満蒙と我が特殊権益座談会 1931年、昭和6年10月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻 1988
感想
この座談会は1931年の満州「事変」の前夜に開かれた。前出の直木三十五の一文「『太平洋戦争』を書く前に」にもあるように、これまで獲得してきた満洲の権益をどうしても手放したくない、どうしても、絶対に、と確信する人たちが日本にはいた。しかし、その主観的意図は、民族主義が高まり、列強も世界大戦を通して帝国主義的手法に疑問を抱くようになる中で、もはや通用しなくなっていたのが現実だった。
しかし、日本の軍部や軍部と気脈を通じる政治家(例えば本座談会出席者の森恪)は、自分達だけでも日本の権益を守る政治体制を構築しようと決意を固め、国内では、国際協調的で外交的に軟弱な政党政治を潰し(クーデター)、満洲では、張作霖爆殺・満州事変などの陰謀を敢行し、少しずつ軍事的・政治的実績を積み上げていったようだ。2020年7月25日(土)
感想
これは東京帝国大学助教授法学博士の神川彦松一人を、他の6人が集中攻撃する場を文芸春秋社が敢えてお膳立てした座談会である。非常に不平等・不公正である。これは当時の空気がそうさせたのだろう。文芸春秋社だけでなく、朝日新聞の記者もすでにその空気に迎合している。東京朝日新聞前支那部長の大西斎である。
彼らは神川の言う帝国主義戦争とその結果としての国際連盟や民族自決の意味を理解できない。日露戦争を帝国主義戦争の一環として位置づけられず、「自衛戦争」098であるという。また民族自決の意味が分からず、力による被抑圧民族の支配を「平和」だという。彼らの全ての論理の出発点は、客観的理論よりも、「自分の利益」である。そう考える脳しかないのだ。
そして共産主義を理解もせず、「正純なるプロレタリア」099などと揶揄したり、学問を実際に役立たない空論だと蔑視したりする。彼らの発する言葉には、論理的整合性がない。つまり嘘を言う。
一方、神川もソ連のことを「赤色帝国主義」095などと言い、共産主義を警戒しているようだ。あるいは単にこの場に合わせるための方便だったのか。それはそれで学者としては不誠実だが。
それにしても、満州事変の直前にこのような座談会がよく開けたものだと感心するが、或いはこの座談会は、その地ならしのためだったのか。ともかく完全に異論を排除する時代は、もう少し後になってから始まったのかもしれない。
要旨
編集部注
085 1929年の頃から「満蒙は日本の生命線」と呼ばれ出していた。この生命線は蔣介石の国民革命軍の北伐によって脅かされ始め、日本の政界・軍部は、焦燥感に駆り立てられた。1931年6月、中村震太郎大尉が殺害*され、7月、長春郊外で中国農民が襲撃し(万宝山事件*)、状況が緊迫化した。本文は満州事変前夜の座談会である。
*中村震太郎大尉殺害事件 1931年6月27日、陸軍参謀中村震太郎大尉と他3名が、軍用地誌調査の命令を受け、大興安嶺の東側一帯(興安嶺地区立入禁止区域)に、「農業技士」と身分を詐称して調査旅行をしていた時、張学良配下の関玉衡の指揮する屯墾軍に拘束され、銃殺後、焼き捨てられた。
中村震太郎1897—1931 新潟県南蒲原郡中之島村大字中条出身。
中村は奉天総領事館から「護照」を発給されたが、そこに「蒙古地方旅行禁止」の但し書きがあったので、ハルピンの総領事館から禁止の但し書きのない護照を受けた。(リットン報告書によれば、ハルピンで護照を中国官憲に検査された時、匪賊横行地域であることを警告され、護照にもそのむねが追加記載された。その際、中村は農業技士と身分を偽った。)
護照は日本が発行した身分証明であり、立入禁止区域への立入許可を意味しない。
屯墾軍は中村の護照を無効であるとして取り合わなかった。中国側の主張によれば、所持していた測量機・地図・日記帳などから軍事探偵と判断し、違法薬物も所持しており、逃走したために射殺したとする。
中国側は調査を約束したが遷延し、「事実無根の日本人の捏造・宣伝である」と明言した。関東軍が8月17日に記事を解禁すると、日本の世論は沸騰し、中国の非道を糾弾した。報道では「合法(疑問がある)の護照を提示したにもかかわらず、拘束され、裁判もなしに殺害され、遺体は焼かれて埋められ、金品を奪われた」とされた。
中国側が事件を認めたのは柳条湖事件が起きる当日9月18日午後だった。「正規兵によって射殺されたが、中村が逃亡しようとしたので背後から射殺し、虐殺ではない」という説明だった。
外務省がこの問題を解決することに対して、関東軍作戦参謀の石原莞爾は不満で、軍事力による洮南地方の解放を唱えた。
満州事変が勃発したため、双方の主張を検証する機会が失われた。その後の日本の文化は、これまでの「エログロナンセンス」から、「エロの次はミリだ」と言われるようになった。
前史 中国は日本人に対しては蒙古地方の旅行を禁じたかったようだ。
張学良は国民党に合流し、排日運動を実施した。満鉄包囲線の敷設、葫蘆島築港、間島居住の朝鮮民族の迫害(「間島に関する日清条約」(1909.9.4調印)違反)などである。1930年5月30日、朝鮮民族に対する虐殺、暴行、略奪など間島暴動が起きた。同年9月、朝鮮民族15名の銃殺事件と、中国官憲による日本警官2名の射殺事件が発生。満洲の至る所で朝鮮人が迫害され、1931年7月、万宝山事件が発生。中国側は、満鉄附属地以外に居住する日本人に迫害を加え(「南満洲および東部内蒙古に関する条約」(1915.5.25調印)第3条違反)、日本人に土地家屋を貸与した中国人を処罰した。
