2019年9月12日木曜日

人道に対する罪における行為主体の「組織」要件について――政策要素と非国家主体をめぐる論点を中心に――  千住貞保(オステン研究会4年) 要旨・抜粋・感想



人道に対する罪における行為主体の「組織」要件について――政策要素と非国家主体をめぐる論点を中心に――  千住貞保(オステン研究会4年)


Ⅰ はじめに

109 人道に対する罪は、ICC(国際刑事裁判所)が管轄権を行使できる四つの中核犯罪のうちの一つである。ICCは人道に対する罪のほかに、ジェノサイド罪、戦争犯罪、侵略犯罪を対象としている。
110 人道に対する罪は、ニュールンベルク・東京の両軍事裁判で、初めて、文民の基本的な人権に対する、大規模な国家による侵害を処罰するために生まれた犯罪概念である。(東京裁判に関するこの表現は、後の記述115と実質的に矛盾する。)
その後ICTY(旧ユーゴ国際刑事裁判所)やICTR(ルワンダ国際刑事裁判所)の二つの法廷の規定を経て、1998年のローマ規定(国際刑事裁判所規定)で、人道に対する犯罪として初めて条約としてまとまった。
ローマ規定は、ICTYやICTRそしてILC(国連国際法委員会)の規定の影響を受け、国家に限らずそれに準ずるより小さな組織による犯罪も射程に入れた。ICCの初期の規定もそのように行為主体を広義に解釈していた。
111 2008年のケニアにおける事態を扱ったICC予審裁判部では、組織とは何かに関して争われた。トレンダフィロワ判事ら多数派は広義に解釈し、カウル判事ら少数派は狭義に解釈した。その論争の背景には、ICCが国家の内部に介入し、人道という国際的な法益を保護する権限を持つべきだとする考え方と、ICCは国家の刑事管轄権を補完するものにすぎないとする考え方との対立がある。

Ⅱ 人道に対する罪の生成過程と歴史的沿革

1 ニュールンベルク・東京裁判以前

112 「人道に対する罪」という用語が初めて登場したのは、第一次大戦時にトルコ政府による領内の少数民族アルメニア系住民の虐殺に対して出された、1915年の仏英露共同宣言においてであった。
同宣言は「トルコ政府の構成員すべてが、虐殺の実行者と共に、人道及び文明に対する犯罪に関して責任を負う」とした。
それまでは紛争時における傷病者の保護や捕虜の扱いといった「人道」概念が、交戦国が従うべき義務として存在するに過ぎなかった。つまり、1889年のハーグ陸戦法規慣例条約前文の所謂マルテンス条項*は、こうした法的概念を国際条約に規定した。

*ロシアの国際法学者フレデリック・ド・マルテンスが提案した。(ウイキペディア)マルテンス条項は人道の法の起源である。121

 さて同宣言は、相手国に対してだけでなく、自国民に対して行った虐殺に関しても、国際的な刑事責任を負うとしたが、実効的な措置は取られなかった。
 1919年パリ平和予備会議において、「戦争開始者責任及び戦争の法規慣例の違反に関する刑罰執行委員会」が報告書を提出し、ドイツとトルコ政府によるアルメニア系住民の虐殺、迫害、強制移送を問題視し、「戦争の法規慣例または人道の法に対する犯罪offences against laws of humanity)に関して罪を負う、敵国に属する全ての者は、国家元首を含め、彼らの地位がいかに高い者であれ、刑事訴追の対象になる」としたが、この人道の法の曖昧さを指摘したアメリカ代表は、同報告書を留保し、最終的に条約として規定されることはなく、トルコ政府の責任者が追求されることもなかった
113 このように、人道に対する罪は、武力紛争との関連性を持つ犯罪として構想され、マルテンス条項のような交戦国が従うべき義務を明記した「人道の法」とは別に、自国領内の自国住民に対する虐殺等の非人道的な「国家による」犯罪を前提とした。また政策要素が要求されることはなかった。

2 ニュールンベルク・東京裁判

 人道に対する罪が、法的拘束力のある文章として初めて定義された*のは、第二次世界大戦後の1945年に、米英仏ソの4カ国が締結した「欧米枢軸国の主要戦争犯罪人を訴追処罰するためのロンドン協定」付属の国際軍事裁判所条例ニュールンベルク条例)においてである。

