2025年11月24日月曜日

笠原十九司『南京事件 新版』岩波新書2025

 

笠原十九司『南京事件 新版』岩波新書2025

 

 

FB(Meta)で投稿したら以下は問題表現(差別的なヘイト)だという。事実を語っているだけなのに。

 

後記 Metaが「ヘイト」と指摘する理由は、どうもイスラエルや米批判を問題としているらしい。

 

・「イスラエルのガザ人に対する虐殺も同様。差別や侮蔑があるから殺せるのだ。」(任世淦『東史郎日記と私』ノーモア南京の会2017101

・「こんなに立派な人道的言辞を述べながら、なぜ米は日本全土を空襲し、原爆を投下したのか。復讐か。」(笠原十九司『南京事件 新版』岩波新書2025053

 

 

019 大山特攻隊自爆事件

 

193777日に偶発的に始まった盧溝橋事件が、現地で停戦協定が成立した7/11とき、内地の軍部*(武藤章、田中新一)では戦争継続論(華北分離工作1936*推進)が強く、7/10、軍部は中国を叩く案をまとめ、7/11、閣議決定・政府声明(北支事変、中国の呼称は華北戦争)となった。

 

*参謀本部と陸軍省。

*傀儡政権「冀東防共自治政府」が、すでに1935年に、北京と天津との間に成立していた。これは中国側が当時の力の差を考慮し、当面は日本とすぐに正面から戦うという方針を避けていたから可能だった。満州事変後の「不抵抗主義」024

 

驚きだがこのとき、石原莞爾・参謀本部第一部長や、河辺虎四郎・参謀本部第二課長らは、近衛首相とともに、秘密裏に中国側と停戦交渉(日華停戦条件をまとめ、船津辰一郎が国民政府の高宗部と交渉)を進めていた8/7, 8のだが、海軍では戦争拡大に動いていた。そこで持ち出されたのが大山勇夫による自滅的な中国陣地への突入、つまり特攻的な自死行為8/8,9であった。それはお上(大川内伝七・上海海軍特別陸選隊司令官)から命令されたもの*だった。その間の事情は『大山勇夫の日記』に書いてある。命令は口頭でなされ、記録はない。

大山勇夫は前日8/8の朝に斎戒沐浴し、身辺整理し、書類を焼却し、夕方にも風呂に入り、新しい下着に着かえ(旧部下の回想)、8/8付の日記には遺書が挟まれていた。その遺書は「家人曰く忠義を尽くせ」と書かれた半紙であるが、その半紙には大山の切った髪と、母親が出征時に送った千人針が挟まれていた。大山勇夫の当日8/9の日記「雑念を去れ、敵を見詰めよ。士魂。任務は力なり。」

 

*「お国のために死んでくれ。家族のことは面倒をみる」「こちらからは攻撃するな」

*大川内伝七はその上司の長谷川清・第三艦隊司令長官から伝えられていた。

 

大山勇夫は89日の夕方、ピストルを着用せず、陸戦隊員も連れず、国民党軍の虹橋(こうきょう)飛行場を目指して出かけ、正門近くで射殺された。中国側は大山が陸戦隊を先導していると思った。

 

海軍(軍令部)は、この自滅的な大山事件を中国側による虐殺行為とでっち上げ、その解決のために無理な条件を中国側につきつけ8/11、戦争を挑発した。対する蒋介石も8/12、応戦を決意した。日本のマスコミも中国に対する国民の戦意を昂揚させた。

 

蒋介石もそれまでに軍備を整えていた。蒋介石の作戦は、日本との戦争は自力では勝てないので、欧米やソ連を巻き込む持久戦に持ち込むことであった。中国はドイツの指導で軍備を整え、英米からは航空機を調達していた。

 

*日本による対中国戦闘行為は、中国の主権と独立を認める九か国条約1922や不戦条約1928に違反していた。

 

025 大山事件の翌日の8/10、軍令部と海軍省は、陸軍二個師団を上海に投入する閣議決定を求めた。

 

