講演会 岩根承成「群馬発の非戦論から日本軍の戦争を考える」2026年8月9日(日) 前橋市芸術文化れんが蔵
感想 三点
日本は朝鮮や中国だけ(それも不十分でしかも修正しようとしている)でなく、東南アジアの国々に対しても、戦中の行為に関してきちんと謝罪し続けなければならない運命にある。今日本で修正主義者が跋扈しているような状況は、ドイツでは考えられないことである。謝罪した上での真の友好関係が求められる。財力で脅した「友好」関係では駄目だ。インドネシアやフィリピンでは、小中学校の教科書で、戦争中の日本の行為について厳しく指摘している。知らないのは日本人だけ。資料1
日本の歴史修正主義者は執拗である。高崎連隊所属の某兵隊が南京戦に従軍していたという資料「戦闘詳報」が、その兵隊の前橋の実家で発見されたことを、岩根さんが「高崎市史」の増補用冊子で発表したところ、某歴史修正主義者*がその実家を調べ当て、その原本を持ち去ってしまったという。証拠隠滅目的である。
*講演では「東中清三(当て字、せいぞう)という防大の修正主義者に原本を渡してしまった」と言っていたようだが、ネットで調べると該当者がいない。
日清戦争でも日本軍による一般市民に対する虐殺行為が行われていた。資料2
資料1
フィリピンの中学用教科書 ザイデ『普通中学用フィリピン史』1959
「彼ら(日本人)がフィリピン人に語ったことは、彼らは、フィリピンを西洋の抑圧から解放するためにやってきたということ、彼らとフィリピン人は兄弟であるということであったが、彼らは街を尊大な「スーパーマン」のように闊歩したり、ちょっと気に障ることがあると、人々の顔を叩いたり、散々に殴ったりした。彼らはこの国を略奪し、男を日本軍の事業に強制的に働かせ、女を凌辱し、多くの罪のない民間人を虐殺した。…すべての鉱坑と工場は日本人の手で運営された。フィリピンの土地の大部分は、日本が綿花を緊急に必要とするために、綿の栽培にあてられた。…あの占領の暗黒時代に、日本軍はこの土地に住み、米、カモテ、果実、野菜その他の食糧を大量に消費していた。当然、国民は飢え、ぼろをまとい、―厳しく反日的になっていった。」
インドネシアの小学校5・6年用教科書『わが民族の歴史』1962 (世界の教科書を読む会編『軍国主義』1971、江口圭一『十五年戦争小史』1991)
「ニッポン人はインドネシアの「支配」を始めた。オランダの物資は日本の保有するところとなった。…さらにすべてのニッポン人は「日本の旦那様」と呼ばれるにいたった。まさに日本は、オランダがそうだったように、インドネシアの主人になろうとしたのである。…日本はインドネシアに多くの要塞を建設した。我々は要塞づくりの労働を強制的にやらされた。…我々は「ロームシャ」(労務者)にされた。「ロームシャ」とは日本人によって強制労働させられた人のことである。農民、労働者はあたかも奴隷のように家屋敷を捨て、他の地方、つまりジャワ、スマトラ、イリアン(ニューギニア)、ビルマ、タイなどに連れていかれた。(強制連行)彼らはジャングル、沼沢地、海岸などで働かされた。わが民族の苦しみは極めて大きかった。コメを日本軍に強制供出させられて、我々は飢えた。着物も、薬も不足した。不足しないものはなかった。人々は恐怖と不安の日々を送った。日本に反抗しようとする気配をみせれば、逮捕され、拷問にかけられ、そして投獄されるか殺されるかしたものである。老若男女の区別はない。学校の生徒たちは「奉仕作業」に狩りだされた。子供たちはまた、日本の歌を歌えなければならず、日本語でしゃべれなければならなかった。同様に日本式の服装まで奨励された。あたかもインドネシア人は日本人に変化しなければいけないかのように。」
