2020年7月29日水曜日

満州事変をどう思うか 1931年、昭和6年11月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 要旨・感想

満州事変をどう思うか 1931年、昭和6年11月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

 

 

感想

 

 「五族協和」と言うが、その中に蔣介石は入っているのか。自分に都合のいいように、傀儡政権をつくってごまかしては駄目だ。また、日露戦争は自衛のための戦争で、満蒙の権益はその結果だと言うが、対華21か条の要求や5・4運動をどう考えているのか、そのことに関する言及が欠落しているのはなぜか。満州事変同様マスコミ操作によって、国民には知らされなかったのか。

 

感想

 

ショッキング。当時の人々の多くは、報道*によって嘘をつかれていたとは言え、日中どちらが先に手を出したにせよ、大きな方向性として、軍のやった行為を支持していたようだ。満州事変が中国先行の暴力から生じたという嘘がすんなりと通ってしまうような思考パターンだった。

「ロシアからの自衛」、「中国人は悪い」、「日露戦争で得た権益を守りたい」…

 

*新聞やラジオは「中国軍の不法なる攻撃に対し、権益を守るための自衛行動」と報道した。108

 

孫文や国民党の北伐を、日本人はどう考えていたのか。日本人は、日露戦争で得た権益の死守という観点しか持ち得なかったのだろうか。民族自決、国際協調、社会主義などのグローバルな視点は持ち得なかったのだろうか。

当時の日本人にとって国防とは対ソ連・ロシアを意味していた。

 

しかし幣原外交を支持する人もいる。

 

もし、満州事変が関東軍の陰謀だったという報道がなされていたら、国民はどう考えただろうか。幾分後ろめたい気分にはなっただろうが、それでも軍を支持したかもしれない。「ロシアの脅威に対する自衛」という観念が強い。10万人の戦死者を出し20億円の戦費を費やした日露戦争をやってからまだ25年しか経っていなかった。

 

 

要旨

 

108 美容術業 小坂巳之助 我が軍が支那の各地を占拠したことは、同胞として大変うれしい。ただ一点、我が声明書の発表が遅れたために事件の真相が分からず、「我が国が満洲に野心があるかのごとく」諸外国(欧米か)に思われたことは残念だ。満洲に対する「諸懸案」を平和的に解決されることを望む。(占拠したのに、野心はなく、「平和的に解決する」などとどうして言えるのか。)

 

海産物商 花野光成 満州事変の発生は遺憾だが、我が国の正当な権益擁護のため、満蒙諸懸案を解決し、将来の禍根を断つべきだ。

 

会社員 三浦白羽 日露戦争の意義は、満蒙に国防の第二線(第一線は朝鮮か)を獲得するためであった。国財20億円と10万の同胞を犠牲にして得られた自衛自給のための権益を一朝にして失うようなことがあれば、私たちは防衛手段を失い、安息を脅かされ、終には日本の存在を危うくし、「亡国」の憂き目を見ることは明らかだ。先般の日支の交戦は、この意義の現れである。満蒙における日支の交戦は、永久に我が権益を保持するための最後の決心である。

 

理髪業 原浦蔵 今回の日支衝突事件を穏やかに済ませず、再びこのような問題を中国が起こさないように、正義に強い日本人や日本魂の大なるを(中国に知らしめ)、卑怯な支那人が二度と日本人に手向かうようなことの出来ないように、ひどくとっちめてやりたい。

 

109 柴山啓一郎 今回の我が日本軍の行動は当然だ。それが失敗でも成功でも私は問題にしない。国家には生存の権利がある。(他の国家も同様のはずだが。しかし中国が攻めてきたと考えているからこう言うのも当然か。)人間に生存権があるのと同様に、我々は、国家の生存権のために、国を賭して強いロシアと戦った。我が国にとって、皇国の興廃は、この日露戦争にかかっていた。そして僅かだが満蒙の権益を獲得できた。世界の流行(民族自決か)に乗って、一挙にそれを蹂躙しようとする暴虐の行為に対して膺懲することは「神意」に叶っていて、人間の批判を超越している。(恐れ入りました。)

 蔣介石や張学良は、満蒙が自分の領土であるかのような顔をしているが、我が国のこれまでの努力がなかったならば、満蒙はロシアの領土となり、シベリアや北満と運命を同じくしただろうことは、歴史を勉強する以前に知ることができる。我が国がロシアと戦ったのは、自己生存のためだったが、満蒙の民をあの残虐なロシア人から救おうとする惻隠(憐れみ)の情からでもあったし、正義の観念からでもあった。それは単なる自己生存のためばかりではなく、満蒙民人と共存共栄の幸福を得るためでもあった。この公明正大の観念の下に獲得した権益が、理由なく掠奪されようとする場合、それに対して立たない国家があろうか。私は我が国家の先般の行動を是認したい。それは他のどの国家についても言えることだ。(憐れみだったら少しぐらい譲歩したらどうか。)

 

実業家 沢柳猛雄 日支衝突を肯定する。その理由は、一、日本民族自活権のため。二、三千万の満蒙在住中華民人の幸福のため。(こんなことがよく言える。)三、東洋と世界の平和を脅かす「禍根」を絶つためである。(蒋介石や張学良は禍根か。)「国運を賭しても」頑張ると中外に宣言すべきだ。

 

110 野口喜太郎 (満州事変に関する意見を求める)御端書ありがとうございます。私に意見を聞かせて欲しいとはもったいないことですが、何も申し上げることはありません。(なぜ、戦争や平和に関する重大事に関して、黙っているのか。それともすでに自分の意見を述べず、黙らざるを得ない状況だったのか。)ただ景気が好くなり、楽に暮らせるようになりたいものです。

 

東京市会議員 島本龍太郎 出来たことは仕方がない。禍を転じて福となす方法を考える他にない。私は幣原外交に多大の信認を払っている。幣原外相の大方針・大信念に基づいて行動されることが、最も我が国にとって有利であろうと思う。(幣原さんの1920年代の国際協調方針に賛成の人もいた。)

 

魚商 荒川仙吉 軍部の行動は少しも悪くない。罪のない邦人を虐殺し、か弱い女性を暴行する悪虐無道の支那人に対して、将来の「懲らしめ」のために、遠慮なく「制裁」を加えるべきだ。この機に、日本軍人の強さと立派な態度を海外に発揚すべきだ。

 

下宿業 松沢保 私の下宿の学生さんは皆、幣原外相を非難している。私も外相の行動は悪いと思う。日本国民全体の思想が、幣原外相の無能のために、世界に「誤解」されつつあることを悲しく思っている。

 

1931年、昭和6年11月号

 

以上 2020729()

 


2020年7月28日火曜日

満州事変の舞台裏 花谷 正 1955年、昭和30年8月号 三十五大事件 「文芸春秋」にみる昭和史1988 感想・要旨

満州事変の舞台裏 花谷 正 1955年、昭和30年8月号 三十五大事件 「文芸春秋」にみる昭和史1988

 

 

感想 これは満鉄総裁内田康哉の一大変節をテーマとし、その変節ぶりをあざ笑うかのように、満州事変を得々として振り返る、当時奉天特務機関員・陸軍少佐の戦後の回顧談である。これもやはり、1955年、米占領軍が公職追放からレッドパージに変節し、朝鮮戦争が終わり、日本がサンフランシスコ条約で独立し、米軍統治がなくなって安心した時の、戦前肯定の雄叫びである。

 1957年、花谷が死んだとき、盛大な葬式が行われたという。無反省の狂気の集団が、戦後日本でもしぶとく存在することを物語る。

 

 

内田康哉 (うちだこうさい、1865.9.29—1936.3.12

 

優秀な外務官僚・政治家だったが、真の哲学がなく、その時々の時流に乗って過ごした「単なる有能な事務官僚」(外交評論家で元タイ大使の岡崎久彦)だった。パリ講和会議、ワシントン会議、パリ不戦条約では、国際協調的で進歩的な態度*を取っていたが、満鉄総裁になり、関東軍司令官の本庄繁と会ってからは急変し、不拡大方針から事変拡大派に転向した。一時、1932年4月、犬養内閣によって江口定條・満鉄副総裁(民政党系で軍部に批判的だった)の更迭に抗議し、辞表を提出したが、軍部に慰留され、そのまま留まった。1936年3月12日、二・二六事件の15日後に、70歳で亡くなった。ポリシーのない人生をやめたかったのかもしれない。

 

*これらについて内田は「四国条約*の締結といい、支那関係の原則の決定といい、全てこれは世界における恒久平和の樹立に対する一般人類の真摯なる要求の発露に他ならない。単に各国政府の一時的政策と認むるべきではない。」と演説している。*ワシントン会議において米英仏日の4カ国間で調印された。1921.12.13

 

 

 熊本藩医内田玄真の子。同志社英学校入学の2年後に退学。東京帝国大学法科卒業後、外務省に入省。ロンドン公使館、清国北京公使館(一時臨時代理公使)勤務、オーストリア公使兼スイス公使、アメリカ大使、ロシア大使、第4次伊藤内閣のとき外務次官。

 第2次西園寺公望内閣1911.8、原敬内閣1918.9、高橋是清内閣1921.11、加藤友三郎内閣1922.6で、外務大臣。原内閣以降、パリ講和会議、ワシントン会議の時期の外相として、ベルサイユ体制、ワシントン体制の構築、1928年の不戦条約成立に関与し、第一次大戦後の国際協調体制を構築した一人だった。

 但し、清国山東省の元帝国ドイツ領の日本の権益を主張したベルサイユ条約の山東条項は、山東問題を惹き起こし、1922年の「山東懸案解決に関する条約」が締結されるまで解決されなかった。

 原敬暗殺1921、加藤友三郎急逝1923の際、内田は宮内席次で内閣総理大臣の次席だったので、皇室儀制令の規定に則り、内閣総理大臣代理を務めた。2度目の首相臨時代理の際、第2次山本権兵衛組閣前の2日間だけ、関東大震災対策の指揮を取った。枢密顧問官1925、不戦条約に関与1928、貴族院議員1930

 1931年、南満洲鉄道総裁に就任。同年9月の満州事変では、不拡大方針で臨んだが、満鉄理事で事変拡大派の十河信二の斡旋で、関東軍司令官・本庄繁と面会したのを機に、急進的な拡大派に転向した。1932年4月、犬養内閣によって江口定條・満鉄副総裁(民政党系で軍部に批判的だった)の更迭に抗議し、辞表を提出したが、軍部に慰留され、そのまま留まった。同年1932年7月に成立した齋藤内閣で外務大臣。国際連盟で満州国の取扱が審議され、松岡洋右全権が交渉にあたり、主権を中華民国(蔣介石)に潜在的に認めたまま、日本の「勢力圏」にするという日本に有利な調停案がまとまったが、内田がこの案を一蹴し、日本は、満州国を国家承認、国連脱退に追い込まれた。1932年8月25日、衆議院で「国を焦土にしても満州国の権益を譲らない」(焦土演説)と答弁。当時の外交評論家清沢洌は「国が焦土となるのを避けるのが外交であろう」と批判した。