*この沿革は、1942年の対ナチス9カ国ロンドン亡命政府による「セント・ジェームズ宣言」に由来する。

ニュールンベルク条例第6条において、平和に対する罪、通例の戦争犯罪と共に、裁判所の管轄権が及ぶ犯罪として、人道に対する罪が次のように規定された。

ニュールンベルク条例 第6条
「戦前(=平時)または戦時中に、文民たる住民に対して行われた殺人、絶滅させる行為、奴隷化すること、追放及びその他の非人道的な行為、若しくは政治的、人種的または宗教的理由に基づく迫害であって、犯罪の行われた国の国内法に違反すると否とにかかわらず、本裁判所の管轄するいずれかの犯罪の遂行として、またはこれに関連して行われたもの。」

 これは、それまでにはなかった、敵国の一般住民、すなわち枢軸国領域において連合国国籍を持たない者に対して行われたホロコーストに代表される、大規模かつ重大な迫害を行った行為者に対して、「人道」という国際的な法益を保護することを目的に、被害者の国籍による区別に関わりなく訴追されるべきであるという要求に基づいたものであった。
114 この条例は、平時にも適用されると解釈できるが、武力紛争との関連性も要件とされた。(矛盾しないか)
 それは他国の国家主権、不干渉主義への配慮をめぐる意見の相違があったからだ。フランスは、ドイツによるユダヤ人殲滅は、国際法上の犯罪であり、国際社会による人道的干渉が認められる、としたのに対して、アメリカは、第二次大戦以前から合法的に行われていた、ユダヤ人の迫害などの非人道的行為は、国内問題であるから、国際法上の犯罪として追及するためには、侵略犯罪の遂行と関連付けなければ罰せられないと主張し、結局アメリカの主張が採用された。

 19世紀の法実証主義の下では、他国の国内問題への干渉は違法とされており、(敵国による)自国民に対する残虐行為に異議を唱えることができなかった。

 極東国際軍事裁判所は、1946年に連合国最高司令官が発した、一般命令第1号「極東国際軍事裁判所設立に関する連合国最高司令官特別宣言」及び、同時に公布された、「極東国際軍事裁判所条例」によって設立された。同条例第5条(ハ)には、ナチスの犯罪を想定したニュールンベルク条例を、東京裁判でも審議できるように、文言を変更し、人道に対する罪が規定された

極東国際軍事裁判所条例 第5条(ハ)人道に対する罪
戦前または戦時中為されたる殺人、殲滅、奴隷的虐使、追放その他の非人道的行為、若しくは犯行地の国内法違反たる否とを問わず、本裁判所の管轄に属する犯罪の遂行として、またはこれに関連して為されたる、政治的又は人種的理由に基づく迫害行為」

115 一般に、人道に対する罪の構成要件は、非人道的な行為が「文民たる住民に対して行われた」ところにあるが、人道に対する罪を戦闘員への非人道的行為にも適用するため、この構成要件(住民に対する)を削除し、本来戦争犯罪として処理できる問題について、人道に対する罪の名で、日本の被告人を審議したため、人道に対する罪で有罪とされた主要戦争犯罪人はいなかった。検察側は、人道に対する罪に基づく公訴を行わず、「殺人」という訴因で、人道に対する罪を主張し、結局、人道に対する罪を犯罪人に適用しなかった。極東国際軍事裁判では、人道に対する罪は、通例の戦争犯罪と区別がつかなくなった。(この記述は前の説明110と実質的に矛盾するが、形式的に人道に対する罪を設定したが、文民に対するという文言を削除したために、その設定の意義が失われたということを筆者は言いたいのかもしれない。)

3 冷戦期

 1950年、ILCは「ニュールンベルク諸原則」を確認し、同原則Ⅳ(c)において人道に対する罪を次のように規定した。

ニュールンベルク条例によって認められた国際法の原則Ⅳ(c)
「文民に対して行われた殺人、殲滅、奴隷化、強制移送その他の非人道的行為、又は政治的、人種的、若しくは宗教的理由による迫害。ただし、これらの行為がいずれかの平和に対する犯罪又は戦争犯罪の遂行中に又はそれらと関連して実行された場合に限る。」(訳で「いずれかの」の位置は後ろのほうがいいのではないか。原文を見ていないのでどうとも言えないが、文意が通らない。)

