戦時においても人道的配慮を求める国際法の歴史
赤十字条約 元治元年(1864年)8月22日ジュネーブで署名
明治19年(1886年)6月5日(日本国は)加入書寄託
締約国と加入日 中国1904.6.29 日本1886.6.5
第5条 負傷者救助民の中立 負傷者を救助する土地の住民は侵すことを得ず。これをしてその自由を得せしめざるべからず。
交戦国の将官は住民に慈善の挙を慫慂し、かつ慈善の挙に依って、局外中立たるの資格を有することを得べき旨を予告するの責あるものとす。
家屋内に負傷者を接受しこれを看護する時は、その家屋を侵すことを得ず。また自己の家屋に負傷者を接受する者は、戦時課税の一部を免れ、かつその家屋を軍隊の宿舎に供用することを免るべし。
第6条 傷病者の看護 負傷し又は疾病に罹りたる軍人は、何国の属籍たるを論せず、これを接受し看護すべし。
司令長官は戦闘中に負傷したる兵士を速やかに敵軍の前哨に送致することを得。ただし右はその時の状勢においてこれを送致することを得べく、かつ両軍の協議を経たる場合に限るものとす。
治療後兵役に堪えずと認めたる者はその本国に送還すべし。
またその他の者といえども、戦争中再び兵器を帯びざる旨盟約したる者はその本国に送還すべし。
(これは戦争忌避者は忌避できるということではないか)
感想 日本は、日中戦争における三光作戦(殺しつくす、焼き尽くす、奪いつくす)で、中国の軍人や民衆をどう扱ったか。日本の司令官は国際法を知っていながら、それを無視するように命令していた。
日清戦争1894.8.1—1895.4.17
陸戦の法規慣例に関する条約(1899年)
明治32年(1899年)7月29日ヘーグで署名
明治33年(1900年)9月3日批准
日本国も参加している。
前文(マルテンス条項)
平和を維持して諸国間の戦闘を制止するの方法を講ずると同時に、その所願に反して万避くること能ざる事変のために、兵力に訴うることあるべき場合を予想するの必要なることを察し、斯くの如き非常なる場合においても、尚よく人類の福利と文明の駸々止むことなき需要とに副わんことを希望し、これがため、戦闘に関する一般の法則慣例は一層精確ならしむるを目的とし、または、なるべく戦闘の惨苦を減殺すべき制限を設くるを目的として、これを修正するの必要を認め、25年前、すなわち1874年、比律悉会議*の当時に於けるが如く、今日もまた賢明慈仁なる先見より出でたる前記の目的を体し、陸戦慣習を明確に規定するを目的とする許多の条規を採用せり。
締盟国の所見にては、右条規は軍事上の必要と相容るる限り、努めて戦闘の惨害を軽減するの希望に出でたる成案にして、交戦国相互間並びに人民との関係に於ける交戦国の行動の準則たるべきものとす。
実際に発生する一切の場合に、普く適用すべき規定を今より予め協定しおくこと能わずといえども、明文なきの故を以て総て規定なき場合を挙げて軍司令官の擅(せん)断に放任するは、締盟国の意思にあらず。締盟国は、一層完備したる戦闘法典の編纂せらるるに至るまでは、その採用したる条規に漏れたる場合においては、人民及び交戦者が、従来文明国民の間に存立する慣習、人情の原理並びに公共良心の要求より生ずる万民法の原則に依りて、保護せられ、且これに服従すべきものと宣言するを以て適当と認む。
条約付属書 陸戦の法規慣例に関する規則
第4条 俘虜の取扱 俘虜は敵国政府の権内に属し、これを捕獲したる個人又は軍団の権内に属することなし。(捕虜を恣意的に扱ってはならないということだ。)
俘虜は博愛の心を以てこれを取り扱うべきものとす。
兵器馬匹及び軍用書類を除き、およそ俘虜の一身に属するものは依然その所有たるべし。
第6条 使役 国家は俘虜をその階級及び技能に応じて労務者として使役することを得。ただし、その労務は過度なるべからず、また一切作戦動作に関係を有すべからず。(戦争目的に使ってはならないということだ。)
俘虜は公衙(こうが=役所)一個人(一個の公務員として)又は自己のために労務することを許可せらるることあるべし。
