「『キーセン観光』反対の歩み」 山口明子 『新日本文学』1976.3
052 孔・徳貴女史のいのり
「主よ、今日、我々も生きねばなりません。花のように美しい若い娘の身体を売って生きのびるよりは死ぬほうがましです。でも、生きねばなりません。再び、日本人の奴隷となるよりは、死ぬほうがましです。でも、私たちは生きなければなりません。若い娘たち(梨花大学生)の歌のように、『ひざを屈めて生きるよりは、立って死ぬほうが望ましい』のです。でも、私たちは死んではいけないのです。民族は永遠です。だから、私たちは叫ぶのです…。」
053 上司のN牧師が韓国の日韓キリスト教協会代表者会議1973.7から預かってきた、日本の教会婦人に宛てた手紙には次のように書かれていた。
「韓国の150万キリスト者女性は、日本男性が韓国女性を『性の奴隷』としていることを憂慮し…経済的優越のゆえに、自らの欲望を満足させようとする人々が、人間の尊厳を破壊しています…」
ところがN牧師の認識は次の程度だった。「日本の奥さんたちに『我々のテイシュたちを誘惑しないでください』という声明でも出してくれというわけかな?」
私たち日韓キリスト教婦人会は、アジアの民衆との交流を目指す方々から、「生活の心配がない日本女性の潔癖感と倫理観に基づく反対運動に、向こう側(韓国側)の上流階級の子女が甘えて本質的なものから目をそらしてしまった」と批判されたが、韓国側が、力ない小さい者(少女)を犠牲にして経済成長を計り、日本側は、それを食い物にして経済侵略を肥大化するというシステムを批判しなければならないと私たちは認識していた。そして、買春ということばに眉をひそめるいわゆる上流婦人たちは、いずれの運動の主体にもならなかった。
1973年度の韓国の観光収入は2億6900万ドルで、韓国が同年度に輸入した石油の金額2億9000万ドルとほぼ同額であった。そして、観光客の6割が日本人の男だった。055
韓国には買春禁止法があったが、名ばかりだった。
054 少女たちは「観光料亭(キーセン・ハウス)従業員証」を持ち、それを持っていればホテルの客室に自由に出入できた。2000名が「観光料亭従業員証」を所持していたと言われるが、さらに、東亜日報記者は、外国人観光客の相手をするインスタント・ホステス等の人数が、8000名を越えると推定している。
055 1973年11月、私とTさんが、ソウルへ1週間の視察旅行をした時、声明文1973.7.2を出した韓国教会女性連合会の人々と会い、日本でのそれまでの活動――国際旅行業協会(JATA)と交通公社への抗議、観光労連との協力、資料の収集等――について伝え、いっしょに韓国観光協会(KATA)事務所を訪問した。
私たちが持参した観光案内のパンフレットには、観光料亭の所在地、女の子の年齢、顔写真までがそえられていて、それを見た韓国人の若い男性記者の眼差しが、憤りに燃えているのを私は見た。
また、私たちがソウルに滞在中に開かれた、韓国教会協議会主催の人権協議会は、「人権宣言」1973.11.24を採択し、その一項で「女性の人権」を取り上げ、「観光振興の名のもとに行われるキーセン観光を即時中止せよ」と訴えた。
1974年8月15日、朴大統領夫人が狙撃され、その後反日デモが行われ、運輸省は観光旅行自粛令を出し、一時的にキーセン観光は下火になったが、運輸省はすぐ1975.3自粛令を解除し、もとに戻った。
1973年以後10年間にわたる済州島観光開発計画は、日韓政府の共同事業の感を呈した。
056 観光産業には、政治・経済の国際的なつながりがあることを感じた。
運輸省は、建前上は買春斡旋禁止の通達を出していたが、旅行業者の利益を本質的に損ねることはなかった。
しかし、山陰の婦人が、船によるキーセン旅行を取りやめさせたことは、宣伝とイメージの力かもしれない。
1975年後半の運動は低迷した。「売春問題を取り組む会」は着実に活動していたが、いくつかの集団の合成体である「女たちの会」は、「性侵略を告発する」というパンフレットを作成した後は、うまく活動ができなった。
活動した人は、入管体制のアジア蔑視や、なぜ女だけが売春婦だとして責められるのかという性差別問題などを問題意識にしたが、キーセン観光は、それらをつなぐ結節点だったと思う。
057 日韓閣僚会議反対、外人登録法上程反対、東亜日報への支援、公害輸出反対グループとの交流などの取り組みもあるが、やはりキーセン観光旅行を問題視し続けたい。また、倫理観をもとにする運動の弱さを指摘されるが、やはり倫理観を大切にして運動を続けたい。キーセン観光旅行は「侵略行為」だ。
2019年9月3日(火)
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