2022年6月10日金曜日

北支教育統計-事変前後比較 1943

北支教育統計-事変前後比較

事変前

事変後(民国29年度)

事変後/事変前

学校数

学生数

学校数

学生数

学校数

学生数

総計

104,983

4,260,026

31,776

1,664,642

0.30

0.39

初等教育計

103,661

4,066,101

31,467

1,586,162

0.30

0.39

小学校

103,661

4,066,101

31,467

1,586,162

0.30

0.39

公立

92,803

3,660,906

30,336

1,447,271

0.33

0.40

私立

10,858

405,195

1,131

138,891

0.10

0.34

中等教育

843

134,600

218

59,319

0.26

0.44

中学校

398

90,955

141

47,713

0.35

0.52

公立

184

39,859

46

13,984

0.25

0.35

私立

214

51,096

95

33,729

0.44

0.66

師範学校

377

36,720

51

6,004

0.14

0.16

職業学校

67

6,925

26

5,604

0.39

0.81

公立

52

4,646

15

2,035

0.29

0.44

私立

15

2,279

11

3,569

0.73

1.57

高等教育

35

15,680

14

7,553

0.40

0.48

大学・学院

25

14,823

8

6,761

0.32

0.46

公立

14

8,697

3

2,208

0.21

0.25

私立

11

6,126

5

4,553

0.45

0.74

専科学校

10

857

6

792

0.60

0.92

公立

9

661

6

792

0.67

1.20

私立

1

196

-

-

-

-

 

2022年6月7日火曜日

「大東亜教育政策に関して」 国民精神文化研究所員 伏見猛彌 1943

「大東亜教育政策に関して」 国民精神文化研究所員 伏見猛彌 1943

 

 

メモ・感想

 

・植民地における初等教育就学者の全人口に対する割合や就学率を日本と英蘭とで比較し、日本の植民地教育政策が差別的でなく、「本質的に」英蘭の植民地教育政策と異なることを証明しようとするのだが、その相違だけが「本質的な」違いまでを説明できるのだろうか。またその根拠を天皇の言葉に求めるのだが、それは信仰としか言いようがない。天皇親政ではないのだから根拠は薄弱である。また天皇が外国に対して「安堵せしめる」などと命令することは国際関係上問題ではないか。

・アジアの植民地はこれまで欧米の方式で支配されてきた。今後日本文化を植民地に伝達するためには、書物によるのではなく、日本人の行動で示すのがよいとするのだが、これも日本が歴史的に儒教や仏教、西洋近代文化などに関する書物を持たなかったことに対する言い訳の感がする。そして日本書記の神話を持ち出し、日本人は儒教の書物を輸入する以前からその徳目を行動で示していたからとして、書物がないことをカバーできるなどと言う。実際日本人は儒教の書物から学ぶことが多かったのではないのか。

米英の植民地教育政策は技術教育をほとんど行わず、植民地を本国産業のための原料供給地、本国製品の市場植民地とするものであったが、日本は植民地で技術を教育する方針である。しかし実際はその政策が台湾や朝鮮でさほど進んでいなかったと本人自身も認めていたり、米英も今後の日本も植民地で低レベルの技術教育を施す点で相違がなかったりして、論拠が薄弱である。

・その際中等学校卒や実業学校卒を挺身隊にして植民地に派遣し、文化・産業に関する植民地現地教育に当たらせたらと提案する。それは当時はやりの、知育「偏重」だとして教室内での知育を批判するための造語「錬成」と称して学生を戦場に送るための政策ではなかったか。錬成とは戦争遂行のために学生を教室から戦場に送り出すために無理を承知で作り出した用語ではなかったか。

 

 

コトバンクによれば、伏見猛彌は戦後公職追放された経歴を持つ。

 

伏見 猛弥 フシミ タケヤ 昭和期の教育学者、英才教育研究所所長、元・玉川大学教授。

 

生年 明治37(1904)12日 没年 昭和47(1972)315

 

出生地 福島県

学歴〔年〕 東京帝国大学文学部教育学科〔昭和3年〕卒,東京帝国大学大学院修了

経歴 東大助手兼日大講師を経て、昭和111936文部省国民精神文化研究所員、昭和181943教学錬成所錬成官(本論で言っていることと符合する)。戦後公職追放、昭和26年学校図書顧問、昭和27追放解除で玉川大講師、38年教授。40英才教育研究所を設立、所長となり英才教室を開いた。44年聖徳学園小学校教育顧問、45年玉川大を退職。

著書 「教育現象学」「教育維新」「英才教育のすすめ」「頭のよい子に育てるしかた」など。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)

 

伏見猛弥 ふしみ-たけや 19041972 昭和時代の教育学者。

明治3712日生まれ。昭和11文部省国民精神文化研究所員,18年教学錬成所の錬成官となる。戦後は公職追放になったが,38年玉川大教授。40年英才教育研究所を設立し,英才教室をひらいた。昭和47315日死去。68歳。福島県出身。東京帝大卒。著作に「英才教育のすすめ」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus

 

 

要旨

 

251 従来の英蘭の植民地教育政策は、日本が従来外地や満洲国、支那等で行ってきた教育政策と全くその性格が異なる。英蘭の植民地教育政策は徹底的な文盲政策である。初等教育は国によって実情が異なるが、初等教育を受けている人口の総人口に対する割合は、文明国と言われている国々では1割から15分である。日本では15.7%である。アメリカは初等教育が8年であるが、17.3%、イギリスは11.9%、ドイツは12%である。ところが英蘭等の植民地で国民教育(初等教育)を受けている人口の総人口に対する割合は、1%から3%くらいしかない。蘭印(インドネシア)(の植民地支配)は300年の歴史をもち(植民地支配が)一番長いが、3%、インドは2.8%、仏印(ベトナム)は1.4%である。しかも事実はこの数字より低いと思われる事情もある。これは彼らの本国での割合と比較にならないほどの低率である。またこれから教育が普及する傾向すら認められていない。これに対して日本の外地として最も古い台湾は50年、朝鮮は40年、満洲は10年しか(植民地支配になってから)経っていないが、満州国は昭和151940年の統計で4.5、朝鮮は6.7、台湾は11.2であり、植民地支配の期間が長くなればなるほど、国民教育の率が高まっている。このことから日本の異民族に対する政策が、英「米」(蘭からいきなり米に変更)の植民地教育政策とその性格に於いて「根本的に」異なっていると言える。