(敵国の)国家の為にする労務は、内国陸軍軍人の同一労務に使役する場合に適用すると同一の割合にて、賃金を支給すべし。
俘虜の賃金は、その境遇の艱苦を軽減する用に供し、剰余はその解放のときこれを交付す。ただし、その中より給養の費用を控除すべし。
第13条 軍の一部でない従軍者 新聞通信員および探訪者酒保用達人等のごとき、直接に軍の一部をなさざる従軍者にして、敵の構内に陥るところとなり、敵においてこれを抑留するを有益なりと認むるときは、その所属陸軍官衙の証認状を携帯する者にかぎり、俘虜の取扱を受くるの権利を有す。
*比律悉はブリュッセル。以下「国際人道法ノート」(1)(樋口一彦、琉球大学第86号036—041)より
1874年のブリュッセル宣言は、包括的な陸戦法の最初の条約作成である。15カ国が、ロシア皇帝の提唱でブリュッセルに集まり、ブリュッセル宣言が作成されたが、すべての政府がこれを拘束ある条約として受け入れるに至らず、批准されなかった。会議の開催期間は1874.7.27—8.27である。
1899年のハーグ平和会議では、このブリュッセル宣言の改訂と、条約としての発効が試みられた。軍備制限の検討、新兵器の禁止・制限*、1864年ジュネーブ条約規定の海戦への適用、紛争の平和的解決手段の利用などとともに、「1874年にブリュッセル会議で作成されたが批准されなかった戦争の法規及び慣習に関する宣言の改定」が、この1899年会議の討議題目とされた。
*1899 年会議においても、1874 年ブリュッセル会議と同様に、戦闘員の資格問題について対立が生じた。これを妥協に導くために小委員会議長 Martens が、明文の規定がない場合でも人民及び交戦者は国際法の諸原則の下におかれる旨の宣言を提案した。これが条約前文に取り入れられ、「マルテンス条項」と呼ばれるようになる。
この1899 年会議では、戦争法についてブリュッセル宣言を改訂した陸戦条約のほか、ジュネーヴ条約諸原則海戦適用条約及び三つの宣言(「軽気球上より及び之に類似したる他の方法に依り投射物及び爆裂物を投下することを五箇年間禁止する宣言」、「窒息性ガスに関する宣言」、「開展弾丸に関する宣言」)が作成された。
アメリカの主導で1907年に開催された第二回ハーグ会議においては、1899 年の陸戦条約が若干の修正を受けて、1907年陸戦条約となったほか、戦争法・中立法(「開戦条約」「陸戦中立条約」「開戦敵商船取扱条約」「商船軍艦変更条約」「自動触発水雷敷設条約」「戦時海軍力砲撃条約」「ジュネーヴ条約諸原則海戦適用条約」「海戦捕獲権行使制限条約」「国際捕獲審検所設置条約」「海戦中立条約」「軽気球上より投射物及び爆裂物を投下することを禁止する宣言」)に関する諸条約・宣言が作成された。
繰り返しになるが、1907年、アメリカの主導で開催された第二回ハーグ会議において、1899年の陸戦条約が若干修正され、1907年陸戦条約となった。そして1929年に更に改訂条約がつくられた。(傷病者状態改善条約)また1929年にはこの同じジュネーブ会議で捕虜条約が作成された。
(補足)1864年、セント・ピータスブルグ宣言(サンクト・ペテルブルグ宣言)が作成された。
(参考)戦場における合衆国軍隊の統制のための訓令一般命令 100 号 陸軍省軍務局 ワシントン
1863 年 4 月 24日
第 16 条〔軍事的必要によって認められない行為〕
軍事的必要は、残虐行為を認めない。即ち、苦痛のための苦痛や報復のための苦痛を与えることを認めない。戦闘外での傷害行為を認めない。自白を強要するための拷問を認めない。軍事的必要は、いかなる方法でも、毒の使用を認めない。ある区域の恣意的破壊を認めない。軍事的必要は、奇計を許すが、背信行為を否認する。そして、一般的に、軍事的必要は、平和への復帰を不必要に困難にさせるような敵対行為を、何ら含むものではない。
以上「国際人道法ノート」(1)(樋口一彦、琉球大学第86号036—041)より