8/12、伏見宮・軍令部総長は、長谷川清・第三艦隊司令長官の上海攻撃を認め、長谷川は南京空襲を命令し、12日夜から出撃態勢に入ったが、13日は台風のために延期され、(8/13の陸上での海軍陸戦隊による日中戦争勃発を受けて)14日、15日に空襲を実施した026, 031, 032, 033, 034。九州(長崎の大村の木更津航空隊)や台湾(台北の鹿屋航空隊)から、海軍航空隊が渡洋爆撃をした。済州島に帰着。

 

8/12の夜、米内海相は、近衛首相、杉山元陸相、広田弘毅外相に、陸軍の上海派兵(上海派遣軍・松井石根司令官)を認めさえた。

 

8/13、日中戦争開始。日本海軍陸戦隊と中国軍第88師が、中国側の閘北(ざほく)と日本側の虹口の境界で戦闘開始。(第二次上海事変)

 

海軍の「九六式陸上攻撃機」とは同機が制式採用された1936年、紀元2596年の下二けたを取って命名。同機は山本五十六が考案し、三菱重工が製造。1935年に完成。1936年に制式採用。中型攻撃機(中攻)とも言われる。

 

 

傲慢な昭和天皇の檄文193794日、衆議院開会式

 

「中華民国深く帝国の真意を解せず濫(みだ)りに事を構え*、遂に今次の事変を見るに至る。朕これを憾(うら)みとす。今や朕が軍人は、百艱(かん)を排してその忠勇を致しつつあり。是一に中華民国の反省を促して速やかに東亜の平和*を確立せんとするに他ならず。朕は帝国臣民が今日の時局に鑑み、忠誠*公に奉じ、和協心を一にして賛襄(さんじょう、君主を助ける)もって所期の目的を達成せんことを望む。」

 

* 「事を構え」ているのは日本の方では。

* 「東亜の平和」を乱しているのは日本では。

* 国民(臣民)に自身に対する忠誠を誓わせている。

 

 

 

ハーグ陸戦条約「開戦に関する条約」1907違反

 

・海軍は宣戦布告なしに首都南京を空爆した。036

・海軍は非武装都市を空爆した。052 ということはアメリカも同条約に違反していたということか。

 

053 イギリスは国際連盟に日本の軍事行動を非難する決議案を提出し、928日、連盟総会は「都市爆撃に対する国際連盟の対日非難決議」を全会一致で採択した。

 

「日本航空機による支那における無防備都市の空中爆撃の問題を緊急に考慮し、かかる爆撃の結果として多数の子女を含む無辜の人民に与えられたる生命の損害に対し深甚なる弔意を表し、世界を通じて恐怖と義憤との念を生ぜしめたるかかる行為に対しては、何等弁明の余地なきことを宣言し、ここに右行動を厳粛に非難す。」

 

(こんなに立派な人道的言辞を述べながら、なぜ米は日本全土を空襲し、原爆を投下したのか。復讐か。)

 

1937105日、米大統領フランクリン・ルーズベルトは、国際社会の健康を守るために(日本を)隔離すべきだとする所謂「隔離演説」を行った。

 

「戦線の布告も警告も、また正当な理由もなく婦女子を含む一般市民が、空中からの爆弾によって仮借なく殺戮されている戦慄すべき状態が現出している。このような好戦的傾向が漸次他国に蔓延するおそれがある。彼らは、平和を愛好する国民の共同行動によって隔離されるべきである。」

 

石射猪太郎(いしいいたろう)1887-1954 戦前にも常識的な人がいた。森島守人1896-1975もそんな感じがした。石射猪太郎の「南京アトロシティーズ」(外交官の一生298)という感覚が正常だ。本書でも10/4付日記「日本の新聞はもう駄目だ」05210/7付日記「憂うべきは日本自体の無反省だ」054

 

 

感想

 

弁当を持たない日本軍の戦争のやり方 著者笠原十九司も言うように、日本軍、特に上海・南京占領軍は、食料を自前で用意せず、最初から中国人のご家庭からいただく方針であった。066,069,079,080,081,084,085相手国に攻め込んでおきながら「ご飯を分けて下さい」と言うわけにもいかないから、武力で強奪した。そのような状況だから、食糧の掠奪以外にも、様々な悪行(強姦、虐殺)が当然出てくる。