台湾、朝鮮に於ける就学率も増加している。台湾では大正111922年に29.18%だったものが、昭和91934年に39.28%になり、昭和141939年には53.15%となった。このような急激な増加はインドや仏印では見られない現象である。朝鮮では昭和61931年の就学率が18.7%だったが、昭和161941年には50.8%と驚くほど増加した。日本の異民族教育政策が「その本質において」英蘭の植民地政策と異なっていることは明瞭である。

日本は従来異民族も国民として扱ってきた。段階的に(政策を実行するから)経済その他の領域で多少の差別的待遇はあったに違いないが、少なくとも教育の点では日本内地の国民と本質的に何らの差別は設けていない。日本は「一視同仁」の政策を行ってきた。台湾や朝鮮ではこの政策は「皇民化政策」と呼ばれている。このことは日本の「国体」の反映であり、万民をその堵(と、居所)に安んぜ(安堵)しめる大御心が日本の政策の上に反映したものと我々は考える。昭和1519409月、日独伊三国条約締結の際に下した詔書の中の「惟(おも)うに万邦をして各々その所を得しめ、兆民をして悉くその堵に安んぜしむる」という大御心は今日だけでなく、明治天皇が台湾総督の乃木大将に下した勅語でも「新附の民未だあるいはその堵に安んぜざる者あらん」と言い、また韓国併合に際しての詔書では「韓国の現制は尚(なお)未だ治安の保持を完するに足らず。疑懼(ぎく、疑い恐れる)の念(が)毎(つね)に国内に充溢し、民その堵に安んぜず」と言い、何とかして民をその堵に安んぜしめようという有難き大御心が拝察される。この大御心の反映が、日本の従来の外地や、日本人が指導者として建設した満州国で、不知不識(のうちに)政策を決定していた。日本の対外教育政策は既に昔から英蘭などの外国とは根本的に異なった方向で行われていた。この方向は今後の大東亜圏内でも堅持されなければならない。日本の教育政策の方向は非常に正しい方向を向いていた。

 

ただその根本方針を実践する方法で従来反省すべき問題があったし、今後も考えなければならない問題がある。

254 その第一は文化の問題である。このことについては第二回の教育学会で述べた。現在大東亜と言われている地域の文化のほとんどは従来欧米によって編纂された。このことは教育の面では学校の教科目にまで反映していた。この大東亜圏に新しいアジアの文化、とりわけ日本の文化を「光被(君徳が広く行き渡る)」し、新しくそれを建設してゆくことが教育政策として考慮されなければならない。(なぜ?)

 日本の文化とは何かについて述べる。従来の日本の歴史(教育)は日本の文化に関してほとんどその本質に触れていない。国史では仏教はインドから、儒教は支那から、近代文明はヨーロッパから来たと教えられ、日本の文化は貧弱であるという考えを植え付けられてきた。これでは大東亜における新しい「ルネサンス運動」はできない。(なぜ?)吾々は皇国文化=日本の本来の文化を深く自覚し、それを大東亜圏内に光被させるよう今後努めなければならない。

 日本の文化はどんな形で現れているか。儒教は支那文化と考えられているが、支那文化としての儒教は書物に書かれた儒教である。支那の田舎に孝子(孝行な子)節婦(貞節な女性)の碑をよく見かけるが、支那では孝子節婦は実際生活では珍しい。(その根拠は)現実生活で珍しいからそれを儒教という理念として作り出したと考えられる。一方日本では儒教が入って来る以前から、儒教が教える道徳が生活の中にあった。日本書記は、君臣の大義をはじめとして、親子兄弟夫婦間の道が明瞭に存在したことを示している。儒教が日本に入ってきてから日本に君臣の大義や親子兄弟夫婦間の道が生まれたのではない。(どうかな)肇国の始めから我々の祖先の生活の中にそれは存在していた。生活の中に普通に存在していたから、それを書物に書いたり碑に刻んだりする必要がなかった。日本においては何でも生活の裡に実践するという点に日本文化の特色がある。書物に書く形式では、ギリシャや支那よりも優れていなかったかもしれないが、生活の裡に実践していた形では非常に優れた文化を持っていた。(自己中の自画自賛)

 我々はその文化を南方や支那に持ってゆかねばならぬ。その日本文化を持ってゆくということは、一人一人の日本人が大御心を体して、立派な日本人として行動することに他ならない。これが日本文化の大東亜圏における光被である。出来上がった音楽や映画を持ってゆくことは第二次第三次の問題であり、根本的には立派な日本人としての生活を外地でしてゆくことが、外地の日本文化の建設に他ならない。これが大東亜における本当に正しい文化建設の問題である。

 

