2025年11月8日土曜日

任世淦『東史郎日記と私』ノーモア南京の会2017

 

任世淦『東史郎日記と私』ノーモア南京の会2017

 

無辜の民衆の虐殺の背景にあるものは弱い者に対する蔑視では

 

・平頂山1932.9.16 井上久士『平頂山事件を考える』

・山東省東周家荘村1937.10.10 『東史郎日記と私』p.23

・南京1937.12.13

・徐州市銅山区閻窩村1938.5.20 宮内陽子『日中戦争への旅 加害の歴史・被害の歴史』p.171

 

これらはみな日本軍による中国の無辜の民衆、子ども、女、老人を大量に虐殺した事件である。口実は抗日中国軍に「協力」したのではないかという「疑い」であるが、その根拠はない。見せしめだったのかもしれない。ただその村の方向に抗日軍がいたらしいということだけである。

 

その背景にあるものは何だろうか。富める者、力ある者の、貧しい者。弱い者に対する蔑視ではないか。イスラエルによる無防備のガザ民衆の殺戮、米による、カリブ海での、裁判によらない麻薬密輸を口実にした乗船員の船もろともに爆撃、破壊、殺害もそうだろう。

 

日本軍は刺突、機関銃掃射、遊び感覚の郵便袋詰め放火殺害(『東史郎日記と私』p.77)などを行っていた。そういう虐殺事件の一つである「南京虐殺事件は存在しなかった」、日本軍はそんな不名誉なことはやらなかった、と戦前の日本軍による帝国主義的侵略を否定する映画*を称賛する人が、今の文科相になっている。戦前の賛美、侵略戦争賛美が、今の高市早苗政権=安倍晋三政権ver.2の恐ろしい真実。

 

*松本洋平・文科相が、「南京『大虐殺』なる歴史の捏造。誤った歴史認識を是正し、プロパガンダ攻勢に反撃」とする「日本文化チャンネル桜」代表・水島総監督の映画「南京の真実」2008に賛同していた。おかしい。

 

 

033 河北の「東周家荘」と同様に、上海・南京間の江南地方(揚子江の南岸地方)の「常熟」や「無錫」でも大量虐殺が行われた。

038 大規模な殺戮は上官の命令で行われた。それは「部下が勝手にやった」という日本の右翼の説明とは異なる。「どの壁にも抗日宣伝文が書かれていて、日本兵たちは住民が抗日意識に燃えていると判断した」033というのも虐殺の一つの理由であろうが、日本人はそれ以前から一般的にそう考えていたのだろう。

039 沈秋農『常熟1937』には虐殺や掠奪の記録がある。

044 破廉恥な婦女暴行が大規模に行われた。中国側の資料『無錫史誌』がそれを示す。

 

059 『福知山連隊史』によれば、「19371211日、(東史郎が所属する)大野連隊が、国民政府主席林森の邸宅を占拠した」とある。また東史郎も1212日の日記で、彼等の第3中隊第1小隊が、「張学良の家を占拠した」と書いている。しかしそれを確証することはできない。

062 『中国事変陸軍作戦史』によれば、「南京城壁は、高さ18メートルで、外周に壕が張り巡らされている」とある。

066 20071213日、南京の玄武湖畔で追悼会が開催された。日本の「アジア太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む会(「銘心会」)」のリーダーで『南京戦』社会評論社2002, 2003の編著者の松岡環が発案準備した「太平門大虐殺記念碑」が落成し、日本側からは「ノーモア南京の会」、「心に刻む会」、「東史郎さんの南京裁判を支える会」、「紫金草合唱団」などが参列した。

 

私は『偽証言的証言』(竹内迅『記憶の暗殺』の中国語版、世界知識出版社2000.9)を日本人の西村秀樹から受け取った。本書は東史郎裁判を詳述している。

067 上海派遣軍司令官朝香宮鳩彦中将(裕仁天皇の叔父)が捕虜の皆殺しを命令した。

067 166師団の南京での犯罪は深刻である。16師団長の中島今朝吾は、「佐々木到一旅団が南京で中国軍民十数万人以上を殺した」と言ったとされている。

068 『支那事変 皇国之精華』皇道振興会関西総局1939の中で、日本軍森塚部隊の上等兵栗山基が、義弟・長澤長市あての手紙の中で、「上海から南京まで100万を超す中国軍民の死体を見た」と語っている。