南京の国民党政府の外交部長や張学良は、旅順、大連租借地の返還、満鉄の回収、関東軍の撤退を公言し、日本人、朝鮮人に対する居住権、営業権を圧迫し、排日運動と排日教育を推進した。
中国官憲は、日本浪人の蒙古における過去の策動から、日本人の蒙古入りを嫌悪し、東部蒙古地方は匪賊が横行するので、外国人の旅行を禁止すると日本の領事館に通知し、護照裏書きの際、旅行禁止の但し書きを書き入れるようになった。この規定は日本人だけに適用された。
日本側は中国に対して治外法権を持っていたので、この規定は不法であるとして抗議したが、張学良は洮南在住者(日本人か)に圧迫を加えた。
*万宝山事件 1931年7月2日、長春北西の万宝山で、入植中の朝鮮人とそれに反発する中国人農民との、水路に関する小競り合いに中国の警察が動き、それに対抗して日本の警察も動き、中国農民と衝突した。死者はなかった。朝鮮半島や日本では、朝鮮人の中国人に対する感情が悪化し、排斥運動が起こり、多くの死者重軽傷者が出た。(朝鮮排華事件)
日本政府は満洲に権益を持っていた。1930年5月、間島共産党暴動で追われた朝鮮人200人を万宝山に入植させた。朝鮮人は地主の了解を得ずに水路を作り始めた。中国の地主が警官を呼び、朝鮮人10人を逮捕した。日本の警官が朝鮮人保護に向った。1931年7月2日、中国人農民数百名が銃を持って現れ、日本の警官50人と対峙したが、中国警官の呼びかけで収まった。日本の警官の警備の中で、7月11日、水路が完成した。
朝鮮日報は「2日の衝突で多数の朝鮮人が亡くなった」と(間違って)報道した。朝鮮人による中国人排斥運動が起こった。朝鮮や日本での中国人死者数は109人、負傷者は160人に上った。記事を書いた朝鮮日報満洲長春支局長金利三は14日、「日本の情報に基づいて記事を書いたが、誤報だった」と認めたが、翌日朝鮮人によって銃で殺害された。
本文
出席者
建川美次* 参謀本部第一部長陸軍少尉
佐藤安之助 前代議士陸軍少尉
高木陸郎 中日実業副総裁
森恪* 政友会代議士
中野正剛 民政党代議士
大西斎 東京朝日新聞前支那部長
神川彦松 東京帝国大学助教授法学博士
佐佐木茂索 本社支配人
*建川美次(たてかわよしつぐ) 1880.10.3—1945.9.9
新潟中学卒。1901年11月、陸軍士官学校卒業。陸軍騎兵少尉。
1904年8月、日露戦争出征。1905年1月、建川挺進斥候隊の隊長として5名の部下と共にロシア帝国軍勢力地の奥深く挺進した。奉天会戦に貢献した。『少年倶楽部』に連載された山中峯太郎の小説『敵中横断三百里』の主人公のモデルとなる。
1909年12月、陸軍大学校を優等で卒業。軍令畑を歩む。第一次大戦に観戦武官として欧州戦線に従軍する。1918年、陸相秘書官。1923年、騎兵隊第5連隊長、同年8月、大佐に進級。
宇垣一成の側近として重用され、1928年、少将に進級。1929年8月、参謀本部第二部長。1931年、宇垣を首班とする政権を目指すクーデター計画(三月事件)に、杉山元、小磯國昭らと参画したが、何の処分も受けず、第一部長に転じた。橋本欽五郎ら佐官級の起こした同年の10月事件にも関与したらしいと土橋勇逸の手記にある。3月事件の前に東京帝大で講演を行い、聴衆から散々に野次られた。
同年9月の満州事変直前、奉天総領事から外務省に軍事行動発生情報が伝わり、外務省から陸軍省へ通報。8月に参謀本部第一部長に転じていた建川が、関東軍の行動を引き留めるために、奉天に派遣されたが、飛行機ではなく、陸路で向かい、秦郁彦は、陸軍首脳部の「あやふやな」姿勢を指摘する。
9月18日、奉天到着後、料亭で板垣征四郎ら関東軍幹部と面談するが、その夜に事変が発生した。持参した大臣書簡を本庄繁関東軍司令官に渡す前だった。これは、満州事変が、板垣、建川ら参謀本部「中堅」の一致ではじめたことを物語る。建川は、陸軍大臣や参謀総長から戦闘勃発阻止を命ぜられていたが、料亭「菊水」で飲んでばかりいて、建川の口ぶりに、板垣、花谷は、本気で止めようとしない建川の腹のうちを察し、計画通り実行した。
その後、第10師団長、1935年、第4師団長となる。1936年の二・二六事件のとき、宇垣閥を敵視する皇道派青年将校は、朝鮮総督の宇垣や南次郎関東軍司令官、小磯、建川らの罷免を川島義之陸相に要求した。同年8月、粛軍人事の一環として、皇道派将官と抱き合わせで、予備役に編入された。
1940年10月、東郷茂徳の後任として駐ソビエト連邦大使となる。各界の要人を大使に代える松岡洋右外相人事の一環だった。1941年4月、日ソ中立条約に松岡と調印。1942年3月、帰国。大政翼賛会総務。大日本翼賛壮年団長。なお、駐ソビエト大使だった建川は、ユダヤ人にビザを発給し、2020年7月23日、ユダヤ人遺族に、山之内勘二在ニューヨーク総領事を通じて感謝された。
*森恪(もりかく) 1883.2.28—1932.12.11
父は判事や大阪市議会議長を務めた森作太郎。