 第二に技術教育 文化の場合と同様に大東亜の経済はほとんど従来米英の支配下にあった。大東亜圏内における生産配給などあらゆる機構が米英の手で行われていた。米英のアジアにおける経済政策では、アジアは米英が原料を持っていく場所であり、彼らが生産している物資を売りつける市場植民地としての役割を果たさせられていた。彼らは絶対にアジア自身を工業化する政策を取らなかった。亜細亜に工業を興させないことが、米英のアジアに対する根本政策であった。そのことは教育の面にも反映し、インドや支那での米英の教育は、ほとんど技術教育を行っていない。教育の大部分はほとんど英文学教育であり、程度の高い技術教育は全く無視されている。程度の低い技術教育はやっているが、程度の高い技術教育はやっていない。これは彼らの典型的な植民地教育政策である。(これは現在の米による対中国政策(経済安全保障政策)にも当てはまるかもしれない。)イギリスの直轄植民地であるフィージーアイランドは、太平洋の植民地の中でも最も教育の率が統計的に高く、就学率が65%であるが、技術学校がほとんどない。政府直轄の学校は、小学校が15、中学校が3、師範学校と医学校がそれぞれ1校ずつあるが、農業・工業に関する教育はほとんど行われていない。私立学校の中でもイギリス政府が直接補助を与えている学校にはほとんど技術的な学校がない。全然イギリス政府の補助を受けていない私立学校の中に、農業学校と工業学校が1校ずつある。

 

 大東亜圏内の資源は豊富であるが、これをどう開発するか。これは労力にともなう技術の問題である。開発には技術員が必要である。満洲の五か年計画で技術員が多数必要になる。先日東亜教育大会に参加し、満洲の東辺道を視察したが、開拓のために技術員を最も必要としている。日本の高等工業卒者よりも程度の低い技術員を必要としている。大東亜建設では日本国内で技術教育を発達させるとともに、大東亜の原住民に比較的程度の低い技術教育をやる必要がある。

 台湾や朝鮮にはある程度の技術学校があるが、原住民族はそれほど利用していない。これは反省すべき点である。

 

257 最後に文化建設や産業指導、技術指導に誰が当たるのかという問題である。満蒙開拓青少年義勇隊の組織の中に、今後の大東亜教育政策を考える上で参考とすべきことがある。満蒙開拓青少年義勇隊の組織は、従来あまり教育者の側から注意されてこなかった。その目的は綱領に書かれている。「我ら義勇軍は天祖の宏謨(こうぼ、大きなはかりごと)を奉し、心を一にして追進し、身を満洲建国の聖業に捧げ、神明に誓って天皇陛下の大御心に副い奉らんことを期す」としている。彼らは神明に誓って天皇陛下の大御心を奉体せんとして満洲建国に参加している。吾々は既に五か年の経験を経たこの組織を反省し、先ほど述べた欠陥を反省し、大東亜建設のための参考にしたい。私は南方だけでなく支那・満洲を含めて、大東亜建設のための挺身隊を組織することを提唱したい。満蒙開拓青少年義勇隊は国民学校の卒業者の中から志願者を採用し、青少年義勇隊を組織して内地で半年内原(水戸市内原郷土史義勇軍資料館や訓練所の碑が常磐線沿線にある)で訓練してから現地に送り、主に開拓民としての訓練を受けさせている。

一方で中等学校の卒業生を大東亜建設挺身隊として組織し、普通の中学校の卒業生は文化の方面を担当し、実業学校の卒業生は産業の方面を担当し、文化・産業建設挺身隊を組織したらどうか。彼らに皇軍としての組織を与えることが重要である。皇軍としての自覚の下に、神明に誓って大御心(おおみこころ)に副い奉る挺身隊を組織したい。彼らは第一に、日本による大東亜での産業指導や文化指導の挺身隊として働く。第二に、実業教育や中等教育の教育「錬成」を軍の形で半ば現地で行い、文化建設や産業開発に当たりながら、文化・産業に関する知識技術を(彼らが)教わる。第三に、文化・産業に関して原住民に教育活動を行う。それほど高い教育を与える必要はない。(米英と変わりがないのでは?)

 

結局「正しい日本人」の錬成に大東亜建設の成否がかかっている。

 

以上

 

2022年6月5日日曜日

「満洲国に於ける日本人教育に就いて」満洲国建国大学助教授 西元宗助 1943

「満洲国に於ける日本人教育に就いて」満洲国建国大学助教授 西元宗助 1943

 

 

感想

 

 西元宗助には当時の多くの人々に見られるような気負いがあまり見られない。それどころか教育福祉(養護)の充実を提言し、養護をおろそかにした鍛錬・錬成を警告し、これは日本教育全般の通弊であると言っている。これは当時にあっては勇気ある独創的な発言だったのではないか。

また日本人が周辺のアジア諸民族と親和することに熱意が乏しく、さらにはアジア諸民族に対して民族的偏狭な優越感を以て臨むとすれば、大東亜共栄圏の建設の上で弊害になると指摘している。

 

ネットで検索してみると、Wikiは扱っていないが、h-kishi.sakura.ne.jpが「『子に語るもの』京都府立大学名誉教授 西元宗助(にしもとそうすけ) ききて 飯田忠義」と題して、平成元年1989212日に、NHK教育テレビの「こころの時代」で放映された原稿を掲載している。その中で西元宗助は、3年間のソ連抑留から帰国する船中で、今後日本で民主化すべきものとして、社会教育としての部落問題を挙げ、これからそれに関わっていく決意を述べている。西元宗助は仏教者である。

西元宗助が戦後部落解放に尽力しようと決意した背景には、本研究会で発表した鹿児島出身で京大法学部出の伊東茂光061の影響があるのかもしれない。西元宗助も京大(哲学科)出で鹿児島出身である。

https://pub.hozokan.co.jp>author(法蔵館)によれば、西元宗助は1909年、鹿児島市出身で、1932年、京都大学文学部哲学科(教育学)を卒業し、京都府立大学名誉教授で、昭和351960年にペスタロッチ賞を受賞し、19901213日に没したとある。

またsaganet.ne.jpの「第1406回『迷える者は道を問わず』令和2202019日~」によれば、西元宗助1909-1992とあるから、本論文を発表した時1942年は33歳だったことが分かる。ただし没年は法蔵館資料の2年後となっている。

 

 

要旨

 

240 要項

 