 

 

感想

 

東史郎のように冷静で良識的・自制的な日本軍人もいたが、総じて日本軍人はひどい事をしている。刺し殺す。女は弄んだ後で陰門にビンや箒の竿を突き刺す。沖縄戦では民衆(婦女子)に自決を強要したというが、婦女暴行は日本軍の常識であったから、米軍も同様なことをやると考えたのだろうことがよく推測できる。

 

本書では事件の存在を証明する資料や証言が詳述されていないのが欠点。しかし書かれていることは嘘ではない。被害者に寄り添うべきだ。その点、英米人の映画資料072は厳然としてある。また日本人軍人の戦後のPTSDが間接的にその蛮行の事実を示している。

 

郵便袋事件の加害者西本はその事実を認めているが、それを「正当な戦争行為」1998年だという。限度があるだろうに。たとえ戦争だとしても、遊びで人を殺していいのか。080

 

日本の右翼が中国や北朝鮮を敵視する背景には、戦前の日本軍人の蛮行を謝罪したくないという気持ちがあるのではないか。

 

 

 

081 中島今朝吾16師団長――大野連隊――西崎隊長(歩兵第一大隊)――東史郎

 

088 『ラーベ日記』には日本兵によって蹂躙された大勢の女性の記録がある。

089 『魏特林(ヴオートクリン)日記』はヴオートクリン女史による金陵女子学院での日記であるが、それによると、19391012日、某キリスト教会の修道女8名が29名の赤ん坊を養育していた。そのうちの幾人かは日本兵の子どもであるため、捨てられたのである。

 

 

 

FB(Meta)で投稿したら以下は問題表現(差別的なヘイト)だという。事実を語っているだけなのに。

 

101 東史郎も言うが、中国人の虐殺は中国人に対する侮蔑が原因。イスラエルのガザ人に対する虐殺も同様。差別や侮蔑があるから殺せるのだ。東史郎「今や兵士たちは、支那人である限り、殺すことに何の躊躇も、何の痛痒も感じていないらしい。人を突き殺す事を、鶏を殺す事ほどに思っていない。」中国人の死体は、豚の死体にも匹敵しない。「豚は食えるから」である。「当時の日本兵の非情な惨殺は、中国人民への蔑視と敵視から出たものだ。」

 

106 思いやりのありそうな東史郎でさえ中国人の首をはね、その様子を子細に日記に記録した。この人も時代の子。東史郎は戦前の自らの行為を恥じて、南京で土下座をしたというが。(任世淦「東史郎は19871213日、南京に来てわが30万同胞の霊前に跪いて謝罪した。iii」)当時の東史郎の感覚は、その日記で見る限り、まるで人殺しの技術者の感覚である。恐ろしいことだ。戦争は人を狂わせる。

 

『東史郎日記』はアマゾンで4600円もする。

 

 

 

110 西本はまた殺人遊戯をした。大伾山(だいひさん)の付近の某村で、二十五、六歳の若者を捕まえて布団にくるみ、石油をかけて火をつけて殺した。

113 被害者の名は王狗不+好という。

116 44日のことであった。

 

111 日本人は1938329日、大伾山(だいひさん)の付近の某村で大虐殺を行った。

 

117 東史郎は彰徳でもまた慰安婦を利用した。

122 東史郎は無辜の中国人を総計4人殺した。1938425日、臨城で孫延年を殺した。

 

 

感想 2025112()

 

日本軍は1937年の日支事変勃発以降、中国大陸の各地で中国軍や共産軍と戦った。中国軍とは通常の撃ちあう戦闘であるが、共産軍とは正面戦争ではなく、日本軍がいないときに攻撃して逃げて行くという形式である。

 

しかし問題なのは、日本軍の、戦闘員ではない一般の中国人婦女子や老人との接し方である。日本軍は一般の中国人男性を苦力=労働力としてあれこれ酷使し、女性は性奴隷にするのだが、最大の問題点は最後には彼らを殺してしまうということである。そして村も焼き払ってしまう。つまり南京大虐殺は中国のあちこちで日常的に行われていたということである。日記の記述から人情味がありそうな東史郎であるが、その東史郎でさえ、刺突を4回行ったようだ。東史郎は戦後南京に出かけ、土下座をして謝ったというが。

