2025年4月11日金曜日

大杉栄『叛逆の精神』平凡社ライブラリー2011

 

大杉栄『叛逆の精神』平凡社ライブラリー2011

 

 

大杉栄1885-1923

 

 

「僕は精神が好きだ」1918.2

 

001 僕は精神は好きだが、それが理論化されると嫌だ。

 

 

 

「征服の事実」1913.6 28

 

011 共産党宣言に言うところの階級闘争の前に、種族間の闘争があった。

012 グンプロウッツとラフェンホファは、種族間闘争から社会が創られたことを論証している。

017 征服のことが明瞭に意識されない間は、社会の出来事の何ものも正当に理解できない。

 

「生の拡充」

「生の創造」

「鎖工場」

「賭博本能論」

 

感想 2025331()

 

大杉栄の小論は散文詩のようだ。マルクスやエンゲルスも出て来るが、文学者、例えばアナトール・フランス049も出て来る。資本主義的抑圧組織の一つである工場に、奴隷のように鎖でがんじがらめにつながれていながら、それを自覚しない労働者意識を分析的に描写した「鎖工場」038は、説得力もあって素晴らしい。

 

「賭博本能論」は、安全な哲学や文学の世界に閉じこもるのではなく、はみ出し、嵐の後にクジラの背中で賭博に打ち興じる賭博好きに見出されるエネルギーを、社会変革の力の源泉として描いているようだ。

 

「正気の狂人」1914.5は先輩の堺利彦を批判する。

 

堺利彦は荒畑寒村をあざ笑った。私をも嘲笑った。堺利彦の低級の皮肉とは、無理解から生じた皮肉である。

堺利彦はショウが好きだ。ショウは無政府主義をあざ笑った。ショウには賤劣な皮肉を娯しむ癖がある。ショウの『無政府主義の不可能』は無政府主義に対する無理解を示し、『イプセン説の神髄』はイプセンの無政府主義にケチをつけている。

「正気の狂人」とは、維持金もなく、瞬発的に行うストライキのようなものだ。生の最も有効な活動であると信じた実行である。事件の背景が十分に分かっている実行である。

ベルグソンは『意識の直接与件』の中で「唯一の瞬間」について語る。

サンディカリズムの父と呼ばれたジョルジ・ソレルはその『暴力論』の中で「この自由は、我々が我々を閉じ込めている歴史を破り、我々自身の中に一新人を創り出そうとする努力の中に受けることができるものである。」

これをしようとしない奴輩は、僕の所謂衆愚だ、歴史の創造に与らない怠惰者だ。

 

 

 

 

「近代個人主義の諸相」1915.10

 

 

ルソーの言う(個人間の)民約論は社会を否定するが、実は個人は社会に根ざしていたから、矛盾している。契約はもともと強制にすぎなかったし、今日でもそうだ。ルソーにとって国家と社会は同一物であった。ルソーの個人本位説は、ただ封建制度に対する反逆にすぎなかった。

 

フランス革命は貴族と新興紳士族との戦いであった。ヴィニ―やゴビノーなどの若い貴族は、成り上がりの民主的生活の中に移された。ヴィニ―は『一詩人の日記』の中で「所持者から所得者に墜落してしまった」と嘆いている。ボナールもそれを跡付けている。トクビルは『アメリカの民主政治』の序文の中で、フランス革命のときの貴族の失意を描いた。071

 

 

個人主義の発生原因は社会組織が強圧的であることによるが、それとともに社会の解体をも条件とする。

18世紀の官能派文学は、スタンダールやボードレールが復活し、風俗習慣の自由を憧れた。また科学は無道徳的であり、神学から人々を解放し、寛大であり、官能を侮蔑することなく、好意をもって眺めた。

 

 

 第三の叛逆的思想・行為は、初期の個人主義の主潮である。

ヴィニ―は『一詩人の日記』の中で「大なる性格の持ち主もまた、運命の流れの中に巻き込まれて溺れ死んでしまう。」

ゴビノーの「王子」は社会に宣戦した。

ベンジャミン・コンスタンは『アドルフ』の中で、個人に対する社会の側の専制的万能を認めた。

ハイネは「この世界は私の心と没交渉のものとなったが、私は運命の前にひざまずかねばならない」

これらの個人的叛逆の他に、集合的叛逆もあった。

叛逆的精神は変化と進歩を演ずる新社会の萌芽となったが、勝利を得た少数者は暴虐な多数者に変わり、政治的無関心が生じた。

 

 

個人主義の第一期は雄々しき叛逆であった。第二期は一切の努力を無益である観念した。それは不服従の敗北者となった。一切の理想を空想であると確信した。ヴィニ―は『一詩人の日記』の中で「社会的制度は悪である。そしてそれは、いとも簡単に、僅かに耐えられるものとなる。」

ロマンチシズムは絶望のネオロマンチシズムに変わる。文芸では、オペルマン、ルネ、バイロン、レオバルディ、ハイネ、ヴィニ―、哲学では、ショーペンハウアーは、ロマンチック・ペシミストであった。ネオロマンチシズムは感情をもって善悪の標準とする。

 

 

ここまでの感想 202541()

 

大杉栄には幸徳秋水ほどの緻密さがないが、欧州の文献をよく学習している。大杉の特長は感性的な詩人であるという点だ。大杉栄は感性の人であり、論理の人ではない。だから幸徳秋水のような論理の積み重ねには弱いという印象を受けた。

 

 

五 個人主義は利己主義とは違う。利己主義は、自己と他人の何ものをも犠牲にして、ただ世の中に押し出ようとする、極めて卑俗な成り上がり主義である。

個人主義は愛他心を退けないが、愛他心から社会的悲観や厭人観に陥る。ヴィニ―やゴビノーは崇高な社交性の理想を実現しようとしたが、それに失敗して絶望した愛他主義者だった。彼らの個人主義は絶対的・絶望的であっても、元来は人類の偉大と高貴の信念から出た。ヴィニ―は一切の社会形式を否認し、ゴビノーは侮蔑と無関心の観照的態度に逃れ、社会は思想家が生活するには耐えられない場所だとみなすようになったが、それは自らの信念を実現することが不可能だと分かり、社会的事物はあまりに醜悪で、とても癒すことができないと実感したからである。

 

ちょっと飛ばして…

 

 

「唯一者――マックス・スティルナー論」とその教育論「意志の教育――マックス・スティルナーの教育論」

 

感想 202542() 大杉栄はドイツ語も英語も勉強している。恐らくこれはドイツ語の原典を読んでまとめたものと思われる。

 マックス・スティルナーという奇特な人がいた。その著書は一時的に評論の的になったが、その後発禁処分を受けてからは世間から顧みられなかった。ところが死1856後に再発見され1882、その著書が各国語に翻訳されるまでになった。その中から二編*を選び、その概要をまとめたのが、本論文である。*『唯一者とその財産』1844、『現代教育の主要原則、人道主義と現実主義』