東京商工中学校卒業。父の旧知の三井物産上海支店長で、後年立憲政友会幹事長や南満洲鉄道総裁となる山本条太郎の縁故で、同支店支那修業生として中国へ渡る。辛亥革命では孫文に革命資金を斡旋した。三井物産天津支店長。1916年、上仲尚明とともに塔連炭砿鉱業権を獲得。1917年、東洋炭砿、小田原紡績、東洋藍業、東洋製鉄などを興す。
1918年、政友会に入党。多額の献金(推定5万円)をした。1920年、三井物産退社、政友会から衆議院議員総選挙に神奈川県第7区から立候補し、当選。選挙に多額の資金をつぎ込み、「満鉄事件」という疑獄事件に発展し、次回の選挙で落選。その間の1923年、政友会院内幹事。1925年、栃木県の横田千之助が亡くなり、その地盤を引き継ぎ、補欠選挙で当選。1927年、田中義一内閣で外務政務次官。これは異例の人事。党内から反対論が出たが、院外団の支持と、横田千之助が、田中義一を陸軍から政界に進出させたことなどからなんとか就任。対中国強硬外交を推進し、山東出兵、東方会議開催。満蒙を中国本土から切り離そうとし、張作霖爆殺事件に関与の噂あり。
田中内閣総辞職後、1929年、政友会幹事長。1931年、首相臨時代理の幣原喜重郎外相をロンドン軍縮条約に関して攻撃し、濱口内閣を揺さぶった。第二次若槻内閣を経て、同年12月13日、政友会の犬養内閣が成立すると、内閣書記官長。しかし、軍部との関係を政治基盤にしていた森と、政党政治家の犬養とは大陸政策で対立。森は犬養に内閣改造を提言するが、容れられず、辞表を提出したが、預かりとされた。1932年5月15日の五・一五事件では、会心の笑みを漏らした。同年7月発病。12月11日、肺炎で死亡。
森 憤懣だらけだ。第一に、過去20年間で、満洲に住んでいる支那人の経済的実力が非常に充実した。第二に、支那人の政治上の対外・対内の術策が変化した。つまりロシア式方法を模倣し、応用している。第三に、日本国民の満蒙問題に関する「伝統的国是」に対する認識が不十分であった。進むか退くかどちらかにしなければならない。
086 日本が存続する以上、満蒙を抛棄することは断じてできない。満蒙を通じて欧亜大陸の文化を改造することは、日本人に与えられた重大な使命である。
中野 日本は明治維新に国を開いてから、朝鮮事件、日清戦争、日露戦争に至るまで、すなわち、西郷南洲(隆盛)の征韓論以来、東洋の指導精神を取るということは、朝鮮を殴りつけるとか、支那を叩き潰すとか、ロシアと喧嘩するとかいうことではなく、日清戦争、日露戦争共に、「東洋の平和」を維持し、東洋友邦民族を「解放」し、その向上した東洋の基礎の上に日本が立って、欧米列国と、折衝し、融合し、世界の文運に貢献するということが、日本がこれまでやってきたことだ。日清、日露両役ともに、日支の衝突は、隣人同士の「摩擦」であって、正面衝突ではない。「部分的衝突」の上に、「全面的融合、結束」という大きな理想を持っていた。日露戦争が済んだ時、支那は日本を「信頼しようとする」、東京には何万の学生が支那からよこされる。インドも、トルコもその他のアジア諸国も、さらに黒人種に至るまで、「有色人種」共通の曙光を与えたものは、日露戦争である。
そのトップを切ったのが日本民族だ。彼らは日露戦争後の日本の活躍を望んでいた。ところが日露戦争後、日本人の気力は尽きたのか、世界大戦以後の日本の外交はない。
大隈内閣(第二次大隈重信内閣1914.4.16—1916.10.9)、寺内内閣(軍人寺内正毅内閣1916.10.9—1918.9.29)、原内閣(立憲政友会の原敬内閣1918.9.29—1921.11.13)みな眼前の小計を知るが国是を知らない。パリ講和会議*、ワシントン会議、ロンドン会議は屈辱であると言われているが、これらは、大戦に対し外交の第一出発を誤った結果である。日露戦争以後の、指導精神がなく、理想がなく、日本独特の任侠心がなく、意気地がない日本外交を精算すべきだ。
*ウイルソンは、日本提案の人種差別撤廃案を重大案件と見なして全会一致を求め、日本提案の人種差別撤廃案の採決(出席者16名中11名の賛成多数)を不採択とした。牧野伸顕次席全権大使は提案撤回を受け入れたが、提案を行った事実と採決記録を議事録に残すことを要請し、受け入れられた。
その後、日本では一部で欧米不信感が高まり、対米協調に反発する政治団体が多数生まれ、米国では黒人暴動が発生した。
建川 国民の認識が足りない。(威張った言い方だ)学者や文筆業の人は「今頃」、日露戦争での何万の死者数や何十億の戦費を基にして、「どうこういうのはいかぬ」(曖昧)と言うが、それは間違いだ。それ(死者数や膨大な戦費)は、歴史で過ぎたことだ。(歴史から学ぶ態度の抛棄)そういうのを読むと、その戦争に死生を尽くして参加した我々軍人にとっては不愉快だ。
087 軍部でも若くて(当時の戦争に)関係しなかった者は、我々とはちがうようだが、さらに、若い人で当時を知らない軍部以外の人はそう思う(多くの死者数と膨大な戦費)かもしれない。しかし、それは間違っているのではないか。戦争の事実(多くの死者数と膨大な戦費)を(戦争否定的にではなく戦争肯定的に)主張する必要がある。
犠牲には理由がある。(日露戦争の原因は)ロシアが横暴なことをして来た(こともある)が、(それだけでなく、)明治以来の一定の方針に基づいて、「東亜の平和を確保する責務を達成する」という考えでやって来た。だからあの(日露戦争の)ような冒険的戦争を国民がやれた。
