、大日本国粋会顧問の鈴木喜三郎であった。
1927年5月、第一次三東出兵、
1928年4月、第二次三東出兵、斉南事件、
1928年5月、第三次山東出兵、
1928年6月、張作爆殺事件、
1931年9月、9・18事件、
以後、昭和の天皇制ファシズムの時代へ進んだ。
関東大震災の朝鮮人・中国人虐殺に関する現日本政府の答弁書は、一貫して「資料がない」と事実を覆い隠そうとしている。資料は沢山あるし、政府の防災会議のホームページには、大虐殺を調査している研究者の資料を紹介している。日本政府は「あって欲しくないことは、なかったことにする」という態度である。
かつての政府は隠蔽工作をしていた。中国人虐殺に関して、1923年11月7日、五大臣会議(総理山本権兵衛、内務後藤新平、外務伊集院彦吉、司法平沼騏一郎、陸軍田中義一)によって隠蔽された政府資料(11月8日亜細亜局長口述『王希天問題及び大島町事件善後策決定の顛末』)に示されている。
066 現在、東京都都知事小池百合子は、右翼の排外主義的な言動と呼応し、昨年2017から関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式への追悼文送付を取りやめ、関東大震災時の朝鮮人虐殺の歴史を曖昧にし、否定しようとしている。日本では、アパホテルのように南京大虐殺を否定する動きは止まず、2018年10月の安倍改造内閣の柴山昌彦文科相のように、教育勅語を賛美する政治家が絶えない。
以上 2019年9月30日(月)
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