 

 

花谷正(はなやただし、1894.1.5—1957.8.28)は恐ろしい男だ。1933年、軍部を批判した「北陸タイムス」(現・北日本新聞社)を、大隊を率いて「独断で」「攻撃した」という。そして不思議なことに、この件で懲罰を受けるどころか、同年1933年8月、参謀本部付きとして済南武官にご栄転。1935年8月、関東軍参謀となった。1937年8月、陸軍大佐に昇進し、歩兵第43連隊長として日中戦争に出征。1940年3月、陸軍少将に昇進。1943年6月、陸軍中将に昇進。同年1943年10月、第55師団長に親補され、ビルマに出征。第二次アキャブ作戦を指揮し、無能で杜撰な作戦で大失敗したが、責任は追及されなかった。

 人格的にも問題があり、第55師団長時代、部下の将校を殴り、自決を強要した。陸大卒を鼻にかけ、無天(陸大非卒業者)や専科あがりの将校を執拗にいじめ、上は将校から下は兵卒まで、自殺者や精神疾患を起こした者が多数出た。部下から強い侮辱と憎悪を買った。半面小心で、行軍中でも小休止の度に自分専用の防空壕を掘らせた。

 1945年7月、第39軍参謀長に就任し、タイ王国に赴任。第18方面軍参謀長として終戦を迎え、1946年7月に復員し、予備役に編入された。戦後は軍人恩給で暮らし、「曙会」という右翼団体を一人で運営した。

 1955年『満州事変はこうして計画された』(「別冊知性」昭和30年12月号 河出書房)において、秦郁彦の取材に応える形で、満州事変が謀略であったことを証言した。このとき、満州事変は自衛であるとし、関東軍による謀略を否定していた、当時の関東軍指導者である、本庄繁、板垣征四郎、石原莞爾らは物故していた。

 1957年、病で倒れ、片倉衷が義捐金を募ったが、部下は一人としてこれに応じなかった。同年死去。旧満州関係者が列席し、盛大な葬儀が営まれたが、部下は誰一人会葬しなかった。

 

 

本庄繁1876.5.10—1945.11.20、戦犯指定で自決)は、天皇にも嘘をついていた。自分が天皇よりも優れた政治判断を下せると考えていたに違いない。ウイキペディア、片倉衷(かたくらただし、1898.5.18—1991.7.23、軍人・実業家)によれば、以下の通りである。

1932年9月8日、前関東軍司令官の本庄繁中将、板垣征四郎(1885.1.21—1948.12.23、死刑)、石原莞爾(1889.1.18—1949.8.15、肺炎と膀胱癌で死亡)らとともに片倉衷は、宮中で昭和天皇に拝謁し、昼食会に臨席した。懇談会において天皇は本庄に、「満州事変は、一部の者の謀略との噂もあるがどうか」と質問し、本庄は「一部軍人、民間人によって謀略が企てられたということは、私も後で聞き及びましたが、関東軍並びに本職(私)としては当時断じて謀略はやっておりません」と答えた。

 

 

要旨

 

編集部注

 

 1931年、昭和6年9月18日、関東軍は奉天の北東にあたる柳条湖の鉄道爆破を仕掛け、それを中国のせいにして、中国に戦争を仕掛けた(原文は、「鉄道爆破によって、日中両軍が衝突した」)満州事変は、日本陸軍が企てた国際的謀略であった。生命線たる満蒙を完全に日本の勢力下におくことによって、国防の安全と国内の不況を一挙に解決しようとする「戦略」であった。しかし、当時の国民はそのこと(日本軍による謀略だったこと)を知らず、真相が明らかになったのは、戦後である。筆者は陰謀計画者の一人で、当時は奉天特務機関員で陸軍少佐であった。

 

本文

 

101 長期間に渡る排日、張学良が奉天政権となってからの満洲全土での侮日。日露戦争以来満洲在住の父子二代の日本居留民は日常生活を脅かされて日本政府の温和政策を非難し、日本内外で「物情騒然たる世相」が続き、このままではとても「収まるまい」とは、国民の勘で想像されていた。

 1931年9月18日の夜「勃発」した満州事変に日本国民の血潮が湧き立ったのは当然だった。

 特に、満洲在住の一般市民、会社員、実業家、軍人、満鉄社員などの感激がその極に達したことは、現地にいた当時の者でなくては想像できないことだ。各地に日本人大会が開催され、この際、徹底的に満蒙問題を「解決」し、武力衝突の起った現在、中途で姑息な妥協をしてはならぬ、との激しい叫びが全満に響き渡り(扇動的)、奉天に出動している関東軍司令部へは非常な激励が続いた。

 兵力移動の輸送に任ずる満鉄鉄道部の現地職員の張り切り方は、軍隊と競争であり、大連本社の職員の各種専門家も、大連から軍司令部に来て、「何でもお手伝いする」と各人非常な意気込みである。我々軍の参謀もこれに感激し「不眠不休」懸命の努力を自ら誓った。

日本における当時の民政党若槻礼次郎内閣は、幣原喜重郎外相井上準之助蔵相の宥和政策に押され、南次郎陸相安達内相の強硬主張と対立した。幣原外相から満鉄に対して、「事件不拡大、武力行使停止の考えだから、満鉄は関東軍と一緒になって、事件進展を図らぬよう、静観せよ」との電報があり、満鉄理事以上の重役は、傍観的な無為無策の態度を採った。

 「事変」はもともと鉄道の警備、満鉄マンを含む在満日本人の生命財産の保護から端を発したものであったから、軍司令部は満鉄首脳部の態度に不快で(自分達で勝手に始めておきながら「不快」か)、一般居留民は憤慨した。

 誰かが内田康哉(こうさい)満鉄総裁を奉天に「引っ張り出し」、軍司令官以下と、現在および将来に関して協議させようではないかということになり、非公式にこれを大連本社の者に伝えた。

102 しかし出てきたのは、江口定条副総裁であった。江口は本庄繁軍司令官、三宅参謀長と会って、儀礼的挨拶に終わり、林総領事とも会ったが、あっさり大連に帰った。江口は、事件の現在・将来に関する政策的問題には少しも触れず、負傷者の慰問さえしなかった。江口は大連で、「本庄司令官も三宅参謀長も、別に満鉄幹部に対して憤懣の色はなかった」と報告した。

 

 それで我々は、「本庄軍司令官や三宅参謀長は老熟した人々で、わざわざ挨拶に来られた江口副総裁に怒りの色を表すなど、はしたないことはされぬのは当然だ。また江口氏が満州政策など持ち合わせていないことを知っていたので、愛想よく応接したに過ぎない。これで軍と満鉄とが良くいっている証左とはいささか呆れる」と、大連の満鉄社員倶楽部で、社員に「やらせた。」(言わせたということか。内田を挑発したということだ。)

 これが内田総裁や江口副総裁の耳に入った。内田伯は、日本内地、満洲その他、世界情勢の推移を静観しつつ、今度の事変をいかに処理すべきか、「毎日考えていた。」ある日、理事の十河信二を呼び、「東京の中央部と出先関東軍との意見不一致のまま、関東軍としては、「敵」を前にして作戦を続けつつ、電報その他で政府と意見調整を図っているようだが、軍は積極的であり、政府は「事なかれ主義」で収めようとし、現地の満鉄としては容易に動きが取れない。それで私が東京に行き、政府の意見を聞き、「満鉄社内の統一」(満鉄社内でも不統一の問題が生じるまでになっていたようだ)を計らねばならないと思うがどうか」と言った。

それに対して十河氏は、「総裁は外相も総理大臣代理も経験された日本の重鎮であり、外交畑の大先輩である。若槻総理や幣原外相から、現地の実情と現在及び将来の対策を聞かれるだろう。軍司令部は、在満20万同胞の輿望(よぼう、衆望)を担い満洲3千万人民の安寧を企図し、幾万の軍人と幾千のシビリアンの「有志」達を指揮している。また軍司令官は法制上、満鉄に対して軍事指揮権を持つ。だから満鉄は軍司令部の意見を聞かなければならない。従ってまず奉天に行き、軍司令官と対策を検討し、その後で東京政府と折衝する必要がある」と主張すると、内田伯はこれに「直ちに賛同した。」

さらに十河氏は「非常に多くの満鉄社員が軍司令部に入って職員となり、事務室で政策の立案、現地の活動に死力を尽くし、また参謀で立案に当たっている者もいるので、これらの者とも懇談する必要もある。(満鉄はどういう組織なのか。関東軍の附属機関か。)軍病院の戦傷患者の慰問もお忘れなく。」と語った。

103 内田総裁は奉天ヤマトホテルに満鉄関係の人を呼び、奉天の状況、軍司令部の様子を聞いた後で、本庄軍司令官を訪れ、事件発生後の軍諸機関の敏速な活動と機宜に適した数多の処置を賞賛し、その労苦と心労をねぎらい、また三宅参謀長を交えて時局について語り、軍病院に傷病兵を見舞った。そして軍司令部の幕僚板垣征四郎大佐(後の板垣大将)、石原莞爾中佐、竹下中佐、それに私(花谷正)の四人に、午後3時からホテルで会見したいと申し込んで来た。私は満洲での日満両軍の対立状況、イルクーツク以東浦塩(斯徳、ウラジオストク)までのソ連軍の配置、熱河省以遠支那本部の張学良軍や南京政府軍の状況を述べ、また、この事変を契機に、日満漢蒙鮮五族を中心とする民族協和の「新天地」をつくり、交通、産業、政治、教育において大発展するような新国家をつくらねばならない。(現実を弁えない自己中の空想、或いは軍事介入の口実か。)その際、日本は満洲を領土とする意志があってはならない、と結んだ。

104 次いで、石原、竹下、板垣等が、それぞれ自らの経綸や抱負を述べた。

内田伯は「そのような諸般に渡る構想が練られ、他民族を含む多くの人々と以前から交わりが密かに結ばれ、強大な武力を現在までに把握し、諸計画の大綱が出来ているとは夢にも知らなかった。」