今の若い人は、当時の政府、国民、我々軍部の苦心を想像できない。それを無視して、「それは今考えなくてもいい、それを言い出すと支那がいやがる」という議論は不愉快だ。(中国が嫌がっても「東亜平和論」を堅持せよということか。)そういう人から見れば(我々は)偏狭となるのだろうが、そう感じるのだから仕方がない。そういうもの(彼らのような考え方)ではない。(議論の拒否)
(学者や文筆業や若い人は)軍部が昨今強硬論を称えると言ってやかましい。事実、軍部は強硬論を称えている。(居直り)しかし、好んで強硬論を称えているのではない。(確信犯)(我々は)今日の満蒙の「退廃的」状態から脱出しなければならぬと考えてきたのだが、どこからもそういう力(賛同意見)が起らない。このままでは「国家の将来」のためによくない。「誤っている一般国民の認識」(決めつけ)、――(国民の)大部分は何も知らない。中には誤っている者もいる――をこっちの方へ持ってくる必要がある。「一部の」論者から見れば、それ(軍部の情宣活動)は適当ではないと思われるかもしれないが、誰かがやらなければならない(思いあがり)という考えのもとに、昨今軍部は相当の力を入れて、国民の間にそういう考えが行き渡るように努めている。
感想 日本の明治以来、征韓論から日露戦争までの戦争は、「東洋の平和」のための戦争であるから、中国に気をつかうのは間違っているという、他人の嫌がっていることでも、「平和」のためだから、やっても構わないという、極めて独善的な考え方である。「東洋の平和のため」など、誰が言い出したのか。当時の日本軍人や兵隊は、それを信じて戦争に行ったのだろうか。人殺しに行くのだから、もっともらしい大義名分が必要になる。
088 佐々木 日本人の誰も知らない点について、実地に見てきた人が何とかしなければならぬと言う、その点について具体的に話してください。(これが文芸春秋と軍部の狙いか)
中野 日露戦争の時、川上操六*や外務省の小村寿太郎*は、国論に応じ、国民の向うところを知らしめ、国民を熱中させた。今日陸軍が堂々とその主張を述べることはよいことだ。国民(誰のことか)は、過去の外務省の外交がなっていないと思い、政友・民政両党の外交が何だったのか分からない。また陸軍に支持された外交も信頼していない。
*川上操六 1848.12.6—1899.5.11 薩摩藩士、軍人。「明治陸軍の三羽烏」
*小村寿太郎 1855.10.26—1911.11.25 外交官、政治家、外務大臣。日英同盟締結、ポーツマス条約締結、条約改正に尽力。
寺内、原、田中内閣*時代のシベリア出兵は、その目的を貫徹せず、国費を浪費しただけで、日本の立場を悪くした。しかし、やろうと努力したことは評価されるべきで、日露戦争時のように国民と呼吸が合っていなかったことが失敗の原因だ。(国民の気持ちと合っていれば、失敗も成功となるのか。)霞ヶ関の外交を清算すべきだ。
*田中義一内閣1927.4.20—1929.7.2だとすると、シベリア出兵1918.8—1922.10と時代が合わない。
原内閣の次は、高橋是清内閣1921.11.13—1922.6.12、その次は加藤友三郎内閣1922.6.12—1923.8.24である。
政友会、民政党は内政に没頭し、外交はしなかった。役人任せだった。陸軍が凡調を破って自己主張するのはいいことだが、軍部の活動と国民の意向とが合致しなければならぬ。政治家は軍部を御さなければならぬ。
私は現内閣の与党にいるが、霞ヶ関正統派の外交は無気力で、無能で、元気を出そうともしない。国民(自分のことを指すらしい)はそれに激怒し、軍部の奮発を誘導した。(「国民」の一部が軍部を唆したのか)軍部と政治家が「日本の定評を踏みしめ」、外交と、軍部の主張と、国民の意気込みとを一つにして、満蒙問題を中心に、対支、対露問題や、世界に対する日本の立場を確乎にして、立て直すべきだ。(全体主義)
089 森 中野君の今の発言に対して一点反論したい。田中内閣には明確な政綱があったということだ。支那本土に、ロシア・ソビエト政府の背後の支持によって生まれた「無産主義政府」が支那全土にできなかったという意味では成功した。民政党の外交政策としてではなく、幣原君個人が、支那の新興勢力を助けた。その新興勢力は日本官民に「憤慨」を与えたが、それを幣原は許し、財政的援助をしようとした。後に自殺した佐分利*を派遣し、その結果を国民に伝えて国民を扇動した。
*佐分利貞男1879.1.20—1929.11.29 外交官。1929年8月、浜口雄幸内閣の外相幣原喜重郎に乞われて、駐支那公使に就任。一時帰国中に箱根宮ノ下の富士屋ホテルで、変死体で発見された。警察は自殺としたが、他殺の疑いがある。左利きなのに右手にピストルを持っていた。
しかし、我々はこれに反対した。当時私は山本条太郎*と視察したが、その新興勢力は、ソビエト式の無産主義の新興勢力であった。隣国支那に無産主義の政治が樹立されることは、日本の立場としては歓迎できない。(アプリオリに)排除しなければならない。若い内に刈り取らねばならない。こう宣言して、この排撃に向って事実公然と「立ち上がった。」*これがつまり、ガロン、ボロージン*、その他のロシア人が指導者となって樹立しかかった広東政府*が撲滅された理由である。
田中内閣のこの作戦は成功だった。民政党や政友会に外交政策はない。内政方針もない。便宜主義である。あったのは幣原外交だ。