後者の教育論は現代にも通じる。子どもの意思を尊重しなければならない、教え込むことではない。

また人道主義、現実主義、人格主義の用語でもって歴史的経緯を解説する。人道主義は宗教改革orフランス革命以前までを、実用主義はそれ以後を指し、そして人格主義はマックス・スティルナーが説くところの生き生きとした人間のあり方を意味する。

 

 

メモ

 

 

「意志の教育――マックス・スティルナーの教育論」

 

一 人道主義の時代は奴隷の時代であり、その時代の教育は権威的であった。他方、現実主義の時代は、各人が自らの主人となり、教育は普遍化する。

 

二 18世紀の「光明時代」以前は、聖書と古典の研究が教育の中心だった。感情の繊細、趣味の高雅、会話の流麗、動作の端麗などの形式の優越を教えた。「光明時代」以後は、人権の普遍、教育の普遍が説かれ、実用性が重視された。

しかしその二つとも一時的でしかなく、自分が自分を捕えるという永久的霊がなかった。

 

三 精神的に活動することが求められる。

 

四 学校は、各生徒の個性を発達させ、自由な人間と自主の性格を築き上げるところにならなければならない。子どもの好奇心や知識欲と同様に、子どもは移り気であってよい。子どもの自尊心と独立心を圧さえてはならない。学校そのものが生活となり、学校の理想が生命そのものの理想と同じく、人格の啓示であり、自己表示であり、自己実現であることをスティルナーは期待した。先述の人道主義者と現実主義者の上に、人格主義者がなければならぬ。

 

五 しかしスティルナーはヘーゲルから抜け出ていない。霊と自主的意志との間の越えがたい深淵の存在に気づかなかった。今日の教育は一個の人をつくるよりも種々な知識を注ぎ込むことに腐心する。今日の教育者は記憶力、理解力、理性の教育にのみにつとめ、意志の教育を無視している。1915.10

 

 

「主観的歴史論――ピョートル・ラフロフ」

 

感想 非常に分かりにくい。

 

メモ

 

ロシアの哲学者ラフロフを紹介する。

歴史と文化とを対比し、歴史は知識人にしか理解できず、凡人は文化の中に埋没している。

歴史の動因は個人の中にある。

本論文はフランスの哲学博士シャルル・ラポポールに依拠する。1914.4

 

 

 

「個人主義者と政治運動」1915.3

 

大杉栄は無政府主義を本気で考えていた。この時代の世界的潮流なのだろう。

 

 

「労働運動とプラグマティズム」1915.9

 

プラグマティズム(実際派)とサンディカリズムの親近性について、科学主義(科学派)と対比して論述する。

 

「労働運動と個人主義」1915.10

 

 フランスの労働総同盟CGTは、生活のための一点で結ばれた自由な個人や団体の結合である。上から押しつけられたものではない。

 

私は労働者の中に入りたい。労働者は馬鹿で憐れむべき存在ではない。生活に対する強い力を持っている。そしてその過程で社会主義から得た知識を活用したい。

 

 

「ベルグソンとソレル」191512

 

これはベルグソンとソレルを紹介する小論なのだが、ベルグソンやソレル自体が、あまりにも飛び跳ねていて、全く理解不能。言葉のつながりが見えない。また彼らと社会主義やサンディカリズムとの関連を述べるのだが、残念ながら意味不明。しかしともかく要旨をメモすると、以下の通りである。

 

 

一 ベルグソンとソレル

 

196 ベルグソンの「創造的進化論」と、ソレルのサンディカリズムとが、最近日本で流行しているが、この二つの学説には関係性がある。

 

197 私の論文『個人主義者と政治運動』の大部分は、『社会的個人主義』発刊の際に、発禁処分となったが、上記のテーマと関連している。最近哲学界で「主理派」と「主行派」とが流行っているが、それらが労働運動と関連していることを、上記の論文で私は指摘した。

 

ソレルは労働者ではない労働運動の理論家である。

 

二 ソレルとサンディカリズム

 

198 ソレルは「サンディカリズムの理論家」と言われているが、それは言い過ぎだ。サンディカリズムは労働者の生活感情と結びついている。

(サンディカリズムの研究には)二派がある。一派は、ペルティエ、プージュ、グリフール、ドルザル、ニエル、イヴトー等であり、彼らは労働階級に属している。他の一派は、ソレル、ラガディル、ベルト等であり、彼らは「新派」とか「革命的修正派」と自称している。

 

199 アメリカの社会学者は、労働者が配るチラシを研究材料にするが、日本の社会学者、例えば建部遯吾は、それに見向きもしない。日本の学者は「主理論」の弊害にさらされていて、労働者を見ていない。

ソレルは「サンディカリズムの父」と言われているが、それにはゾンバルトの『社会主義及び社会運動』の影響がある。新派の知識人は、そういう評価を拒否し、例えばラガディルは、サンディカリズムは労働運動から生じたと述べ、またその点でソレルも同様である。彼らは労働運動の中に社会主義思想を修正することのできる力を発見したが、実際の労働運動にはかかわっていない。ソレルは「サンディカリズムの代表者」ではない。

 

三 ソレルの思想

 

 ソレルは1847112日、フランスのシェルブールで生まれ、パリの技師養成所である百芸学校に入り、46歳で技師長の職を辞し、社会学を研究し始めた。彼はその『暴力論』Reflexions on the Violence, 1908の序文で、次のように言う。

 

「私は大学教授でも通俗学者でも、政党の首領でもなく、独学者である。自分のノートを他人に見せて、その人を教育するのだ。」

 

202 ソレルは社会学の独学者であり、それを誇りとしている。

 

20年間、私は他人から教えられて覚えたことを忘れ(解放し)ようとした。私は本を読んだが、それは覚えるためというよりも、それまで覚えさせられたことを除去(清める)するためであった。私が本当に覚えようとしたのは15年前からである。しかし私は、知りたいことを教えてくれる人を見つけられなかった。私は自分で自分の先生になった。私はノートに思い浮かぶことを書き留めた。それは試行錯誤の繰り返しだった。私は読書からヒントを得られなくなると、書くのを止めた。名家の著書の研究は簡単だった。

 

203 彼はプルードン、ルナン、ニーチェ、マルクス、ベルグソンなどの書物から、無秩序に抜き書きして批評を加えた。彼はそれに彼の独創を付け加えた。

 彼の思想の根底には、マルクスとプルードンと当時勃興し始めたサンディカリズムがある。彼は資本家制度が勃興し始める19世紀のイギリスの経済事情と労働運動を論拠としたマルクスの著書を、資本家制度が爛熟した20世紀のフランスの経済事情と労働運動によって修正した。彼はその過程でマルクスの真意を認め、その正しさをプルードンによって理論的に確かめた。

 

 ソレルは数学者でもあった。彼は従来の科学と論理に叛逆した。ポアンカレもそういう一人だった。ソレルは純粋形而上学に走った。実証論、主知論、主理論など、近代の科学的方法は、ソレルの社会学的方法の敵であった。ソレルは近代科学の実際論、本能論、主行論に傾き、ベルグソンの心理学を利用して自らの社会学に応用した。すなわちソレルはマルクスから出発して、最後にはベルグソンの抽象論にたどり着いて、それを応用したのである。

 