ここでは、ニュールンベルク条例の「戦前又は戦時中の」が、第二次世界大戦という特定の戦争を示すものだとして削除され、人道に対する罪と他の犯罪との関連性は残したが、平時における適用は認めない。

 ILCは1947年の国連総会決議177に基づいて、「人類の平和及び安全に対する犯罪行為の法典」の作成を始め、1954年に、侵略犯罪、集団殺害犯罪などを含む同法典草案を採択した。同法典草案第2条において人道に対する罪は次のように規定された。

1954年草案 第2条
「国家機関による、若しくは当該機関(the authorities of a State or by private individuals(この訳がどうしてこうなるのか理解できない))に扇動され又は黙認された私人による殺人、絶滅させる行為、奴隷化すること、追放又は迫害といった非人道的行為。」

 同規定は、人道に対する罪の射程を広げ、管理理事会法律10号の流れを受けて、武力紛争や他の犯罪との関連性を削除した。その代わりに国家機関又は当該機関と一定の関連性を持つ私人による行為という要件を規定した。

 1968年国連総会において「戦争犯罪及び人道に対する罪に対する時効不適用に関する条約」が採択された。同条第1条(b)において、人道に対する罪が、戦時又は平時にも行われうることが規定された。
117 ILC(国連国際法委員会)は、40年の停止期間を経て、「人類の平和及び安全に対する犯罪の法典」の作成作業を開始し、1991年に暫定的な草案を作成した。当暫定草案第21条は、人道に対する罪に相当する犯罪を規定したが、名称を「人道に対する罪」から「組織的又は大規模な人権の違反」と変更し、武力紛争との関連性を回避し、国家機関だけでなく犯罪集団に属する個人までも対象にした。
 しかし、人権の侵害行為を国際法上の犯罪として捉えることには問題があるという意見もある。

4 二つのアド・ホック法廷

 1990年代の民族紛争で、国際人道法の重大な違反を行った者を訴追するために、安全保障理事会の決議に基づき、ICTY、ICTRが設置された。それぞれの人道に対する罪の規定は次の通りである。
118 
ICTY規定 第5条
「国際裁判所は武力紛争(国際的な性質のものであるかどうかを問わない)において文民に対して直接行われた次の犯罪について責任を有する者を訴追する権限を有する。」

ICTR規定 第3条
「ルワンダ国際裁判所は、国民的、政治的、民族的、人種的又は宗教的理由に基づく文民たる住民に対する攻撃であっても広範又は組織的なものの一部として行われた次の犯罪について責任を有する者を訴追する権限を有する。」

 ICTYでは政策要素が明記されていないが、初期の判決では政策との関連性が言及されており、国際慣習法上、政策要素が必要とされていたと看做せる。
 ILCの1996年の草案で、国家又は組織の扇動の指示といった政策要素に類する規定が置かれると、1997年Tadic事件で、ICTY上訴審判決は、政策要素を具備しうる国家以外の構造ある秩序を有する組織の存在を認めた。
これに対して2002年のKunarac他事件で、ICTY上訴審判決は、攻撃の立証に政策又は計画の存在は不要であるとした。これはローマ規定に反するが、その後の判決に影響を与え、政策要素は犯罪の構成要件ではないとされるようになった。しかし、法的根拠が脆弱だという指摘もある。

5 ローマ会議

119 1996年、ILCは「人類の平和及び安全に対する犯罪の法典草案」を採択した。その人道に対する罪の規定は以下の通りである。

1996年法典草案 第18条
「人道に対する罪とは、組織的方法又は大規模に行われ、かつ政府若しくはあらゆる組織又は集団によって扇動又は指示されるところのいずれかの行為をいう。」

 ここでは、武力紛争や他の犯罪との関連性は要件とされず、それに代わって「組織的又は大規模に」と「政府若しくはあらゆる組織又は集団によって扇動又は指示される」が提示された。