*山本条太郎 森恪の父の旧知で、三井物産上海支店長。立憲政友会幹事長や南満洲鉄道総裁。
*これは何か工作とか武力的手段を用いたのか。幣原外交を否定したということか。
*1927年のころ、ボロージンは武漢政府高等顧問で、武漢政府内での中国共産党を指導していたトップ3人のうちの一人だった。
*広東政府(広東国民政府、広州国民政府)1925.7--。武漢に移動してからは、武漢政府1927.2--。
佐々木 なぜ満蒙に対して憤激しなければならないかを語ってもらいたい。分かりやすいように、個々の問題を解説していただきたい。(また呼び水)
090 大西 歴史的、経済的、国防的、その他あらゆる権益の内容から、満蒙が日本にとっていかに大事であるかを、若い人や日本国民の多数に説くには2、3時間必要だ。
日本が経営する鉄道(満鉄)は、満洲で支那の3分の1くらい、1千キロであり、これに対して支那は3千キロである。支那との北京条約*で、満鉄の並行線を敷いてはならないという諒解があったが、それを支那側は無視し、蹂躙した。並行線ばかりでなく、支那側は、満鉄を包囲する計画を立てている。東北交通委員会は奉天側の鉄道省であるが、支那側鉄道の統一計画と、将来の大鉄道敷設計画を立てている。これは遠大な計画である。(それは本来制限出来ないのではないか。北京条約があるから制限するということか。)
*満洲善後条約1905.12.22 北京で締結された。正式名称は「満洲に関する条約」、中国では「中日会議東三省事宜正約及附」 帝政ロシアから日本に譲渡された満洲利権の移動を清国が了承する内容。
南満洲鉄道の吉林までの延伸、同鉄道守備のための日本陸軍の常駐権、沿線鉱山の採掘権、同鉄道に併行する鉄道建設禁止、安奉鉄道の使用権継続と両国共同事業化、営口、安東、奉天における日本人居留地設置許可、鴨緑港右岸の森林伐採合弁権など。
これを繋ぐ葫蘆島という大きな築港が計画されている。全て秘密のうちに行っている。将来これを完成して、鉄道と結びつけ、満鉄や大連に取って代わろうとしている。
昨年は満鉄に対して猛烈な運賃競争を開始し、日本の運賃の半分若しくは三分の一まで下げたため、満鉄は未曾有の減収に陥った。
また、吉会鉄道は多年計画されているが、いまだに実現出来ていない。1928年、山本条太郎氏のとき契約が出来ていながら、実施できないでいることは遺憾だ。
森 僕らの(僕らが政権を取っている)とき、四省会議(陸・海軍、外務、大蔵)で、従来の満鉄の一線一行主義を乗り越えて、日本海と北満洲とを結ぶ(ための吉会鉄道を計画した。)満鉄がやらなければ政府がやるべきだ、満鉄に委任するのを止め、政府がやるべきだという方針を定めたが、まず満鉄の都合を聞こうということで、満鉄と交渉した。満鉄は自分の方でやるとし、山本(条太郎)さんが始めた。飯田延太郎君*はもっともだと賛同し、強く主張してやった。ところが田中内閣がつぶれて実現できなかった。*いいだのぶたろう 海軍軍人。
大西 吉会鉄道(の敷設計画)は、張作霖に判を押させて、一年以内にやるという(ことになっていた。)
建川 工事契約書までできていた。
大西 ところが張作霖が死んで1928.6.4、それが流れてしまった。僕は昨年1930でも、やり方によってはできると思った。ロシアと戦争したとき、ロシア側が探りに来たが、あの時、日本が「善処」していれば(できたかもしれない。)(どういうことか。)
森 吉会鉄道は、文化的にも、経済的にも急務である。やらねばならぬ。
中野 吉会鉄道は、吉林から会寧へ、会寧から清津へ、清津から敦賀へと通じる。これは大連から門司へ行くよりも便利である。そして吉林の奥には長春があり、長春は、大連から上ってくる路線が長春を通過する。哈爾賓(ハルビン)へ行って、長春から蒙古へ行く鉄道はすでに出来ている。吉会鉄道は、北満、南満、蒙古を連ねる線になる。
調印して(支那側は)前金1千万円を受け取っている。造れないのは政府の責任で、造らせないのは支那が悪い。権利は蹂躙され、既得権は有名無実にされる。
森 吉会鉄道が完成すると、現在ある大部分の鉄道は、培養線になるだろう。吉会鉄道は経済的にも文化的にも重要な鉄道だ。
092 佐藤 私は満洲経営の最初のころ満洲にいた。当時の満鉄の首脳、後藤新平さん、中野是公さんや、当時の関東都督の人々は、支那人を満洲に移住させる方針で、私は支那の商売人を満洲に入れた。当時の支那人の人口1千万人が、今日では3千万人になった。その支那人がここ20年の間に経済的に力を持つようになった。大連の日本橋とも言われる浪花通りでは、昔は日本人が地所や家屋を所有していたが、今では支那人がその大部分を所有している。ちなみに、森君が外務次官だった内閣が、吉会鉄道建設を、権利としやった。
建川 それは1918年のことだ。
高木 間島事件*1920.9.12、10.2のとき調印をした。
*琿春(間島の一部)が二度に渡って馬賊に襲撃されたが、馬賊の構成は、朝鮮人(独立を求める元義兵)100人が中心で、それにロシア人5人と中国官兵数十人が混じっていたと日本軍は推定した。この事件は、この直後の間島出兵1920.10--1921.1や間島共産党暴動(中国共産党の支援を受けた朝鮮人独立運動勢力による武装蜂起)1930につながった。
森 基本契約はその前からあった。