感想 202548() 大杉栄はすでに発言内容に関して自粛している。当局から発禁や削除を度々受けていたからのようだ。だから大杉栄の真意は一見トーンダウンしているように見えざるを得ないという状況に追い込まれていたということだ。その点を汲み取った上で大杉の評価をしなければならない。

 

「僕は、僕等の有する極めて狭い言語の自由の範囲内において、ようやくベルグソンとソレルとの関係を説くことのできる順序に達した。」204

「そこ(『個人主義者と政治運動』)ではその大部分を抹殺されて、他の諸篇との関係を失ってしまった。」197

 

 

四 ベルグソン哲学とサンディカリズム

 

204 京都大学講師の米田庄太郎氏は、ベルグソンとソレルとの関係について、次のように語っている。米田は、慶應義塾大学教授で法学博士の福田徳三氏と共に、サンディカリズムの研究者である。

 

「ソレルとその門下生ベルトはベルグソン哲学を応用して、革命的サンディカリズムの主張を哲学的に解説した。しかしベルグソンは、革命的サンディカリズムの主張者と思われることに迷惑を感じているし、またそう看做すのは穏当ではない。哲学は様々に応用できるからだ。例えばルロワ氏はベルグソン哲学をカトリック神学の弁証に応用しようとしている。ベルグソンの哲学は革命的である。余は、余の社会学的見地からして、ベルグソンと革命的サンディカリズムとの間には深い関係があると信じる。」

 

206 両者の「深い関係」は、現代社会史の中に求めなければならない。それは私の『労働運動とプラグマティズム』の中に多少の暗示がある。

 ソレルはベルグソンのどういう原理を抜き取ったのか。それはベルグソンがドイツの社会学者ユリウス・ゴルトシュタインに送った手紙の中にヒントがある。

 

「ソレルとベルトは、その論文の中で、変化の一般性や、真実持続における転化の不可分性、将来の創造性、及びその予見できないことなどに関する私の思想を、私の言葉のままに引用し、過去の断片で先天的(先験的)に将来を構成(予見)しようとすることは不可能である、と結論したと認められる」(米田庄太郎『革命的サンディカリズムと現代生活』明治4571日、『京都法学会雑誌』第七巻第七号所載)

 

 

五 ベルグソンの自我説

 

207 ベルグソンの自我説は、その著『意識の直接与件』によれば、

 

「二つの違った我がある。その一つは他の外的投影であり、いわば社会的表現のようなものであり、それは深い反省によって到達できる。反省が人間の内的諸状態を捕まえる。内的諸状態は形成を継続するから、計ることができず、互いに融和している。その持続的継承は空間内の並置とは無関係である。内的状態を捕まえることは難しい。だから我々は自由ではなく、自分自身の外にいる。自我は色あせた幻影しか見られない。だから我々の生存は、時間の中よりも空間の中にある。我々は自分のためよりも外の世界のために生活し、余計に考え、余計に行動する。自由に行動するとは自己を所有することである。それは純粋持続の中で起こる。」

 

208 生活の二つの方法に相当する知識の二つの方法には差異がある。我々はまず社会的に生活する。自然を征服し、周囲に適応する。それは理知の分野である。そのために言語と科学を創造した。しかしこの理知は人為的周囲以外を知ることができない。それは皮相的範囲である。そこでは時間は空間の一形式のように見える。そこでは言語や科学、決定論、原子説、機械的連想、分析的心理学が支配する。

 

209 しかしこの空間的自我よりも深い所に、本当の自我、個人的で可動的な生きた自我がある。各自が相互に交通できない実在がある。それは純粋持続の世界であり、融合している。固定ではなく傾向、流れ、生きたいという不断の不安である。それはカントの範疇にはなく、理知や推理ではつかめない。稀にしかつかめない。それは本能に近く、同感・直観である。

 過去は知ることができるが、未来は予見できない。創造的進化である。

210 科学、理知、進歩、決定、固定、量ではなく、形而上学、直覚、進化、創造、流動、質である。真の我と仮の我とが対立する。

 

 

六 ソレルの社会説

 

ベルグソンはこの自我説を用いて心理学を改革し、ソレルはこの(ベルグソンの)自我説を、社会学と経済学に応用した。

211 ソレルはベルグソンの真我と仮我との対比を、生産と交換(経済学)、神話と理想郷(社会学)、全的革命と合法的改良(政治学)、社会主義と民主主義との対比に発展させた。

 生きた有機体である生産と、それを使用する機械的装置とが対比される。生産は社会の基礎であり、それによって階級の司法的感情が確立され、制度の正不正が判断される。それは真我である。それに対して憲法、立法、行政、司法などは仮我である。それは経済界では交換である。交換は継承的装置によって改善できる。仮我は分割され、分割的に改良できる。

212 改良的な、民主主義的政治や社会主義的政治は、漸進的改良によって、交換組織を改善する。そこには危険がなく、現状の生産組織を堅固にする。「紳士閥社会における改良は、私有財産制度の肯定である」

 民主主義的方法による部分的改良が生産を改善することは危険で、障碍を伴う。真我は分割や添加を許さないからだ。

 本当の社会主義経済は、生産の全面的改革、革命でなければならない。真我が刻々新しくなり、前後が無関係であるように、社会主義的生産社会も、全く新しい道徳と政治となる。

心理学同様、史学にも、絶対のはじまりがある。キリスト教社会は、信仰と世俗との分裂が維持される間は成功したが、分裂が止むと失敗した。平民階級が求める新社会と、それが取って代わろうとする紳士閥社会との間も同様である。

213 将来社会は予想できない。それは過去と現在とがつくり出すからだ。未来は既知とは全く別物である。決定論や因果論は詭弁である。理想郷も、主知的連想論同様、詭弁である。個人の直覚に相当する群衆の原動力は神話である。

 群衆運動は、メシア信仰同様、解放の到来を信じる。信仰が勝利をもたらす。解放の意思から導かれた心象が、神話である。

214 神話は意思である。記述ではない。神話は不分割である。理想郷は、理知の産物で、現在社会の改善の方法を指示するが、神話は労働者の新社会の萌芽をはぐくむ。

 以上がベルグソンの心理学と対照したソレルの社会学である。

 

 米田氏は言う。

 

「マルクスはヘーゲル理念を社会的過程に移し、ヘーゲルの論理的必然を経済的必然に転化した。感情や信仰はその(経済的必然の)付随物にすぎない。新しい社会は器械的かつ必然的にやってくる。その意味でマルクス説は宿命的であり、(社会)運動は沈滞するだろう。今や(マルクス説は)議会政策に転化し、改良を主眼とし、堕落しつつある。新社会への信仰は消失し、無感覚に堕した。だから元の信仰を復活させねばならない。ヘーゲル哲学の唯理論では信仰生活を復活できない。新しい哲学が求められる。」

「新しい哲学が起った。新心理学は、知力や理知こそ生活に支配され、非合理的生活が重要だと説く。社会主義的社会の実現は、人の心の奥底から生ずる。人間だけがそれを生み出せる。信仰心が大革命をもたらした。理論でも、思慮でもない。猛火を吐く心象、恍惚的想像、幻想的情火が大革命をもたらした。これが新しい哲学が教える真理である。」