資料2 日清戦争時の旅順での一般市民に対する虐殺行為 十五連隊第三大隊二等卒の兵士 窪田仲蔵の『従軍日記』明治27年1994年11月21日の記事 長野県で発見された。
「支那兵と見たら粉にせんと欲し、旅順市中の人と見ても皆討殺したり、故に道路等は死人のみにて行進にも不便の倍なり、人家に居るも皆殺し、大抵の人家二・三人より五・六人死者のなき家はなし、其の血は流れ其の香も亦甚だ悪し 捜索隊を出し或は討ち或は切る敵は武器を捨て逃るのみ 之を討ち 或は切る故 実に愉快極りなし … 後日の調に依れば、婦女四十余人を殺したりと云ふ」
以上
メモ
浅尾 2010年、私は麻屋デパートを平和資料館にしようと運動をしたが、それはならず、2014年から、この煉瓦蔵(前橋市芸術文化れんが蔵)を前橋市から借りている。
石原まり バッハなどのチェロ演奏とトーク 30分 チェロを9歳の時から習い始め、ベルギーに留学。現在38歳。箱田町の出身。
石根承成「群馬発の非戦論から日本軍の戦争を考える」
内村鑑三1861.3.23-1930.3.28 (69歳没)は、高崎藩の藩士の長男として生まれた。(以下、Wikiも加えつつ)高崎英学から東京外語へ。そこから札幌農学校へ。クラークと接し、キリスト教に入信。
明治23年1890年、一高(現・東大教養学部)の教員に就任。翌年の明治24年1891年、教育勅語奉読式で、偶像崇拝(奉拝)を拒否して最敬礼しなかった。学生が注視していた。不敬事件で退職。
その後、教会関係の仕事をしていたが、1897年、朝報社に入社して『万朝報』の英文欄を担当し、足尾鉱毒問題を取り上げたが、自己都合で翌1898年に退社し、『東京独立雑誌』を創刊した。その間の1899年、「女子独立学校」の校長に就任。1900年、内村の問題で『東京独立雑誌』を突如廃刊・解散した。旧社員は『東京評論』を創刊して対立したが、内村は『聖書の研究』を創刊するとともに、その創刊の1か月前に生活のために万朝報に客員として復帰し、今回は日本語で寄稿。また自宅で「角筈聖書研究会」を開く。
1901年、講演がてら足尾を訪問し、万朝報に『鉱毒地遊記』を書く。その後「鉱毒調査有志会」が結成され、「社会改良理想団」の結成にも関わり、佐野の被害地を再訪した。
しかし1902年には、内村は聖書研究に沈潜した。
ところが日露戦争前の1903年、東大の七博士が主戦論を展開する中を、内村は、「戦争廃止論」を万朝報に発表したが、10月8日、万朝報が世論に押されて主戦論に転じると、幸徳秋水や堺枯川と共に退社した。
内村は不思議なキリスト理論に基づいて兵役拒否希望者を説得して兵役につかせた。
その後内村はキリスト教関連の「教友会」を結成したり、聖書改訳の開始・中断をしたりした。また階級闘争という敵対関係の社会主義を批判した。
その後も教会関係の仕事に関わった。…心臓発作で69歳でなくなった。高崎に内村の屋敷跡がある。
感想 内村はキリスト教信仰に基づく不敬事件で退職に追い込まれ、足尾鉱毒問題では古河市兵衛を批判し、日露戦争前には戦争に反対するなどして世に知られる一時期もあったが、その後は社会主義に反対するとともに、勝手気ままにキリスト教関係の仕事をし続けたようだ。英語はよくできたようだ。
しかし石根さんが示す、万朝報(明治36年6月30日)の「戦争廃止論」には、内村の「戦争絶対廃止論者」の決意のほどがよく分かる。曰く「戦争は人を殺すことである。そうして人を殺すことは大罪悪である。そうして大罪悪を犯して個人も国家も永久に利益を収め得ようはずがない。」
柏木義円1860-1938は新島襄の弟子で、新潟県人である。
越後国与板藩の真宗大谷派西光寺の住職の家に生まれた。
1878年、東京師範学校を卒業し、群馬県碓氷郡土塩村(現・安中市)で小学校の教員となった。その時新島襄が伝道に安中を訪れ、それを契機に「同志社英学校」に入学するも学費が続かず、1年で安中に戻り小学校の教員に。安中教会で海老名弾正に影響され入信した。