佐藤 施行契約は田中内閣の時にできた。遅れた理由は、吉会鉄道ができると大連が潰れると一部の人が考えたからだ。そしてぐずぐずしていて出来なかった。
森 それは(私らの前述の)四省会議の時である。
佐藤 これは満鉄の責任である。前渡金1千万円は、西原借款から出した。
建川 その他、(満洲の)外のと合わせて2千万取られてしまった。(どういうことか。)
佐藤 国是が一貫していなかった。それと国民(マスコミ)が後に続かない。
093 21か条の要求のうち、満鉄の権益期限は99年になっているのに対して、商租権期限はそうなっておらず、30年である。将来細則を定めようということになっていたが、それが進まない。細則が定まらないため、商租権は放棄した形になって今日に及んでいる。一時は(日本国民は)強く出るが、後が続かない。国民や言論界は黙っている。中村大尉事件の場合もそうだ。(支那へ)抗議ばかりしていては武力問題に発展するのでいけないが、執念深くやるべきだ。そうすると国民も考えさせられる。そしていよいよ頑迷不戻となれば叩いてよい、そこで初めて軍部の手に移る。(横柄で危険な策士)
森 日本人は淡白すぎる。日本の実業家は日本内地では金利の一厘二厘を争うが、支那では、金利は何年払わないでも平気だ。支那では諦めて平気で損をさせられている。これからが大変だろう。
大西 小村(寿太郎)さんの時代には政治が行われたが、今日では行われていない。だから軍部が大いに硬論を主張するが、それは国民を背景にし、国民が容認するものでなければ、シベリア出兵の二の舞になるだろう。
高木 現在、外務省と陸軍とは別々で、外務省は軍縮のためにやっている。
大西 「国力の発動」は、民政党や政友会を超越した外交でなければならない。満洲問題でも然り。国力は統一していなければならない。
094 神川 私は外交史や国際政治を研究しているが、その立場から、客観的に冷静に観察したものを申し上げる。満蒙問題には三つの解決方法しかない。第一は、帝国主義的解決。第二は、民族主義的解決。第三は、国際主義的解決である。歴史の傾向、今日の情勢、将来の動向などあらゆる点から見て、この三つの他にない。
第一の帝国主義的解決とは以下の通りである。帝国主義は、19世紀の中頃から、ことに普仏戦争1870.7.19—1871.5.10 (ナショナリズム育成を目指した国民国家戦争)から世界戦争に至るまで、世界を風靡した各国の主義政策であり、およそ各国は皆これを採用した。世界戦争前の満蒙問題は帝国主義戦争に他ならないことに間違いない。日露戦争は、日本が勝って朝鮮からロシアの勢力を追払い、さらに長躯して、ロシアが取ろうとしていた満洲の一半を譲り受けた。これをいろいろな愛国的言葉で飾れば理由があるが、要するに、日本の古来重視していた朝鮮問題を解決して、ロシアと同じように満蒙に向って帝国主義的活動をすることになった。
しかし、実際、日本は独力でこれをなしたのではない。日英同盟や米国の同情があってなしたことであり、従って、日本だけで満洲を思うように処分することは不可能であった。他の帝国主義的牽制を免れなかった。世界戦争中は、帝国主義が一大飛躍する好時期であったが、日本の活動は思うように行かなかった。民族自決主義という旗印が風靡していたから、日本は時代に逆行する活動が出来なかった。従って21か条、シベリア出兵は目的を達することが出来なかったが、それは止むを得ないことだ。帝国主義的活動は、世界戦争まで来て、形勢が一変した。
民族自決主義という旗印が支那にも移ってきた。それが満洲にも及んだ。満洲は、清朝時代は愛親覚羅朝廷の私有地同様で、他人入るべからずとの制札が建てられていた。ところが清朝の末からその禁制が緩み、漢人が入り、最近朝鮮人も入ってきたが、そこへ日本の満洲経営が幸いし、戦後の今日は2千万人、3千万人近くなった。日本人も20年の経営を経て20万人、朝鮮(人)も100万人、外国人も数万人おり、漢人が圧倒的に優勢である。つまり、満洲は歴史的に支那の領土であり、民族的にそうである。他国の帝国主義的活動、金融資本の活動を許すべからずとする、打倒帝国主義的活動が対立してくる。満洲において日本人経営の満鉄、軍隊の駐在、警察権、商租権は撤廃せらるべきものとなる。そうなると満蒙に権益を持っていた日本の利益と、支那の根本原則、第一民族主義とどう調和するかが問題となる。日本が今日までのような帝国主義的活動と金融資本の活動とを従来のようにやり、それを相手が拒めば武力でも発動するという政策、――私の考えでは森さん、その他松岡洋右氏もそうでないかと思うが――日本が依然として帝国主義的な政策に固守すれば、支那が無為にして引き下がるか、支那を無為にして引き下げることができなければ、武力衝突は免れない。
もう一つ注意しなければならない点は、金融資本主義の問題である。フランスの財閥、アメリカの財閥、今日の問題ではアメリカの財閥だが、アメリカの財閥は、全支那をオープン・ドア・ポリシーで行き、日本だけの縄張りを断じて許さないとしている。だから日本が従来のような帝国主義的活動をやるには、支那ばかりでなく、アメリカの金融資本主義的反対をも考慮しなければならない。要するに、何方も、日本が帝国主義的活動をやる場合は反対する。さらに(アメリカ以外に)もう一つはロシアである。ロシアは支那から帝国主義的権益は放棄したと称しているが、それは手段を変えて、白色帝国主義に対して赤色帝国主義を振りかざしたもので、支那全体に対してその考えを持っている。少なくとも満洲において何らか活動をする場合は、共産主義的革命を扇動して日本の企図を崩壊するだろう。