 「私は、日本民族や満洲3千万民衆を厚生させる、そのような雄大な計画を考えたことも作ったこともない。面目がない。よく話してくれた。外国に対しては秘密なことばかりのようだ。外務省や陸軍の中央部でも、自分で研究し、立案し、見識を持っている人は少ない。私も関東軍に全幅の信頼を寄せ、満鉄の財産全部を投じて諸君に協力する同志となる。」

その後夕食を一緒にとった。

内田伯「私は愉快だ。決心が決まった。」

私(花谷)は「私が陸大の学生で中尉のころ、閣下は外務大臣でした。そのころ新聞や世間は閣下のことをゴム人形と言っていた。上京されたとき無為の安全論にヘコマヌようにお願いします」と注文をつけた。

 内田伯は上機嫌で、老いの一徹、老人なかなか意気盛んだと感じた。

 

 散会後、板垣大佐と私は残ってさらに内田伯と歓談した。(歓談というより注文か。)

花谷「現内閣は国民感情に押しつぶされ、次は政友会内閣となるだろう。犬養さんは孫文以来、南方の支那人と連絡が多いから、支那と満洲とをどう調節するかを考えておられるだろう。」

板垣「一蓮托生であるべき閣僚が中から割れている。内閣不統一で、若槻さんは(内閣を)投げ出すだろう。もうその臭いがする。」

内田「君等が退官して義勇軍を作るような破目にまで、政府が(君等を)追い込まぬように、頑張る。」(内田も関東軍が跳ね上がりで、しかも組織的に行っていることが分かったようだ。関東軍のこの陰謀は、民間の右翼(北一輝、大川周明、井上日召)やクーデター計画とも関連しているに違いない。)

105 板垣「閣下が上京の際、(天皇への)拝謁があるように、その筋に連絡しておく。天皇への言葉を準備しておいて欲しい。」(すでに組織が出来上がっていることを示唆する発言だ。)

内田「君等に内地にも同志がいるとは、機敏なことだ。」

花谷「臨時議会が開かれて臨時軍事費が令達されるまでの作戦軍部隊や軍需品の輸送費は、後払証を駅か輸送事務所へ差し出すことで、満鉄が軍隊輸送を担当して欲しい。後日精算します。」「また、奉天や各地で軍の職員となって働いている満鉄社員で、本社へ辞表を出して来ている者も多い。満鉄はこれらの者も会社の籍において、出張旅費を出してください。」

内田「これは上級幹部の判断の問題である。大いに鼓吹する。」

板垣「(満鉄の)理事中二名位は奉天に常駐させ、軍司令部と連絡させ、互いに構想を練り、軍事以外のことでは、軍を援助・指導するくらいの気位をもって欲しい。」

 

内田「軍力がなければ政治的な調査ができない。奥地に「飛び込む」には軍からピストルなどの武器を貸してもらうこともあろう。将校の軍服を借りて支那人と話さねばならないこともある。その辺は軍でよく面倒を見てもらいたい。全幅の協力をさせる。日本民族未曾有の大事業だ。

板垣君は、いろいろと支那人を使い、降伏した奉天や吉林の旧敵軍を改編し、兵器弾薬材料の処理に臨時人夫を雇い、大勢の日本人を運用しているが、この人件費や事業費は、日本の臨時議会が開かれない間は、第二予備金などを大蔵大臣が出し渋れば、陸軍大臣が関東軍に予算を増加令達することは難しく、陸軍省も関東軍も苦しんでおるでしょう。陸軍省の方は東京で何とでもやりくりがつくが、関東軍はそうは行かないので大変だ。

 過渡期の今が大変だ。満鉄が一時立替し援助する。こんな緊急事態は歴史上そうあるものではない。各方面が協力すべきだ。」

 

 さすが国務大臣をやった人だけに、国政の事務的着眼もよい。百万の味方を得たような気がした。

 内田「東京の青壮年の参謀将校や、部隊の元気な将校たちは、大変な意気込みだそうだね。安達謙蔵内務大臣などは、『内閣がボヤボヤしているから、これらの精鋭を越軌の行動に出させることがあってはならぬ』と善意から心配しているらしい。」

106 「安達も若いとき新聞記者で、朝鮮にいて、閔妃のやり方が日本を排撃する禍根であると、宮廷に飛び込んで皇后を斬り殺した一味で、元来熱血漢だ。安達は、時局を積極的に促進するよう、自分の民政党を割って努めるだろう。月日の経過に伴って自然に内地も、だんだんしこりがほぐれていくだろう。」

 

 板垣「国際連盟の理事会や総会が日本を抑えるためにずいぶんとやかましく言い、今後紆余曲折もあるだろう。内田さんのご意見は。」

 内田「通信社や新聞、雑誌を賑やかにするだろう。諸君が先刻判断していたように、極東の一角のことで列強が兵力を差し向けるようなことは馬鹿馬鹿しくてやらぬ。(こういう計算なのだ。力任せの。)

 外交官は嫌がるだろうが、死にはせぬのだから、(世界の反対輿論の中でも)孤軍奮闘、論駁また論駁で意志強固に粘ってもらわねばならない。いったんその決意に踏み切れば、後は先方が寄ってたかって何と言おうと蛙の面に水さ。」(これでは国際協調抛棄、自己中愛国に埋没。)

 「奉天の林総領事も、外交交渉の相手は消し飛んでしまった。(武力攻撃で相手が逃げたということか。)目下、(関東軍の)軍事行動中で、彼に作戦に関する知識はないから、軍司令部に進言することもできない。

 (林総領事は)情報を調べもせずに、外務省に通達する。それが陸軍省、参謀本部に伝えられる。逆に関東軍から東京に通報する。(林総領事の報告に)事実と違ったことがあるから、(関東)軍が憤慨し、笑殺する。その結果、出先の協力が乱れ、外務省と陸軍省との一致が乱れる。

 軍は居留民の生命財産を武力的に保護してくれるから、各地の居留民は軍隊に親しみ、総領事館を罵倒する。これは日本人全体としての協力一致を破る。だから私は外交畑の先輩として、林君(総領事)に今は用事がないのだから、賜暇休暇を取って日本に帰りのびのびするように勧めたい。それとも軍司令部の方で総領事に何か頼んで現地でやってもらわねばならないことはあるのか。」

 

 我々としては何も依頼することはなかった。現地の陸軍は、奉天政権の排日的横暴に在満同胞が衰え行くのを見て、切歯扼腕、時の至るのを待っていた。若林大尉が、鴨緑江上流の満洲側で殺され、さらに万宝山事件があり、それらの交渉が奉天政権の不誠実で解決がつかぬことを知り、激昂していたからだ。

 暴力で来る相手には力で当たらねばならない。事件が勃発すると、大河の勢いで敵に押しかかった。

 予後備兵を動員することもなく、常備兵で編制された戦闘部隊だから、将校と下士官との間には、教官すなわち指揮官という親しみがあり、精鋭度が高かった。また国家としても動員費が要らず、糧食、弾薬の運搬も、親日支那人が引き受けた機関銃、馬、弾薬、小銃や迫撃砲も、鹵獲(ろかく)兵器だけで補充し、内地からの輸送はまったくなかった。いったん矢が弦を離れた以上、日本政府の幣原外相や井上蔵相や若槻総理は、何で危ぶんで躊躇していたのか。(居直り)

 

107 内田康哉伯は、奉天に住む日露戦争以来の老居留民や外務省出先官や有志の人々と会って、三日後に上京した。

 (内田)伯爵からしばしば電報による激励がなされ、「幣原その他に会った。遠き慮の策案がない。諸君の意志を枉(ま)げず邁進されよ。」と逆に促された。

 伯は陸軍省、参謀本部の首脳とも会い、対満強硬策を述べ現関東軍を掣肘するなと烈しく進言した。政治家に対しては日本民族発展の好機を逸するなかれと論じ、枢府の老人には積極的に政府を鞭撻せよと唱えた。陸軍省、参謀本部の若い連中は百万の味方を得たりと喜んだ。(軍組織が年齢によって分裂していたのか。)

 天皇陛下及び皇太后陛下には、別々に拝謁御下問があった由。全国至る所の国民大会は、「若槻内閣打倒、満州事変完遂、外国恐るるに足らず」と絶叫決議し、内閣に迫った。若槻民政党内閣はつぶれ、後継内閣の犬養政友会内閣に、外務大臣として伯爵内田康哉が名を連ねた。1932年、昭和7年春、日本国は新興満州国を承認した。

 満州事変の初期段階では国策が長い間決定されない「過渡的混乱期」だった。

 

 後に私が松岡洋右(東京裁判公判中に病死1946.6.27)に、内田のこの話をしたところ、「ゴム人形がそんなになられたか。余はあまり傑出した人と思っていなかったが、国家の大事に臨んでのその認識、その信念は敬服すべく、賞賛すべきものであったと思う。」「犬養内閣の外相としての強硬な主張、国際連盟のリットン調査団に対する応答、満州国早期承認論など、堅確な意志には驚いていたのだ。」

 私は、1935年、昭和10年、政務班長として関東軍参謀に、済南駐在武官から転任した。満州国が内田康哉伯を表彰するのを事務当事者が失念していたので、是非表彰すべきだと私は主張し、満州国は勲一等位の勲章を伯の霊前に捧げた。

 

1955年、昭和30年8月号 三十五大事件 

 

以上 2020728()

 


2020年7月25日土曜日

満蒙と我が特殊権益座談会 1931年、昭和6年10月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

満蒙と我が特殊権益座談会 1931年、昭和6年10月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

 

 

感想 

 この座談会は1931年の満州「事変」の前夜に開かれた。前出の直木三十五の一文「『太平洋戦争』を書く前に」にもあるように、これまで獲得してきた満洲の権益をどうしても手放したくない、どうしても、絶対に、と確信する人たちが日本にはいた。しかし、その主観的意図は、民族主義が高まり、列強も世界大戦を通して帝国主義的手法に疑問を抱くようになる中で、もはや通用しなくなっていたのが現実だった。

 しかし、日本の軍部や軍部と気脈を通じる政治家(例えば本座談会出席者の森恪)は、自分達だけでも日本の権益を守る政治体制を構築しようと決意を固め、国内では、国際協調的で外交的に軟弱な政党政治を潰し(クーデター)、満洲では、張作霖爆殺・満州事変などの陰謀を敢行し、少しずつ軍事的・政治的実績を積み上げていったようだ。2020725()

 

 

感想

 

 これは東京帝国大学助教授法学博士の神川彦松一人を、他の6人が集中攻撃する場を文芸春秋社が敢えてお膳立てした座談会である。非常に不平等・不公正である。これは当時の空気がそうさせたのだろう。文芸春秋社だけでなく、朝日新聞の記者もすでにその空気に迎合している。東京朝日新聞前支那部長の大西斎である。

