崔善愛(チェソンエ)「在日朝鮮人と天皇制 指紋押捺拒否の闘いから」
wamセミナー 天皇制を考える(18)
20251103 月 14:00~16:00 AVACOチャペル
崔善愛さんが指紋押捺拒否闘争の半生を語る。
感想 2025年11月4日(火)
・崔善愛さんの人生の転換契機は、妹の断乎たる指紋押捺拒否への決意だった。また父の影響もある。
・崔善愛さんは言う。日本人は「天皇制に抗する」と思っていても、それを敢えて口にする人は少ない。口にしなければならない。そう我々に提起したように思えた。
メモ
司会 渡辺
天皇制にまつわる祝日を祝日として祝わない取り組みを始めて今日はその18回目である。崔善愛さんは昭和天皇死去時の恩赦は、指紋押捺闘争をやめさせるものであると考えた。
崔善愛
朝鮮人に関して三つ呼称がある。私は今は「在日朝鮮人」を採用する。
1在日朝鮮人
2在日韓国・朝鮮人 「韓国」と「朝鮮」とをなぜ分けるのか。
3在日コリアン 最近の呼称
「朝鮮人」という呼称は差別語であると某韓国人が私に言ったが、差別語だとみなされないようにと思って「朝鮮人」の呼称を使う。
私は1959年12月に宝塚市で生まれ、9年後の1968年に小倉に移住した。そこの父の教会に参加する人たちは全てが朝鮮人だった。教会にはハングルが書かれていた。
「重荷を背負う」とはどういうことか。それを自覚していない。
私にとって教会と小学校とは別世界だった。幼稚園で私のことを「さいぜんあい」と呼ばれてショックを受けた。ピアノを弾く時だけほっとできた。
中2 14歳 市役所で外国人登録をさせられた。出頭し、市役所の奥へ連れていかれた。「本籍地、…」最後に「指紋を押してね。」回転式で3枚指紋を取られた。悪人と見られていると感じた。
「和名 こと 朝鮮名」
指紋押捺は3年ごとに行われた。2回目は17歳の時だった。3回目は20歳で大学生だった。愛知県立大でピアノを学んでいた。
14歳の妹が「指紋を押さない」と言った。「友人は誰も押していない」私「押さないと違法だよ。」と言ったものの、妹の固い決意に動かされた。
1年後輩の学友に「私は部落出身だ」と告白された。「告白したら結婚を考えている彼が離れてしまう」しかし「言わないわけにいかない」と悩んでいた。
「この辺は部落だったんだって」などと何気なく言う人がいる。私はこの時、怒りを学んだ。その後輩の親は「隠し通しなさい」と言った。
部落は制度上はないが、実際はある。人々がそれに対して何もしないことにより部落差別が引き継がれてゆく。天皇制も同様だ。
20歳の時、私は指紋押捺をおかしいと思った。1981年1月、21歳の時、私は市役所で指紋押捺を拒否した。指紋押捺拒否裁判を開始した。
父は人権運動の活動家で、私の指紋押捺拒否という事実が公表(報道)された。私は公表されたくなかったのだが。「21歳が指紋押捺を拒否」と報道された。
拒否者の最初はハン・ジョンで、次が父、その次が私だった。
小倉検察庁に呼び出され、父のことを聞かれて、ペラペラしゃべってしまった。そのとき「指紋を押して5000円払ったら、なかったことにしてやる」と言われた。私は告発された/し、裁判になった。地裁では1万円の有罪判決。高裁でも有罪判決「外国人は公共の福祉の観点から人権が制限されてもやむを得ない。」
1983年、1万6千人が指紋押捺を拒否した。当時の法相「外国人になめられている。」その時報復措置として「再入国拒否制度」が生まれた。「また日本に帰って来てもいいですか。」指紋押捺を拒否すると再入国できなくなる。
大学4年のとき、留学したかった。日本を出たかった。
韓国に親戚がいるが、言葉が通じない。ソウルは、外国であると感じた。日本に帰りたかった。
私はピアノの公演は嫌いだった。
1986年~89年 再入国不許可のまま米国へ留学。26歳~29歳。再入国不許可取り消し訴訟。
1988年 特別永住資格から「180日在留」へ。10年間不安定な在留資格更新。
1989年1月、昭和天皇死去に伴う「恩赦」 29歳 恩赦拒否。
1998年、39歳、「再入国取消&永住資格確定」確認訴訟 最高裁棄却。
1999年、参院法務委で参考人招致。指紋押捺制度廃止。2007年復活。
日本を出たかった。20 or
26歳で日本を出た。日本に帰れないと分かっているのに。朝鮮(韓国?)から給付型の奨学金を貰った。韓国人パスポートでは行ける国が少なかった。永住権がなくなるのに日本を離れようと決意した。