私が心配することは、日本が帝国主義的活動を再び起こせば、この三方面(支那、アメリカ、ロシア)からの反対を予期しておかなければならないということだ。
私の考えでは、満蒙問題は、日露支三国が結局武力に訴えて、第三者の干渉によって国際化するか、両国の妥協によってそこを中立化するか、いろいろな方法がある。
096 満洲は民族的に言えば支那のものである。満洲は、日本と支那、日本とロシア、日本とアメリカとの間で利害が交流するところだから、支那に(日本の)民族的の欲利があるとしても、貫徹は難しい。そこで結局そういう国と妥協することになる。そこで中立化や国際化に帰着するが、そうでないと満蒙問題は永久に解決できない。それは平坦ではない。種々の圭角が横たわっているだろう。
結局のところ、支那が満洲を民族化するか、或いは国際化することになるのではないか。この際一奮発しようという気になり、従来の権益の上に建って日本が、あくまでも踏ん張ろうとすることは理由のないことではない。手段としては好いのだろうが、ある点まで行って局面展開で変わらなければ、いわば大動乱が結果し、救われないことが起りはしないか。将来、共産主義等の活動もあり、大いに注意すべきである。私は支那における共産主義を重大視している。
日支がもし敵愾心に燃えて立つというならば、第三者の術中に陥るだろう。結局何方にしても大変でしょう。
佐藤 こういう反対論が出てきて面白い。
建川 いろいろの説もあるものだ。
森 神川さんに聞きたいことがある。(質問ではなく反論がある。)支那で米国資金が今後も大いに活躍するというのは事実と異なる。資本は実力(おそらく武力)が背景に伴った場合に活動できる。また平静であれば資本は活動できる。米国資金は活動しかけたが、最近、支那で政治的(条件のため、政情不安ということか)に、経済活動が起こせず、それを米国も認めて、現在は経済活動を中止している。だから現在及び近い将来、米国資本は支那で活動できないだろう。これが第一点。
第二点として、ロシアの満洲での活動は、将来はともかく現在は停止している。ロシアは孫逸仙(孫文)と結んで広東まで出たときもあったが、今は方向転換した。一昨年、ロシアと支那が衝突したとき*、支那は900の兵隊で、1万のロシア兵を粉砕した。支那人は、ロシアが満洲で思想的に活動していると言うが、私はそう考えない。
*1929年、中ソ紛争。中東路事件、奉ソ戦争 中国が北伐を終え、国内を統一できてから始めた外国との最初の交戦。中ソ共同管理下に置かれていた中東鉄道の利権を、中国が実力で回収しようとした。スターリンが「自衛」を理由に、強力な機械化軍団を投入し、張学良軍を粉砕し、全権益を回収した。その後現状復帰を内容とする停戦協定が結ばれたが、中国は協定の無効を主張し、再交渉を要求し続けた。
097 第三点として、支那の民族主義は、どの程度の「根底」を持っているのか。「抽象的」にはいろいろなことを言うが、「実力的」(恐らく武力)には値引きして考えるべきだ。以上三点、神川さんの認識を確かめてから、あなたの御議論を批判したい。
神川 第一に、米国事業資金の活動は、最近まで支那及び満洲ではほとんど大きな活動がなかったことは言われるとおりだ。現在でも…
森 いや最近までは活動していて、それが失敗したのです。
神川 その通りです。米国は機会を狙っていた。しかし、結局大きな成功を収めなかったことは、おっしゃる通りです。その量は、はっきり覚えていないが、ごく僅か1億ドルくらいでありましょう。米国の対外投資(全体)に比べれば、米国の対支投資は九牛の一毛と言えるが、それは現在までの状態であって、将来もそうだとは言えない。現に現在その曙光が見えてきた。
森 どういう実例ですか。
神川 中国航空公司が、南京政府と合衆国との間に契約が成立して、出来上がった。
森 あれは全く失敗だ。(失敗でもやりかけたことには変わりはないのでは。)
神川 支那では内乱が十数年続いてきたから、資本の回収は全く不可能だ。英国、日本も従来の資本は回収できないから、その上貸すことは採算上許されないが、米国の立場から言えば、…
森 今まで米国の歴史は、抜け駆け(出し抜く)をしてもやったが、今日では失敗をして手を引いた。
神川 確かに米国が今日まで対支活動で振るわなかったことは認める。しかしアメリカはすでに南米では英国に取って代わり、その地位を蚕食している。支那においても米国が真剣になって、その金融市場まで躍進する余地はある。
森 50年、100年後はいざ知らず、近い将来、日本の活動に対して米国が第三国干渉として米国資本が現れてくることはあり得ない。事実からして認識できない。
098 幣制改革案やその他の案が実行されれば、…
森 それは事実ではない。(幣制改革案の)発案者が撤回している。
神川 支那の政情が一応落ち着き、秩序が回復し、内乱が多少緩めば…
森 当面内乱は続くだろう。米国人は内乱が止まらないとことを前提にし、その上で資本の活動を中止した。(ああ言えばこう言う、議論はかみ合わない。けんか腰討論か。)