 日本を盟主とする大東亜共栄圏の主要な一環をなす我が満州国は、満州事変を緒縁として日本の仗義(じょうぎ、正義)によって新しく建国された民族協和の新国家である。その国性は康徳2年(昭和101935年)の訪日宣詔によって、更に康徳7年(昭和151940年)の国本奠定詔書によって明確にされたように、天照大神を国祖神として仰ぎ、日本を親邦友邦と言うのは妥当でない)とする一徳一心の一帝国である。そして在満日本人は日本臣民であるとともに、中核的な満州国国民でなければならない。私はこの立場から満洲建国十周年に当たり、満州国に於ける日本人教育の諸問題を概観し、検討し、反省したい。

 「鮮系」日本人教育についても当然論究すべきだが、本論では日本内地人教育に問題を限定する。満州国における日本人教育の如何は、実に満州国の国造(くにつくり)の成否にかかわり、直ちに大東亜共栄圏の建設と、その圏内における日本人教育の問題に連繋する。

 

 満洲での教育は教育行政上二系統に分かれ、一は満州国の主として民生部管轄下の教育であり、他は日本側の関東局在満教務部管轄下の日本内地人教育である。(鮮系日本人教育は一部を除き、満洲国民生部の管轄下にある)

241 日本内地人教育は、その重要性と満州国の現状に鑑み、昭和12193712月の治外法権撤廃と付属地行政権の移譲とに関わらず、軍事及び神社行政と共に、特に日本側に留保された。(日本による治外法権が維持されたということか)そのため在満日本人教育と称する場合、普通この在満教務部管轄下の日本人教育を意味するが、本論では所謂在満日本人教育に限定せず、国策上(特に教育国策上からも)最も重視すべき、そして最も検討を要する満洲開拓青年義勇隊の教育(これも在満青年学校としては在満教務部の管轄下にある)と、満州国経営の諸学校における日本人教育(これは民族共学である点で注目に値する)についても述べる。以下の所論を次の四項に分ける。

 

一、都市における日本人子弟教育

二、開拓地教育――特に寄宿舎教育

三、満洲開拓青年義勇隊(日本(内地)では満蒙開拓青少年義勇軍)の教育

四、満州国諸学校における日本人教育――民族共学

 

 

本文

 

241 第一、満州国における日本人子弟の大部分を占めている、主として満鉄沿線都市における日本人子弟教育について述べる。これらの都市における日本人子弟の教育上の問題点は、満鉄沿線都市のもつ、建国以前からの伝統的な植民地的性格に基く植民地的気風である。一般に在満邦人子弟は、意志が弱く、堅忍持久の精神が乏しく、落ち着きがなく、礼儀作法に無頓着で、経済観念が薄く、ものの取り扱いが粗雑で、感情が豊かでなく、日本的な生活感情が稀薄になりつつあると言われている。その反面在満邦人子弟は、開放的で、線が太く、明朗であるという長所も認められている。(註一)

第二、満洲はシベリア的亜寒帯地方に属し、半年間の厳しい冬が原因の健康上の問題がある。在満日本人子弟の体格上の特質は、最近の在満教務部の身体統計(註二)によると、日本内地に比べて体型が狭長型で、俗に「もやし型」であり、近視や齲歯(うし、虫歯)が多い。そして疾病率特に結核感染率が高い。

第三、在満日本人の家庭には歴史的伝統がなく、舅姑がいない若夫婦によって構成され、また極端な住宅難で、家庭教育が困難である。六畳や四畳半の一間に家族四人ないし五人が住んでいるような場合もある。

243 また初等中等教員の不足、児童生徒の転校移動が激しいことに起因する問題もある。

 

 開拓地における教育問題 開拓地は目下建設の途上であり、冬季や雨季での通学の困難、教師児童が生活を共にし、生活を教育し、共同的勤労的精神を培うための寄宿舎教育を行っている。

 

 満洲開拓青年義勇隊 これは日本内地では満蒙開拓青少年義勇軍と言われている。この義勇隊は大きな国家的使命を負託され、この義勇隊の中から将来満州国や大東亜を背負って立つべき俊傑の士が出ることを私たちはひそかに期待している。しかし現実の義勇隊はその理想と使命に関して楽観できない。義勇隊の意義は、ただ国防上・軍事上の立場からと、農政的な開拓移民の立場からだけで考慮されがちで、国家教育の立場からは従来あまり考慮されなかった。これは根本的で致命的な問題である。国策推進のためにも検討・反省を加えるべきである。

244 その問題点は第一に、保健衛生上の問題である。入隊時に厳重な身体検査が行われているはずだが、身体を害うものが相当いる。統計(註三)的裏付けもある。毎年相当数の疾病者特に結核性患者を出している。その原因は衣食住の不完全・不十分なことである。

 第二は、精神上の問題である。義勇隊青年の特徴は逞しさである。自己の生命をなんとも思わない本能的な逞しさであるが、これは善悪両面に現れる。善い面は、どんな困苦欠乏にも耐え、国のため、人のために即座に生命を投げ出す捨て身の行動となって現実を処理する勇猛果断な実行力である。日本海でソ連の機雷に触れた気比丸が沈んだとき、偶々乗り込んでいた義勇隊の青年たちは、女子供を真っ先に助け、最後に自分達は従容として船と運命を共にした。しかし他面その逞しさは理性を欠いた妄道となり、暴力になり、他人の生命をも無視するきらいがある。またその行動が集団的になるため警戒を要する。