 

感想 信仰的情念が、革命的新社会の創造の原動力になるということか。難解。

ベルグソンの象徴的表現と、サンディカリズムや大杉栄の飛び跳ねた主情的なところとの相性がいいのかもしれないと思った。

 

七 ソレルと労働運動者

 

217 先に触れたように、サンディカリズムの第一群の人々198はソレルを批判しているが、私もソレルに対して不満がある。

ソレルの神話的サンディカリズム運動は、労働者側からすれば、日々の現実であり、創造であり、それを信頼し、確信を持っている。それは神話的神秘ではなく、生活本能である。ソレルは彼ら(労働者)のサボタージュを非難したが、彼らはそれを変えなかった。

218 彼らは信者である。疾風のように突進する。しかしまた懐疑者のように思索する。彼らにとって、将来は予想不可能ではなく、その創造が確信を齎した。

 彼らは自分たちが作り上げた力に依存している。彼らは理想を漸次作り上げていく。ソレルの言うように、理想から現実に、また抽象から具体に降りるのではない。彼らには、現実と理想との間に神秘的要素はない。

219 労働者の、この思想と感情との乖離が、ソレルのような知識人と他の手工者との分裂を齎した。ソレルは190112月、イタリアのサンディカリズム大会に招待されたとき、次の一文を送って労働運動と決別した。

 

「サンディカリズムはそれに与えられた期待を実現しなかった。」

 

しかしソレルは社会主義史上で大功績を挙げた。彼は生産を真自我と看做した。ソレルはマルクスの物質的史観説から出発したようだが、ソレルの物質的史観説はマルクスのような宿命論ではなかった。彼は社会進歩を必然的とも機械的ともみなさず、社会主義は必然ではなく、可能もしくは偶然にすぎなかった。そしてその神話説は、マルクス主義社会主義者が棄てた主観の価値を力説した。人間そのものを尊重した。それは正統派社会主義の革命的修正であった。その形式では革命的サンディカリズムが唾棄するものとなった。

 

 

感想 これは大杉栄の読書感想文のような感じがした。つまり自らの思想として結実したものではない。その点、幸徳秋水の『社会主義神髄』の方が、自らの言葉で欧州の社会主義論をかみ砕いて語っていて、優れているように思った。

 

 

 

「労働運動の精神」1919.10

 

労働組合は労働者の自主的・自治的能力を充実しようとする表現である。225

労働運動は労働者の自己獲得運動である。自主・自治的生活獲得運動である、人間運動である、人格運動である。225

 

 

 「社会主義理想論」1920.6 これは分かりやかった。

 

クロポトキンは、労働者は、未来社会(無政府主義、社会民主主義、サンディカリズム、ギルド社会主義)の理論を勉強しなければならないというが、私はそうは思わない。労働者はその生活の過程で要求を突き出しながら生活を改善しつつあり、そういう現実の中から生み出される未来社会論でなければならない。

 

226 労働者は今日までの何処の革命でも、いつも旧社会破壊の道具にだけ使われていて、新社会の建設にはほとんど預かっていない。そしてできあがった新社会も、旧社会同様に、自分のためのものではなく、他人のためのものになっていることに気づかない。その原因は労働者に新社会についての観念がないということよりも、自主性がないからだ。

 

227 労働者は日常の闘争の過程で理論を学習する。つまりその過程で、労使関係、政府と資本との関係、政府と労働者との関係などを自覚し、社会制度の誤謬に気づき、自由の精神を学ぶ。

 

228 労働運動は労働者にとっては人生の問題だ。観念や理想は大きな力であり光であるが、現実から離れれば弱い。

労働者は信者のように行動し、懐疑者のように思索することが求められる。

 

 

「いわゆる評論家に対する僕等の態度」1920.4

 

感想 評論家に対する挑発的な文章。理論ではなく行動で示せということらしい。

 

232 いわゆる識者は権力階級の擁護者であり、非圧制階級を欺瞞する奴らだ。そしてその欺瞞を教育と彼らはいう。

233 権力擁護でない場合、例えば徐々とした改善も、やはり権力階級の擁護に資する。

この頃有名になった森戸君は、無政府主義の理論は紹介するが、その実行については、研究を口実に馬鹿なことを言う。森戸君にとって研究はおもちゃだ。

さらに労働運動に飛び込んで来た識者もいる。

234 友愛会会長の鈴木文治君に眼をつけられた識者もいる。月給をもらって。しかしそこを離れると労働者とも離れる。

友愛会第一の学者と言われる賀川君の「馬面論」には呆れる。

山川菊栄と赤松克麿は、(識者に)敬意や恩義を押し売りしているという私の批判にこたえて、そんなことはしていないと反論した。

235 早稲田大学に「社会学会」という学生団体があった。安部磯雄を会長とし、永井柳太郎、白柳秀湖などを発起人とする社会主義団体だった。その会員450人は、大きな旗を立てて、堺利彦の最初の入獄のときの出獄歓迎会を開催した。その会員の中の秀才らは、幸徳・堺両君の平民新聞で気焔を書き立てたが、今社会主義者として残っているものは数少ない。

彼らに騙されてきた。理屈ではなく行動で示してもらいたい。

 

 

「マルクスとバクーニン」――社会主義と無政府主義1922.12

 

感想 1915年や1920年など、7年から2年前の本書掲載の文章と比較して、文体が同一人物とは思えないくらい落ち着いている。

それとアナ・ボル論争or闘争の軋轢が、このころから、相手を信用しない程の深みにはまっていたことが分かる。その文脈でマルクスを批判するのだが、マルクスは悪者になる。

また歴史的価値がある。バクーニンがロシアの牢屋に入っていたころの話は、『世界の名著』を読んだときに知っていたが、本論ではそれ以前の話が出ていて、穴埋めが出来た。

 

一 

 

238 どこの資本主義国家でも、社会主義者や無政府主義者は、気違いだとか、強盗だとか、人殺しだとか、またはその(社会主義)国家のスパイだとか宣伝されている。(社会主義者や無政府主義者など)敵の人格を疑わせることは、政府にとって一番有効な方法だからだ。

 

 ところがこの政府的方法が、社会主義者によっても、敵の無政府主義者に対して用いられる。そして社会主義者は資本主義者よりももっと政府主義的であり、もっと悪辣である。

 僕等はそれを日本の社会主義運動史の第一頁で既に見た。幸徳が無政府主義を唱え出して、多数の青年がそれに従ったとき、社会主義の片山潜西川光二郎は、幸徳や堺を「買収された」と公言した。

239 今ロシアのボルシェビキ政府が、国内の無政府主義者に対して、「気違い、強盗、人殺し、スパイ、反革命運動者」などの悪名を浴びせかけている。山川菊栄は雑誌『改造』で、エマ・ゴールドマンを中傷したが、それは(ロシアの)ボルシェビキ政府が無政府主義者に対してとる態度を、極めて忠実に翻訳したものであった。