彼らは神川の言う帝国主義戦争とその結果としての国際連盟や民族自決の意味を理解できない。日露戦争を帝国主義戦争の一環として位置づけられず、「自衛戦争」098であるという。また民族自決の意味が分からず、力による被抑圧民族の支配を「平和」だという。彼らの全ての論理の出発点は、客観的理論よりも、「自分の利益」である。そう考える脳しかないのだ。

そして共産主義を理解もせず、「正純なるプロレタリア」099などと揶揄したり、学問を実際に役立たない空論だと蔑視したりする。彼らの発する言葉には、論理的整合性がない。つまり嘘を言う。

一方、神川もソ連のことを「赤色帝国主義」095などと言い、共産主義を警戒しているようだ。あるいは単にこの場に合わせるための方便だったのか。それはそれで学者としては不誠実だが。

それにしても、満州事変の直前にこのような座談会がよく開けたものだと感心するが、或いはこの座談会は、その地ならしのためだったのか。ともかく完全に異論を排除する時代は、もう少し後になってから始まったのかもしれない。

 

 

要旨

 

編集部注

 

085 1929年の頃から「満蒙は日本の生命線」と呼ばれ出していた。この生命線は蔣介石の国民革命軍の北伐によって脅かされ始め、日本の政界・軍部は、焦燥感に駆り立てられた。1931年6月、中村震太郎大尉が殺害*され、7月、長春郊外で中国農民が襲撃し(万宝山事件*)、状況が緊迫化した。本文は満州事変前夜の座談会である。

 

中村震太郎大尉殺害事件 1931年6月27日、陸軍参謀中村震太郎大尉と他3名が、軍用地誌調査の命令を受け、大興安嶺の東側一帯(興安嶺地区立入禁止区域)に、「農業技士」と身分を詐称して調査旅行をしていた時、張学良配下の関玉衡の指揮する屯墾軍に拘束され、銃殺後、焼き捨てられた。

中村震太郎1897—1931 新潟県南蒲原郡中之島村大字中条出身。

中村は奉天総領事館から「護照」を発給されたが、そこに「蒙古地方旅行禁止」の但し書きがあったので、ハルピンの総領事館から禁止の但し書きのない護照を受けた。(リットン報告書によれば、ハルピンで護照を中国官憲に検査された時、匪賊横行地域であることを警告され、護照にもそのむねが追加記載された。その際、中村は農業技士と身分を偽った。)

 護照は日本が発行した身分証明であり、立入禁止区域への立入許可を意味しない。

 屯墾軍は中村の護照を無効であるとして取り合わなかった。中国側の主張によれば、所持していた測量機・地図・日記帳などから軍事探偵と判断し、違法薬物も所持しており、逃走したために射殺したとする。

 中国側は調査を約束したが遷延し、「事実無根の日本人の捏造・宣伝である」と明言した。関東軍が8月17日に記事を解禁すると、日本の世論は沸騰し、中国の非道を糾弾した。報道では「合法(疑問がある)の護照を提示したにもかかわらず、拘束され、裁判もなしに殺害され、遺体は焼かれて埋められ、金品を奪われた」とされた。

中国側が事件を認めたのは柳条湖事件が起きる当日9月18日午後だった。「正規兵によって射殺されたが、中村が逃亡しようとしたので背後から射殺し、虐殺ではない」という説明だった。

 外務省がこの問題を解決することに対して、関東軍作戦参謀の石原莞爾は不満で、軍事力による洮南地方の解放を唱えた。

 満州事変が勃発したため、双方の主張を検証する機会が失われた。その後の日本の文化は、これまでの「エログロナンセンス」から、「エロの次はミリだ」と言われるようになった。

 

前史 中国は日本人に対しては蒙古地方の旅行を禁じたかったようだ。

 

張学良は国民党に合流し、排日運動を実施した。満鉄包囲線の敷設、葫蘆島築港、間島居住の朝鮮民族の迫害(「間島に関する日清条約」(1909.9.4調印)違反)などである。1930年5月30日、朝鮮民族に対する虐殺、暴行、略奪など間島暴動が起きた。同年9月、朝鮮民族15名の銃殺事件と、中国官憲による日本警官2名の射殺事件が発生。満洲の至る所で朝鮮人が迫害され、1931年7月、万宝山事件が発生。中国側は、満鉄附属地以外に居住する日本人に迫害を加え(「南満洲および東部内蒙古に関する条約」(1915.5.25調印)第3条違反)、日本人に土地家屋を貸与した中国人を処罰した。

 

南京の国民党政府の外交部長や張学良は、旅順、大連租借地の返還、満鉄の回収、関東軍の撤退を公言し、日本人、朝鮮人に対する居住権、営業権を圧迫し、排日運動と排日教育を推進した。

 

 中国官憲は、日本浪人の蒙古における過去の策動から、日本人の蒙古入りを嫌悪し、東部蒙古地方は匪賊が横行するので、外国人の旅行を禁止すると日本の領事館に通知し、護照裏書きの際、旅行禁止の但し書きを書き入れるようになった。この規定は日本人だけに適用された。

 日本側は中国に対して治外法権を持っていたので、この規定は不法であるとして抗議したが、張学良は洮南在住者(日本人か)に圧迫を加えた。

 

万宝山事件 1931年7月2日、長春北西の万宝山で、入植中の朝鮮人とそれに反発する中国人農民との、水路に関する小競り合いに中国の警察が動き、それに対抗して日本の警察も動き、中国農民と衝突した。死者はなかった。朝鮮半島や日本では、朝鮮人の中国人に対する感情が悪化し、排斥運動が起こり、多くの死者重軽傷者が出た。(朝鮮排華事件)

 

日本政府は満洲に権益を持っていた。1930年5月、間島共産党暴動で追われた朝鮮人200人を万宝山に入植させた。朝鮮人は地主の了解を得ずに水路を作り始めた。中国の地主が警官を呼び、朝鮮人10人を逮捕した。日本の警官が朝鮮人保護に向った。1931年7月2日、中国人農民数百名が銃を持って現れ、日本の警官50人と対峙したが、中国警官の呼びかけで収まった。日本の警官の警備の中で、7月11日、水路が完成した。

 

朝鮮日報は「2日の衝突で多数の朝鮮人が亡くなった」と(間違って)報道した。朝鮮人による中国人排斥運動が起こった。朝鮮や日本での中国人死者数は109人、負傷者は160人に上った。記事を書いた朝鮮日報満洲長春支局長金利三は14日、「日本の情報に基づいて記事を書いたが、誤報だった」と認めたが、翌日朝鮮人によって銃で殺害された。

 

 

本文

 

出席者

 

建川美次* 参謀本部第一部長陸軍少尉

佐藤安之助 前代議士陸軍少尉

高木陸郎  中日実業副総裁

森恪*   政友会代議士

中野正剛  民政党代議士

大西斎   東京朝日新聞前支那部長

神川彦松  東京帝国大学助教授法学博士

佐佐木茂索 本社支配人 

 

建川美次(たてかわよしつぐ) 1880.10.3—1945.9.9  

 

新潟中学卒。1901年11月、陸軍士官学校卒業。陸軍騎兵少尉。

1904年8月、日露戦争出征。1905年1月、建川挺進斥候隊の隊長として5名の部下と共にロシア帝国軍勢力地の奥深く挺進した。奉天会戦に貢献した。『少年倶楽部』に連載された山中峯太郎の小説『敵中横断三百里』の主人公のモデルとなる。

 1909年12月、陸軍大学校を優等で卒業。軍令畑を歩む。第一次大戦に観戦武官として欧州戦線に従軍する。1918年、陸相秘書官。1923年、騎兵隊第5連隊長、同年8月、大佐に進級。

 宇垣一成の側近として重用され、1928年、少将に進級。1929年8月、参謀本部第二部長。1931年、宇垣を首班とする政権を目指すクーデター計画(三月事件)に、杉山元小磯國昭らと参画したが、何の処分も受けず、第一部長に転じた橋本欽五郎ら佐官級の起こした同年の10月事件にも関与したらしいと土橋勇逸の手記にある。3月事件の前に東京帝大で講演を行い、聴衆から散々に野次られた。

 同年9月の満州事変直前、奉天総領事から外務省に軍事行動発生情報が伝わり、外務省から陸軍省へ通報。8月に参謀本部第一部長に転じていた建川が、関東軍の行動を引き留めるために、奉天に派遣されたが、飛行機ではなく、陸路で向かい、秦郁彦は、陸軍首脳部の「あやふやな」姿勢を指摘する。

 9月18日、奉天到着後、料亭で板垣征四郎ら関東軍幹部と面談するが、その夜に事変が発生した。持参した大臣書簡を本庄繁関東軍司令官に渡す前だった。これは、満州事変が、板垣、建川ら参謀本部「中堅」の一致ではじめたことを物語る。建川は、陸軍大臣や参謀総長から戦闘勃発阻止を命ぜられていたが、料亭「菊水」で飲んでばかりいて、建川の口ぶりに、板垣、花谷は、本気で止めようとしない建川の腹のうちを察し、計画通り実行した。

 その後、第10師団長、1935年、第4師団長となる。1936年の二・二六事件のとき、宇垣閥を敵視する皇道派青年将校は、朝鮮総督の宇垣や南次郎関東軍司令官、小磯、建川らの罷免を川島義之陸相に要求した。同年8月、粛軍人事の一環として、皇道派将官と抱き合わせで、予備役に編入された。

 1940年10月、東郷茂徳の後任として駐ソビエト連邦大使となる。各界の要人を大使に代える松岡洋右外相人事の一環だった。1941年4月、日ソ中立条約に松岡と調印。1942年3月、帰国。大政翼賛会総務。大日本翼賛壮年団長。なお、駐ソビエト大使だった建川は、ユダヤ人にビザを発給し、2020年7月23日、ユダヤ人遺族に、山之内勘二在ニューヨーク総領事を通じて感謝された。

 

森恪(もりかく) 1883.2.28—1932.12.11 

 

 父は判事や大阪市議会議長を務めた森作太郎。

東京商工中学校卒業。父の旧知の三井物産上海支店長で、後年立憲政友会幹事長や南満洲鉄道総裁となる山本条太郎の縁故で、同支店支那修業生として中国へ渡る。辛亥革命では孫文に革命資金を斡旋した。三井物産天津支店長。1916年、上仲尚明とともに塔連炭砿鉱業権を獲得。1917年、東洋炭砿、小田原紡績、東洋藍業、東洋製鉄などを興す。