 

軍と中央政府・軍指導部との乖離 満州事変の画策や満洲国の樹立において、関東軍が中央政府の方針と乖離していたように、上海派遣軍も中央政府の方針(上海獲得で停戦)を無視して、南京へ向かった。勝てばいいじゃないか。勝ってそれを既成事実にし、中億は首都南京が落ちれば、屈服するだろうと、南京へ突き進んだ。

 

 

メモ・感想

 

081 石川達三「生きている軍隊」(1938.3、中央公論)は、日本軍(第16師団の歩兵第30旅団第33連隊)が上海から南京に進撃する過程で、中国人婦女の凌辱、捕虜・投降兵・敗残兵の虐殺、民間人の殺害、略奪、放火、民間人の連行と使役などの不法行為を描写して発禁処分となり、石川達三は禁錮4か月執行猶予3年の判決を受けた。また「牧原日記」は、前記の第16師団第19旅団の歩兵第20連隊に所属した牧原信夫上等兵の日記であるが、それも上記の不法行為を描写している。

 

私のお父さんやお祖父さんの悪行を認めたくないという右翼諸君の心情は理解できるが、その悪行を否定すれば、被害を受けた相手中国の気が済まない。

 

085 上官は「兵士の元気をつくるに却って必要」と強姦をやらせていた。「中国女性を征服し」「力づくで女をものにする」という戦場の役得としての性暴力が、兵士を南京攻略に駆り立てるために黙認された。

 

092 倪塘村虐殺事件 日本軍は逃げ遅れた本村民とよそから避難してきた中国人40余人を倪安仁という村民の家に押し込めて放火して焼き殺した。翌日も捕虜や他村からの村民80名を機関銃掃射した。1人の女性を男8人で輪姦し、最後に村に放火した。本多勝一「南京への道」は目撃者からの聞き取りに基づく。

 

094 放火後の感想「気持ちがせいせいした。」

 

104 「膺懲」という言葉そのものの中に中国に対する侮蔑・蔑視がある。

 

大日本帝国も国際条約(ハーグ陸戦条約104)を批准し、それを守った部隊もあったようだが、上海・南京侵略軍はそれを取り締まる組織をもたなかった。ハーグ陸戦条約では投降兵、敗残兵、捕虜の殺害は禁止されていた。

108 陸軍刑法1908でも、その第九章 略奪の罪 第86条は「戦地または帝国軍の占領地において住民の財物を略奪したる者は、1年以上の有期懲役に処す。前記の罪を犯すに当たり、婦女を強姦したるときは、無期または7年以上の懲役に処す」としていた。

ところが中支那方面軍は食料の現地調達=掠奪を強いた。これは陸軍刑法に違反する行為の強要だった。

115 日本軍は部隊によって軍紀の乱れが様々だった。非戦闘員を殺害しない部隊もあった。

 

 

感想 南京事件における中国人の死因の多様性 日本軍による虐殺も当然あるが、中国軍同志の討ち合いや、揚子江に入水した人たちもいた。

 

中国軍同志の撃ち合いの事情とは以下の通りである。中国南京防衛軍の敗色が濃くなり、南京を脱出することになったが、中国軍指導部は一般兵士に、南京城西方の長江沿岸の下関(挹江門)から長江を渡って対岸の浦口へ逃げるのではなく、日本軍に向かって正面突破して「逃げる」ように命令した。しかしそれはますます敗色が濃くなってゆく状況では不可能であった。それにもかかわらず中国軍指導部は下関(挹江門)に逃れて来る軍人や民衆を実力で阻止するよう第36師に命令していた。そのため下関に逃げようとしていた民間人や兵隊が道路に滞留した。(当時の南京城区の民間人は50万人と言われる124