 この方法は最近日本のボルシェビキ共によって、旧同志の無政府主義者に全力的に向けられている。白色政府と、これにとって代わろうとする将来の赤色政府との、同じ政府的手段による、共同戦線的黒化(無政府主義化)防止団が形成されたと言える。

 

 由来、残忍と陰険は政府的思想のつきものである。敵を鉄と血で黙らしてしまい、敵の思想を曲解して道化にしてしまい、敵の人格を中傷して個人的信用を無くしてしまう。そしてこれらの手段はますます残忍に、陰険になる。

 

 

240 18457月、バクーニンはその革命的思想のために、ドイツやスイスから追われ、初めてパリに行った。そこで彼は当時最も進歩したあらゆる民主主義者と知り合った。プルードンやマルクスとも初めて会って大きな影響を受けた。バクーニンは後年、二人についてこう述べている。

 

「プルードンは古い理想主義の伝習を打ち破ることに全力を注いだのだが、生涯を通じて理想主義者だった。メタフィジッシャンだった。彼の不幸は、かつて自然科学を学ばず、その方法を知らなかったことである。彼は真実の道を発見する才能を持っていたが、理想主義の悪い癖に引きずられ、もとの誤謬の中に落ちた。それはプルードンの矛盾の原因だ。力強い天才と革命的思索家とが、理想主義の幽霊と戦っていたが、それに打ち勝つことができなかった。」

 

241 「マルクスは思想家としては成功した。彼は、歴史上の一切の政治的・宗教的・法律的進化は経済的進化の原因ではなく、むしろ結果である、という原則を立てた。これは実り多い思想である。しかしそれは彼の発明ではない。他の多くの人によって既に部分的に瞥見・説明されていた思想だった。しかしその思想を確定し、それを全経済学説の基礎としたことは、彼の名誉であった。」

 

「一方プルードンはマルクスよりも自由を了解・感得していた。プルードンは、理論や哲学を言わないでも、革命家的本能を持っていた。彼は悪魔を崇めて無政府を唱えた。マルクスは、プルードンよりも、自由についてもっと合理的な組織の上に、理論的に立つことができるかもしれないが、マルクスには自由の本能がない。マルクスは強権主義だ。」

 

バクーニンはマルクスと自分との違いについて、

 

「マルクスは、今でもそうだが、当時は僕よりずっと進んでいた。学者だった。僕は経済学をちっとも知らなかった。そして形而上学的抽象論から抜け出ていなかった。僕の社会主義は本能的なものにすぎなかった。マルクスは僕より若かったが、(二人が会ったのはマルクスが26歳、バクーニンが30歳の時だった)既に無神論者であり、博識な唯物論者だった。考え深い社会主義者だった。」

242 「僕は彼をその学問の故に、また(マルクスには)個人的虚栄が混じっていたが、無産階級に対する熱心で真面目な努力の故に、尊敬していた。彼の話は、卑劣や憎しみが入っていないときには、有益で才気に満ちていた。しかし悲しいことに、その憎しみはあまりにも頻繁に現れた。」

「(残念ながら)我々の間には分け隔てのない親しみはなかった。我々の気質が違っていたからだ。彼は僕を「感傷的理想主義者」と評した。もっともなことである。僕は彼を「不実で危険な見栄坊」と評した。それはもっともなことである。

 

アドラーはマルクスのこの態度を『ドイツにおける社会民主主義の初期の歴史』の中で認めている。

 

「マルクスは絶対命令的調子で話した。他人には少しの矛盾も許さなかった。同時に彼は自分の使命を感じ、自分は人々を支配し、人々に法律を規定するために生まれたと考えていた。彼は民主的独裁者だった」

「マルクスは論敵に対して何の遠慮会釈もなく、その偉大な学識のために、また不幸にも敵を攻撃する方法に無頓着だったために、論争は実に恐ろしかった。罵詈讒謗(ばりざんぼう)のない論争はありえなかった。そしていつもその論争の外に出て、事実の白を黒に変えてしまった。」

 

バクーニンはフランスの同志アルベール・リシアル宛の手紙の中で、「マルクスは伝習的にも本能的にも、攪乱的、陰謀的、搾取的、ブルジョワ的な人間である」とし、またエンゲルスについては、

 

1845年頃、マルクスはドイツ共産主義者等の先頭に立った。マルクスは断金の(非常に厚い)友、エンゲルスとともに、ドイツ共産主義者すなわち強権的社会主義者の一秘密結社を創設した。エンゲルスはマルクス同様学才があり、マルクスほど博学ではないが、もっと実際的だった。そして政治的中傷や陰謀にはマルクス以上に長けていた。」

 

感想 批判の言葉が情緒的である。事実を積み重ねるものではない。「中傷」や「陰謀」といなら、その例を具体的に示して述べるべきだ。

 

 

244 184711月、バクーニンは、1830年のポーランドの最初の一揆を記念する宴会に出席して演説した。それは有名な大演説だった。

 

「ポーランド人とロシア人との和睦は、ニコラス皇帝の専制に対する共同の革命的運動によって初めて実現するだろう。その革命は、じきにやって来るだろう。そしてその和睦は、外国によって支配されているすべてのスラブ民族を解放するだろう。」

 

 バクーニンはもともとスラブ人を最も自由な民族だと考え、ドイツから輸入された専制政治を打倒すれば、若い自由な民族が生まれ、世界文明の進歩に貢献できると信じていた。それがバクーニンのパンスラブ主義である。バクーニンは語る

 

「このスラブ対ポーランドという問題は、1846年以来、僕の固定思想となり、1948年、1849年以来、僕の専門領域となった。」

 

一方マルクスは、パンゲルマン主義を考えていて、ドイツがロシアと結びついたために反動的になり、その影響が全ヨーロッパを専制に導くと考えていた。

 

 バクーニンは例の大演説の結果、ロシア大使キスレフの要求によってフランスから追放され、ブリュッセルに向かった。キスレフはバクーニンに対する世間の同情を貶めるために、「バクーニンをスパイとして雇用していたが、激しすぎるので免職にした」という噂を広めた。フランスの内務大臣デュシャテル伯爵も、それを貴族院で裏書きする答弁をした。

 

 マルクスも1848年以来フランスを追われてブリュッセルにいた。バクーニンはブリュッセルから同志のヘルウエに手紙を送り、マルクスとの関係についてこう語っている。

 

「マルクスやエンゲルスは、ことにマルクスは、ここでもいつもの悪事をやっている。虚栄、奸佞(ねい)、悪口、理想の高言とその実行に対する臆病、生命や活動や誠実などを論じながら、その生命・活動・誠実が欠如し、文学好きな労働者や雄弁な労働者に対する、ヘドの出そうな手練手管(騙すこと)。そしてフォイエル(バッハ)をブルジョワだと罵り、(マルクスのような)ブルジョワそのものが、他人のことをブルジョワだと繰り返し言う。一言で言えば、ウソとバカと、バカとウソ。そんな人間の間では自由に息もできない。僕は彼らの共産主義労働者同盟には入らない。彼らとは何事も一緒にしたくない。」

 

感想 極めて情緒的。

 

四 

 