 現在の青年義勇隊の一部は種々の問題を醸しつつあるが、その詳細は述べない。以下その原因を述べるが、それは義勇隊内部の心ある方々の意見である。

245 その根本原因は彼らが親元から離れていることである。入隊年齢は普通16歳と言われているが、実際は昨年1941年あたりから14歳くらいの者もいる。広漠とした満洲の昿野(何もない野原)に来て、中隊長を中心にして同一年齢層の青少年たちが老若男女のいない単一な集団社会を形成しているところに根本の困難がある。青少年たちは一定の期間だけ在満するのではなく、生涯親兄弟を離れて生活し、満洲の土になるのである。私たち満洲に来ている者は、口先だけは満洲に骨を埋めるなどと言うが、大概の官吏は数年のうちに内地に戻る。在満部隊も平時では3、4年すると内地に戻る。ここに青少年たちの世にもまれな類ない覚悟のほどが生じ、逞しい品性も陶冶されるのだが、他面何と言っても未だ年のゆかない、志操の固まらない年頃であるから、非常な無理が生ずる危険がある。その他に衣食住の問題や教職員幹部の問題、その他の教育的施設の問題などがある。

 

 次は満州国側の諸大学における日本人子弟教育の問題である。満州国経営の大学は民族共学を建前とし、特に建国大学等では、民族共塾を実施している。これらの大学に3550名余の日本内地人学生が在学している。問題点の第一は、満洲建国の理想である民族協和が「容易ならぬ」問題であるということである。その原因は学校内部だけにあるのではなく、学校の外部つまり満州国の現状にある。今その説明は差し控える。ただし優秀な日系学生が在籍する学校では、民族協和が比較的良好に行われている。

 第二、民族共学であるから、日系学生は修学上や訓練上で「足踏み」を余儀なくされ、学力その他を低下させる恐れがある。しかしその反面、将来国家の中堅となる各民族青年学徒を、異民族学生と生活を共にさせて内面的に深く接触させることは、大東亜の建設上有意義であり、この接触が特別に良い「風格」を日本人学生に齎しつつある。

 これに関連して、日本内地から来た学生の中には、狭い島国根性的な民族的偏見を持つ者がいるが、このような学生は優秀な異民族学生と絶えず接触することによって「大乗的」な広い豊かな心を持つようになり、特に大亜細亜的識見を持つようになる。その反対に国家に対する自覚が薄弱な近代的思想を抱いていた学生は、異民族学生と接することによって、堅固な日本的自覚を持つようになる。

 

 満州国における日本人教育の問題は、以上の外に大同学院をはじめとする70余の政府職員養成機関と、満鉄をはじめとする特殊会社・準特殊会社における社員や技術員養成所(100余)における日本人教育の問題があるが、ここでは省略する。

 

247 以上が満州国での日本人教育における主な問題点であるが、最後に満州国「固成」からの問題点がある。

 それは満州国における日本人教育では民族協和に対する関心やそれへの努力がまだ乏しいことである。その主な原因は、昭和121937年の治外法権撤廃の際に教育行政権を日本側に留保したことに基き、日本内地人子弟の教育行政機関である教務部が満州国内に設置されたため、在満日本人子弟の教育と満州国の教育とが、形式上はともかく、実質的に無関係であることである。それはともかく、満州国建国の理想である民族協和――協和という言葉よりも親和という言葉を使いたい――の立場から、中核分子としての日本人自身が民族協和に対して熱意が乏しいことは遺憾だ。

 このことは私どものように各民族子弟とともにいつも接触している者が特に痛感するところである。来るべき大東亜を背負って立つべき日本人子弟が徒に偏狭な民族的優越感を以て他に望み、アジア諸民族と相親和する心を万一欠くならば、憂うべきことである。(この時代にこういうことを言える人は珍しいのではないか。)

 

 以上が満州国における日本人教育の諸問題であるが、次にその対策を述べる。

 第一、保健衛生上の施設をできるだけ完備し、一層養護に留意することである。これは特に開拓地教育や義勇隊教育では刻下の急務である。

248 これに関連して教育における鍛錬と養護の関係で、今日の情勢を省みて、深く反省する必要がある。鍛錬は肝要であるが、鍛錬が肝要であればあるほど、発達期における少年子弟に対しては、そして特に満洲のような日本内地と著しく風土を異にする所では、養護が必要である。この自明の理が案外閑却され、学校教育と条件や性質が異なる軍隊教育の鍛錬を(学校が)受容しながら、しかも他面では、軍隊教育では養護的施設に留意して養護を徹底していることを反省しない。これは満洲に限らず、現代日本教育全般の通弊である。(よく言った)

 第二、情操の陶冶 情操の不十分ということ――何か潤いが欠けていること――このことは私ども在満日本人全体の問題であるが、在満日本人子弟の教育では特に留意しなければならない。今日意志の鍛錬が強調される反面、情操的陶冶が閑却されがちである。感情の陶冶、感情の愛惜を無視した錬成は剛直であり、逞しくはあるが案外に脆く、誘惑に打ち克つことができない人間を作る虞がある。錬成が真に錬成にならないのである。私は鍛練や錬成を真に尊重するからこそ特にこのことを言う。プラトンのノモイ篇の第一巻では、難行苦行のクリュプタイヤ*は外部の苦痛に打ち克つ鍛錬として大いに必要であるが、その反面柔軟な感情の涵養、内なる欲望に打ち克つ消極的鍛錬つまり節制を強調している。

 

*クリュプティアkrypteia スパルタの若者が奴隷ヘイロタイの住む田園地方に派遣され、反乱を起こしそうな屈強な人物を殺害するという軍事教練。

 

249 満洲における情操の涵養は困難であるが、その方策について思い付きを述べる。第一、宗教的信仰を無視してはならないこと。第二、日本内地での国民的・家庭的な年中行事を満洲で奨励すること。第三、在満邦人の家庭状態の改善。また義勇隊で今最も必要なことは温かい親の心である。これについては次の教職員の問題とも関連する。青年義勇隊は渡満後第二年度に一度日本内地の親許に帰らせ、家庭的雰囲気に浸らせることが絶対に必要であると私どもは考える。この制度を速やかに確立すべきである。

 第三、教職員に対する待遇の改善 特に開拓地教員や義勇隊幹部の負担過重に対する対策を無視してはいけない。「教育は人にあり」と言われるとおり、教育者は教育の根本問題であるのに、教育者が閑却視されている。ソ満国境に近い青年義勇隊や開拓地の教職員は、第一線の将兵に劣らぬ苦労をし、人知れぬ尊い献身的努力をしている。