その状況を武力打破したのが、戦車を伴って下関に逃げてきた中国人部隊144だった。それを阻止するよう命令されていた第36142と打ち合いになった。

後者が負けると、それまで下関に逃げようとして道路に滞留していた民間人や兵隊が、どっと揚子江沿岸に押し寄せた。しかしそこには船はなかった。軍指導部の情報を知っていた運輸司令部司令と参謀長144は、自ら船で対岸に逃げていたからである。そこで民衆は筏や丸太、板切れなどで揚子江を渡ろうとした146が、冬の冷水に体力を消耗して死んだ人が多かった。揚子江の幅は1.5キロあった。

揚子江が渡れないと分かった中国軍人は、南京城内に戻って「安全区」に集まり、民間人の服を求めて軍服を脱ぎ捨てたが、民間服(平服)は不足し、中には下着になった人もいたという。日本側から「便衣兵」とされた人たちがこれなのだろう。147

 

正面突破撤退作戦の失敗の一因は、中国軍指導部の撤退指示が遅れたことにある。中国軍が潰滅しかけたときに同指令を出したからである。しかしその遠因は日本軍にあることに変わりはないが。

 

 

感想 南京大量虐殺の諸相

 

前回、中国軍相互による撃ちあいについて述べたが、南京大量虐殺事件のメインは、投降兵の殺害であったようだ。日本軍との戦闘中の死傷者はわずか(2%弱)だった。日本軍は中国軍が総崩れした後に投降した大軍を、日本軍の損害を少なくするために一旦は捕虜として受け入れつつ、もともと捕虜に食べさせる食糧はなかったから、最終的に「処分」された。1213日に、第16師団だけでも殺害した投降兵・敗残兵の数は23千人をこえた。162

もともと日本軍には食糧がなかったから、捕虜はとらず、「処分」する方針だった。第114師団歩兵第127旅団第66連隊第一大隊戦闘詳報によれば、

 

163 「旅団(歩兵第127旅団)命令により捕虜は全部殺すべし。その方法は(少しずつ)十数名を捕縛し、逐次銃殺してはいかん。…各中隊(第一、第三、第四中隊)に捕虜を等分に分配し、監禁室より50名宛連れ出し、第一中隊は路営地南方(死体を埋めやすいように)谷地、第三中隊は路営地西南方凹地、第四中隊は路営地東南谷地において刺殺せしむることとせり。…各隊とも午後5時準備終わり刺殺を開始し、おおむね午後730分刺殺を終わり(その間2時間半)、連隊に報告す。…捕虜は観念し恐れず、軍刀の前に首を刺し伸ぶるもの、銃剣の前に乗り出して従容としおるものありたるも、中には泣き喚(わめ)き救助を嘆願せるものあり。特に隊長巡視のさいは各所にその声おこれり。

 

これはハーグ陸戦条約の規則第33条の戦闘中の禁止事項とされる「敵国または敵軍に属する者を背信の行為(捕虜にしてやると言っておきながら殺す)をもって殺傷すること」に当たる。

 

 

165 揚子江沿岸と揚子江攻撃 第16師団歩兵第30旅団の佐々木到一少将の私記によれば、「江岸(揚子江の岸)に蝟集(いしゅう、大勢が一か所に集まる)し、あるいは江上を逃れる敗敵を掃射して、無慮15千発の弾丸を射ち尽くした。」

揚子江攻撃 第16師団歩兵第30旅団歩兵第33連隊の「南京附近戦闘詳報」によれば、「江上の敵を猛射すること2時間殲滅せし敵2千を下らざるものと判断す。」

166 中州への攻撃 歩兵第41連隊第12中隊「江興(心)州敗残兵掃蕩に関する戦闘詳報」によれば、「長江上の江心洲の捕虜は後刻処置するを以て、それまで同島において自活せしめよとの命令あり。捕虜2350人。」

 

空爆175や軍艦168からの攻撃もあった。揚子江上を筏で逃げる人々を攻撃した。揚子江の中州に逃げた人々を殺した。

 

172 「最後まで南京を守った支那兵は約10万人、うち8万人が剿滅され、揚子江を浦口へ逃げられたものが2万人、筏で逃げて揚子江上で撃たれた者が1万人に達せりという。」(支那方面艦隊軍医長兼第三艦隊軍医長泰山弘道が19371219日に第三号掃海艇の大谷法主艦長から聞いた話。『上海戦従軍日誌 巻ノ九』)