246 1848年の二月革命のとき、バクーニンは急いでフランスに帰ったが、ベルリンやウィーンで革命的一揆が起こると聞き、4月にはドイツに行き、その後ポーランドの革命運動に参加しようとした。

 

 この時もバクーニン「買収」のうわさが流された。当時のフランスの労働大臣フロコンは「もしフランスにバクーニンのような男が300人もいたら、とても国を治めることはできないだろうから、ドイツで革命を起こすという条件で、フランス人としての旅行券と3000フランの金を持たして、フランスから追い払った」という噂である。

 

247 バクーニンは道中コロンに立ち寄った。そこではマルクスとエンゲルスが『新ライン新聞』を発行しようとしていた。その時は、パリの「ドイツ民主同盟」が、バーデンの大公領で一揆を企て、それが惨敗に終わった直後だった。この同盟にバクーニンの友人ヘルヴェクが入っていたのだが、マルクスはこの一揆についてヘルヴェクを猛烈に攻撃した。バクーニンはヘルヴェクを弁護した。そのためバクーニンとマルクスは絶交した。このことについてその後バクーニンは回想している。

 

「この問題について正直に言おう。マルクスやエンゲルスの方がもっともだったのだ。彼らは一般の情勢を僕よりもよく理解していた。だが彼らはあまりに無遠慮にヘルヴェクを攻撃した。私はそこにいない友人(ヘルヴェク)のために熱心に弁護した。その後(バクーニンとマルクスの間に)衝突が起こった。」

 

バクーニンはそれからベルリンへ行き、ブレスラウ(ポーランド)へ行き、さらにプラハへ行き、プラハでのスラブ人大会で民主主義と革命について宣伝し、そこでの一揆に加わったが、すぐに鎮圧された。そしてまたブレスラウに戻った。

 

248 バクーニンがブレスラウにいたころ、『新ライン新聞』に「パリ通信」として、次の記事が載った。

 

「このポーランド一揆について、こう断言する者がいる。ジョルジュ・サンドが、ここから追放されたロシア人ミシェル・バクーニンをひどく窮地に陥れるような文書を持っている。それには、彼(バクーニン)が、「新しく雇用されたロシアのスパイであり、最近の不幸なポーランド人捕虜役を勤めている」と書かれている。」

 

バクーニンはこの記事に反駁した。それはブレスラウの新聞に掲載され、『新ライン新聞』にも転載された。バクーニンはジョルジュ・サンドにも書簡を送り、彼女(ジョルジュ・サンド)の名がそんな風に使われたことに関して説明を求めた。

 

 ジョルジュ・サンドはその返事を『新ライン新聞』の主筆(マルクス)に送った。

 

「あなたの通信員が報告したことは全くの間違いです。私はあなた(主筆、マルクス)がバクーニンに押しつけようとしている風評に関する何の証拠も持っていたことはありません。この手紙をすぐあなたの新聞に載せて下さい」

 

249 マルクスはこの手紙を新聞に載せた。そして同時に彼がパリ通信員の讒謗を発表したことについてこう説明した。

 

「こうして我々は公人(バクーニン)を厳重に監視するという、新聞の義務を果たした。そして同時に我々はこれによって、パリの某団体で抱かれていた疑いを晴らす機会を、バクーニンに与えた。」

 

その翌月、バクーニンはベルリンでマルクスに会って仲直りした。その後バクーニンはこう語っている。

 

「二人(バクーニンとマルクス)に共通の友人(ジョルジュ・サンド)が、吾々(バクーニンとマルクス)を握手させた。その時、冗談半分にマルクスは僕にこう言った。「今僕は非常に良く訓練された共産党の秘密結社を率いている。僕はその党員の一人に、「バクーニンを殺してこい」と言えば、君をすぐやっつけてしまうだろう。この話の後、我々は1864年まで会うことはなかった。」

 

250 1848年の23年後、1871年、今度はそれが真面目に実行されようとしとしたのだ。第一インターナショナルの中で、無政府主義者らの反対が、マルクスの行おうとした個人的支配の邪魔になったとき、彼(マルクス)はバクーニンを精神的に暗殺したのである。

 

感想 ここで大杉栄はバクーニンが暗殺されたかのように言うが、「精神的に」と添えられているように、1872年のインターナショナルハーグ大会で、バクーニンは除名された。その後バクーニンは独自のインターナショナル大会を開催したが、4年後の1976年に、バクーニンが病死し、その組織は尽きた。バクーニンはスイスのベルンの病院で死んだ。(世界史の窓とWiki

 

 

 

250 アーナルド・ルーゲはマルクスやバクーニンの先輩であるが、当時ライプチヒでバクーニンと会ったルーゲは「バクーニンはロシアで一揆を起こすための資金を獲得した。これからバクーニンがブレスラウに行くのもロシアで一揆を起こす準備のためだった」とし、さらにルーゲは「バクーニンはその才知と愛すべき性格からブレスラウで敬愛された。バクーニンはそこで多くのロシア人を集めた。チェコ人とも連絡をつけた。そしてスラブ人の大会をプラハで開こうとした」と述べている。この大会の後に一揆が起ったことは前にも触れた。

260 『ボヘミヤの政治』の著者ヤコブ・マリーによれば、「一揆が起こり、兵士らが街頭に集まり出した時、バクーニンやポーランド人の大会役員が宿泊していた青星ホテルの窓から銃声が起った。その後、秘密の一揆政府が設けられた」と述べた。

 

 バクーニンはこの一揆の(失敗の)あと、ドイツのあちこちに隠れた。翌年18494月、バクーニンはライプチヒのチェコ学生の間に現れ、ここでボヘミヤの一揆を準備しながら『スラブ人に与う』という小冊子を書いた。その中で、バクーニンは、「スラブの革命主義者とハンガリーやドイツ、イタリアの革命主義者とを結合し、ロシア帝国とオーストリア帝国とプロシャ王国の三専制君主国を倒し、解放されたスラブ諸民族の自由連合を組織する」という夢を述べた。

 

 ところがマルクスはそれを読んで「バクーニンは我々の友人だが、彼の小冊子を批評することはできる」と『新ライン新聞』に批評文を書いた。

 

「ポーランド人とロシア人の他に、恐らくトルコのスラブ人の他に、どのスラブ人にも将来はない。それは他の一切のスラブ人には、独立と活力の歴史的・地理的・政治的・産業的の重要な条件がないからだ。それは単純なことだ。」

 

このことについて1871年、バクーニンは、

 

1848年では我々の意見が間違っていた。理屈は僕の方よりも彼(マルクス)の方に多くあった。しかし次の一点は僕の方に理があった。僕はスラブ人としてドイツの桎梏からスラブ民族を解放したいと思った。ところがマルクスはドイツの愛国者とて、ドイツの桎梏から解放されようとするスラブ人の権利を認めなかった。今でもそうだ。ドイツ人はスラブ人を文明化すべき、つまりドイツ化すべき天職を持っていると考えている。」

 

 