1918年、政友会に入党。多額の献金(推定5万円)をした。1920年、三井物産退社、政友会から衆議院議員総選挙に神奈川県第7区から立候補し、当選。選挙に多額の資金をつぎ込み、「満鉄事件」という疑獄事件に発展し、次回の選挙で落選。その間の1923年、政友会院内幹事。1925年、栃木県の横田千之助が亡くなり、その地盤を引き継ぎ、補欠選挙で当選。1927年、田中義一内閣で外務政務次官。これは異例の人事。党内から反対論が出たが、院外団の支持と、横田千之助が、田中義一を陸軍から政界に進出させたことなどからなんとか就任。対中国強硬外交を推進し、山東出兵、東方会議開催。満蒙を中国本土から切り離そうとし、張作霖爆殺事件に関与の噂あり。

田中内閣総辞職後、1929年、政友会幹事長。1931年、首相臨時代理の幣原喜重郎外相をロンドン軍縮条約に関して攻撃し、濱口内閣を揺さぶった。第二次若槻内閣を経て、同年12月13日、政友会の犬養内閣が成立すると、内閣書記官長。しかし、軍部との関係を政治基盤にしていた森と、政党政治家の犬養とは大陸政策で対立。森は犬養に内閣改造を提言するが、容れられず、辞表を提出したが、預かりとされた。1932年5月15日の五・一五事件では、会心の笑みを漏らした。同年7月発病。12月11日、肺炎で死亡。

 

 

森 憤懣だらけだ。第一に、過去20年間で、満洲に住んでいる支那人の経済的実力が非常に充実した。第二に、支那人の政治上の対外・対内の術策が変化した。つまりロシア式方法を模倣し、応用している。第三に、日本国民の満蒙問題に関する「伝統的国是」に対する認識が不十分であった。進むか退くかどちらかにしなければならない。

086 日本が存続する以上、満蒙を抛棄することは断じてできない。満蒙を通じて欧亜大陸の文化を改造することは、日本人に与えられた重大な使命である。

 

中野 日本は明治維新に国を開いてから、朝鮮事件、日清戦争、日露戦争に至るまで、すなわち、西郷南洲(隆盛)の征韓論以来、東洋の指導精神を取るということは、朝鮮を殴りつけるとか、支那を叩き潰すとか、ロシアと喧嘩するとかいうことではなく、日清戦争、日露戦争共に、「東洋の平和」を維持し、東洋友邦民族を「解放」し、その向上した東洋の基礎の上に日本が立って、欧米列国と、折衝し、融合し、世界の文運に貢献するということが、日本がこれまでやってきたことだ。日清、日露両役ともに、日支の衝突は、隣人同士の「摩擦」であって、正面衝突ではない。「部分的衝突」の上に、「全面的融合、結束」という大きな理想を持っていた。日露戦争が済んだ時、支那は日本を「信頼しようとする」、東京には何万の学生が支那からよこされる。インドも、トルコもその他のアジア諸国も、さらに黒人種に至るまで、「有色人種」共通の曙光を与えたものは、日露戦争である。

 そのトップを切ったのが日本民族だ。彼らは日露戦争後の日本の活躍を望んでいた。ところが日露戦争後、日本人の気力は尽きたのか、世界大戦以後の日本の外交はない。

 大隈内閣(第二次大隈重信内閣1914.4.16—1916.10.9)、寺内内閣(軍人寺内正毅内閣1916.10.9—1918.9.29)、原内閣(立憲政友会の原敬内閣1918.9.29—1921.11.13)みな眼前の小計を知るが国是を知らない。パリ講和会議*、ワシントン会議、ロンドン会議は屈辱であると言われているが、これらは、大戦に対し外交の第一出発を誤った結果である。日露戦争以後の、指導精神がなく、理想がなく、日本独特の任侠心がなく、意気地がない日本外交を精算すべきだ。

 

*ウイルソンは、日本提案の人種差別撤廃案を重大案件と見なして全会一致を求め、日本提案の人種差別撤廃案の採決(出席者16名中11名の賛成多数)を不採択とした。牧野伸顕次席全権大使は提案撤回を受け入れたが、提案を行った事実と採決記録を議事録に残すことを要請し、受け入れられた。

 その後、日本では一部で欧米不信感が高まり、対米協調に反発する政治団体が多数生まれ、米国では黒人暴動が発生した。

 

建川 国民の認識が足りない。(威張った言い方だ)学者や文筆業の人は「今頃」、日露戦争での何万の死者数や何十億の戦費を基にして、「どうこういうのはいかぬ」(曖昧)と言うが、それは間違いだ。それ(死者数や膨大な戦費)は、歴史で過ぎたことだ。(歴史から学ぶ態度の抛棄)そういうのを読むと、その戦争に死生を尽くして参加した我々軍人にとっては不愉快だ。

087 軍部でも若くて(当時の戦争に)関係しなかった者は、我々とはちがうようだが、さらに、若い人で当時を知らない軍部以外の人はそう思う(多くの死者数と膨大な戦費)かもしれない。しかし、それは間違っているのではないか。戦争の事実(多くの死者数と膨大な戦費)を(戦争否定的にではなく戦争肯定的に)主張する必要がある。

犠牲には理由がある。(日露戦争の原因は)ロシアが横暴なことをして来た(こともある)が、(それだけでなく、)明治以来の一定の方針に基づいて、「東亜の平和を確保する責務を達成する」という考えでやって来た。だからあの(日露戦争の)ような冒険的戦争を国民がやれた。

 今の若い人は、当時の政府、国民、我々軍部の苦心を想像できない。それを無視して、「それは今考えなくてもいい、それを言い出すと支那がいやがる」という議論は不愉快だ。(中国が嫌がっても「東亜平和論」を堅持せよということか。)そういう人から見れば(我々は)偏狭となるのだろうが、そう感じるのだから仕方がない。そういうもの(彼らのような考え方)ではない。(議論の拒否)

(学者や文筆業や若い人は)軍部が昨今強硬論を称えると言ってやかましい。事実、軍部は強硬論を称えている。(居直り)しかし、好んで強硬論を称えているのではない。(確信犯)(我々は)今日の満蒙の「退廃的」状態から脱出しなければならぬと考えてきたのだが、どこからもそういう力(賛同意見)が起らない。このままでは「国家の将来」のためによくない。「誤っている一般国民の認識」(決めつけ)、――(国民の)大部分は何も知らない。中には誤っている者もいる――をこっちの方へ持ってくる必要がある。「一部の」論者から見れば、それ(軍部の情宣活動)は適当ではないと思われるかもしれないが、誰かがやらなければならない(思いあがり)という考えのもとに、昨今軍部は相当の力を入れて、国民の間にそういう考えが行き渡るように努めている。

 

感想 日本の明治以来、征韓論から日露戦争までの戦争は、「東洋の平和」のための戦争であるから、中国に気をつかうのは間違っているという、他人の嫌がっていることでも、「平和」のためだから、やっても構わないという、極めて独善的な考え方である。「東洋の平和のため」など、誰が言い出したのか。当時の日本軍人や兵隊は、それを信じて戦争に行ったのだろうか。人殺しに行くのだから、もっともらしい大義名分が必要になる。

 

088 佐々木 日本人の誰も知らない点について、実地に見てきた人が何とかしなければならぬと言う、その点について具体的に話してください。(これが文芸春秋と軍部の狙いか)

 

中野 日露戦争の時、川上操六*や外務省の小村寿太郎*は、国論に応じ、国民の向うところを知らしめ、国民を熱中させた。今日陸軍が堂々とその主張を述べることはよいことだ。国民(誰のことか)は、過去の外務省の外交がなっていないと思い、政友・民政両党の外交が何だったのか分からない。また陸軍に支持された外交も信頼していない。

 

川上操六 1848.12.6—1899.5.11 薩摩藩士、軍人。「明治陸軍の三羽烏」

*小村寿太郎 1855.10.26—1911.11.25 外交官、政治家、外務大臣。日英同盟締結、ポーツマス条約締結、条約改正に尽力。

 

 寺内、原、田中内閣*時代のシベリア出兵は、その目的を貫徹せず、国費を浪費しただけで、日本の立場を悪くした。しかし、やろうと努力したことは評価されるべきで、日露戦争時のように国民と呼吸が合っていなかったことが失敗の原因だ。(国民の気持ちと合っていれば、失敗も成功となるのか。)霞ヶ関の外交を清算すべきだ。

 

*田中義一内閣1927.4.20—1929.7.2だとすると、シベリア出兵1918.8—1922.10と時代が合わない。

原内閣の次は、高橋是清内閣1921.11.13—1922.6.12、その次は加藤友三郎内閣1922.6.12—1923.8.24である。

 

 政友会、民政党は内政に没頭し、外交はしなかった。役人任せだった。陸軍が凡調を破って自己主張するのはいいことだが、軍部の活動と国民の意向とが合致しなければならぬ。政治家は軍部を御さなければならぬ。

 私は現内閣の与党にいるが、霞ヶ関正統派の外交は無気力で、無能で、元気を出そうともしない。国民(自分のことを指すらしい)はそれに激怒し、軍部の奮発を誘導した。(「国民」の一部が軍部を唆したのか)軍部と政治家が「日本の定評を踏みしめ」、外交と、軍部の主張と、国民の意気込みとを一つにして、満蒙問題を中心に、対支、対露問題や、世界に対する日本の立場を確乎にして、立て直すべきだ。(全体主義)

 

089 森 中野君の今の発言に対して一点反論したい。田中内閣には明確な政綱があったということだ。支那本土に、ロシア・ソビエト政府の背後の支持によって生まれた「無産主義政府」が支那全土にできなかったという意味では成功した。民政党の外交政策としてではなく、幣原君個人が、支那の新興勢力を助けた。その新興勢力は日本官民に「憤慨」を与えたが、それを幣原は許し、財政的援助をしようとした。後に自殺した佐分利*を派遣し、その結果を国民に伝えて国民を扇動した。

 

*佐分利貞男1879.1.20—1929.11.29  外交官。1929年8月、浜口雄幸内閣の外相幣原喜重郎に乞われて、駐支那公使に就任。一時帰国中に箱根宮ノ下の富士屋ホテルで、変死体で発見された。警察は自殺としたが、他殺の疑いがある。左利きなのに右手にピストルを持っていた。

 