中野 中言ですが、神川さんは日本の帝国主義的発動と言われるが、当時ロシアが東洋を席捲する勢いで南下し、支那と密約*を結んで満洲に来たり、朝鮮に来たり、油断をすれば日本を併合する勢いであったので、それに対して日本は武力を以て立った。それを帝国主義的活動と(神川さんは)言われるのだろうが、私はそれを自衛のために立ったと言う。
日本は、日支両国その他東洋諸国の「向上」のために、「民族主義のために」立った。後に「必要な地点を」日本が領有(租借)するが、それはロシアが侵略した土地を奪還したのではない。奪還してもそれを支那に返さなかった。返して支那が日本と「握手」して「東洋共同の責」に当たればよいが、支那にはそれが出来ない。そこで我々は領有的態度を取った。(身勝手な考え方だ。)それより以後日本は軍事をやめた。(本当か)後藤新平さんが兒玉さん*から受け継いだ満鉄の方針は、支那の民族を呼び込むという平和主義であり、それに、営利主義、商売主義をやった。その商売の利益を、支那が「インプルーブ」するために共同して行うなら、日本人は日支が共存共栄でやっていくことを歓迎する。そして日本の武力は満洲から消えるべきだ。
しかし支那人のやり方は、商売上の利益において「止むを得ないこと」を主張しているのではない。満鉄の並行線は日本にとっては損になる。支那も損をする。その資本は日本から借りてきた。そしてその利益は一文も日本に払わない。
090 日本が15億円の財を散じて満洲の繁栄を来たしてやると、その繁栄に何ら寄与することなく、享楽だけはする。享楽するばかりでなく、今度は取って変わろうとする。これは許せない。(人のうちでそんな図々しいことを言えるのか。)民族主義の名の下にこれを取る(採用する)ならば、ロシアはシベリアから撤退しなければいけないことになる。ハバロフスクでは支那人の方が多い。シンガポールも支那のようだ。ペナンも、ジャワもそうだ。支那の民族主義を許すなら、南洋は全て支那のものになる。
ところがシンガポールは英国が領有し、その下で支那人は幸福に保護されている。支那人の民族主義は外国(英国や日本)の統治下においてのみ言われる。満洲は比較的動乱から遠ざかっているが、これは日本のお蔭である。日本が警戒の手を緩めれば、満洲は必ず動乱状態になる。支那の不当な要求に日本人が断じて一歩も譲らないと言うことは、不合理ではない。そこで日本が米国と衝突する憂いがあるというのか。(意味不明)
建川 アメリカが武力で出てくるはずがない。
中野 日本が世界に向って国を建てようとしているとき、米国の武力干渉を憂慮し、満洲に正当に持っている「日本の手」を縮めていかなければならない、(満洲を)国際管理下に置くという考え方は、米国に譲ることである。米国は満洲に対して条約上の権益を持っていない。そういう米国と同じ立場に日本が立つ、満洲を国際管理下に置き、日本が譲歩するということは、九州を国際管理下に置くことである。(飛躍した極論)日本がメキシコを国際管理下に置くように提案しても、誰も承知しないだろう。米国に譲歩することを前提にした国際管理は「絶対に駄目だ。」(駄々っ子)
日本が満洲で今日のように追いつめられた原因は、日本が対支政策を「国力」で(国民が一丸となって)やらず、初めは軍だけでやり、その後はブルジョワだけでやり、ブルジョワだけが満鉄の利益を受け、吉会鉄道を建設すると大連が繁栄しなくなるという営利主義である。満洲を「把握する」つもりなら、「国家」が目的をもたねばならない。階級対立の結果、プロレタリアに国家権力が移行するというが、私は、…
建川 正純なるプロレタリアかな。
中野 失業問題を解決しようとする場合、内地で一人を首にすると失業者を生むが、その解決策は満洲への進出である。私は逓信省の小役人をしたことがある。私は、大連汽船に支那人を雇い、日本人を辞めさせるのに反対して「威嚇」した。仙石さん*は日本人を採用した。日本人の給料は支那人よりも高いが、船の中をきれいに掃除し、石炭を使う量も減る。(視野の狭い自己中的発想)日本人も金融も、満洲に進出すべきだ。ただしこれまでのような不在地主ではいけない。
100 万宝山事件*は、日本人の伝統的無気力に対比して、若い朝鮮人の血潮が踊った結果だ。日本人はそれを保護すべきだ。そうでないと日本の「面目」が立たない。それをやらなければ、朝鮮人は今度は支那人ではなく日本人に敵愾心を向けてくるだろう。今まで得た権益を朝鮮人に分け与えるべきだ。
帝国主義、民族主義、国際主義などの名称は学者に任せておき、支那の日本に対する最近の戦争、それは武力攻撃ではないが、泥棒のような手段である。それに対して、正当な対抗手段(武力攻撃か)を取るべきだ。米国は東洋に向って文句を言う資格はない。帝国主義的政策の米への開放は、軍備の制限と同じで、それを自国だけがやれば、結局「馬鹿」にされる。
森 日本は満洲に対して領土を侵さない、機会均等主義、門戸開放主義で行く、日本人の「アビリティ」は負けない、と神川さんは言われるが、これ(学者の言うこと)は大した問題でない。(意味不明だが、構成してみた。)帝国主義、資本主義など学究的な言葉は実際に応用できない。神川さんとは認識が違う。
佐藤 神川さんのお話を聞けてうれしいが、お説には絶対反対だ。
高木 私は佐藤君や森君の意見と同じだ。
佐々木 速記はこれで終わりにします。
1931年、昭和6年10月号
以上 2020年7月23日(木)