252 バクーニンはその汎スラブ主義を実行するために、ドイツの民主主義者とともに「スラブ民主主義者同盟」をつくって「ドレスデン防御(叛乱)」に当たった。

 「ドレスデン防御」とは184953日の民衆一揆である。フランクフルト議会がドイツ帝国憲法を可決したが、それをサクソン王が拒絶して、一揆に発展した。翌日の54日、サクソン王が逃亡し、ドレスデン仮(臨時)政府ができたが、それは5日間だけ(59日)で終わった。

 その前の4月中旬、バクーニンはライプチヒからドレスデンにやって来て、叛徒の首領の一人となり、プロシャ軍に対する防御を講じていた。バクーニンの偉大な風采とロシアの革命家であることが民衆を惹きつけた。彼の身辺に色々な噂が広まったが、その中に、「ドレスデン中に防御(叛逆)の火を放ったのはバクーニン一人である」というものがあった。

 

 バクーニンはこの一揆が広がると思った。彼は独裁者のようになった。

 (叛乱に敗れた)58日、バクーニンはライプチヒの代議員の前で、ドレスデン防御の全ヨーロッパにおける価値について力説した。その日からステファン・ボルンという若い活版職工が、叛乱軍の司令官になった。ボルンは前年1848年、アルバイター・プリウテルンク(労友会)というドイツ最初の一般的労働者団体を組織していた。

 翌184959日、叛乱軍が敵軍に敗れ、フライベルクに退却した。バクーニンはボルンを説き、叛乱軍と共にこのボヘミヤの地で新しい一揆を起こさせようとした。しかしボルンはそれを拒絶し、軍隊は解散した。バクーニンは仮(臨時)政府のホイプナーや音楽家のリヒアルト・ワグナーと共に、ヘムニツへ逃れた。9日から10日にかけての夜間、武装した市民がホイプナーとバクーニンを捕え、プロシャ軍に引き渡した。ワグナーは妹の家に隠れて逃げた。

 

 ゲルツェンは「バクーニンはドレスデンで名声を博した」と語ったが、マルクスもそれを否定できなかった。マルクスは『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』に、『ドイツにおける革命と反革命』を連載した。その中でマルクスは、

 

「叛徒はほとんど近くの工場地方の労働者だった。彼らはミシェル・バクーニンというロシアの亡命者が、有能で冷静な首領だと思った。」

 

バクーニンはドイツで死刑の宣告を受けてロシア政府に引き渡され、13か月間牢屋に入れられたが、18626月、シベリアから逃亡し、12月、ロンドンに着いた。

 

七 

 

255 バクーニンはすぐにポーランド一揆を計画した。18632月にポーランド一揆が勃発したとき、バクーニンはロンドンを去って、ポーランドに向かった。しかし叛乱軍の首領は無能で、また不和もあり、叛乱は失敗し、バクーニンはロンドンに戻った。それからすぐにフィレンツェに行き、翌年1864年、スウェーデンに行き、ロンドンとパリを経てまたイタリアに戻った。その間バクーニンはロンドンでマルクスに会い、パリではプルードンに会った。

 

バクーニンはロンドンでのマルクスとの会見について語っている。以前バクーニンが(ロシアのレニングラード州の西部)シュルッセルブルグの牢屋にいたとき、マルクス等の社会主義者は、「バクーニンはロシアのスパイだ」という中傷を蒸し返した。マルクスはその弁解のためにバクーニンを訪ねたのだ。

 

「ゲルツェン(1812-1870、帝政ロシアの哲学者・作家)の言うところによると、カール・マルクスはその後インターナショナルの主な創立者の一人となったという。私もマルクスは一大学才を持ち、労働者の解放に身を捧げたと思っていたのだが、そのカール・マルクスが、この私の中傷に大いに関わっていたという。僕はそれを驚かなかった。僕は1845年以来彼のことを知っている。僕は彼の才能を認めている、今後もそうだ。しかし、この有名なドイツの社会主義者は、真面目で熱心な人道と正義の主張者ではなく、むしろドイツの新聞に投稿するユダヤの文士のような性質があると考える。僕は1862年にロンドンに着いたとき、彼との交際を望まなかったので、彼を訪ねなかった。そして1864年に僕がロンドンを通過した時、彼の方から僕を訪ねて来た。彼は自分は決して僕に対する中傷に関係しなかったと断言し、その中傷はけしからんと言っていた。僕はそれを信じなければならなかった。」

 

マルクスは自らが創設しようとしていたインターナショナルへの加盟をバクーニンに勧めたが、バクーニンはそれを拒否し、その年(1864年)イタリアで、最初の無政府主義団体である「社会主義革命家同盟」という秘密結社を組織した。

 マルクスの政府的方法は、後にバクーニンが加盟したインターナショナルの中でその極に達した。

 

以上

 

あとがき 近藤憲二1895-1969

 

感想 本書のタイトル「叛逆の精神」は、近藤憲二が命名したとのことだから、このあとがきが書かれたのは近藤が亡くなる1969年以前に書かれたことになる。それはそうだ。死んでからでは書けない。Wikiによれば近藤は大杉を信奉するアナキストであり、大杉の遺児を金銭的に支援したとのことだ。

 

258 大杉栄の論文集には『生の闘争』『社会的個人主義』『労働運動の哲学』があるが、後にこの三論文集の中の主要な論文を集め、かつその後の論文も集めて『正義を求める心』を、大杉自身が出版した。論文集『自由の先駆』は、大杉没後に編纂されたものである。これは『正義を求める心』の姉妹編である。

 本書に収められている論文は『正義を求める心』からの論文が多い。サンディカリズムの紹介、代議政治の批判が中心である。各論文は互いに補足し合って全体を作り出している。

 大杉は独裁政権に対して自主自治を主張し、中央集権に対しては自由連合主義を対置し、労働運動は、労働者の自己獲得運動であり、人間運動であり、人格運動であるとする。革命的気魄と熱情に満ちた論文である。

 この論文集は当時言論弾圧が激しく、各所に削除や伏字が多く、論旨を欠くことが多かった。本書はそれを復元してある。

 

 

解説 精神の爆発 鎌田慧

 

春三月 縊(くび)り残された 花に舞う

 

幸徳秋水、菅野須賀子ら12名が「逆徒」「大逆」「陰謀囚」などというおどろおどろしい罪名によって絞首台で処刑されたのは、今からちょうど100年前の1911年明治441月下旬のことであった。

 処刑から2か月後の324日、神楽坂倶楽部で、堺利彦1871-1933石川三四郎1876-1956、木下尚江1869-1937など、連座を免れた仲間が集まったが、そのときすでに書かれていた寄せ書きの隙間に書き加えられたのが、この大杉栄の一句である。

 

 12名を絞首刑、12名を無期懲役、2名を8年と12年の有期刑にした大審院判決は、「天皇を暗殺しようとした」という罪状で、秘密裁判で、裁いた結果だった。刑法73条、天皇など皇族に「危急を加え又は加えんとしたる者」という犯罪事実があったと認定されたのだが、実際は、爆弾をつくった男が一人いたのは事実だが、実行でも、未遂でもなく、具体的な計画もない、「煙のような座談」(菅野須賀子『死出の道艸』)でしかなかった。