 第四、日満間の絶えざる人的交通が肝要である。それと共に満洲生まれの日本人子弟、特に都市の邦人子弟を一定期間日本内地に戻して日本内地の教育を受けさせる。

 以上とは反対に日本内地の学生、特に師範教育系統の学生・生徒に、大陸で一定期間教育を受けさせることは、師範生特有の師範型を打破して気宇を広大にし気力を養う点で望ましい。そして現在の青年義勇隊の内容を改革し、兵役と同様に日本青年に適当な時期(4月から10月ころまでが適当である)にこの義勇隊に入隊させ、修業年限半年程度の教育を受けさせたらどうか。

 

250 優秀な日本人が満州国の日系国民になって他民族を信服させることは、民族協和を真に可能にするための絶対条件である。満州国国民教化の点から、日本人教育の確立は必要である。満州国における日本人教育の重要性は、大東亜建設の上で重大である。翻って日本内地の教育は、大東亜共栄圏建設の上で重大な責務をもつ。

 

註一 「在満日本人児童の長所短所」満鉄初等教育研究会

 「研究要報」(第一輯―第八輯)満鉄教育研究所 特に石川七五三二氏論文「在満日本児童の情意的特色」

註二 「初等学校及中等学校児童生徒の体位」昭和15年版 関東局在満教務部編

註三 「満洲開拓青年義勇隊統計年報」(秘扱)康徳八年度版

 

以上

 

2022年6月2日木曜日

「国民学校教育とその用語」奈良女子高等師範学校附属国民学校主事 武田一郎 1943

「国民学校教育とその用語」奈良女子高等師範学校附属国民学校主事 武田一郎 1943

 

 

感想

 

・国民学校教育の狙いは、教科を「錬成」・実践・「行」とみなすことであり、教科指導を教室内のものとせず、教室外のものと考える。236この考え方は絶対におかしい。教科指導の全てを実践と関連づけることには無理がある。

・上から決められた法に忠実で、国民学校の教師である自らを「実際家」と称す。つまり上から言われた通りのことを忠実に行うという意味である。229

・筆者の根柢には主知主義、個人主義的人格論などに対する批判があり、生徒の興味や個性、自発性、自律性に反対し、それらの言葉を国民学校教育の精神に合うように再定義せよと提案する。238

・本論はWikiにおける著者生年1899年からすれば、筆者が43歳のころのものである。また筆者は1973年に74歳で亡くなっている。

 

Wikiによれば、

 

武田 一郎(たけだ いちろう、1899921 - 19731223日)は、日本の教育学者、教育行政家。

 

来歴

 

北海道出身。東京文理科大学卒。奈良女子高等師範学校教授戦後は文部省視学官となり教育行政に携わる。後、お茶の水女子大学附属小学校長。1964年定年退官。お茶の水女子大学名誉教授。北海道学芸大学学長、十文字学園女子短期大学学長。

 

奈良女子高等師範学校附属小学校主事 1940 - 1941

奈良女子高等師範学校附属国民学校主事 1941 - 1947

 

お茶の水女子大学文教育学部附属小学校長 1952 - 1957

北海道学芸大学長 1957 - 1962

十文字学園女子短期大学長 1966 - 1973

 

 

著書 戦前の論文は一切伏せ、アメリカの教育を紹介している。思想の一貫性や反省よりも生活者としての立ち回りが上手だと言うべきか。

 

『学校学級経営の基本問題』牧書店 1949

アメリカの小・中学校はこうやつている 学校・家庭・社会』フェニックス書院 1950

『指導主事の職能 教育的助言指導』学芸図書 1952

 

共著・編

 

『小学校特別教育活動の実際 教科外活動』編 明治図書出版 1951

『学校行事の新しいあり方』重松鷹泰共編 東洋館出版社 初等教育新書 1953

『教師の教育活動と管理活動』海後勝雄共編 東洋館出版社 初等教育新書 1954

『教員必携』柴沼直共編 学陽書房 1954

『安全教育 学校は児童の安全をどのように守るか』編 東洋館出版社 1956

『改訂指導要録の記入法』岩下富蔵共著 明治図書出版 1956

『改訂小学校の家庭科 新指導要領具体化のために』共著 明治図書出版 1956

『教育技術講座』全6巻 共編 明治図書出版 1957

『教科学習と道徳教育』編 金沢書店 1957

『現代教育評価法 その理論と技術』辰見敏夫共編 明治図書出版 1958

『小学校教科学習と道徳教育』編 半沢書房 1958

『明治図書講座教科経営』宮田丈夫共編 明治図書出版 1958

『家庭百科大事典 第4 育児・教育』共著 暁教育図書 1966

『家庭教育講座 第5 子どもの健康・安全のしつけ方』共編 暁教育図書 1967

 

 

要旨

 

229 過去1年有余の(国民学校主事としての)経験に反省を加え、教育の実際に関係する用語を中心に考察する。

 国民学校教師の第一の指針は、国民学校関連法規と国民学校の各種教科書に示される教育の精神・内容である。(教育の)実際家はこれらに示された用語を忠実に実践するように心がけている。(小学校から)国民学校になってから初めて用いられるようになった言葉や、従来の言葉に修正が加えられた言葉には異常に緊張して関心を持ち、その用語の精神を実践して国民学校教育の特質を発揮しようとしている。その用語の解釈は教育の性格を決定するから、その用語の意義を闡明することは極めて大切な仕事であると信じる。

 

230 国民学校令第一条に「錬成」という語が使われているが、その「錬成」は「教育の方法を示すもの」と解釈された。錬成は練磨育成と解釈され、鍛練的・徹底的教育という語感を持つ。錬成が国民学校教育の基本的方法原理として示されたことにより、国民学校教育が強さや逞しさを持つようになった。「錬成」は従来の教育を矯正し、歴史の大転換期において世界史的重大使命をもつ大国民を育成する上で極めて適切な方法原理である。(軍人の育成に好都合ということか)