 

 

173 第87師第261旅長・陳頤鼎によれば、南京防衛戦のために紫禁山東南山麓に配属された第87師第261旅の部隊員数は4000人で、その中の死傷者は15%の600人、うち重傷者は1%の50人であった。

175 下関で烏合の衆となった兵士を日本軍機が爆撃し、莫大な死者が出た。

177 揚子江上の八卦洲に漂着した中国人は何千人といた。

178 第87師第261旅(旅長・陳頤鼎)の部隊員4000人中、江北に逃げられたのは100人で、戦死傷者700人(1.7%)、うち戦死者は200人(0.5%)、負傷者500人だった。(戦傷者400余人は置き去りにされ、日本軍に機銃掃射され1人を除いて殺された174というから、残りの3200人(80%))2900人(72.5%)はその後に殺されたことになる。

 

 

184 英海軍レディーバード号事件 Wikiでは松井石根の宣誓口述書を根拠として、中国軍が外国国旗を掲げていたとか、同艦が国民党軍の船団の中にいたとか、濃霧だったとか、様々な言い訳をして誤認して砲撃したとしているが、濃霧ならどうして命中したのか。

 

185 米艦船パナイ号の「誤爆」撃沈事件では、国内では日本国民がこぞって米大使館に謝罪し、誤爆だったとごまかそうとしたらしいが、米側は謝罪と賠償は受け入れたが、誤爆だったとは受け取らなかった。

 

 

191 『東京日日新聞』19371215

 

「大戦捷! 歓喜の熱風 来たぞ! 世紀の祝祭日 師走の街に十七日早く“お正月” 帝都は旗、旗、旗の波」

 

「一億国民待望の「南京陥落広報」に接した十四日の朝は、東亜の暗雲を一掃したような澄み切った太陽が燦燦とそそぎながら、歓喜の日和だ。黎明をついた新聞配達の足音が各家を訪れた時、ラジオで放送開始の午前六時半、嚠喨(りゅうりょう)たるラッパの音とともに臨時ニュースを発表した時、全国民は歓呼の声をあげた。子供たちは床のなかで「万歳」を叫んだ。国旗は各戸はもちろん市電、市バスにまで翻り、ここかしこに明朗な万歳。クリスマスやお正月を蹴飛ばした世紀の祝祭日は、赤穂浪士が本懐をとげた日と同じうして到来した。

 

192 陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下御言葉(19371215日)

 

「中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃を行い、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申伝えよ。

 

 

194 松井石根は自らが策定した「南京城の攻略および入城に関する注意事項」126を守るどころか、それを無視して、17日の入場行進を安全にするために南京城内外周辺の掃蕩を急がせた。朝香宮鳩彦王の身にもしものことがあったら首が飛んだ。また速やかな入場行進の挙行は、日本国民に対する自らのアッピールとなったからだ。

 

208 難民区では敗残兵とみなされた6000人くらいの若者が銃殺や手榴弾で殺された。敗残兵の中に市民も含まれていた。「難民区」が安全かといえばそうではなかった。難民区は外国人が組織し、南京市に集まって来る難民を市役所の役人のように面倒をみた。

 

 

メモ

 

210 遅れてきた山田支隊は、12/13の夕方から12/1412/15にかけて、下関から揚子江の南岸を下流に逃れて来て投降した中国人将兵や一般人を捕虜として捕らえた。食料がない。南京の司令部に問い合わせたところ、処分せよとのこと。12/16から12/17にかけて銃殺、刺突。最後は石油で燃やして全員の息の根を止め、揚子江に流した。その数約2万(数千)人。作業終了は1219日。このように南京城の外に逃れて来た人達が、犠牲者の主要部分だったと思われる。

 

215 南京防衛軍のうち広東出身の地方軍は、撤退作戦通りに日本軍の正面を突破して西南の安徽省方面へ逃げた。日本軍はおそれをなし、南京城周辺の県城と農村を再度襲撃し殺戮した。各件の被害は小規模だが、合計すると多くなる。

 