 しかし、我々はこれに反対した。当時私は山本条太郎*と視察したが、その新興勢力は、ソビエト式の無産主義の新興勢力であった。隣国支那に無産主義の政治が樹立されることは、日本の立場としては歓迎できない。(アプリオリに)排除しなければならない。若い内に刈り取らねばならない。こう宣言して、この排撃に向って事実公然と「立ち上がった。」*これがつまり、ガロン、ボロージン*、その他のロシア人が指導者となって樹立しかかった広東政府*が撲滅された理由である。

 田中内閣のこの作戦は成功だった。民政党や政友会に外交政策はない。内政方針もない。便宜主義である。あったのは幣原外交だ。

 

*山本条太郎 森恪の父の旧知で、三井物産上海支店長。立憲政友会幹事長や南満洲鉄道総裁。

*これは何か工作とか武力的手段を用いたのか。幣原外交を否定したということか。

*1927年のころ、ボロージンは武漢政府高等顧問で、武漢政府内での中国共産党を指導していたトップ3人のうちの一人だった。

*広東政府広東国民政府、広州国民政府1925.7--武漢に移動してからは、武漢政府1927.2--

 

佐々木 なぜ満蒙に対して憤激しなければならないかを語ってもらいたい。分かりやすいように、個々の問題を解説していただきたい。(また呼び水)

 

090 大西 歴史的、経済的、国防的、その他あらゆる権益の内容から、満蒙が日本にとっていかに大事であるかを、若い人や日本国民の多数に説くには2、3時間必要だ。

 日本が経営する鉄道(満鉄)は、満洲で支那の3分の1くらい、1千キロであり、これに対して支那は3千キロである。支那との北京条約*で、満鉄の並行線を敷いてはならないという諒解があったが、それを支那側は無視し、蹂躙した。並行線ばかりでなく、支那側は、満鉄を包囲する計画を立てている。東北交通委員会は奉天側の鉄道省であるが、支那側鉄道の統一計画と、将来の大鉄道敷設計画を立てている。これは遠大な計画である。(それは本来制限出来ないのではないか。北京条約があるから制限するということか。)

 

*満洲善後条約1905.12.22 北京で締結された。正式名称は「満洲に関する条約」、中国では「中日会議東三省事宜正約及附」 帝政ロシアから日本に譲渡された満洲利権の移動を清国が了承する内容。

南満洲鉄道の吉林までの延伸、同鉄道守備のための日本陸軍の常駐権、沿線鉱山の採掘権、同鉄道に併行する鉄道建設禁止、安奉鉄道の使用権継続と両国共同事業化、営口、安東、奉天における日本人居留地設置許可、鴨緑港右岸の森林伐採合弁権など。

 

 これを繋ぐ葫蘆島という大きな築港が計画されている。全て秘密のうちに行っている。将来これを完成して、鉄道と結びつけ、満鉄や大連に取って代わろうとしている。

 昨年は満鉄に対して猛烈な運賃競争を開始し、日本の運賃の半分若しくは三分の一まで下げたため、満鉄は未曾有の減収に陥った。

 また、吉会鉄道は多年計画されているが、いまだに実現出来ていない。1928年、山本条太郎氏のとき契約が出来ていながら、実施できないでいることは遺憾だ。

 

森 僕らの(僕らが政権を取っている)とき、四省会議(陸・海軍、外務、大蔵)で、従来の満鉄の一線一行主義を乗り越えて、日本海と北満洲とを結ぶ(ための吉会鉄道を計画した。)満鉄がやらなければ政府がやるべきだ、満鉄に委任するのを止め、政府がやるべきだという方針を定めたが、まず満鉄の都合を聞こうということで、満鉄と交渉した。満鉄は自分の方でやるとし、山本(条太郎)さんが始めた。飯田延太郎君*はもっともだと賛同し、強く主張してやった。ところが田中内閣がつぶれて実現できなかった。*いいだのぶたろう 海軍軍人。

 

大西 吉会鉄道(の敷設計画)は、張作霖に判を押させて、一年以内にやるという(ことになっていた。)

 

建川 工事契約書までできていた。

 

大西 ところが張作霖が死んで1928.6.4、それが流れてしまった。僕は昨年1930でも、やり方によってはできると思った。ロシアと戦争したとき、ロシア側が探りに来たが、あの時、日本が「善処」していれば(できたかもしれない。)(どういうことか。)

 

森 吉会鉄道は、文化的にも、経済的にも急務である。やらねばならぬ。

 

中野 吉会鉄道は、吉林から会寧へ、会寧から清津へ、清津から敦賀へと通じる。これは大連から門司へ行くよりも便利である。そして吉林の奥には長春があり、長春は、大連から上ってくる路線が長春を通過する。哈爾賓(ハルビン)へ行って、長春から蒙古へ行く鉄道はすでに出来ている。吉会鉄道は、北満、南満、蒙古を連ねる線になる。

 調印して(支那側は)前金1千万円を受け取っている。造れないのは政府の責任で、造らせないのは支那が悪い。権利は蹂躙され、既得権は有名無実にされる。

 

森 吉会鉄道が完成すると、現在ある大部分の鉄道は、培養線になるだろう。吉会鉄道は経済的にも文化的にも重要な鉄道だ。

 

092 佐藤 私は満洲経営の最初のころ満洲にいた。当時の満鉄の首脳、後藤新平さん、中野是公さんや、当時の関東都督の人々は、支那人を満洲に移住させる方針で、私は支那の商売人を満洲に入れた。当時の支那人の人口1千万人が、今日では3千万人になった。その支那人がここ20年の間に経済的に力を持つようになった。大連の日本橋とも言われる浪花通りでは、昔は日本人が地所や家屋を所有していたが、今では支那人がその大部分を所有している。ちなみに、森君が外務次官だった内閣が、吉会鉄道建設を、権利としやった。

 

建川 それは1918年のことだ。

高木 間島事件*1920.9.1210.2のとき調印をした。

 

*琿春(間島の一部)が二度に渡って馬賊に襲撃されたが、馬賊の構成は、朝鮮人(独立を求める元義兵)100人が中心で、それにロシア人5人と中国官兵数十人が混じっていたと日本軍は推定した。この事件は、この直後の間島出兵1920.10--1921.1や間島共産党暴動(中国共産党の支援を受けた朝鮮人独立運動勢力による武装蜂起)1930につながった。

 

森 基本契約はその前からあった。

佐藤 施行契約は田中内閣の時にできた。遅れた理由は、吉会鉄道ができると大連が潰れると一部の人が考えたからだ。そしてぐずぐずしていて出来なかった。

森 それは(私らの前述の)四省会議の時である。

佐藤 これは満鉄の責任である。前渡金1千万円は、西原借款から出した。

建川 その他、(満洲の)外のと合わせて2千万取られてしまった。(どういうことか。)

佐藤 国是が一貫していなかった。それと国民(マスコミ)が後に続かない。

093 21か条の要求のうち、満鉄の権益期限は99年になっているのに対して、商租権期限はそうなっておらず、30年である。将来細則を定めようということになっていたが、それが進まない。細則が定まらないため、商租権は放棄した形になって今日に及んでいる。一時は(日本国民は)強く出るが、後が続かない。国民や言論界は黙っている。中村大尉事件の場合もそうだ。(支那へ)抗議ばかりしていては武力問題に発展するのでいけないが、執念深くやるべきだ。そうすると国民も考えさせられる。そしていよいよ頑迷不戻となれば叩いてよい、そこで初めて軍部の手に移る。(横柄で危険な策士)

 

森 日本人は淡白すぎる。日本の実業家は日本内地では金利の一厘二厘を争うが、支那では、金利は何年払わないでも平気だ。支那では諦めて平気で損をさせられている。これからが大変だろう。

大西 小村(寿太郎)さんの時代には政治が行われたが、今日では行われていない。だから軍部が大いに硬論を主張するが、それは国民を背景にし、国民が容認するものでなければ、シベリア出兵の二の舞になるだろう。

高木 現在、外務省と陸軍とは別々で、外務省は軍縮のためにやっている。

大西 「国力の発動」は、民政党や政友会を超越した外交でなければならない。満洲問題でも然り。国力は統一していなければならない。

 

094 神川 私は外交史や国際政治を研究しているが、その立場から、客観的に冷静に観察したものを申し上げる。満蒙問題には三つの解決方法しかない。第一は、帝国主義的解決。第二は、民族主義的解決。第三は、国際主義的解決である。歴史の傾向、今日の情勢、将来の動向などあらゆる点から見て、この三つの他にない。

 第一の帝国主義的解決とは以下の通りである。帝国主義は、19世紀の中頃から、ことに普仏戦争1870.7.19—1871.5.10 (ナショナリズム育成を目指した国民国家戦争)から世界戦争に至るまで、世界を風靡した各国の主義政策であり、およそ各国は皆これを採用した。世界戦争前の満蒙問題は帝国主義戦争に他ならないことに間違いない。日露戦争は、日本が勝って朝鮮からロシアの勢力を追払い、さらに長躯して、ロシアが取ろうとしていた満洲の一半を譲り受けた。これをいろいろな愛国的言葉で飾れば理由があるが、要するに、日本の古来重視していた朝鮮問題を解決して、ロシアと同じように満蒙に向って帝国主義的活動をすることになった。

 しかし、実際、日本は独力でこれをなしたのではない。日英同盟や米国の同情があってなしたことであり、従って、日本だけで満洲を思うように処分することは不可能であった。他の帝国主義的牽制を免れなかった。世界戦争中は、帝国主義が一大飛躍する好時期であったが、日本の活動は思うように行かなかった。民族自決主義という旗印が風靡していたから、日本は時代に逆行する活動が出来なかった。従って21か条、シベリア出兵は目的を達することが出来なかったが、それは止むを得ないことだ。帝国主義的活動は、世界戦争まで来て、形勢が一変した。

 民族自決主義という旗印が支那にも移ってきた。それが満洲にも及んだ。満洲は、清朝時代は愛親覚羅朝廷の私有地同様で、他人入るべからずとの制札が建てられていた。ところが清朝の末からその禁制が緩み、漢人が入り、最近朝鮮人も入ってきたが、そこへ日本の満洲経営が幸いし、戦後の今日は2千万人、3千万人近くなった。日本人も20年の経営を経て20万人、朝鮮(人)も100万人、外国人も数万人おり、漢人が圧倒的に優勢である。つまり、満洲は歴史的に支那の領土であり、民族的にそうである。他国の帝国主義的活動、金融資本の活動を許すべからずとする、打倒帝国主義的活動が対立してくる。満洲において日本人経営の満鉄、軍隊の駐在、警察権、商租権は撤廃せらるべきものとなる。そうなると満蒙に権益を持っていた日本の利益と、支那の根本原則、第一民族主義とどう調和するかが問題となる。日本が今日までのような帝国主義的活動と金融資本の活動とを従来のようにやり、それを相手が拒めば武力でも発動するという政策、――私の考えではさん、その他松岡洋右氏もそうでないかと思うが――日本が依然として帝国主義的な政策に固守すれば、支那が無為にして引き下がるか、支那を無為にして引き下げることができなければ、武力衝突は免れない