 現状では錬成の内容・程度は区々であるが、錬成は心身一体の錬成であり、国民的資質・国家的人物の錬成でなければならない。錬成の意義の解釈とその実践の方法・程度は今後の大きな研究課題である。

 錬成されるべき国民的資質の中身が国民学校制によって明瞭にされたが、その錬成教育の内容を分節したものが国民学校の教科である。国家は児童に教科の内容を修練体得させ、皇国民としての資質を錬成しようと期待している。教科科目の内容は教室内で観念的に注入されたのでは果たされない。「学習は同時に行である」ことが強調される。

 

231 国民的性格の形成は教科学習を通して形成されるが、その際、客観的財が受容されて体験が拡大深化される場合と、体験内容が客観的に表現される場合とがある。前者は客観の主観化であり、後者は主観の客観化である。そしてこれらは時間的に継起するのではなく、一つの形成作用の両面である。この形成のはたらきは具体的な「行」として不断に進行する。「行」としての学修を通して、具体的・実践的・創造的な国民的性格を陶冶することができる。これは国民学校の教科指導の最大の使命である。このような行的修練を徹底するために、国民学校の教育では、教育の方法的機能としての教授・訓練・養護の一体化が叫ばれ、儀式や学校行事も教科と併せて一体として行うことが必然的に要求される。

 

 これと関連して国民学校令施行規則第三十一条に「各教科及科目の毎週授業時数外に於いて、毎週凡そ三時を限り、行事や団体訓練等に充てることを得」とある。この条文は国民学校になって新しく規定されたので、非常な緊張と関心が向けられている。この条文の中の「行事」は施行規則第一条の「儀式、学校行事等を重んじ云々」の中に含まれるべき「行事」であるが、原則的には、教科・科目のように毎日行われるべき性質の行事である。それは毎朝の朝礼や宮城遥拝のようなものである。これらが教科外施設である。全国の国民学校はその実施に非常な工夫・努力をしている。国民学校教育の特色がこの教科外施設であると誤解する人もいるほどで、教科外施設の内容として専ら実践的・修練的のものが計画され、国民的訓練上価値ある施設が行われている。例えば宮城遥拝は国民精神の昂揚上意義あることであり、団体訓練は従来の個人本位の教育の弊害を是正し、今日の世界史的転換期に億兆一心の性格を形成する上で極めて重要な意味を持つ教育施設と考えられる。

 

232 教科外施設は一見普通の教科・科目の授業形態をしていないため、行事や団体訓練は教科ではなく、教科外教育施設とみなされている。国民学校になってから儀式や学校行事などが重視されるようになった。行事や団体訓練を教科課程の時数外に行えることになったことから、これらの施設に国民学校の一大特色を見出そうとする心理が生じ、行事や団体訓練などの教科外施設が増加したと言われる。

しかし教科外施設が増加するのはいいが、反面教科指導が低調になるのは警戒すべきである。児童が団体訓練時には緊張し、動作も逞しく、瞳も輝いているのに、教科の時間になると活動が鈍ることが多いと見たり聞いたりするが、これは警戒すべきことである。

 

国民学校の教科は皇国民を形成する教育内容の大分節であるから、国民学校ではひたすら教科を徹底的に指導すればいい、皇国民として必須の資質の錬成を内容とする教科の学修が、行的修養として児童によって体得され、実践されれば、他に何もすることはないのではないか。

教科外施設が教科とは別の大系だと考えられ、いくつかの教科外施設が教科と併さり一体となって経営されると解釈すると問題が生ずる。教科外施設が教科指導とは別の独立した体系をもつとすると、二つの難問に遭遇する。

 

233 第一の難問 国民学校制の特徴は国民の統一的教育である。国民学校制が施かれてから私立の国民学校は認められなくなった。小学校時代には体操・裁縫・手工・唱歌(尋常小学校第四学年以下)では、児童用図書を採定できなかった。国語・書き方・算術・理科・家事・図画の教科用図書や小学地理付図などは、学校長の意志で児童に使用させなくともよかった。しかし、国民学校になってからは児童用と教師用の教科書が編纂されるようになった。施行規則第三十九条は「教科用図書を解釈したる図書(自習書か)、もしくはこれに類似したる図書は、児童に使用させてはいけない」とし、国民教育の統一に細心の注意を払っていることがうかがえる。

 教科外教育施設が、国民教育の統合体系としての教科とは別の独立した体系であるとし、教科外施設の内容的基準がなく学校長の意志で決定されるならば、国民の統一教育が歪曲される恐れがある。さらに教科外教育が国民学校教育の特質であると誤解するなら、一層警戒反省を必要とする。

234 第二の難問 教科外教育施設が教科とは別系統に考えられるならば、実践的修練を主な内容とする教科外施設としての行事や団体訓練が充実増加すれば、教科は軽視され、偏知的注入的教授で満足せねばならなくなるだろう。警戒すべきである。

 

 以上、教科外施設が教科とは別体系であると考える場合に生ずる理論的難点と警戒すべき実情について反省した。私は教科外教育施設である行事や団体訓練等は、教科指導の実践的修練機会であると解釈するのが妥当だと考える。施行規則第三十一条は「各教科及科目の毎週授業時数外に於いて」とし、「教科外」とはしていない。毎日の行事である朝礼や宮城遥拝は、国民科修身等で指導した事柄の実地修練であり、また団体訓練に関しては、施行規則第十一条の体錬科体操の指導要旨の中で「体錬科体操は体操、教練、遊戯競技及衛生を課し、心身の健全なる発達を図ると共に、団体訓練を行い、規律を守り、協同を尚ぶの習慣を養うものとす」としている。体錬科体操での団体訓練と、毎日教科課程の時数外で行う団体訓練とでは、方法や内容が異なるところがあるが、団体訓練の目的・価値は異ならない。平日の行事として行われる団体訓練は、教科外ではなく、体錬科体操が別な時と場所と形態で発展的・拡充的に修練されるものと解すべきである。その他の修練行事についても同様に考えられる。