217 12/17、松井石根は天皇陛下万歳三唱の2回目は感極まって声にならなかった。「未曽有の盛事、感慨無量なり」(松井石根大将陣中日記)

 

感想 南京侵攻(攻略)は陸軍中央の統制を無視して行われたのだが、昭和天皇はそれを知りながら、南京陥落に祝意を伝えた。また当時の新聞の盛り上がり様も、反省に値する。

 

 

 

戦闘行為中の戦死者を除いた中国人犠牲者数を推計すると 26.9万人~29.9万人

 

260 中国軍人(南京防衛軍) 15万人

 

脱出 5万人 うち帰隊4万人 逃亡1万人 (南京戦直後に収容・集結した将兵 3.5万人)

戦死者 2万人

戦死者+脱出者=7万人 

残り8万人が敗残兵や投降兵、捕虜となって虐殺されたものと推認される。…

 

261 以上の数字は長江渡河中に射殺されたり溺れたりした死者数(万単位)を含まない。…

 

民間人死者数 慈善団体による埋葬記録がこれに当たる。

 

246 18.9万人

262 3万人

 

民間人死者合計 21.9万人

 

 

271 軍民合わせた犠牲者総数 ①+⑤=29.9万人(④を除外すると26.9万人)

 

 

 

258, 259, 260 日本軍資料に基づく推計 8万人~10万人~16万人(-不確定数5万人*=11万人)*処刑の記述がない、重複の可能性2千人など。

この数字は南京防衛隊の資料8万人ともほぼ一致する。

 

 

 

266 金陵大学(現南京大学)社会学教授で米人の社会学者ルイス・スマイスによる南京城内とその周辺の4.5/6県の調査結果 19383月~4月実施 193712月中旬から19383月中旬までの被害状況を調べた。スマイスの調査は南京城周辺の農村部と城内周辺の市部に分けられている。

 

周辺農村(県城は調査対象外)の調査結果 日本軍侵攻以前の推定人口121.1万人

 

・農民の死者 2.7万人or 3万人 …⑥ 7家族に1人の割合 全人口の2.5

・離村したまま帰ってこない人 13.3万人 /121.1万人=11%…

 

268 市内とその周辺の調査結果 市内の調査では、家族構成員がまがりなりにも存在している家庭だけを調べ、全員いない家族や、孤児家庭は調査の対象外。

 

・戦闘行為による死者 3,250 …⑧

・拉致4,200

 

市内と城壁附近の埋葬者集計(一般市民の暴行死者) 1.2万人 ⑩ (⑩=⑧+⑨と思われる。)

 

城内の被害者は城外に比べて少ない。

 

 

野党による反対討論が許されない、衆院予算委での与党自民の質問を、閣議決定と同等に扱い、その内容が教科書の記述で強制されている。そういうことがまかり通っている。小中高生よ、今の教科書には気をつけよ。

 

279 2013410日、衆院予算委員会で自民党の西川京子議員は、山川出版社の日本史教科書における「従軍慰安婦」と南京事件の記述を、「自虐史観」「反日思想」に基づく憂慮すべき記述であると批判した。そして自らが属する教科書議連の「南京事件小委員会」が導き出した「南京で行われたのは、通常の戦闘行為以上でも以下でもなかった」と述べた。

280 西川議員の発言は、自民党の代表質問としての発言であり、それに対して野党の議員は反対発言ができない。西川の南京事件否定説発言は「国会で反対がなかったので承認された」とされた。

20141月、文科省は教科用図書検定基準の改定を行い、「閣議決定その他の方法により示された政府の統一的な見解や最高裁判所の判例がある場合には、それらに基づいた記述がされていることを定める」と改めた。この「閣議決定その他の方法により示された政府の統一的見解」には、前記の「南京で行われたのは、通常の戦闘行為以上でも以下でもなかった」という結論が含まれる。つまり中国人婦女の凌辱、捕虜・投降兵・敗残兵の虐殺、民間人の殺害、略奪、放火、民間人の連行と使役などの不法行為は南京事件から除外されたのである。

 

以上

 

 

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笠原十九司『南京事件 新版』岩波新書2025

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