 

だから戦後中国から帰還した日本軍人が、戦争について何も語らず、PTSDになった人が大勢いたということは十分に頷かれることである。しかし一方で、そういう暴虐行為をやっておきながら、やらなかったと嘘をつき、平然としている人も少数ながらいる。それが右翼である。

 

 

感想 東史郎が1937年の日支事変以降の従軍日記を公開したところ、そこで描写される郵便袋事件*は事実ではない、名誉棄損だと訴えられ、最高裁もそれを認めて、東史郎は敗訴したという。

 

ちょっと待って。明治以降の日中関係はどうだったのか。どちらの方が攻撃・侵略したのか。戦場になったのは日本ではなく、中国だったのではないか。中国が日本を攻めたのは13世紀の元寇くらいでは。

 

日本は日清戦争では多額の賠償金と台湾を、日露戦争では中国東北地方の鉄道沿線や港町を(それに今問題となっている尖閣を)奪い、満州事変では敢えて戦争をしかけ、満洲国の独立を装って中国の東北地方を奪い、平頂山事件では部落の女や子どもや老人など3000人を、一か所に集めて機銃掃射し、1937年以降の日支事変・日中戦争では、本書で示されるように、部落に取り残された民衆を刺突・強姦し、極端な場合には遊びで人を殺した(*郵便袋事件)。それが名誉ある「皇軍」の正体だったのでは。それに郵便袋事件の当事者は、その事実を認めているらしい。それは正当な戦争行為だと居直って。(1988年、香港テレビのインタビュー)

 

 

 

メモ

 

292 謝罪のために南京を訪れた日本軍兵士は東史郎が最初。1987.12

 

293 石原慎太郎・衆院議員は「南京虐殺はなかった」1990.10と堂々とうそをついていた。その責任は重い。石原慎太郎・衆院議員は、米誌PLAYBOY9010月号、日本語版11月号)のインタビューで「日本軍が南京で虐殺を行ったと言われていますが、これは事実ではない。中国側の作り話です。」

294 板倉由明*は、笠原十九司編の教科書『世界史B』一橋出版から、『東史郎日記』からの引用部分の削除を再三要求。一橋出版はそれに屈して19941月、『東史郎日記』からの引用部分を削除した。

 

*板倉由明 元将校の親睦団体・偕行社が刊行する『南京戦史』の編集委員で、『月曜評論』1993.5.17に寄稿している。

 

東京地裁判決(1993~)1996.4は『東史郎日記』を虚構と認定し、東史郎、下里正樹、青木書店の三者に各50万円の支払いを命じた。293

東京高裁判決(控訴棄却)(1996926日~)981222日は、江沢民国家主席の訪日1125日のため、当初の1126日から1222日に突然延期された。272

 

Wikiによれば、元分隊長の「西本」(仮名)は、板倉由明らに唆されて提訴したようだ。

またWikiによれば、一審で東らが敗訴した理由の一つは、東がガソリンや手榴弾をどうやって郵便袋につけたのかを、記憶が薄れてしどろもどろの供述しかできなかったからと思われるとしている。しかし私はそんな小手先のことよりも、時代背景の方が強い要因だったと思う。

 

294 19938月、日本で初めて侵略戦争を認めた首相は細川護熙だった。「私自身は侵略戦争であった、間違った戦争であったと認識している。」それが村山談話1995.8.15へと引き継がれたはずだ。また細川護熙首相以前に、日本の首相が侵略戦争を認めてこなかったことこそがおかしいのでは。

そしてこの細川侵略発言に反発して、産経新聞に意見広告が掲載された。「細川首相の歴史認識に疑問があります。日本は侵略国ではありません!」(19939月)

 

295 筆者任世淦は、自転車で中国各地を回り、『東史郎日記』の中国版(江蘇教育出版社993月)の記事と、各地の生き残りの人々の証言とを突き合わせ、『東史郎日記』の事実を検証した。

 

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