1884年、同志社普通学校に再入学し1889年卒業。同志社予備校で教職勤務。1892年、熊本英学校事件で辞職し、同志社予備校に復職。
1897年、日本組合基督教会安中教会の牧師となる。1898年、大久保貞二郎と『上毛教界月報』を創刊し(1936年12月まで459号)、足尾鉱毒事件、廃娼運動、未開放部落問題、朝鮮人虐殺問題などの政治・社会批判を展開した。日露戦争や第一次大戦、満州事変、国際連盟脱退を批判し、「無戦世界の実現」を訴え続けた。満州事変では、軍部を批判して『上毛教界月報』が発禁処分となった。
「日本新聞紙の報道が、往々にして悉く信じ難くなる。しかし世界の新聞はあからさまに之を伝える」(『上毛教界月報』396号、1931年10月20日)これは満州事変1931.9.18後のことである。
『憲兵情報』1931年10月9日によれば、「大阪毎日新聞の記者・野中成童は、事変後の9月22日に満洲に派遣され、10月2日に帰国したが、「鉄道破壊は日本軍が自ら爆破して、中国側の行為としたものらしく、真相を知るにおよび、馬鹿らしく、到底真面目に勤務する能わざるを以て社命を俟たず帰来した」と友人に語った。」
『憲兵情報』1931年10月19日によれば、「『朝日』(大阪朝日新聞社)は1931年10月12日、重役会議で「今後の報道方針として軍備の縮小を強調するは従来の如くなるも、国家重大事に処し日本国民として軍部を支持し国論の統一を図るは当然の事として、現在の軍部および軍事行(動)に対しては絶対非難批判を下さず、極力之を支持すべきこと」を決定し、編集局幹部にこの方針を示達した。」
感想 恐るべきこと。1937年ではなく1931年でもすでにマスコミは信用できなくなっていた。
高崎十五連隊
近くに死亡した兵隊のためのお寺と病院(陸軍病院)がある。現在の国立高崎病院である。
沼田にも赤城山麓に「迫撃第一連隊」がある。これは松江から1940年4月に移転したもので、毒ガス隊である。国立沼田病院はその関連病院である。AIでは1941年12月以降、島根県から化学戦(毒ガス戦)部隊の「迫撃第一連隊(東部第41部隊)」が移駐して駐屯した。赤城山麓の北面(昭和村)に専用の演習場があった。
P2
パリ不戦条約1928.8.27には日本も参加していたが、日本は「戦争」とは言わずに「事変」と称し、これは戦争ではないと戦争を続けた。
旅順虐殺事件 明治27年11月21日、日本軍は中国人の市民や婦女子を無差別に虐殺した。事件直後、NYワールドやロンドン・スタンダードがそれを報道した。柏木義円は世界の新聞を読んでいてそのことを知っていた。
高崎連隊には時の経過につれて連隊が10個ある。
日清戦争旅順『従軍日記』は長野県で発見された。
日清戦争時に、従軍記者や作家、絵師がいた。洋画家の浅井忠は、『時事新報』の画報隊(通信員)として、9月14日から12月6日までの3か月間、遼東半島、金州、旅順などで従軍し、スケッチ、水彩画に残し、帰国後『旅順戦後の捜索』や『樋口大尉小児を扶くる』などを発表した。現在それは国立博物館にある。高校の教科書にもその絵が掲載されている。
満州事変
満州事変では日本軍は工作鉄道爆発の直後に中国側の「北大営」を攻撃している。
明治4年、高崎に県庁がおかれたが、明治5年、高崎に「兵部省」がおかれ、県庁は分散し、前橋に移った。長野県と埼玉県には連隊がおかれず、長野と埼玉の人は高崎連隊に入った。
P7
ベルリン・オリンピック1936.8のマラソンで朝鮮人が優勝したが、東亜日報は日の丸の絵を消して報道した。
以上
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