米はビザを出すのだろうか。日本への再入国不許可なら亡命とみなされる。米大使館へ行った。「人権、キリスト教信者だから、ビザ発給を求めるには議会の承認が必要だ。」米領事館からビザを貰った。アフリカ系米国人が対応したが曰く、「あなたは日本で生まれて、両親が日本にいるのだから、この国はあなたの国だ。」
5月、成田で恐ろしいことになった。箱崎バスターミナルでは「ここでは扱えない。成田へ行け」と言われた。家族は無言だった。パスポートには「再入国許可」の印がなかった。係官から「外国人登録を置いていけ」と言われた。イエローカード。そして「サインせよ」と言われた。すると父がサインするなと言った。父のアピール(抗議文)「国際人権規約に帰国の権利が認められている。再入国がないのはおかしい。」
米へ行った。父が心配で心筋梗塞に。父は遺書を書いた。私はホームシックになった。眠く、力が入らなかった。ピアノも弾けなかった。
その後、父は回復した。2年後に法律が変更され、一旦指紋押捺した人は再入国を許可されることになったが、これは法律制定前の人には適用されなかった。
米での2年経過後の1988年に、ロスへ行った。「再入国規定がないから乗れない。」と言われ、ニューヨークへ行った。私は日本に帰りたかった。そこで「旅行者としてなら72時間ならトランジットで日本で過ごせる。」ことが分かり、1週間後、大韓航空から「韓国へなら行ける」と言われた。「成田経由のソウル行きに乗りなさい」と。1988年6月28日、私はロスから大韓航空機に搭乗し、成田に朝6時に着いた。法相と父の話が新聞に掲載された。私は入国手続きで外国人向けレーンに並んだ。一番最後に並んだ。「崔善愛さんですか。待っていました。」と別室で6時間取調べ。「拒否すれば、牛久の収容所へ○○」午後4時、法相からファクス「180日間特別在留許可」永住許可はなくなっていた。
その後14年間、2002 or 2004年まで、在留を更新し続けた。不安定な身分なので仕事はできなかった。(横浜の)中華街の入国管理局へ行った。混雑していた。パスポートを持てずに1年間○○ 私は裁判をやっていたので差別された。(書類の発行に)3か月待たされた。つまり在留許可のない状態が続いた。それを「申請中」という。期限が切れれば不法滞在者となる。判決で勝つしか方法がなかった。福岡高裁で初めて勝ったが、「行き過ぎである、やり直しなさい。」とされ、最高裁で1978年or 1998年、敗訴。在留許可申請をくり返すしかなかった。1998年4月、敗訴が判例として残った。ところがその半年後、金大中訪日時に、指紋押捺が廃止となる。1998年〇月のことである。しかしそれは遡って適用されなかった。父母とはこのとき死別していた。ハーグ国際法廷に提訴したらと言われたが、私は国内が変わらねばと思った。
翌年の1999年、参院法務委に参考人として呼ばれた。議員は誰もこの指紋押捺問題について知らなかった。このころ公明は野党だった。公明、社会、共産が助けてくれた。このとき自民議員からは「裁判については触れるな」と言われた。ところが空気が変わり、法相が(私に「永住資格を)出せ、申し訳ない、永住資格申請をすればもとにもどす」と言った。彼らは裁判に勝利しさえすればそれでよかったのである。
1999年に指紋押捺制度は廃止されたが、そのために戦った人は無視された。
一般永住と特別永住 特別永住は日韓協定が根拠となっている。
1999年、法が制定され、指紋押捺制度が廃止された(が、この年「国歌国旗法」が制定された。)
2000年、同法が施行された。
2004年 私は特別永住権を取り戻した。私のかつての「永住資格」は「永住」だったのにいとも簡単にはぎとられた。
1975年、父は、在日の参政権に関して公開質問状を出した。NHKに対して自身の名前の呼称に関して人格権訴訟を起こした。名前には人格権がある。罪状を社会的○○汚名…
私はシュタルケルの下でピアノを学んだ。シュタルケル「あなたは怯えている。一番大好きな歌を歌いなさい」と言われ、「夕焼け小焼け」を歌った。「ショパンもそのように弾きなさい」と教えられた。
TCジャクソンに会う。
国境がなくなることを望む。ドイツ憲法は「故郷に戻る権利」を規定している。
昭和天皇死去による恩赦拒否 私は象徴天皇憲法を認めたくない。日本人になりたくない。天皇の侵略責任を隠している。そう思う日本人もいるが、表立って敢えて告白しない。
以上