 もう一つ注意しなければならない点は、金融資本主義の問題である。フランスの財閥、アメリカの財閥、今日の問題ではアメリカの財閥だが、アメリカの財閥は、全支那をオープン・ドア・ポリシーで行き、日本だけの縄張りを断じて許さないとしている。だから日本が従来のような帝国主義的活動をやるには、支那ばかりでなく、アメリカの金融資本主義的反対をも考慮しなければならない。要するに、何方も、日本が帝国主義的活動をやる場合は反対する。さらに(アメリカ以外に)もう一つはロシアである。ロシアは支那から帝国主義的権益は放棄したと称しているが、それは手段を変えて、白色帝国主義に対して赤色帝国主義を振りかざしたもので、支那全体に対してその考えを持っている。少なくとも満洲において何らか活動をする場合は、共産主義的革命を扇動して日本の企図を崩壊するだろう。

 私が心配することは、日本が帝国主義的活動を再び起こせば、この三方面(支那、アメリカ、ロシア)からの反対を予期しておかなければならないということだ。

 私の考えでは、満蒙問題は、日露支三国が結局武力に訴えて、第三者の干渉によって国際化するか、両国の妥協によってそこを中立化するか、いろいろな方法がある。

096 満洲は民族的に言えば支那のものである。満洲は、日本と支那、日本とロシア、日本とアメリカとの間で利害が交流するところだから、支那に(日本の)民族的の欲利があるとしても、貫徹は難しい。そこで結局そういう国と妥協することになる。そこで中立化や国際化に帰着するが、そうでないと満蒙問題は永久に解決できない。それは平坦ではない。種々の圭角が横たわっているだろう。

 結局のところ、支那が満洲を民族化するか、或いは国際化することになるのではないか。この際一奮発しようという気になり、従来の権益の上に建って日本が、あくまでも踏ん張ろうとすることは理由のないことではない。手段としては好いのだろうが、ある点まで行って局面展開で変わらなければ、いわば大動乱が結果し、救われないことが起りはしないか。将来、共産主義等の活動もあり、大いに注意すべきである。私は支那における共産主義を重大視している。

 日支がもし敵愾心に燃えて立つというならば、第三者の術中に陥るだろう。結局何方にしても大変でしょう。

 

佐藤 こういう反対論が出てきて面白い。

建川 いろいろの説もあるものだ。

森 神川さんに聞きたいことがある。(質問ではなく反論がある。)支那で米国資金が今後も大いに活躍するというのは事実と異なる。資本は実力(おそらく武力)が背景に伴った場合に活動できる。また平静であれば資本は活動できる。米国資金は活動しかけたが、最近、支那で政治的(条件のため、政情不安ということか)に、経済活動が起こせず、それを米国も認めて、現在は経済活動を中止している。だから現在及び近い将来、米国資本は支那で活動できないだろう。これが第一点。

 第二点として、ロシアの満洲での活動は、将来はともかく現在は停止している。ロシアは孫逸仙(孫文)と結んで広東まで出たときもあったが、今は方向転換した。一昨年、ロシアと支那が衝突したとき*、支那は900の兵隊で、1万のロシア兵を粉砕した。支那人は、ロシアが満洲で思想的に活動していると言うが、私はそう考えない。

 

*1929年、中ソ紛争。中東路事件、奉ソ戦争 中国が北伐を終え、国内を統一できてから始めた外国との最初の交戦。中ソ共同管理下に置かれていた中東鉄道の利権を、中国が実力で回収しようとした。スターリンが「自衛」を理由に、強力な機械化軍団を投入し、張学良軍を粉砕し、全権益を回収した。その後現状復帰を内容とする停戦協定が結ばれたが、中国は協定の無効を主張し、再交渉を要求し続けた。

 

097 第三点として、支那の民族主義は、どの程度の「根底」を持っているのか。「抽象的」にはいろいろなことを言うが、「実力的」(恐らく武力)には値引きして考えるべきだ。以上三点、神川さんの認識を確かめてから、あなたの御議論を批判したい。

 

神川 第一に、米国事業資金の活動は、最近まで支那及び満洲ではほとんど大きな活動がなかったことは言われるとおりだ。現在でも…

森 いや最近までは活動していて、それが失敗したのです。

神川 その通りです。米国は機会を狙っていた。しかし、結局大きな成功を収めなかったことは、おっしゃる通りです。その量は、はっきり覚えていないが、ごく僅か1億ドルくらいでありましょう。米国の対外投資(全体)に比べれば、米国の対支投資は九牛の一毛と言えるが、それは現在までの状態であって、将来もそうだとは言えない。現に現在その曙光が見えてきた。

森 どういう実例ですか。

神川 中国航空公司が、南京政府と合衆国との間に契約が成立して、出来上がった。

森 あれは全く失敗だ。(失敗でもやりかけたことには変わりはないのでは。)

神川 支那では内乱が十数年続いてきたから、資本の回収は全く不可能だ。英国、日本も従来の資本は回収できないから、その上貸すことは採算上許されないが、米国の立場から言えば、…

森 今まで米国の歴史は、抜け駆け(出し抜く)をしてもやったが、今日では失敗をして手を引いた。

神川 確かに米国が今日まで対支活動で振るわなかったことは認める。しかしアメリカはすでに南米では英国に取って代わり、その地位を蚕食している。支那においても米国が真剣になって、その金融市場まで躍進する余地はある。

森 50年、100年後はいざ知らず、近い将来、日本の活動に対して米国が第三国干渉として米国資本が現れてくることはあり得ない。事実からして認識できない。

098 幣制改革案やその他の案が実行されれば、…

森 それは事実ではない。(幣制改革案の)発案者が撤回している。

神川 支那の政情が一応落ち着き、秩序が回復し、内乱が多少緩めば…

森 当面内乱は続くだろう。米国人は内乱が止まらないとことを前提にし、その上で資本の活動を中止した。(ああ言えばこう言う、議論はかみ合わない。けんか腰討論か。)

 

中野 中言ですが、神川さんは日本の帝国主義的発動と言われるが、当時ロシアが東洋を席捲する勢いで南下し、支那と密約*を結んで満洲に来たり、朝鮮に来たり、油断をすれば日本を併合する勢いであったので、それに対して日本は武力を以て立った。それを帝国主義的活動と(神川さんは)言われるのだろうが、私はそれを自衛のために立ったと言う。

 日本は、日支両国その他東洋諸国の「向上」のために、「民族主義のために」立った。後に「必要な地点を」日本が領有(租借)するが、それはロシアが侵略した土地を奪還したのではない。奪還してもそれを支那に返さなかった。返して支那が日本と「握手」して「東洋共同の責」に当たればよいが、支那にはそれが出来ない。そこで我々は領有的態度を取った。(身勝手な考え方だ。)それより以後日本は軍事をやめた。(本当か)後藤新平さんが兒玉さん*から受け継いだ満鉄の方針は、支那の民族を呼び込むという平和主義であり、それに、営利主義、商売主義をやった。その商売の利益を、支那が「インプルーブ」するために共同して行うなら、日本人は日支が共存共栄でやっていくことを歓迎する。そして日本の武力は満洲から消えるべきだ。

 しかし支那人のやり方は、商売上の利益において「止むを得ないこと」を主張しているのではない。満鉄の並行線は日本にとっては損になる。支那も損をする。その資本は日本から借りてきた。そしてその利益は一文も日本に払わない。

090 日本が15億円の財を散じて満洲の繁栄を来たしてやると、その繁栄に何ら寄与することなく、享楽だけはする。享楽するばかりでなく、今度は取って変わろうとする。これは許せない。(人のうちでそんな図々しいことを言えるのか。)民族主義の名の下にこれを取る(採用する)ならば、ロシアはシベリアから撤退しなければいけないことになる。ハバロフスクでは支那人の方が多い。シンガポールも支那のようだ。ペナンも、ジャワもそうだ。支那の民族主義を許すなら、南洋は全て支那のものになる。

ところがシンガポールは英国が領有し、その下で支那人は幸福に保護されている。支那人の民族主義は外国(英国や日本)の統治下においてのみ言われる。満洲は比較的動乱から遠ざかっているが、これは日本のお蔭である。日本が警戒の手を緩めれば、満洲は必ず動乱状態になる。支那の不当な要求に日本人が断じて一歩も譲らないと言うことは、不合理ではない。そこで日本が米国と衝突する憂いがあるというのか。(意味不明)

 

建川 アメリカが武力で出てくるはずがない

 

中野 日本が世界に向って国を建てようとしているとき、米国の武力干渉を憂慮し、満洲に正当に持っている「日本の手」を縮めていかなければならない、(満洲を)国際管理下に置くという考え方は、米国に譲ることである。米国は満洲に対して条約上の権益を持っていない。そういう米国と同じ立場に日本が立つ、満洲を国際管理下に置き、日本が譲歩するということは、九州を国際管理下に置くことである。(飛躍した極論)日本がメキシコを国際管理下に置くように提案しても、誰も承知しないだろう。米国に譲歩することを前提にした国際管理は「絶対に駄目だ。」(駄々っ子)

 日本が満洲で今日のように追いつめられた原因は、日本が対支政策を「国力」で(国民が一丸となって)やらず、初めは軍だけでやり、その後はブルジョワだけでやり、ブルジョワだけが満鉄の利益を受け、吉会鉄道を建設すると大連が繁栄しなくなるという営利主義である。満洲を「把握する」つもりなら、「国家」が目的をもたねばならない。階級対立の結果、プロレタリアに国家権力が移行するというが、私は、…

 

建川 正純なるプロレタリアかな。

 

中野 失業問題を解決しようとする場合、内地で一人を首にすると失業者を生むが、その解決策は満洲への進出である。私は逓信省の小役人をしたことがある。私は、大連汽船に支那人を雇い、日本人を辞めさせるのに反対して「威嚇」した。仙石さん*は日本人を採用した。日本人の給料は支那人よりも高いが、船の中をきれいに掃除し、石炭を使う量も減る。(視野の狭い自己中的発想)日本人も金融も、満洲に進出すべきだ。ただしこれまでのような不在地主ではいけない。