235 教科の課程時数外に行う教育施設は、教科と外部的に連絡するのではなく、教科指導の内面的発展の修練施設として理会すべきである。現時、教科指導は征戦目的の完遂や大東亜建設の国民的性格の錬成に焦点を当てるべきであり、学校行事もこの点に集中すべきである。毎日行う行事・修練や団体訓練だけでなく、すべての学校行事が、教科と併せて一体と考えるよりは、教科学習の綜合的修練の機会として考えるべきである。運動会、学芸会、奉仕作業、慰問文発送などは、教科学修の修練の機会である。実践的修練が教科指導の機会であると考えることによって、教科は単なる学問的分科ではなく、皇民資質の錬成内容を正当にも分担するものとなる。儀式についても同様である。初等科一年と二年の国民科修身に「天長節」の教材があるが、児童は学校での儀式を体験することによって、この国民的行事に関する教材を理会できる。天長節に関する指導は、学年が進むにつれて高次になる必要がある。儀式の仕方や学校行事は、教科指導の観点から再吟味・再組織されるべきである。国民的性格の内面的統一を成就しなければならない。今日行事について一般人が理会する態度を考えてみる時、そのことを痛感する。(どういうことか)

236 私は教科指導が教室(学校)外に始まって教室(学校)外に終わるべきだと考える。学校を中心に家庭・社会を一聯とした児童の全生活環境が教科学修の場を構成し、教授・訓練・養護の三つが一体となって修練させることが、国民学校経営の方法技術である。従来主知的教授学に基づく教授段階論*の影響に煩わされて、授業は教室内で行うものと考えられ、皮相的知識を授けることで満足した。性格形成の原理から言えば、実地に行い表現することは、単なる知識の応用ではない。実地に行い生活することによって具体的な知識が得られるのである。国民学校教育はこの点を重視する。従前の小学校令施行規則第二条は修身科の授業要目を規定し、「修身は教育に関する勅語の旨趣に基きて児童の徳性を涵養し、道徳の実践を指導するを以て要旨とす」としたが、国民学校令施行規則第三条は「国民科修身は教育に関する勅語の旨趣に基きて国民道徳の実践を指導し、児童の徳性を養い、皇国の道義的使命を自覚せしむるものとす」とし、徳性の涵養から道徳の実践へ進むのではなく、道徳の実践から徳性の涵養に進むべきだとしている。このように行的修練を重視する傾向は修身だけでなく、各教科科目でも強調されている。理数科理科の教科書はこの点で進歩している。実践的な行動を重視する教科の指導は、教室内の教授だけでは果たせない。学校を挙げて修練の場・道場とすべきである。「道場」という言葉も国民学校の性格を示す力強い用語である。世間はともすると「道場」を特殊的・一方的に解釈する傾向があるが、国民学校が道場と言われるための条件は、皇民錬成の教育内容を分担する教科学習が、行的に修練体得される場かどうかである。

237 以上、国民学校教育では教科を第一にして全一的な行動的・実践的教育をすべきであるとする意図から述べた。

 

*教師中心主義だが、ヘルバルトとその弟子ラインは四(五)段階教授法を唱えた。

 

 国民学校の道場的性格から学校経営が厳粛性を帯びてきて、学校長を中心とした全校教育精神が確立され、師弟道が昂揚された。我が国教学の本義に基き、随順帰一の人格修養が叫ばれているが、ここに教育法論上の新たな問題が生じた。

 従来の教育学上の第一原理として「自発性」の原理がある。嘗ての誤った個人主義的人格論を背景とする自発・自律の原理が教育理論の核心や前景に立つものが多かった。またこれと一聯の関係の下に解釈された教育学上の用語で従来から使用されている「興味」や「個性」がある。これらの用語は新しい教育ではどんな意義が付与され、教育学上どのように位置づけられるべきかという問題が生じた。

238 この問題が単に名目上の観念的抽象論に過ぎないという考え方は間違っている。国民学校になってから従来の「教授案」や「教案」が「授業案」に改められた。このことは教育実際家が、国民学校教育における用語の中で特に国民学校になってから初めて造られた言葉や、従前の用語に修正を加えられた用語に関心を持つ場合の一例である。

教育実際家の一部には教師中心の教育となった今日、「自発・自律」や「指導案」のような児童中心教育時代の用語は抹殺すべきだと言う人もいて、その結果、授業が注入的になる傾向が生じた。「注入か啓発か」の問題は過去の教育史上で既に清算されたようだが、今日また以前とは異なる観点から新たな問題として台頭した。

 近時「国民的人格」と言われるが、これは誤った個人主義的人格と区別して、皇国民としての主体性を表そうとするものである。「自発・自律」という用語も、その意義の修正や教育理論上の位置づけを新たに考えるべきである。「個性」や「興味」も正しく理解される必要がある。(尻切れトンボ)

 

239 教育用語の解釈は、正しい世界観に立つ教育観が確立され、それに基づく教育理論が構成されることによって可能となる。国民錬成の教育哲学が確立し、重要な用語が正しく解明され、それが教育実際家に正しく理会されて国民学校教育が本道を進むことを念願する。(無内容)

 

以上

 

学校統廃合で、子ども・地域はどうなるの? 山本由美

  学校統廃合で、子ども・地域はどうなるの? 山本由美  20260920  日  14 ~ 16 時 群馬県勤労福祉センター 主催 「ぐんま住民と自治研究所」     感想   学校統廃合は寂しい。昔の若いころの運動会や祭などの思い出がなくなり、更地になる。...