(参考)ジュネーヴ議定書 (1925年) 「窒息性ガス、毒性ガス又はこれらに類するガス及び細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書」 通称・略称 毒ガス等使用禁止に関するジュネーヴ議定書 署名 1925年6月17日(ジュネーヴ) 効力発生 1928年2月8日
日本での条約番号 昭和45年(1970年)5月21日条約第4号 (戦前は批准しなかった、だから中国で毒ガスをふんだんに使ったことが許されるというのか。しかし、日本の代表松川道一はこれに出席し、署名していた。)
「窒息性ガス、毒性ガスまたはこれらに類するガス及びこれらと類似の総ての液体、物質又は考案を戦争に使用することが、文明世界の世論によって正当にも非難されているので、
前記の使用の禁止が、世界の大多数の国が当事国である諸条約中に宣言されているので、
この禁止が、諸国の良心及び行動をひとしく拘束する国際法の一部として広く受諾されるために、
次のとおり宣言する。
締約国は、前記の使用を禁止する条約の当事国となっていない限り、この禁止を受諾し、かつ、この禁止を細菌学的戦争手段の使用についても適用すること、及びこの宣言の文言に従って相互に拘束されることに同意する。」
日露戦争 1904.2.8—1905.9.5
戦地軍隊に於ける傷者及び病者の状態改善に関する条約
明治39年(1906年)7月6日ジュネーブで署名
明治41年(1908年)3月9日批准
第1条 傷病者の待遇 軍人及び軍隊に付属するその他の人員にして負傷し又は疾病に罹りたる者は、国籍の如何を問わず、これをその権内に収容したる交戦者において、尊重看護すべきものとす。
戦地軍隊における傷者及び病者の状態改善に関する1929年7月27日のジュネーブ条約(赤十字条約(1929年))
昭和4年(1929年)7月27日ジュネーブで署名
昭和9年(1934年)10月26日批准
中華民国国民政府、日本国も条約締結に参加している。
第5条 住民による傷病者の看護 軍事官憲はその監督の下に両軍の傷者または病者を収容看護せしむるため、住民の慈恵心に訴ふることを得べく、これに応じたる者には特別の保護及び一定の便宜を与ふるものとす。
第9条 衛生人員の保護 傷者および病者の収容、輸送および治療並びに衛生上の部隊および営造物の事務に専ら従事する人員並びに軍隊付属の教法者は、如何なる場合においても尊重かつ保護せらるべし。これらの者は敵手に陥りたるときといえども、俘虜として取り扱わるることなかるべし。
第10条 篤志救恤協会 本国政府が適法に認可したる篤志救恤協会の人員にして、第9条第1項に掲げたる人員と同一の職務に使用せらるるものは、該項に掲げたる人員と同一に看做さるべし。ただし、該協会の人員は、軍の法令に服従すべきものとす。
満州事変 1931.9.18
感想 上記戦時における俘虜に関する条約を一瞥してみると、どんなに戦争し、敵対する敵国同士であるとはいえ、捕虜を大事にし、人道的に扱って下さいよ、このことはお互いに守ろうよ、という紳士的な協定だったという感を深くする。
この精神が、早くも19世紀からヨーロッパの標準的な発想であった。それは戦いを繰り返した後の知恵かもしれない。そして最後には不戦条約1928.8.27にまで至る。立派なことではないか。
ところが日本の明治以降の政府・軍人は、これらの条約を批准しながら、本質的にはそれを否定する命令を部下に下すという、蔑視と憎しみの心しか持ち得なかった。残念ながらそれが日本の明治以来の戦争の本質的精神であった。そして天皇制は自国だけが優れているという日本人の精神を助長するのに好都合なツールであったに違いない。日本人よ、目を覚ませ、世界を見よ、自分だけが偉いのではない。東アジアの人々を蔑視しつづけるな。
2019年9月12日(木)
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