100 万宝山事件*は、日本人の伝統的無気力に対比して、若い朝鮮人の血潮が踊った結果だ。日本人はそれを保護すべきだ。そうでないと日本の「面目」が立たない。それをやらなければ、朝鮮人は今度は支那人ではなく日本人に敵愾心を向けてくるだろう。今まで得た権益を朝鮮人に分け与えるべきだ。

 帝国主義、民族主義、国際主義などの名称は学者に任せておき支那の日本に対する最近の戦争、それは武力攻撃ではないが、泥棒のような手段である。それに対して、正当な対抗手段(武力攻撃か)を取るべきだ。米国は東洋に向って文句を言う資格はない。帝国主義的政策の米への開放は、軍備の制限と同じで、それを自国だけがやれば、結局「馬鹿」にされる。

 

森 日本は満洲に対して領土を侵さない、機会均等主義、門戸開放主義で行く、日本人の「アビリティ」は負けない、と神川さんは言われるが、これ(学者の言うこと)は大した問題でない。(意味不明だが、構成してみた。)帝国主義、資本主義など学究的な言葉は実際に応用できない。神川さんとは認識が違う。

 

佐藤 神川さんのお話を聞けてうれしいが、お説には絶対反対だ。

 

高木 私は佐藤君や森君の意見と同じだ。

 

佐々木 速記はこれで終わりにします。

 

1931年、昭和6年10月号

 

以上  2020723()

 


2020年7月18日土曜日

「太平洋戦争」を書く前に 直木三十五 1931年、昭和6年2月号 「文芸春秋」からみる昭和史 1988

「太平洋戦争」を書く前に 直木三十五 1931年、昭和6年2月号 「文芸春秋」からみる昭和史 1988

 

 

感想 筆者は太平洋戦争(対米中戦争)の開始が必然であると、クールに科学的に述べている。これは開戦への警告なのだろう。筆者が説明する当時の東アジアの状況は、一定程度の「既得権」を持つ日本にとっては、その既得権が次第に制約を受けるようになるだろうと予測される反面、中国の側から見れば、その半植民地的状況から回復しようとすることは、当然の権利であった。そして悲しいかな、日本には、そういう世界史の趨勢についての自覚がなく、「対華21か条の要求」に見られるように、朝鮮同様中国をも、植民地的に扱おうとしたようだ。それでは問題が起る。

 

 石原莞爾が「世界最終戦争」を予言していたと喧伝されているが、当時は誰もが太平洋戦争を予測してもおかしくない状況だったのかもしれない。

 

 直木賞は芥川賞と共に菊地寛が発案した新人作家に対する文芸春秋社の賞1935.1である。芥川龍之介や直木三十五は菊地の友人で、芥川や直木の死後、菊地は芥川賞や直木賞を発案した。なお、直木三十五の本名は、植村宗一である。

 

 

要旨

 

編集部注

 

080 1930年、ロンドン軍縮会議をめぐって、統帥権干犯事件が起り、軍縮は米英の世界制覇への策謀だとの声が強まった。1931年、筆者は村田春樹のペンネームで小説「太平洋戦争」を「文芸春秋」に連載し始めた。本文はその前書きである。

 

本文

 

現在の日本の国勢や国情の延長線上に、小説として太平洋戦争を構成した。これは、現在起りつつある、日本における、経済、外交、社会、思想、軍備等の事実に基づいた小説である。

081 以下現在の日本が置かれた状況を概説する。

 

一、経済について

 

 この小説で扱う経済問題は二つある。それは日本の産業にとって重要問題である。

 

A、綿紡績業で、消費が飽和に達し、生産過剰の危機にある。

B、ロシアで五カ年計画が完成し、その経済的赤化政策としてダンピングの恐れがある。

 

A、1914年から1928年にかけて、紡績の生産量は増加したが、消費量が減少した。ランカシャ綿業地で恐慌が起っているのは当然の帰結だ。

 支那は日本にとって唯一の消費地である。また日本は、支那国内に紡績工場を(建設し)投資している。

 一方で綿はレーヨンの脅迫も受けている。また、支那自身が、外国の投資を用いて紡績工場を興している。また、アメリカも(中国で)躍進している。

 

B、ロシアは5カ年計画を完成し、国内の供給が完了すると、思想的に赤化運動を行ったように、経済的にも全世界に挑戦するだろう。すでにアメリカに対して、小麦や木材をダンピングしている。

082 ロシアは、多く生産し少ししか消費できないという資本主義のジレンマに対する脅威である。

 

二、支那について

 

 「反帝国主義」と「不平等条約撤廃」は、支那の二大方針であり、仮に蔣介石がいなくでも変わりはない。これは近代支那の世論であり、対外的・対内的の唯一無二のモットーである。このモットーは蔣介石政府の樹立から盛んになったが、唱えられていたのは、かなり昔からである。

 それに対して日本は、この支那の大思潮に対しての対策よりも、時の政府担当者の力の軽重を基に、策を講じてきた。だから、ある時は南を助け、ある時は北を助け、ある時は満洲と結んだ。

 近代支那は日本に対してだけでなく、他の国々に対しても、上記の二大政策の下に、一方的意思によって、条約の撤廃を主張し、時として、その武力的解決を試みている。東支鉄道の共同管理漢口租界の回収提議がそれである。

 日本は中国と地理的に近いし、歴史的にも関係が深いから、そして外交方針がしばしば誤ったために、支那が日本に対して、いつ、いかなる手段に出てくるか計りがたい。それは日本にとっては不利だが、支那にとっては、正当の勢いである。従って、第三者から見た場合、支那の主張は、独立国として当然のことである。一方、日本は、既得権の擁護や投資物の保護ぐらいの主張しかできない。

 日本の対支投資すら今日では支那は拒絶しつつある。双橋無線電信の始末を見よ。日本を拒んで、アメリカの手へ移ろうとしている。また日本・上海間の航空路を拒絶し、ドイツ資本と結び、ドイツ漢沙航空会社が調印されたではないか。

 恐らくこの情勢は、今後より強く続くだろう。遠交近攻の策とは、六国時代だけではない。

 

三、満洲について

 

 蔣(介石)と張(作霖)(1931年時点ではすでに死んでいる1928.6.4のではないか)の提携は、一層満洲の危機を早めるだろう。反帝国主義と不平等条約撤廃の二大方針は、早くも1923年に現れた。つまり、「南満洲及び東部蒙古に関する条約」*を廃棄しようと(支那側が)言い出した。

 

*対華21か条の要求1915.1.18の第2項「南満洲及び東部内蒙古に関する件」(全7か条)その主なものは、(1)旅順・大連の租借期限を99ヵ年延長すること。(2)日本人の土地租借権と土地所有権を認めること。(3)日本人の居住と営業の自由。(4)鉱山採掘権の承認。(5)政治、財政、軍事についての顧問を求める場合は、先ず日本政府と協議すること。(これ、独立国といえるか。)

 

083 今日、それが実行として現れてきた。即ち、条約で禁じられている、満鉄の東西に併行線を敷設して圧迫し、胡蘆島に貨物を集中させようとしている。この二大幹線(海竜、吉林、奉天、打虎山、胡蘆島線と、通遼、昴事漢線)の外に、多くの支線からなる包囲線を造り、最近では、国際協定を無視した低廉な運賃で、満鉄に挑戦しつつある。

 もしこの協定の蹂躙やその他の挑戦的態度がこのまま続くと、在満の朝鮮人が圧迫を受けて悲惨な生活をしているのと同じように、在満20万の日本人と10億の投資も、やがて駆逐され併呑されるだろう。

 

四、アメリカの対満野心

 

 アメリカの鉄道王ハリマンは、ポーツマスで日露が談判している時、日本に来て、満鉄の買収運動を試みた。

 1908年、ストレートが、満洲における鉄道敷設を目的として銀行を設立しようとしたが、袁世凱が失脚して挫折した。

 1908年、「高平・ルート協定」で、アメリカは、支那で商工業の機会均等を要求した。これは、一見紳士的だが、自国に有利で、日本の対支経済を制限した。

 1909年、ノックスは英のボーリング会社と結び、錦州から瑗琿(えんこん)への鉄道を敷設しようとしたが、日、露、仏、英の反対で失敗した。

 1917年、「石井ランシング協定」でアメリカは、満洲における日本の特殊利益を承認したが、1921年のワシントン会議でこれを破った

 1917年、シベリア出兵の時、アメリカは、東支鉄道、シベリア鉄道を自国の単独管理にしたいと申し出たが、日本の強硬な反対に逢って、結局列国の共同管理になった。

 

 満鉄の包囲、併行路線の敷設にアメリカの投資がある。

 満洲地図の上に、一抹の不安と暗さが漂わないか。

 

 

五、軍備について

 

 開戦して3ヶ月も経たないうちに、新兵器が現れるだろう。アメリカのロボットはすでに完全に飛行機を操縦している。ドイツの120人乗り飛行機が飛んだ。ロボット飛行機も完成に近いだろう。75哩の射程を持つ砲ができた。*哩はマイル。1.6キロメートル。

084 私は、現在の武器を基準にして武器を計画している軍事設備や作戦を冷笑したい。開戦と同時にそれを廃棄しなければならなくなるだろう。

 

 

六、科学

 

 (生糸の)生産下落は、アメリカの不景気のためだけではない。レーヨンの進歩とその圧迫のためでもある。最近1年間で生糸は1割3分の需要増加をしたが、レーヨンは30割である。科学は経済に影響を及ぼす。

 資本主義の生産過剰は、科学の発達を考慮に入れなければならない。

 第二次電池(充電式電池)が発明されたら、世界恐慌がもう一度起るだろう。ソビエト・ロシアも科学に破れるだろう。

 

七、太平洋戦争

 

 欧州大戦の悲惨さはいずれ忘れ去られるだろう。それは人間が戦争の英雄的魅力を感じるときだ。

 日本は必然的に、次第に圧迫され、憤怒し、自己存立のために――いや、日本だけでなく、イギリスも、支那も、アメリカも――(米英との戦争を開始するだろう。)

今起りつつある事実に基づいた必然的経路を考えると、そこへ到達しそうだと私は思う。

 

昭和5年12月5日

 

1931年、昭和6年2月号

 

以上 2020717()

 

ウイキペディアより

 

直木三十五 1891.2.12—1934.2.24  小説家、脚本家、映画監督。

 

現在の大阪市中央区安堂寺町2丁目に生まれる。本名は植村宗一。早稲田大学英文科予科を経て早稲田大学高等師範部英語科へ進学したが、月謝未納で中退。『人間』(創刊1920)編集。プラトン社勤務(1923--)娯楽雑誌『苦楽』編集。映画製作集団「聯合映畫藝術家協會」を結成1925

 

以上

 


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