 1998年のローマ会議において、これらを集大成し、ローマ規定第7条は、人道に対する罪を次のように規定した。
120
ローマ規定 第7条
「1 この規定の適用上、『人道に対する罪』とは、文民たる住民に対する攻撃であって広範又は組織的なものの一部として、そのような攻撃であると認識しつつ行う次のいずれかの行為を言う。(中略)
2(a)『文民たる住民に対する攻撃』とは、そのような攻撃を行うとの国家若しくは組織の政策に従い又は当該政策を推進するため、文民たる住民に対して1に掲げる行為を多重的に行うことを含む一連の行為をいう。」

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感想 戦時中の「慰安婦」問題や、日本軍による中国の民間人に対する非人道的な行為に関する文脈の中で、「人道に対する罪」という国際法違反だとよく言われるので、その歴史を調べてみた。

1945年、国際法は、法という名の下に、「国際司法裁判所」が権利として裁くことを国際的に主張できる権威づけのシステムとなったようだ。

しかし、法が最初にあったのではなく、歴史的事実(残虐行為)が最初に問題視され、法は、それを罰することを正当化するために、後からつくられたものだということをおさえておきたい。

人道に対する罪は、戦場における戦傷者や俘虜に対する規定よりも遅れた。
人道に対する罪が最初に現れたのは、第一時世界大戦において、トルコが、トルコ国内のアルメニア人を惨殺、迫害、強制移送したときであった。
しかし、この時声は上がったが、アメリカが、人道に対する罪は曖昧だとして反対し、条約までには至らなかった。

次がヒトラーのユダヤ人虐殺。フランスは、ドイツ国内における連合国人ではない民衆を虐殺した他国(=ドイツ)の実行主体を、国際法で処罰することを要求したが、アメリカは、ユダヤ人迫害は戦前から合法的に行われており、ドイツの国内問題だとして消極的であったようだ。しかし、アメリカは、ユダヤ人虐殺を侵略行為と関連づけることによってフランスと一致し、人道に対する罪は、1945年、ニュールンベルク条約(国際法)として初めて条約として現れた。

日本の場合はどうか。ニュールンベルクでは人道に対する罪で訴追された人が出たようだが、日本の場合にはこの罪で裁かれる人が出なかった。それは東京裁判では、「民衆に対する」という文言が削除され、一般の戦争犯罪として扱われたためと思われる。
それはそもそも人道に対する罪が、敵国国内の民衆に対する非人道的な行為を罰するために作られたからかもしれない。それで日本の場合は、一般の戦争犯罪の文脈で、戦地での非人道的な行為も裁こうとしたものと思われる。
しかし、次のような邪推もしてみた。連合国側は、中帰連が指摘する日本軍による中国での一般人の虐殺を知らなかったのだろうか。それとも知ってはいたが、共産党地域の人々が主な被害者だったから見逃したのか。また、生体実験については、アメリカがその知見を入手したかったから処分しなかったとも言われる。そして冷戦の進行で裁判を急いだために不十分に終わったとも言われる。条文作成時点1946は、どんな状況だったのか。アメリカはもともと内政干渉をしたくないようにも見受けられる。
しかし、またもとに戻り、ニュールンベルク条例の人道に対する罪は、ドイツ国内の民衆に対する非人道的な行為に対する罪であり、日本の場合は日本国内の民衆に対するものというより(それもあるが)、侵略先での非人道的行為であるから、わざわざ「人道に対する罪」を新設する必要がなかったと解するほうが自然かもしれない。

「人道に対する罪」の歴史は、戦時における傷病者や捕虜の取扱に関する規定よりも浅かったが、ユダヤ人の虐殺は他国の国内問題であっても、介入して裁かねばならないという国際的な関心が高まり、ニュールンベルク条例ができたのだろう。
 人道に対する罪は、関係国の人権に対する問題意識を反映している。ヨーロッパはその問題意識が高かったから国際法が発達した。一方東洋では、中国人や朝鮮人は、人権問題で出遅れ、批判が条例を生み出すゆとりがなかったのではないか。中国は現在でも人権を無視する傾向が強いが、現在東洋で、独裁制を排除しつつある韓国だけが、人権意識が高く、正義を主張していると言えるのではないか。

2019912()

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