261 神格化された天皇に対して反感を感じたり、悪口を言ったり、死んだ方がいい、と思ったりするのは、さほどめずらしくない、ありふれた庶民感情だった。

 

 幸徳など無政府主義者や社会主義者たちは、非戦を主張し、厭戦気分を煽っていた。元勲・山縣有朋やその意向を体現する桂太郎軍閥政府にとって、その言論は目に余る存在だった。

 

 26人の逆徒を作り出し、死刑などの重罪に処したあと、その論功行賞もあり、首相への出世街道をまっしぐらに邁進したのが、検事局次長の平沼騏一郎だった。平沼は爆弾の部品が押収されると、「秋水が首魁に違いない。先ず秋水を捕えねばならぬ」(『回顧録』といい、その部下だった小山松吉(後に検事総長、法務大臣)も、「証拠は薄弱だけれど、幸徳は此の事件に関係のない筈はないと断定した」と、司法省内の講演会で語った。「我々の任務は赤を逞しう出来ぬやう、撲滅するやうにしなければならぬ」というのが、その後治安維持法を制定した平沼や小山などの思想検事たちの思想だった。

 

 大杉が縊り殺されたのは38歳、幸徳秋水は39歳、菅野須賀子は31歳、大逆をでっち上げられて処刑された12人のうち、10人が30代の若さだった。

 

 

大杉は男臭く、ダンディで、腕っぷしが強く、エネルギーの塊のようだった。知的で語学に堪能で、ナイーブで剽軽(ひょうきん)で、幸徳亡きあとの日本のアナキストの代表的人物だった。

 

 ロシアのアナキストはボルシェビキ(多数派)革命政権によって弾圧されつくした。アナは日本でも少数派で、幸徳や大杉が始祖である。

 

 今ソ連式の独裁、中央集権、上意下達の運動や国家は、解体しつつある。ボルは組織的、合理的で、間違いを認めず、どこか冷酷なところがあるが、アナは非組織的で、人間的で、欠点だらけだが、仲が良かった。

 

 1919年、大杉と同志の和田久太郎1893-1928、近藤健二(大杉の妹あやめと結婚、死別後、堺の娘真柄と再婚)の三人が、東京の大森新井宿に住んでいた山川均(後日本社会党幹部、菊栄は妻)を訪ねて歓談した。その時大杉はロシア革命を批判した。「ソヴィエトの地方自治はいい。しかしそれがやがて中央政府をでっち上げ、革命を殺した。ボルシェビキは秩序の回復を急ぎ過ぎた。もっとうんとかき回していれば、クロポトキンの理想社会は実現されないまでも、もう少しいい社会が生まれたと思う。(近藤健二『一無政府主義者の回想』平凡社)

264 近藤健二のこの回想記の初出は1928年昭和3年の『改造』である。

 

その5年前1914年大正3年ごろ、近藤は大杉とはじめて会った。

 

「洋書のぎっしり詰まった本棚があり、床には日本刀が二、三本おいてあった。軍人だったお父さんが持っていたものだと、あとできいた。わたしより十うえだから、29歳か30歳だった。マドロスパイプにネヴィカットをつめてひっきりなしに吸っており、話すときは大きな目玉をぐるぐる動かし、ひどいどもりで、しばらく金魚が麩を食うときのような恰好をしてから、たたきつけるように話す」

 

大杉の「母の一日の仕事の主な一つは、僕を怒鳴りつけたり打ったりすること」(『自叙伝』)とあるように、息子がどもると母親は殴っていた。父親は職業軍人で連隊長どまりだったので、本人は陸軍大将を目指して幼年学校に入学した。

和田久太郎は虐殺された大杉の仇を討つために、大震災後の戒厳令司令官だった福田雅太郎・陸軍大将を狙撃したが失敗した。和田は無期懲役の刑を受け、秋田監獄で服役していたが、3年後の1928年、獄中で縊死した。35歳だった。

 

もろもろの 悩みも消ゆる 雪の風

 

厳寒の二月だった。ちなみに大逆事件で無期懲役にされた高木顕明1864-1914も、その11(14)年前、同じ秋田監獄で自死した。

 

266 大杉はフランスのアナキスト機関紙などを通じて、ロシア革命のときの無視府主義者に対するボリシェビキの弾圧を知っていた。

大杉は「もっともらしい理屈ほどまやかしものさ」と常日頃語っていた。原理原則への懐疑である。「僕は精神が好きだ。しかしその精神が理論化されると大がいは厭になる。理論化という行程の間に、多くは社会的現実との調和、事大的妥協があるからだ。まやかしがあるからだ。」「思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そして更にはまた動機にも自由あれ。」「宣言」のキーワードは「精神そのままの爆発だ」である。

 

石川啄木が密かに書いた『閉塞』の時代だった。堺利彦は「ここしばらくねこをかぶるの必要に迫られている」としたが、大杉はむしろ積極的に打って出た。「死刑の宣告を受ける覚悟がなければ、何事もできない。」そしてその第一歩が『近代思想』の発行である。明治天皇の死去1912.7後発行された32頁の小冊子である。創刊号の「発行事情」で「なにかしら社会的に動いていねば止まらない僕の本能は、そうそう黙っていられぬ」と、鉄鎖に縛られた男が、両腕を広げて何かを訴えている絵を扉に掲げた。そして巻頭言の「本能と創造」で、「衝動的行為、本能的行為こそが、現代の頽廃的気分を救う。」ベルグソンの言う「創造的進化」の原動力である。

 

社会は「大逆事件」1911の大弾圧で冷え切っていた。翌年1912.7明治天皇が死去した。その混乱と解放感が、カオス的状況を作り出していた。『近代思想』はこの時に創刊された。大正デモクラシーに向かって時代は少し明るくなったようだ。

 

268 大杉の運動論は「理想は常にその運動と伴い、その運動とともに進んで行く。」(「秩序の紊乱」)「自由と創造とは我々の外に、また将来にあるのではない。われわれの中に、現に、あるのだ。」徳富蘇花は明治の大量処刑1911のあと、一高生に向かって「新しいものは常に謀反である。肉体の死は何でもない。恐るべきは霊魂の死である。」(「謀反論」)

大杉の精神は「労働運動の精神」でよく語られているように、資本家に対する絶対的服従、奴隷の生活からの解放である。

「自分自身の生活、自主自治の生活を得たいのだ。自分で、自分の運命を決したいのだ。少なくともその決定に与りたいのだ。」

「繰り返して言う。労働運動は労働者の自己獲得運動である。人間運動である。人格運動である。」

私はこの大杉の精神を「自己決定の美学」と呼ぶ。「生の拡充」の障害になる一切の事物を除去し、破壊する。その自分に対する命令に背く時、「我々の自我は停滞し、腐敗し、壊滅する。」

大杉は社会主義の崩壊や、賃上げだけを問題にする労働運動の停滞を見透かしていた。個人の拡充をどう作るかが問題だ。

 

感想 2025411() 感動。すばらしい文章だ。大杉の精神がよく分かった。

 

以上

 

 

大杉栄『叛逆の精神』平凡社ライブラリー2011

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